2009
-日々のこと-
2010年 3月29日 映画「サヨナラ イツカ」を観て
  
映画「サヨナライツカ」を観た。この映画を観たのは、Sさんの「映像が綺麗だよ」
の一言による。
Sさんは常に映画をチェツクされていて、絵の参考になりそうだと教えてくれる。


たしかに映像は、アングルや効果が工夫されていて勉強になった。
なんだかガラスの宝石箱を覗いている感覚に襲われる。
俳優たちのしぐさや、声も魅力的でとても良い映画だと思う。

家でテレビを見ることが多くなったが、映画館で観ると映像、音に圧倒される。
出不精な私だが、これからはなるべく映画館に来るべきだと思った。
2010年 5月 8日 ハポン劇場 「姨捨」
ハポン劇場に入ったとたん驚いた!中は太い枯れ枝にびっしり覆い尽くされ、
まるで劇場全体が深い山の中に迷い込んだような様相をしていたからだ。

いつもながら開演前の「いったい何が始まるのだろう?」このドキドキ感が
たまらない(笑)

今回の題目の「姨捨」は原さんが5年前に演じた題目でもあるという。
「美しいモノに飢えていた・・・」という原さんが選んだ「姨捨」はいったいど
のような劇なのだろう。

場面は老婆が孫娘との楽しく遊ぶ現世空間から、山奥の死の世界へ移っていく。
生と死、その狭間の幻想性がをどう見せてくれるのだろう思っていたが、やはり
期待を裏切らない豊かな感性と演出を見せて頂いた。

能面をして踊る老婆の一つ一つの動作に現れる現世の思い出・・・

山の道筋に現れる虫たちの奇妙な踊りの可愛さと不思議さ・・・

山奥の森の中に、老婆とは思われない身軽さで入っていく、そして人ではない
何かに変わっていく老婆の様子・・・


「ダンス・タンス・ダンス」のような集団で酔わせる劇ではなく、原さんが
「原点」と言うとうり、「姨捨」は静かな動作の中に背筋の凍るような美しさ
をかいま見た気がした。

しだいに山奥に移っていくごとに、太い枯れ枝が青白い光をはなち、人間の肋骨
のなかに閉じ込められたような感覚に襲われていったのは僕だけだろうか・・・


このような素敵な芝居を見せてくれた原さんに感謝です。









2010年 9月 1日 「怖い絵」

最近書店で「怖い絵」(著者:中野京子)という題名の本を見た。
批評家の目線で、絵についていろいろとエピソードが書いてあり
興味深い本だと思った。



僕が「怖い絵」を一枚あげるとしたら、間違いなく中世ユーロッパ
のナポリの画家、モンス・デジデリオの「油釜に投じられた福音書
記者聖ヨハネ」である。

デジデリオは中世の建築物を正確に描く風景画家でありながら、
世紀末の世界の崩壊を建物の崩壊する様で表現している画家である。

「油釜に投じられた福音書記者聖ヨハネ」は真っ黒い闇の中の
頭蓋骨のような雲を背景に、骸骨のような伽藍がそびえたつ絵だ。
その有様がまるで地獄なのだ、痺れるような予感を感じる・・・



僕が描きたいのは「怖い絵」だ。

画家がモデルと向かい会い、対象の形であったり、色と色の対比で
あったり、描きこまれた絵の中に画家の意志とは関係なく対象の運命
を描きだしていたりする。モデルも画家もいなくなった今、残された
絵の中に残されたモデルの運命の暗示に驚かされる。

それが僕の求める「怖い絵」

そんな絵が描けるのだろうか?

しかし「怖い絵」は確かに存在して、僕の目の前にある。








2010年 9月 20日 「psychedelic ART 堂本清文 展」を見て
名古屋では「あいちトリエンナーレ2010」が開催されている。
僕もさっそく愛知県芸術文化センターに行った。

古典的な絵を描いているが、現代美術を見るのは、けっこう好きである。

ひたすら窓から見た風景を写したビデオだとか、動物の毛皮に覆われた
5メートルもありそうなオブジェだとか、火薬の破裂した跡だとか、
そこはまったく普段の生活とは異質な世界が展開されていた。

名古屋で大々的な現代美術が紹介されるのは初めてなので、嬉しいかぎり
である。ただ、有名な作家ばかりではなく、地元の若い作家にももっと
発表する機会と支援をしてほしいものだ。



その愛知県芸術文化センターに、ほど近いギャラリー彩で友人が個展を
していたので訪ねた。「psychedelic ART 堂本清文 展」である。

彼は芸大時代の友人で、今は教職についている。

「病院に入院している時、描いたよ」と、彼は言った。

病気との格闘の中で生まれた100枚から選んだイラスト作品が飾られて
いた。辛い状況で描かれたとは思えないぐらい作品は明るい色調と軽い
線描が心地良く、惹きつけられた。


彼は以前より「サイケデリュク」と名づける作品を作っている。

「サイケデリュク」とは超現実的な視覚・聴覚の感覚を表現するという
手法である。僕には最初この原色を使った手法が理解できなかった。

ただ今回、作品を見ると「サイケデリュク」とは手法ではなくて、描く
喜びを味わう考えかただったのかと思えてきた。
彼の中でも長い時間と体験を通して変わってきた部分もあると思う。
なにか花が咲く前のゾクゾクする感覚を味わった。


芸術家として認められた作家たちの作品と、ひたすら描き続ける友人
の作品とに価値の違いなどないことを改めて認識して、画廊をあとにした。






2010年12月23日 名古屋能楽堂 ハポン劇場Project パンク歌舞伎「マクベス」を見て

なんという益荒男ぶりのマクベスなのか・・・

真っ暗な能舞台の真ん中、一筋の光の下で立ちすくむマクベスの姿に惚れた。


原さんの今回の公演の舞台は、なんと能舞台でした。
普段は静かな声と足摺の音が浸み渡る舞台が、今はパンク音楽の弩音に揺れる。
今回から参加したパンクグループ「タートルアイランド」によってますます
振幅を大きくした原さんのイメージ爆弾が会場に炸裂する。面白かった・・・


女とはかくも巧緻で、繊細で美しいのか。マクベス夫人の夫を奮い立たせ、悪行
へ踏み込ませる時に踊った踊りの美しさは格別でした。しなやかで、無表情、
いや微かに口元には薄笑いがあったのか、悪魔の老婆が操る人形のように軽やか
で、残酷な踊り。やがて夫人も自分の行った悪行に苛まれ自殺してしまうから、
尚更切ないのだが。


そして能楽堂の奥の暗闇に、マクベスと連れ添って消えて行く夫人の後ろ姿の
示唆するイメージに震えた。シェイクスピアの戯曲を演じる以上、筋書きに囚わ
れそうだが、原さんは「なんとシェイクスピアは400年の後の、私たちを遊ば
してくれるのか」と笑い飛ばす。ただ僕には原さんが人間の持つ原点として、
この劇が好きなのではないかと思う。いや、散りばめられたイメージの端々に
それがわかるのだ。ストーリーを追いつつも、原さんの人間に対する思いが閃光
のように輝いていた。


そして最後の大立ち回り!スゴ過ぎます、能楽堂の隅から隅まで何百人の兵士た
ちがマクベスに向かって行く。その兵士達を切っては投げ、切っては投げ、切っ
ては投げ、と正に歌舞伎の醍醐味、益荒男のマクベスが男の意気地、魅力を見せ
つけた場面だった。


今回も悲劇的で、美しく、下品で滑稽、凛々しい人間の姿を、パンク音楽の振幅
に乗せて、僕の脳髄にたたきつけられた感じがしました。


枯れることのない、原さんのパワーに驚きと、敬意を感じつつ、能楽堂を後にし
ました。