1月15日(火) 石垣 宮良殿内
石垣島では飛行機までの数時間しか時間がない。「宮良殿内」という古いお屋敷に行った。士族のお屋敷だった200年前の家である。今でもお住まいである。
小さなおじいさんが、庭をはいていた。先客の夫婦が話をしていた。私は、入場料を払うとお庭の方に行き、縁側に座ってずっと庭をながめていた。隣が幼稚園のようで、子どもたちの声が、こんもりとした木々と石のお庭の向こうから聞こえてくる。おじいさんの声がずっと聞こえた。話し好きなんだな・・・と思った。
私が出ていくと、ちょうど夫婦は帰るところだった。
「どちらからですか?」とおじいさんが声をかけた。
「東京です」「元から東京ですか?」「はい」
おじいさんは庭をはきながらも、いろいろな話を聞かせてくれた。
この宮良殿内が、もう200年も建っていること。沖縄の建物というのは、四角で飾りがないということ。
「あまり見かけはこだわらないんだね。本当だったら、垂木も四角い方が見た目はいい。でも、これは丸いね。それは、四角くすると、屋根に直接触る表面積が増えるから腐りやすくなってしまうんでね、丸いんですよ。ここは何と言っても高温多湿ですからね。」
その屋根を支える丸い垂木の上には、屋根板ではなくて、細い篠竹がびっしりと置かれていた。その上に土が入っているという。土を入れることで暑さをしのぐのだという。
「家を飾らない。それと同じで沖縄の人間はそうですよ。みっともないという言葉はあるが、その反対のかっこをつけることは気にしないんです。沖縄の人間が、テレビのドラマなんかを見ていて一番嫌だなと思うことは、ほら、上司がたばこを取り出すと、さっと火をつけたりする場面があるでしょう。あれは一番見たくないね。あぁいう上司に取り入るだのいうことは、一番嫌なことだね。 体面とか上っ面はあんまり気にしない。でも、みんな本質を見ますよ・・・オウム真理教が沖縄に勧誘にきたのね。でも帰っていった。誰も上っ面ではだまされないからね。おべんちゃら言っても通じないね。若い子でも、タレントが来てもキャアキャア上っ面で騒ぐことはしないよ」と。
「本土では、気の毒だっていうじゃないですか。ここでは「肝ぐるしい」という。あなたが病気だから、気の毒・・・というと、自分が上で相手を下に見て言っているね。でも、「肝ぐるしい」はあなたが病気だと、自分の心が苦しい・・・だから、早く治っておくれ・・と、同じ立場に立ってものを言っているんですね。」
海洋民族だからね、と。船で海に漕ぎだして、いざという時に、みんなが一緒に力を合わせないと死んでしまう。だから、そんな時に上下だの言っていられないのだという。
「まぁ、だから、沖縄の人間は気が回らないとか、気づかないってことはあるけどね。まぁ、長所が短所のわけですよ」
「本土には四季があるでしょう。ここには夏と冬しかないんだ。だから、沖縄の人間は適応力に欠ける。本土では四季折々に変化するのに対応して生きているから、適応力があるんだね。変化にうまく対応する。でも、ここの沖縄の人間は適応力にかけるんだ。だから、うまく状況に合わせて立ち振る舞いができないということもある。まっ、長所が短所となり、短所が長所になるわけですよ。沖縄を知ると、日本がよくわかります」
「沖縄の言葉というのはね、日本の古語をたくさん残しているんですよ。本土の方ではもうなくなったりしているけれど、こちらは島だから、残っているんですね。」
水をくむ・・・沖縄では、水をふむ。古語もそうなのだそうだ。
森のことを「やま」といい、山のことを「むる」という。日本の古典を研究している人は沖縄の言葉にあたって、はじめて古典の意味がとける・・ということもあるそうである。与那国島では、「とやりさびら」(仲良くしましょう)と言うそうである。「とやり」問い合いましょう・・・ということで、これも古い言葉。
沖縄に住む人は、黒潮の戻りに乗っかって、古くから、熊野のあたりからやってきた人や、また、南北朝の時代に、九州から倭寇になって、海へ繰り出し南下した人々が住み着いたのだという。おじいさん自身は、1400年前、松浦党の子孫であるということだ。
「実は、今回台湾を越えてきたのですが、石垣と台湾は近いのに、どうして他の国になったのでしょう?どうして全然違うのでしょう?」と、私は聞いてみた。
「台湾と与那国の間の海峡は渡れなかったんですよ。流れが速いから、渡ることは不可能だったんです。今だからこそ、馬力を持った船が渡ることができるけれど、むかしの丸木船なんかじゃあ、渡ることはできなかった。フィリピンからは漂流者が、たまに漂着することがあっても、台湾からは来ることはなかった。だから、むかしから交流はなくて、文化的にはなんの関係もないんですよ」
はじめて合点のいく気がした。だから、台湾がもう見えるほど近い日本最西の島、与那国には、「とやりさびら」などという日本の古語が話されているのに、台湾には行かなかった。また、台湾の文化が日本に入ってくることもなかった。あぁして、船が行き来できるようになったのは比較的最近になってからのことなのだろう。そうして、国、国境というものができていくのか・・・・
「でもね、海というのはね、遮断するもの・・・ではなくて、通り道になっているから、いやぁ、実にいろいろ面白いんですよ」と。
石垣ではこしょうのことをピパーズという。それは、むかし、船で上陸した人が英語を残していったのではないか?また、アイルランドのダブリンは、湿地帯・・・という意味だそうだが、ここでは、馬の蹄の跡に水が溜まることを、ダブる・・というのだと。
また、沖縄では城塞のことをクスクという。城塞は、囲われていて安全だから、人々が集まり村ができる。スクという言葉は、ロシアでも村なのである。イルクーツクなどの地名のツク・・・スクは村という意味だと。
「つながっているんですよ。アジアはつながるんですよ。アジアだけでなく、海は地球のどこともつながっているから。ここは海だから、世界の裏側ともつながるんですよ。そう思うと実に面白いですね」と、おじいさんはおっしゃった。まことにその通りだと思った。
竹富島では水田は作れない。むかしは西表島に渡って水田を作っていたそうだ。
「どうして、近い石垣に来なかったのでしょう?」
「それは、石垣にはもうたくさん人が住んでいて、土地の余裕がなかったからですよ。本当はね、西表と竹富の間の潮は速いんですよ。だから、人々は命がけで海を渡って水田を作ったんですね。そうして命がけで作ったから、その収穫の後のお祭り・・種取り祭が本当に大きな喜びの祝いの祭なんですね。まぁ、今は米を作らなくなったから、このまま続いていけば形式的な祭になってしまうかもしれませんけどね・・・」
「むかしはね、マラリア蚊がいたから、マラリアで村が全滅することだってあったんです。だから、村は風通しのよいところにできて、畑や水田は遠くにあったんですね。本土のように水田の近くに家があると、マラリアにかかってやられてしまうからね。だから、数時間かけて歩いて水田に行くことになったわけです。それを、本土の人が見て、なんて効率の悪いことをやっているんだ・・・と批判したことがありますけどね、やっぱりそういう事情というのは住んでみないとわからないんですよ」と。
「奈良の大仏があるでしょう。あれは、仏教の信仰の篤さから作られたかと思ったら違うんですよ。みな農耕民ですからね、土着のカミサマをみんな信じていたわけですね。それで、みな仏教を信じないから、それを押さえるために、仏像を権力の象徴として作ったわけですよ。まぁ、アメリカの星条旗みたいなもんですな」
次から次へと話が出てくるおじいさんは、太平洋戦争の時、ビルマ戦線に行っていたという。おじいさん自身は、計器の修理、調整が仕事で、時間があったから、たくさん歴史の本を持って行って読んでいた・・と、「まぁ、教科書の歴史なんていうのは都合がいいように、書き換えられてきたものでね、裏から歴史を見ると、面白いですよ」と、おじいさんは庭掃きをしながらずっと話してくれたのだった。
私はいつまでも聞いてたかったが、聞いた話をこのままだと忘れてしまいそうで、早く書き留めたい・・・という気持もあり、それに時間ももう少なかったので、そろそろ失礼することにした。おじいさんは「話でよかったら、いくらでも話しますよ。またいらっしゃい」と言ってくれ、私は辞した。
海、開け放しの家、風、おかみ、星、泡盛、空・・・太陽・・・お爺の話・・・
私はまた行きたくなってしまった。
人や自然や言葉や・・・・古くからのいいものを捨てずに残している場所・・・というのだろうか・・・・いにしえからの美しいものを大切にしていて、自然や人間がそのまま昔のままの自分でいられるところ、とでも言うのだろうか、だからこそ、そのままで美しくある場所とでも言えばいいのだろうか?
島には地球が息づいている。
地球は美しい・・・と、いながらにして思った。