益田 貞兼(ますだ さだかね) 14(40〜61) 〜 1526


1461年7月に家督を相続した、1461年、6月12日、将軍の命に従い河内切山合戦で父・兼尭と三隅豊信と協力し畠山義就と交戦、応仁の乱では吉見氏・三隅氏と協力し盟主・大内政弘と共に進軍し山名宗全の西軍に入った、大内軍と共に1467年、8月23日には京・東寺へ陣を敷く、父・兼尭が消極的に細川軍へ入ったがほとんど動かず、貞兼は大内政弘の軍へ入り7月8日、備中下津井で戦い、8月3日には摂津有馬本庄山で転戦、8月4日には武庫郡越清水で戦い、8月10日に難波氷室で戦い奮戦し足利義視から太刀と鎧を貰っている、さらに盟主・大内政弘から感謝の意を表され、8月17日には板見で戦い、8月29日には摂津の敵陣を突破し京洛の戦いに参陣した、将軍・足利義政は貞兼の活躍振りを評し期待されている、また自国の周防で大内教幸の乱が勃発すると大内政弘の命で石見へ帰国し陶弘護(すえひろもり)と共に津和野三本松城・吉見信頼を挟撃し虫追(むそう)まで軍を進め、1471年11月7日には安富小倉城、豊田二本松城を攻略し11月15日には向横田頚ヶ滝城を攻略した、さらに勢いに乗り吉見氏の最前線であった高津小城も攻略し、益田家の領地が大幅に増え吉見氏の領地だった高津・須子・角井・安富・豊田・市原の所領を奪回した、益田氏の歴代でもっとも軍功を称えられており、名将の父に習い様々な合戦で名前を上げた武将、1479年正月に伊勢貞宗の館で将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)と共に接待を受け、余興で石見の小笠原長隆が射手一番になり長隆は「邯鄲の夢枕」を貰う、1526年7月20日に亡くなる。

益田氏系図
15代 益田兼尭 16代 益田貞兼 17代 益田宗兼

益田大斬りへ戻ります。