喜島 宗勝(きじま むねかつ) ?〜?  


尹兼・藤兼家臣、通称・備後守(びんごのかみ)、桂平横山城(かつらがひらよこやまじょう)の城主で黒谷の猛者、父・宗秀から家督相続を協議した結果、黒谷氏を弟・満善に譲り、自分は独立し難攻不落の桂平横山城(かつらがひらよこやまじょう)に移った、この地のいい伝えでは「日に三度三升の餅を食べた」と言う伝えのある大侍、1540年8月に尼子晴久の軍を周布の高櫓坂で撃退した事で名を轟かす、1556年12月には吉見家臣・上領頼兼(休世)が住城へ攻めてくるが敵将・吉賀頼貞(弥次郎)を人質として取った為、どうにか和議へ漕ぎ着けた、1561年、益田藤兼に従い大友攻めで伊美弾正佐衛門統晶(いみむねまさ)と一騎打ちをする、1571年に「栗島大明神」を紀伊の国から勧靖し大蔵神社へ田一町五段歩を寄進し、1583年には桂平八幡宮を桜木山へ移しその時に田一町八反歩を寄進している。

益田家臣、数少ない叩き上げの武将
喜島 宗勝 追悼碑宗勝(備後守)は益田戦国歴代の先陣隊長としても五本の指に入る猛将である、応仁の乱以降で活躍した益田貞兼・家臣・真砂地頭の城一兼正(活躍時期1480〜1520年代)、そして益田藤兼・家臣・久城地頭の品川大膳(活躍時期1560年代)、そして益田尹兼・家臣・黒谷の猛者の喜島宗勝(活躍時期1540〜1560年代)である、この中でももっとも明確に戦歴が残っているのが宗勝であり、その活躍は周りに聞こえたと言う。

 まず1540年8月の尼子晴久VS石見西豪族(周布・三隅・益田連合軍)の戦いでは周布武兼の案内の基、尼子軍の本隊を散々と打ち破り尼子軍を撤退に追い込み、名を石西に轟かした。
(この戦いは元々は尼子晴久VS周布武兼の戦いだったが周りに友好関係を敷いていた当時の当主・周布武兼の援軍要請で益田氏と敵対している三隅氏が共に協力して戦った数少ない戦いである、石央(浜田市)に拠点を置く周布武兼は様々な領地問題に介入して場を治めていた政治力に秀でた武将であり、他にはない周布武兼の願いとあっては益田氏も三隅氏も断われなかった、もし尼子晴久に屈すれば大内義隆と戦わなくてはならなくなり、それだけに西石見の豪族は必死で防戦したと思われる、この戦いでは三隅家臣・三浦兼実が尼子軍へ斬り込みトドメを刺したのが益田家臣・喜島宗勝であった。)

 1556年12月27日に黒谷地方へ攻めてきた吉見家臣・上領頼兼(休世)の軍は当初の予定では黒周原城を落とす計画だったらしいが、喜島宗勝が進軍中の吉見軍に奇襲を仕掛け吉見家臣・吉賀頼貞(弥次郎)を生け捕りにして宗勝居城の桂平横山城へ連れ帰った為、家臣を捕虜にされ激怒した吉見家臣・上領頼兼(休世)は急遽攻撃目標を桂平横山城へ替え猛攻をし掛けて来た、宗勝は篭城では水が無くなると馬を米で洗うなどの工夫を凝らし吉見軍の士気を下げるが最後には横山城の監守・和田少輔が吉見軍に掴まった為、人質の交換条件として降伏に近い形で和議を結んだらしい。
(元々この戦いで宗勝は「黒周原城では城も小さく吉見軍を迎え撃つには不向きである」と考えたらしく、どうにか自分の住城で防衛したいと考えていたらしい、そこで吉見軍に奇襲を仕掛け家臣を捕虜にする事で吉見軍の目先を黒周原城から桂平横山城へ替えたのである、直この戦いの後は本家・黒谷満善(宗勝の弟)は吉見氏へ付き喜島宗勝は益田氏へ付き両方の勢力の衝突を防いだと言う説が有力である、その後1570年代以降は完全に益田元祥の領土となっている。)

 
1561年10月から始まった毛利軍に対する「大友攻め」である、喜島宗勝が所属する益田軍は毛利隆元の軍に属しており、この戦い益田軍で最も活躍した侍大将が喜島宗勝である、宗勝は赤間ヶ関(下関)の開門海峡で大友重臣・田原親宏の家臣、国東水軍の将・伊美統晶(いみむねまさ)と一騎討ちをして闘ったという。
(二条村物語では面白楽しく闘ってますが、益田市史にも詳細は載っておらず疑問が残る)

喜島氏
赤雁益田氏 赤雁兼政 嫡男 赤雁兼綱
初代・次男 黒谷宗秀 嫡男 喜島宗勝 宗勝の子 喜島宗遠
宗秀・次男 黒谷満善

益田大斬りへ戻ります。