参章 毛利元就の脅威 (1555〜1556)           藤兼本章へ戻ります。

 陶晴賢は厳島合戦で策将・毛利元就に完膚なきまでに打ちのめされ自害、実質、大内家を支配していた陶氏の滅亡は大内氏の外交で活躍していた益田家までも紛争へ巻き込まれる事となる、更に事態は宿敵・吉見正頼が毛利氏の傘下へ治まった為、毛利軍は自ずと吉見氏と敵対している益田氏を攻め滅ぼすだろうと事態を察知した藤兼は城を改修したり支城を築城したり徹底交戦の構えを見せ、できる事なら出雲の尼子氏の救援を頼みにしていたが毛利の猛者・吉川元春の進軍は風の如し速さで益田氏の氏族・永安氏・福屋氏を瞬く間に攻略し益田領内に迫ったのである。



1555年 27歳 2月10日 石見に侵略してきた吉川元春は福屋隆兼・周布元兼の軍を破り吉見正頼と手を組み益田藤兼を挟み打ちにしようと動く。
2月11日 藤兼が吉川元春の進軍を脅威に思い、家臣・金山元連へ命じて三隅高城の支城・針藻城を築城する。
3月22日 吉川元春が永安城・永安兼政を攻撃し永安城は落城、永安兼政は益田藤兼を頼って益田七尾城に逃げる。
8月28日 津和野三本松城へ攻め上っていた陶軍だが旗色が悪くなり撤退する、この時、吉見軍は津和野から徳佐まで攻め登る、陶軍の殿(しんがり)を任された益田藤兼は命からがら益田へ逃げ帰る。
9月9日 吉川軍は周布領、井野村へ攻めてきたが、益田傘下で三隅隆兼の家臣・三浦兼寧が一番槍を行ったので益田藤兼は感状を与えた。
10月1日 陶晴賢が厳島の合戦で毛利元就に敗れ敗死すると、再び吉見正頼は陶の傀儡・大内義長を攻める。
 
このあっけない陶晴賢の敗北で益田藤兼は唖然とした模様でいままで楽観的に陶軍を見て多大な貢献をしていた益田家は間違いなく毛利軍の標的になると思い藤兼は「益田家断絶」を覚悟し戦々恐々とした。
11月3日 藤兼は家臣団の掌握を高めようと家臣・保賀氏から人質を取る。
11月13日 益田傘下の三隅隆兼の支城・鐘尾城(かねのおじょう)が吉川軍に攻められる。
1556年 28歳 3月28日 吉川軍の本隊・吉川元春・宍戸隆家・口羽通良は300人の兵で邑智桜尾城・堀重利を破り、赤谷城・三宅由左衛門を破り、中村城(なかのむらじょう)や、福屋氏の出城・川登松山城(かわのぼりまつやまじょう)が落とされ福屋隆兼は降伏し吉川家の傘下へ従ずる。
4月 毛利氏が長門を斡旋すると益田領だった阿部郡の一部と阿東の地が吉見正頼へ渡る。
6月5日 吉川軍(毛利)の傘下となっていた、福屋隆兼が先鋒隊として益田領へ進軍してきたので宇津河要害(宇津川城)で対戦する。
12月 毛利勢力に囲まれ苦戦している益田藤兼を見透かしたように、吉見正頼の家臣・上領休世が益田領の本頷に近い黒谷の桂平横山城(かつらがひらよこやまじょう)・喜島宗勝を攻め益田軍と合戦が行なわれるが両方とも家臣を人質に取られ和議し引き分けた。
 
益田氏危機迫る!このころ今まで攻めて込まなかった小豪族まで益田家を見捨て寝返り、藤兼は防戦一方になる。
この頃、益田七尾城の大改修が行われ藤兼は拠点を三宅御土居から益田七尾城に移す。