ラオス日記(2005年8月3日〜)

 2005年8月3日よりラオスに来ています。これまでの毎回の日記を見ると、懲りもせず、毎回、3日坊主で、特に前回は本当に3日坊主でした。毎回、地方に行くのが滞在の目的なのですが、ビエンチャンにいるときにしか書いていないので、「電話が通じた」とか、「大家の家のきかん坊少年、カオサイの話」とかで終わってしまっています。今回も、そうなりそうな感じ・・・・をぜひ脱したいと思っています。
 今、
ラオス山の子ども文庫基金というのを作っていて、本当はその仕事できています。一度9月には日本へ戻りますが、これから半年くらいはラオスベースのつもりです。まだ本格的に仕事は始まっていませんが・・・・・
 そちらのホームページもできたので、
ラオス山の子ども文庫基金 (私自身は、今ここでご覧のような、ガリ版手刷りの絵日記みたいなホームページしか作れないので、そちらは、文庫基金の建設担当のシンサクくんが枠組みを作ってくれました。)
 そちらで活動報告を、ここでは、パヌンの3日坊主日記を書きたいと思います。


色の変わっている日にちが読めます。

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2005年8月7日(日) ペープサートのワークショップのこと

 8月3日から6日まで、自治労東京の保育士の方々を中心としたメンバーがラオスを訪れて、ペープサートのワークショップを行った。その通訳をやった。ラオスの「子ども文化センター」の活動が、今、ビエンチャンだけではなく、地方にも展開しはじめていて、そこで働くスタッフの人たちを対象としたワークショップだった。

 ビエンチャン付近の人たちは、もう何度も、その手のワークショップは受けていて、今更ペープサート?という人もいたかもしれないが、地方の人にとっては、紙と棒さえあればできる人形劇・・・・ペープサートは、それだけでも、目から鱗・・・ではないが、新しい経験だったろうと思う。
 みんなとても熱心で、しかも、日本から準備してこられた「塗り絵」をして切り抜くだけの「三匹のこぶた」や「三匹のやぎのがらがらどん」のペープサートも、ラオスの人たちの手にかかると、コブタが黄色になったり、緑になったり・・・・藁が青かったり・・・同じようなものが出来上がるはずなのに、まるっきり一人一人が違う個性的なものが出来上がるから不思議であった。

 ラオスの南、チャンパサックから来ていた中年の女性の先生がいた。コブタを大胆にも、灰緑色に塗り始めている。その後、木のおうちが、すでにペンキで塗ったような青であった・・・・老眼鏡をかけて真剣に塗っている姿を見ると、うっかり声をかけて邪魔しちゃいけないんじゃないか・・・・という感じがした。でも、ふっと鼻めがねにして顔をあげ、ニコッと笑う顔に出会うと、あぁ、この人はやっぱり子どものために働いている人だな・・・・・というのがわかった。
 ガラガラドンのトロルの迫力が足りん!と自分で、ぼさぼさの髪を描き足している人もいた。「ずっと橋の下の岩に住んでいるトロルがさ、こんな櫛を入れたようなキチンとした髪をしているはずがない」と言う。彼女が塗ったトロルは迫力があった。
 ラオスの人は、普段はそんなに個性を主張するように見えないが、意外にこんな時、ただ見本どおりにしない・・・・・ところがわかって、面白い。きっと日本だったら、見本に寸分もたがわず、同じように作ることが「いい」とされているだろうけれど、ここでは、そうではない。

 そんな活動の通訳だったので、面白かったのだが、開会式と閉会式の挨拶だけは困った。式のお決まりの挨拶でもあるが、でも、それなりにちゃんと話しているので、一生懸命聞かないといけないが、難しい役人挨拶言葉を使われると、大変に困ってしまうのであった。「安井さん、困った顔してたわね。」と、日本人の方々に言われ、「しまった。やはりバレたか・・・・・」と。
 でも、お話の方なら得意なので、私の通訳が「面白かった」というラオス人の参加者の感想もあったそうだ。「通訳が面白いって聞いたことないけど・・・・そう言ってたよ」と、知り合いの日本人に言われ、それはそれで、嬉しいやら、でも喜んでいていいのやら・・・・わからないのだが・・・・
 講師の日本人の人々、参加者のラオスの人々・・・・ともに、子どもの仕事に関わる人々の一生懸命さ、ひたむきさ・・・を感じた日々でした。
 私も、いくつか、ぜひ、山の文庫で使おうっと、というアイディアをいただきました。


2005年8月8日(月)  真夜中の銃声


 夜、ざわざわと胸騒ぎのする夜だった。暑くはないのに、寝苦しかった。眠れなかった。
 外もやけにざわざわとしていた。やけに犬たちがほえた。

 きっと、12時も過ぎた頃だろうか?
パーン!と銃声が響いた。隣の家の前のような・・・・そんな近さだ。その後、どなる声がして、バタバタと数人が、前の通りを駆け抜ける音がした。足音はすぐ遠ざかった。
 うそっ!身体が硬直したような気がした。おそるおそるそっと起き上がった。電気はつけない方がいいだろう。もし・・・・そのギャング団(私はすっかりそう思い込んだ)の一味がこの辺にいたら・・・・・電気をつけたら、気がついたのがばれてしまう。
 耳をすました。家の前で発砲された(と私が思った)隣の家も・・・・コトとも言わない。そして、同じ敷地内の隣の大家の家を見た・・・電気がついていない。もし寝こけていたら気がつかないのかもしれない・・・・それとも、みんな息を潜めているのかもしれない・・・・・私も息を潜めていよう・・・・
 またベッドに横になった。犬がやけにほえている。蛙が、ボォ〜ボォ〜と鳴いている。
 サササササ・・・・と何かが走る音がした。壁のすぐ向こうだ。私はベッドから跳ね起きると、頭を抱えて床の上に伏せた。もし、ギャング団!の一味がこの敷地内に隠れていたら・・・・・と思うと、体中が固くなった。私はそのまま床を這って、壁から遠く、なるべく家の中心の壁に囲まれた場所に張り付いた。
 何も起こらない。
「落ち着けよ。あれは、どう考えても人の走る音じゃない。犬だ。この大家の敷地内にも犬が4匹くらいいるもの・・・・・・犬だよ。どう考えても犬だ」
と、よくよく考え、自分を納得させると、また這ってベッドに戻った。
 コト、コトコトコト・・・・・また、身体が固くなった。「いやいや、あれは猫だ・・・・・」
 あんなに賑やかに鳴いていた蛙が突然なきやんだ。「どうしてだろう?」 普段なら気にもしない、のどかな蛙の声にさえ、緊張した。

 これだけで、こんなに怖いのだから・・・・・こんなに緊張するのだから、いったい、戦場に暮らす人々。イランやアフガンや、そして、少し前の東ティモールや・・・に暮らす人々は、どんなに大変だろうか?どんなにストレスが溜まることだろうか・・・・・と私は思った。「カッレくんとスパイ団」。スウェーデンの平和な田舎町を舞台に起こった事件を解決していく少年、カッレくんが主人公の児童文学小説・・・・・あんなにわくわくして読んだけど、私はカッレくんにはなれない。ダメだ・・・と思った。
 あれこれ、頭の中をぐるぐる渦巻いたまま一睡もできなかった。夜明け、隣のお寺が動き出す頃、やっと寝た。朝、目が覚めることを祈って。

 次の日の朝、元気に隣の子どもが出かける声を聞き、「なんだ何でもないのか・・・」と思って起き出した。当然だけど、無事目が覚めたのだった。
 大家に尋ねると、「そうそう、銃声がしたよ。私たちも起きて、二階からそっと見たんだよ。銃声は川向こうの、もっと遠いところだよ。きっと、怪しい泥棒を、地域の警備の人たちが追っていたんだよ」という。「誰が発砲したの?」「警備の人でしょ・・・・そう〜、あんた、眠れなかったの?私はその後、グゥグゥ寝たよ」と、大家のおばちゃんはガハハと笑った。ラオスの人たち、何人かに、そぉ〜、大丈夫よ。そんなときは、絶対開けちゃダメよ」と、軽く流されて、私もやっとホッとした。
 まっ、きっとたいしたことはなかったのだろう。昨日は、二度とこの家で眠れるだろうか?とか思ったけど、夜、寝不足だったせいか、激烈な睡魔に襲われてぐっすり寝た。
 知らぬが仏。眠ってしまったほうが勝ちだ。
 
2005年8月9日 再びカオサイのこと

 
いつもこの日記になぜか登場する、お隣の大家の3男、カオサイ少年である。1年生。今、夏休み。毎日家にいる。

 3日に家に到着した途端、「お土産は?」と、やってきた。「ちょっと待って」と、埃だらけの部屋で、トランクをあけ、スーパーで買ってきたポケモンのおまけがついたお菓子をあげる。ここのところ、毎回、このお土産を楽しみにしている。
 それから昨日まで、朝から晩まで家を留守にしていたので、やっと家に落ち着いていた昨日から、カオサイが「ラオニタン(お話して)」とやってくる。
今回、自治労の方々18人と同時に成田からやってきたので、一人5kgの荷物をお願いしてしまった。ほとんどが絵本である。でも、その多量なる絵本をカオサイに見つかると、収集がつかなくなるので、絵本が置いてある真ん中の部屋にはカオサイは入れない。
「ちょっと待ってて、絵本とってくるからね」と数冊、おなじみの絵本を持ってくると、「これだけ?」などといいながら、「さるとわに」や、「おおきなかぶ」や、「しー!ぼうやがおひるねしているの」などを、まるで確かめるように聞いていた。

 その後、急に「凧を作る!」と言う。机の下に大きなビニール袋と、ビニールひもが一巻、置いてあるのが、目に付いたらしい。「それ頂戴」とおっしゃる。「どうするの?」「凧作りたいんだ」「学校で習ったの?」「近所のみんなが作ってるんだよ」と。近所の子に負けたくないのだろう。
「じゃあ、いいけど。でも、私はそこまで付き合わないよ。私はね、仕事があるの。カオサイ自分でやるんだよ」というと、頷いているけれど、次々と注文がくる。「棒ちょうだい」。「はさみ、テープ」
 棒なんて、凧にいいような細いひごなどない。ラオスのほうきの柄は、細い葦のような茎を束ねたものなのだが、ほうきが1本壊れかけていたので、その柄の葦みたいな棒をばらして、「これでいい?」と聞くと、「うん」ともくもくと作っている。結局、私は、あれこれ切ったり手伝わされたが、出来上がったのは、どう見ても飛ばないだろう・・・・・というような凧だった。
「キヨコ持ってて。ぼく走るから」と、カオサイ走るが、凧は地面を這っている。「だめだよ。雨降ってるし・・・・重いよ」と言うと、すぐその凧は打ち捨ててしまった。そして、「また作る」という。
「材料あげるから、おうちでお兄ちゃんに教えてもらいなよ」と言うと、頷く。ビニール袋と、はさみとテープを持って家に行って、ずっと大きなお兄ちゃんに「教えろよ」と怒鳴り、その後、お母さんに、「兄ちゃんが教えてくれないよぉ」と、文句を言っていたが、しばらくすると近所の子と二人で、床にはいつくばるようにして、凧を作っている姿を目にした。

 次の日、「ウアイキヨコ〜(きよこねぇさん)」と呼ぶ声がするので、出てみると、カオサイと近所の男の子が5人いる。
「凧作るから、ビニール袋頂戴。それから、はさみとテープ貸して」ときた。うへぇ〜、まいったぁ〜と思いつつ、「じゃあ、いいけど、私は中で仕事しているから、玄関の外のベランダのとこでやってくれる?」と言うと、みんな「ドーイ(はい)」と、きちんとした返事をする。私が取りに入る、カオサイだけが、玄関の網戸をあけて中に入り、他の子には「家には入っちゃいけないんだぞ」などと言っている。
 カオサイは、前回までは、なかなか近所の子と遊べなかったのだ。仲間に入れなかった。それが、今回、一緒に元気に遊んでいる姿を見て、しかも結構、ガキ大将的でもあり・・・・よかったなぁ・・・と、なんだかホッとした気持ちでいる。
 私はその後出かけてしまったので、凧をあげる姿を見ていないが、戻ってきたら、はさみとテープは玄関先にちゃんと置いてあって、玄関先はビニールの切りくずで散らかっていた。


2005年8月10日(水)〜11日(木) S村を訪ねる

 「車椅子の少年 ペンのその後」
 
ビエンチャン郊外の知り合いの村、S村を訪ねる。
 前回、3月に来た時にまだ入院していて、車椅子の少年になってしまったペンが、村に帰ってきていた。村の景色の中に赤い小さな車椅子が、不釣合いにモダンに見える。少しだけ脚に力が戻ってきたようだ。車椅子から手すりを捕まって階段を上れるようになっていた。表情も明るくなっていて、ほっとする。が、お母さんが、背中とお尻の傷 (彼は、木から落ちて、竹に串刺しになり、そして、神経を切断したらしい。歩けなくなった。背中とお尻に丸くえぐれた傷跡が残っていて、まだうずいている)を見せてくれたが、痛々しい。ペンはお尻を引きずって移動するから、どうしてもお尻の傷も治らない。
「何か塗り薬ぬってないの?」と尋ねると、母のウーは、「目薬がいいっていうから、目薬を塗ってるの」と言う。
「目薬?そんなの塗ってどうするのさ」 「だって、いいって言うのよ」
「誰がいいって言うの?お医者さん?」 「村の人」・・・・・う〜〜〜〜大丈夫だろうか?
 ペンに付き添って、ずっとビエンチャンの病院(リハビリ病院)にいたおばあちゃんも帰ってきていた。ろくにラオス語が話せないおばあちゃんは、ペンよりも村に帰りたがっていて、私が会いに行った時、まるで子どもがすがりつくようにやってきて、手をつないだまま離れなかった・・・・
「やっと村に戻れてよかったね」と言うと、ばあちゃんは
「病院の先生たちに、もう帰っていいよって、何度も言われたのだけど、孫の脚が治るまで私は帰らないって、言い張ったのさ。でも、もうこれ以上はどうしようもないから帰れって言われてね。でもね、わたしゃ、孫の脚が治るまで帰らないよ。それに、帰るバス代がないから、帰れないんだよって言ったら、先生が、ちょっと待ってくれよ・・・・って少し考えてね、それで、バス代出してあげるから帰りなさいって、バス代もらったから、帰ってこられたんだよ」という。
 ペンの父は若いが村長で、村で一人2階建ての家を建て、ついこの間は、村ではじめて、水浴びのできるトイレを作り、一見、そうは苦しそうに見えないのだが、ペンの治療費で、莫大な金を借りまくり、それ以上、どうしようもなくなったのだろう。父と母は、病院の息子と婆ちゃんを迎えに行くバス代もなかったそうだ。
 
「サバナケートの看護学校に行っているミー」
 ミーが夏休みで帰ってきていた。
 1ヶ月ほど前、彼女から日本に手紙をもらい、実習で村回りをしたりするのに、お金が全然ないから、少し送ってくれないか・・・・と書いてあったのだが、そのままにしてしまっていたので、気になっていた。会えてよかった。
 ミーの家は、2人のお母さんがいて、(モンは一夫多妻の人もいる)。ミーの母(1番目の妻)には、2人の娘。ミーと妹のメ。ミーは現在、看護学校で勉強中の24歳。妹のメの方は、ずっと前に結婚して、今、3人の娘がいる。下の2人は、双子で9ヶ月目。
 ミーの母には息子ができなかったため、母は娘たちが大きくなった後、養子を2人もらった。男の子トゥーと、女の子チャ。2人とも、モン族ではないが、モンの子どもとして育っている。
 2番目の母は、1週間ほど前に、4人目の子を出産した。
 メが3人の娘を連れて、隣村から里帰りしていて、土間一間だけの小さな家は、子どもでごった返している。
「今、この家には、私まで数に入れたら、子どもが10人いるのよ」とミーが笑った。
「久しぶりだから、うちに泊まっていってよ」と言う。
 土間だけの家にはベッドが3つある。普段は、1妻と子どもたち、2妻と子どもたち、そして、まだ未婚の長女ミー(普段はいないが)のベッドで、父は1妻と2妻のベッドのどちらかにいる。部屋が分かれているのではなく、ただカーテンで仕切られているだけ。今は、次女メが、まだ小さな3人娘を連れてきてるから、ますますてんやわんやである。今は、1妻が、「私と子どもたちは、土間にゴザ敷いて寝てるのよ」と言う。
「私まで来たら、大変だからいいよぉ。他の家に泊まるよ」と言うと、「うちに泊まれないっていうの?あんたはミーと一緒に寝ればいいから、大丈夫なのよ」と、1妻が言う。
 夜になると、土間にゴザを敷き、蚊帳をつって、子どもたちがごろごろと転がって寝ている。もう、誰が誰の子やらわからない。朝起きて、泣いていたり、あやしていたり、ハイハイしてたり・・・・まるで託児所である。
 長女のミーと次女のメ。ミーはモンの女の子には珍しく、学校に行き続けて、今、家を離れて看護士になる勉強をしている。難民キャンプから戻ってきてから小学校に行きなおしたために、彼女はもう24歳くらいのはずだ。よく、あきらめずに、よく進学し続けた・・・と感心する。新しいモンの女性の道を自分で歩きはじめている。
 次女メは、中学校には入らないうちに結婚した。つい、昨日まで細い少女だったが、急にお化粧したり、娘らしくなったな・・・・と思ったとたん結婚した。少女は妻になり、畑仕事や家事に追われるモンの女になった。今、双子を両手に抱く、たくましい母親になっている。

 今朝、朝ごはんも食べずに遊びに行っていたトゥー(1妻の養子、10歳くらい)が戻ってきた。
「ご飯は?」「いらない」と、トゥーは元気なさそうに言うと、外に出て行きながら、吐いた。それを見たとたん、ミーが駆け出していって、トゥーの世話をしていた。背中をさすり、吐かせてやると、そのあと、水を汲んできて、口と手を洗わせた。そして、その吐いたものも、さっさと掃除した。その姿を見て、ミーは看護士としていろいろと身に付けながら、しっかりと自分の道を進もうとしているのだろう・・・・・と、なんだか胸が熱くなってしまった。

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8月12日(金) 雨の日
 今日は一日雨。合羽をかぶり、自転車で移動する。
 ラオスには、仏様の日というのがあるが、その日とその前の日?お供えのお花を売る屋台が出る。
 私はいつも、近くの市場の交差点の横に出る小さな花売りの屋台で、花を買う。
 私の部屋には、大家さんが「貸し出して」くれている、仏像が2体いらっしゃる。高いところにお上げしないといけないそうなので、洋服ダンスの上にいらっしゃる。
 そのため、すぐ、お水とお花を差し上げるの忘れてしまうのだが、この家に住まわせてもらっているので、やはり、思い出すと「お守りください」と祈っている。
 さて、その花屋さんは、ラオス人のおばちゃんの姉妹がやっているのだけど、その人たちは大して美人でもなんでもないのだけど、私はある時、そこで花を買ったら、「コープチャイ(ありがとう)」と言って、花を手渡してくれたときの笑顔があんまり素敵で、私は感動してしまった。
 それは決して、特別でもなく普通の笑顔だったのだろうけど、あまりにその笑顔が素敵だったので、それからその店で花を買う。
 笑顔に会うと、自分も自然に笑顔が返せるような気がして、その人たちに出会うのを楽しみにしている。
 今日も、合羽を着て自転車をこいで家に帰る途中、花を買った。
 おばちゃんたちも合羽を着て花を売っていた。そして、やっぱり笑顔に出会った。
 

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8月13日(土) 庭に珍客
 私の借りているおうちは、ビエンチャンの中心地から歩けば15分くらい、自転車で5分くらいのところで、まだまだビエンチャンの町中!である。
 大家さんと同じ敷地内に住んでいるわけだが、現在、大家はなんだかとてつもなく大きな家を建設中で、もうかなり前に始めているのに、一向に終わる気配はない。作業をしては、金がつき、または疲れ、一休みしてからまた続けるという具合みたいで、今、また3ヶ月ぶりに作業を再開中。建設中の家の前には砂山ができている。
 ある朝、起きてふと見ると、砂山で、犬が5〜6匹楽しそうにじゃれて遊んでいた。砂をけちらして、転げ回って遊んでいる。大家に「いったいこの家に犬が何匹いるの?」と尋ねると、
「おぉ〜」と、よくぞ聞いてくれたとでもいうような声を出して、大声で数え始めた。「うちの隣の犬が3匹、前の家のが2匹、斜め前の家から2匹・・・・いつも遊びに来る。それからうちのもいれて〜9匹よ。9匹がね、うちに遊びに来るのがすきなのよ。建設中の二階まで駆け上って駆け下りてフンもして、遊んでる」と言う。この家のは、猫もいる・・・らしい。当然、ラオスではチーチアムと呼ばれるヤモリは、家の守りをしているのだかは知らないがいっぱいいる。夜中にトッケートッケーと大声でなく、ガップケーというでかいヤモリみたいなトカゲもいる。
 それくらいは、別に当たり前の同居人たちなのだ。


 今朝、カランコロンとまるで牧場のようなのどかな音がするので、さすがビエンチャンといっても・・・・と、家の近くのどこに牛がいるのだろう?と思って、窓から外を見ると、なんと目の前、家の前の庭に牛や子牛があふれかえっていて、勢い良く、もぐもぐもぐもぐと草を食べている。私の家の前の庭は草ぼうぼうなのである。レンガ敷きなのに、レンガの隙間から勢いよく草がはえていて本当にどうしようもないのである。 草取りまではさすがに手が回らない・・・・と、大家の苦肉の策かしら? と思ったものの、牛たちが、この庭の中で一心不乱にむっしゃむっしゃ小気味よい音をさせて、草を食べている風景には、唖然としてしまった。
 大家の末っ子、カムレックが下はすっぽんポンのまま突っ立って、「ングア、ングア(牛、牛)」と、言い、目を丸めている。牛の方は、ここが人の家の庭だか草原なんだかなんかはおかまいなしに、むしゃむしゃと食べ続けては、モウモウ言っている。今度はうちの前から、大家の巨大な建設中の家の裏手の草を食べにトットットと1頭が移動すると、茶色の群れはそろって動き、みんなでむしゃむしゃ食べ続けている。
 大家のおばちゃんに、「いったいどこの牛?」と聞くと、振り向いたおばちゃんは、顔中にキュウリを貼り付けて(美容パックだそうだ)、「近所に、牛肉屋があるのよ。焼肉になるそこの牛よ。ここらじゃ、草があんまりないからね、腹すかせて入っていたのねぇ。でもいったいどこから入ってきたんだろうね。」なんて言っている。牛はどこからか、ぼぉぼぉの雑草を見つけて迷い込んできたらしい。大家さんはしばらく草を食べさせていたが、「これ以上置いておいたら、花まで全部食べられちゃうね」と言って、玄関の鉄の格子扉を押し開けると、牛のご一行様に退散願った。まるで、朝っぱらから珍客。私にとっては、初の牛の訪問であった。



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8月14日(日) 日曜日
 言わずと知れたことだが・・・・?日曜日は掃除である!
 ラオスの家は、ここ数年借りっぱなしなのであるが、数ヶ月いないことも多いので、戻ってくると、いちいち、一通り、蜘蛛の巣と埃を払うのに、一仕事なのだ。私はあまり掃除が得意でないので、一気にできない。少しずつ・・・と思い、一窓ずつ、掃除をすることにした。窓にかかっているカーテンをはずして洗ってみると、黄色のカーテンなのに、赤茶色の埃色というか、真っ黒というかすごい汚れで、びっくり。そういえば・・・・と今更気がついたわけじゃないが、ここに来て以来、一回くらいしか洗っていない。ここはガラスなど入っていないので、直接土ぼこりが全部入ってくるせいもあろう。カーテンのついている窓は6窓あるので、1日に2つずつやることにした。言っておきますけど、桃太郎のおばあさんよろしく、手洗いである。うちに洗濯機はない。
 そのうちに、今日はカオサイが、近所の男の子2人を連れ、3人で家の中まで入ってきた。「ラオニタン(お話して)」ときた。あぁ〜、とうとうきたか・・・・・ここのビエンチャンでまで、お話漬けの日々は送りたくないのだが・・・・仕方ない。カオサイが、「水おくれ」という。「水くらい、自分の家で飲みなさいよ」と言うと、「嫌だ。水くれ」という。カオサイにとっては、どうも、水を気軽に飲めるかどうかは、気をおける仲かどうかの目安・・・そんな感じのような気がする。「みんなで飲みなよ」と、水とコップを一つ出す。
「あんたたち、なんていう名前なの?」と聞くと、二人の男の子は嬉しそうに「ぼくはユゥー」「ぼくはトー」と目をくりくりさせている。カオサイは一番小さいのに、威張っていて、「この絵本だよ。ぼくは知っているけどね」と、私が読み出すと、「次には何が出てくるよ」と、鼻高々というのである。そして、トーの座り方が悪いと、「トー、こうやって腕を前に組んで座れよ」などとお行儀の指導までしているので、私はもう可笑しくてたまらなかった。 カオサイは私の顔をながめると、「ウアイキヨコ、チャイディーノォ(きよこは親切だね)」などと言うのだ。きっと、自分の友達たちを追い出さず受け入れてくれたのが嬉しかったのかもしれない。3つほどお話をして、「もう、後は明日ね」というと、3人は意外にも素直に帰っていった。「ぼくたちのほかに、あと5人いるんだよ。今日は来れなくて残念だったね」などと言う。うへぇ〜、これから毎日、ガキの襲撃にあうかと思うと、気が重い。残念なことだが?私はどうも子どもには好かれてしまうのである。

 今日は、ラオスに来てはじめて、家で夕食を作って食べた。ずっと知り合いの人と外食をしていた。私は基本的には、一人だったら外食はしない。日本でもそうだけど、どうも苦手なのだ。友達と外で飲むのは好きだけど・・・・家で飲むのも好きであるけど・・・・さて、でも一人だと、いちいち作るのは面倒くさくなってくる。でも、食わんわけにはいかないし・・・・・それに、私は食べるのは決して忘れない!!でも、せっかくだったら、作りおきしておけるもの、野菜がたっぷり取れるものを作ろう・・・と、昨日は、キャベツ、トマト、茄子、かぼちゃ、玉ねぎ、インゲン豆の入った野菜カレーを作った。カレールーではなくて、香辛料をいっぱいいれて作る、一応、インドっぽいカレーのつもり。ずっと前に日本のテレビでやっていたのをメモっただけなので、かなりいいかげんであるが・・・・でも、一人で食べるとあっという間に食べてしまうのだ。作るのには結構時間がかかっているのに、あっという間に食事の時間は終わり。寂しいこと。なんだか空しいね。

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8月15日(月) あんまりうまくいかない日
 朝、6時に電話がなった。電話の音で起きた。ちょっとびくっとする。まさか、何だろう?と思って電話をとる。
「きよこ、僕たち、これからビエンチャンに行くからね・・・きよこ、病院に来てよ」とボーの声がする。
 あぁ、そうだった、今日は、8月10日訪ねたS村から、車椅子の少年ペンを連れて、両親が、ビエンチャンのリハビリ病院に来ることになっている。
「本当に来るんだったら、朝、電話してよ」と言っておいたのだ。「雨降るから、濡れないように気をつけてね」と言う。彼らは、バス代がないから、ボーのオンボロの中古のバイクに歩けない息子を挟んで3人乗りをして、約150キロほどの道をビエンチャンまで来ると言っていたからだ。
「大丈夫だよ。バスに乗っていくさ」と、ボーは言った。
 私は、そろそろ着くころかな・・・と、10時半ころから、ビエンチャンの中心地から少し離れた、リハビリ病院に行った。車椅子の人、松葉杖の人、目の見えない人・・・・が病院を行き交っている。ここでは、車椅子、松葉杖なども作っている。あちこち覗いてみたが、まだ、親子3人の姿はない。私は、しばらく木陰に座って、本を読んで彼等親子を待っていた。そろそろ来る頃だろう?・・・・待てど暮らせど来ない。12時近くまで待っていた。待てど暮らせど来ない・・・・ちぇ!と思って帰る。帰りがけに入り口の門番さんに、「もし、S村から赤い車椅子の男の子を連れた親子が来たら、コンギープン(日本人)がずっと待ってたって言ってね」と言って帰った。どうしたのだろうか?来るって電話があったのに・・・・まさか、事故じゃないよね・・・・などと思いつつ・・・・それでも、病院に向かう方向のジャンボー(バイクタクシー)の中に、親子3人の姿がないか、私はいちいち確かめて歩いた。
 
 結局、彼等はビエンチャン近くのボーの、実の父の家で、バイクを止めて休むことにして、(結局、彼等はバイクできた)、結局、お父さんの家で一泊することにしたそうだ。ボーは実は、モンの子ではない。ラオス人の両親の間に生まれた。弟トゥーと2人は、カンマンとカムヤオという名の2人のラオス人の兄弟だった。幼い2人を残して母が亡くなり、そして、父は2人を育てられずに里子に出した。その2人は、別々のモンの両親のもらわれた。そして、2人はボーとトゥーというモンの名前をもらって、モンの両親に育てられ、モンの子どもになった。
 今、ボーは30歳を過ぎてから再び、生みの父に会ったのだ。そして、父の水田の一部を借りて耕している。(でも、それはタダではなくて、借りているそうだ)。ボーは、水田の仕事の忙しい時期2週間、その父のところに泊まっていた。そして、この日も妻と息子を連れて泊まったのだが・・・・・・日本だったら、一度自分を捨てた父を、そんなに簡単に許せるものなのだろうか?愛憎劇になりそうなのに・・・ボーは平気な顔をしている。寛大なのだろうか?それとも、複雑な感情を言わないだけなのだろうか?

 などなど・・・・あれこれ
 結局、私は病院で待ちぼうけを食わされ、他の会おうと思った人にも会えず・・・・・、電話をかけても誰もでず・・・そして、なんだかやることなすこと、スカ!の日であった。もう今日は一人おとなしく、夕飯を残り物で食べておこう・・・と思ったら、日本人のお友達、まゆみさんから電話があり、結局家を訪ねて、ビールをしこたま飲んでしまった。夜10時過ぎ、自分の家に戻ったら、大家はもう外の門の鍵をしめてしまっていた。私は今、大家の門で出入りしているのだ。(私が使っている門は、いばらひめのように、蔓が生い茂って、開かなくなっているため)、結局、私は鉄の門をよじのぼって家に入って寝た。まぁまぁ、うまくはいかなくても、無事なんとか家にも帰れて、家にも入れた。まぁ、こんな日もあるさ。

 

8月16日(火) 車椅子の少年、車椅子から押し車へ・・・
 

 今日こそ、車椅子の少年ペンを連れた、ボーと妻のウーが、ビエンチャンの病院へやってきた。朝9時過ぎ、「ついたよ」と電話。「キヨコ、来てよね」と。今度こそ、もういるのだから、待ちぼうけにはならないよ・・・・と自転車をこいで、リハビリ病院へと向かう。
 ウーが、もう大きいペンをだっこしている。彼等は結局バイクで来たので、車椅子は村に置いてきているのだ。
 ペンは車椅子から、自分で押しながら歩く、まるで赤ちゃんの歩行器みたいなものだが、それに昇格できる。4つの脚のうち二つに車輪がつき、二つは松葉杖のような棒で車輪はついていない。だから、コロコロとは転がらずに、動かすのに自力が必要となり、その分、訓練にもなるのだろう・・・・・という歩行器に、ペンは昇格できる。自分で歩けるのだ・・・
「でも、お金がないの。ほら・・」とウーは自分のバッグを開いてみせる。確かに金はない。その歩行器は、29万キップ。約3000円である。この支払いがあるから、どうしても彼等は私を病院に呼びたかったわけだ。まぁ、仕方ない、彼等はこれまでにペンの治療のためにうんと借金までしているし・・・。これくらいは・・・と、お金を渡した。
 ウーは、お金を持つと、病棟に戻り、その歩行器みたいなのを持ってきた。ペンはそれにつかまり歩いてみる。少し前に進んでは、向きをかえてみる。嬉しそうだ。
「どうして、4つとも車輪じゃないのかな・・・・」と言う。「そしたら、あんた、ぴゅ−って転がって向こうまで行っちゃうでしょ」と、母に言われ、ペンはきゃらきゃら笑った。
 少しずつ、よくなっていてほしいと思う。走れるようにはなれないかもしれないけれど。学校は9月からはまだ無理じゃないか・・・という。学校は歩いて30分かかるところだし、まだ彼はしょっちゅう、おしっこが出てしまうのだという。新学期が無理でも、できるだけ早く・・・・・せめてペンのために、小さな本棚でも作りたいものだな・・・と思った。


8月20日(土) シェンクワンへ行きます
 これから、シェンクワン県へ行きます。前回は車で行きましたが、今回は飛びます。15:30発。
 しばらく空ける前は、冷蔵庫の中も整理しなくちゃいけないので、さきほど残り物野菜チャーハンを作り、食べたところ。
 空は曇り空。雨がまた降りそうな天気です。
 ベトナム国境近くの郡の中心地ノンヘートで、いったいメールがつながるのかどうか?今回はためしにパソコンを持っていきます。村には電気がないけれど・・・


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8月21日(日) ベトナム国境近くから

昨日飛行機でポンサワンにつき、今朝のオンボロバスで、国境に程近いノンヘートまできました。朝8時発、12時着。
ここにきて、パソコンを使って、更新しようなどとは思ってもいませんでしたが、今、ここにも電話が入ってきています。とても変な感じ。電気だって、あるにはあるけれど・・・・
とっても、ここで自分がパソコンを打っているのが、奇妙でいやなのですが・・・・・とにかく、つながるのか実験。
でも、試してみたいので、少しだけ更新してみたいと思います。


8月22日
さっき一番鶏たちが鳴いた。2時半である。鶏たちは我先に負けじと、波のように鳴いて、村中の鶏が鳴いて、そして治まった。でも、まだ夜中である。その声で起きたわけではないのだが、夜中にこのモンの村でパソコンを打つなんて、やっぱり変と思いながら、書いている。試しているんだが、やっぱり、あまりやりたくないけど、これから、こっそりはこうしてパソコンも立ち上げて報告やアップデイトをしていかなくてはいけないんだろうなぁ・・・・と思っている。
 赤ん坊の泣く声がした。ねずみが天井を走りまわった。やっぱりこの夜に似つかわしくなくて、パソコンを消してしまった。


8月24日(水)
 今日は、サイガウ爺さんの家では、豆腐を作っていた。今、大豆の収穫の時期のようで、あちこちの家で豆腐を作っている。朝から大豆を水につけていたが・・・。11時頃から、石臼で大豆を引きはじめた。棒を押して石臼をまわすのだ。一見、そんなに大変には見えないのだが・・・・みんな楽々やっているように見えるので・・・今日、私は、豆腐作りを一部始終見ようと思ったので、途中、ビデオをまわしながら、大豆引きを手伝った。女3人プラス私、プラス男2人(1人は中学生)が、交代で石臼をまわしたのだが、疲れること疲れること。一見、のんびりと素朴でいいなぁ・・・と思っていた作業が、やっぱり日々のこととしては、本当に大変だなぁ・・・と思った。約2時間、石臼をまわし、そして、しぼった汁を、普段は豚のえさを煮ている大きななべにいれて煮て、それを布袋に入れて汁を絞り出し・・・・・それに、すっぱい葉っぱを煮た汁を入れると豆腐に固まる。豆腐が出来上がったのは、4時過ぎだった。これで、豆腐屋はできないなぁ・・・・と思った。なかなか食べるということは大変だナァ・・・・・と実感したのであった。爺さんの家の嫁さんたち(亡くなった次男の嫁と、最近養子になった甥っ子の嫁)に、「パヌンはモンの村に住みたい?:」と聞かれて、一瞬、答えにつまってしまった。モンの村にいるのは楽しいし、好きだけれど、でも、本当にこういう日々を送ることは大変だ・・・・
 豆腐はおいしかった。素朴な味がした。まぁ、あれだけ労力を使って作るんだからなぁ・・・・意地でもおいしいと言いたいのだ・・・・
 今、サイガウ爺さんの家では、発電機を回して、ビデオを見ている。中国のドラマをモン語に訳したもので、アメリカに行ったモンがたくさん作っている。爺さんの家では、たまにガソリンを買って来た日には、テレビをつけて、大勢の人たちが来て一緒に見るようだ。豆腐の作り方は、きっともう何十年も、きっと百年も前からも変わらない作り方をしているのだろう・・・・けれど、テレビやビデオはどんどんと入ってくる。なんだかヘンテコ・・・・・・なきがしてしまうのである。


 
8月28日(日) ビエンチャンの日曜日
 昨日の夕方、Y12という、17人乗りのプロペラ機でビエンチャンに戻ってきた。本当は金曜日に戻りたかったが、あいにく満席で、土曜日の便も、最後の1席が空いていてなんとか帰ることができた。今、ATRというラオスでは一番大きくて(でも小さいが・・)、安全(でも酷使されているが・・・)と言われている飛行機の2台のうちの1台が、ハノイで点検中だとかいうことで、この小さなプロペラ機があっちゃこっちゃを一生懸命往復しているらしい。よく落ちるとも言われるY12だが、私は嫌いではない。操縦席とか見えて、なんとなく楽しい。でも、それは天気がよくて、快適に飛んでいる限りにおいては・・・・だけど・・・・・・。ビエンチャンのワッタイ空港に着陸したとき、やけにキーキーキーときしむような音がしたが、無事ついた。

 25日、木曜日、村から乗合トラックに乗って、シェンクワン県の中心地、ポンサワンに出てきた。自家用車だったら、きっと3時間くらいで着くだろうが、客をあっちこっちで拾い、荷物を乗せおろし・・・・運転手は、たのまれた手紙を渡しに走り、伝言をあっちこっちで伝え・・・そのたびに当然、車は止まるので、結局6時間かかった。でも、なんだか人のいい運転手で、あまりぼれないらしい。客に値切られている姿を見ると、なんだか可笑しくなってしまって、イライラせずのんびり乗っているしかないなぁ・・・という気になった。
 ポンサワンは、戦争後に県の中心地になったのだろうけれど、なんだか開拓地みたいであまり落ち着く町ではない。特に車が増えて、砂埃と泥を飛ばして走っているので、うるさいし排気ガス臭い。ただ、今、県の中心地なので、毎回、ポンサワンに泊まる。いいのは、おいしいカオピアック(おかゆ)やさんと、ビエンチャンよりおいしい、手作りアイスクリームやがあることだ。

 金曜の午前中は、県の文化局にあいさつにいったり、他のあれこれ雑用をして仕事があったが、午後、ソムトン氏は、前回来た時に壊れて乗って帰れなかった車を運転してかえるとのことで、私たちは別行動となった。
 金曜の午後から、土曜の飛行機が出るまでの約1日、私は暇でたいしてやることもなかったので、司馬遼太郎の「梟の城」を読んだ。おかげで、頭の中で何か考えるときでも、「そんなことは心配するまでもござらん」とか、「だいじょうぶかのぉ」とか、そんな言葉になってしまっている。今日も、朝起きてから、なんだかだるくて、あまり何もやる気がしないので、洗濯などごしごしとしては、ゴロゴロと横になりながら、残りを読んだ。久しぶりに小説を読んだ。頭の中で、葛篭重蔵と、風間五平が走り回っていた。

 モンの村で人々は日々忙しいけれど、雨が降って暇になるときなど、暇をもてあますようだ。特に若者は・・・・私がぶらぶら村を散歩して一軒の若夫婦の家をのぞくと、「今までビデオを見てたんだ」という。その家は川で小さな発電機を回し、家に電気を引いていて、テレビとビデオがあった。ビデオはアメリカに行ったモンの人たちが作ったビデオである。モン自演のものもあるが、香港映画、インド映画などのモン語訳のものもある。今、それが多量にラオスへと入ってきているのだ。そこへ、一人の若者がやってきて、「雨だし、暇なんだよ。家にいても退屈だし・・・何か見るものはあるかい?」とやってきた。彼は高校を卒業している。彼は私を見ると言った。
「でもさ、ぼくは本当は本を読みたいんだよ。その方が、ビデオを見るよりす好きなんだけどね・・・・何かない?」

 10月から、私たちは(詳しくは、ラオス山の子ども文庫基金のホームページをどうぞ)、この村に図書室を作ろうとしている。モンの人たちは、元々文字に縁遠いから、本というものとは縁遠い暮らしを送ってきたけれど、でも、今から、特にこれからの世代の人たちは、文字を使わずに生きていく・・・・ことはなかなか難しいだろう。ビデオばっかり見ていると、ただ受け取るばかり、流されるばかりになってしまう気がする。、やっぱり、自分の頭の中に、あれこれ場面を展開させながら本を読むことの楽しさを、モンの若い人たちにも楽しんでほしいなぁ・・・と思った。そして、民話語りを聞いて育ってきた彼等には、その力が十分にある気がする。

 などなど書きながら、私はぼぉっとした日曜日を過ごしています。明日はシャキっとしようかな。
 
 
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といいつつ、珍しく数日体調を崩す。どうした・・・というと、食欲がなかった。ビールも飲めなかった。珍しいこと・・・・きっと疲れなのだろうなぁ・・・でも、特別無理したつもりもないし、あんなに寝ていたのになぁ・・と。
ま、そういう時もあるさ・・・・と、やはり、最後は、おかゆを炊き、梅干を食べた。何よりおいしかった。やっぱりおいしいいもんだなぁ・・・梅干とおかゆって・・・と久々に実感してしまった。
それから、しばらくそんな食事をしていたら、治ってきた。治ってくると現金なもので、すぐ、いつもに戻ってしまうのである。戻るのも早い。


9月3日(土) ボーとウーがやってくる

 朝、ボー・リー(車椅子の少年の父)から電話がある。ナーサイトーンのラオのお父さんのところに来ているという。
「9時半か10時に郵便局のところに行くから、来てくれよ」と言う。また、待たされてはたまらないので、「ついたら電話してよ」と言う。

 さて、約束の時間をとっくに過ぎても連絡なし。「まったく電話の一本もしろよ」とか思いながら、しばらくしてもまだ連絡がないので、「もしかして、ずっと待っているのかしら?」と思い、電話をかける。ボーも携帯を持っているのだ。

「うぅ、ぼくたち今、バスステーションのところの食堂で食べてるよ。今、すぐ来てくれよ」と、無愛想な彼の声がする。まったく、着いてるんなら早く電話しろよ。私はまったくあんたたちの家来か!とか思いながら、「今すぐいくよ」と自転車をこいで、タラードサーオ横のバス停の食堂に向かう。

 妻ウーが身を乗り出すようにして待っていた。ボーはフゥを食べたそうだが、彼女は「お腹すいていなから」と食べていない。 座って水を飲みながら話をはじめる。

 ボーたちは、次男のサイ、小学校1年生を、ラオス人の父のところに預けて、小学校に入れると言っていたが、やめたという。
「子どもたちが別れ別れになってしまうのは、大変だからね」とウーが言うので、
「そうだよ。お父さんとお母さんと一緒にいるのが一番だよ。いくら親戚でも、本当の親みたいには思ってくれないからね」と、私はほっとする。

「ある人がね、ナモン村のモンの人が、薬草のことをよく知っているっていうの。その人は、歩けなかった人を何人も治したっていうのよ。モンの薬を使うのよ。それで、治ったらお金を取るけれど、治らなかったらお金は取らないの。最初に少し払うけどね。私たち、それを試してみようと思うの・・・」とウーが言う。
 この手の「魔法のように治る話」はよく聞くので、私は半信半疑に聞いていたのだが、そのうちに、これは試してみてもいいのではないか・・という気になった。ペンのおそらく傷められてしまった神経がつながるかというと、それは難しいような気もするけれど、変な薬を使うのではなく、モンの薬草なのだそうだ。それでダメだったら、大金を払うこともないし、もし治れば200ドルほど払うそうだが、それはそれでいいじゃないか・・・少しでもよくなるのならば・・・という気がした。

「モンの医療法だよ」とボーがいう。
 最初に、お盆の上に、多少のお金と、線香と花かなんかを捧げてお願いするのだそうだ。あとは、その人が、薬を調合してシップするか飲むか・・・する。そして、治れば金を払うし、尚ならなったら金は払わない。

「それでね、パヌンに、刺繍を買ってもらいたいの。私の作ったバッグに、ペンも一つ作って私が縫い上げたのよ」と言う。ほらきたきた・・・と思いつつ、「いくつできたの?」ときくと「大きなバッグが一つに、小さな小銭入れが一つよ」と。 彼女の刺繍はとても美しいのだ。これも本当に丁寧に縫い上げてある。ペンも初めての刺繍とはとても思えない繊細で美しい出来上がりであって、びっくりした。彼はまだ8つか9つほどの少年なのである。「でも、これじゃとても治療費には足りないだろうに・・・」と思っていると

「でも、これはコンプリー(プレゼント)よ。これは、いつもお世話になっている御礼にあげたいの」と言う。

「いいよぉ。だって、まだまだお金がいるんでしょ?買うよ」。すると、ボーも 「これは、プレゼントなんだよ。金はいらない。もうすでにキヨコには世話になりすぎるほどなっているから」。
ウーは
「こんなことじゃ、お礼しきれないくらいだよ。来世に生まれたら、私はキヨコのケェ(家来)になるわ」と言う。

「何言ってんのよ。そんなの嬉しくないよ。友達に生まれてよ」と言うと、ボーも 「来世には、キヨコの家の番犬に生まれるよ」と言う。 まいってしまった。私は少しはペンの治療費とか出したけれど、実際、そう大したお金ではない。

「でね・・・、ペンの治療費のために、これから、一生懸命刺繍を作るから、この次にはたくさん買ってほしいんだ」と、続きがあった。なるほど、そういうことか・・・でも、これは協力するしかないだろう。

 ウーは、「月曜日にはペンを連れて、学校に登録しに行く」と言う。
「学校行かせるの?」と聞くと、「ペンにね、パヌンがオムツを買ってくれるって言ったから、学校行く?」って聞いたら、「うん、行く」って頷いたのよ」という。
 
 ペンはやはり神経を傷めているから、始終おしっこが出てしまう。それで、ズボンか濡れるのが気になって、学校へは行けないと言っていたが、オムツごときことだったら、何とかなるだろう。そんなの何とかするから、学校連れていかなくちゃダメだよ!って、先日、村を訪ねたときに言ったのだった。
 その日、暗くなってから、ウーが私のところへやって来て言ったのだった。

「ペンがね、こう言ったのよ『お母さん、ぼくは死にたいよ。ぼくの車椅子を道路のところまで押していって、そこで放っておいて。車に轢かれてぼくは死んでしまいたい』」と。
  そう、少年は言ったのだそうだ。・・・・そうか・・・・やっぱり、そんな風に思っているのか。胸がつかれるような思いがした。ペンの笑顔は戻っていて、明るく笑うその姿を見て、よかったな・・と思っていたのだった。ただ、小さな男の子が走り回れもせず、おとなしく女の子たちと刺繍をやっている姿には、悲しみを覚えたけれど・・・でも、やっぱり、ペンは死にたいなんて思っていたのか。母は続けて言った。
「『そんなこと言ったら、お金を出して救ってくれたパヌンやアメリカにいる叔父さんとかに悪いでしょう』って、私が言ったらね、『お金出して救ってくれなくてよかったんだよ。ぼく歩けないんだもの。放っておいてくれて、それで死んでいたらよかったんだ。ぼくは歩けなくて、他のみんなが学校へ行くのに、ぼくは行けない』と言ったの」  だ、そうだ。

 そこで、私は、オムツくらいなら、何とかするから、学校へ行かせなさいね・・・と言ったのであった。

 ペン自身が、オムツをしてでも学校へ行きたいと言うのなら、よかった・・・と思い、オムツがいくらするか知らないのだが、「これはペンが学校へ行くために使ってよ」と、オムツ代を渡した。

 ウーが「そろそろ行くわ」というと、ボーが「おまえ、腹空いているんだろ、何か食べろよ」と言う。「だってお腹すいていない」。「朝だって、少ししか食べていないだろ」とボーが言うと、ウーは「だって、お金ないもの」と、少し決まり悪そうにバッグの中を見せた。20,000キップ札が一枚入っているだけだ。それで、我慢して食べなかったのか・・・・まぁ、私はそういうわけで、バス停まで呼び出されたということだ。 まっ、今世は、私はなんだかんだ言っても、モンの人たちの家来?じゃないけど、お世話係りらしい。 まっいいさ。

「一緒に食べようよ」と私はフゥを2つ注文した。

 

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