七章 将軍・足利義昭を訪問 (1571〜1577)      藤兼本陣へ戻る

 益田藤兼は尼子の残党狩りに主力を傾けていたこの頃、第一線を元祥へ譲り、子・元祥を影ながら補佐する代替わりの基礎固めへ準備した時期でもある、藤兼は元祥の才能を見抜き自分以上の武将になると確信していた、元祥は藤兼より若気の至りはあるものの外交で人の中へ解け込む術を理解していた為、気性の激しい人物にも緩和へ接する事ができた、また行動力も突起する物があり庶子で仲の良かった周布元兼・大叔父の益田兼貴を従えて安芸や備後へ訪問している、その際に足利義昭が備後へ来るといち早く訪問し気に入られている。



1571年 43歳 2月 藤兼・元祥、親子は吉川(毛利)軍の一翼を担い、布部合戦において尼子再興軍を攻撃する。(元祥 14歳)
10月20日 将軍・足利義昭が藤兼の求めていた幕府・大外様職の元祥への相続を承認される。
11月6日 藤兼は妙義寺に2貫850文(14.5石)(相当の土地・建物)を寄付し、大義女の菩提を弔い、妙義寺と関係を親密にする。
1572年 44歳 8月5日 元祥は聴許の礼として将軍へ太刀一筋・馬一頭・白銀200両を献上していたがそのお礼の感状が将軍・足利義昭から届く。
藤兼は「辻ノ宮八幡宮」を再建した。
1573年 45歳 5月3日 藤兼は生親町天皇より従四位下侍従「大蘊全鼎大居士」(だいうんぜんてい)の法号を授与する。
1574年 46歳 元祥は周布元兼と共に足利義昭を訪問した。
藤兼は「遠田八幡宮」へ神田一兆歩を寄進した。
藤兼は「妙義寺」へ田一町歩を寄進した。
1575年 47歳 元祥は毛利氏に対して不穏な動きをした、匹見大谷氏の一族を滅殺した。(元祥 17歳)
藤兼は三宅御土居別館へ「阿弥陀堂」を建設し、家運を祈った。
1576年 48歳 2月6日 元祥が父・藤兼の裁定に基づいて美濃郡津毛郷・大神楽の名主職を平太郎が相続するのを承認した。 (元祥 19歳)
10月4日 備後・鞆を訪れた足利義昭を元祥が、いち早く訪問し親交を結ぶ。
元祥に嫡子・広兼が生まれる。
1577年 49歳 2月20日 足利義昭が藤兼に「越中守」(えっちゅうのかみ)を任命する。
2月20日 足利義昭が藤兼に替わって「右衛門佐」(うえもんのすけ)を元祥に任命する。(元祥 20歳)
 
元々益田氏が「越中守」を代々受けついできたので、元祥が足利義昭に頼み、藤兼に任命してくれるよう働きかけたと言うのが正しいだろう。
3月18日 元祥は吉川元春・元長と共に尼子残党軍を包囲する。
元祥に次男・景祥が生まれる。