ラオス日記   
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:2003年12月

色の変わっている日にちが読めます。

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12月17日(水)   シヴィライ村

 シヴィライ村を訪ねる。二人のモンの女性の話から

 ジュア・ションはハンセン病を患ったおばあちゃんだ。かろうじて見えていた片目も白濁して、ほとんど見えないという。片方はもう完全に落ち込んでいる。これまでうっすらと見えていたのが、見えなくなったのは数日前からだといい、よくなるのだろうか?それとも?・・・・・・でも、彼女の家は前みたいに蜘蛛の巣がはり巡らしたような家ではなく、すっきりと明るく片づいていた。5月から、息子夫婦が移り住んできているのだ。

 息子が生まれてまもなく発病し、家族から離れて一人療養所に送られ、その後、難民になって、タイの難民キャンプで、いつも一人で暮らしていたジュアばあちゃん。30年も天涯孤独だったジュアばあちゃんは、今、息子夫婦と孫二人に囲まれて住んでいる。本当に、人生最後に救われることってあるのだな・・・と思う。息子、チュー・ムアと妻、トン・リー、そして、娘二人。ジェー(5年生)、下のシェンは1年生。この4人が、ラオス北のサムヌアのモンの村から、ここシヴィライ村に移り住んできたのだ。

 息子チュー・ムアの面差しは母とよく似ている。目が茶色く顔の平たい、優しそうな顔をした人だ。ジュアばあちゃんは片目は陥没し、片目も白濁してしまっているが、きっと美しい人だったに違いない。美しく優しい気だての、もしかしたら評判の娘だったのじゃないか?・・・でも、結婚し息子を産んでから、ハンセン病を発病し、肉親と引き裂かれた。まだ乳飲み子だった息子をおいて、家を去らなくてはいけなかった。夫は再婚した。月日があまりにもたって、消息もわからなくなった。でも、30年もの月日を経て、タイの難民キャンプから帰還してくると、どこからか聞きつけてきた息子が訪ねてきた。ほとんど記憶にはなかったろう母。もう年老いた母は、目も落ち込み、手は曲がり、病の跡が残る。でも、息子はしばしば訪ねてきてくれた。そして、こうして一緒に住むことになったのだ。

 トン・リーという嫁さんが、なかなか気持ちのいい明るい人で、さっそく食事に呼びに来た。これまでも、私は何度もジュアばあちゃんの家を訪ねているが、食事を出してくれたことはなかった。本人も遠慮していたのだろうし、また、老人一人の家で、そんな人に出すような食事を作る余裕などなかったはずだ。今度は、お嫁さんが、さっそく食事に呼んでくれるし、私に「ぜひ泊まってよ」と言う。まったく、このおうちに泊まるなんて考えもしなかったことが起こるものだ・・・と思った。でも、本当に私も救われたようにほんわかうれしい。

 これまで、いつも、たった一人でごはんを食べていたおばあちゃんが、「ニア、ノモウ(お母さん、ご飯よ)」と呼ばれるのは、きっとどんなに嬉しいことだろう。私は、おばあちゃんにも聞こえるように、嫁に向かって、
「本当にあなたは優しいよね。こうして、ジュアばあちゃんがみんなと一緒に住めて、私も本当に嬉しいよ。でも、この村は畑を作る土地もないし、貧乏暮らしなのに、サムヌアのみんなは行くなって言わなかったの?」と聞くと、
「言ったわよ。ハンセン病の人のところなんかに行くなって言ったわよ。でもね、私は気にしないし、いくら土地がなくても、お母さんと住めるんなら、その方がいいよ」
とトン・リーは明るく言った。もしかしたら、彼らはサムヌアよりも都会に近いビエンチャンに出てきた方が暮らしがいい・・・と思ったのかもしれない。いずれにしても、発病し、肉親と引き裂かれて、長年、天涯孤独の人生を送ってきたジュアばあちゃんが、その、きっともう人生の先が長くはない日々を、こうして息子夫婦と住むことができたのは、人生捨てたモンじゃないと思った。

 夜、ボー・リーの家に泊めてもらった。寝ようとすると、妻のウーが話してきた。
「きよこぉ、私は学校へ行けなかったの。私は計算もラオス語も知らないの。兄弟は12人で1人死んだから、7人息子4人娘なの。男の兄弟はみんな学校へ行けたけど、親は女には教育はいらないって、行かせてくれなかった。でも、今、フランスにいるお姉さんは、学校へ行かせてくれないんだったら、死んで男に生まれ変わって学校へ行くって言ってがんばったの。それで、学校に5年生まで行かせてもらったんだけど、残りの私たちは行かせてもらえなかった。私の弟が学校なんか行きたくないって言うから、その時、私がかわりに行って、学校の先生に、私の名前を1年生に登録してもらったの。そしたら、その後、お母さんにぶたれて怒られた。本当に悲しくて泣いたわ。それで、私は学校へ全然行っていないの」と、ウーは言った。

 彼女は明るくて、会話も楽しいし、賢そうな人である。学校へ全然行ったことがなかったとは知らなかった。だから、今も字も書けないし、ラオス語もあまり話せないし、計算もできないという。とても情けない思いをすることがあるわ・・・と。

「今年は米がよくできてね、100袋以上もできたからよかったけれど、4回草取りして本当に休む暇もなかったわ。それに来年はね、もう焼き畑をする森がないし、それに2005年には焼き畑はもう禁止っていう話だわ。私がもしラオス語がちゃんとしゃべれて計算ができるんだったら、あれこれ買い付けてきて市場で売る商売人にきっとなっていると思うんだけど、私は計算ができないし商売人にはなれない。それであれこれ考えて、空いている土地で、豚小屋や鶏小屋を作って、養鶏や養豚をしたらどうかと思うの。そう思い出したらね、あーすればいいんじゃないか、こーすればいいんじゃないかって考えて、夜眠れなくなるのよ。小屋の屋根にする茅 はもう自分で刈ってきたの。ボーは少しは家で休めよって言うんだけど、私はじっとしていらんないんだわ。やりたいの」と言う。
「で、足りないのはね。資金なの・・と。300ドルくらいほしいんだけど、私は150ドルしかないんだわ」。

 彼女のような「やる気」に投資するのは、きっとすてきなことだろう!と思う。もちろん、回りの人たちとのかねあいがあるのだが・・・・彼女は本当に賢い人なんだろう。ただ、学校へ行けなかったから、文字やら計算やらを必要とすることはできない。養鶏や養豚のことを他の女の人に言ってみても、誰も関心を示さないから、自分でやるという。他の人を誘って失敗したら大変だから・・・と。そう、何でも新しいことは、誰か一人が始めないといけないのだ・・・。
 もう亡くなった彼女の父は村一番の働き者だったそうだ。他の人がやらなくても一人で道を作ったり、黙々と仕事をした人だそうだ。そして「娘や、あまりほしがってはいけないよ。ただ黙々と働きなさい」と言っていたそうだ。

 きっと、今後、これまでのように、みんながみな、同じように焼畑をやっていた状況じゃなくなっていく。これからは、自分でどう考えてどう動くことができるのか?それがきっとこれからの彼女たちの分かれ道になっていくのかもしれない。
 ウーの夢は応援したい。自分でやりたい、と思ったことを、あきらめてほしくないから。その時は、貸すよって言ってしまったけれど・・・・・どうしよう?

 モンの女は大変だけど、でも、頼もしいのも女の人だ。

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12月19日(金)   ビエンチャン

 電話を取った。電話の向こうは何も言わない。ハロー、もしもし、と繰り返していると、しばらくすると、キッコーと電話の向こうが言った。モンの女性だ。何か大変なことでも起こったのか?と、「ウアリジャー?(どうしたの?)ムアダッチ?(何があったの?)」と少々焦った声で聞くと、「チムアダッチ(何もないわよ)」と。ミーだった。ミーがサバナケートから電話をかけたきたのだった。嬉しかった。

 ミーはシヴィライ村でただ一人、高校を卒業し、また進学した、現在唯一の女性だ。なんとか看護学校に進んだはいいけど、家からよほど遠い、ラオス南部のサバナケートの学校へと振り分けられた。モン族は住んでいない地域だ。

 ミーは学校へ着くと、さっそく日本に手紙を書いてきた。「さびしくて、さびしくて、いたくないよぉ。帰りたいよぉ」と書いてあった。。私はミーの手紙に返事を書こうと思いつつ、ずっとのばしのばしにして、まだ書いていなかった。「ごめんね」というと、「チウアリジャ。それはいいのよ・・」と。
「昨日とおととい二日間、シヴィライ村に行ってきたんだよ。今日帰ってきたところ、それからまたモンの正月に行くよ。ミーは帰って来られないの?」と聞くと、
「帰りたいけど、試験もあるし、帰れないよ」と。ミーにお金があるの?と聞くと、学校では、制服をあれこれ、靴も指定靴を買えとか、いろいろ言われて、もうお金がない・・・という。指定の赤いシンは買ったけれど、靴を買うお金はなくて、どうしようもない・・・・と言う。かわいそうに。どうして、今のラオスの教育はそんな外見にばっかりお金をかけさせるのだろう。そんな余裕のない子がたくさんいることがわかっているくせに。

 ミーに「お金なかったら、お金送るよ?どうやったらいいのかな?」と聞くと、「いつまでいるの?」と聞く。「1月9日に帰るよ。」と言うと、「モンの正月が終わったら、会いに来てよ。時間ないの?」と言う。「うーん、わかんないなぁ。仕事があるし・・」と言うと、「会いに来てよ」と繰り返し言う。「「お母さんとキヨコが恋しいんだよと・・・・。だから会いに来て・・・」と、何度も言う。そして、「お正月には帰れないって、お母さんに伝えてね」と言った。きっと、それが一番言いたかったのかもしれない。本当は、家にかけたいのだろう。でも、村には電話はないし、家にはかけられない。唯一電話がつながるかもしれないのは、私だったのだ。ミーはよっぽど人恋しいのだ。家にかけられないから、私にかけてきたんだろう。ミーはなんだか泣いているみたいだった。そして、声が続かなかった。私は、「長くなると、お金が高いからね。またね。元気で。シンチードゥア」と言った。

 私は、結局、たいしたことができなくても、大きなことができなくても、何にもならなくても、やっぱり一人一人との関係を大切にしていくことが、私のやらなくちゃいけないようなこと・・・のような気がした。ミーは難民キャンプで私が働きだした頃、まだよちよち歩きの女の子だった。その頃から知っている女の子なんだ。私は、ミーをなんとしてでも、訪ねてあげなくちゃいけないような気がした。

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12月20日(土)    ビエンチャン

 朝、5時頃。まだ暗い。しきりに鶏が鳴いている。一番鶏はきっと3時頃には、ひとしきり鳴いているはずだから、きっと二番鶏?それにしても、ここビエンチャンの大家の鶏はそろいもそろって下手だ。コケッコーコエオーオエ、オゲオゲオー、コケコッコエ、オエオッオエー、コケッコーグエエ・・・・・まぁ、競い合って次々と鳴くのだが、まともに、コケッココーと高らかによい声で鳴くものがいない。どこかはずれている。中にはでかい犬の遠吠えかい?と思うほどの太い声もいる。その合間にピヨピヨピヨピヨ・・・・と、ヒヨコたちの声がかわいらしく聞こえてくる。鶏がどうやって鳴き方を覚えるのか、知らないけれど、ひよこの頃から聞き続けている、親や近所の鶏から学習するとしたら、この大家の家の鶏が代々下手なはずである。まともな、コケコッコーを聞かずに育ってきているのだから。ここ数年、このあたりで、まともなコケコッコーを聞いたことがないのだが、鶏は代替わりしているはずであり、なるほど、音痴も一代にしてならず、というわけかな・・・と、今日、冷え込むビエンチャンの朝、布団の中で、うつらうつらと考えた。

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 2003年 
4月(3日坊主だったら・・・・それまでです。すいません)


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4月18日(金)「東京からバンコクへ」

新宿から朝、7時10分のリムジンバスで成田へ向かう。私は成田への高速道路から、東京タワーを見るのがけっこう好きだ。その時々によって、リムジンバスが通る道が違うのか?いや、私が窓の外を見る場所が違うのだろうが、その時々によって、東京タワーは違って見える。

 今日は、やけに近くに見えた。ほっそりした、でも土台のしっかりした曲線、オレンジ色のペンキが、あぁ東京タワー。小さい頃の333メートル、世界1?(日本1だっけ?)の東京タワーはもう全然高くもないが、やっぱり東京タワーは東京タワーだ。

 バスはもう、**川(隅田川?)の橋を渡った。川の向こう岸に取り残された東京タワーは、ビルの狭間から、でも、しっかりと脚をふんばって見えた。ドングリの背比べみたいな高さだけれど、それでも高い!じゃあないか・・・と思う。ひいき目?

 だんだん遠くになりながらも見送ってくれるその姿は、飛行機の上から見る富士山に似ている。富士山はいつも、雲の上に1つ頭をのぞかせて、かなりの時間ずっと見送ってくれる。そういえば、東京タワーの裾野は、富士山の裾野をイメージしているんだろうか?やっぱ日本人、富士、桜でしょ・・・なんて、思う頃には、東京タワーは見えなくなった。

 今、八重桜が咲き誇っている。ボタン、ボタンと重そうに花の束をこんもりとさせて、枝をしなわせている。そうそう簡単に散るものか!ソメイヨシノは散ったけれど、ほら、まだ桜はここにいまっせ。見ておくんなせぇ・・・花見したらどうかい?とでも言うように咲く八重桜の重厚さは、それはそれでとても好きだ。

  11時、成田発。成田では、マスクの人はもちろんいたが、思ったよりも少なかった。私もマスク、買うだけは買ってしまった。マスク屋さん。いい商売になるだろうな・・・ずっと前、カナダ人の友だち、アンヌマリーが日本に来た時、日本人のマスク姿(当時は花粉症もなかったので、風邪ひきマスクの人だけだったが)を面白がって、わざわざ追っかけていっては写真を撮らせてもらって、珍しがっていた。いまや、マスクは世界中で、かけられている。・・・あまり喜ぶべきことじゃない・・・・けど。


TG641 成田11:00発。

 今日はずいぶんうつらうつらしていた。ふっと目を覚まし、窓の外を見ると、今まではずっと延々と海だったのが、ちょうど海岸線に切り替わるところ・・・であった。白く泡立つ波打ち際が縦線を貫いている・・・もう、そこからは茶色の乾いた土の世界が広がる。

東シナ海から、ベトナム上空に入ったのだ。

 河口から川が幾筋にも土色の流れをのばしながら、流れは幅広い河口から上流に向け、どんどん細くなっている。川岸は干上がっていて、流れは細い。川は瞬く間に、山並みの中に吸い込まれていく。

 雲、雲、雲。もくもく、わくわく・・・これは、日本のかすみがかった春のぼぉっとした雲ではなく、もうすっかり暑い国の暑い盛りの雲だ。夏の雲。
 わきでたように盛り上がる積乱雲。縦に発達して、ずいぶん立派で恐ろしげなのだ。窓からの景色をずっと邪魔していた飛行機の翼が、その、あまりにも立派な雲に敬礼しているように見えてくる。

 私は、さっきから「雲を見たことがない」人のように、窓に張り付いて、写真を撮っている。

 もくもく、わくわく・・・の雲の間から、そのうんと下に、人々が住む地上の世界が見える。モンのお話の中に、男を追って天上の世界に来たものの、禁じられている窓を開けてみたら、地上の世界に残してきた我が子をおぶっている年老いた母親の姿が見え、あまりの恋しさに飛び降りてしまった・・・という話があるのだが、なんだかそんな気持ちはわかるような気がした。空にいると、下に見える点々の地上の世界の何でもない一こま一こまが妙に懐かしく、恋しい。

 あ!メコン川だ。縦に見事に地面を貫いている。他の川たちに比べて、デカイ。乾季の最後。雨季を待つ大地の赤茶色の大地を貫く、土色の川・・・・

 私は、何度も見ているっていうのに、東シナ海からインドシナ半島の上空を、飛行機が越境?する時、イチイチ感動する。特に今日は、雲が花を添えた・・・・と思いつつ、シャッターをパシャパシャと切り、フィルムを巻き上げる。ん?やけに軽い。おかしいな・・・と、見ると、フィルムが巻き上げられていない。また壊れた?とても嫌な気持ちが襲う。恐る恐るカメラのふたをあけてみると、フィルムが入っていなかった。

ガク・・・私の劇的な雲たちの芸術的写真は泡と消えたのだ。(けど・・・カメラが壊れたのではなくてほっとし、実際には、フィルムを無駄にしなくてよかったのかもな・・・とも思った)

 

午後4時前。バンコク着。気温38度。

空港の中では、香港方面から来るらしいゲートのところには、白い看護婦たちでいっぱいだ。こうして、飛行機に乗り、病気もあっというまに世界に広がる、それが今の世の中なのだ・・・と思った。

空港のエスカレーターで、マシンガンで重装備した迷彩服の人がすぐ前に乗っていた。太い銃口。こんなのぶっとばされたら、生身の人間なんてひとたまりもないよ・・と、近くで見たら恐くなった。この一つでこうなのだから、戦場では、人間なんて軽く死んでしまうようなぁ・・・

イアン、タッティム(タイ人の友人たち)、ゆかさんと夕食。ヤムウンセン(春雨サラダ)。ヤム・・・・カオパットプー(カニ炒飯)、トムカーガイ(ココナッツのきいた鶏のスープ)、ムーマナーオパッカナー(蒸しブタレモン風味青菜添え)。ビール。

 イアンとタッティムと一緒に、KTゲストハウスに泊まる。エアコンが一晩中うなっている。

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4月19日(土) ビエンチャン着

 空港にはソムトンさん(一緒に仕事をしている役人でもあるモンの人)と、息子が迎えにきてくれた。車は壊れているそうで、バイクでわざわざ来てくれた。結局、迎えの車はなかったので、タクシー(5ドル)に乗る。わざわざきてもらって申し訳ない。
 空港の職員でマスクをしている人がいる。草っぱらのようなのんびりしたビエンチャン空港に着くと、まるで、世界の流れから離れてしまったような気がしたが、ここでも、もう世界の流れから逃れられないらしい。

 家は、4ヶ月ぶり。ほこりほこりほこり・・・・大家は、私がいない間に、いろいろといらない家具を、どんどん入れているらしい。(物置代わり?)といえども、立派な(それこそ日本で買ったら、ウン十万するだろうけど)重い一枚板の木のテーブル。それから、きっとマイ・ロンレン(ラオス檜)で作った、象牙の形をしたでかい置物も入っていた。王宮にでも飾ったらよさそうな置物だ。こんなのを置いてもらって文句を言うのもイカンのだが・・・

 冷蔵庫の電源を入れたものの、食べ物は何もないし、買いに行くにも自転車はこれもほこりだらけでパンクしているので、面倒くさい。結局、何も食べずに掃除、掃除、掃除。ヤモリのフンがたくさん。

 うちの守り神である、立像と座像の小さな仏様にお水をあげて、「またよろしくお願いします・・・・しばらく居させてください」とお祈りする。こうしないと、ラオスはあちこちが霊だらけ・・・なので、家の守り神様たちにも、ちゃんと礼をつくさないといけないのだそうだ。・・・・だから、「ちゃんと仏様に見守ってもらうようにお祈りしなさい」と大家が貸してくれている仏様たちだ。

 2時過ぎ、ソムトンさんが再び来た。バイクを入れるのに、家の鉄扉を開けようとしたが、イバラ姫のように、蔓性の花々が巻き付いてしまっていて、開かない。ピンクの小花と、紫の蝶々のような花と、白い花が咲くのを植えて・・・最初は貧弱だったのだが、もう手当たり次第、蔓をのばし巻き付いていて花をつけている。私の唯一の花畑なので、かわいそうだったが、頑丈に巻き付いている蔓を切って、扉をあけた。でも、扉は開かない。向こうでは、バナナの木が斜めに生えていて扉が横にスライドしていく先を遮っている。バナナは実をつけている。このバナナを収穫して食べてから、この幹を切ってもらうことにしよう。どのみち、バナナは実を取ったら幹を切る(バナナは同じ幹から何度も実がなることはない・・・)ので、それまでは、わずかに開いた隙間から出入りすることにしよう。亜熱帯の国の植物の力はすごいな・・・と思う。あっという間に濃い緑になる。

自転車のパンクを直し、金の両替(1ドル10,062キップ)。トンカムカム市場で野菜を買う。どうも私は食糧が、特に野菜がないと・・落ち着かない。自転車置き場の料金が、500キップから1000に上がった。野菜もだいたい1束1000キップ。果物のシェイクが4000キップ。都会では小さなお金が使いにくく(用をなさなく)なっているのかも・・・

帰りがけにYさんの家を覗いてみる。いないな・・・と思ったら、向かいの大家の親戚の家でだべっていた。ビールをごちそうになる。Yさんはビール腹になった。

大家に未払いの家賃を払いに行く。ここでも、「清子と正月のビールを飲もうと思って、2本取っておいたんだよ」と、大家さんがビールを出してくれる。飲んでいると、Mさんが、彼女といっしょにやってきた。偶然。今、私の電話は料金未払いのために切られている。だから、誰とも連絡が取れずにいたのだが、ビエンチャンでは、結構会いたいと思うと会えたりする・・という、こんな偶然がよく起きる。

結局、機内食以降、ろくにモノを食べずに、ビールをしこたま飲んでしまった。 

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4月21日(月)「ビエンチャンの滞納料金の1日

 朝、パンとニラ炒め、ラオスコーヒー。

昨日の晩は暑かった。私には、妙に金縛りに会いそうな気持ちがする時があり、昨夜がそうだった。電気をつけっぱなしで寝たら、金縛りにはあわなかったが、机の上に虫がたくさん落ちていた。

8時半から出て、滞納していた電話料金を払い・・・(約20万キップ・・・2000円くらい)、それから、Eメールの滞納料金36ドルを払ったはいいが、すでに私のメールアドレスは消滅しているという。6ヶ月払っていなかった・・・のだ。電話料金は5ヶ月ためていた。
 へぇ?(他人事じゃないだろ)

それにしても、こんな調子で、今は常駐していないのに、家を借りていていいのかね?と思いつつ、妙なところで、後ろ髪(ないけど)をひかれる。一つは、家の門の横に植えた(今は勝手に伸びまくっている)ピンクと紫の蔓性の花・・・・おまけに、元から植わっていた白い花が、赤い実をつけていてかわいい・・・・・その花々が、やけに自然児なのだけど、美しいのだ。それに、今は、来る日数の方が少ないけれど、来た時に「自炊」できないと思うと、それはきつい。ホテル・・・または、ゲストハウスで外食ばかりするのかと思うと(地方に出た時・・・モンの村にいる時はそれは全然気にならないのだが)ビエンチャンにいる時のそれはきつい。お茶の一つも自分で沸かせないで長期間いるのはきつい・・・・気がする。とかね・・・そんなことで、この家に、いろんな料金を滞納しつつ、この家にまだいる。 

 まぁ、とにかく、電話料金は払って、午後には復旧するって言ったのに、夜現在、今、まだ電話は使えない・・・・ぶつぶつ・・・と文句を言いたいが、支払いをためておいて文句を言う方がいけないのかも・・・ラオスだし・・・とも思う。

 Eメールは、結局、保証人のサインをもらわなくてはならず、それに午前いっぱいかかり、午後電話局に再び行って、新たに手続きをし直すことになった。それも、インターネットオフィス自体のコンピューターが壊れているとかで、手続きができず、2時間くらい待った。「壊れている、どうしてだろう?」と、専門家のはずの彼等が、頭をひねっては入れ替わり立ち替わりコンピューターの前に座っては、立ち上がった。
 まったく頭にくるぜ・・・と思いつつ、辛抱強く本など読みながら待っていると、結局、いろんな人が話しかけてきて、オフィスの人々と知り合いになってしまった。そして、「待たせて悪かったねぇ」「ボペンニャン(いいよいいよ)」で事は済んでしまった。開設料に15ドル。私は一番安い設定の月6ドルだ。

 インターネットなど、なければないで、それでも平気・・・な気もするが、世の中手紙文化でなくなってしまったというのも本当だ。メールだと気軽に海外からもつながれるけど・・・・ということで、やっぱり、ラオスでもメールアドレスを取ってしまった。

 自転車で動き回っている。しかも、これは知り合いの某日本人・・うら若き女性が置いていったピンクの自転車で、見かけはいいが、最近はキーコキーコと音をたて、古びて乗りごこちはよろしくない。特に、暑い昼下がり、自転車を漕いでいるだけで、もわぁ〜〜〜と、暑さにうなされる感じで、頭が痛くなった。

 と言っても、夜現在、虫の音に、夜風が涼しい。気持ちがいい。今日は熱帯夜じゃないみたい。それだけで、ほっとする。よかった。

 結局、電話料金を払いに行く、メールを開設に行く・・・そんなことで1日が終わってしまった。(しかもその上、まだ電話もメールも通じていない)そんなものかな?とも思い、他にもう少し時間の使いようもあるだろう・・・とも思う。でも、ラオスにいると、自転車を漕ぐスピードで物事が進むのに、いらつく自分がいる一方で、でも、こんなもんだろ、これでいいのさ、という風に思う自分がいる。

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4月22日(火)「夏ばての1日」

 今日は、夏ばてした。

 午前中、電話局、銀行、ラオス航空・・・・と自転車で動き回ったのはいいが、そのせいでばてたらしい・・・午後は動く気がしなかった。本当は、あさって、サムヌア(ラオスの東北部)に出発することになったので、いろいろとやらなくちゃいけないことがあるのに、動けない。

 夏ばて・・・・仕方ないなぁ・・・・急に暑いんだし・・・情けない・・・でも、動けない・・・と思い、へばっている。

 冷房付きの車があればいいのだが・・でも、キーコキーコとうなる自転車しか持っていないから仕方ないのだ。家の中も、扇風機しかない。

 しかし、食欲は衰えない。昼間、ご飯を炊いた。白米に、黒米を混ぜてたくと、赤飯のようになる。鍋で炊くと、15分くらいであっという間に炊けてしまう。うまい!ふりかけととろろ昆布で食べる。ニガウリをただ煮て、それに味噌を入れて味噌汁も作った。当然苦いのだが、やけに夏ばてに効く気がする。

 ご飯は余ったので、夜食べようと思っていたが、数時間後、ふっと見ると、アリンコだらけになっている。うへぇ〜〜、まいった。がっかり・・・気持ちわりぃ・・・、もったいないけど、家の裏に捨てると、すぐ鶏がつつきに来ている。それでなくても、暑い気候だけにあっという間に自然に帰るようだ。

 夕方、大家の息子のカオサーイが来て、「きよこぉ・・・アリンコがいっぱいいるよ」と玄関を指す。もう、どこもかしこも、アリンコの行列。「カオサーイのおうちにはアリンコいないの?」と聞くと、「いるよ、たくさんいるよ。さっき、火でいぶしたんだ」という。

 カオサーイは、5歳くらいでやんちゃな子だが、頭がいい。うっかり、ここのアリンコを火でいぶしてやろうと思われたら大変だ・・・と思い、「うちのアリンコはいぶさなくていいよ。家が火事になっちゃうと大変だからね」と言うと、「そうかなぁ。火であぶるといいんだよ」などと言っている。「ほら、アリが卵運んでるよ」と言うと、一生懸命「このアリも、向こうのアリも、卵運んでいるよ」と、ずっとアリを見ていた。

 夜、ニンニクとトウガラシを入れた炒飯を作る。辛いものを食べると汗が出て、それはとても気持ちがいい。やはり、暑い国で、辛いものを食べるのには、それなりの理由があるのだろう・・と思う。

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 4月23日(水

 明日発つので、冷蔵庫の残り物・・・を整理するために、ニラ玉を作る。それとパンを食べて夕食にする。ビールも・・・・

 日本では、一応母と一緒だから、食事はちゃんと作る。夜、パンを食べるなんてことはない。でも、1人だと、なんだか何でもいや・・・・という気になり・・・・1人で食べていると、わびしく寂しくなる。いつまでこんな生活を送っているのかなぁ・・・と。毎回、同じような繰り返し。

 隣の家、大家の家からは家族の声がしている。みんな揃って夕食を食べているんだ。私はいったいいつまで、こうなのだろう?日本だって、母がいなくなったら、私はいったい家で1人でどうするのだろう?本当は、うんと寂しいのに、いったいどうしていつも平気を装っているのだろう?

 と思う。かといって、この商売?もやめられないし・・・・きっと、家を離れられなくなったら文句たらたら・・・になるのだろうし・・・・まったく、いつまでこんな繰り返しなのだろうか?

 今日は、またまた暑かった。午前中、やはり自転車で動いたら、午後、ぐったりしてしまった。何もやる気がしない・・・・夕方、思い切って、家の掃除と雑巾がけをした。汗がダラダラでて目に入ってしみた。汗を思い切りかいてからシャワーを浴びよう・・・と思ったら、かえってすっきりした。

 きっと、春の日本から来て、汗腺が開ききっていないところ、急に暑くなり、暑さが身体の中にこもって、気分があまりよくなかったのでは?と思う。少しずつ汗が出るようになり、うんと汗をかいて、かえって気持ちよくなった。

 明日から、サムヌアへ行く。ラオスも、ルアンパバンへ続く道、13号線では、襲撃事件があり、これは日本の新聞にも載っているらしい。学生が多く亡くなったとのこと。どうして、こんな普通の人々をねらったところで、どうしようもないのに・・・・と思う。人が憎くてやっているとしか思えない。シェンクワンからサムヌア方面の道は大丈夫のはず・・・だが・・・。世の中、世界中、不安定な空気が漂っている。このラオスですら・・・・そうあって欲しくないのに・・・・

 

 本当は、モンの村に文庫ができればいい・・・と思って、絵本を持っていくつもりだったが、実際は、荷物の重さにめげた。何人かいればいいけど、こうして1人でこんなことをやろうとすると、やっぱり難しいのだと思う。

 東チモールにも文庫を届けよう!なんて言いだしているけれど、本当にできるのだろか?とも思う。個人じゃできないんだよなぁ・・・・というか、がんばれる度合いが、1人だと狭くなるような気がする。勝手に動ける気ままさはあるけど・・・・

 今夜も暑い。熱帯夜じゃないといいけど・・・眠れるといいけど・・・・

「南縁の空」

 ラオスに置きっぱなしの荷物を整理していたら、父の遺稿集が出てきた。「南縁の空」という。父が亡くなった後、私がまとめたものであるから、うんざりするほど読み尽くしているはずなのに、さっき暇にまかせて読み出したら、涙がとまらなくなった。

 身体の不自由な父が、冬の南縁の日溜まりのことを書いた冒頭のエッセイも読み切らずに、涙がぼろぼろ出てきた。

 日本にいると、こんな余裕もないんだよなぁ・・・とも思う。もちろん、離れているからこそ、しみじみと思って読めたりもするが。そんな意味では、テレビもなく情報もなく、暇なのもいい。

 今回、日本で出がけに整理した本棚にあった、寺田寅彦の随筆集を持ってきて読んでいる。その本を手に取ってみて、父が愛読していた・・・・というのを、思い出した。薄茶の表紙の一番地味な岩波文庫である。寺田寅彦という人のエッセイは、大正・・・・それこそ、父の生まれる前に書かれているにも関わらず、その文章はとても新鮮である。

今まで思いだしもしなかったが、読み出してみると、父が車椅子に座り一生懸命ページをめくりながら、この本を読んでいたのを思い出した。

 もちろん、格は数段違うのだが、父の書いたエッセイは寺田寅彦のスタイルに似ている。きっと父は、寺田寅彦のエッセイが大好きだったのだろう。今になって、やっとわかった。私は実は、寺田寅彦の本業が何かも知らないが、科学者であった父が、彼の随筆に少なからず影響されていたことはわかる。

 うちの本棚から持ってきた寺田寅彦の文庫本を読んでいると、ところどころ、紙の色が変わってシミになっているところがある。これはうちの家族にしかわからないが、父のよだれの跡である。全身不随であった父は、ようやくページをめくれたものの、口からはよだれがたれることもあった。それがシミとなって残っている。本を読みながら、そんな記憶がいっぺんに押し寄せてきて、紙の色が変わったところにさしかかるたびに、私は胸の詰まるような、とてつもなく懐かしいような思いにとらわれる。

 人の記憶、思い出というのは、本当に、その人々で違うものなのだ・・・と、当たり前のことなのだけれど、思う。

 明日、旅立つ前か、たいしたこともないのに、感傷的になった。

 今、ビエンチャン・・・雷がなり、雨が降り出した。停電とならないうちに寝ることにしよう。


4月24日(木) 「シェンクワンへ飛ぶ」

 朝、ビエンチャン発の飛行機で。乗客が少ないとかで、なんと、北方面ということは同じだが、全然場所の違うルアンパバン経由でシェンクワン県のポンサワンへ飛んだ。2台分のお客を1台にまとめている。時間は倍ほどかかった。いきなりの変更に誰も文句を言うわけでもない。
 さすが、シェンクワン。あんなに暑かったビエンチャンが信じられないほど、涼しくて気持ちがいい。ゲストハウス。8ドルの部屋だけに?熱いお湯が勢いよく出て、気持ちよかった。ラオス来て、初めてのお湯浴びだ。ここの電気は相変わらず、午後6時から夜11時までである。
 私はバカみたいな昨日の二日酔いがきいていて、しんどい。まったく1人で酔んで二日酔いになっているのだから、どうしようもない。ソムトンさんは、車で30分ほどのノンペット村のお姉さんを訪ねに行ったが、私は今日は動きたくない。市場に行って、あとは、ベッドの上に、サムヌアのみんなに配る写真をぶち広げて分けた。1999年と2000年の写真がある。一度持っていくのを忘れたので。写真を分けながら、いったい何人がすでに嫁にいき、いったい何人がフアイソン村に残っているのだろう?と思う。2年半という歳月は結構長かった。写真の中に写っているポンツァイ(ツァイばあちゃん)は死んでしまったし、あの時一緒にポンツァイを訪ねてくれてニア・ワクゥ(ワクゥの妻)の写真を見て、いつも本当に親しげに、迎えてくれる彼女の声がよみがえってきて、急に懐かしい。

 夕食、ソムトンさんと。ゲンセンローン(春雨のスープ)。野菜炒め。ガドゥークカーンムゥ(スペアリブ)ビール一本。夜になって、やっと身体が戻った感じだった。
 11時に電気が落ちるまで、ディスコ?の音楽、そして、ゲストハウスに泊まっているファラン(西洋人)が迷惑にもかけるテープの音が響く。うるさい。電気が落ちると急に静かになり、蛙と虫の音が耳一杯になった。


4月25日(金)晴れ「サムヌアへ車で移動」

 6時前に起きる。カオピアック(米粉のうどん)とコーヒー。車はモンの運転手(ザウ・ムア)さんが、行ってくれることになる。ドアのガタガタと開きにくいワゴン車。彼は奥さんと娘連れでやってきた。いわば、長距離タクシーの運ちゃんが奥さんとか娘を連れて運転しているようなもんだが・・・・シェンクワンからサムヌアへの道は「うぇ〜い、チ・ンチャイ(何も心配いらないよぉ)」とのことで安心。今、シェンクワンからビエンチャンへと通じる道は、襲撃事件が起きているが、北へむかうサムヌアへの道は全然心配ないという。確かにもし心配ならば、奥さんと娘を連れてくるはずもないし・・・と思って安心した。 
 ポンサワンからサムヌアまでは、車で、6〜7時間かかる。道は一応舗装された道だが、山道である。
 7時発。松の木の多いムアン・ペック(ペック郡・・ペックとは松のこと)を通り過ぎ、8時10分。バンバン通過。進路を東から北に変える。ナムヌン(川)に10時半。早いがここでお昼となる。ソムトンさんが、ナムヌンの魚を食べたい!と言い張ったから・・・。ナムヌンで取れたという魚を見せてもらった。魚のスープとご飯。そして、ソムトンさんのご意見で、鯉のようなフナのようなデカイ魚を、23キロ村の村長へのおみやげとして買って行くことにする。塩をふって包んでもらう。こちらの人は日本人みたいに「魚の鮮度」へのこだわりはない。私はこんな暑い気候の中で生ものを暑い車に入れるのは・・・と思うが、みんなが大丈夫!というので、まっ、いいことにした。
 ナムヌンは、川の近くだが、盆地になっているせいか、トタン屋根のせいか?とても暑かった。みんなで汗をふきふきご飯を食べおわってから、運転手さんが「あぁ、ご飯を包んでもらって、山の上の涼しいところで食べればよかったねぇ」という。「モンは山の民だから、そういうのが好きなんだよ」と。
 ナムヌンは、いつも暑い・・・という印象があるが、 以前は道が悪く、1日でサムヌアへはたどり着けなかった。バスがここで一泊したので、店も繁盛していたそうであるが、今は道路がよくなって、1日でサムヌアに着いてしまうので、ここで一泊しない。素通りしてしまうので、食堂も閉まったところも多く、閑散としていた。ちなみに、シェンクワンのバンバンからサムヌアを結ぶ国道6号線は、1945年にラオス入りしていた日本軍が切り開いたという道である。
 ソムトンさんと運ちゃんは、二人して、tsib nyuj qub (チ・ニュウクゥ)を買う。野牛の胆嚢?まったく好きだね〜と思うが、いい薬なのだそうだ。見かけはまるで梅肉エキスの固まりみたい。ソムトンさんは、マッチ棒の先に1滴をつけて水につけて本物かどうか?を見ている。すぅーっと、煙のように下がったら本物なのだそうだ。いかにも「知ってるぜ」風の専門家面して、見分けていたが、果たして、それが本物かどうか?それはわからない。ラオスでも、野牛はもうあまりいないそうだ。この野牛の肝はベトナムから来ているとか?余計怪しいではないか・・・・でも、ソムトンさんは20万キップ、運ちゃんは10万キップ分を買う。まったくね。こんなの買うんだもんさぁ・・・と思うが、男たち二人はとてもただごとじゃなく?一生懸命買っていた。
 サムヌアには3時半くらいに着く。ラオフンホテル。あまり変わってはいないようだが、はじめて来た時のあの静かで閑散とした田舎町は、車が増え、人も増えていた。
 ラオフンホテルは、以前は唯一の国営ホテルで、オンボロながらもなんとなく「格が違う」感じがしていたが、今は、どんどん普通のホテル化して、全然手入れしていなくて、部屋には雨漏りがした。
 
 23キロ村に寄った。23キロ村は、サムヌアから23キロの地点にある村で、山奥のモンの村、フアイソン村から人々が国道沿いに降りてきて、作っている村である。家が増えていた。山を下りる人が増えているのだ。会いたかった村長、ワンスーも、毎回世話になっていたブラーイェンもサムヌアへ行っているといい、いなかった。前回10軒だったのが、18軒に増えていた。脚の悪いプアも移ってきていた。みんな散らかっている家で、暑そうだった。村長もブラーイェンの家も、もう山の村、フアイソン村にない。これまで気兼ねなく過ごした家族たちが、もうフアイソン村にいないのだと思うと何だかさびしい。
 みんな民族衣装を着ていない。なんだかさびしい。

 サムヌアの市場は建て替え?だとかで、川沿いに野菜市場が出ている。ニア・ワクゥを探してきょろきょろしていたら、ニア・ワクゥが抱きつくように声をかけてきた。嬉しい。
 彼女は今、豆腐を作って売っている。「あぁ、私には何にもあげるものがないから、この豆腐でも食べてよ」と、一つ1000kipの豆腐を2つくれる。ここで豆腐をもらっても困ったな・・・とは思ったが、そのままもらっておきたかった。食堂に持って行って、豆腐の入った料理を作ってもらうしかないわけだが・・・・何でも気前よくくれてしまう人のいい笑顔は全然変わらない。

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4月26日(土) [23 km村へ」
 朝、霧。真っ白。あんな暑かったビエンチャンがウソのようである。朝、市場を歩いていると、声をかけられた。マイだ。23km村の村長の三男だ。彼は、ちょっと学生風なワイシャツを着て歩いていたので、「サムヌアで何しているの?学校?」と言うと「学校には行ってないよ」と・・・。そうだ。彼はもう小学校の低学年で早くに学校をやめてしまっていたのだった・・・ということを思い出した。マイは、あんなにかわいらしい顔をしていたのに、歩き方もよたついているし、ちょっとフーテン風になった。なんだか品のない顔になってしまった。後できいたことによると、彼は村を離れ、カマコーン(肉体労働)をしているという。結局、村には帰ってこなかった。
 朝、食糧を仕入れる。(インスタントラーメン、魚の缶詰、コーヒー、砂糖、コンデンスミルク、ろうそくなど)
今、モンの村は一番「おかず」がない時期だという。村中に、鶏、豚、牛はいても、普段に彼等が肉を食べるということはないし、今は、乾季あけで野菜もあまりない時期だそうだ。あるのは、きっと山から採ってくる筍だけだろう・・・・インスタントラーメンなんかを村に持つこむのは、あまり好きじゃないが・・・彼等の決して豊かではない食糧を食べさせてもらうわけだし、せめてものおみやげ代わりだ。
 今日、運転手さんたちは、シェンクワンに帰るので、そのついでに村まで送ってもらう。その分?きのう、10ドル増しで支払った。運転手は、携帯電話を持っていて、ポンサワンの家にかけていたが、「え?泥棒が洗濯物を、たらいごと持っていっただと?たらいにつけておいたのをそのまま盗んだ?ちゃんと見つけてきなさい」なんて、子どもたちに話していた。ポンサワンも泥棒が多いという。しかし、水につけた服をたらいごと盗むというのだから・・・・その人は乾かして着るのだろうか?そんなのは近くの人だろうし、じきに、その洗った服を着た人は見つかりそうな気もする・・・が、見つかったら、いったいどうするのだろう?

 プアたちも2ヶ月ほど前に、山から降りてきて、この村に住み始めた。彼女はおそらく小児麻痺だったのだろう、脚が片方萎えている。見かけは、本当に物語の中に出てくる「こびと」のおばさんみたいなのだ。ニコニコいつも笑っている。鼻が大きく赤いのでなんだか余計にこびとさん、みたいなのである。身長は私よりかなり低いので、140センチあるか?くらいだろう。彼女は正式な結婚はしなかったが、父親知らずの一人娘、マイがいる。今、マイも嫁にいき、本人は弟夫婦たちと一緒に住んでいる。彼女と私はほとんど同い年で、かつ、二人とも独身!ということもあり、プアと私は、なんだかとっても仲のいい友だちなのである。
 彼女は、昨年、数ヶ月ビエンチャンの、身障者のための病院に行って補助具を作ってもらった。でも・・・過酷な山の生活では、そのような補助具もすでに部品がすり切れて使えなくなってしまっている。プアは、外国NGOの援助で作ってもらった補助具を見せてくれたが、確かに山の生活でのメンテは難しいのかもしれない・・・と思った。彼女は裸足で歩く。山の中の土の道ならまだしも、舗装された道路の上を、萎えた裸足の脚で歩くのはさぞ痛かろう・・・と思った。山を下りて舗装道路の脇に住んだためによけい不自由さが、目立っているような気がした。
「本当は私は、道路脇の村になんかいたくないの。山奥のフアイソンにいたいのよ。娘のマイもいるし・・・でも、親戚がみんな降りてきたから、一緒に行動しないわけにはいかないのよ・・・」と。「明日、フアイソン村に行くのに、車で行くの?車で行くんなら、一緒に行くからね・・・・」と言った。ぜひに連れていってあげたいと思ったが、結局、まだ道は山の斜面を切り崩したような状況で、四輪駆動かジープでなければ走れない道、私たちが見つけた普通の軽トラでは山の上までは行かなかったので、彼女は行けなかった。それにしても、これまでは徒歩で2時間かかったのに、車道(Kev tsheb)が通じ、急に村が近づいた感じ。すでにバイクでは行ける。バイクは、40,000キップだそうだ。
 23km村の村長、ワンスーの長女のシュアは嫁に行った。2ヶ月前だそうだ。娘を嫁に出したあと、ワンスーは、嫁に出した娘に「1キップのお金も持たせてやれなかった」としばらく泣いていたそうである。母は娘に7枚の民族衣装のスカートと、4マイの上着、3枚のダイ・アオミニュア(おぶいひも)を渡した。「わぁ、すごい」と言うと、「でも、お金は、1キップだってあげられなかったのよ」と情けなさそうに言った。
 人々がバイクを持っているのに、私はびっくりした。どうして、車道の傍に降りてきただけでお金が手に入るようになったのだろう?と・・・・・そのわけは後から知ることになるが・・・・
 昼頃、子どもたちが「Koj piav lub ntsuag(お話してよ)」と寄ってくる。絵本を出したとたん、子どもたちのわぁ〜という嬉しそうなさざめき・・・がわきあがった。やっぱり、こんな情景に出会ってしまうと、また子どもたちに絵本を見せたいなぁ、と切に思ってしまう。
 絵本を子どもたちに読んでいる途中に、村長ワンスーが戻ってきた。2年半ぶりに会う村長はサングラスをかけ、ブーツをはき、腰にはナイフを下げて、まるでカウボーイのような、まるでかっこつけた少年のような格好をしていて、私が知っている、あの落ち着きのある村長ワンスーの趣とは少し違っていた。
 村長の家は、相変わらずオンボロであった。ひどい雨になった。屋根は茅葺き屋根であるが、メンテナンスが悪い。荷物を置いた台の上の屋根がひどく漏る。気がつくと、ソムトンさんの鞄の上に雨漏りをしている。あわててどかす。お母さんが大きなビニールシートを広げた。雨は勢いよく家の中に入ってくる。どうして・・・?数年前から同じような状況なのに、少しは修理しないのだろう?これからまた雨季になるのに・・・と思ったが、後でわかった。ワンスーは、すっかり薬漬けになてしまったとのことだ。家の雨漏りのことなんか、どうでもよくなってしまったのであろう。
 妻が1人で、その後も、雨漏りを気にしていた。男手がこんなにあるのに、誰も屋根を直そうとしないみたいだ。
 ワンスーは、シアオ(友だち)というラオス人を連れてきた。雨がひどいのでしばらく一緒に座っていたが、結局、みな仲間らしい。
 ご飯は、お米が今年はあまり出来がよくなかったそうで、ぽろぽろしてあまりおいしくなかった。ご飯と筍と魚。魚はドジョウみたいだった。近くに池があるらしい。ワンスーが、「あぁ忘れていた。せっかく来てくれたのだから、パヌン(私のモンの名)に」と。何が出てくるのかと思ったら、サムヌアで買ってきたのだろう、ドーナツのような揚げ菓子をくれた。3つほど買ってきている。小さい子どもたちの人数分にもならない。少し子どもたちに分けてあげて・・・せっかくもらったのだし・・・と私は食べてしまったが、やっぱり大変だなぁ・・・と思う。
 村長の次男、タイは、今、山奥の村、フアイソン村の小学校の先生だ。彼はサムヌアの高校に行っていたが、急に違う世界を見たくなったと、高校を中退して軍に入った。その兵士生活の中で、座ってご飯を食べているときに、いきなりゲリラが襲撃してきて、両隣の人は、みな撃たれて死んでしまったのだそうだ。彼の両脇は血で染まったそうである。そして、その後、お父さんの村長は、息子をもう兵士にしたくはない、と、あれこれと頼んで、このあたりの小学校で先生として働くことになったのだ。
 四男のヨーの妻が、雨でびっしょりになってかごを背負って戻ってくると、キノコを煮ておかずにしてご飯を食べていた。そのキノコは、年に一回だけ、焼畑をして畑を焼いた後だけに出てくる茸だそうだ。
 ブラーイェンの娘たちも大きくなった。ミーは14歳。1年前くらいから刺繍をはじめ、2枚目のタンター(民族衣装のスカートのすその刺繍)。妹のペンはまだはじめてから1年目だという。

 ワンスーの妻も、結婚してから、ua tab cab(ろうけつ染め) は習ったのだという。若い時に嫁にきたからね・・・と。嫁に行ったシュアにも、まだろうけつ描きは教えていない。自分も嫁に来たときは知らなかった。ワンスーのお母さんや親戚のひとたちに教えてもらってできるようになったのだという。
 ブラーイェンの兄、ツゥー・ワン?(片目のつぶれている人)は、モ・ガポ(胃潰瘍?)だそうで、かなりやつれていた。もう死んでしまうのではないか?何も食べられないらしい。食べると胃腸がさわぐようになって痛いのだそうだ。長男のボーはなかなか感じのいい子だが、すっかり青年になり1ヶ月前に嫁をもらった。きれいな女の子で化粧をしている。彼は小さい頃から、畑仕事などの手伝いのために学校は行っていない。でも、モンラティン(アルファベット表記のモン語)は読めるそうだ。
 村長の長男ギーはますます野性的はいいが、土汚れたようになって、精悍なたくましさが素敵だった頃とは、ちょっと変わってしまった。妻はひどくやつれて年を取った。モンの女の人の、こうしたふけ方にはちょっと度肝を抜かれる。まだ、20代の前半くらいの年齢のはずである。もう、おばあさんみたいなやつれ方をしている。子どもの1人はとても小さくやせている。脚は棒のように細くて、おしりも痩せこけている。これで1歳なのだそうだ。もしかして、その時期に栄養が足りなかった分、脳の発達も遅れてしまったのではないか?そんな顔をしている。

 夜、23キロ村は、真っ暗で電気がない。虫の音と話し声がする。男たちはバイクで遊びに行った。ブラーイェン、彼の兄、それに何人かがすでにバイクを持っている。モックワは大きなトラックを売って、牛を3頭売って、そして、ロッドドイサーン(トラックバス)を買った。5月からサムヌアーサルーイ間の運転をするそうである。彼の一族だけが、なんだかしっかりしているというか・・・・この水の足りない村で、山から水を引いてきて蛇口をつけている。他の人たちには使わせないそうである。
 他の人たちの水場は遠い。私は結局行かなかったのだが、結局、村にいる間、水浴びもせずにいてしまった。
 どの家でも(ブラーイェンの姉と兄の家)おかずは、きのこスープであった。焼畑の後のみに出て来るという茸。見かけは椎茸なのだが、椎茸の香りはしない。
 今、caij ua noj (農繁期)のせいなのか、それとも、もうあまり民族衣装のスカートを作っていないのか。それともみんが着ていないから、そう見えるのか?わからないけれど、みんな衣装は着なくなった。かと言って、まるでやめてしまったわけではなく、ニア・ワンスー(ワンスーの妻)は機織りで麻布を織っている。この機織り機は、ニアパッチャイ(パッチャイの妻)のもので、彼女の後に、プア、そして、ニアワンスー・・・と順番に使っていく。機織りは以外に早いらしく、次々と回していく。プアは、18ダー(両腕を伸ばした長さが1ダー)を、10日で織った。1日中織って・・・・・だが。
 織り機も、自転車みたいなチュア・ンドゥア(足踏み糸より機)もパッチャイが作ったもの。
 
 ニア・ワンスーのおじさん夫婦にあたる夫婦がサムヌアから来ていた。サムタイの出身だそうだ。スカートの商売をしているという。モンのスカートを買ってはチェンマイに送っているという。「家には4000枚もスカートがあるのよ」と偉そうに言うのを、私は苦々しくきいていた。「あんたたちみたいな商売人がいるから、モンの村から民族衣装がなくなってしまうんだ」と。
「サムタイのモンは、もっと大きくて太っているのよ」という。確かにこのおばはんは太っていた。もっとも金持ちのせいもあるのだろうが・・・・私が以前撮ったサムタイのモンの衣装の写真はたまたま彼女の娘だったそうで、ちょっと偶然だった。
 私は後できいた話だが、その晩、男たちは、夜遅くまで一軒の家に集まって、何を話すこともなく、ただヤーバー(薬)を吸っていたらしい。ソムトンさんが覗くと、誰も何も話すこともなく、ただみんな座っていたそうである。この商売人のおじさんとやらも一緒だったそうである。翌日、ワンスーが「フアイソンの連中は、バカだよなぁ。この人に連絡を取らないんだから・・・」と言った。私はスカート商売のことかと思ったが、どうも、あの金持ちの夫婦は、ヤーバーの元締めもやっているということらしい。
 
 

5月6日(火)

 暑い!の一言だ。同じラオスで、こんなに違うものか・・・と言う感じ。涼しかった北のサムヌアが懐かしい。うすら寒いところで布団をかぶってぬくぬくと寝るのはなんて気持ちいいんだろう。暑い。

 エアコンがあったらいいのに・・・と思うけど、扇風機は熱風機だ。水道をひねっても熱いお湯みたいな水しか出てこない。きっと、こんな時にはこんなことしか書けないんだろうな。

 

 明日から友人たちが来るので、昨日今日と家の掃除をしたが、雑巾がけなどすると、もう汗がだくだく。汗をなめてあぁ塩辛いと思う。マットレスも久しぶりに干したが、今日干したマットレスは熱気を含みすぎて、暑くて眠れない・・・。1日置けば少し熱気も取れるかと、昨日全部干したが・・・・

 昼間にパソコンを打っていると、パソコンが熱くなって爆発しちまうんじゃないか?と思ってしまう。こんな熱気の中で書こうとするのは大変。木の机にも椅子も直接日光が当たっているわけじゃないのに、恐ろしく熱気を含んでしまっている。熱帯の木は熱気を含むのだろうか?家全体に熱がこもっているみたいだ。きっと、この家が伝統的な家じゃないからだろう。本当はこんなコンクリの家には冷房を入れなくちゃいけないんだろう。

 あぁ。こんな話題しか書けなくて情けない。けど暑い。

 

 夕方、もう家にいても暑いだけで仕方ないと、安田の爺ちゃんのところへ行く。安田さんは80歳の爺様で、もう30年以上もラオスに住んでいる。安田さんと私は飲み友だちだ。サムヌアから帰ってきて顔出さないと、心配されると思って行った。案の定、餃子を作って、いつ来るかと思ってた・・・と言われた。この前の時も、「今日来るか、明日くるかと待っていた」と刺身を二日前から作って待っていてくださった。ただ、ずぅっといると、耳からビールが飛び出るほど飲むはめになるので、今日は、夜用事があるので・・・と、早々に引き上げてきて、再び家で暑がっている。

 今、外の道を、プーププープと、ラッパが吹いて通った。夜だけど、フランスパン売りの自転車である。ラオスでは豆腐やさんではなくて、パンやさんがラッパを吹いて通る。夜、焼きたてのパンを売っている。呼び止める元気も食欲もなく、ラッパは通り過ぎた。

日本のうちの通りを、これまでは2人のお豆腐やさんが、ラッパを吹いて通っていた。私がいつも買っていたおじさんは自転車でやってきた。ラッパは少し悲しげな音で、私は「お豆腐やさぁん」と買わずにはいられない気分にいつもなった。おじさんは水をいつもさわっているせいか、白くてふやけたような大きな手をしていた。そのお豆腐やさんも昨年、私がラオスに来ている間にやめてしまった。お豆腐やさんの店は、今はおしゃれなインドカレー屋になってしまった。カレーも好きだが、前を通ると寂しい気分になる。あのお豆腐やさんはいったいどうしたのだろう?と思っていたら、いつか、自転車に乗っているのに出会った。いつもの見慣れた黒いごっつい自転車だったが、お豆腐を入れた木の箱はなくて、前のかごには、ぬいぐるみかなんかが入っていた。孫のお迎えかなんかなのかな?と思って、少しほっとしたような、でも、やっぱりお豆腐やさんのままでいてほしかったような、そんな気がした。

 あぁ、暑い。外では虫が鳴いている。

5月14日(水)「ドッククンの種ひろい」

 午前中、ビエンチャン市内、タンミサイ小学校にて、人形劇公演。子どもたち330人ほど。朝、涼しいと思ったが、急に日差しが出て暑くなった。

 ドッククンの花が咲き誇っている。目のさめるようなあざやかな黄色の花の咲く木だ。明るいかげりのない、ひたすら明るい黄色が青空にはえて、美しい。このドッククンは、その真っ黄色の藤のような花の間に、黒い毒ヘビのような・・・・まぁ、いわば巨大なインゲン豆の黒く固くなったようなさやだが・・・・がぶらさがっている。あれが種なのだ。私は、種を拾って日本で植えてみたい。

 南国の郷愁?・・・きっと、東京では育たない。夏はともかく冬は越えられないだろう。それに、きっと夏だって、やっぱり、蒸し暑い東京でも、太陽の陽光は足りないと思う・・・けど、やっぱり、あのひたすら黄色が明るいこの花を植えてみたくなった。

 車が、黄色く花盛りのドッククンを通り過ぎるたびに、「止めて!種が拾いたい」と言いたかったが、仕事がらそうもいかない。ずっと、ドッククンが気になって仕方なかった。

 今日、日差しの暑い昼下がり、わざわざ1人で遠回りして、ドッククンがたくさん植わっている道を通った。下を見ると、あるある。毒蛇のようなサヤが土に落ちているではないか!私は拾った。ちょっとへんてこな行為のようである。50センチほどの、毒蛇のようなサヤをいっぱい拾い、ザックの後ろに突き出しながら歩くのだから、なんだかヘンである。何気ない顔をして拾った後、外国人向けのミニマート「ピンポン」に行った。

 ミニマートのおばちゃんに

「あのね、これ、ドッククン、さっき拾ったんだけど、どうやって蒔けばいいのかしら?」

 すると、普段は商売のことで頭がいっぱいに見えるおばちゃんが、意外にも本気で相手にしてくれた。

「これ?どうやって、蒔けばいいのかしらね?」 

と、従業員にも聞きつつ、サヤを手にとり振る。音がしない。「あら、音がしないわ。中に種が本当に入っているのかしら?ちょっと、金槌もってきて」と、店の従業員に金槌を持って来させた。彼女は自ら、ミニマートの店先で、固いサヤをガンがんと割ってくれる。中から、外の大きさからしたらずっと小さい種が出てきた。「これを蒔きなさい。これが種よ」と、私にくれた。

 一見、商売のことでは、絶対損な商売はしない・・・がめつそうなおばちゃんが、育つかどうかもわからないドッククンの種のことで、一騒動してくれた。

 なんだか、それが嬉しい1日であった。

 午後、4人でマッサージ。私は市場経由で、先に家に戻り、夕食準備。梅干し焼きめし、ゴーやチャンプル。ちずこさんの春雨炒め。ビール。

 

5月15日(木) 「久々に日記を更新」・・・1日いつまで続くのやら?

久しぶりに、日記を更新・・・といえども、こうした公開日記というのはしんどいなぁ、めんどくさいなぁ・・・と思い出す今日この頃。

つまり、ただ、ダラダラ自分の記録じゃ、読む人にはわからないからなぁ・・・いろいいろと、事情説明が必要になるわけだ。
まぁ、いいや・・・

 さて、ここのところ、ずっと忙しくて、書けなかったのだが、いきなり登場人物が増える。トト子さん、クロちゃん、ちずこさんである。3人は、パントマイマー、人形使い・・・というパフォーマーである。5月7日に、ラオスに到着。それ以来、一緒に公演をしてまわっている。うちに泊まっていて、私は、家事まかない兼、通訳兼、公演の時、前座で、子どもたちにお話をしている。

 今日は、ビエンチャンの中心地にある国立図書館の中で、ワークショップがあった。トトコさんが、ラオスで手に入る材料、籠や竹やスプーンを使ってのマリオネット作りを教える。シンプルだけど、とても面白い動きをする。ワークショップに集まったのは、幼稚園の先生、図書館員など30人近く。ラオスで面白いのは、こうして物作りのワークショップなどをすると、みんな、説明を聞くよりも先に手を動かして、どんどんと作りはじめてしまうことだ。日本では「はい、何センチの切り込み・・だの、ここを2センチほどつまんで縫う」だの細かい説明がないと、みんなできないのに、ここラオスでは、みんなどんどん説明を聞く前から、見て作りはじめてしまう。

「はい、今、トトコさんが説明するから、聞いて」と言っても、もう針を持つ手が動いているのである。で、結構間違う・・・けど、気にしない。細かいことはあぁだ、こうだ言わずに、どんどん自分なりのものを作ってしまうのは、ラオスの人の面白いところだ。

 午後は、ちずこさんの「コミュニケーションスキル?」のワークショップ。相手をよく見る訓練(3人組で、1人が立ち、1人が中腰、1人がしゃがむ・・・をそれぞれ重ならないように、言葉を発することなく繰り返す)・・・・つまり、お互いをよく観察する訓練・・・だの、自分の気持ちを伝わるように表現する(ボールを投げるようなしぐさで、自分の気持ちが相手に届くように投げるジェスチャーの訓練)だの・・・あれこれ・・・だが、ちずこさん曰く、ラオスの人は、身体で気持ちを把握する能力があるという。日本人の方は、なかなか理屈がわかっても、なかなか身体で表現する力がないとか?
みんな、先生たちはとても楽しんでやっていたように思う。

 夕食は、以前からの友人、バンオンのおうちに4人が招かれる・・・というか、無理矢理ごちそうしてもらいに行った感じだが・・・・カオニオ(もちごめの蒸したもの)、スープパック(ラオス版、野菜のゴマ和えのようなもの)、ゲーンノーマイ(筍のスープ)、オッ(うまく説明はできないが、とにかくハーブの味が利いている、苦いのやら香ばしいのやらわからないが、おいしいスープ)・・というとってもラオスラオスした料理を作って出してもらった。おいしかった。

 最近は雨が降るようになり、夜、すっかり過ごしやすくなった。外では虫が鳴いている。今、天井を、ネズミが走った。

 

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