私からのメッセージ

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2024年1月18日

私は立場上、警察から「親からの虐待」に関する意見を求められることがあります。虐待の結果起こる外傷の機序についての説明なのですが、そのたびに、「こんなことが現実に起こるのか」、と暗い気持ちになります。子どもにとって大切なことは、「自分は保護者に守られている」という安心感です。親から虐待を受けているお子さんの場合は、自分を守ってくれる人が身近にいません。そのため、いつも虚ろな表情をしていて思い切り笑うということが無いのです。そしていつも柱の陰に隠れるような動作をしています。子どもにとっては、「自分は守られている」「自分には拠り所がある」という安心感が必要なのです。その意味で、子どもはできる限り親と一緒に生活することが望ましいことはいうまでもありません。
病気で入院の場合もそうしたことを考慮する必要があります。長期間親から離れて入院生活を送るのはできるだけ避けなくてはなりません。もちろん病気によってはやむを得ない場合もあるのは当然です。その場合にはできるだけご両親と接する機会を多くすることが必要です。昔、子ども病院に勤務していた時、親と離れた長期間の入院が子どもの心にどのような影響を与えるか大規模に調査をしたことがあります。その結果、対人関係、知的発達、など広範囲に影響があることがわかり愕然としたものです。


2011年6月23日


滋賀県立小児保健医療センターを離れてから6年経った。万感の思いを抱きながら、東へ東へと車を走らせたことをいまでも鮮明に覚えている。あれからいろいろなことがあったが、水野先生をはじめとして多くの職員の皆さまに支えられて随分幸せな毎日を過ごしてきたと思う。
着任当初はもちろん子供の患者さんなどいなくて、もっぱら大人の整形外科をやっていた。半年から1年くらい経つと、少しづつ子供の患者が水野病院に来るようになった。小児整形外科外来のある日は、たくさんのお子さんが待合室に溢れるようになっている。
この6年間は楽しい毎日であったが、幸い事故らしい事故もなく無事やってこれたことに感謝している。これからも安全で確実な診療をやってゆくつもりだ。


2011年4月24日

歩ける、ということの意味について。

私は阪神大震災を京都で、東日本大震災を東京において経験した。2度も経験すると大震災はいつ起こってもおかしくないと思うようになってしまう。阪神大震災は朝起きて着替えをしている時に起こった。ものすごい揺れがあり、住んでいたマンションが倒壊するのではないかと本気で思ったものである。バスで京都駅に向かったが、電車はいくら待ってもいっこうに動く気配なかった。その日はちょうど手術日だったのでしかなたなく自宅に引き返して車で出勤した。やがて深刻な状況が次々と明らかになり茫然とするばかりであった。滋賀県にあった私たちの病院には直接の被害は無かったが、それでもいろいろな出来事があった。滋賀県から神戸までバイクを飛ばし、震源地に孤立した妹を救出に行った先生もいた。彼は瓦礫の中から妹を救いだしてバイクの後ろ席に乗せ夜通し走り続けたのである。また、病院として数十人の救援隊を組織し震災地へ送り出した。彼らはテント生活をしながら、困難な中で多くの被災者を助け大変な活躍をした。
阪神大震災ではこのようにいろいろなことがあり、この過程をとおして随分と考えることがあった。当時私たちは障害者の整形外科的治療のために奮闘していた。とくに脳性麻痺の整形外科的治療は我が国では確立したものがなく、「麻痺があるならば最初から車いす生活をすれば良いではないか」というのが一般的な考え方であった。私たちはそうではなく、神経学的に可能ならば、もっと詳しく言うと、両麻痺の患者であれば治療目標を独歩にするべきであると考えていた。阪神大震災をきっかけに私たちは随分議論を重ねそれを確信したのである。たとえば大都会が震災に見舞われると、人々は建物の倒壊や迫りくる炎から逃げなくてはならない。道には瓦礫が散乱しており、それを乗り越えて行かねばならないのだ。自分の力で歩けること、そして走れること、さらには歩けない友達を背負って逃げることも必要なのである。
今回の東日本大震災でも同じようなことを考えた。地震の後の津波が押し寄せる様は、この世のできごととは思えない光景だ。とにかく高い所にむかって早く逃げなくてはならない。小さい子供達は、とくに障害のある子供達は逃げることができたであろうか。私が思ったことはまずそのことである。
「この子の治療目標を一人で歩くということにしよう」、と私は患者の御両親に向かってよく言うことがある。独歩ができることは一般的に良いことだ。しかし私の場合は、漠然とそのように言っているのではない。いつ発生してもおかしくない大震災においては、歩かなくてはならない、そして時には歩けない子を背負って逃げなくてはならない、ということが背景にある。


2011年4月18日

起こり得ることを予測して対策を立てておくこと、そして予期していないことが発生しても適切に対処できること。これは整形外科手術においても重要なことである。昔、一般病院での事件であったが、若い先生が老人の外傷性脱臼の手術をしていた時のことである。何らかの事情で大血管を損傷して大出血を招いてしまい、手術場がパニックに落ちてしまったのである。ちょうど私は外来診療をおこなっていたので、とりあえず損傷血管を強く圧迫し、血液を日赤に依頼し、とにかくスタッフが揃うまで圧迫を続けろと指示し、最終的には事無きを得たのである。この時若い先生がパニック状態で大出血と戦いながら止血を繰り返していたらおそらく大変なことになっていたであろう。私が駆け付けた時は、助手の先生はすでにあきらめていた状態だったのである。
良い条件のもとで、確立した手術をおこなうのであれば多くの場合順調に終了する。しかし私たちの対象は人間である。したがって、予測しないことも起こり得るのであり、その時に正しく対処できる能力が不可欠なのだ。これは子供の手術にも当てはまる。たとえば私はソルター手術のように確立した安全な手術でも、少なくとも100例は経験してからでないと独り立ちはできないといつも言っているが、そのくらい経験を積まないと予測していない状況に対処することはできないと思うからである。手術に限らず、たとえば脱臼に対するリーメンビューゲルもそうである。たかが50例から100例くらい経験したからといって安心してはいけない。一見すると簡単な装具に見えるが、いくつもの落とし穴があるのだ。
さて、今回の震災で思ったことは、予測して対策を立てることに万全を期すことは当たり前であるが、予測していないことが起こったときに国として対処できる能力をたえず高めておかなくてはならない、ということである。とくに我が国のように、自然災害や他国からの侵略がいつ起こるかわからない状況では、自衛隊、国防軍の強化は絶対に必要である。これだけは他を犠牲にしてでもやり遂げなくてはならない。今回自衛隊の活躍があまりマスコミに出てこないが、大変な活躍をしているものと思う。こんな時に本当に頼りになるのは優れた国の指導者と強力な軍隊である。


2011年月11日

本日は建国記念日である。これを機会に日本の文化伝統を守り育てることがいかに大切であるか、ということを再認識しよう。私が日本文化のすばらしさを思い知らされたのは米国に留学している時である。それまでは「ものを思わざりき」で自国の文化に対してあまり注意をはらっていなかった。研修医の頃などは、欧米に留学していた先輩が流暢な英語を話し、あちらの診療の流儀をそのまま持ち込んで広めていることに対し、「すごいなー」と感心したりしていたものだ。「ものを思わざりき」とはこのことであり、いま私はこの当時の自分を恥ずかしく思っている。外国訪ねた(単に訪問するということではない。私は外国に行ってもその国の上っ面を眺めるということはしない)という点では私の右にでる者はそれほど多くはないであろう。ヨーロッパ、北米、南米、亜細亜と、招待もしくは自分からと、いろいろな国を訪ねた。われわれ普通の日本人にとって、英語は聞き取りができて、日本人らしく日本なまりで話し、それが通じればそれでよいのである。外人のように流暢に喋ることができても自国の文化をあまり知らない、というのはむしろはずかしく思わなくてはいけないことなのだ。外国人のなかでも教養のある連中はこのことをよく知っている。ただ彼らはそうした日本人を心のなかでは軽蔑しながらも表面ではニコニコして利用しているのだ。日本の医者も早くこうしたことに気づかなくてはならない。
日本の歴史文化伝統を無視して外国の優れたものをそのまま持ち込んでも必ずしもうまくゆかない。これはスポーツを見るとわかりやすいであろう。サッカーのアジアカップを見ていて思ったが、日本代表は日本人らしいサッカーを追及すればより強くなって、わが国民に希望を与えてくれるのである。たとえば日本代表がイングランドのようにフィジカルにまかせてガチガチやってもイングランドより勝ることはないだろう。また、中東のように前線にいるすぐれた優れたフォワードにロングボールを蹴って個人の力で突破しようとしてもなんの進歩もなくだめだろう。また、サルまねをして相手を侮辱するようなことをやっていたら子供達は代表に誇りをもたなくなるであろう。我が国の代表はあくまでも組織的に団結し、仲間を信頼し相手にも敬意を払いつつ、機敏でハッとさせるような美しいサッカーをすべきなのである。わたしはバルサのサッカーが好きで、いつもwowowで観ているのであるが、だからといってバルサのサッカーをそのまま持ち込んでもだめだと思う。君が代を厳粛に歌い、日の丸を背負って日本民族にふさわしい日本らしいサッカーを追及すべきである。
同じことが医療分野にも当てはまる。我が国の歴史風土にふさわしい医療の仕組みをつくることが必要だ。特に先天性股関節脱臼の診療においては我が国の現状にもとづいて診断治療を組織化しないとどうにもならないのである。

2010年7月1日

青き侍達は美しく散っていった。
この「美しく」ということが重要だ。明るいニュースの乏しい我が国において、久々に子供たちに夢や希望を与えてくれたからである。
日本チームの特筆すべき点は、私なりに考えると以下の3点である。第1は誰もが指摘しているように和の精神である。これは聖徳太子の時代から続いている我が国伝統の美徳であり、もはや説明は不要だ。第2に組織的守備が際立っていたことである。サッカーにおいて一番怖いのは鋭い縦パスをトップあるいは攻撃的中盤に通されることである。しかし今回は阿部選手を中心としてスペースをうまくつぶして縦パスを阻止することに成功した。そしてたとえ相手が前線や中盤でボールを保持しても、前後左右からプレスをかけてボールを奪取することもできた。このようなプレスを続けると体力消耗が激しいのであるが、松井選手と大久保選手のサイドプレーヤーが時々ボールをキープしてくれたので、この間守備陣はつかの間であるが体力回復ができたはずだ。このようにして確実な守備を持続できたことは大きい。第3に、本田選手の活躍である。多くの皆さんは彼のプレーの素晴らしさに目が行ったと思うが、私には彼のインタビューに対する答えが印象的であった。今目の前のプレーに全力を注ぐだけでなく、自分が将来何をするのかというように、いつも遠くを見つめていると感じたからである。
日本代表は美しく散っていった。


2010年4月11日

ペルテス病の見逃し例が増加している。

この疾患においても早期発見早期治療が重要である。治療開始が早ければ早いほど最終成績が良好となるからである。残念ながら東京では見逃しによって発見が遅れるケースが後を絶たない、というよりますますそのような症例が増えているように思われる。その理由として3つが挙げられる。第1に、痛みが股関節ではなく大腿あるいは膝に痛みが発生することが多いので、医師はそれに気をとられて股関節の病変に気がつかないこと。第2に、病状の初期のレントゲン像では変化が乏しいこと。第3に、大学教育の中にこの疾患が取り上げられていない場合が多く、この疾患が比較的稀な為に実際に見たこともないという整形外科医が多いことである。
意外に思うかもしれないが、この疾患が初診の整形外科で見逃され、その後しばらくして整体師や柔道整復師の方々が発見するというケースが稀ではないのだ。私はどうしてこのようなことが起こるのか考えてみたがそれはすぐにわかった。なるほどと思える理由があるのだが、長くなるのでここでは省略する。

それでは見逃しを無くするにはどうしたらよいか?子供が外傷などの理由なく突然歩き方に異常がでたり、股、大腿あるいは膝痛を訴えた場合にはすみやかに小児整形外科を受診することが大切である。また、医学教育も重要である。たとえば京都大学では小児整形外科を授業で教えるし、実習も滋賀県立小児保健医療センターで全員が受けることになっている。関東小児整形外科学会でも議論されているが、関東の医科大学においてもこのような対策を早急に講じる必要がある。整形外科医による見逃しという悲劇はなんとしてもなくさなくてはならない。


2009年6月23日

先日、日本小児股関節研究会にj参加したが、私は少し暗い気持ちになっている。どうしてかというと、先天性股関節脱臼に対し、手術的整復が安易に行われる方向に進んでいるからである。施設によっては、1歳過ぎていればすぐに手術的整復をおこなうそうである。しかも発表によればその成績は決してほめられたものではない。一方、私達はこれまでのところ3歳までであれば、特別な症例(すでに手術を受けて再度脱臼した場合など)を除けば全例保存的に整復可能であったし、その成績も極めて良好であった。私達のグループのように「赤ちゃんの脱臼に対しメスを入れないで治そう」と研究を重ね、あらゆる努力をしてきた者にとって、日本の小児整形外科医が手術的整復に傾いてゆくことは大変つらく悲しいことである。
骨折の治療と同じで、脱臼を手術をしないで治療するのは確かに難しい。脱臼の病理を詳しく知っていなければならないし、超音波診断にも精通していなくてはならない。また、多くの経験も必要であり、短期間の訓練ではその技術を習得できないことも事実だ。反対に手術的治療は比較的簡単である。なにしろ関節を開いて、直視下に骨頭と臼蓋をあわせるわけであるから、その技術も短期間で覚えられるし、若く経験の乏しい医師でも手術書を見ながらでもできるくらいだ。しかし、簡単なものには落とし穴があることを忘れてはならない。今私は東京で診療をしているが、手術的整復の失敗例をどれほどたくさん見てきたことか。そしてそのような症例に対し私はやむなく手術をおこなうのであるが、これがどれほど困難な作業であるか、若い先生方は1度見るべきである。そうしたら考え方が変わるはずだ。
すでに1−3歳までの脱臼の多くは保存的に整復できる技術は確立されている。安易にメスを握る前に、この子がもし自分の子供であったらメスをいれるであろうか?と自問すべきである。


2009年2月27日


先日関東小児整形外科学会がありました。どうも関東地方では先天性股関節脱臼に対し手術的整復が行われる傾向があるようです。その為でしょうか、水野病院には他の施設で手術的整復を受けられたお子さんがたくさん訪れます。多くの場合、残念ながら骨頭壊死を合併しており、成長とともに変形が憎悪し数回の手術を要することが稀ではありません。私たちの経験では、4歳未満であれば手術無で整復に成功してきました。赤ちゃんにはなるべきメスをいれるべきではなく、可能な限り保存的に整復すべきです。
外国では家族の医療費負担が大きく、長期入院が不可能なため、比較的早期に手術的整復がおこなわれる傾向があります。しかし、日本は乳児医療、小児医療については経済的バックアップに素晴らしいものがあります(足立区では中学生まで医療費がかからない)。なんでもかんでも外国のものを取り入れるのではなく、我が国にふさわしい治療法を自分たちで考え実践することが必要と思います。それが子どもにとって一番の幸せなのです。


2009年1月18日

脳性麻痺のお子様を診察する機会が増えてきました。いろいろお話を伺うと、東京都、関東地方ではこの疾患を系統的に治療する施設が少ないようです。この疾患にたいする治療はすでに確立したものがあり、先進諸国では赤ちゃんのころに発見されればその後年齢に応じて適切な治療をおこない、すぐれた成績を上げています。この疾患を治療する為には、本人の将来の運動能力を見極め、最終的な獲得目標を明確にして、小児科、整形外科、リハビリ科、眼科、脳外科などあらゆる科が協力しながら年齢や運動発達に応じて適切な対応をしてゆかなくてはなりません。私が滋賀県立小児保健医療センターに勤務していたころも他科と協力しながら何百人という膨大な症例を扱い、それなりの成績を出して来たと思っております。整形外科の役割は「四肢脊柱の運動機能を妨げている変形を矯正し、リハビリが効果的に行えるようにする」ということです。たとえば筋肉の拘縮が強くリハビリだけで治せないと判断されれば筋解離をおこなったり、股関節が脱臼しようとしていたりすでに脱臼しているのであれば手術的整復を行ったり、四肢麻痺で脊柱変形が強ければ骨手術によって金属を使って本格的に矯正しなくてはなりません。重要なことはあくまでも手術は本来の運動機能を妨げている不利な状況を除去し、リハビリを円滑に行えるようにする為のものであるということです。厳密に言えば「手術によって機能を上げるのではない」ということです。治療のタイミングも重要です。たとえば5歳までであればリハビリが重要です。そしてリハビリにもかかわらず拘縮が残れば5歳前後に筋解離を行います。股関節脱臼は運動機能を大きく妨げるのでなんとしても防止しなくてはなりませんが、万が一学童期に脱臼してしまったならば、多くの場合骨手術が必要となるでしょう。このように麻痺レベル、変形程度そして年齢を考慮しながら治療計画を立てますが、どうもこのあたりが漠然となっているようです。
水野病院では残念ながらまだこの疾患に対して系統だった治療はできていまませんが、今後は少しづつではありますが対応できるようにしてゆこうと考えています。


2009年1月2日

医師不足が叫ばれています。我が国では人口1000人あたり医師数は2人で、先進40ヶ国の平均が1000人に対し3人ということを考えればたしかに医師数が不足気味なのは事実です。しかし、今現実に起こっている問題は、単に医師数を増やせば解決するものではありません。1)産科、小児科など特定の科の医師が不足している、2)地域によって医師が偏在している、3)医療レベルが低いために本来なら治療できる疾患が治らない、という事実が問題なのです。医学部定員を増加させることが決定したようですが、単に医師数を増やしても、この3つの問題を解決しない限り今日の我が国の医療問題は解消されません。しかも医師の教育期間は長いので、実際に医師が増加してゆくのは10年後となります。10年後には社会情勢も大きく変わり、人口も減少していると推測されますから、医師数が多くてかえって困ることになっているかもしれません。「現場の医師が不足しているから医師の絶対数を増やそう」という単純な発想ではなく、なにが問題の本質なのか検討し対策をたてなくてはならないのです。
私の専門領域について言えば、確かに小児整形外科医は不足していますが、現在おこっている問題、たとえば先天性股関節脱臼検診での見逃し、ペルテス病や内反足の不満足な治療成績などは、小児整形外科医の数を増やしたからと言って解決するとは到底考えられません。必要なことは、医療のレベルを上げることです。そうすると、国家の財源を、医師数を増やすことに使うのではなく、医療の質的レベルを上げるために使うほうがはるかに有効であることがわかります。
若い先生方にとってはひたすら勉強することが重要です。株をやって儲けようとか、医学以外のことに関心をもつなどということはもってのほかです。このことは先日の講演会でもお話しさせていただきましたが、若い整形外科医にとって重要なことは、「自分に投資する」、ということです。そのためにはあらゆる機会をとらえて自分を高めるよう努力が必要です。とくに医局経由では自分のやりたい分野が学べない、という状況であれば自らの道を自分で切り開かなくてはなりません。私が滋賀県立小児保健医療センターに務めていた時、小児整形外科を学ぶために無給で1年間センターで働いた他大学出身の若手整形外科医がいました。彼は自分に大きな投資をし、これが今大きく花開こうとしています。彼は将来立派な医師になるはずです。我が国にはこのようにすばらしい医師が沢山いるのです。
水野病院では、質の高い医師を育てることに力を入れています(しかも無給ではありません)。骨折などの外傷も多く、また一般病院ではほとんど見ることのできない疾患に接する機会がたくさんあります。忙しく、なお勉強もたくさんしなければならないので大変かもしれませんが、若い整形外科医にとって水野病院で働くことは自分への大きな投資であり、貴重な経験となるに違いありません。


2008年12月6日

昨日は日本股関節学会に参加しました。この学会は主として成人の股関節に関することを討議する大きな学会です。小児整形外科の立場から発言して欲しい、ということで学会長から招待を受け、シンポジウムで意見を述べさせていただきました。参加して感じたことは、成人の股関節を扱っておられる先生方は小児股関節に対する接し方が私たちとまるで異なる、ということです。たとえば小児期に股関節の異常があったとしても、できるだけ無理をしないように(運動制限など)して、成人になってから手術をして解決する、という考え方をされる先生が多いのです。私たちはこれとは違う立場をとります。すなわち、小児股関節に対する治療というのは、股関節を理想的に発達させるにはどうしたらよいか、という観点から物事を考えるのです。今のこの時を思い通りに活動し、大人になってからもなに一つ不自由のないような股関節を形成するには今なにをしたらよいのか、ということを考えるのが私たちの仕事と言えます。


2008年8月23日


いつもは小児整形外科のことばかりが頭にあるのですが、15日は敬老の日ということで老人について考えてみました。水野病院にはたくさんのお年寄りが入院され、この中には100歳前後の方で頭もしっかりした人が何人かおられます。私は回診の時にこの方達に聞くことがあります。それはまず「好きな食べ物は何ですか?」ということです。答えはいつも決まっていて、「何でも食べます」ですが、これでは面白くないので、「その中でも特に好きな物は何ですか?」と尋ねると、この答が結構面白いのです。いろいろあるのですが、「ニンジン」「ごぼう」「ゴマ」などが印象的です。「ビフテキ」とか「ハンバーグ」などの西洋料理の回答はほとんどありません。また、油料理が好きというのもありません。食べ物の次は、「普段どのように、あるいは何を楽しみに生きていますか?」と聞きます。これまたさまざまな答えがあるのですが、家族の話などを総合しますと「いろいろなことに感動しやすい」というような答えが多いように思います。科学的統計は試みていないので断定はできませんが、頭がしっかりした状態で長生きしている人は、「いろいろな物事に関心を抱きつつ、我が国古来の和食を好んで食べている」、というのが私の印象です。

それでは今の子供達の食べ物について考えてみましょう。私は外来診療で「この病気を治すにはどのような食べ物を摂ったら良いですか?」という質問をよく受けます。特に付き添いのお年寄りが尋ねてくることが多いのですが、その時は「残念ながらそのような食物はありません」と答えます。しかし、食べ物が重要であることは間違いありません。たとえばペルテス病や臼蓋形成不全に効果のある食べ物というのは少なくとも現在のところ分かっていないのですが、それとは別にもっと広い意味で、何を食べるか、ということは極めて重要なのです。今の子供達がファーストフードなどで高塩分、高脂質、高カロリー、の食事をしている現状には目に余るものがあります。この時期に覚えた食事習慣は一生ついて回るからです(これは食事習慣に限ったことではありません)。そうすると成人してからも同じような食べ物を摂取しがちになり、やがてはメタボリックシンドロームへとつながってゆきやすいことは容易に想像されるでしょう。メタボリックシンドロームとは高血圧、高脂血症、糖尿病、そして肥満を定義していますが、私は整形外科的疾患とも深い関係があると考えています。すなわち、たとえば肥満があったとしたら、変形性股関節症、変形性膝関節症、椎間板ヘルニア、変形性脊椎症その他数多くの変性疾患が発症し易くまた易進行性であることはすぐに理解できるはずです。また、骨折や捻挫などの外傷なども体重が重ければ重いほど損傷の程度は大きくなるのは当たり前です。さらにメタボリックシンドロームが進行して動脈硬化が起こってくれば骨代謝にも影響がでてきてもおかしくありません。まだ研究が進んでいないようですが、骨粗鬆症とそれに伴う様々な疾患などもメタボリックシンドロームと深い関係があることがやがて解明されると考えています。
このように考えれば、付添のお年寄りの「この病気を治すにはどのような食べ物を摂ったら良いですか?」という質問は極めて重要であることがわかります。子供の時から正しい食生活(私は和食を推奨しますが)をすることによってメタボリックシンドロームを予防することは、内科に限らず整形外科的にも重要な意味を持っているわけです。

2008年6月22日

3年前のちょうど6月22日、私は滋賀県立小児保健医療センタ―を去り、水野病院に赴任しました。いまではささやかながらも小児整形外科診療をおこなうことができるようになっています。これも皆様のおかげです。ありがとうございました。
関東地方は人口が多いせいでしょうか、たくさんのお子様に来ていただき、外来予約がいつもいっぱいであり、手術もかなり先まで予定がつまっています。皆様のご要望にお答えするのが難しい場合がおおくなってきました。なんとか工夫してもっと沢山のお子様の治療ができるようにしたいと思っておりますのでしばらくお待ちください。
また毎日たくさんのメールをいただいております。すべてにお返事しているつもりですが、うっかりして見落としていることもあると思います。なかなか返事が届かない場合には再度メールしてください。


2008年1月9日


水野病院で働く希望の医師がたくさん面接に来られます。立場上私も面接担当をするので、他の病院の状況だけでなく、我が国の医療情勢を把握することができます。我が国の医療はいろいろ問題があるのですが、最も深刻なのは(地方だけでなく都会を含めた)公的病院の現状です。これまでは大学医局がこうした公的病院に医師を派遣し、それによって地域の医療が支えられていたわけですが、これからはこの仕組みが、外的そして内的要因によって崩れてゆきます。この流れはどう考えても止めようがありません。あまり論議されていませんが、内的要因は解決の道が見えてこないという点で深刻です。私たちのように非公的病院に勤めていると、現在生きてゆくために、そして将来のためにも一生懸命やろう、という動機づけが自然とできてくるような仕組みが働いています。しかし、公的病院では一人一人の心にこのような動機づけが自然に形成されることはありません。指導者が、医師の倫理や学問的興味を語ることによって部下を鼓舞し皆のやる気を引き出してゆかなくてはならないのです。実際にそのような指導者のいる公的病院は決して衰退していません。公的病院ではこうした指導者の個人的資質にたよらなくてはならないのがつらいところです。まともな指導者がいなければどんどん医師が離れてゆきます。
今多くの医師が自分の将来について迷っていると思います。かって医師は医局制度の中で自己を確立し、一方このことにより地域医療が守られてきました。すなわち医局員として地方の公的病院の勤務などの義務を果たせば、医局は個人の生活を守り、さらには自分の進みたい道を保障してくれたわけです。しかし、いまでは逆に医局に属することによりかえって自分のやりたいことがやれない場合がでてくるようになりました。私は迷っている先生には是非自分のやりたいことをやる、そのような道を選ぶことを勧めます。自分がやりたいことをやって、それによって患者家族から感謝される、というのが幸せだからです。たしかに医局から離れるというのは不安なことと思いますが、実際は心配無用で、ひとたび飛び込んでみればなあーんだ、ということになります。現に水野病院の医師は皆医局とは無関係に自分の道を歩んでいますが、いろいろな医師を見てきた私からすれば、良い条件に恵まれ、生き生きとやっていると思わざるを得ません。

2008年1月1日

あけましておめでとうございます。水野病院に赴任してからちょうど2年半たちましたが、この間本当にやりがいのある日々を送れました。こちらにくるまでは、これほど楽しい世界が待っていたなどということは想像もできませんでした。何でおもしろかったかというと、それは無形から有形のものを創造することに全力をだせたからです。これは水野先生をはじめとした全職員の暖かい協力と、水野病院を選んでいただいた患者ご家族の皆様のおかげです。本当にありがとうございました。
この2年半は基礎づくりに力をいれました。基礎とは、システムです。地域、病院全体、病院の個々の部署の機能を考慮しながら小児整形外科を診療する仕組みを形成してきましたが、これがすこしづつ機能しはじめたように思っています。2008年からはこのシステムをすこしづつ大きくしてゆくことに力を入れてゆきます。そのためには3つの方針をたてました。第1は、洗練された安全確実な治療の推進です。なんといっても個々の疾患を確実に治療してゆくことが医師、医療機関にとって一番重要なことはいうまでもありません。第2にスタッフの質の向上です。たとえば私が赴任した直後はX線撮影もむずかしかったのですが、いまでは技師の方々が素晴らしい画像を撮ってくれるようになりました。それぞれの職員は皆すぐれた能力をもっているのですが、まだそれが十分に引き出されているとはいえないのが現状です。第3が、周辺地域あるいは関連施設との連携規模の拡大です。昨年は地域医療の講演会に招かれ、その後地域の医療施設からたくさんの紹介をいただくようになりました。また、いくつかのリハビリ施設と共同で治療にあたることもありました。これからはさらにこうした連携を深めようと思っています。
2008年度はシステム充実期と考えて取り組みます。



2007年12月7日

1階の整形外科外来前に、授乳室、車椅子用トイレ(おむつ交換室)が完成しました。この2年の間に、CRの導入、CTの機種更新、子供用ベット設置、周辺の土地購入と施設増築、その他たくさんの変化がありましたが、民間病院では意思決定ならびにその実現が早いというのが水野病院に勤めてからいつも感じることです。公的病院でしたらこうはゆきません。まず大きな医療機械や病棟改築は県予算の編成に合わせて立案し、当局でその後いろいろ調整があって、病院の収益が悪ければこの段階で計画は潰れます。公的病院で経営がうまく行くことは難しいので、新しい機械更新などは特別な理由がない限り困難なのが現状です。
先日水野病院では売りにだされたいくつかの周辺の土地を購入しました。やがてここに施設が増設される予定です。質の高い医療をおこなうにはそれをバックアップする設備も重要です。


2007年7月1日

先日先天性股関節脱臼の健診をされている先生からメールをいただきました。その内容は、1か月時の健診では脱臼はなかったけれど、3−4か月検診で別の医師によって新たに発見された、ということでした。その先生は、自分が1か月検診で見逃したのではないか、とお考えのようでした。しかし、私は、これは見逃しと断定できないと考えております。
実は生後早期に脱臼が発見されず、乳児期に新たに見つかる事例の報告は過去たくさんあります。欧米ではこれが大きな問題となり、訴訟問題までに発展しました。すなわち、「先天性」のものであれば、生後すぐの検査でも見つかるはずであり、そのとき見つからず、その後に発見されたのは検診の見逃しではないか、というものです。しかし、実際にはこの疾患を専門としている医師の多くが同様の経験をしており、生まれた直後には脱臼がなくても、その後に新たに発生する事例がある、ということは昔から知られていました。そのため、欧米ではこの疾患の名称が「congenital」から「developmental」に変更されました。我が国の学会でも現在変更を検討中です。私は、2年前に小児股関節研究会幹事会で、「先天性股関節脱臼」ではなく、「特発性股関節脱臼」という名称を提案しております。
実は私も先日同じような事例に遭遇しました。1か月では正常だったにもかかわらず、それ以後再度診察したときに脱臼を発見したのです(もちろん私が1ヶ月時に見逃した可能性も否定できませんが)。
脱臼の健診は3か月が適切と考えられます。それ以前の健診はあてにならないケースがあるからです。

2007年5月27日、日本整形外科学会学術集会が終了しました。


教育研修講演も無事終了しました。大勢の先生方にお集りいただき、会場の椅子に座りきれなくて1時間近く立ったまま講演を聞かれた方もたくさんおられました。いろいろな事情から、小児整形外科を志す整形外科医師が少なくなりつつある昨今ですが、実際にはたくさんの先生方が興味をお持ちである、ということを知り、なにかうれしく感じているところです。若い先生方がたくさんおられましたので、「やりがいのある仕事をするにはどんなことに留意すべきか」、などといった私の独断的なアドバイスなども話ましたが参考になれば幸いです。
さて、学会期間中、多くの先生方と話をする機会がありました。その中で私が感じたことは、今我が国の医療は大きな曲がり角にきている、ということです。時代の流れに的確に対応している施設と、そうでないところとがはっきり分かれてきているのです。若い先生方にとって重要なことは、自分が何をやりたいのか明確にし、自分の夢を実現するためにはどこで学んだらよいのかをはっきりさせ実行に移すことだと思います。



007年4月24日、日本整形外科学会教育研修講演。


日本整形外科学会(5月、神戸市)で教育研修講演をおこなうことになりました。演題名は、「先天性股関節脱臼に対しては、視診・触診によって脱臼度を診断し、一人一人の病態に応じた治療法を選択する必要がある」としました。結論が演題名となりましたが今私の訴えたいことはこのことにつきます。脱臼度を診断することは簡単ではありませんが、小児整形外科専門医をめざす若い先生方には是非このことに習熟していただきたいと思います。そうすれば、この疾患をもつ赤ちゃんを育てているご両親の悩みや悲しみもずっと減ってゆくはずです。私の講演はすべて自身が体験したことを元にしております。価値観や行動様式が異なる為、毎度のことですが先生方の中にはびっくりされることがあるかもしれません。しかしこういう事実もあるのだ、ということを知っていただければ幸いです。

2007年4月16日、水野病院整形外科の常勤医師は8人となりました。

多くの病院が医師不足で困っている状況にもかかわらず、幸い水野病院への就職希望者が多く、今年から整形外科医が2名増員となりました。いずれも経験豊富で有能な先生方です。診療内容はますます充実し、毎日たくさんの手術があり、病床は常に満床状態です。医師同士の協力関係も良好で皆仲良くやっています。先月から早朝の勉強会が始まり、学会活動も活発にやってゆく予定です。
私たちはそれぞれ皆出身医局が異なります。このような環境は私にとっては初めてであり最初は不安でしたが、今ではこれがお互いに刺激となって知識や技術の幅を広げることができ、かえって良いことではないかと考えています。それぞれが自分の得意とするところを自由にやり、それを皆が支えている、というのが現状です。小児整形外科もますます充実して行きそうです。

2007年2月14日、
入院される患者様へのお願い

水野病院へ赴任してから1年8ヶ月になろうとしています。最近では外来のほとんどは小児が対象となりましたし、入院では子供部屋もできて、手術治療も軌道に乗ってきています。幸いこれまで順調で医療事故の記憶もありません。ただし水野病院は子供病院ではありませんので、アメニテイの点でまだいろいろ不自由があるのが事実です。たとえば子供の遊び場やおもちゃなどはまだ備えておりません。これまでほとんどの患者様は成人(大部分が老人)でしたので、看護師はまだ子供の看護に慣れておりません。
現在いろいろ問題はあるものの、子供部屋の設置、子供用ベットの購入、外来の授乳室の設置、外来予約制導入、をはじめとして小さな改善はいくつもありました。これらは私が指示したものではなく、より良い病院にしてゆこうと願っている全職員の善意と努力で実現したものです。気づかれた方もおられると思いますが、手術場に向かうときに必要なお子様の服などは病棟の看護師がボランテアで作ってくれたものです。また、手術場ではお子様が快適に手術を受けられるようにと様々な工夫が行われてきました。たとえば麻酔導入の際にはいろいろなお菓子の匂いのついたマスクを用意したりと、ご家族の見えないところで看護師諸君のすばらしい活躍があります。
病気は責任をもって治療しますが、アメニテイ充実には長い時間が必要です。それまではいろいろと不自由があると思いますがなにとぞご了承ください。

2006年10月20日、量から質へ
昨日は股関節脱臼手術の応援の為、滋賀県立小児保健医療センターへ行ってきました。難しい例でしたが、スタッフの素晴らしいチームワークによって最大限のことができたと思っております。
先天性股関節脱臼において難しい例というのは2つに分類されます。1つは検診体制の質的低下のために見逃され、歩行開始以後に発見される場合であり、第2は、完全脱臼であるタイプB、Cにりーメンビューゲルを装着し整復できなかったり、整復されても骨頭壊死が発生してしまう場合です。整復されなかった場合には牽引或いは全身麻酔下で徒手整復が行われることが多いのですが、整復されないままりーメンビューゲルが長期に装着された場合には骨頭は臼蓋の後ろに入り込んでしまって本当に高度な脱臼となってしまいます。このことは実例をあげながら学会などで繰り返し述べているので専門医の多くの方には理解していただいているのですが、一般整形外科の先生方にはなかなか理解していただいていないのが現状です。不適切な初期治療によってより高度な脱臼が形成されてしまう、という事実を知れば、脱臼のお子さんを前にしてもっと慎重に対処しようという気持ちになるはずです。高度化した状態で通常の牽引をしたり徒手整復を試みても成功の確率は低くなってしまいます。こうなると最後の手段としてしばしば手術が行われます。しかし、手術的整復というのは、股関節を開くということであり、同じ手術といってもソルター手術とか大腿骨切りなどとは質的にまったく異なり、合併症も桁違いに多くなります。私が最近感じていることは、この手術的整復があまり深刻にとらえられていないのではないか?ということです。そのような場合には手術もうまく行きません。そうすると再手術しか打つ手はなくなりますが、一度メスが入った股関節の手術は困難を極めることになりますから、1度目の手術がうまくゆかなかった技術で同じ術者が再手術に望んでも失敗することは目に見えています。
同じ脱臼でも一人一人皆病態は異なり、その子にとってもっともふさわしい治療法というのがあるはずです。今必要なことは赤ちゃんの一人一人を大切にしよう、ということです。そのような立場に立てば、赤ちゃんを量的に十派一からげに扱うのではなく、一人一人に応じた質的に高い医療を行おう、という気持ちになるでしょう。現在、医師不足が叫ばれていますが、小児整形外科の分野に限定して言えば、必要なものは量より質であると思います。


2006年7月16日
先日、千葉県内の整形外科医の集まりで「見逃してはならない小児整形外科疾患」という題で講演をさせていただきました。100人近くの先生方が熱心に聞いてくださりありがとうございました。久しぶりの講演でこちらも熱くなってしまいました。主催者であられた千葉大学整形外科守屋教授、千葉こども病院整形外科亀ヶ谷先生、お招きありがとうございました。
私が講演で強調したことは、「小児整形外科疾患で見逃しをしない為には、視診、触診をしっかりおこなう必要がある」、ということです。最近、医療機器の進歩にともなって画像診断が盛んになりましたが、画像に囚われて肝心の患者さんを診ない傾向が知らず知らずのうちに、特に若い先生方に目立ってきているのではないかと危惧しております。この原因はいくつかあるのですが、その1つに見過ごせないものがあります。我国の小児整形外科は経験豊富な年配の先生方によってリードされておりました。昔のことですから、いろいろな現象が科学的に解明されないこともたくさんありました。成功と失敗のくりかえしのなかから経験的に修練を積んでこられた老先生方の功績は確かに評価すべきことです。しかし、一方で医学が進歩し新たな事実が次々と解明された今日、経験から得られたものが必ずしもすべて正しい、というわけではないことがしだいに明らかになってきました。学会において新たな科学的事実に基づいてこうしたことを説明するのですが、老先生方にはこのときは理解していただくのですが、次の学会ではまた同じ昔の理論を蒸し返しておられる、ということがあまりに多いのです。また、若い先生方が素晴らしい研究をして発表してもそれが古い理論と相容れない場合には大変なことになり、またこのような若い芽をつぶすことに生きがいを感じているとしか考えられないような年配の方がおられるのも事実です。こうしたことなどから、若い先生方が見切りをつけて新しい画像診断学などに走ってしまうのは理解できないことではありません。しかし注意すべきことは、新しい画像診断を重視すること自体は間違いではないのですが、この場合、あくまでも視診、触診などの臨床診断を中心に据えなければならない、ということです。なぜなら、レントゲン写真や超音波画像は、しばしば患者から離れていつのまにか一人歩きをすることがあるからです。このような場合、ときによってとりかえしのつかない事態を招くことがあります。講演ではそのような例をいくつか挙げさせていただきました。若い先生方には、医療の基本である視診・触診の重要性を改めて認識していただきたい、というのが私の願いです。新しい診断学と従来の方法論とを有機的に結びつけてゆけば真に役立つ理論が発展するでしょう。

2006年7月3日
滋賀県立小児保健医療センターを離れてからあっという間に1年経ってしまいました。センター時代には遠方からたくさんの患者さんが来院してくださりましたが、その方々がいまでも水野病院に来院されることがあり、そのたびに懐かしい思いをしております。遠くから来院された皆様にはここで改めて感謝いたします。なぜかというと、実は滋賀県立小児保健医療センターは主として県外からこられた皆様によって救われ、そして発展していったからです。

もう少し具体的に詳しく述べましょう。1988年にセンターが創立され、私は診療部門の責任者として赴任しました。しかし、しばらくしてセンターの業績は思わしくなく、県からの補助金は私立病院の経営者が聞いたらびっくりするような額になっていました。当然監査などを通して外部からは閉鎖しようという議論が巻き起こってきました。当時私はセンターの経営責任者ではなかったのであまり深刻には捉えていませんでしたが、今思えば大変な状況だったと想像します。だいたい自治体病院というのはどこでも同じだと思いますが、そのシステムは今の医療情勢とは相容れないものです。例をあげましょう。自治体病院のトップというのは県知事であり、その下に健康福祉部長がいて、そのまた下に役職があって、その人々が「病院長」を動かしているのであり、「病院長」というのは名ばかりで、普通の会社でいえば○○課の課長もしくは係長みたいなものなのです。したがって、重要な事柄については決定権が無く、やれることといったら知れています。また悪いことに「病院長」の上司である県の関係者は、医療現場、そして医療そのものをほとんど知らない人々なので、何かを提案しようとするとそれを説明するだけでも大変な作業となって、計画が実現する頃にはそれは時代遅れとなってしまうのです。こうしたことはほんの1部であり、自治体病院が苦しい状況である理由を書いたら1冊の本ができあがってしまうほどです。私はかって、他府県合同の病院長会議に出席したことがありますが、ある県の総合病院の院長が「県立病院の存在理由などというものはあるのでしょうか?」と発言したことを覚えています。しかし、自治体病院は構造上、システム上成り立ちにくくなっている、という状況にありながらも滋賀県は随分小児センターに便宜をはかってくれたのは事実です。このことについては私はいまでも当時の県の担当者に感謝しております。

さて、病院経営の不振が続く中、バブルがはじけて滋賀県下の企業の業績も下降線をくだり、県の税金収入も減少してゆくと、ますますセンターの経営に対して風あたりが強くなりました。悪いことにこの頃、私の上司が病気になってしまい、1996年頃から私は病院の実質的な最高責任者をさせられてしまいました。私は元来、治療行為そのものが好きな徹底した現場の人間であって、これまでも管理とか経営などをする立場に推されたときはうまく断ってきたのですが、このときは逃げることも出来ず、やむなく引き受けざるをえませんでした。この時、小児センターの生き残りのためにはどうしたらよいか考えた末、選択枝は1つしかないと思いました。それは質の高い医療を行って患者数を増やす、ということでした。もちろんこのことは簡単ではなく、病院のハードの面、ソフトの面、そしてありとあらゆることをワンランクあげなくてはなりません。スタッフの何人かは、外国留学をして新たな技術を習得してきました。それまでやっていた早朝のカンファランス、学習会もいっそう内容の濃いものになりました。したがって、若い先生にとって勉強会は大変だったと思います。あとで知ったのですが、友人とスキー旅行の際にも教科書を持参して行ったそうです。ある先生は、それまでの人生でこれほど勉強したことはなかったと言っていました。読書会は独特のもので、たとえば米国の医師の学習会はjournal club といってたくさんの論文を分担して読むのですが、センターではそれはもちろんのこと、さらに世界標準の教科書を章ことに順番に読みかつ徹底した議論をするのです。たった1つの文を読んで、それについて30分かけて論議したこともしょっちゅうありました。たとえば「10代の後半の脳性麻痺患者の筋手術は意味が無い」という文章があると、その理由について徹底した議論をするわけです。これは若い医師のレベルアップにはよかったと思います。また、カンファランスはすべて英語でやりました。これは質の高い医療をするとなると当然国際学会を見据えていかなくてはならないからです。外国からの訪問者も大勢くるようになりました。また、スタッフは外国から時々招待講演を頼まれるようになりました。この場合、国際学会の講演だけでなく、呼ばれた大学、施設での講演とその後のカンファランスがあります。たくさんの症例を出して、こちらの意見を聞き討論するのです。学会主催者は高い金を払って招待しているわけですからできるだけこちらを利用しようとするのは当然です。国際学会の講演は準備期間があるので気楽ですが、問題はカンファランスです。いきなりたくさんの症例をだされて意見を聞かれるわけですから、それに耐えるだけの実力と英語力が必要です。センターの論議をすべて英語でやっていたのはこうした理由からです。今思うと、とにかく私たちはよく勉強したと思います。ソフトの面での刷新は順調に進みました。それは整形外科スタッフ全員が病院の状況を理解し最大限の努力をしたからです。彼らは皆一騎当千の有能な医師で、これといって自分に誇れるものを持たない私にとっては唯一の誇りでした。専門学会における最後の締めくくりでは、座長が、「滋賀小児センターの先生方はどう考えますか?」という質問を出し、彼らが「○○であると思います。」といって終わることが多かったものです。彼らが小児センターに集まったのは小児整形外科を学ぶ施設が少なかったことや、医局人事などその他もろもろの偶然の結果ですが、私は運よく本当にたくさんの優秀な部下に恵まれて幸せだったと思います。

ハードの面では最新の核磁器共鳴装置や三次元CT、最新式手術器具を導入しました。これも先に述べた理由で県への説得は大変だったのですが、何年かかけて実現しました。センターには病院を愛し、その発展を心から願っている職員が各部門にたくさんおりましたので、この人々の力が大きく働きました。こうして設備の面でも他の施設には決してひけをとらないようになりました。

1990年代の後半には口コミで県外から患者さんが1人、2人とこられるようになりました。やがて整形外科の入院患者数の6-7割は県外患者が占めるようになり、その頃から小児センターの経営も右肩上がりになってきました。県内患者が中心の時代には、子供の治療は「政策医療」(言い換えれば赤字覚悟の医療)が当たり前ということで経営が黒字になってゆくなどということは予想もしませんでした。本監査(これは県会議員のおこなうもので経営にたいして極度に厳しく、幹部はいつも怯えていたものです)もこのころは叱られるどころかむしろ褒められる監査になり、気分がよかったものです。こんなこともありました。あるとき次長が私のところにそっと近づいてきて「○○センターに金を払っておきました」というのです。最初意味がわからなかったのですが、実は、同じ県立の総合病院(小児センターの何倍もある県下最大の病院)の経営困難が続き、とうとう職員の給料が払えなくなってしまったので、小児センターが代わって支払った、ということでした。これはしばらくの間、私と次長だけの秘密事項でしたが、もうあれから随分経ったので明らかにしてよいでしょう。なぜかというと、こういうことが可能になったのも小児センターに県外からたくさんの患者さんが来てくださったおかげだからです。皆さんが小児センターだけでなく、県下最大の○○センターまでをも救っていたのであり、私はいつか皆さんに感謝しなければならないと心に決めていたからです。

県外の皆様が病気のお子さんを連れて滋賀県立小児保健医療センターに行くのは容易なことではありません。滋賀県に向かわれる途中で記録的な大雨にあって2日かがりでやっとたどりついたという大変な思いをされた方もおられました。子供が病気の場合は近所の病院にゆくのも大変なのに、便利な都会ではなく、遠方で不便な田舎へゆくわけですから物理的困難だけではなく、心理的にも耐え難いものがあったのではないかと想像します。でも、やがてお子さんが大きくなったとき「ありがとう」とご両親に心から感謝する日がくるはずです。

滋賀県立小児センターは、自治体病院共通の矛盾を抱えつつも、皆で作成した中長期計画を堅持し、自らの役割を見失わなければ現在の力を維持することは可能です。県外の皆様には、引き続き小児センターをよろしくおねがいいたします。本当にありがとうございました。

2006年6月25日
ブラジルに敗れ、日本代表は決勝トーナメント進出はならなかった。なんといってもオーストラリア戦で敗退したのが痛い。あれは完全にヒデイングにしてやられた、と言ってよいと思う。オーストラリアはゴール前に高いボールを上げて攻めてくるとだれもが信じていたし、実際にそうであった。日本も高さ対策は随分やっており、守備陣はよく対応していた。しかし問題は、「高さでくる」と、監督を初めとしてだれもが信じていたことが問題であったのである。現実はどうかというと、後半しばらくしてヒデイングは高さ攻撃と同時に、ドリブル突破する選手をたてづづけに投入してきた。それまで高さ対策をみっちりおこない、前半でさんざん高さで攻められた日本は、高さに対して反射的に対応する習慣(医学的には条件反射と言う)ができてしまっていたのである。やってみるとわかるが、高いボールとドリブル突破では守備の対応は異なる。日本選手に「高さ対策」の条件反射ができあがったところを見計らって、ドリブル突破ないしは低いボールで勝負にでられたからひとたまりもない。一気に3点入れられてしまった。
クロアチア戦は勝っても負けてもおかしくない試合であった。そういう時は「精神」「気持ち」「決意」「根性」などの面で、どちらが優っているかて勝敗が決まる。
ブラジル戦は完全に負けた。その理由は3つである。第一に、ブラジルの技術が確かであったこと。たとえば守備陣にとって怖いのはトップへの縦パスであるが、これが恐ろしく正確に入ってくるのである。また、1点目のロナウジーニョの逆サイドへのパスは技術の精度を象徴していた。第二に、プレーする場が確実に確保されていたことである。繰り返し言うが、サッカーは場のスポーツであり、いかにして自分のプレーする空間を確保するかが重要である。ブラジルの場合は誰かがボールを持つと必ず近くにフリーの選手(フリーでいる、というのは広い空間を確保している)がいるのである。したがって、ボールをもった選手は危険が迫ってもそれを回避するいくつもの選択枝があり、これがゲームを支配することにつながっていた。第三は精神の問題である。第一、第二の点で劣っても、第三の点で相手よりも上回っていれば勝つ可能性もあったかもしれない。神がかりとは、「気持ち」の問題である。もっともブラジル戦に関していえば必ずしも精神的に劣っていたとはいえない。玉田の先制点は根性が入っていたし、「絶対に入れるのだ」という気持ちが込められていた。

今回のワールドカップは残念であったが、いろいろなことを考える材料を与えてくれた。私たち整形外科医にとっても大切なことは、第一に、理論と正確な技術、第二に、チーム医療によって、いくつもの選択枝を確保しておくこと、第三に「治療を完遂するのだ」という根性、である。私は昨年滋賀県立小児保健医療センターを離れたが、あれから1年たって客観的に振り返るとスタッフはこの3つを高めるために毎日努力していたと思う。