4月15日(木) カイバル峠を越えて、アフガニスタン、ジャララバードへ

 

 昨日、15日、朝ペシャワールを出る。PIA(パキスタン航空)で帰りのチケットのリコンファーム、買い物などをしてから国境に向かう。ところが行ってみるとアフガンへの国境がしまっている・・・と言う。いきなり!だが、こんなことはしばしば起こるそうである。アフガンから昨日、私を迎えに来てくれた、ジャララバード常駐の日本人スタッフ、エリさんたちは少し困った顔をしていた・・・というのは、わたしのパキスタンビザは今日で期限切れだからだ。その後、すぐに国境が開いて、車が動き出した。列をなして動き出す。大きなトラックが多い。また、アフガンベッドやら椅子やら机も山積みに積んだような難民帰還トラック・・・が、子どもたちをその上に載せている。そんな車がたくさん列をなしている。昨年は見なかった情景。ペシャワールに住んでいたアフガン難民たちが帰りだしているようだ。いったい、どこへ帰るのか?これからどうなるのか?きっと不安も期待も荷物もいっぱいに積み上げて・・・でも、故国に帰っていく様子は、やっぱりいいものだ。

 ペシャワールのゲストハウスに一人でいて、BBCをつけていると、なんだか、世の中、イラクの誘拐事件だらけ・・・・みたいな気がしていた。日本から見ると、アフガンもイラクもあぶな〜〜い、という感じがするだろうが、こうして外を見ながら車で走っていると、ここアフガンの状況はイラクとは別だもの。あんなに不安に思うことはなかった・・・という気がしてくる。ただ、このパキスタンの国内にありながら政府実行支配の効かないというトライバルエリアのあちこちにある、砦たちを見ると、やっぱり別世界・・・ではある。こんなところを通って行くのかぁと。やっぱり、「どうしてわたしはこんなところにいるんだい?」という気持ちはどうしても起こってしまう。

 さて、カイバル峠を越えて、アフガンに入る。道沿いには、なんと!ケシ畑だらけ。もう花は散り、ケシ坊主がずら〜〜〜と、雁首をそろえてたくさんたくさん並んでいる。これは、花の頃はきれいだろうなぁ。もう収穫はしたのだろうか?とにかく緑のケシ坊主が幾千幾万とずっと広がっている。男たちが畑で仕事をしている。
 これは少々オープン過ぎる。さすがにアフガンでケシの取り締まりをするのは、かなり血を見る覚悟でないとできないのかもしれない・・・・と思いつつ・・・。

カイバル峠

 向こうの山々には雪がついている。手前はずっと相変わらずの乾いた風景。昨年感じたような、異次元の世界への驚き・・・みたいな驚きは感じない。「来た!」という喜びもあんまり感じない。なんだか何も感じないのはつまらないなぁ・・・と思っていたが、ジャララバードに着いたら、急に「あぁ、来たぞ」という気持ちがわいてきた。「あぁ、また来ました」・・・・と、そんな気持ちがわいてきて、急に、図書館の子どもたちのことが思われてきた。
 
 ジャララバードもなんとなく、前より活気づいて見える。道路の拡張工事をやっているとか、コンクリートで4階建てくらいのを作っているとか・・・男だけしか見えない景色で、ショッピングモールみたいのができても、あまり感動的ではないが、とにかくあちこち建設中・・というような、そんな動きが感じられる。ペシャワールでは、見える女性が増えているような気もしたし、少しずつ動いているような気がする。少なくとも、今、破壊しつつある状況とは違う。

 SVAのオフィスも宿舎も移っている。宿舎については、どちらがいいとも言い難いが、オフィスと図書館は引っ越して、広々して居心地がよくなった。スタッフも、ずっと居心地がよさそうに働いているような気がした。前のオフィスは暑くて、狭かったが・・・ 

 昼食後、ハニーフと一緒にコミュニティライブラリーへ。常連らしい、見覚えのある顔がいた。よかった。図書館スタッフのカビールもいた。また壁にはおおきなかぶが描いてあった。私は、ガラガラドンを話した。そのあと、カビールが、えらいジェスチャーつきで、おとこのこが銃をすててペンを持つ・・・という話を話す。動きすぎではあるが、画面はあまり揺らしていないし、彼なりにちゃんと工夫しているようだ。子どもたちもきっと何度も聞いているんだろうが、熱心に聞いている。その後、男の子が出てきて話をする。ここは、もうしっかりと、この子どもたちの場になっている。女の子たちも順番に出てきて、腕を組み、少しからだを揺らしながら、詩を歌う。次々と出てきて詩を歌ったが、それを見るハニーフさんの優しそうな顔がいい。彼は実は、私と同じ年くらいだそうだが、10歳くらい上の落ち着きと、人格と教養がにじみ出るような貫禄があって、どうも、同い年ですというのは、恥ずかしい感じ。とにかく、そのハニーフさんが見守り、カビールが熱烈にこどもたちに話をし・・・という組み合わせはいいかもしれない・・・と思った。この詩を歌うという伝統も、これはこのまま取り入れていくべきだと思う。


お話をするカビール

 子どもたちはその後、私に、アーラゴルダ ドーナドーナドーナ ザネムチョークシャダメスレポルカーナ・・・という歌?を教えてくれる。私は言えなくてさんざん笑われる。これはダリ語だそうだ。どうも、子どもたちはダリ語を話している子の方が多い気がして聞いてみると、ハニーフ氏いわく「町中ではダリ語が多い。地方に行くとパシュトゥー語が多い」と。ここジャララバードはパシュトゥン地域じゃないのか?と・・思っていたが、ここの言語環境は複雑である。
 あんまり一生懸命「アーラゴルダ ドーナドーナドーナ・・・・・」と教えてくれるので、いったいどんな意味かと思ったら、「うちのかみさんたら、肉の食い過ぎで、風船みたいに太っちまったぜ」とかいう意味だという。おかしい。


 宿舎に戻り、ビールでいっぱいやって、それからハニーフ氏の家へ。夕食はみんなで頂き、私と解子さんは泊めてもらう。手前の部屋に男たちが集まっている。ハニーフ氏の姉むこ、その息子、ちいさい息子、よくわからない若者、ハニーフ氏の息子たち・・・が、シートを広げて、ご飯の用意をする。もちろん、調理しているのは女の人たちだが、彼女たちは、絶対に顔を出さない。市川さんと、ワヒドとイブラヒム・・・外部からの男のお客がいるからだ。ご飯は、ドディに、オクラの煮物、肉団子の入ったレーズン入りご飯。つくねみたいなものと、野菜。肉とじゃがいもの煮込み。それにヨーグルト、そして、くずを練ったようなお菓子。そして果物。豪華で、なかなかおいしかった。
 エリさんに連れられて、私たち女どもは、お母さん、奥さん、お姉さん、そして美しい娘・・・に挨拶しに行く。隣の部屋にはどっちゃり女たちがいるんだけれど、絶対に顔を出さない。市川さんたちが部屋の中にいる間、私たちは、家を一周して、暗い中、これは、ブドウ(アングル)、これはザクロ(アナール)、これはオレンジ(ナレンジ)、これは夜はいい香りのする花・・・などなどと、解説してもらいながら回る。家の中では、女性の方が見られる範囲が多い。男性は、他人の家では応接間にしか行けない。
 ハニーフさんの奥さんは助産婦さんだそうで、NGOで働いているとかだ。なかなか一家そろって教養があり、そして、妻を職場に出すなど、進歩的?な家らしい・・・。
 私たちは奥の女の部屋(というか、家族の部屋)で、さんざん写真を見せてもらい・・・カナダ、ドイツ、オランダ、インドーーーあちこちに親戚が出ている・・という話を延々と聞き、誰が誰だかさっぱりわからなかったが・・・とにかく、アフガンの人々も世界中に難民を出しているのである。その後、エリさんも帰ってしまった。言葉が通じないので、会話をもてあましていると、美しいハニーフの姪が、ヘナをする?と、ヘナを持ってくると(髪にではなく)手のひらに描いてくれた。マッチ棒のお尻の方で、模様を描く。私は右手に描いてもらい、「しまった」と思った。まるで泥のようなドロドロのヘナが右手中に乗せられてしまい、そんな手では写真が撮れない。それに、このまま寝るのかしら?コンタクトがはずせな〜い。と心配になった。私のはギザギザ模様で、指先はこってりと丸く塗られている。トキコさんの方は、お花模様でかわいかった。30分も立った頃、水で洗うと、そこには、ヨーチンで描いたら同じだろうなぁ・・・というような色で模様が残った。マニキュアも塗ってくれたが、ケバイピンク、ラメラメを塗ってくれた。私の手にはまるで合わない。

 女たちは、家の中で、こんなことをして自分たちを美しく?して、時間を使っているんだろうか・・・女たちはますます着飾り、男は外に出さない・・・ということか?美しい民族だからこうなるのかな・・・・姪っ子である美しい女の子は、9年生というから中3くらいだろうに、十分色っぽい。

 眠くて仕方なかったが、なかなか寝せてもらえない。でも、11時頃には「もう寝ます」と、隣の部屋に寝かせてもらった。ハニーフさんは、ぼくが部屋の外に寝ているから大丈夫。何かあったら呼んでくれ・・・という。もし、日本だったら、女性の部屋の窓のすぐ外に男性が寝ていることの方が、いいのかなぁ?という感じだけど、ここでは、客人を「守る!」ためにそうするものなのだろう。外で男たちが何人か寝ていたようである。よく寝たような、あまり眠れなかったような不思議な夜だった。

 朝目が覚めると、窓の外で男たちが話している声がして、男の子の声もした。家族はうんと親密なのだろう。そして、大人たちの話を若者や男の子たちは聞いて、そして育っていく。お客へのサーブも、男の子たちは身につけていく。壁の外と壁の中の世界。

 朝、ミルクティー、ドディ、そして、フライドポテトの朝食。カブールから来たというハニーフさんのおじさんも加わる。仏陀・・・ゴーダマ・シッタルダという名前が話題に出て、そのお母さんはマヤだろう?などという。うわぁ、私たち一応仏教徒だけど知らないよぉ・・・・。「日本の仏教はどうしてどこからきたのか?」などという質問もされて、困る。・・そんな質問をされながらも、私たちは、「あの男の子は髭まだはやさないのかなぁ?」「でも、あの年ならこれから生えるんじゃないのぉ。日本だって、ひげが濃くなるのは、早くて中学生くらい?」・・・なんて、私たちはアフガンの男の子たちを見ながらそんな話をしているのであった。もし、それぞれの雑談を翻訳したら、大いなる違いがばれてしまうに違いないのだ。まぁ、向こうの雑談だって、どんなことを話しているかわかったものじゃないが・・

 庭には、果物の木々があって、お庭を散歩すると気持ちいいのであった。けれどもやっぱり、ここの塀の中ばかりにいるのでは・・・気が滅入ってしまうな・・・とも思った。

 宿舎に戻ってきたが、電気を得るために、ずっとジェネレーターが回っていて、うるさい。きっと全然休まらないんじゃないか・・という気がする。こういう環境で働くというのは、辛い。と、私はアフガン2日目にして、すでに思っているのである。悪いけど。本当にここで働いている方々には・・・・


4月17日(土) アフガンからの手紙・・・を書き始めたら、普通の記録になってしまった

 こちらは、金曜と土曜が休みです。金曜はイスラム教のホーリーデイであり、土曜もそれに続く休みなのか、金土が休み、そして、日曜日は日本の月曜日です。私は、木曜にパキスタンから国境越えをして、アフガン入りしたので、さっそく2日間休み。暇です。何がヒマって、やっぱりこんな異国に来て、宿舎から出られないほど、なにやらどうしようもないことはありませんね。

 私も、ペシャワールでは、とても不安になりました。ペシャワールで、3日間一人だったわけですが、(昼間は地元のNGOの受け入れで、子どもの家に通っていたが・・・)、夕方からは一人でゲストハウス。ゲストハウスは居心地のいい、また部屋も広くいいのですが、泊まっているのは私一人らしい。働いているフロントからお掃除係から、仲居さんから、全部男。部屋を出ると、そこはもう男の世界だから、あまり、気軽にほいほいと出るのもはばかられ・・・・、そしてテレビをつければBBCニュースは、イラクのニュース。40人もの人々がキッドナップされた・・・・3人の日本人はいまだにどうなるかわからない・・(アフガン入りしたその日に解放され、よかったなぁ・・と思いほっとした)という状況。世の中、軟禁状態の私と、そのニュースだけ。私はどうして、こんなところにいるんだろう?と思えてきてしまうのだ。

 おととい、15日にジャララバード入りしましたが、どこかにタリバンの自爆部隊とやらがいるかもしれない、(もちろん越えてきたあたりではないのですが)パキスタンの支配権が事実上は及んでいないトライバルエリア=辺境地域というのを越え、そして、アフガニスタンに入ったのだけど、どことなく、復興の勢いみたいなのが感じられた。同じ道を何台もの、帰還難民と大きなトラック山積みの家財道具をのせたトラック。人々が、自分の国に帰りだしている。そして、このくすんだような田舎町ジャララバードにも建設ラッシュが押し寄せている。そんな雰囲気です。

 日本から見ると、イラクもアフガニスタンも同じように、危険!と感じられてしまうけれど(イラクには実際行っていないから、知りませんが)、ここに大いなる違いがあるように感じました。アフガニスタンは、もう戦後で、そして、前進しはじめているようです。人々の気持ちは「破壊」にはないのです。これから壊すのではなく、作る勢いにあるような気がしました。もう、破壊に進まないことを、本当に祈ります。

 といっても、暇な休日。SVAの宿舎にいるのですが、まったく、二階のベランダの目隠しの隙間から、道行く人々が少し見えるだけ。でも、それさえも、ここアフガンでは、ベランダから顔なんかだしてはいけないわけです。こっそり見る。こっちも、ベランダで、ラジオ体操なんかをやっているのをうっかり見られてはいけないから、こそこそと、この塀の中にいるのに、さらにこそこそしなくてはいけない。まぁ、私はもう、(本格的に仕事が始まるのは明日だというのに・・)残すところ12日だし・・・・、仕事自体は、10日くらいだしー、なんて今から思っているのだから、ここに常駐している人々には本当に申し訳ない。

 ベランダから遠くに、山々が見えます。完全に砂礫の山。乾いた山。雲一つない空。乾いた空気。

  さっき、ワヒドと話をした。ワヒドの母系の人々は、パクティア郡(県?)の有力者だったらしい。パクティアの人々はすごく大きいそうで・・・私から言わせれば、ここで出会っているアフガンの人々は十分デカイのであるが、パクティアの人々はさらに大きいという。ワヒドのお母さんは彼よりデカイそうだ。女としてはすごくデカイ。おばあさんもデカイそうだ。そして、ストロングだそうで、どこかで盗賊の4人の男を棒で殴り倒して、「こんな女に初めてあった」と言われたの・・・タリバンを平気で罵倒して、タリバンにすごまれても、「でも、こっちはオマル氏も知っているのよ。わたしの名を知らないの!」ばかりに息巻き、その地位を聞いて、タリバンがおばあさんに平伏したの・・・・どこでも一人で行くとか・・・平気でモスクに入っていって、ムッラー(宗教指導者)の言うことが違っていれば、平気で反対するの・・・・すごい女性のようであった。アフガニスタンのような、こんなに男尊女卑の風土でも、そのような女性が出てくるのである。もしかしたら、放っておけば、女性が強いから男性がこうして「虚勢」を張っているのかもしれない・・・などとも思えてくるような女傑だ。本来、女性の強い人の方が、本来の真の強さを持っているのかもしれない・・・と思わせるような話だ。

 アフガンの女性にも、そのような女傑がいるのは、本当に頼もしいなぁ。押さえられていても、飛び出す人はは出てくるのだろう。

 それにしても、ワヒドの家族はみなオランダにおり、彼は一人なのだ。「みんな帰ってこないの?」と聞くと、弟たちはまだ学校に行っているし・・・・帰ってこないだろうなぁ」という。あんな一面のひげ面で、でも少年のようにクックックと笑い、大胆そうに見えるけれど、寂しい境遇なのだなぁ・・・と思う。


4月19日(月)

 夕べから、別動でアフガン入りしてカブールに行っていた小野さん、茅野さん、解子さん、そして市川さんがカブールから戻ってくる。一気に多くなるけれど、その割に静か。女性陣、解子さんとエリさんの話が、勢い良くておもしろい。

 さて、朝8時半から、ワークショップ。紙芝居。参加者はSVAアフガン、図書館スタッフたち、カビール、バワール、ハニーフ、サイーダおじさん。シャリファ、ワヒド、山本さん。

 紙芝居を作る。5〜6枚で作りましょう・・・ということにした。あまりにもみんなの絵のタッチが違うから一人1作にしようかと思ったけれど、それは大変だ。みんなを2グループに分かれてやろうというので、そういうことにした。

 ワヒド、バワール、カビールは、ライオンとおじさんの物語を。ハニーフ、シャリファ、サイーダの年上グループはアリと鳥の物語を、それぞれ4枚ずつで作る。はじめて少しして、あぁ、まずったなぁ・・・と思う。もっと、「遠くから見えるようにはっきり」「シンプルに」とか「大きく」とか、言うのを忘れていた。アフガンの人たちはどちらかというと、単純化した絵ではなくて、鉛筆の細かい線で、テンテンテンと、繊細な絵を描く。でも、今更書き始めてしまったものを、水を差すのも何だし〜〜〜と思いつつ、言わずにいた。午後、もう一作、作ってもいいか・・・と思ったりした。でも、紙ももう少し大きく切ったらよかったし・・・・などなど・・・・いろいろ反省。

 でも、だんだんできあがってくると、下手なんだけど、やはりそれなりに味がある。私には、このアフガンの雰囲気の絵が描けないと思う。バワールも、うんと絵は下手なのに、できあがってきてみると、なんともいい味を出しているのである。カビールも下手なのに、やっぱりなんだか味があるし・・・・そういうものなのだな・・・と思った。教育省からサイーダおじいさんが、とても芸術家っぽい絵を描く。できあがった作品を見ると、決して上手とは言い難くても、やはりあまり文句をつけたくない・・・・と、そういう気がするのである。

 というわけで、かなりアフガンっぽい紙芝居ができあがった。それはそれでオッケーだろと私は思う。 
 
 アリと鳥の物語の紙芝居

ライオンの話の紙芝居


 午後、コミュニティ・ライブラリーへ行く。いいな・・・と思うことは、スタッフの彼らが、「コミュニティー・ライブラリーに行く時間だよ、もう子どもたちが来る」・・・と気にしていることである。今日は、大勢の男の子たち、そして女の子たちも来ていた。でも、一つの部屋に入りきれるので男女一緒に座らせる。でも、女の子が前、男の子が後ろである。

 金髪の女の子が来ていた。私を見て、まるで人形のような目を大きく見開く。私は、突然、彼女の名前を思い出して、「マディナ?」と言うと、嬉しそうに頷く。それから、彼女はしばらく私をとても一生懸命見て、「き・よ・こ?」と言った。嬉しかった。覚えていてくれたのである。

 カビールはお話がしたくてしたくてたまらない・・・。まずは、「でてきたなーんだ?」(パシュトゥ語fで、ダガ・ツシェイデ?)をやるが、子どもの前に立って、彼ほど、嬉しそうに、本気になって一生懸命話す人も、そうそういないかもしれない・・・・と思うほど、やはり、子どもたちに、本当に楽しそうに話すし、そして、子どもたちもおおいにわいて聞いている。あのバンビちゃんのような目が、きらきらと本当に嬉しそうに話すのである。彼はぶきっちょで、プリンターは壊す、学校の扉も壊す、後先を考えないらしいが・・・・きっと、夢中になって他のことが見えなくなってしまうタイプなのだろう。

 でてきたなーんだ、手作り紙芝居、私の大きなかぶ・・・そして、絵本。バワールも、でてきたなーんだ、手作り紙芝居、ガラガラドン、絵本。二人とも悪くない。カビールの本読みだけでは疲れそうだから、バワールが、もう少し淡々と読む・・・それもいいと思う。こういう図書活動の、きっかけの一部になれたことは、嬉しいことだ・・・と思った。

 マディナと会えて嬉しい。赤ちゃんを抱いているマリーは、お母さんが最近焼身自殺してしまったそうだ。彼女はどことなく、やっぱり寂しそうに見える。前に、鼻に汗をかいて一生懸命歌を歌っていたその子の、その明るさがやはり抜けてしまった。かわいそうに。お父さんには3人の妻がいたそうだ。彼女には継母が2人いるわけだが、いつも笑わない妹を抱いてきている。彼女が妹を放っておくわけにはいかないのだろう。



4月21日(水)   

 午前中、モーバイル・ライブラリーについていく。2つの学校に行くことができた。1つめの学校は、女子校。ビビアイシャという学校である。当然壁に囲まれているが、中に入ると、明るい空間がある。そして、校舎の外の木陰でも、子供たちが勉強している。13教室、校舎が足りないそうなのだ。小学生は男の子もいる。上の子供たちはみな女の子である。午前と午後の二部制で、なんと全員で3500人だそうだ。どこの学校もとても多い。

まず、門を開けてもらって、中から、女の警備員?それとも男かな?と私は思ってしまったのだが・・・びっくりした。男の格好をして、サングラスをかけている女性なのである。アフガンにもこういう人もいるんだぁ、と思う。初めてみた。カビールもあとで、「あの人は、男の服を着ていて、ぼくは最初、男かと思ったんだ」と言った。どこの国にもそういう人はいるものなんだなぁ・・・と感心。

 校長先生らしき、コブラ・アマン先生の威厳はすごいと思った。はぁー、アフガンのこういう体制下でも、こういう女の人が出てくるんだな。と思った。このアフガンというところのすごいところはそういうところだ。こんなに女性が出られないこんな場なのに、どうしてこういう女性が出てくるのだろう?本当にその先生の顔の威厳ったら、ないのだ。ここは以前はずっと女子校であった。そして、タリバンの時代は働く女性は全部否定された。そして、そんな時代を経て、再び2年前から、女子高として再開しているそうだ。
 カビールはもう10回近く、この学校に来ているとかで、女子生徒たちも、カビールの名前を覚えている。カビールがまず出てきたなーんだ。そして、そのあとに、紙芝居・・・ラオスの人が作った紙芝居で、昨日私が一回見せただけの「ありと魚」をやる。上手。お話のセンスを身につけているようだ。校長先生も、何も言わずに窓から見ている。私が「おおきなかぶ」をやると、女の子たちは、一気に楽しそうなクスクス笑いになる。そして、がらがらどん。校長先生も、いつでもまた来てちょうだい、あなたはウェルカムよ、と言ってくれる。また、女の子の一人が、また来てね・・・という。それを聞いてバワールが、「不思議だな。どうしてこんなにみんな喜ぶんだろう?」と言う。私もそう思う。不思議である。その威厳のある校長先生が、認めてくれたのは嬉しかった。

 そのあとは、車で再びかなり走り、小麦畑やらなにやらを通り過ぎ、アブデレヒムニアゼという学校へ行く。ここは、後で聞いたところでは、ムジャヒディンの子供たちが来ている学校だそうで、写真も一切とらせてもらえなかったし、それどころか、バワールさえも「若いから」と、教室に行かせてもらえなかった。そんなところでも、カビールはいけるのである。このクソまじめなお話お兄さんの、地道な努力がここまでになっているかと思うと、それは本当に感心した。校長室にいる、人相の悪い校長先生らしき男と、その隣で何かを一生懸命に書いていた二人の白いひげの先生??たちを見て、私は、星の王子様の中に出てくる、なにやらずっと書き物?をしている白いひげの哲学者・・・がいなかったっけ?・・・を思い出した。この世にこんな人々がいるんだぁ・・・という感じで、なんとも面白く感じ、写真を聞かずにとってしまった。それが、あまりいい印象にならなかったのだろう。写真をとるな・・・といわれて、失敗したな・・・と思った。最初は、「女の子だけなら撮っていいが、男が女の子たちに読んでいるところは撮るな」といわれ、その後、「やっぱり撮るな」になった。後で、ハニーフさんが言うところでは、以前、ここに宗教を教えるために、とても年寄りの男の先生が入った。そのことだけで、ムジャヒディンの親たちは、女の子たちを学校へやらなくなったそうである。そして、先生たちが、「本当にじいさんだ」と、親たちにその爺さん先生を見てもらって、納得してもらったとか、そんなこともあったのだという。そうならば、まだ、全然爺さんではない、若いカビールがこうしてやってきて話ができるということは、またまたすっごーいことである。

 案の定、校長もたいして図書館活動などに関心はないらしく、せっかく学校に貸し出している図書箱が校長室の、あの無愛想な校長の後ろに置きっぱなしだったらしい。子供たちは読んだことがないという。それを聞いて、カビールは怒ったように「えぇ?一回も読んだことがないのかい?」と言うので、「それは子供たちが悪いんじゃないよ」というと、今度は、その女の先生にも、「どうして、使わないんだい?」とでも言うように、必死な顔をして言うので、それも女の先生に言っても、それもきっと仕方がない・・・やっぱり、上の校長の理解があるかないかが、かなり左右するのである。

 ここは1400人ほど。午前中は、女の子、午後は男の子だという。

 
「でてきたなーんだ」を話すカビールと真剣に聞く男の子たち




 午後、コミュニティライブラリーには行けなかった。48時間の脅し情報が入ったからである。
 仕方ないので、オフィスで、紙芝居と絵本の違いを、アフガン人のスタッフに語ろうと思ったが、実際、彼らにどれくらい伝わったかはわからない。私自身は面白いと思ったのだが、実際に伝えようとすると難しいものだ。

 

 

4月22日(木)

 朝から、結構疲れている。そこはかとない?疲れが堆積している気がする。

 というのに、さっき、ワヒドが「ヤスイサーン、When are you coming back?」という。わぁ・・・・まいったなぁ、と思う。ここの人々を私は好きだけれど、私は帰ってくるのだろうか?

 きのう、話し合いを横で聞いていて、わたしは「図書館っつぅものは、1年や2年で達成できるもんじゃないんだ!でも、みんな、それをわかっていない!」と言いつつ、自分も、今とてもイージーに今始めようとしているのではないか?と感じた。常駐もしないのに、ラオスのモンの村、ゲオバトゥ村で図書館をやろうとしている。始められるのだろうか?でも・・・・私は、子どもたちから入っていけばできるような気がする。・・・・子どもたちは、誰が難と言おうが、もう、お話が楽しいということ、それから得るもの、その価値を、すぐにわかってしまう・・・・・だから子どもたちにお話の楽しさを伝えたら、きっと活動ができるのではないか?という漠然とした、そして本当は確固とした思いがある。私は、そこから入ってみたい。そんな、おはなし活動がしたいと思う。

 漠然と、でも、もう一人では限界があることを感じている。こんなお話活動をもっと誰かにシェアできないだろうか?と感じている。もし、私みたいな人、つまり、カビールみたいな人、つまり、子供たちにお話を一生懸命話す人・・・が増えていけば・・・なんとかなっていくような気がするけど・・・・それも簡単なことじゃない。

  午後、結局、セキュリティープロブレムで、私はコミュニティライブラリーにいけない。そして、ほかの人々はみな出払ってしまった。

 午前中、先生のためのワークショップのためのワークショップ。はっきり言わせていただくと、私の頭は、この手のワークショップ向きではないのである。How to organize workshop なんていうことは、一番苦手なことなのである。

 でも、だいたい彼らはお話の意味だの、大切さ・・というのはわかってくれた気がする。あの、教育省の気にいいおじさん、サイーダ氏も、私が話しをするときの、子供たちの様子を見ていて、とても嬉しそうにしてくれる。その顔がまたいいではないか。アフガンにもこんなにやさしい心持の、おだやかそうな人がいるんだなぁ・・・・・・。バワールも、「どうして子供たちはあんなに喜ぶんだろう?」と、本当に不思議に思っているようである。私もそう思う。子供たちの顔は、お話をする前と後ではぜんぜん変わる。ただ、お話を語るということと、聞くということの、そういう関係になるだけなのであるが、そのことだけで、不思議なことに、その短時間の間とは思えないような、つながりができるのである。そのことは、お話をする人でないとわからなような、醍醐味である。お話冥利につきる・・・・というやつである。・・・・・・そんな子どもたちの表情を見ると、髭面の大人たちにもお話の大切さ・・・が通じるのだろう。

ワークショップを終え、私は今、パソコンを打っている。さっき、爆発音がした。それが、ナンなのかはわからないが・・・・外は雨が降り出している。今日も、外には出られない。48時間の警告中なのだ。

4月23日(金)カブール

 カブールのゲストハウスにいる。とても疲れた。道がガタガタで、混んでいて時間がかかって、そして暑かった。かつ、ランクルじゃなくて、車体の低い車だったせいまるが・・・・

 めちゃめちゃ車が多い。どでかい車が細い道にずっと数珠繋ぎ状態になっていて、そして、車があちらもこちらも進もうとするから、にっちもさっちもいかない・・・という状態。そして、カラシニコフをもったわけのわからない連中が、車の窓をどんどん叩き、「さがれ下がれ」という。まったく、あれが交通整理?と思ったら、さにあらず、後ろからきたポリスだか軍閥だか知らないが、その車を通し、自分たちもそれと一緒に走って行った。ワヒドが、「外国人が乗っているのがばれると、泥の中にはまったときに誰も手伝ってくれないから、窓に目隠しをしろ」と言う。それで、ハニーフさんの持っていた白い布を窓にはさんでカーテンのようにした。どのみちわかるんじゃないかな?とは思ったけれど、エリさんいわく、「ランクルだとみんなすごく見るけど、まさか、カローラに外国人が乗っているとは思わないのか、あんまり見ないですよね」と言う。車が、ビヨーンと追い越しをかけたとたん、前から警察らしきどら男が、バイクに乗って、ほとんど車のバンパーにぶつかる勢いで走ってきた。きっとぶつかったと思う。それで、「チュリタゼ(どこ行きやがるんだぁ?)」と、ものすごい剣幕で怒鳴りつけた。運転手やワヒドも言い返していたが、お前たちは、「どうしてこんな追い越しをするんだガガガガガガ・・・・」といい、車体を蹴る。他の警官もカラシニコフの柄のほうで、前の車をなぐり、そして蹴飛ばす。こんな荒い警官たち!もう、八つ当たりのし放題という感じ。ここまで下劣な交通整理は初めて見た。

 こんな交通整理じゃ、きっと、カラシニコフもぶっぱなすのかもしれないなぁ・・・・

 ところで、今朝、ジャララバードを出る前に、ドォーンと音がした。昨日のパーンは、タイヤの破裂のような気がしたが、このドォーンは、エリさんいわく、ロケット弾という。48時間内の最後にどこかに落ちたのだろうか?

 ちなみにカブールではどこかの役所の前に、爆弾を置こうとした人がつかまったそうだ。

 ハニーフの弟の家で、昼食をご馳走になる。おいしいし、腹が減っていたのでおいしく食べたが、そのあと、どうも気持ち悪くなった。料理がしつこいのと、そろそろ疲れが来ているのだろう。

 カブールの市内を回る。ワヒドの家に行った。カブールの山々が見渡せる頑丈な高い壁に囲まれた広い一角だ。家は全部崩れている。このあたりは、ソ連大使館の近くで、ソ連が接収したりして使った地域だそうで、そのために、ひどく爆撃の被害をあびたところなのだという。ワヒドの家もことごとく壊れている。レンガと土壁?でできている家なので、その壁は残っている。ワヒドは、「これはぼくの部屋だったところ。こっちは台所で、ここは廊下・・・これはショキドール(お手伝い)の部屋で・・・」と残っている壁の残骸に区切られている空間を指して言う。つらいだろうなぁ・・・と思う。その部屋の記憶とともに、そこに暮らしていた家族たち。温かな日々・・・を思い出すだろう。庭にはたくさんの木々が木陰を作り、木漏れ日が差し込んでいただろう・・・今は、何もない。ただ牛の糞だけが落ちている。ワヒドの家族は、みなオランダやほかの国に行っているそうで、彼は一人でアフガンに残っている。その家族と暮らした幸せな日々の記憶がつまっている、その空間は、今はただの崩れたレンガに過ぎない。

 空だけは青い。

 戦争の傷跡は深く、そして、壊れた日々は二度と取り返せない。

4月25日(日)

 昨日、カブールから帰り、超疲れて・・・うんと寝たにも関わらず、相変わらず疲れたまま目が覚めた。疲れが堆積して累積して・・・そして、顔にはぶつぶつができ、それでまたがっかりして疲れている・・・・という感じ。肌が悪いというのは、うんざりする。アフガンの水は汚いという。「いつ作ったかわからない水道管に、いったいどれくらいねずみが死んでいるかわかりませんもんね」・・・といわれると、おぉ・・・と、今、ミネラルウォーターで顔を洗っている。ぶつぶつが大きくなってしまったら、もうますます元気点滅になってしまう。(山本さんにもらった薬でかなりよくなったが・・・)

 というわけで元気がないのだが、紙芝居作ってほしい・・・といわれ、ICLCの紙芝居を紙に張り付ける作業をする。まず、紙を切るのが一苦労。私もうまいとはいえないが、これには、ただ、長いしっかりした定規と、そして、下に敷くボードとカッターさえあればいいいのだが、それがない。一枚一枚切っても埒があかない。そこで、私がある程度重ねてカッターで切り・・・こんなことが、アフガンの人は下手だ。あとはみんなに貼ってもらう。ハニーフさんが実は、紙芝居の構造(絵と文字の関係)をよくわかっていなかったらしく、バワールに説明されている。まぁ、そんなものかも・・と思う。やはりこういうことは、実際に子どもに接していないとわからない。

 私は虹の卵(セロハン紙で作る、光を通すと虹みたいに見える飾り)を作る。カビールが目を輝かせて見ている。これもやべさんに教えてもらったものだが・・・カビールは「あなたはすごくいろいろ知っている」と尊敬!!のまなざしをむける。あのバンビちゃんみたいに、まつげの濃い下の、目が、彼はそんなとき、少年のようにきらきらと光るのである。

 午後はコミュニティライブラリーへ。


4月26日(月)

 

 午前中、スタッフとまとめの話。

 午後、コミュニティライブラリーへ。

 最後の日、子供たちは絵を描いていた。私が「いろいろな活動を入れた方がいい」と言ったのをさっそく受けたものか?カビールは、男の子の輪の中で、女性のサリファさんは、女の子の輪の中で、本人も一生懸命絵を描いている。こういう姿はいいな・・・と思う。自分も一緒になってやることができる人と、上からやらせるだけの態度の人は、やはり子供たちの受け入れ方が違う。女の子の小さいほうの一部の子は、九九をホワイトボードから写していて、写し終わるとサリファに見てもらい、そして座って、九九を唱えている。知ることは楽しいことなんだな・・・・

 私は、最後の日、マーリが来ていなくて少し残念だった。このお母さんが焼身自殺してしまったという、この子は、いつもあまり笑わない妹のサビナーを抱いてきている。いつも黒っぽい服を着ている。図書館では精一杯楽しんで帰りたいのだろう。今回、毎回、一生懸命、私に詩を教えてくれた。私が言えないと、楽しそうに笑った。きっと相手にしてくれる人がいるのが嬉しくてたまらないに違いない。家では、二人の継母がいるらしいけれど、妹の世話は彼女がみないと放っておかれてしまうのだろう。いつも、妹を抱いている。その彼女の姿が見えなかった。

 さて、男の子が、がらがらどんを後ろからめくりながら、やぎが橋を渡る絵になると、ガタンゴトンと言っている。よく見ると、後ろからめくっているではないか。こちらは右から左へ・・と進むから、一般の横文字絵本とは逆の方向なのである。そこで、私が手にとって話しをした。それから、「おおきなかぶ」を話すと、子供たちも話したがる。いつのまにか来ていたマリーは自分が話したくてたまらない。絵本を片手に、妹を片手に話をしている。

 とうとう車がきた。私が子どもたちに、「サバタ コルタ ザム、サバタ ナ ラズム(明日は家に帰るから明日は来ない)」というと、いつ来るの?いつ来るの?と聞く。それに、答えられない。いつかまた来るのだろうか?子供たちを前にすると、また来たいと思う。でも、今度来るときに、このマリーに会えるのだろうか?他の、マディナや、シャバナ・・・きっとこの子はもう娘さんになってしまってこられなくなるのではないか?
 そんなことを思うとさびしい。

 今度来るとしたら、一週間、子どもたちと一緒にベターっとこの場にいてみたい。

 女の子たちは、いつもと違って送りに来なかった。いつもは外まで走り出てくるのに・・小さな男の子だけが走り出てきていた。

 私のアフガニスタンは、こうしてまた過ぎた。最初は、本当に、「アフガンが終われば、肩の荷が下りる・・・」と思っていた。それはそうとしても、やはり回を重ねるごとに、またそれで背負ってしまうこともあるのかとも思う。次回があるかどうかは知らないが、回を重ねて、よりその存在を近くに感じてしまう。

「この布で顔や髪を隠さないと、アフガンの人はいったいどういう風に感じるのだろう?」とか、「外国人の私たちとは握手するけど、アフガン人の女が、他の人と握手したり顔を出して働くことを、面白くは思わない男たちは、実は私たちをどう思っているのだろう?」とか、「イスラム教でない人々のことをどう思っているんだろうか?」とか・・・・私には理解できないことは、きっと、いつまでたっても理解できないだろうと思う。アフガンには理解できないことがたくさんある。でも、理解できないからって、通じ合えないわけではないだろう。理解できなくても、通じることはあるんだな・・・と、思った。

 でも、理解とか知るとか通じるとか、また好きになる・・・とか、その手のことは、会った回数や時間には関係がないような気がする。もちろん一緒に長くいて、よりわかるようになる・・・とか、よりわかって嫌になる・・・とか言うこともあるが・・・国境やら文化や宗教の違いというのは、障害にはなるけれど、それを越えて通じることもできる・・・・そうあってほしいし、子どもたちは、言うまでもなくすんなりとそんな違いを越えてしまっている。

 私は不思議である。あれだけのことで、どうして、変化を起こすことができるのか?不思議。
 実際にやることは、絵本を見せながら、「おおきなかぶ」や「さんびきのやぎのがらがらどん」をカタコトで話して、歌をうたい・・・とそれだけなのだ。けれども、それがかなりの力を持っている。国やら文化を越えて、どこの子どもたちの心にかなり大きなものになるらしい。それは、いったい、ナンなのだろう?
 お話をするだけで、あんなにご褒美をもらっていいのか?と思うくらい、子どもたちの顔が嬉しそうな顔に変わる。それは、不思議なくらいなのだ。今回、バワールが不思議がっていて、またサイーダさんも不思議がっていた。子どもたちの姿が、大人に大切なものを伝える。子どもたちがお話を聞く、その姿を見て、髭面の男たちに伝わるものがあったに違いない。それは、きっと理論で「お話は大切です」と言ったところで、伝わらないものであろう。
 

 

 空を広げればいいんだ。空はつながっている。モンの人の空も広がらなくちゃいけない。私の空も・・・アフガンの空はチベットに通じ、そして、ラオスへ・・・そして、海をわたって、日本にも東チモールへも通じている。太陽が照らしている。雲が動き、風が吹く。それぞれの木陰がある。でも、空はつながっている。
 そんな気持ちで、おおきなかぶをひっぱり、そして、そこのお話を聞き、そして、おはなしをして子どもの笑顔に出会う、その喜びが、それぞれの木陰にある・・・そんな風になったら、素敵だな。

 そんなおはなしの木陰が、あちこちの国にできるといいな・・・・

 私にはたくさんのことはできない。できることは限られている。でも、その、できることを、つながっている空の下でやっていきたい・・・・そんなことを、アフガンの空を見て思っていた。

 やっぱり、こうしてアフガンに来たことに、ありがとうっていわなくちゃいけないな。
 デーラ・マナナ  ありがとう

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