分かり易いよう色分けしました。 |
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●色が益田氏・他家関係 |
●色が藤兼関係 | ●が元祥関係 | ●色が藤兼元祥の関係 |
(益田 藤兼 公の墓前・・享年68歳) (藤兼の署名・花押) 益田家臣団
「中世益田氏関係文書特別展」 「吉見氏とその時代」 「益田氏と須佐」 「石見益田人名風土記」 「古城の譜・上」 「益田市誌・上巻」 「益田市誌・下巻」 「津和野ものがたり9」 |
思い。 僕は益田と言う片田舎に生まれ育ちました、そして程なく歴史が好きになりどのようにしてこの町は作られたのか調べ益田氏へとたどり着きました、少なくとも関ケ原の合戦が始まる前までは益田藤兼が大きく広めた益田氏の勢力は石見の国人としては津和野・三本松城・吉見正頼と覇権を争う最大級の存在だったのである。元祥が須佐に去った後は益田は一時さびれ今に至る、今回の情報で藤兼の一生をかなり網羅したのではと思います。
益田藤兼の性格とは?
益田藤兼の武将の想像画は外交手腕に優れていて、家臣の掌握にも成功している、また文から見た面で少し楽天家思想のある武将、と言う所でもユニークである、しかし危機になった時もけして暴動など起こさず、じっと我慢し戦局を見極めた武将であったようだ、山陰の武将に多い短慮な行動もなく、諜略戦もそれなりに行なっている、また戰の仕方にしてもしかり、無謀な追走や家臣が困惑するような合戦を避けている、現在に生まれていたら、益田市長には納まらない人物であったと伺える。