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 小さい頃から体が弱かった。

「37度5分……微熱とも言い難いね。気分はどうかな?」
「……ふつうです」
 ユン・チンピンは町医者の言葉にそう返し、視線を彷徨わせた。
 ユンの自室としてあてがわれた部屋には、医者と使用人、そしてチョンユエがいた。穏やかながらも神妙さが垣間見える仕草でユンを診ていた医者はやおら視線をそらし、傍らに立つチョンユエを見上げた。
「昨夜の食欲はどうでしたか?」
「一人前の食事は平らげた。今朝も普通に食べたいと言う。食欲はあるようだが……」
「熱が落ち着かないのが気がかりですね」
 大人同士の会話はいつも通りの、定型じみた流れだ。10歳の過ぎたばかりの少年には、このやりとりを経て何が良くなるのかいまいち理解が及ばない。
 咳も鼻水もない、ただの発熱。ユン自身は平気だと思っているが、これが1週間も続くと、大人たちはそうとは受け取ってくれない。
 なにせユンは重い病気にかかっている。
 どのように重いのか、ユンにはわからない。ただ漠然と、そうなんだろうという感覚だけはあった。薬を飲んでも一向に良くならないし、横になって休んでも変化がない。自分の身に降り掛かっているものが何なのか、片っ端から本を読んでみたが、10歳の頭ではさっぱりわからなかった。もう少し大きくなって物事の道理を理解できるようになったら病について説明するとチョンユエは言っていた。ユンはその時が来るのを待つ他ない。
「一応、解熱剤を処方しましょうか。あとは、大事を取って寝ていたほうがいいでしょう」
「だそうだ。理解したな?」
「はい、先生」
 ここで暮らしてどれほど経ったのか。
 災いの渦中から助けだし、そして寄る辺のない身の上を憐れんで引き取り、そのうえ名前まで与えてくれたこの男を『先生』と呼ぶのにもすっかり慣れてしまった。
「今日は寝ていなさい。昼はお前の好きな八宝粥にしよう」
 チョンユエはそう言って手を伸ばし、ユンの額に生えた角を避けるようにして触れた。
 額との温度差は感じない。あたたかくて大きな手に撫でられ、ユンは目を細めた。

 目覚めると、すでに正午を回った頃だった。
 自室を出ると、廊下まで空腹をくすぐる香りが漂ってきていた。誘われるように食卓のある部屋へ向かうと、案の定、昼食が用意されていた。
 部屋に入ってきたユンとばったり鉢合わせる形になった使用人が「ちょうど今起こしに行こうとしていたんですよ」とほがらかに笑う。ユンは曖昧に微笑み、喉が乾いたことを告げ、水を少しもらってから卓についた。
 チョンユエが言った通り、昼食には甘い粥が出された。だが、提案した張本人は出かけていて不在だった。おおらかな態度とは裏腹に、日々の予定に追われているのはいつものことだった。
 使用人たちと昼食を食べる。おだやかな気質の者が多いせいか、会話のやり取りもユンにとって楽しかった。

 自室に戻って窓を開け、それからベッドに潜り込んだ。
 眠気は一向に訪れなかったが、ユンはそれでもいいと思った。
 上体だけを起こして、本を読んで過ごす。

 読書はユンにとって必要不可欠だった。
 玉門では、満12歳までの子供は学舎に通うことが義務づけられている。しかしユンは身体が弱いため、ろくに学舎に通えずにいたからだ。
 学舎に通えば賑やかで楽しいと使用人は語ったが、ユンは今のままでもいいと思った。
 勉強は家でもできる。わからないことがあってもチョンユエに聞けば、子供にもわかるようにしっかりと噛み砕いて丁寧に教えてくれるからだ。
 そして、一人で過ごすのはユンにとって苦ではなかった。
 窓から入ってくるそよ風の心地よさに、思わず目を細める。

「いっちのくー にのくーは てをそでにー」

 風に混じって調子外れの歌が聞こえ、ユンは跳ねるように顔を上げた。
 使用人が歌っているのかと思ったが、声がまるで違う事にすぐ気付いた。

「さんのくー しのくー こおったみなもー」

 何度もまばたきを繰り返し、それから周囲を見回して、ユンはベッドから抜け出した。部屋履きに足を通し、窓際に近寄る。

「ごのくー ろくのくー かわべのやなぎー」

 開きっぱなしの窓から、外を覗く。
 窓の外、ユンの自室に面する位置には裏庭が広がっていた。広さはそれなりで、建物に沿って細長いつくりをしている。
 その花壇に面した屋根付き塀の上を、女の子が鼻歌交じりに歩いていた。器用に両手でバランスを取りながら、ふわふわの毛並みの尻尾を左右に揺らしている。
 背中に鞄を背負っており、胸につけたビニールの名札が日光を反射してちかちかと眩しい。どうやら学舎から帰る途中のようだった。
 得意げな顔で調子外れに歌いながらのんびり歩くその姿は、ユンがここに住むようになってから今の今まで、まったく見たことがなかった。唖然としたまま目だけで追いかける。
 あまりにも現実味のない光景に白昼夢か何かだろうかと思い始めた頃、女の子の頭のてっぺんにあるピンと立った耳がピクリと動いた。何気ない仕草でユンの方へ顔を向ける。
 目があった。
「――わっ、わあっ!?」
 途端に女の子は驚いて素っ頓狂な声を上げ、その拍子に足をもつれさせる。
 右に左にふらふらと倒れそうで倒れない状態を繰り返し、やがてバランスを崩してしまった。
「危ない!」
 ユンの声もむなしく、女の子は塀を転げ落ちる。
 目の前の痛そうな光景と落下音にユンはびくっと身をすくめ、おそるおそる窓から顔を出した。目を凝らして裏庭を覗き込む。
「いたた……」
 こんもりと丸くて背の低い庭木のそばに、女の子が頭を押さえてうずくまっていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「うん……この木がクッションになってくれたから」
「本当に? 怪我はありませんか?」
「んっと……大丈夫」
 そう言って顔を上げ、
「……えへへ、落ちちゃった」
 ユンに向けて照れくさそうに笑いかけた。
 へたれていた耳が持ち上がるにつれ、女の子のふわふわした長い尻尾が丸まって、ぱたぱたと左右に揺れ出す。
 ひとなつっこい笑顔と、親しみやすい雰囲気。
 つられて笑みを作ったユンだったが、女の子のこめかみからつーっと一筋の血が流れ落ちると、表情を一転させた。
「血がでてます」
「えっ」
「右のこめかみのところ……」
「うそ」
 女の子はおそるおそる傷口に触れ、痛みに顔を引きつらせる。傷口に触れた指先に血がついているのを診て、常日頃落ち着き払っているユンもさすがにあたふたとしはじめた。
「そ、そこで少し待っていてください」
 熱があるのも忘れて部屋を飛び出し居間に向かう。使用人は休憩中らしく、部屋には誰もいなかった。調理場からは、和気あいあいとした雑談の声だけが聞こえてくる。
 ユンは物音を立てないように棚の近くへ移動し、引き出しを物色する。救急箱を見つけ、中からばんそうこうを取り出した。
 急いで部屋に戻り、窓際へ向かう。
「これ、使ってください」
 そう言って、ばんそうこうを持つ手を窓の外に差し出すと、女の子は周囲をきょろきょろと見回してから立ち上がった。おそるおそるといった様子で、ユンのいる窓際へと近づいてくる。
 女の子は手を伸ばして、ユンからばんそうこうを受け取った。
 包装を取り、剥離紙を剥がそうとして、それから困ったようにユンを見上げる。
「怪我してるとこ見えないから、うまく貼れないと思う」
「あっ……」
 失念していた。
 数秒迷ってから、ユンは窓の外に手を伸ばした。
「私が貼ります」
「いいの?」
「はい」
 女の子はもう一度周囲を見渡し、ユンの手にばんそうこうを返した。
 剥離紙を剥がす前に、ユンは真横に置かれた整理棚からきれいな手巾を取り出す。
「前髪あげたほうがいい?」
「おねがいします」
 女の子が前髪をかきあげると、ユンはまず顔についた汚れを拭いた。血で汚れてしまうと何度洗っても落ちないとわかっていたけれど構わなかった。
 幸い、傷口はばんそうこうの当て布の範囲に収まる大きさだった。
 慎重な手つきでばんそうこうを張る。
 その間、女の子は呼吸をひそめ、ユンをじっと見上げていた。
「終わりました」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 女の子は前髪を整え終えても、その場から離れることはなかった。大きな瞳をぱちぱちとしばたたかせて、不思議そうにユンを観察している。ピンと立てた耳をユンに向け、あらゆる物音をかき集めようとしている。
 とてつもなく大きな関心を向けられているとユンは悟った。
「きみは、ここに住んでるの?」
「はい」
「ここって、軍人さんがよく出入りしてるおうちだよね? お父さんが偉い人?」
「父はいません」
「……いない? 出張?」
「いいえ。……私には父も母もいません。この家の人に引き取られたんです」
「……」
 ぴんと立っていた耳が、ゆっくりと横にへたれていく。
「ごめんね」
 泣きそうな声で言う。
 ユンはあわてて首を振った。
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
「……ほんとに?」
「はい」
 徐々に耳がピンと立ち、さっきと同じような状態に戻った。しょぼくれた表情もだんだんやわらいで、気付けば尻尾がぱたぱたと揺れ始めている。
 その変化がちょっとおもしろいな、とユンはぼんやり思った。
「えっと……名前、聞いてもいい?」
「はい。私はユン・チンピンと申します。あなたは?」
ナマエだよ。ミョウジナマエ
ミョウジナマエさん」
「はい、ユン・チンピンくん」
 互いに覚えたての名前を呼びあって、それから小さく笑った。
「何歳?」
「10歳です」
「わ、おんなじだ。……でも、ユンくんのこと学校で見たことない……」
「学校には行っていません。生まれつき身体が弱いので、少し様子を見たほうがいいとお医者さまがおっしゃって……」
「……そうなんだ……」
 耳がまた、へにゃっと横に垂れる。
「今は大丈夫?」
「すこし熱があるくらいです」
 ユンが曖昧に微笑むと、ナマエは目を丸くした。
「えっ、じゃあ寝てなくちゃだめだよ!」
「大丈夫ですよ。少しくらいなら」
「だめだよ! お医者さんの言うことは聞かないと」
 ユンの言葉を遮るようにきっぱり言う。いつのまにか耳がピンと立っている。せわしない仕草がやっぱりちょっと面白い。
「寝ないなら、おふとんに連れてくよ」
「……外にいるのに、どうやって?」
 ユンが首を傾げると、壁を挟んで外にいるナマエはむむむ、と小さくうなった。
「ちょっと後ろに下がってて」
 ナマエが不満げに言うので、ユンはためらいながらも数歩後ずさった。怒らせてしまっただろうかと不安に思っていると、ナマエが窓枠に両手をかけた。
 束の間、身体がふわっと浮き上がる。片足で壁を蹴りながら、腕に力をこめて身体を持ち上げたのだ。窓枠に膝をついて姿勢を維持し、それからユンに背を向けるようにしてふちに腰掛ける。
 一連の出来事に驚いて固まるユンに向かって、ナマエは振り返って得意げな笑みを見せた。かと思えば正面に向き直り、外に向かってぽいぽいと靴を脱ぎ捨てる。そしてくるりと身体を反転させて部屋の中に入ってきた。
 ユンは慌てて窓際に近寄って外を覗き込む。小道として敷き詰められた石畳の上には、小さな靴が乱雑に転がっていた。
「靴が……」
「そんなのいいよ。それより寝るの」
 ナマエは強引にユンの腕を引っ張ってベッドに向かう。ユンは渋々ベッドのふちに腰掛け、部屋履きを脱いで布団の中にもぐりこんだ。枕に頭を預け、首だけを動かしてナマエの方を見る。するとナマエはベッドの傍らで膝をつくように座り込み、ベッドのふちに頭を乗せてユンと目線の高さを合わせた。
「まさか部屋に入ってくると思わなかったでしょ。びっくりした?」
「はい、とても」
 ユンの返答に、ナマエは満足した様子でにこにこと笑う。耳も立っていて、尻尾もぱたぱたと忙しなく揺れている。どうやらナマエの耳と尾は、その時の感情に左右されるらしい。
ナマエさんは、いつもこうやって人の家に勝手に上がり込むんですか?」
「し、しないよ! こんなこと、今日が初めてだもん……」
 ささやかな疑問に、ナマエはぶんぶんと首を振って否定した。それから不安げな面持ちになる。
「……怒ってる?」
「いいえ。すごくびっくりしましたが、怒ってはいませんよ」
 微笑みながら、ゆるゆると首を振った。
 それでもナマエの不安は拭えなかったらしい。ナマエは部屋中のあちこちを見回し始め、次第に落ち着きをなくしていった。
「どうかしましたか?」
「か、勝手に入ったから……怖くなってきちゃった」
 震える声で言うと、ナマエは俯いた。逡巡しているのかしばらく黙り込み、やがて立ち上がる。
「ここのおうちの人に怒られちゃうから、もう帰るね」
「あ……」
「早くよくなるといいね。それと、ばんそうこうありがとう」
 ナマエはそう言って立ち上がり、ぱたぱたと窓際に走っていく。ユンはその後姿に瞠目し、気付けば上体を起こしていた。
 ベッドから出て部屋履きも履かずに追いかける。ほとんど衝動的だった。
 ユンに気付いたナマエがあからさまにあたふたしはじめる。
「なんでこっち来るの。寝てなくちゃだめだよ」
「見送りをしたくて」
「そんなのいいよ」
 窓枠に足をかけながらナマエが言う。もう行ってしまうんだと思ったときには、ユンの口は一人で勝手に動いていた。
「……部屋に同い年の子が来るの、初めてだったんです。だから……」
 最後の方は、消え入りそうになっていた。
 ナマエは何度もまばたきを繰り返し、やがて笑顔をつくった。耳を立たせて、尻尾をパタパタと揺らし始める。
「じゃあ、また来てもいい?」
「もちろんです」
「うん。また来るから、わたしのこと、ちゃんと覚えててね」
 そう言って、ナマエはひょいと裏庭に飛び降りてしまった。
 軽い着地音が聞こえ、ユンは窓の外を見下ろした。ナマエは顔をしかめながら石畳を伝って散らばった靴を集めると、靴下についた汚れを払ってから靴を履いた。
 そうして一段落ついたのか、ナマエはユンを見た。
 にこーっと笑って、パタパタと手を降る。
「ユンくんばいばい、またね」
「……はい、また」
 手を振り返すと、ナマエはくるりと振り返って花壇の方へと走っていく。塀の小さなくぼみを使って器用に登ると、ナマエはもう一度ユンに向かって手を降った。
 ユンもまた、手を振り返す。ナマエは満足したのか、ぱたぱたとした足取りで塀の上を進む。
 ナマエが見えなくなっても、ユンはしばらく窓際にぼんやり立っていた。
 ふいに我に返ると、のろのろとした足取りでベッドに戻った。ナマエに言われたことを思い返しながら、目を閉じる。

 目を覚ますと、いつの間にか部屋の明かりがついていた。ユンはつけた覚えはない。誰かが付けたのだろう。
 物音がしてそちらを見ると、ちょうどチョンユエがベッドに腰掛けたところだった。
「……おかえりなさい、先生」
「ああ、今帰ったぞ。気分はどうだ?」
 視線をさまよわせ、開きっぱなしの窓に目が留まる。外はもう真っ暗だった。ユンの仕草で窓が開いていることに気付いた使用人があらあら、といったふうに笑って窓をしめ、カーテンを引いた。
「気分は、とてもいいです」
「そうか。とてもいいか」
 いつものユン応答は決まって普通だとか、変わりありませんだ。違う返事の意図を汲み取って、チョンユエは微笑む。
「熱は引いたか?」
「わかりません」
 前置きもなく額に触れられ、ユンは目を細めた。
「少し下がったか。夕餉は食べられそうか?」
「はい」
 ユンは頷いて、布団をおしのけながら上体を起こす。
「随分と気持ちよさそうに寝ていたな。起こすのを渋るくらいだ」
「……あ、ええと……その、今日……」
「ん?」
 ユンは昼の出来事をチョンユエに話そうかと思ったが、数秒迷って、結局やめた。
「……寝ている時、夢を見ました。部屋のなかに羽獣が入ってきて、さえずってくれる夢でした」
 ここ玉門では、羽獣が定着する事はほとんどなかった。他の移動都市では迷いこんだ小さな羽獣が民家に巣を作ることはままあるが、炎国北部の砂漠地帯を中心にする玉門では、羽獣なんてものはめったにお目にかかれない。せいぜい渡り鳥が飛翔するのを下から眺めるくらいだ。
「移動都市で羽獣か。それはいいな」
 ユンのささやかな嘘をなにかの兆しと受け取ったのか、チョンユエは柔らかく微笑んだ。
「さあ、夕餉にしよう」
「はい、先生」