益田 尹兼(ますだ ただかね) ?〜1565年


益田 尹兼 画像 18代当主、藤兼の父、陶晴賢と兄弟契約を結ぶなど、非凡な将であったとは思われる、足利義植から「尹」の一字を貰う、1518・1526年は大内軍として尼子経久と戦う、1527年には毛利元就と共に尼子方の安芸鳥子城を攻め、野村木工允を攻め倒した、藤兼の才能を見抜き、家督を祖父から直接、藤兼へ継がす、1515年1月26日 益田宗兼の上洛中、宗兼の嫡男・尹兼(藤兼の父)が益田七尾城の警備へ付いていたが、宗兼不在の虚を付き三隅興信と交戦、1520年後半、実質的に家督を承諾する、1538年には三隅隆兼と争奪の的だった、都茂・丸茂・匹見の事で争いが絶えなかったので盟主・大内義隆はこの3ヶ所を尹兼の領土と指定し尹兼の娘を三隅隆信(隆繁の弟)に嫁がせる事で円満に解決させた、1539年、尼子晴久が石見へ侵略した来たが益田尹兼は大内軍へ属したので大勝した、一方、尼子方へついた三隅隆兼は大敗した、1540年8月、周布武兼の本拠へ近い、周布井野村へ尼子晴久が攻めてきたが西石(せきせい)の豪族は一致団結しこの尼子軍を撃退した、三隅隆兼の家臣・三浦兼実は尼子軍へ切り込み苅紬口において快勝し周布武兼が道案内をし益田家臣・喜島宗勝が尼子軍を追い払った、第一次月山富田城の合戦では出羽氏の本拠地・出羽二ッ山城で石見豪族は団結し大内軍へ参陣している、この時、石見国人の纏め役として益田兼貴が抜擢され大内軍の参謀を務める毛利元就と確認している、石見豪族で大内軍へ付く者は益田藤兼・尹兼、吉見正頼、福屋正兼、周布武兼、佐波興兼、本城常光、吉川経安といった豪族は大内軍へ参じたが三隅興兼は中立した、1565年9月3日に亡くなる。

益田氏系図
17代 益田宗兼 18代 益田尹兼 19代 益田藤兼

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