益田氏・吉見氏の争い
美濃地・黒谷の所領問題(1492〜1495年)
益田氏と吉見氏は因縁の間柄だったが、もっとも両者が発言して自分の領地だと争ったのが黒谷(くろだに)と美濃地(みのぢ)である、今までも度々合戦があったが戦国期に入り、より争いが大きくなり遂には幕府が介入する大騒ぎとなった、両方とも誓紙を幕府へ提出し、1492年に益田貞兼(藤兼の曽祖父)の文書が大きく取り上げられた為、吉見頼興(正頼の父)は拒絶、幕府を無視した、その為、1493年には益田貞兼の意見が通り制約上は益田氏の領地となったが、争いは納まらず、1495年6月には両者の盟主・大内義興の参謀・陶興房が仲介しやっと治まった、その後、1556年12月27日、厳島合戦で益田方の陶晴賢が戦死すると黒谷横山城に吉見家臣・上領休世(かみりょうきゅうせ)が猛攻を加え城主を生け捕るも吉見家臣も益田方へ捕らえられた為、この戦いは引分けに終わる。
なおこの地の問題は資料の方も益田氏・吉見氏が双方ともに譲らず、益田氏・吉見氏に付いたり離れたりしていてまったく問題は解決していないしラチがあかない為、この地方の郷土史「二条村物語」によると黒谷の喜島氏は益田方として1561年に大友攻めに参陣しており、上黒谷の喜島氏は間違い無く益田氏である、下黒谷の黒須の方は黒谷氏が吉見方へついて益田・吉見の両勢力の均衡を維持したらしい、またこの資料も古く信憑性は高くない。