安富 兼之(やすどみ かねゆき) ?〜? 


安富小倉城(やすどみおぐらじょう)安富の地頭、安富小倉城の城主、芸州入道、安富氏は元々は周布氏の氏族だったが土地柄に習い安富は応仁の乱まで吉見方だった、しかし1471年12月の益田貞兼の進軍により降伏し益田方となった、安富氏の子孫・兼之は関ケ原の後、益田元祥に従い須佐へ移った。

(安富小倉城は360度、見渡せる城の作りに成っており、背後は川に背を向け、前方には堀があり攻め難い作りに成っている、1471年12月7日に益田貞兼の侵攻に降伏しているが攻め難い点から包囲戦に持ち込んだと思われる。)

安富氏
本家・初代 周布兼定 本家・二代 周布兼政
初代 安富兼幸 ・・・ 七代 安富兼正 八代・当主 安富兼之

益田市教育委員会文化振興課・認定

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