四章 吉川元春の傘下へ (1557〜1561)          藤兼本陣へ戻ります。          

 この頃になると益田氏は圧倒的な強さを誇る吉川元春の軍の前に戦意を消失気味であった、石見では吉川元春の間者が流した物であろう「毛利元就は益田氏を滅亡に追い込む手筈を整えている」と言う噂が流れ民にも動揺が見え隠れする状況では藤兼は熟睡など出来なかったと思われる、しかし吉川軍で元春の義兄に値する宍戸隆家の降伏の進めもあり、益田の本貫地を残してくれると言う最低条件を妥協してくれた吉川軍へ全てを委ね降伏した、その後は吉川軍へ入り東石見の豪族を攻めたり北九州へ渡り大友軍と合戦するなど活躍した。



1557年 29歳 この頃、吉川軍の宍戸隆家が度々、吉川家へ寝返るよう催促した、藤兼は苦悩する。
3月23日 藤兼は吉川元春の猛攻を避ける為、庶子の福屋隆兼を頼り吉川家(毛利)の傘下になる事を申し込む、これによって西石見は完全に毛利家の支配下に置かれた。
 
この事で益田藤兼は大内義長から吉川元春(毛利家)へ鞍替えし傘下となる。
尚、吉川元春は益田七尾城に一時、滞在しここから石見豪族に指図を下した。
3月23日 毛利元就から「吉川家の傘下へ入った益田藤兼を蔑ろにするな」と児玉就秋に伝え、藤兼を愚弄すればどのような計略に出てくるか分からないと元就は警戒した。
4月2日 福原貞俊・吉見正頼は長門の且山城を攻め内藤隆世を自害させ、大内義長も自害し、毛利家の周防・長門平定は終了する、大内旧領地の北九州は一部を除き大友家が乗っ取る。
5月9日 福屋隆兼が築城していた雲井城に益田藤兼も手伝うように元就から命令が降った。
6月26日 藤兼家臣・益田兼順が毛利氏と益田氏、和談の承諾を喜び家臣・乙吉刑部丞の金銭50文を藤兼へ納め、賛成した。
1558年 30歳 3月25日 毛利軍が川本温湯城(ぬくゆじょう)小笠原長雄(おがさわらながたか)を攻めるにあたって、藤兼に援軍を求める。
 
この時、攻めた吉川軍は総勢12000人で吉川元春を始め、熊谷信直・大野元定、備後の杉原盛重、石見からは益田藤兼・出羽元実・福屋隆兼・佐波興連(隆秀の父)が従った、遅れ参じたが周布元兼も加わっている。
8月25日 小笠原長雄は毛利軍に敗れ、傘下に治まる。
9月3日 尼子晴久が毛利氏の石見銀山要所、山吹城を奪取すると、晴久は益田藤兼に尼子家へ鞍替えするよう説得するが藤兼は断る。
藤兼の次男・益田元祥が生まれる。(元祥 1歳)
1559年 31歳 藤兼は吉川氏へ反旗を翻した、美濃郡の山領山本城主(さんりょうやまもとじょう)・大草永春を攻めて滅ぼした。
12月2日 吉川軍へ攻められ逃走して益田領内に居た、永安兼政を自害させ毛利家へ忠誠を誓う。
1561年 33歳 4月 福屋隆兼が毛利氏に対して謀叛を起こす。
10月 藤兼は毛利隆元軍に属して大友宗麟と北九州で戦う。