八章 家督相続 (1578〜1584)        藤兼本陣へ戻る。

 時代は徐々に戦乱末期へと近づいてきた、元祥も立派に成長し吉川元長・広家兄弟の参謀になり活躍していたこの頃、藤兼は前々から思いの深かった「旧仏教」の教えを請い、廃寺を復興させたり御神体を祭ったりした、益田領内のほとんどの地域の社(やしろ)は藤兼の保護を受けた、一方、完全に一人立ちした元祥は侵食し始めた織田勢力と戦う為、因幡や備中に遠征していた、また吉川傘下へ入っていた南条氏・宇喜多氏と言う大勢力の寝返りに吉川元春は業を煮やしていた。



1578年 50歳 1月15日 藤兼は社領12石を「久城神社」へ寄進した。

5月20日 吉川元長は当時「石見一のキレ者」として名が通っていた益田元祥と様々な事を相談し毛利輝元を支えると、元祥と意思を確認し合い親交を結んだ。
 
元祥は吉川元長と共に尼子残党の上月城を攻める。(元祥 21歳)

5月24日 元祥は尼子勝久の攻撃に対して真木島昭光を通じ、将軍・足利義昭から軍忠状を貰っている。
6月 吉川家を裏切った伯耆の南条元続を攻め追い込む。
6月23日 元祥は大叔父・益田兼貴へ宛て南条羽衣石城の攻略に当って多大な貢献があったとして感状を送っている。
7月 尼子勝久が降伏し自害、山中鹿介は輸送中に毛利輝元の命で殺される。
9月11日 足利義昭が毛利輝元へ上洛の援を説いた、石見豪族の益田藤兼・元祥、周布元兼、吉見正頼・広頼らは協力し、益田家からは太刀と馬を2頭送った。
1579年 51歳 2月 足利義昭から奔走の礼として藤兼へ肩衣、元祥には馬一頭が与えられた。
1580年 52歳 6月21日 元祥は毛利に反旗を翻した南条元続を攻め戦功があったとし、伯耆・久米郡・倉吉の地500石を加増された。(元祥 23歳)
10月8日 前の伯耆・恩賞が地の豪族同士の不穏を招き結局500石→300石へ変更された。
 
かなり複雑な動きをしているが益田元祥の急激な勢力拡大に周布氏・小笠原氏ら同国の豪族から批判があったらしい、それほど元祥は侮れない人物で優秀でもあった証拠、結局この領地も豊臣氏と同盟を結んだ後は没収された模様である。
1581年 53歳 1月 元祥は吉川元春の軍へ従い、因幡・伯耆へ従軍した。
3月 藤兼・元祥親子は本寺・長門・大寧寺の殊門と連名で九ヵ条なる寺法を定め、妙義寺を始めとする益田周辺の寺15ヶ所に配布している。(元祥 24歳)
「滝蔵山勝達寺」が炎上したので全鼎(藤兼)は再建に着手し1583年に完成した。
11月6日 藤兼は鳥取城で自害した吉川経家の父・経安へ香典・千疋を送り慰めの書状を送った。
11月12日 元祥は鳥取城の吉川経家の自害を称え、その死を慈しみ、鳥取城で戦死した元祥の配下兵の様子などを教えて欲しいと石見・福光城主で経家の父・吉川経安に聞いている。(元祥 24歳)
 
益田氏系(石見・吉川氏)の書物を見る限り吉川経安は1581年、現在で生存しており、光栄の書物を鵜呑みにすると(1574年没)と大きな間違いの元である。
1582年 54歳 1月 元祥は吉川元春と共に伯耆へ出陣した。
10月28日 藤兼は元祥に家督を譲る、藤兼54歳で元祥25歳の時である。
11月27日 吉見広頼との和談について吉川元春・毛利輝元の意見で元祥の嫡男・広兼に吉見広頼の娘と婚姻を結び 和解するよう伝えているが、この申しでを元祥が渋った為、父・藤兼が元祥を説得する。
藤兼・元祥親子は「石勝神社」の本殿を再建した。
藤兼、家督を譲り、名を藤兼から全鼎(ぜんてい)と名乗るようになる。
1583年 55歳 1月 元祥は吉川元春と共に因幡へ出陣。
2月17日 全鼎(ぜんてい)と元祥は浜辺・丸毛・津毛・木束郷内にある家臣・小原兼栄の所領の知行権を認める。
5月 元祥は吉川元春の軍へ属し備中・岩崎山へ陣を敷いた。
7月9日 奉行人が飯田郷内の妙義寺領を正確に把握すべく検地し、増野藤右衛門に報告し全鼎(ぜんてい)が承諾する。
元祥は家中の家臣に自分の私高領を書き出すように命じる。
 
この事で益田氏の領地の大きさを計り、今の残金で三宅御土居の改修を進めた。
藤兼は「櫛代賀姫神社」を再建した。
元祥は益田七尾城の鎮守神・住吉神社を改修した。
この年、益田七尾城の大改修が終わる。(元祥 26歳)
1584年 56歳 藤兼は「久城八幡宮」を改修した。
この頃、元祥は拠点益田七尾から三宅御土居に移す。(元祥 27歳)