弐章 陶晴賢へ順ずる (1549〜1554)     藤兼本章へ戻ります。

 陶晴賢は謀叛を起こす少し前には藤兼の元へ山口で謀叛が起こるだろうと言い決意を固めていた、更にこの頃、津和野三本松城・吉見正頼との緊迫した関係にあり、お互い支城を攻めたりしている、藤兼は庶子でまだ10歳前後の周布家当主・周布元兼を説得して共に陶(大内義長)の傘下へ入った、更に宿敵であった三隅隆兼を傘下へ治め和解するなど領地も着々と増やしていた、元々陶氏とは長い付き合いの家柄であり、高祖父・兼尭からの代々繋がっていた、また大友家から養子で来た、大友宗麟の弟・大内義長は家柄を抜きに益田藤兼の外交力に目を付け、様々な外交を任せていた、また藤兼も陶晴賢へ悠長な文を送っており、益田氏の外交力が大きく大内家を支配した時期でもあった、宿敵の津和野三本松城・吉見正頼は陶一族とは凄まじい遺恨があり、義弟・大内義隆を殺した陶晴賢を叩き潰そうと意気込んでいた。


1551年 23歳 益田尹兼「医光寺」へ3石を寄進した。
9月1日 陶晴賢、謀反を起こし、主君・大内義隆を討ち取る。
9月6日 藤兼は周布元兼を説得し共に陶晴賢へ服従する。
9月19日 周布元兼と都野長保が所領問題で合戦が始まると藤兼が仲裁し戦いを治める。
10月2日 吉見正頼の日原地方での支城、能登呂山城(のとろさんじょう)を攻めるが吉見家臣・下瀬頼定が謀略戦を展開し益田軍の食料・水手を切断したので攻略できず撤退。
 
能登呂山城(のとろさんじょう)の攻撃に失敗したのは吉見正頼が事前に攻撃を察知していたようである、謀叛の1ヶ月前に(義隆方)相良武任が津和野へ趣き謀叛は時間の問題と伝えた為である。
10月13日 藤兼は周布領へ逃亡していた相良虎王(相良武任の子)を誅罰し陶晴賢へ報告した。
10月 藤兼は三隅高城・三隅兼隆を攻め傘下に治める。
1552年 24歳 3月15日 長門須佐磯城主・益田兼貴は益田の一門の武将を集め、田万川・小川へ進軍した、大内義長から「町野隆風と協力し吉見正頼の領土を切り取り自由」と命令が降る。
4月21日 藤兼が従5位上「右衛門左」(うえもんのすけ)に任命してくれるよう大内義長へ申告し義長が幕府へ伝えて、見事に任ぜられる。
4月21日 大内義長は不穏な動きがある三隅隆兼を監視するよう益田兼貴へ伝える。
6月20日 藤兼は大内義隆を討った陶晴賢の下克上は正当だと将軍に進言し、大義名分を得る。
 
将軍から大儀名分を得るなど、藤兼の見せ場なのだろう。
7月11日 藤兼が降して傘下に治めた三隅兼隆の領地を益田氏領地へ繰り込みたいと大内義長へ進言し許される。
7月15日 大内義長が藤兼の勲功(どうこう)を高く評価し長門・須佐郷を預けた。
8月 吉見正頼は益田軍の進撃を食い止める為、益田の先陣部隊が篭る、虫追大嶽城(むそうおおたけじょう)・領家恒定を攻める、領家恒定は食いとめ切れず益田氏へ援軍を求め、益田軍が到着すると吉見軍は撤退した。
1553年 25歳 11月13日 藤兼、津和野三本松城へ攻め込む陶家臣・乃美賢勝と共に進軍するが牽制する程度で吉見軍の動きを見て研究する。
1554年 26歳 3月16日 主君を討った陶晴賢と敵対し「独立宣言」した津和野三本松城・吉見正頼を、陶軍の傘下に入っていた藤兼は陶晴賢と木部長野で合流し阿部郡北部の吉見方の出城を攻め落とす。
益田兼貴は長州阿武郡の諸城へ猛攻を加へ益田家の領地になる。
津和野三本松城の合戦
 これを見ると藤兼が諜略を仕掛け吉見勢を切り崩そうとしていたのが鮮明に分かる、ただの猪武者ではなかったのである、また大内と尼子の敵対関係を修復した政治力は目を見張る物がある。