番外編 壱章 元祥の策略 (1597〜1600)       藤兼本陣へ戻る。

 父・藤兼が亡くなり悲観に暮れる暇はなかった、時代の情勢は急を告げていた第二次朝鮮出兵では元祥は何時までも吉川元春亡き吉川軍の低落な諸将の扱いに怒りが頂点に達していた、吉川広家と益田元祥は相談し日本軍の軍議を無視、敵の隙を見つけると手勢5000人で朝鮮軍4万0000人あまりに突撃し快勝した、これには回りの武将達は驚いて急遽後へ続いたが、ここで小早川隆景亡き後は我物顔で毛利本隊を牛耳っていた安国寺恵瓊は「軍義を無視するとはふとときせんばん、勝てたから良いものを」と説いたが広家が「僧に軍法の指図は無用」と豪語し、気性の激しい吉川広家と安国寺恵瓊の間に不穏な空気が流れたが元祥が「恵瓊殿の言う事は所詮、筆の彩、実戦は結果が全て」と説き周りの武将も納得した。石田・安国寺氏は豊臣秀吉へ報告したが吉川一族には処罰はなかった、元春死後も「鬼吉川」を強調し続け毛利の誇りを知らしめた、一面である。
 しかし、吉川広家と安国寺恵瓊の仲の悪さは筋がね入りで吉川軍の勲章を恵瓊は度々もみ消す事件など発覚し、吉川軍の参謀を務める元祥は石田三成へこの不祥事を報告するが石田三成も元々僧で恵瓊派なのでこれに取り合わなかった、今事が後の関ケ原の時への伏線となる。



1597年 40歳 1月 第二次朝鮮出兵、開戦。
5月5日 毛利輝元が第二次朝鮮出兵へ行く元祥を労い傭兵を集めるよう言いつける。
6月 吉川軍の元祥・吉川広家は釜山(プサン)へ上陸、朝鮮軍を体伐しながら毛利秀元の軍と合流、
10月 元祥は蔚山城で戦い、ここへ城を築城する。
11月15日 益田領内で検地が行なわれた。
12月 浅野幸長の蔚山城(ウルサンじょう)が敵軍に襲われ吉川軍は古泉を立つ。
1598年 41歳 1月3日 昨年末、朝鮮軍4万5000人が大挙して此城(朝鮮)へ迫ってきたので、元祥は蔚山表へ掛け付け、黒田長政の軍と合流。
 
この時、益田兼豊は「囲碁」を打ったのかな?
1月4日 評定で「明日決戦する」と決められていたが、吉川軍・吉川広家・益田元祥は軍義を無視し、吉川軍だけで前夜に朝鮮軍を奇襲し「鬼吉川」ここにありを示す。
5月 安国寺恵瓊が蔚山城(ウルサンじょう)を破却する方向で勝手に話しを進めていたが毛利秀元・吉川広家が猛反対し最後は益田元祥の説得もあり石田三成の策略も功を奏せず、秀吉からの命令「保存」で解決した、その事で元祥の智略を高く評価した秀吉から脇差一刀を貰う。
 
益田元祥は石田三成との謀略戦に勝っている、結局は取られた形になった「益田壷」の事など怨みは深いようだ。
暮 旧縁深い出雲豪族・宍道正慶(しんじまさよし)から自分の領地6000石から1000石売却したいと交渉があり、元祥は承諾し買い取る。
1599年 42歳 5月5日 大規模な知行替えが必要で困惑していた毛利輝元へ助言をし助けた。
6月21日 輝元・秀就親子が益田氏の旧領を安堵してくれた礼を佐世元嘉を通じ伝える。

11月15日 今度は毛利氏の検地・竹内平兵衛が益田領内を検地した。
(このことで8年前より市場が発展しているのが分かる。)

元祥の希望を聞いた毛利輝元が「領地替えに元祥の領地は含まないから心配するな」と伝えた。
1600年 43歳 7月15日 関ケ原の合戦で吉川広家を中心に益田元祥・熊谷元直・宍戸元続が東軍(徳川軍)へ不戦の書状を出そうと誓い合い、失敗した時の責任は自らが全責任をおい、毛利家には関係ないと言う書状を書き4人で確認しあった。
 
この書状から分かるようにもし西軍が勝つようなら自分達は切腹しても構わないと言う不退進の思いが伺われる、ここまで戦局を理解していた吉川家臣団や宍戸元続の進言を聞かない、毛利輝元はやはり凡将であったとしか言いようがない、安国寺恵瓊の予言(前回、織田信長の死と羽柴秀吉の台頭を予言する)があったとは言え状況がみえてなかったとしか思えない、もしかして秀吉(西軍)嫌いの吉川家臣団(吉川元春の秀吉嫌いは有名)の言う事を疑っていたのかも知れない・・・・
7月21日 毛利輝元から元祥へ東軍の行路を防ぐよう命令された、この時、益田軍は1823人の軍勢で毛利家臣・椙社元縁(すぎもりもとより)の軍が若干名居て一緒に行動した。
7月23日 輝元の命により吉川軍は江州へ出発した。
7月25日 元祥が居る吉川軍は陣替をした。
8月5日 輝元から営作を忠進した元祥を労う。
8月8日 吉川広家が東軍に内応した、元祥はこの報を聞き勢多から伊勢路へ移動した。
8月24日 毛利秀元の家臣と元祥の家臣が言い争い衝突したが元祥が直ぐ争いを治めた。
 少なくともこの頃に吉川軍が東軍に内応しているのではないかと言う噂が流れていた模様。
8月24日 毛利輝元から元祥が毛利家臣の仲裁を仰いだのを誉め、今はそのような事をしている時ではないと警告文も送った。
8月25日 吉川軍(元祥)は東軍・富田信高を攻略した。
8月25日 吉川軍(元祥)は東軍・黒田長政から不戦の約束と違うと反発した文を受け取る。
9月7日 毛利軍(吉川軍含む)は美濃・南宮山へ陣を張る。
9月12日 元祥は東軍・榎本元吉へ「先ほどの戦は全て安国寺恵瓊が単独で決定し攻めたので吉川軍は戦う意思はない」と述べ吉川軍の思惑ではないと伝えた
9月14日 吉川広家は福原広俊(元就の祖父の夜叉孫の孫)の弟・右近を東軍へ人質として出し起請文を送った。
9月15日 関ケ原の合戦が開戦。
 勝負はアッサリ東軍勝利で幕を閉じた、この時、島津義弘は中央突破で離脱する凄まじい戦いがあったが毛利軍は吉川軍が抑え、小早川軍は錯乱し東軍へ寝返った、その為、領地が長門・周防の2ヶ国に削られる。