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 次の日、体温計で熱を測ると、36度7分をさしていた。
 ここ1週間続いた微熱がとうとう下がった。傍らにいる使用人がほっと安堵のため息をつく隣で、チョンユエもどこか安心した表情を浮かべていた。
「ひとまずは落ち着いたか。気分が悪くなったら、すぐ誰かに言うんだぞ」
「はい」
 身支度を一通り済ませ、一緒に朝食を取った。出かけるチョンユエを使用人と一緒に見送ってから、ユンは自室に戻る。
 机に向かう前に、ユンは窓をほんの少しだけ開けた。いつも外気を取り込むために開けていたが、今日からは外の物音を聞き逃さないようにする意味も加わった。

 昼食を済ませた後、ユンは勝手口から裏庭に出た。園芸用品がしまってある物置から使い古しの踏み台を引っ張り出し、自室の窓のすぐ真下に置いた。
 次に、廃棄予定の古紙をまとめている部屋に行き、小さな空箱を見繕った。子供の靴が二足入りそうな、ちょうどいい大きさだった。それを抱えて自室に向かう。
 その途中、廊下で使用人とすれ違いざまに声をかけられた。
「あら、その箱どうしたんですか?」
「……ちょっと片付けがしたくて。これ、貰ってはだめでしょうか?」
「とんでもない。ご自由にどうぞ」
 不審がられることはなく、ユンは内心ほっと胸をなでおろした。
 部屋に戻ると、ベッドの下に箱を隠してから、ユンは勉強に戻った。机に座って読み書きに集中しながらも、頭の隅では別のことを考えてしまう。
 ナマエは本当に来てくれるのだろうか? 交わした約束だってただの口約束に過ぎない。絶対に来てくれる保証なんてどこにもない。
 来なかったらそれまでだろうなと、どこか冷めた考えがユンにはあった。

 窓の外、なにか物音が聞こえ、ユンは顔を上げた。書き物をしていた手を止める。
 高いところから着地するような音だった。裏庭に敷かれた石畳がカタカタと音を立て始める。それはゆっくりと近づいてきて、やがて窓際で止まった。
「ユンくん、いる?」
 ユンは跳ねるように立ち上がった。椅子も引かずに急ぎ足で窓際に向かう。
 窓から顔を出して裏庭を見下ろすと、果たしてそこにはナマエがいた。ユンはまばたきを何度も繰り返し、緊張から詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
「ど、どうしたの? まだ具合悪い?」
 あまりにもユンが微動だにしないものだから、ナマエは不安そうにおろおろし始めた。
「いえ……調子はいいんです。ただ……」
「うん?」
「その……本当に来てくれると思っていなかったので」
「……」
 ナマエはぽかんとした表情でユンをじっと見つめ、しばらく硬直したあと、笑顔を浮かべてみせた。
「本当に来たよ。だから、ご感想を教えてください」
 にこーっと笑いかけられ、ユンはたじろいだ。
「……う……」
「う?」
「…………うれしいです」
 消え入りそうな声に、ナマエは丸っこい瞳を見開いたかと思うと。
「えへへ」
 とびきり、ひとなつっこい笑顔を浮かべた。
「ユンくん、お部屋に行ってもいい?」
「はい。あっ、そこに踏み台がありますよね」
「えっと……この四角いの?」
「それです。よかったらつかってください」
「わ、用意してくれたの? ありがとう」
 ナマエが踏み台に昇ると、頭2個ぶん高くなった。
「あるのとないのじゃぜんぜん違うね」
 よいしょ、と身軽に窓枠に腰掛けるのを見て、ユンは慌ててベッドの下に隠した箱を取り出した。
「靴は外に脱ぎ捨てないで、この箱に入れて下さい」
「よーいしゅーとーだ」
 覚えたての単語を使いたかったのか、ナマエの発音はぎこちなかった。
 脱いだ靴を手に床に降りると、ナマエは箱の中に靴をそっとしまった。ユンはその一連の動作を見ながら、用意してよかったと心底思った。
 あらためて顔を見合わせて、どちらともなく笑みを作る。
「ユンくん、なにしてたの?」
「勉強です」
「おお……」
 感心の声をもらしながらも、ちょっと嫌そうな顔になっている。
ナマエさんは勉強はお嫌いですか?」
「うん、にがて。……他には何かやってた?」
「あとは……武術の記録を読み返したりもしました」
「ぶじゅつのきろく……?」
 ぽかんとした顔で、言いにくそうに復唱する。
「私を引き取ってくれた人が、武芸の達人なんです。私は身体が弱いので、こうして武についての記録を取れば、心がきたえられ、そうしているうちに身体も追いついていくとおっしゃってくださって……これを、『心身一如』と言うそうです」
「しんしんいちにょ……?」
 再度、言いにくそうに復唱する。
「わ……私の話はやめましょうか……」
「ううん。わたし、ユンくんのこともっと知りたい」
 きっぱりと言い切るので、ユンは面食らった。
「ちょ、ちょっとむずかしいけど、聞きたい。だめ?」
 まっすぐに見つめられ、ユンはゆるゆると首を振った。

 それから二人で床に座りこみ、いろいろなことを話した。
 学校で勉強していること、家族のこと、友達のこと、休みの日の過ごし方。ナマエはたくさんのことをユンに話した。ユンもまた、家での過ごし方を詳細に語った。ナマエは武術の記録がどういうものか興味を持った様子だったので、ユンは持ち出して読み聞かせたが、ナマエはまるでわかっていない様子だった。
 ひとしきり喋り終えると、ナマエは「はぁ」とため息をついた。
「ユンくん、わたしと同い年なのにしっかりしてる。なんだか上級生みたい」
「そういうナマエさんは、私よりもよっぽど行動力がありますね」
「えはは……」
 思い当たるフシがあったのか、ナマエは「えへへ」と「あはは」が混ざりあったような笑い声とともに、照れくさそうな笑みを浮かべた。実際、ナマエの行動力がなかったら、こうして話す機会は訪れなかっただろう。

 日が暮れるまえに、ナマエは靴を履いて裏庭に降りた。
「また来るね」
「はい。また今度」
 ユンが手を降ると、ナマエは手を振り返さずに、何かもの言いたげな視線でじっとユンを見つめる。首を傾げると、ナマエは迷う素振りを見せてから口を開いた。
「えっと……どのくらいの間隔で遊びに来ていいの? 毎日はこまっちゃう?」
 無邪気な問いかけに、ユンは目をしばたたかせた。
「……毎日くるんですか?」
「や、やっぱり迷惑だよね……」
 シュンとへたれてしまった耳を見つめ、ユンはここ最近の過ごし方を思い返す。
 だいたい家にいて、ほとんど出かけることはなかった。身体も丈夫ではないから遠出する機会もない。出かけるとしても、せいぜい敷地内を散歩をするくらいだ。引きこもり、という単語が脳裏をよぎってしまうくらいには、不健康な生活をしていると思った。
「私は大丈夫ですよ。でも、ナマエさんはよろしいんですか?」
「別にいいよ。ひまだもん」
「お休みの日は? お友達と遊ぶんですよね?」
「そうだけど、でも、ユンくんだって友達だよ」
 ユンは面食らってナマエを見つめ、少しの間をはさんでから口を開く。
「宿題とかは?」
「えっと……、……寝る前にがんばる!」
 自信満々な調子に合わせて、耳がピンと立った。その目まぐるしい変化に、いちいち視線がつられてしまう。ユンは視線を元の位置に戻し、
「では、気が向いたら遊びに来て下さい。私はいつでもいますから」
「うん。じゃあまた明日ね」
「……、はい」
 苦笑を浮かべるユンとは対称的に、ナマエはにこにこと笑っている。
 塀の上に登って『ばいばい』と手を振るナマエに、ユンも『ばいばい』と手を振り返した。

 ナマエは宣言通り、次の日も来た。
 その次の日も、また次の日も。
 回数を重ねるにつれ、ユンは使用人とユメシの足音の違いが明確にわかるようになった。使用人の足取りは勝手知ったるがゆえに一切の遠慮がないが、ナマエは遠慮がちにおそるおそると控えめな足取りだった。
 そして今日も今日とて、窓の隙間からかすかに石畳を踏む足音が聞こえ、ユンは椅子から立ち上がった。窓を開け放つ。
「ユンくん、こんにちは。来たよ」
「こんにちは、ナマエさん」
 小声で挨拶を交わしたあと、ナマエは踏み台を使って部屋の中に入ってくる。いつものところに靴を脱ぎ、ナマエはユンに向かってにこにこと笑いかけた。
 ナマエの尻尾がパタパタと左右に揺れるのには慣れたつもりだったが、やはり、つられて目で追いかけてしまう。
 と、ナマエがユンの視線に気づき、後ろ手に尻尾を抑え込んだ。それでも振り子のように触れる尻尾を止められず、恥ずかしそうにしている。
「これ、勝手に動いちゃうの。気にしないで」
「あはは、そのようですね」
「お父さんとお母さんは動かないのに……なんでわたしだけ……」
ナマエさんらしくていいと思いますよ」
「よくないよ……」
 不満げにユンを見つめ、それからじっとある一点を見つめる。
「ユンくんはいいね、おでこの角かたそうで」
「……これですか?」
「うん」
 ユンは視線を上向かせ、視界の端に映る額の角に触れた。これは生まれついたものなのでユンにとってはあって当たり前のものだったし、物心が芽生えても額の角をほとんど気にしたことはない。他の人とちょっと違うかな、と思う程度にとどまっている。
「頭突きしたらつよそう」
「……そういう使い方をしたことはありませんね」
「それって、触られたらわかるの?」
「わかりますよ」
「触ってみてもいい?」
 好奇心いっぱいの眼差しが、ユンを貫く。
「ええと……はい」
「わぁ、ありがとう!」
 ニコニコ笑って、それから恐る恐るユンの額に触れた。
「……骨かと思ったら、ちょっとちがう?」
「人の爪のように、皮膚が硬くなったものだと先生がおっしゃっていました」
「そうなんだ。……あは、さわってるとあったかい」
「今、すこし熱があるので、そのせいだと思います」
「寝てなくちゃ駄目だよ!?」
 大げさに驚いたかと思えば次の瞬間には神妙な面持ちになり、ユンの背中をぐいぐいと押しはじめた。逆らうとこじれそうな予感がしたので、ユンは大人しく従った。ベッドに向かい、布団の中にすっぽりとおさまる。
「お薬は飲んだの?」
「高熱ではないので、様子を見ようという話でした」
「そっか。……おでこ、もう一回触ってもいい?」
「はい」
 ユンの角を避けて、額に触れる。チョンユエとは全く違う手のひらの感触に、思わず目を細めた。
 ナマエは手を離すと、今度は自分の額にふれた。熱があるのかを確かめているようだ。
「んー……よくわかんない」
「微熱ですから大丈夫ですよ。それに、自分の体調ことは、私が一番よくわかっていますから」
「ほんとう?」
「はい」
 それでもなお、ぼんやりと不安げな眼差し。
 ぱたぱたと揺れていた尻尾も垂れ下がってしまっているし、耳だってへたれている。あんなに元気だったのに、すっかりと萎んでしまった。どうにか元気になってほしくて、ユンは知恵を巡らせる。
「……ナマエさん、さっき私の角をさわりましたよね」
「うん」
「かわりに、尻尾を触らせてください」
「えっ」
 素っ頓狂な声とともに、瞳がこぼれ落ちるんじゃないかと思うくらい目を見開いた。
「私はナマエさんのお願いを聞いたんですから、ナマエさんもそうするのが公平というものではありませんか?」
 瞳から不安が消え去るかわりに、大きな戸惑いで揺らぎはじめた。たかだか尻尾を触らせるという事を、ナマエは人生の分岐点にでも立ったかのような顔になって迷いを見せる。
「うぅ……わかったよ」
 やがてナマエは観念したように言うと、おずおずとベッドのふちに腰掛けた。ふわふわした毛並みが布団の上に横たわる。
 ユンがおもむろに手を伸ばして触れた途端、ナマエは「ひっ」と引きつったような声をあげ、全身をびくっと震わせた。
 ユンが慌てて手を引っ込めると、ナマエも慌てて振り返る。
「ご、ごめんね。いっつも触られるとびっくりしちゃうから」
「ええと……もっと優しく触ったほうがいいですか?」
「うん」
 ユンはもう一度手を伸ばし、腫れ物に触れるかのような手つきで撫でる。
「……今度は大丈夫ですか?」
「うん。そのくらいならへいき……」
 ゆっくりと手を往復させる。ふわふわした毛並みがやわらかくて気持ちいい。
 ほんの少しの好奇心から毛並みに指を沈めてみると、途端にナマエの肩が跳ねた。慌てて手の力を抜いて、乱れた毛並みを整える。
「もしかして、痛いんですか?」
「痛いっていうか、なんか、ビリビリする」
「びりびり……?」
 ユンにも尻尾はあるが、触っても別に痛くも痒くもなんともないのだ。ビリビリするという感覚がまるで想像できず、ユンは首を傾けた。するとナマエは振り返って、
「肘のつぼを押した時に似てるって、お母さんが言ってた」
「肘のつぼ……?」
「うん。ユンくん、腕貸して」
「はい」
 何の疑いもなく腕を出すと、ナマエは無遠慮に袖をまくった。肘を軽く曲げた状態にさせられ、探るように撫ではじめる。
 一体これから何をするんだろう、とユンが疑問に思っていると、
「んーと、ここかなぁ」
 ナマエはのんびりした調子で言うと、ユンの肘のある一点をぐっと強く押しこんだ。関節の隙間からカクッと軋む感覚がした途端、肘から脳天まで何かが駆け抜けていく。
「ぃぎっ……!?」
 ユンは前のめりになって悶絶した。

「……ユンくん、大丈夫?」
「はい」
「ほんとに?」
「ええ。肘はみだりに貸さない、ナマエさんの尻尾は丁寧に触る。よい勉強になりました」
「ご、ごめんね……」

 帰り際に、ナマエが言った。
「ユンくん、あのね、明日は来られない。おうちの手伝いをしなくちゃいけなくて……」
 寝耳に水だったが、すぐに納得がいった。明日からは週末の休みにあたるし、他人よりも家の事情を優先させるべきだろう。そもそも、毎日ずっと来るわけがないという当たり前のことを、ユンは失念していた。
「謝る必要はありませんよ」
「明後日も来れるかわかんないんだ。でも、月曜日からは来れるから」
「それでは、月曜を楽しみに待っています」
「うん。それじゃユンくん、また来週ね」
「はい、また来週」

 その日の夜から、ユンは壁掛けカレンダーに印をつけるようにした。
 ナマエが来た日は、日付の枠内に米粒ほど小さい丸印をつける。来なかった日は何も書かない。土曜と日曜は空白が続き、そして迎えた月曜日、ナマエは約束通りやってきた。
 次の日も、その次の日も。
 丸印が少しずつ増えていくのを見るたびに、ユンはなんだか嬉しくなった。

 それが2週間も続くと、さすがのチョンユエもささやかな変化に気付いたようだった。
「この丸印の意味は何だ?」
「体調が良かった日と、そうじゃない日です」
「そうか。今週はほとんど調子が良かったんだな」
「……はい」
 寸分の疑いすら向けない優しい笑みに、ユンは曖昧な表情を浮かべた。胸中では嘘をついた罪悪感が重くのしかかってきたが、気付かないフリでやり過ごした。
 寝る間際、じっとカレンダーを見つめる。
 こんな毎日がいつまで続くんだろうかと、小さな不安が湧き上がった。
 そもそも、ナマエは気まぐれで遊びに来たに過ぎない。ユンが物珍しいから、毎日来ているだけだ。
 いつか飽きてしまって、そのうち来なくなってしまうんじゃないか? 小さな不安は、そんな黒いもやもやとした感情を生み出していく。それでも、ナマエの人懐っこい笑顔を、ユンは信じたいと思った。

 月が変わった初日の朝だった。
「今日は少し帰りが遅くなるかもしれない」
 と、チョンユエが言うので、ユンは匙で粥を掬ったまま手を止めた。
「そうなんですか?」
「まあ、程度にもよるが」
「夕飯はご一緒できますか?」
「その時になってみないとわからないな。私の帰りが遅かったら、先に皆と食べていてくれ。それと、言うことはちゃんと聞くように」
「はい、先生」
 お決まりの返事をして、粥を口に運ぶ。
 最近ユンが熱を出すことが少なくなった代わりに、チョンユエが家にいない時間が増えてきた。使用人いわく、軍の偉い人に呼ばれているらしい。チョンユエは途方も無い強さを備えているので、講師として招くにはうってつけの人材なのだろう。ただ、最近は勉強を見てくれる機会が減ってしまったので、それがユンにとっては少し物足りなかった。
 食事を終えた後、身支度をして出かけるチョンユエを見送って、ユンは自室に戻った。
 前月のカレンダーを破る。新しい月の欄には何も書かれておらず、まっさらだった。
 いつもなら真っ先にゴミ箱に捨てる使い古しのカレンダーは、丁寧に折りたたんで机の引き出しにしまった。

 かすかな足音が聞こえて、ユンは椅子から立ち上がった。声がするよりも先に、窓を開け放つ。
 窓の外にいたナマエは心底びっくりした様子だったが、数秒の間を置いてあからさまに悔しそうな表情になった。
「うぅ……負けちゃった」
「あはは。今日は私の勝ちですね」
 近頃は、どっちが先に声をかけられるか競い合うようになっていた。
 勝つと楽しいし、負ければ悔しい。だが、それが何よりも楽しかった。
「こんにちはナマエさん」
「うん、こんにちは。入っていい?」
「どうぞ」
 いつものように踏み台を使って入ってくる。ベッドの下に隠していた靴箱を取り出すと、ナマエが脱いだ靴をおさめる。
 箱もだいぶ汚れてきた。裏を返せば、そのくらいナマエが遊びに来てくれたということだ。それが、ユンにはたまらなく嬉しい。
「今日ね、学校の勉強でわかんない事があって、ユンくんに聞いてもいい?」
「はい。でも、教えられるかわかりませんよ」
「……ユンくんがわかんないって言ったことないよね?」
「あはは、そうですね」
 ユンの勉強による知識は、ナマエが学校で学んでいる範囲の先を行っていた。だからこそ教えられるし、追い越されないように勉強する意欲にもつながった。
 ナマエが鞄から出した教科書とノートを見比べながら、ナマエがわかるまで何度も説明した。ようやく理解するとナマエは喜んだが、すぐに萎んでしまうのもいつもの事だった。
「ものわかりわるくてごめんね……どうしてこうなるのかなって思うと、わけがわかんなくなっちゃって……」
「いいえ、疑問に思うことは大事だと、先生がおっしゃっていました」
 ユンが気遣うが、それでもナマエの耳と尻尾はシュンとへたれたままだ。
 その姿を見ているとだんだんと悪戯心が刺激されてしまい、ユンは手を伸ばして尻尾に触れた。優しく、触れるか触れないかの強さで撫でる。
「わっ、くすぐったい!」
 途端に尻尾が丸まって、ぱたぱたと揺れ出す。耳もピンと立っているのを見て、ユンは手を引っ込めた。
「元気、出ましたか?」
「……うん」
「よかった」
「……ユンくん、触ったということは、触られる覚悟があるんだよね?」
「あ、……あはは……」
 逃げ腰になるユンの耳に、ナマエが手を伸ばす。
「こら、逃げるなっ」
「うわっ、ちょっ……」
 ナマエに耳を撫でられるのは、ユンにとってこれが初めてではなかった。嫌がる素振りをしてはいるが、ちっとも痛くないし、不快感だってない。ちょっと耳がざわざわするくらいなので、ユンはほとんどされるがままになった。
 くすぐるような手つきが、だんだん小動物を触る手つきに変わっていく。くすぐったさと心地よさの中間に浸る感覚に、ユンは思わず目を細めた。
「ユンくんの耳、おっきくてかわいいよね」
「……かわいいんですか、これ?」
「うん。わたしの耳よりおっきくてかわいい」
 かわいい呼ばわりされることにはいまいち納得がいかなかった。それに、ユンが尻尾を触った時間より、ナマエが耳に触れている時間のほうが圧倒的に長いのが癪に障る。
ナマエさんのは小さくてかわいいですよね」
「わっ」
「ほら、私の手にちょうどおさまります」
 手のひらにおさまった耳を撫でると、だんだん力なく垂れてくる。落ち込んだときも垂れるけど、こういうときも垂れるのだと最近知った。現にナマエは「んふー」と満足そうなため息をついている。
 互いの耳を、もくもくと撫で合う。
「……わたしたち、何やってるんだろうね?」
「あはは、そうですね」
 顔を見合わせてくすくすと笑いあい、そうして一段落ついた時だった。

 こんこん――と、扉をノックする音がした。

 使用人と比べて力強いけど乱暴でもない、ユンにとって聞き慣れた音だった。
 ユンが手を下ろすと、ナマエも手を下ろした。不安そうに視線をさまよわせ、きゅっと口を引き結んでいる。そんなナマエを安心させるように微笑みかけてから、ユンは口を開いた。
「先生ですか?」
「ああ、今戻ったぞ。具合はどうだ?」
「普通です」
 落ち着き払った応答を心がけたが、全身には言いようのない緊張感が駆け巡っていた。
 この状況はとにかくまずかった。ユンは膝立ちになり、ナマエが自分の背に隠れるような位置に移動した。ちょうど扉から見れば見えなくなる位置だ。
 ユンはナマエをベッドの下やクローゼットに隠すことも考えた。だが隠したところで、チョンユエにはすぐ見つかってしまうだろう。実際、彼はもうすでにナマエの気配に気付いている可能性すらあるのだ。
「……先生、今日は遅くなるとおっしゃっていませんでしたか?」
「思いのほか早くすんだ。不甲斐ない者ばかりだった」
 使用人の言葉通り、武術の稽古をつけていたのだとユンは悟った。
「そうでしたか。では、夕飯は一緒に食べられますね」
「ああ。部屋に入るぞ」
「はい」
 心臓が早鐘を打ち始める。
 先生なら、話せばきっとわかってくれるはず――そんな一抹の望みを抱えながら、ユンは生唾を飲み込んだ。
「……っ」
 ユンの緊張に呼応するかのように、ナマエが引きつったような声を上げる。
 扉が開くのと同時に、ナマエは跳ねるように立ち上がった。ユンは慌てて引き留めようと手を伸ばしたが、指先を服がかすめただけだった。
 ナマエは一目散に窓に向かう。靴も履かずに窓枠に手をかけて、裏庭に飛び降りる――のを、チョンユエが片手で抱えるようにして制した。
 チョンユエに抱きかかえられる格好になったナマエは、すっかり萎縮した様子だった。ひどい恐怖を感じているのかすっかり顔色を失い、青ざめている。
「この子供は?」
「……先月に知り合い、それからよく遊ぶようになりました」
「そうか。道理で」
 窓の外の踏み台に目をやって、それから箱の中にそろえられた靴を見て、チョンユエは何かを悟ったようだった。
 チョンユエはフッと笑みをつくったかと思えば、ナマエを抱えたまま靴を拾い上げた。そのままユンに目もくれず部屋を出ていくので、ユンは慌ててその後ろを追いかけた。
「先生、待ってください! 彼女は何も悪いことはしていません! 家に入ってもいいと許可したのも、踏み台を運んだのも、全て私がやったことで……」
 ユンがむきになってまくし立てても、チョンユエは何も言わない。振り返ることさえもしない。
 向かった先は玄関だった。近くにいた衛兵が目を白黒させるのに構わず、チョンユエはナマエを床に下ろし、靴を土間に置いた。チョンユエが動作を取るたびに、ナマエの身体がびく、と揺れる。
「先生……」
 すがるように呼びかけたが、チョンユエはユンの目の前にただ手のひらを突き出すだけだった。「これ以上は何もするな」という意思を感じ取り、ユンはそれきり口を閉ざした。言いたいことは山程浮かぶのに、尻込みして出てこなくなってしまう。
 チョンユエはナマエの前にしゃがみこみ、目線を合わせた。ナマエはいまだに怯えきっていて、耳と尻尾が縮こまっている。
「いいか、よく聞きなさい」
 ナマエは返事のひとつもせず、チョンユエから視線をそらせずにいた。大きな瞳は揺らいでいて、今にも決壊しそうだ。
「窓は日光を取り込み、風通しをよくするものだ。決して人が出入りする所ではない」
「……」
 数秒の間を置いて、ナマエはこくんと頷いた。
「他人の家の敷地にも、むやみやたらに入るものではない。お前はどこから庭に入ってきたんだ?」
「……」
「口が聞けないか?」
 びく、と体を震わせて、
「へ、塀の上をつたって来ました……」
「塀か。これまた随分と腕白だな」
 チョンユエが愉快そうに笑ったが、すぐ元の表情に戻った。
「塀の上が人の通り道ではないことは、理解しているな」
「……はい」
「そういえばお前の名を聞いていなかったな。名はなんという?」
「……ミョウジナマエ……」
「そうか、ナマエか」
 チョンユエは一度だけ近くの衛兵に目配せをし、再度ナマエに視線を戻す。
ナマエ。金輪際、窓からは入ってくるな。お前が人ならばなおさらだ。庭に立ち入ることも禁ずる」
「……」
 目を見開いて、それからうつむいた。
「次からは道を歩き、玄関を通って尋ねてきなさい」
 チョンユエはそうしめくくり、立ち上がった。そして、近くの衛兵に顔を向ける。
「すまないが、この娘を家まで送り届けてやってくれ」
「は、はい」
 衛兵は力強く返事をし、ナマエへと近寄った。二言三言会話をはさみ、ナマエを引き連れて歩き出す。
 途中、ナマエが振り返ろうとしたが、それを遮るように衛兵が肩を叩き、すぐ正面に向き直った。
 一瞬だけナマエの横顔が見えた。ユンは何もできなかった。
 足を踏み出して追いかけることも、ましてや声をかけることさえもせず、立ちすくんだまま小さな背中を見つめる。
 そのまま、玄関の扉が閉まる音を聞いた。

 それっきり、ナマエは来なくなってしまった。