六章 毛利領内の混乱 (1569〜1570)           藤兼本陣へ戻る。

 豊前・大友宗麟から放たれた刺客は大内輝弘と言う大内家の庶子であった、大内正統の血筋に共鳴した軍勢は周防へ集まりなんと1万人、更には尼子残党の軍勢が隠岐から上陸して来た、山中鹿介が率いる尼子庶子の尼子勝久の軍勢3000人、当然の事ながら毛利領内である石見も毛利反勢力はしだいに動きを早めていた、反毛利勢の斡旋を努めるのは三隅隆兼の四男・三隅国定だった、彼は父へ背き勘当され通称「悪五郎」と名乗っていた、三隅国定の謀略で一気に脹らんだ石見国内の反毛利勢力、一体、益田藤兼はどのようにしてこの内乱を乗りきるのか。



1569年 41歳 5月3日 豊前三岳城の合戦で藤兼は毛利軍へ属して従軍。
 石見豪族で吉川軍へ従軍したのは益田藤兼・佐波隆秀・出羽元実・岡本春徳・小笠原長雄(おがさわらながたか)・吉見正頼
6月 尼子勝久・山中幸盛・立原久綱を中心とした尼子再興軍が出雲に侵入し尼子の残党3000人あまりに膨れ上がっていた。
10月 周防では大内家の庶子・大内輝弘が乱入し大内残党1万0000人がこれに賛同したが反乱軍は市川経好の妻によって敗北した。
 
1569年・・毛利領内乱れる。毛利領内は尼子や大内の残党乱入で混乱した、石見国人勢は津和野三本松の吉見広頼、佐波隆秀(さわたかひで)、益田藤兼、小笠原長旌が毛利側で敵対したのは周布晴氏元兼の従兄)三隅隆繁・福屋残党(当主・隆兼は1562年、吉川元春に敗れ京へ逃走)。
1570年 42歳 1月3日 藤兼は楞厳院定心房経蔵(りょうごんいん)の建設に関わった。
1月5日 藤兼は吉川元春に益田・吉見の領地の境界線のイザゴサを治める為、検使を派遣して欲しいと頼む。
1月19日 益田傘下の石見水軍を指揮する為、毛利水軍の児玉就久が派遣された。文書では「浦持衆」と藤兼は書かれている。
2月9日 藤兼は隠居し第一戦を退き元祥の補佐に周る。(元祥 13歳)
 この時、益田氏の領地は石見を中心に飛地の筑前・長門・周防・出雲と5州にも渡った。
2月17日 藤兼へ竹内門徒(たけのうちもんと)が御定替わりの際、ご馳走するように上野藤長・一色信恵らに命じられた。
2月24日 藤兼は吉川元春へ順じ洗合に従軍。
4月21日 周布晴氏元兼の従兄)と益田別動体が激突、浜田・石川合戦。
周布鳶巣城合戦(すふとびのすじょう)では当時敵対していた、周布晴氏と決戦をし、吉川軍の一隊になっていた、晴氏を降し、毛利軍の傘下に治まる。
 
周布家臣から毛利軍へ三宅氏が内応した為、落城した
5月14日 毛利方の羽倉城・長屋之定が山中幸盛(鹿介)の猛攻を受けるが藤兼が山中幸盛の軍を攻め撃退した。
7月16日 藤兼に親しい、京の僧・朝山日乗から織田信長の侵略や武装、内裏修造の進歩、そして伯耆での益田軍侵攻に意見し、情報を藤兼に伝える。
益田軍別動隊は毛利反旗軍、三隅隆繁の家臣、三隅茶臼山城・寺井信之を攻撃した。(三隅茶臼山合戦)
8月27日 藤兼は出雲の益田軍本隊を引き上げ、反乱を起こした三隅隆繁を攻める為、三隅へ本隊を移動した。
9月4日 「藤兼が毛利元就へ戯言を述べ吉見正頼を疑っている」と言う、文書が届いたが藤兼はそんな事を述べた事はないと否定し、諜略を行ってないと進言する。
9月26日 藤兼、三隅高城・三隅隆繁を攻め落とし、三隅隆繁は自害、三隅氏は滅亡。
 
三隅家を滅亡させ、三隅家臣を上手い具合に益田家臣団へ組み込む事で戦力を拡大した、ここに曲者・三隅国定(悪五郎)も生き絶える。
三隅隆繁の家臣、三隅茶臼山城・寺井信之は主が自害したので毛利軍に降参する。
 
この時、家臣は皆、逃走するが一族の長であった寺井重義は高齢であった為、そのまま益田氏の家臣となった。
10月3日 藤兼は、末次城を急襲した尼子勝久を攻めるべく周りの諸将を素早く召集し進軍したので、尼子勝久は一先ず新山へ撤退した。