益田 兼豊(ますだ かねとよ)?〜1617年


兼順(かねそう)の子、1570年代の三隅隆繁との戦いで軍師として活躍し、益田七尾城を守る際は「鐘尾」(かねのお)を持ち場とした、1574年2月20日に東伝寺へ3石を寄進、1585年11月15日に赤雁八幡宮を勧請する、1592年3月5日に朝鮮出兵にあたり元祥の軍の第一陣を務めた、1597年、第二次朝鮮出兵の時は棟梁・元祥と共に渡り、益田軍の二番隊として活躍、その時、近くに居た黒田長政の陣へ入り、長政と「囲碁」を打った、1598年には竹山善棹から薬学を学び、赤雁地方を中心に約1000石の領地を持っていた武将、1617年3月23日に亡くなる。

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赤雁益田氏
本家14代 益田兼理 15代 益田兼尭
兼理・次男 益田忠勝 赤雁へ改名 赤雁兼治 赤雁兼綱

益田へ複名 益田兼順 嫡男 益田兼豊