番外編 弐章 毛利家再建 (1601〜1640)     藤兼本陣へ戻る。

 関ケ原の合戦で破れた毛利軍、領地を2ヶ国へ減らされ、益田氏の本領も没収の憂き目へあった、そこで徳川家康や大久保長安は旧領安堵を条件に吉川軍の参謀であった益田元祥を果敢に引き抜きへ掛かった、しかし元祥は悉く拒否、輝元への深い関わりから毛利氏と共に須佐へ移った、そこで待ってたのは莫大な借金4千貫(2万石)、輝元は黒田考高(官兵衛)の取りたてに四苦八苦しており半ばさじを投げていた、このままでは毛利氏事態が借金の為、取り潰しになるやも知れないと危惧した元祥は悪役を演じた友の吉川広家に断わりを告げ、毛利氏の参謀となり黒田考高(官兵衛)の取りたてを退け、返済して見せると宣言すると10年そこらで返済してみせた、感激した輝元は益田家を家老へ取りたて毛利家を一生安泰へ導く、一方益田の主家だった吉川氏は益田氏より位の低い地位で怨まれ続けた、あと小早川家など家中から無視され2年後には小早川秀秋が死亡し改易された。



1601年 43歳 この頃、徳川家康は石見を新しく支配するようになった大久保長安を通じ元祥に「輝元は領地が減り、元祥殿の本貫地・石見から去るので息子・景祥を長門へ留め元祥殿は石見の旧領を支配して欲しい」と徳川家康から頼まれる。
しかし、元祥は「自分は元々石見の豪族でしかなく、毛利家との繋がりも薄いのですが輝元公が毛利氏の家督を継いでからは自分を頼られており、自分もそれに尽くしてますので輝元公と共に長門へ移ります」と述べ、石見への在住を拒否した。
元祥の意見を益田家臣が石見銀山を管理している大久保長安へ伝えるが大久保氏が石見豪族・佐世元嘉(させもとよし)を仲介し是非、石見に残って欲しいと残留交渉を行なった。
しかし再三の説得を断り元祥は長門の須佐へ移った。
 結局、ひき抜きに失敗した大久保長安は「そんなに長門の片田舎が好きなのか?せっかく自分が興した城下町を去り、凡人である輝元へ尽くすなど汝の戯言へしか聞こえない、家康公の催促を断るとは才能を埋めて何が面白いものか」とはぶてている。
11月23日 元祥は輝元から感激ともとれる感状を貰う。
 輝元から家臣として残ってくれた礼の感謝状である。
1602年 45歳 毛利家の負債4000貫(2万石)を早く返済するよう、黒田考高(官兵衛)が毛利輝元へ言い寄って来たが、元祥が「前領地の六ヶ国の納税は徴収済みである、今更弁償しろと言われても手の施しようがない、まして毛利本家が2ヶ国へ減封されているので完結するのは容易ではない」と説き納得させた。
 
その後、元祥は10年ばかり掛けて負債を返却し特別貯蓄として銀・1300枚、大判・3000両を砂金4貫を蓄えた。
1630年 73歳 7月13日 元祥の次男・景祥が亡くなる。(享年54歳)
1632年 75歳 元祥は毛利家の「ニ州財政総括」の任務を辞退した。
 夏期の引継ぎながら当年の歳入をまったく使用してない所を見ると本当に財政管理を完璧にこなしている、長門須佐の益田氏領地は1万2105石である。
1640年 83歳 9月22日 元祥は萩で亡くなる。享年83歳
 須佐へ移ってからは地元の住民に「牛庵殿」と呼ばれ人気があり、様々な毛利家の悩みや不安を取り除く長老として生きた、また民謡が好きな武将で様々な歌詩を作っている。