益田 兼尭(ますだ かねたか)1423〜1485年 享年 63歳


益田 兼尭の銅像。
雪舟が書いた・益田兼尭の画像 
藤兼の高祖父、15代当主にして「益田歴代の兵」と言われた戦国初期の名将、益田の地・医光寺へ雪舟を招待するなどして益田の地を発展させた、国宝になっている「益田兼尭・水墨画」も雪舟に書かせたもの、その奮闘を称え、妙義寺の前に銅像が立っている。
 1438年10月、和泉・大和の合戦に参加して将軍・足利義教から「屋形号」の待遇を受ける、1441年8月23日、幕府の命に従い美作高尾城を攻略、1451年、吉川経信と共に幕府に敵対した河野道治を成敗し、1455年、3月には肥後で起こった一揆を納めている、1461年、7月16日、河内・獄山の畠山義就を毛利豊元・吉川基経・山名是豊と共に攻めたが落城せず、1463年、3〜4月にかけ、畠山義就を周布和兼・毛利豊元・畠山政長と共に攻め攻略その後、応仁の乱へとなる・・
 応仁の乱では嫡男・貞兼が山名(大内)軍へ付き、自分は細川軍へ付くと言う複雑な二重戦略を取るが始めから本気で戦う事はなく、曖昧にしてやり過ごし、優勢な大内軍へ次第に入り、敵対した吉見信頼を陶弘護(ひろもり)と共に攻めている、1478年には雪舟を益田へ招いた、1485年5月23日に亡くなる。

益田氏系図
15代 益田兼尭 16代 益田貞兼

益田大斬りへ戻ります。