モンの子どもたち と
東チモールの子どもたち に
絵本をおくりたい
山の村に 小さなおはなしの空間を
2002年の暮れから2003年の初めにかけて、タイ、ラオス、そして東チモールに行ってきました。
何故、ラオス、モン族、一辺倒だった私が、東チモールか?というと、あまり大きな理由もなかったのですが、友人が昨年まで東チモールで働いていたのです。SHARE(国際保健協力市民の会)というNGOです。里帰り?するというのでついていきました。東チモールの事情についても、あまり詳しくは知らず、のほほんと行きました。
東チモールは2002年5月に独立した国です。この同じ地球に、そんな生まれたての国があるなんて、よく考えると不思議です。東チモールは、つい最近、1975年まではポルトガルの植民地であったのでした。そしてポルトガルから独立しようとした矢先、インドネシアがいきなり軍を派兵し、併合宣言と、一方的にインドネシアの支配下に組み込まれることとなってしまったのです。
たくさんの人が虐殺されました。家もめちゃくちゃになりました。そんな破壊や虐殺が、国連が介入し1999年に住民投票が行われ、圧倒的多数の人が独立を選んだ後にさえ、さらにひどく行われたというのです。もちろんニュースなどで報道されていましたが、日本と時差のない国なのに、やはり、「遠いところで起こっている話」としか受け止められていなかった自分でした。
壁だけになった家。あちこちに
実際に東チモールに行って、まずびっくりしたのは、人々の親しさでした。首都ディリは、首都といっても、どこかのさびれた田舎町みたいなのですが、暑い暑い昼下がり、1人で散歩に出ると、道行く人々が、すれ違いざまにみんな挨拶してくれるのです。私も「ボアタルディ(こんにちは)」と、たどたどしく挨拶を返すと、びっくりするほどいい笑顔が返ってきます。すれ違う前までは、険しそうな顔をしている人が、一言声を交わすと本当に人なつっこい笑顔になるのです。こんないい皺を刻んだ笑顔を、つい最近まで虐殺など辛い目に遭い続けてきた人がどうしてできるのだろう・・人間はなんてすごいんだろう。私はなんだか泣きそうになってしまいました。
市場で米を売る。傘も売り物
大勢の人々が道を歩き、どこかへ向かっていました。小さな乗り合いバスも、大勢の人々を満載して走っています。私も歩いてその方向へついて行ってみました。大きな白い教会がありました。日曜日の4時。ミサが始まる時間だったのです。新年のミサ。みんな、こざっぱりした精一杯の正装をして、吸い寄せられるように、教会へ集まっていました。東チモールの人々は、敬虔なカトリックの人々が多いのです。
私は、昨年9月、国際交流基金の仕事で、インドネシアに行きました。それは、子どもたちに絵本などを使ってストーリーテリング、お話する仕事だったのです。3つの島、8つの町を回り、あちこちで子どもたちに、にわか覚えのインドネシア語でお話をしたのですが、私の印象に一番残っているのは、スラウェシ島で出会った東チモール難民の子どもたちでした。そこは、イスラム教のプサントレン(寄宿舎学校)となっている孤児院だったのですが、そこにお話に行ったのです。子どもたちは、私が絵本を見せて話をはじめたとたん、嬉しそうにさざめくように笑いだし、本当に心底、その時間が楽しくてたまらないというように、白い歯を見せて笑っていました。人なつっこくて最後まで名残惜しそうに見送ってくれたあの子たち・・・・・今から考えれば、インドネシア軍に親を殺されたか、または引き離されて、連れて来られた子どもたちだったのです。元々は敬虔なカトリック信者だったのだろうに、今はイスラム教の孤児院にいて、女の子は頭からすっぽりと布をかぶっていました。そのことを思い出すと、私は、あんな無邪気に楽しそうな顔をしていた・・・と思った彼等の、その運命が思われてなりませんでした。
そんなことが起こった国だったのです。
そして、人々の穏やかな笑顔とは裏腹に、壊れた家、焼けた跡の多いことです。今は、それでもかなり修復されたり、少なくなったそうですが、それでも、こんなに破壊されたのか・・・・と思いました。
東チモールは島ですから、当然、海と面しています。首都のディリは海岸沿いですが、すぐに山になります。首都ディリから車で1時間半ほど内部に入っていくと、エルメラ県という県があります。そこが、SHAREの活動地で、友人が住んでいたところでした。そのエルメラ県の県都、グレノで数日間過ごしました。
山の斜面は全部コーヒー畑です。コーヒープランテーションというと、平野に広がるコーヒー畑を想像していました。ここでは平野ではなく、山の斜面がすべてコーヒーなのです。まるで、山の斜面を被う一面の藪みたいに、コーヒーの木がその葉をてかてかと照らせて植わっています。そのコーヒーに陰を作るために、コーヒーシェイドといわれるアカシアの木が植えられて、高くそびえています。枝を大きく空に広げ、まばらに葉をつけ、風が通るレースのような、緑の日傘を山一面にかけているようです。東チモールではじめて見た独特の風景です。もちろん、植民地となりコーヒープランテーションになる前は、全然違う森の風景だったのでしょうけれど・・・・そんな山あいを道はくねくねと上っていきました。
さて、そのグレノで子どもたちと友だちになりました。 持っていった絵本は、おなじみの「大きなかぶ」「さんびきのやぎのがらがらどん」「ガンピーさんのふなあそび」などでした。これは、もう10数年前、タイの難民キャンプで働いていた時から、片言の言葉でも、子どもたちに伝えることができ、子どもたちに人気の高いお話で、私の定番です。ちょうど昨年9月の仕事で、にわか覚えのインドネシア語で話ができるようになっていたので、本当にちょうどよかったのです。
つい最近まで続いていたインドネシアの併合のせいで、大人の人々はみなインドネシア語が話せます。そこで、インドネシア語を介して、東チモールで使われている言葉、テトゥン語を少し覚えました。
夕方、車のあまり通らない道路で、石蹴りをして遊び続ける子どもたちの所に、絵本を持っていきました。「おおきなかぶ」の絵本。おじいさんが小さなカブを植えている絵があります。「サイダ?(何)」と尋ねると、「アイフナン」と子どもたちが答えます。「キック(小さい)。ネイシダウ ベレハン(これはまだ食えん)。明日来よう」とおじいさんは家へ帰ります。さて、ページをめくるとカブは巨大になっています。「おお!ボーット(大きい)」と私が言うと、子どもたちが「モド、モド」と言います。「そうか、間違えたのか、大きいはモドというのか・・・」と思ったのですが、後で聞いてみると、アイフナンは花、モドは野菜でした。私は、小さなカブが大きくなった・・・と話していたのですが、子どもたちは、花だと思っていたものが野菜になった・・・・と受け取っていたのですね。余計に驚きだったのかもしれません。「モド、モド」と言い続けていました。その後、子どもたちは
「モドの話、モド・ボーットの話をしてくれ」と言ってきました。
さんびきのやぎのがらがらどんの絵本を持って
中学校から帰ってきた制服の女の子が通りかかりました。彼女は子どもたちに混じって座り込み、私がたどたどしく言うインドネシア語をテトゥン語にしてくれました。私は巻き舌ができません。椅子という言葉、カデイラという言葉の最後のラララという巻き舌の発音ができないのを、いつまでも容赦なく直し続けてくれました。が、やっぱりできなかったのですが・・・・
彼女は、キノイといいます。キノイは私を指して、「キヨコ ディアック(いい)」と言いました。私も「キノイ ディアック」と言い私たちは握手をしました。すると、他の小さい子たちもみんな「キヨコ ディアック」と言うので、私も覚えたばかりのみんなの名前をいいながら「ディアック(いい)」と、1人ずつ握手をしました。別に、子どもたちに「いい人」と言われたからというわけではなく、東チモールの子どもたちと友だちになれたようで、嬉しかったでした。
次の日、キノイと子どもたちは、「家に来い」と連れていってくれました。キノイは弦が2本だけのギターを持ってくると、そのギターを弾きならし歌を歌いました。小さな子どもたちも揃って、みんなで大声で思い切り歌を歌いました。大きく口をあけた、まっすぐな声でした。
ギターを弾くキノイ と 歌う子どもたち
というわけで・・・・・ 東チモールの子どもたちのところに、絵本を届けたい・・と思うのです。かわいそうだとか、物がないから本がないから・・・というのではなくて、この子どもたちなら、きっと世界を広げられると思うからです。心の世界を広げることができる。さすが、独立を勝ち取った親の子どもたち・・・という感じの子どもたちです。でも、これまで、死や戦いの不安が絶えなかった時間があまりにも長かったのです。まだまだ本当の安定には時間もかかるでしょう。だから余計に、この子どもたちに、楽しかったり、どきどきしたり、あこがれたり、いろいろな世界を体験してほしい。お話で出会う世界だって、実体験といっしょくらい、子どもたちにとっては大きなものですから・・・・心にいろんな世界が広がれば、これから生きていくなかで、きっとどこかで生きる勇気につながるかもしれません。
私は、東チモールの人々のことを知りません。文化も考え方も知りません。だから、絵本を持ち込むことで、一方的に外国の文化や価値の押しつけになるのではないか?ということに対して、反論はできません。でも、これまでの自分の10数年の短い経験の中からではありますが、どこの世界の子どもたちでも、共通して楽しめる、そして、とても貴重な心の体験となる絵本やお話があるようです。きっと、それはどの子どもたちにも大切なものなんでしょう。難民キャンプで出会ったモンの子どもたちも、そうして絵本と出会い、楽しみ遊ぶ中から、より広い世界に出会っていったように思えます。そして自分で絵を描いたり、自らの民族のお話を集め、本にしたりという活動にも結びつきました。
できたばかりの国、東チモールで、これから子どもたちが、将来、自分たちの表現をしていく・・自分たちの文化や歴史やお話を見つめ直して、形にしていく・・・と、すぐには形にはならないでしょうが、まずは、そんな、想像、創造の世界を広げる、そんなきっかけになる場所ができればいいと思うのです。
ついで・・ではありませんが(本当はこっちが本業なので)、ラオスとタイのモンの村にも絵本を送りたいと思っています。先日、本当に久々に訪ねた、元難民だったモンの人に、「前にキヨコがやっていたような図書館を作りたいんだ。建物は自分で竹で作るから、本を何とかしてもらえないか?」と言われました。彼は、難民キャンプの図書館で一緒に活動をしていた、当時は若者・・でした。その彼が、「自分の子どもたちに本を見せてあげたい」と言うのです。うれしかった。現在、その難民キャンプも当時の図書館の建物も、もう跡形もありません。でも、人々の心の中に、本やお話を楽しむ子どもたちの姿が残っているのです。
当時、毎日のように遊びに来ていた少年は、もう3児の父になっていました。彼も「3びきのやぎの話、子どもに話してあげるんだよ」と言っていました。自分が好きで楽しかったからこそ、どこかで続いていくんだな・・・と思いました。
ラオスでは、図書館活動は行われていますが、なかなか山の村にまでは届きません。私は、自分が関わっている3つのモンの村に、小さな絵本コーナーを作りたいと思います。担当する大人がいなくても、お話を好きな子どもたちがいれば、きっと、続けることができると信じています。もし、本がぼろぼろになっても、お話は心に残ります。モンのところでは、これまでに収録してきたモンの民話のカセットや、それから作ったモンの人自身が作った絵本なども加えていきたいと思っています。 子どもたちは、楽しい世界、より広い未知の世界を受け入れて、そして、また作り出す力を持っています。そんな力を発揮できるきっかけを作っていけたらと思うのです。 こんなことをしたからといって、世の中から、難民も戦争もなくならないけれど、でも、だからこそ、小さな喜び、小さな力を大切にして、重ねていきたいと思います。
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