壱章 藤兼誕生 (1529〜1548)         藤兼本章へ戻ります。

 益田藤兼は益田家の19代・当主として此の世に生を受けた、また旧仏教にも関心が強く若干14歳で神社に寄進するなど様々な僧の教えを学んだ、また15歳で味わった屈辱的な敗戦(第一次・月山富田城合戦)で更に武将としての覚悟を認識した。


1529年 1歳 益田尹兼(ただかね)の嫡男として生まれる。
1539年 11歳 将軍、足利義輝から「藤」の一字を賜り、藤兼と名乗るようになる。
1542年 14歳 8月25日 陶晴賢と藤兼の父・益田尹兼(ただかね)が「兄弟契約」を結ぶ、この関係は兄・尹兼で弟・晴賢で、益田宗兼の方から申し込んだ。
藤兼は「菅原神社」へ領地4石7斗を寄進した。
1543年 15歳 2月12日 藤兼は大内連合軍13部隊の一翼を担うが、大内連合軍は経久の遺策によって敗北する。
 月山富田城の菅谷付近で大内連合軍の一部に属する(益田藤兼・平賀隆家・吉川興経)は尼子誠久(あまごさねひさ)の軍2000人と激突したが新宮党の若頭だけあって益田・平賀・吉川軍は散々と打ち破られ敗走寸前まで追い込まれるが吉川の別働隊が尼子誠久の軍を側面から急襲したので益田軍達は敗北を免れる、結局、大内軍は経久の遺作で敗北するが尼子軍を勢いを付け、石見では益田藤兼・吉見正頼・福屋正兼(隆兼の父)・佐波興連(隆秀の父)が大内方で他の豪族は全て尼子家へ寝返った。
1544年 16歳 12月26日 祖父、益田宗兼が亡くなり、19代当主として家督を継ぐ。
家督を継いだ証として、藤兼は将軍・足利義輝へ太刀一腰・馬代を送った。
1548年 20歳 9月10日 藤兼は幕府から従5位下「治部小輔」(じぶのしょう)に任ぜられる。
藤兼は三隅領に攻め込み、三隅興兼は紀伊・高野山に逃走。