益田 兼貴(ますだ かねたか) ?〜?


兼勝の子、通称・刑部大輔、東長門での武勇は主家を上回る、藤兼・元祥の軍師、1542年には第一次・月山富田城の合戦で毛利元就と連絡し合い石見豪族代表として軍勢を纏める、1552年3月15日 長門須佐磯城主・益田兼貴は益田の一門の武将を集め、田万川・小川へ進軍し、大内義長から「町野隆風と協力し吉見正頼の領土を切り取り自由」と命令が降る、1552年11月14日 実質、益田軍を纏め陶軍の補佐に回り吉見軍切り崩しを画策している、後で陶晴賢から鷹ニ羽を貰った、1554年 益田兼貴は長州阿武郡の諸城へ猛攻を加へ益田家の領地になる、日原下瀬城へ攻撃を加える時は藤兼と共に進撃している、1562年2月27日、吉見正頼が長門須佐へ侵入し益田兼貴と対峙した、兼貴は須佐磯城へ奇襲を仕掛けた吉見軍に苦戦しながら家臣・市原氏が戦死するもののどうにか防衛した、1579年6月23日には南条攻めで功があったので主君・元祥から感状を貰う、1586年の九州征伐でも油津で活躍、その後、本家の元祥が須佐へ移住してきた。

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須佐益田氏
本家16代 益田貞兼 17代 益田宗兼
貞兼・四男 益田兼勝 須佐磯城城主 益田兼貴