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ベッドの下に隠していた靴箱も、裏庭に置きっぱなしにしていた踏み台も、いつの間にか綺麗に片付けられてしまった。
チョンユエは正しい事をナマエに説き伏せたのだとユンは頭では理解しているが、心はそうもいかない。もっと優しい言い方があったんじゃないか。少しくらい許してくれてもよかったんじゃないか。そんな小さな不平不満が積もりに積もって、心のなかで大きく膨らんでいく。
いつしかユンとチョンユエとの間に、小さな溝が出来上がった。
それは日頃の態度にも出るようになった。簡潔に言えばちょっと素っ気なくなってしまったのである。ユンから向けられる柔らかくて尖ったトゲの存在をチョンユエは笑ってやり過ごし、深く追求することもしなかった。
チョンユエにささやかな反発をみせるたび、もっと優しい言い方があったんじゃないか、少しくらい許してあげても良かったんじゃないか、だなんて自省が先立った。おまけにそれは先日チョンユエに抱いた小さな不平不満と同じだと気付くと、心苦しくなった。そんな気まずさが、わだかまりを広げていく。
以前と比べてぎこちなくなった二人のやり取りを見て、使用人は『反抗期』だと笑った。
ユンは窓を少しだけ開けて、裏庭を眺めた。
手入れが綺麗に施されているが、ユンにとっては空虚に見える。
変な調子の歌だって、おそるおそるな足音だって聞こえない。きっともう誰も来ることはない。
殺風景な日々。
これが本来の光景で、ナマエが来たのが異例の事態なのだ。
そうやって、現状に折り合いをつけて飲み込んで、納得していくしかない。
ユンは憂鬱を振り払うように勉強に熱中した。
だが部屋にこもりきって、根を詰めての勉強を毎日も続けると、さすがに疲弊した。
何事も限度はあるものだと理解し、気晴らしと休憩のために居間に行くのを欠かさなくなった。
お菓子をつまむついで、使用人たちと雑談を交えた。会話の節々から気を使われているのを感じていたたまれない気持ちになったが、ユンは素直に甘えることにした。
お茶のおかわりをもらおうとした時、玄関の呼び鈴が鳴った。使用人の一人が立ち上がって、様子を見に部屋を出ていく。
一分もしないうちに、慌てた様子で戻ってきた。
「どうかしたの?」ユンの対面に座っていた使用人が立ち上がって声をかけると、
「来客なんですが、その……人探しをしているとのことでした」
ユンはお菓子を食べるのを一旦やめて、顔を上げる。
応対にあたった使用人と目が合えば、彼女はユンを見つめながら不思議そうに首を傾げた。
「ユンという人を探しているようで……、軍部や詰め所にもいなくて、最後にこちらを尋ねたとのことでした」
息を呑む。
お菓子を皿の上に置いて一旦切り上げ、使用人とともに早足で玄関に向かった。
果たしてそこにいたのは、市街地を巡回警備している衛兵だった。だが、足元に幼い少女がいる。衛兵の後ろに半分隠れるように立ち、耳と尻尾をたれ下げてじっとうつむいていたが、近寄ってくる足音に気付いて顔を上げる。目が合うと、ぱあっと顔を明るくさせるのが、スローモーションのように見えた。
「ナマエさん!」
名前を呼べば、耳が持ち上がって、尻尾がパタパタと揺れ始める。
「ユンくん!」
あまりにもわかりやすい態度に、ユンの口元は自然とほころんだ。勢いに任せて部屋履きのまま土間に降りると、ナマエが駆け寄って抱きついてきた。
「……わっ!?」
背中にぎゅっと手を回され、ユンは目を白黒させて固まった。
「やっと会えたぁ……!」
ナマエの切実な声に、言いようのない実感がこみあげる。
――来てくれた。
わけもなく唇がわなないた。こぼれないように何度も何度も目をしばたたかせて、口を引き結ぶ。みんなの視線が集まる中、ユンはナマエの背中に手を回した。
安堵の表情で見下ろす衛兵に、ナマエとユンの事情を知っている使用人が声を掛ける。
「この子、ここまで案内してくださったんですか?」
「ええ。よくよく考えると随分と遠回りしてしまって、恥ずかしいやらなんですが……」
衛兵は後ろ手に頭をかきながら、とつとつと語りだした。
一週間ほど前、玉門中央区の大通りから西区画へと向かう分岐路に面した派出所にナマエがやって来たのだという。用件を尋ねれば『大きい建物の中にいるユンくんを探している』というつたない説明をする子供に対し、衛兵は追い返すわけでもなく親身になって接した。
大きい建物について心当たりがあるか聞けば、ナマエは衛兵の手を引いて外に出て、都市の中央に鎮座する、玉門軍の司令部など重要な機関が設置されている摩天楼を指さした。
衛兵はまず、玉門の兵士の中から『ユン』という響きに近い名字もしくは名前の子供がいる兵士をリストアップし、彼らに話を聞きに行ったのだという。
だが、該当者は見つからない。
あらためてナマエに話を聞き直せば「つのが生えた怖いおじさんに玄関から入ってこいと言われた」だとか、「ユンくんは身体が弱くていつもおうちの中にいる」だとか、断片的なことしか言わない。そんな稚拙な手がかりを元に頭を悩ませつつ、さんざん二人で迷って途方に暮れているうちに、失念していた『ユンくん』とやらのフルネームを一昨日になって聞き出し、その日の夜に嫌々参加した退役軍人の親睦会にて『ユン・チンピン』という少年の存在を聞き、ようやく点と点がつながった。住民名簿から宗師チョンユエの住まいになっているここを引き当て、まさか冗談だろうと半信半疑で尋ねたら大当たりだったというのが一部始終だった。
つまるところ、ナマエはユンに合うために玄関を探して、衛兵を巻き込み一週間もずっと迷子になっていたらしい。
「ま、なんにせよ……お嬢ちゃん、見つかって本当に良かったな」
「うん。ありがとうおじさん!」
「俺まだ20代なんだけどなぁ……」
衛兵は哀愁漂う笑顔を浮かべて、それからユンを見下ろした。
「良かったな、坊主」
今日初めて会った人に『良かった』と言われると、その実感はいっそう強くなる。ユンが噛みしめるように頷くと衛兵は微笑んで、使用人といくつか言葉をかわした。何か調書を取っているのか手帳に書き込むと、かしこまった一礼をしてその場を後にした。
玄関の扉が閉まってから、ユンはあらためてナマエと顔を見合わせた。ナマエがにこにこと微笑むので、つられて笑い返す。と、後ろから使用人が声をかけてきた。
「とりあえず……玄関でお話するのもなんでしょう? あがってください」
ナマエはこくこくと頷いて、おそるおそる体を離した。そして「おじゃまします」と緊張混じりの声で言い、そろそろとした足取りで家に上がった。先導する使用人についていくので、ユンもその後ろをついていく。
てっきりユンの自室に向かうかと思いきや、向かった先は客間だった。子供心に、あまり立ち入ってはいけないと感じさせる空気の部屋だ。ユンはおろかナマエも尻込みしながら足を踏み入れる。
案内されるがまま、革製のソファに二人で横並びになって座った。使用人が退室すると、ナマエは安堵したように小さくため息を付いて、ユンに向けて微笑んだ。
「えへへ、ひさしぶりだね」
「はい。ちょうど一週間ぶりですね」
「元気だった? お熱は?」
「見ての通り元気でしたよ」
一週間も間が空いてしまったせいで、どう接したらいいのかユンにはわからなくなっていた。それはナマエも同じようで、お互いにちょうどよい距離を測りなおすかのようなやり取りをしているうちに、使用人がまた戻ってきた。
ユンの食べかけの菓子と真新しい菓子、そして茶器をテーブルに並べ始める。緊張するあまりカチコチになっていたナマエだったが、目の前に菓子が乗った皿を差し出されると目を輝かせる。やがてしなびた尻尾が徐々に丸まって、左右に揺れ始めた。現金だ。
「た、食べてもいいんですか……?」
「ええ、どうぞ」
使用人がにこやかに答えると、ナマエはおずおずと手を伸ばして、菓子を手に取った。
お菓子をつまみながら、この一週間なにをしていたか、とりとめもない話をたくさん喋った。さっきまでのぎこちなさもゆっくりほどけて、ナマエはいつものようにくりくりとした瞳でまっすぐユンを見ながら上機嫌に話す。それがユンにはたまらなく嬉しかった。
使用人が気を利かせてお茶を注ぎに来てくれたりもして、そのたびに微笑ましげな視線を向けられるのが無性に照れくさかった。
そうして5時をまわった頃、チョンユエが帰ってきた。
「おや?」
「あっ……」
ナマエはびくっと肩を震わせて、ユンにぴったりとくっついた。
あからさまに怖がる仕草にチョンユエは珍しく驚いた様子を見せる。使用人が「子供はあまり怖がらせるものではないですよ」と戯けて言うものだから、数秒の後に苦笑を浮かべていた。
「先生、おかえりなさい。……あの、ええと、これはその……」
「みなまで言わなくてもいい。……ナマエといったな」
「は、はいっ」
「お前の両親は、お前が今ここにいる事を知っているのか?」
「……あっ、……お父さんとお母さんは知りません、……すみ、すみません……」
声が震えているので、ユンはあわててナマエの背中に手を添え、さするように撫でた。
「大丈夫です、先生は怖い人じゃないですよ」
それを見ていたチョンユエも、徐々に自省するかのような曖昧な表情になる。
「言い方が不遜だったな。……すでに日が暮れかかっている時間だ、お前の両親が不安がっているのではないかと思ってな。家まで送らせるから、住所を教えてくれないか」
「あっ、ええと……」
ナマエはとつとつとした口調で住所を喋る。西区に住んでいるとの事だった。
「……そこは確か、昔から食堂があったな」
「あっ、はい。そこがわたしのおうちです……」
「そうか、なるほど。目印があってわかりやすくていいな」
そう言って、チョンユエは廊下へと踵を返した。こまごまとした会話が聞こえたあと、しっかりとした足取りで衛兵がやってくる。
そうして、お開きになってしまった。
そろって玄関に向かう。ナマエは来客用の部屋履きから靴に履き替えると、何か言いたげにチョンユエを見上げた。
「ま、またユンくんに会いに来てもいいですか?」
「玄関から入ってくるなら歓迎しよう。……これを持っていきなさい」
と言うと、チョンユエはナマエに何かを差し出した。小さなクリアケースに入った、四角い名刺のようなものだった。
「警備の者に見せれば通してくれるだろう。絶対になくさないように」
「な、なくしちゃったらどうしたらいいですか? お、おこりますか?」
「……怒りはしないが、もし失くした場合は、警備の者に必ず伝えなさい。これはこの建物の中を通ってもいいという証明書のようなものだ、他の者の手に渡れば、悪用されてしまうおそれがある。わかったか?」
「は、はい。わかりました」
しっかりした返事に、チョンユエは目を細めることで応じた。
ナマエは受け取った通行証を大事そうに鞄の中にしまうと、ユンに向き合った。
「ユンくん、ばいばい」
「はい。その、…………また明日」
ナマエはぱちぱちと目をしばたたかせ、
「うん!」
にっこりと笑って頷いた。
ナマエは衛兵につれられて、玄関から外に出ていく。その姿はいつかの光景と重なったが、あの時と違って胸が苦しくなるような感じは一つもなかった。
「さ、夕飯にしよう」
「はい、先生」
「……はは、今日はずいぶんと素直だな」
「……、……」
気まずくなってうつむくと、チョンユエが笑う気配を感じた。
「冗談だ」
こうして、ユンのささやかな反抗期はたった一週間で終わりを迎えた。
次の日から、ナマエがまた遊びに来るようになった。
玄関から呼び鈴が聞こえ、ユンは間髪入れずに席を立った。
自室を出て足早に廊下を進む。やがて来客の応対をしている使用人と、ナマエの声が聞こえてきた。
「こんにちは! ユンくんはいますか?」
「ええ、いますよ。……あっ、ほら、来ました」
使用人が促すと、ナマエが身体を傾けた。廊下の向こうにユンの姿を見つけて、ひとなつっこい笑みを浮かべる。
「ユンくん、こんにちは。遊びに来たよ」
「こんにちはナマエさん」
ひらひらと手を振ったかと思えば、ナマエは使用人を上目に見る。
「お、おじゃましてもいいですか?」
「はい、どうぞ。あがってください」
「おじゃまします」
ナマエはぎくしゃくしながら靴を脱いで、来客用の上履きに履き替える。
使用人の微笑ましげな視線を背中に感じながら、ユンはナマエを部屋に案内した。
「わー、テーブルがふえてる」
部屋の空いた所に置かれた木製の座卓を見て、ナマエは目を輝かせた。
「昨日、先生がもってきてくださったんです」
「せんせい……」
小さくぼやいて、少し困ったような顔になった。
ナマエはチョンユエと初めて会った時のことを引きずっているのか、いまだに打ち解ける様子がない。ひとなつっこいから誰にでもそうなのかと思っていたが、一度でも苦手だと思ってしまうと距離をおく性質のようだった。そんな新しい一面が知れたのもユンにとっては嬉しかったが、こんなことは誰にも言えるわけがないので胸の奥底にしまっている。
ユンはナマエにクッションを渡し、座卓の近くに座らせた。
「わー……なんかそれっぽい」
「それっぽいとは?」
「んと、なんかね、いいなぁって」
「あはは、そうですか」
漠然とした言葉だったが、何を指しているのかユンは理解した。
今まで簡素だった室内に家具がたった一つ増えただけで、がらっと印象が変わったことを言っているのだろう。ユンだって喜んだが、ナマエはまるで自分のことのように喜んでいるので、つられて微笑んでしまう。
「今、何かお菓子とか持ってきます。待っていてください」
「あっ、手伝おっか?」
「大丈夫ですよ」
そうしてお茶とお菓子を食べながら、いつも通り雑談に身を投じた。
日によっては勉強のことを教えたり、トランプなどのゲームをやったり。果てまた遊びや勉強に疲れて一緒に床で寝たりして、たまにチョンユエに起こされたりもした。
ナマエが玄関から尋ねるようになってからの初めての休日、昼過ぎをまわった頃にナマエは遊びにやってきた。しかも、大仰な紙袋を引っ提げている。
ユンが不思議に思って尋ねると、
「お母さんがね、『いつもお世話になっているから持っていって』って。お菓子です」
「わぁ……いただいていいんですか?」
「うん。……ねぇねぇ、これって『袖の下』って言うんだよね?」
「……いえ、違うと思います」
首を振ると、ナマエは目を丸くした。
「えーっ、このまえテレビでやってたよ?」
どんな番組を見ているんだろうと苦笑を浮かべつつ、ユンはナマエに家に上がるよう促した。
並んで廊下を歩いている最中、
「今日はね、ユンくんと悪い事しようって決めてるんだ」
ナマエはそう言ってにやっと笑った。
悪い事という仄暗い単語から、ユンは焦りをにじませた。立ち止まって、ふるふると首を横に振る。
「わ、悪い事なんて、だめですよ」
「ばれなきゃ平気だよ」
「で、でも……っ」
まさかナマエがそういう事をする人間だったなんて、というショックと、断ったらどうなるのか先の事を想像して立ちすくむ。友達だからこそ止めなきゃいけないけど、嫌われるのが怖いという板挟みから尻込みしていると、ふっと廊下に影がさした。
「二人共、何の話をしていたんだ?」
ナマエの真後ろから声がして、ユンは顔を上げる。ナマエはびくっと肩を震わせて、ぎこちない動作で振り返った。
「あっ……!」
「せ、先生……」
今日は休日で、チョンユエも例外ではなかった。チョンユエは朝から家にいて家事をやったり、新聞を読んだりして過ごしていた。手に箒とちりとりを携えているので、どこか掃き掃除をしてきた帰りなのだろう。
「何がばれなければ平気なんだ?」
わざとらしく尋ねるのを見るに、どうやら二人の話を最初から聞いていたらしい。ちょっと性格が悪いなとユンは思いつつ、ナマエに気遣うような視線を向けてぎょっとした。耳と尻尾を縮こませて、今にも泣きそうな表情でぷるぷると震えている。
「おやつ……」
「おやつがどうかしたか?」
「い、いつも一人一個だから、こっそり三個食べようと思いました……」
「……」
あっけない理由にユンは放心し、チョンユエは目を丸くして閉口する。ナマエは相変わらずぷるぷると震えたままだった。
しばらくして。
「……ぷっ」
ユンが吹き出したのを合図に、場の空気が弛緩した。チョンユエがささやかなため息をついて、薄く笑った。
「三個では夕飯が食べられなくなる、せめて二個にしなさい」
「はいっ」
威勢のよい返事の後にぐすっと鼻をすする音がして、ユンはもう一度笑った。
紙袋をチョンユエに預けて、二人でユンの部屋に向かう。
扉を閉めた途端、ナマエは堰を切ったように不平不満を口に出した。
「ひとが絶体絶命のときに笑うのはひどいよ!」
「おもしろかったのでつい」
「ついじゃないよ!」
怒ったままの顔をじっと見つめても、ナマエの機嫌は直りそうにない。どうしたものかと視線を上へと移動させると、へたれたままの耳が目に留まった。
「……」
「な……、なんで撫でるのっ」
「あはは」
揉み込むように撫でているうちに、耳がピンと立った。怒り顔だったナマエもくすぐったそうに目を細めて、尻尾を振り始める。
果たして、その日出された菓子は皿の上にふたつ乗っていた。
以前と比べ、ユンの体調はかなり良くなった。熱を出す頻度も減り、全身を包み込むような気だるさも感じなくなった。
そうすると今度は、体力をつけようということになった。なにせユンはほとんど外遊びをしないので、ちょっと走っただけでも息が上がってしまうのだ。同年代の子供よりも体力がないのである。
新たな日課として、軽い運動が加わった。
そして朝晩どちらかの時間に、チョンユエと一緒に建物の外周をぐるぐると歩くようになった。足腰を鍛えるのが目的らしい。
はじめこそ10周しただけで筋肉痛になりへとへとになっていたが、回数を重ねるごとに筋肉痛にならなくなり、周回数を増やしても疲労感は薄まる一方で、ようやく体力がついた実感が湧くようになった。
今日も今日とて夕暮れ時にチョンユエと街の中を歩く。チョンユエはユンの狭い歩幅に合わせ、のんびりと歩いていた。足並みをそろえてくれるのが、ユンにとっては心強い。
本日の散歩はいつもより早く家を出て、違うコースを歩んでいた。チョンユエいわく『外で食事をする』とのことだったが、ユンはどこに向かうか皆目見当がつかない。
「どこに行くんですか、先生」
「なに、行けばわかるさ」
尋ねてもこの調子で、ユンは不安なままチョンユエについて歩いた。
赤信号に何度も立ち止まって、横断歩道を数回わたって、賑やかな繁華街に入った。
人通りの多さ、街灯の眩さ、そしてあちこちから響く賑やかな声が目まぐるしい。ユンは物珍しさから忙しなくきょろきょろと周囲を見回していると、うっかり道行く人とぶつかってしまった。よためいた瞬間、チョンユエに手を掴まれた。そのまま手を繋いで歩く。
そうして辿り着いたのは、こじんまりとした大衆食堂だった。そろって店に入ると、二人に気付いた店員がすっと寄ってくる。
「いらっしゃいませ。あいにく今混み合っておりまして……」
「予約を入れていた者だが」
「あっ! えっ、ええと……」
対応にあたっている店員は新人のようでぎこちない。おまけに相手がチョンユエだと気付いて、緊張からどぎまぎとしているのがユンから見ても手に取るようにわかった。
ユンは大人同士の対応そっちのけで店内を見回した。外よりは騒がしくないものの、仕事帰りの大人たちや家族連れでひしめいている店内はずいぶんと賑やかで、繁盛しているのが伺える。きょろきょろと辺りを見回していると、柱の陰から丸まった尻尾が見え、ユンは思わず目をしばたたかせる。
「お嬢ちゃんえらいね、手伝い?」
「うん。これ、おはしと、おしぼりです。ごゆっくりどうぞ」
「はい、どうもね」
喧騒の中でも、子供の声がはっきりと聞こえた。その声は聞き覚えがありすぎて、ユンの注意は完全にそちらに向いてしまう。様子をうかがっていると、子供が踵を返した。一瞬見えた横顔に、ユンはぽかんとする。
と、優しく肩を叩かれ、意識を引き戻された。
「行くぞ」
「は、はい」
案内された先は柱と衝立で区切られていて、外の音が入ってこない静かな四人席だった。店内は書き入れ時で混み合っているのに、客二人のために小部屋に案内されたのが不思議だったが、ユンにとっては気が休まった。あまりにも騒がしすぎて疲れてきたからだ。
店員が出した水をちびちびと飲んでいると、軽快な足音が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
挨拶と共に姿を見せたのは、店員と同じ柄の小さいエプロンを身に着けたナマエだった。
「あっ」
席にいる二人の顔を交互に見てから少しのけぞったが、すぐに元の体勢に戻った。
「おはしと、おしぼりです。ごゆっくりどうぞ」
録音した音声をそっくりそのまま流しているような言い方だった。ナマエはテーブルの上にそっとかごを置いて、一度ユンに目配せしてから、ぱっと立ち去ってしまう。
「ここ、ナマエさんのおうちですか?」
「ああ。前に聞いたのでな」
確かに、ナマエが玄関から初めて入った日にそんな事を言っていたなと、ユンはぼんやり思い返した。
それから二人でメニュー表を見て、食べたいものを決めて、店員に注文した。
料理を届けてくれたのは店員ではなかった。ひとなつっこそうな笑みを浮かべた女性で、おまけにナマエを引き連れている。ユンはこの女性が誰なのかすぐにわかった。
「こんばんは。いつもナマエがお世話になっております」
「ミョウジ殿、こちらこそ」
大人同士の会話は、すでに互いを知っているような口ぶりだった。挨拶と世間話をまじえながら、ナマエの母親が料理をテーブルに並べる。ユンはそれに目を輝かせながらも、横目でナマエを伺った。いつの間にかエプロンを外しているし、尻尾を揺らしている。目が合うなりじーっと見つめられるので、じーっと見つめ返して――どちらともなく微笑んだ。
そんなことをしているうちに、注文よりも多く皿が並んでいることに気がついた。びっくりしていると、
「ユンくんだったわよね、うちの子もご一緒させてもらっていい?」
「えっ、あっ、はい」
「ごめんなさいね。ほらナマエ」
「あっ、その……宗師とユンくん、おじゃまします」
そう言ってナマエはいそいそとユンの隣に座る。ナマエの母親は挨拶をして、仕事に戻っていった。
「……先生?」
「店に連絡を入れた際に先方が気付いてな、こういう段取りになった。嫌だったか?」
「いいえ」
だからこの席だったのか、と腑に落ちた。
「わたし、嬉しいよ」
と、ナマエがにこにこしながら言う。
「お手伝いは6時までって決めてるの。そのあとは部屋でずっとひとりだから」
「ずっと、というと、夕飯もか?」
「うん。お父さんとお母さん、お店のことで忙しいから」
「そうか。えらいな」
ユンはそのやりとりをじっと聞きながら、なぜチョンユエがここに来たのか、その理由を漠然と察し始めていた。どういった環境で育っているのか見に来たのもあるだろうが、あるいは――。
「さあ、冷めないうちに食べてしまおう」
チョンユエが促すのを合図に、箸を持つ。三人で食前の挨拶をしてから、食事に箸を付けた。
食事を終えて会計を済ませると、ナマエの母親が見送りに来た。
「よかったらまた来てくださいね」
「ああ、ぜひとも」
朗らかに言う母親の隣で、ナマエが小さく手を振った。
ユンが手を振ると、ナマエは嬉しそうに尻尾を振って、はにかんだ。
「おいしかったですね」
「そうだな。また来よう」
来るときと同じようにのんびり歩いて、家につく。
玄関で靴を脱いでいる最中、チョンユエが言った。
「今までより長く歩いたな。体調はどうだ?」
ユンは一度自分の体を見下ろしてから、チョンユエを見上げた。
「ふつうです」
「そうか。道順は覚えたか?」
「はい。中央通りをまっすぐ歩いて、西区画に向かって、それから繁華街に出て少し歩いたところでしたよね」
「なら、これから一人でも行って帰ってこれるな」
「あ……」
「たまにはお前から遊びに行ってやりなさい」
「は……はい」
その数日後、ユンは勇気を出して「ナマエさんの家に遊びに行きたいです」と打ち明けた。何事も礼儀は必要だし、他人の家に行くならばちゃんと前置きが必要で、おまけにいきなり行って行き違いが発生したらまずいと思ったからだ。
そんな心構えのユンとは対称的に、ナマエは特に悩むことなく、秒で「いいよー」と返した。
ユンは一人であの大衆食堂まで向かい、営業時間外の札がかけられている扉にどうしたらいいのかわからずしばらく戸惑った。そうしているうちに、うろうろしているユンに気付いたナマエが扉を開け放つ。ユンは気恥ずかしさをこらえながら、敷居をまたいだ。
「ユンくん、いらっしゃい」
「お、お邪魔します」
「んふふ、まだお店の中だってば。ちゃんとついてきてね」
「はい」
店の奥へと進むナマエの後ろをついていくと、通路の突き当りに扉があった。家の中にある扉にしては重厚な作りで、鍵穴がついている。
扉を開けた先には階段があった。ナマエがのぼっていくので、ユンは物珍しさにきょろきょろ見回しながら、置いていかれないようについていく。
のぼった先には玄関があり、その先にはごくごく普通の居間が広がっていた。この家は一階が料理屋で、二階が居住スペースという構造のようだ。
「ここがわたしのおうちです」
「えっと……お邪魔します」
「うん」
靴を脱いできっちりそろえてから、家に上がった。
ナマエはユンの手を引いて廊下に向かい、家の扉について説明を始める。
「ここがトイレ、ここがお風呂。ここがお父さんとお母さんの部屋」
「はい」
「で、ここがわたしの部屋だよ」
扉を開いた先には、初めてできた友達の自室が広がっていた。
ユンは足を一歩踏み出すのもままならずじっとしていると、笑顔のナマエに手を引かれた。そうして一歩、二歩と踏み出して、部屋の中央にあるガラステーブルの前に無理やり座らされた。
「いま、ジュースもってくるね」
「手伝いましょうか?」
「えへへ、ユンくんはお客様だからいいの」
上機嫌なナマエの後ろ姿を目だけで見送り、ユンは一人ぽつんと静かに座ったまま、不躾と思いながらも部屋の中を見回した。
机やタンスがユンの部屋にあるものとはまるで違う。伝統からかけ離れたデザインは安価な大衆向けといった感じで、おまけに子供が使うことを想定しているのか丸みを帯びてチープな作りだが、裏を返せば可愛らしい。
小物はどれもユンの部屋にあるようなものではなく、きらきらしている。ペン立てにはカラフルな鉛筆やボールペンやカラーペンが並んでおり、ユンの部屋にあるような木製の筆なんてものはないし、炭も硯もない。
部屋の香りも少し違った。玉門で広く出回っているありふれた洗剤の香りに混じって、どこか甘い匂いがする。なんの匂いかはわからない。少なくともユンからもチョンユエからもしない香りだ。
一通り眺めているうちに、だんだんと気まずくなって、そわそわして落ち着かなくなってきた。
そしてユンはようやく、ナマエが自分とは違う生き物――女の子であることを認識した。