九章 主君・元春亡くなる (1585〜1587)      

 毛利氏は羽柴秀吉の中国大返しに貢献し羽柴氏の傘下へ入った、山陰の吉川軍は山陰道を伝っても追撃すべきと説いたが山陽軍を纏める小早川隆景の意見に退かれ山陰軍の意見は通らなかった、元祥は思った「何故兄である元春様の意見が通らず弟の隆景殿の意見が通るのか・・」それは兄と弟の外交力の差だったし元春は温情深い所があってむやみに豪族を滅亡させるような武将ではなかった、その為何時も弟の意見には一歩下がった対応をしていた、元祥は自慢の外交力を武器に山陰軍の意見を貫こうと考えたが小早川隆景存命の内は器が違いすぎるので意見も通せなかった、しかも山陰軍はもっぱら戦の最前線戦へいつも繰り込まれる、主君・元春が黒田考高(官兵衛)の出した「塩鮭」を食べ死亡した、元春は自分の持病に害があると分かっているのに律儀に出された物を食べたのだ、悲劇に暮れる武将の一人に元祥は居た、さらに追い討ちをかけるように元春の嫡男・元長も病気で死亡した、ここで絶望の淵に立たされた吉川軍へ小早川隆景から痛烈なまでの指令が飛ぶ「九州の最前線へ行け」元春が死亡した吉川軍は一時、小早川隆景の命令で動かずをやむ得なかった、これには元祥も激怒したがその思いは胸へしまった、また気性が激しい吉川広家へ家督が替わり二人は三歳違いという年齢から幼い頃から親しかった、いつかこのやるせない思いをぶつけようと心へ刻む。



1585年 57歳 3月24日 元祥の妻方が宍道政慶(しんじまさよし)から長門・東豊田の地、70貫(350石)を購入した。
 
これは当時では極めて珍しく土地を売った武将も多大な金銭が必要だったと思われる。
5月 元祥は四国遠征に吉川軍の一員として向い長曽我部元親の土佐高尾城を攻める。(元祥 28歳)
7月13日 元祥は四国遠征で高尾城・金子氏へ攻め奮戦した。
足利義昭は益田領を国司雅樂允(くにしうたのじょう)へ検地させた。
 当時の石高は7万8000石あった。
全鼎(藤兼)は「子佐比売神社」へ8石9斗5升を打渡した。
1586年 58歳 1月7日 太閤検地の流れで元祥は「古給分」「検地分」を書き上げ軍役人数を吉川元長に報告する。(元祥 29歳)
元祥は「万福寺」を改修した。
9月 元祥は足利義昭と共に上洛の途中であったが吉川氏から九州参陣の命が下り、吉川経春(石見・吉川の一族)を仲介して吉川軍へ加わった。
 この時は津和野の吉見広頼や伯耆の亀井是矩も従軍している。
11月7日 元祥は黒田孝高(官兵衛)・小早川隆景らと共に豊前・宇留津城を攻め落とし、毛利輝元から感状を貰い、さらに益田家臣・吉田式部少輔が活躍し感状を2枚貰う。
11月12日 元祥は島津義久に寝返った、豊前・香春城、高橋元種を攻め、城中心の三の獄を攻略しさらに包囲を厳重にした、攻略にあたり羽柴秀吉より感状を貰う。
 
元祥は伏兵を巧みに操り活躍、この合戦は主君・元春の弔い合戦だったので吉川軍は獅子奮迅の動きを見せる、先鋒を任された益田元祥・佐波隆秀・宍道政慶が猛戦を展開し鬼吉川の軍団に羞じない活躍を見せ島津勢力を南九州まで追いやった。
11月12日 元祥は次男・益田景祥を筑前・宗像氏景の養子にする契約を結んだ。
1587年 59歳 6月15日 吉川元長が病没する直前に弟・広家に家督が譲られた事に元祥が中心になって吉川広家に「起請文」を書き、忠誠を誓う。(元祥 30歳)
 
吉川家、戦国時代末期の家臣、石見国人は益田元祥・周布元城(すふもとしろ)・都野経良(つのつねよし)・出羽元祐(いづはもとすけ)・佐波恵連(さわめぐつら)の5名(津和野三本松の吉見正頼・広頼は毛利直轄軍)。
 出雲国人は熊谷元直・宍道政慶(しんじまさよし)・天野元珎(あまのもとや)・湯家綱(ゆいえつな)・福頼元秀(ふくよりもとひで)・古志重信(こししげのぶ)・多賀元忠(たがもとただ)・湯原元綱(ゆはらもとつな)・赤穴幸清(あかなゆききよ)の9名、そして伯耆国人は杉原広亮(すぎはらひろすけ)の1名、合計15名が署名している。