五章 品川大膳、見参 (1562〜1569)           藤兼本陣へ戻ります。

 吉川氏の傘下となり宿敵・吉見氏とは一歩出遅れた感が否めない益田藤兼は得意の外交を武器にその財力と家宝を献上し毛利元就の覚えを良くしようと必死である、吉川氏と婚約関係になる為、次男・元祥へ吉川元春の娘を嫁に来て貰う契約を結ぶ、一時は石見半国を支配した家柄だけにその家宝も様々であった、第ニ次・月山富田城合戦では藤兼の右腕・品川大膳を亡くすなど精神的疲弊は大きかったが怯まず尼子氏を攻めたてた、そしてようやく要請していた益田氏主演の宴を催し安芸豪族へ財力を見せつけた。



1562年 34歳 1月4日 藤兼は毛利元就・隆元に頼み吉見領と益田領の境目を明確にしてもらい、領地争いに終止符を打たせた。
2月1日 吉田平三が元服するまで藤兼家臣・益田兼続が吉田氏の所領を納めるよう毛利隆元・輝元から任命される。
2月27日 その事で判決に不服な吉見正頼が長門須佐へ侵入し益田兼貴と対峙した、須佐磯城主・益田兼貴は須佐磯城へ奇襲を仕掛けた吉見軍に苦戦しながらもどうにか防衛した。
3月4日 紛争で争った、益田藤兼が益田氏の代表として吉川元春に注意を受ける。
3月8日 三隅隆兼が亡くなると益田藤兼は少しの間、居城を三隅高城へ替え、三隅高城を改修する。
5月 吉見氏との領地問題で憤慨した藤兼は盟主・毛利隆元へ直訴して今回の問題は吉見方へあると判決を下した。
12月23日 福屋隆兼と一緒に毛利に反旗を翻した三隅隆繁の板井川要害を攻め奪取する。
1563年 35歳 3月25日 藤兼は伝家の宝刀「舞草・房女」を毛利元就に献上し毛利家への忠誠を示す。
 この伝家の宝刀は益田兼尭(藤兼の高祖父)が将軍・足利義政から頂いた物で奥州の刀匠、舞草・房女兄弟の名作。
8月13日 藤兼は毛利軍に従い松田久盛を攻めるべく白鹿城(しらが)に軍を進める。
10月29日 白鹿城(しらがじょう)が落城。
1564年 36歳 12月28日 毛利元就から出雲・生馬の地、100貫(500石)を藤兼へ与えられる。
1565年 37歳 2月10日 さらに8町8反半が元就から打ち渡される。
3月12日 益田傘下の石見水軍・大谷織部丞(おおたにおりべのじょう)が兵糧を運ぶにあたって毛利氏から許可を得る。
 地元では知る人ぞ知る、石見水軍です、隠岐水軍と比べると雲泥の力の差がありますが、石見では最大の水軍です。
9月3日 藤兼の父、益田尹兼(ただかね)が亡くなる。
9月20日 藤兼の侍大将・品川大膳(通称・石見の狼)は山中幸盛(鹿介)と広瀬川の中州で一騎討ちをし敗れる。
12月28日 藤兼は熊谷信直を仲介により吉川元春と毛利家への忠誠と吉見領に手出ししないとの起証文を送り承諾される。
12月 藤兼の嫡男・少輔若丸と吉川元春の娘の将来の婚約が成立する。
1566年 38歳 2月15日 藤兼は元就の身体を気遣う文を書き、元就は大変喜んだと言う。
 
元就の病状を気遣う文を書いた武将は他にも平賀広相(ひらがひろすけ)・佐波隆秀・三刀屋久扶(みとやひさより)からも出された模様。
11月21日 尼子義久、降伏。
 ここに山陰の名門が滅亡する、その後、尼子義久は毛利家へ属し朝鮮や関ケ原に従軍、後年「尼子の切り取り千石」と評される武将となる。
1567年 39歳 3月12日 藤兼が家臣・品川員永(かずなが)に「山道郷八幡宮」の神主に任命する。
9月 藤兼の嫡男・少輔若丸が死亡したので次男・元祥との吉川元春の娘が婚約するよう約束する。
 属に言う「許婚」です、戦国の世なので、こう次々と結婚相手が変わっていくのです、当時は子供の頃に亡くなる事も珍しくありませんから、医療も未熟だし。
11月1日 藤兼の嫡子・少輔若丸が死亡し吉田訪問等が遅れると文を書き、小早川隆景が承認し様々な問題に対処すると答えた。
1568年 40歳 1月 藤兼は子・元祥(もとよし)と安芸の毛利元就に訪問し、次郎(元祥)は毛利元就から「元」の一字を賜り元祥と名乗るようになる。
 
藤兼親子はその際に毛利一門に、刀剣140本・馬20頭・鎧12具・礼銭1322貫(6610石)余りを納め、益田氏の財力を仄めかす。(元祥 11歳)
2月10日 益田藤兼主催の宴が吉田郡山城内で行われた、その時、観世大夫による「能狂言」が行われた模様。