益田 藤兼 像 益田 藤兼 
ますだ ふじかね
(1529〜1596)享年 68歳

墓 所 島根県益田市七尾町
詳 細 妙議寺から徒歩5分、大久保養鶏場の後ろ

益田家・家紋
(益田家・家紋)

 分かり易いよう色分けしました。

●色が益田氏・他家関係

●色が藤兼関係 ●が元祥関係 ●色が藤兼元祥の関係

壱章 藤兼誕生 (1529〜1548)

弐章 陶晴賢へ順ずる (1549〜1554)

参章 毛利元就の脅威 (1555〜1556)    

四章 吉川元春の傘下へ (1557〜1561)   

五章 品川大膳、見参 (1562〜1568)    

六章 毛利領内の混乱 (1569〜1570)

七章 将軍・足利義昭を訪問 (1571〜1577)

八章 家督相続 (1578〜1584)        

九章 主君・元春亡くなる (1585〜1587)

拾章 益田壷の献上 (1588〜1591)      

拾壱章 藤兼の旅立ち (1592〜1596)     

益田 藤兼 公の墓前(益田 藤兼 公の墓前・・享年68歳)

(藤兼の署名・花押)

藤兼の署名・花印益田家臣団
(注:名前はいろいろ変わる武将は多いが、藤兼以外はもっとも知名度の高い名前で統一した)



石見武将の能力 

蒼天禄

政治

統率

智略

益田 藤兼

60

54

61

益田 元祥

81

51

小笠原 長雄

52

50

39

佐波 隆秀

49

46

61

周布 元兼

国人として参加

嵐世紀

政治

統率

智略

参考文書  「益田藤兼・元祥とその時代」
      「中世益田氏関係文書特別展」
      「吉見氏とその時代」
      「益田氏と須佐」
      「石見益田人名風土記」
      「古城の譜・上」
      「益田市誌・上巻」
      「益田市誌・下巻」
      「津和野ものがたり9」

思い。 僕は益田と言う片田舎に生まれ育ちました、そして程なく歴史が好きになりどのようにしてこの町は作られたのか調べ益田氏へとたどり着きました、少なくとも関ケ原の合戦が始まる前までは益田藤兼が大きく広めた益田氏の勢力は石見の国人としては津和野・三本松城・吉見正頼と覇権を争う最大級の存在だったのである。元祥が須佐に去った後は益田は一時さびれ今に至る、今回の情報で藤兼の一生をかなり網羅したのではと思います。

益田藤兼の性格とは?

益田藤兼の武将の想像画は外交手腕に優れていて、家臣の掌握にも成功している、また文から見た面で少し楽天家思想のある武将、と言う所でもユニークである、しかし危機になった時もけして暴動など起こさず、じっと我慢し戦局を見極めた武将であったようだ、山陰の武将に多い短慮な行動もなく、諜略戦もそれなりに行なっている、また戰の仕方にしてもしかり、無謀な追走や家臣が困惑するような合戦を避けている、現在に生まれていたら、益田市長には納まらない人物であったと伺える。

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番外編 壱章 元祥の策略(1597〜1600) 

番外編 弐章 毛利家再建(1601〜1640)