拾壱章 藤兼の旅立ち (1592〜1596)     藤兼本陣へ戻る。

 藤兼は息子の朝鮮での活躍を聞き誇らしげ皆へ話したと言う、70歳間際の老人でありながら頭は確りしており、この時期であっても社領を寄進したり摘・孫の死去の葬儀を取りしきったりしている、本当に元気な爺様です、自分が死去する三日前に財産分与の詳しい文書を書きとめるなど、意識は鮮明で息子の元祥に吉川氏・毛利氏の問題に深く関わり頑張って益田氏を盛り上げてくれなど文として残っている、最後は山口からわざわざ大寧寺(たいねんじ)の和尚を呼び色々語り合い、静かに亡くなったと言う、享年68歳。



1592年 64歳 1月25日 惣国検地によって益田氏領が確定され改めて妙義寺領の年貢納入者を確認した。(元祥 35歳)
4月 第一次朝鮮出兵に当り、元祥の次男・益田景祥は小早川秀秋の軍へ入り、元祥は毛利輝元の軍へ入り釜山(朝鮮)へ入る 景祥(16歳)
4月18日 元祥と景祥の軍が釜山(プサン)で合流した。
5月15日 京城に攻め込み、さらに吉川広家の軍へ入り門慶(朝鮮)、醴泉(朝鮮)へ攻め込み手柄を立てる。
6月 元祥、朝鮮・聞慶を守る。
6月15日 吉川広家・益田元祥は5000人の兵を率い醴泉(れいせん)の朝鮮軍3万を破る、さらに吉川軍は安南府・晋州・熊川と戦った。
秋 毛利一族から新地を命じられる。
全鼎(藤兼)と元祥は「石勝神社」の社領を増して60石1斗とした。
元祥は「久城八幡宮」に社領12石を寄進する。
1595年 67歳 曾孫・元尭生まれる。
藤兼の孫・広兼が亡くなる、享年20歳。
 
家督は元祥から曾孫・益田元尭(ますだもとたか)が継ぐ。(元祥 38歳)
元祥が実際に知行している所領と石高を整理する為に実際の知行高・屋敷数を纏めた。
 
1590年〜1595年の間で毛利領内の大幅な整理や知行を明確にする流れがあり、それに伴って益田氏の領地も色々検地や整理がされた模様、家督を継いだ元尭はまだ1歳と言った若年齢であった。
1596年 68歳 5月12日 元祥は後陽成天皇に従五位上侍従の「玄蕃頭」(げんばのかみ)に任ぜられる。しかも秀吉から「豊臣」性を賜っている。(元祥 39歳)
 
これは前の朝鮮出兵で元祥の戦功があって、豊臣秀吉から申しでがあった。
11月28日 自分の死期を悟った藤兼、自らの所有する財産の譲渡する九ヵ条からなる遺言状を書く。
 
藤兼は自分の葬儀の取り行いを元祥らに書き留めておいた。
12月1日 藤兼が亡くなる、享年68歳、本妻は杉宗長の娘で側室に石津経頼の娘、内藤隆春の娘と三人いました、諡(おくりな)は「大蘊全鼎」(たいうんぜんてい)。
 
晩年は質素な生活をひっそりと送っていたらしく、自分の葬儀の為に古くから親交のあった、長門・大寧寺(たいねんじ)の和尚を呼んでいる。 
 旧友であった大内義隆が大寧寺で自害したのも無関係ではないだろう。