益田氏・三隅氏の争い


三隅氏は元々、益田氏庶子だが独立し敵対していた、大内政弘と仲の良かった益田兼尭は盟主の大内家から「那賀郡の三隅領は益田氏の領内」と決める特別条約が結ばれていたので三隅興信は不満に耐えていたが1495年に大内政弘が死亡したのを期に主家・益田氏と合戦をしてこの領地を取り返そうとしていた

1499年 10月2日 三隅方・肥恊ウ久は益田軍を三子山で撃退した。
11月12日 その事で喜び勢いに乗る三隅興信は、三隅家臣・三浦兼貞を那賀郡長浜へ攻めさせたが中原ヶ城の戦いで負傷し益田軍と三隅軍は引分けに終わる。
三隅氏と益田氏の緊迫した空気に察した両家の盟主・大内義興は丁度、来日していた足利義植を仲介人に「両方とも前将軍の前で小競り合いなど無礼である」と説き三隅・益田の両氏は和議を結ぶ
1500年 納得のいかない益田宗兼は三隅興信の本拠地・三隅高城(みすみたかじょう)へ進軍したが益田軍は三隅家臣・三浦兼貞の待ち伏せにあって小野口で惨敗を喫した。
盟主・大内義興の讒言を無視し三隅領を攻めた益田宗兼は義興にこっ酷く怒られている。
結局、大内義興は「主家は益田氏なのだから争っている、匹見・津茂・丸茂は益田宗兼の領地である」と定めた
1505年 9月 やっぱり納得のいかない三隅興信は、三隅家臣の三浦兼春(三浦兼貞の子)・野田兼誠(のだかねさね)・桑原氏は益田方の宇治城に猛攻を加え攻め落とした。
1510年 11月5日 三隅興信と益田宗兼は誓紙を交わし互いの領地へ侵入しないと約束する。
1511年 6月7日 に井野村桑木合戦が起こった。
1515年 1月26日 益田宗兼の上洛中、宗兼の嫡男・尹兼(藤兼の父)が益田七尾城の警備へ付いていたが、宗兼不在の虚を付き三隅興信が益田領・金山(かねやま)で合戦するが尹兼家臣・渡辺小三郎が踏ん張り撃退した、渡辺小三郎は尹兼から恩賞として鹿毛馬一匹を貰った。
2月 益田尹兼は三隅軍を益田領内から完全に退かせ、三隅軍の殿を務めた肥恍焔vは負傷しながらも撤退した。
三隅興信は益田方の木部鳥帽子城を攻めた、この時、益田家臣・種地振城(たねちぶりじょう)の藤井将重は戦死するがどうにか落城は免れた。
3月23日 これに怒った益田宗兼は福屋領内の民を煽動し三隅領内で「一揆」を起こさせ、三隅方の黒川三子山城を襲撃した。
6月28日 益田加巻の合戦では三隅軍が勝利を治める。
7月3日 古和城合戦で益田家臣・仙道郷の神主・草野鎮正が三隅軍を蹴散らした、また尹兼家臣・渡辺小三郎は三隅軍の大賀与四郎を討ち取り、古和城を守っていた肥恍焔vを降し、古和城を攻略した。
1517年 大内義興が再び、益田氏と三隅氏の争いを仲介したが効果はなかった。
1518年 4月16日 益田兼勝(藤兼の大叔父)が三隅胴明寺の周辺で三隅興兼と合戦を広げ三隅軍を散々に打ちのめすが味方にも被害が大きかったので戦場から離脱した、この時、やっと京から帰国していた益田宗兼は弟の兼勝を敬い慰労した。またこの時、兼勝の家臣・大谷修理之進は配下の田中新左衛門
を亡くした、宅野兼祐は嫡男・宅野兼宗を戦死させてしまった。
1524年 1月 三隅兼隆と福屋正兼(福屋隆兼の父)も抗争を続けていたが大内義興の命で益田尹兼が仲介人となったので、どうせなら纏めてみんな仲良くしようと周布武兼が協議して「皆、代替わりしたので豪族の争いに終止符を打とう」と述べ、全てが丸く治まった。

このように、戦国期でも益田氏と三隅氏はお互いの領地問題で争った、三隅隆兼が益田藤兼の傘下へ治まった10数年以外はずっと敵対関係にあった。

戻ります