世界は疫病に覆われて。
あれからいい知らせは無い。
世界のあちこちで疫病が円満しているが、特効薬が作られたという話は聞かない。
この街でも日に日に死者は増えていた。
とある医療院で
町医者と向き合いながら
感染者を隔離しておくわけにはいかないのかと聞くと、彼は溜息をついた。
……あぶれた二人はさらに病をまき散らすんだ。現場じゃ打つ手なしだ」
私は手にした白湯のカップを見下ろしながら、そこに映る自分の顔を見ていた。
そこにはまだ、病の兆候は表れていなかった。
私は顔をあげた。何故私が今日呼ばれたのかがわかったような気がしたのだ。
彼は二冊の本をテーブルに置いた。
『グラン・メディカ』上下巻。
かつて世界に蔓延した疫病を克服し、人類を救った伝説的な治療師コパティカ・ペパティカの物語――
確かに彼が言うように、これは歴史ではなく伝承に属するだろう。私も随分前に読んだことがある。
上巻のページをめくりつつ、私は記憶をたどった……。
砂漠の王宮に
女王と、その前に畏まる三人の男
……そこで世界に広がる病魔を食い止めるため、あらゆる手が打たれたのでありました。
神への祈りはもちろん、ありとあらゆる薬草、錬丹の技が試され
悪い血をヒルに吸わせることも、悪霊払いも行われました。
医師だけでなく、薬師や祈祷師、そして怪しげな山師までが皆、力を出し切ったのです。
しかし、それらの努力は何一つ良い結果を引き寄せられなかったのでございます。
そしてこの国の王もまた、民を護ろうと手を尽くしておられたのですが、
ついに彼自身が病に倒れてしまわれたのです……。
しかし朗報は得られませんでした。
秘薬を隠しているという薬師は、どうしても首を縦に振らないのです。
下々の者は口々に王妃に思いとどまるように申し上げました。
本当に秘薬が存在するのであれば、それを失うわけにはいかないというのです。
そこで、王妃はその薬が本当に存在するのかどうかをお調べになることにしたのでございます。
先ずは薬師がどんな人物かを知る必要がありました。
かの者が嘘つきであるならば、薬は無いものと思ってよい。
そうお考えになったのでございます。
王妃は件の者を知ると言う人物を王宮に御呼び寄せになりましたので、
間もなく三人の男が参上したというわけでございます。
王妃は一人目の男に、お前が知ることを包み隠さず申せと御命じになられました……。
そこで一人目の男が話し始めたのでございます。
痩せ細ばって、咳き込んでいる男でございました……。
一人目の男の話
街の裏路地に
流れ者の薬師と、でっぷり太った商人
私はこの国一番の金持ちです。木材を商い、財を得たのです。
非礼を許していただけるのであれば申しますが、王妃様よりも富んでおります。
……しかし病魔に憑りつかれた今、金が何の役にもたたないということを思い知るばかりです。
私はこの命を守るため、あらゆる手を尽くしました。
高名な祈祷師を呼び、名医と言われる人の診断を受けました。
しかし何をしても芳しくありませんでした。
そんな時だったのです。私が秘薬のことを知ったのは……
だが……彼女は薬を売ってはくれなかった!
これまでの人生で最も多くの金を積んだのに!
見てください、私の身体を。かつて飽食を極め、見事に肥えていたこの身体を。
今や骨と皮ばかりです。もうすぐ私は死んでしまうでしょう!
万能薬など嘘に違いありません!
私ほどの金持ちが、買うこと叶わぬ物が存在するはずがないのですから……
そこで二人目の男は話し始めたのでございます。
子どもの亡骸を抱えた男でございました……。
二人目の男の話
城下のバザールにて
死にかけた娘とその父親、そして薬師が一人
私はただの市井に生きる者です。何者でもありません。
金もありません。才もありません。
その日その日を必死に生き延びる、ただ一人の民草でございます。
しかし私にもかけがえのない宝はございます。
いえ、もう失われてしまいました……この一人娘です。
男はその手に抱いた亡骸を見やりました。
私は病魔を退ける薬を持つという薬師のことを聞き、やっとのことで彼女を見つけたのです。
そう、あれはこの城下のバザールでした……。
私には薬を買うようなお金はありません。ですが、どうしてもそれが必要でした。
薬師の慈悲に縋る他なかったのです。
それなのに……! ああ、あの時の彼女のあの言葉!
彼女は、私の娘を救うべき対象として見ていなかったのです!
私は失意に打ちひしがれて家に戻りました……。
娘はこの通り、天に召されました。
こんな無慈悲な人がいるでしょうか。
薬なんて本当は存在しないに違いありません。
そう思わないと、悲しみで身が裂けてしまう……!
そこで三人目の男は話し始めました。
書類を大事そうに抱えた男でございました……。
三人目の男の話
城下町に
一人の密偵
私はとある高貴な方に使える身です。主人の命令で、件の薬師を探しておりました。
王妃様もご存知の通り、この城下には「如何なる病をも癒す秘薬」の噂が流れておりまして。
噂をお聞きになった我が主ですが、なにぶん表立って動くことの憚れる方。
これまでにも幾度かあの方のために働いてきた私が、仕事を仰せつかったというわけです……。
先の二人のことも存じております。件の薬師は誰一人癒してはいないようでした。
私は半ば秘薬は存在しないものと思いつつも捜索を続け、ついに彼女を見つけたのです。
意外なことに彼女は我が主の名を聞くと、こう申したのです。
是非お会いしたいと。
金にも情にも動かなかった者が、権力には応じるのかと内心私は彼女を軽蔑しました。
しかし主の望みは薬師と話すことでありましたので、私は彼女を連れて戻ったのです。
そして主に薬師を合わせる前に、この者は信用なりませんと申し上げることも忘れませんでした。
しかし薬師は我が主にこう語ったのです。
そして彼女は、我が主に頭を下げました。
手元に残るわずかな薬を分析し、新たに作り出すための研究施設、資金、そして時間をいただけないかと。
聡明なる我が主は理解を示しになり、薬師に御尋ねになりました。
薬師とその薬が、本物と証明することができるかどうかと。
はたして薬師は己の正しさを証明するため、三人の者と話がしたいと申したのです。
そこで我が主の命により、医者、料理人、首切り人の3人が呼ばれることとなりました……。
最初に呼ばれたのは医者でした。
我が主かかりつけの者で、この国でも指折りの医の者でした。
あらゆる病を知るデミャデミャーの話
おおきな天幕に
一人の医者、そしてその前に列を成す患者の群れ
とある国に偉大なる医者、デミャデミャーという者がおりました。
彼は非常に長命で、永きにわたり各地を旅し、多くの患者に触れてきたのです。
あらゆる病を見てきた彼は、それぞれの病気が
身体のどの部分に宿るのか知り尽くしていたというわけです。
デミャデミャーは瞬時にして病魔が潜む部位を見抜き、切りとることができました。
もちろん切りとるだけではいけません。
生きるのに必要な臓器がなくては、病気どころではありませんから。
幸い、彼の元には常に多くの病人が集まっていましたので、
彼は他の患者から健康な場所を切り取って病巣と入れ替えることができたのです。
病魔を患う者が十いれば、十の病魔を一人に集めることができます。
残りの九人は健康な身体になって、それぞれの家へと戻っていくのです。
デミャデミャーは十の病魔を宿す患者を自らの天幕に留めました。
そしてに薬を与え、適切な指示を出しながら回復するまで共に居たのです。
百の病人に対し、十のベッド。万の病人に対し、千のベッド。
まさに彼でなければ成しえぬ偉業。
これこそ全ての医者が目指すべき姿と言えましょう。
話を聞き終えた薬師は、静かに言いました。
医者は口ごもりました。
病人がいなくては仕事がなくなってしまうと、そう考えたのです。
しかし彼は聡明な男でしたから、すぐに邪心を捨てました。
病魔に苦しめられる者がいなくなれば、それ以上の喜びはないのです。
その様子を見ていた我が主は一つうなずき、
次の者を薬師と引き合わせました……。
呼ばれて部屋に入ってきたのは料理人でした。
この者もまた我が主のために働いており、この国でも指折りの人物でした。
食を極めしパルバール・バパール帝の話
壮大な王宮に
皇帝と、テーブルの上にはありとあらゆる珍味の山
昔々、世界の東西にその名を知られた皇帝がいた。その名もパルバール・バパール。
彼が治める帝国は食に貪欲なことで有名だった。
皇帝たるパルバール・バパールが率先して美食を極めたので、
帝国の料理人たちは皆腕利きだった。民も皆、皇帝に習ったからだ。
そうなると今度は食材の調達が問題となってくる。
帝国は豊かで肥沃の地であったが、そこに住む者は誰一人現状に満足してはいなかった。
帝国は世界の隅々に届くまで新たな食を求めた。金に糸目はつけなかった。
こうして世界中の国々が帝国の名を知ったのだ。
料理人が次の世代に変わっても、皇帝はまだ存命だった。
世界中の料理を味わう前に死ぬなんてありえなかった。
何しろ世界は広い。食材の数なんて数え切れないほどある。
それらを使った料理の種類ときたら、それこそ星の数もかくやだ。
結局のところ、皇帝は常人の倍ほども生きた。
三代目の料理人が手違いで出した夕食の皿。
それは初代の料理人がまだ若いころに作った料理だった。
「もうこの世の全てを平らげたというのか」
皇帝はそのまま息を引き取った。
もしも間違いがなかったら、彼はきっと今でも生きていただろう。
パルバール・バパール帝はその飽くなき食への執着をいかんなく発揮したというわけだ。
これこそ魂の気力が命の源という証拠。そして、料理にはその力がある。
話を聞き終えた薬師は、静かに言いました。
料理人は不服そうな顔をしました。
世界中のあらゆる食材を扱う己の技量を要らぬものと言われたかと、そう考えたのです。
しかし彼は賢明な男でしたから、すぐにそうではないと気付きました。
食べる者の身体を支えられるかどうか、そこが大事だったのです。
その様子を見ていた我が主は二つうなずき、
次の者を薬師と引き合わせました……。
呼ばれて部屋に入ってきたのは首切り人でした。
やはりこの者も我が主に身を捧げており、その道の第一の者でした。
薬師は暫らく黙っていたが、やがて口を開いた。
薬師の言葉を黙って聞いていた首切り人は
彼女の顔を真っすぐ見つめて話し始めました。
アドアミス征服王と不死身の軍隊の話
頑強なる城塞都市に
死神と、命輝く王様
その昔、アドアミスという名の王がおりました。
大陸を平定した覇業により、彼の名は征服王アドアミスとして歴史に刻まれております。
王子だった頃からアドアミスは武で知られる男でした。
11歳の時に初めて戦場に出て、50人を斬ったのを始め、
数多の戦場で武勲を上げていき、やがて24歳で父王の後を継ぎました。
王になってからも戦いに明け暮れたアドアミスでしたが、ついに死神に目をつけられたのです。
このまま彼が生きていては、近隣の国々の死者が増えすぎると言う理由だったと聞きます。
しかし、死は王の命を奪うことができずに終わったのです。
アドアミスは持ち前の腕っぷしと、強靭な精神力で死神を追い払ってしまったのでした。
死に目をつけられたことで、王の征服欲はますます燃え上がりました。
神さえも止めようとする所業――それを人の身で成し遂げることができたら、
未来永劫、名を遺すことができると考えたのです。
そして彼はそれまで以上に戦を起こし、勝ち続けました。
こうしてアドアミスは征服王と呼ばれるまでになったのです……。
栄光ある戦場に
征服王と、その不死身の軍隊
連戦常勝のアドアミス。その秘密は彼の率いる軍隊にありました。
征服王の兵士たちは誰一人戦場で倒れません。
矢で射られようが、刀で斬られようが、とにかく彼らは死ななかったのです。
王が兵士たちにかけた言葉。その言葉により、王が死なない限り兵も死なないのでした。
アドアミスは死神すら退ける男。
不死身の軍隊が負けるはずもなく、王はあっという間に大陸全てを平定したのです。
建造中の戦艦の甲板に
野望を抱く征服王
一つの大陸を征服しても、なお男の欲は満たされませんでした。
海の彼方にまだ知らぬ地があると知ったアドアミスは、海を越えるために戦艦を作らせたのです。
彼の軍隊が全て乗り込めるような、大きな船を。
しかし、アドアミスの渇望もここまででした。
完成間近の戦艦から足を滑らせ、転落死したのです。
戦場では無敵を誇り、死神すら力で退けた男も
戦う敵のいない場では、どうにもできなかったのです。
王と共に、彼の軍隊も潰えました。
彼らの命は王が預かっていたのですから。
しかし大陸を平定した覇業により、
彼の名は征服王アドアミスとして歴史に残ることになりました……。
話を聞き終えた薬師は、うつむいたまま静かに言いました。
そして薬師は我が主に、彼女が知る全てを広く伝えるための学び舎を造る許可を求めたのです。
その言葉に、我が主は三つうなずきました……。
王妃は男の話をお止になりました。
すると王妃にさえぎられた三人目の男は、その通りですと答えたのでございます。
すなわち、彼が使える主とは、王妃の夫である国王に他ならないと。
そして彼は、王は四人の者――御典医と料理長、首切り人と密偵である自分――に、
今後は如何なることがあっても薬師の助けになるようにと命じになったことを伝えました。
彼がここに参上し、王妃に薬師の話をしたのは彼女を救うためだったのでございます。
お読みいただければ、
私の話が真実であることがわかりましょう」
それを聞いた王妃はすぐさま処刑の命令をお取消しになられたのでございます。
すでに空は白じんでいておりました……。
さて……一方、件の薬師が入れられた牢の前では
首切り人が囚われ人に一晩中付き添っていたのでございました。
王からは助けよと言われ、王妃からは首を切れと言われていた彼の心中は如何であったでしょう。
しかし今、処刑の命令は取り消されたのです。
薬師は弱っておりましたので、早急に一室を宛がわれることとなりました。
こうして薬師コパティカ・ペパティカは一命をとりとめ、
後に「グラン・メディカ」と称されることになる偉業に取り組むこととなったのでございます……。
とある医療院で
私は一人
私は読み終わった上巻をテーブルに戻した。
いつのまにか友の姿は消えていた。
おそらく患者に何かあったのだろう。階下が少々騒がしいようだ。
続く下巻を取り上げた私は愕然とした。
コパティカ・ペパティカの秘薬の調合法が綴られた本のページはどうしたわけか、
まるで糊付けされたかのように開くことができないのだ……。