- 4 -
べつだん珍しい事でもなかったので、ユンはそうですか、と頷いた。
「今回は四日ほど家を空ける」
「遠いところに行くんですね。お気をつけてください」
「それで、ちょうどいい機会だ。使用人にも休暇を出した」
「……家には私ひとり、ということですか?」
「ああ。だから私が不在の間、お前をミョウジ殿の家に預ける」
「えっ」
「不服か?」
「い、いいえ。驚いただけです」
ユンは首を横に振った。だが、漠然とした気がかりは拭えない。
「でも、よろしいんですか? この話はもうナマエさんのご両親に伝えたんですか?」
「ああ。うちでよければ、と快諾をもらった」
いつの間に、とユンは驚いた。あちら側にはすでに話が通してあるのだと理解したら、気がかりも消え去った。
こうして、あれよあれよという間に、ナマエの家に世話になる日が訪れた。
早朝に軍部に行かなければならないチョンユエに合わせて、ユンはいつもよりずっと早い時間に朝食をとると、寝泊まりに必要な荷物を持ってチョンユエと一緒に家を出た。
家の前でチョンユエと別れ、人もまばらな道路を一人で黙々と歩く。
乾燥した空気はすこし冷たくて、埃っぽかった。
ナマエの家を尋ねると、ナマエが飛びつくような勢いで出迎えてくれた。そしてナマエの両親は早朝の来訪にもかかわらず、ひとなつっこい笑顔で歓迎してくれた。
「ユン・チンピンです。今日からお世話になります」
「ええ。自分の家だと思ってくつろいでもらっていいからね」
それだけに留まらず、ナマエは尻尾を忙しなく振って、目をきらきらと輝かせて喜んでいた。
「友達が家にお泊まりに来るのはじめて」
「私も、お友達のお宅にお世話になるのは初めてです」
いつものように食堂の奥へと案内され、二階へと続く階段をのぼった。ナマエの家の構造は最初こそ驚いたが、何度も来たので慣れてしまった。玄関で靴を脱いで揃え、家に上がると、適当な場所に荷物を置かせてもらう。
ナマエの母親から、苦手な食べ物や体調不良の際の対処法などいくつかの質問を受け、ユンはその都度丁寧に答えた。最後に「食堂を開く時間になったら下には降りて来ないように」と念を押され、ユンがしっかりと頷くと母親は満足したように微笑み、朝の開店時間に合わせて一階へと降りていった。
しばらくナマエとソファに座ってテレビを見て過ごしていると、ナマエが学舎に登校する時間がやってきた。
「今日は半日で終わるから、お昼一緒に食べられるよ。それじゃ行ってくるね!」
「は、はい。いってらっしゃい」
「……えへへ。ユンくんのお見送りなんかいいね!」
なんだか照れくさくなるようなことを言い、ナマエは名残惜しそうに何度も手を降ってから出て行った。
一人で居間に取り残されたユンは、荷物を漁って教本や筆記具にノートを取り出すと、食卓テーブルで自習を始めた。今日の分を終えると本棚からちょうどよさそうな本を手に取り読書にふける。やがてナマエが学舎から帰って来ると昼時が終わるまでナマエと過ごし、休憩に入ったナマエの両親とともに少し遅めの昼ご飯を食べた。そして午後はナマエと一緒にひたすら遊んだ。
夕方になるとナマエは店の手伝いで下に降りていってしまったので、ユンはまた一人で読書をして過ごした。
やがて、ナマエと母親が出来立ての料理を持って戻ってきた。湯気が立つ皿を食卓テーブルに並べると、母親はまた一階に戻ってしまった。忙しそうな背中を見送ってから、二人で一緒に夕飯を食べた。
対面に座るナマエは、とても機嫌が良さそうだった。
「今日、学校で何かいいことがあったんですか?」
「ううん、ユンくんがいるの嬉しい。おばあちゃんが死んじゃってから、いっつも一人だったから」
「……そ、そうですか」
嬉しくなることと悲しくなることを一緒くたにぶつけられユンは内心戸惑ったが、ナマエの気持ちはなんとなく理解できた。チョンユエが使用人を多く雇っているのも、ユンが寂しい思いをしないようにと気を使っての事だとわかっていたからだ。
そんな事を考えているうちに、ふと、予感めいたものが走った。
どうしてナマエが頻繁に遊びに来てくれたのか。かねてより不思議に思っていたその動機に、ユンは気付いた。
部屋で『一人』だったから――。
これはユンの勝手な想像でしかない。ただ、『さみしそう』というささやかな共通点を見つけて頻繁に構いに来たというのは、ナマエの性格を鑑みれば大いに有り得るとユンは思った。
「ユンくん、食器洗うから、拭くの手伝ってくれる?」
「は、はい」
ぼうっと思考にふけっている最中に声をかけられ、ユンは慌てて頷いた。なんにせよ、今は寂しさとは無縁になったので、深く考えても意味がない気がした。
それから交互にお風呂に入る。湯上がりに二人で冷たいお茶を飲みながら、ユンは店のことについて尋ねた。
「とても混んでいますよね、びっくりしました」
「うん。でも昔はね、こんなに忙しくなかったんだ。アルバイトさんも雇わなくてよかったくらい」
「なにかきっかけがあったんですか?」
「うん。旅行雑誌に載ったんだって。そしたら忙しくなっちゃった」
さもありなん、とユンは苦笑を浮かべた。
お茶を飲み終えると歯を磨き、二人で先に眠ることになった。
ユンがどこで寝泊まりするのかと思えば、ナマエの部屋だった。
友達の、しかも女の子の部屋で寝泊まりするという事に、ユンはどうしようもない緊張を覚えた。だというのに、ナマエはけろっと平気そうにしているのがユンにはもどかしくてたまらない。気にしている自分がおかしいような錯覚すら覚えてしまう。
そんな不満を必死に押し殺しながら、ユンはナマエのベッドのすぐ隣に敷いてある布団に横になった。
「ユンくんおやすみ」
「はい、おやすみなさい」
明かりが消えてしばらく経ってから、もぞもぞと寝返りを打つ音がした。
「ユンくん」
「どうかしました?」
「こうすると怖くない?」
ナマエはいきなりそんな事を言って、布団の縁から手をぬっと出してきた。暗がりからぶら下がる手を見て、ユンはびくっと肩を震わせた。
「うわっ、驚かせないでください!」
「あはは、ごめん。こわかった?」
「怖いというか……びっくりしました……」
まだぷらぷらさせたままのナマエの手を見つめ、ユンは布団から手を伸ばしてくるむように掴んでみる。するとナマエもユンの手をくるむように握り返した。
しばらくそのまま握り合ったり指を絡めたりと手遊びを続けていると、ふいにナマエが言った。
「ユンくん、手つないで寝ていい?」
「ええと……このままということですか?」
「うん。だめ?」
ベッドの端からナマエが顔をのぞかせるが、暗がりでよくわからなかい。ユンは少し迷って、こくんと頷いた。
「えへへ。ありがと」
きゅっと手を握って、ベッドの端に頭をあずけて、ナマエは静かになった。
やがて、穏やかな寝息が聞こえてくる。
「……」
ユンは繋いだ手を見つめ、それからぼうっと天井を見上げた。
今まで感じたことのない感情が胸中でひしめいているのを感じた。心の内側がざわざわしていて、なにかに急かされるみたいな感覚がある。どこかに飛び出していきたいような気恥ずかしさと穏やかな居心地のよさ、相反するふたつのものが隣り合わせに存在しているのが奇妙だった。
――いつまでこうしていられるんだろう?
ふいにそんな疑問が頭の中に浮かび上がった。
そもそもユンがチョンユエのような立派な大人になる頃、ナマエはこんなふうに一緒に遊んでくれたりするのだろうか? チョンユエが普通の大人とどこか少し違うのはわかっているが、ユンが見た限りではチョンユエの周囲にそういう空気の女性は一人もいない。
境界が曖昧な今の時間だけが特別なんだという気がした。
ナマエが女の子だからと思うだけでぎこちなくなるのを、ユンは必死に隠して振る舞っている。でもナマエが、ユンと同じように自分とは違う生き物だと気付いたら、この繋いだ手の間に境界線ができてしまうような気がしてならない。
考えれば考えるほど仄暗い方に突き進んでしまって、ユンは思考を打ち切るために目を閉じた。
寝苦しさに身を捩りながらユンは目を覚ました。首だけを起こして様子を伺うと、隣のベッドから掛け布団がはみ出して自分の布団の上にかかっていた。どうりで寝苦しいはずだと納得しつつ視線を横に移動させると、ベッドの端でナマエが寝ているのが見えた。穏やかな呼吸に合わせて、肩がわずかに上下している。
ユンはナマエを起こさないように静かに布団を退けようとして、ふと違和感に気づいた。
いまだにナマエと手をつないだままだった。
てっきり寝てる間に離しているだろうと思っていた。なのにナマエはかっちりと掴んで離さない。そうやって一晩中変な姿勢でいたせいか、繋いだ手の感覚がほとんどない。それでも手に力を込めてみるとかすかに握り返してきて、ユンは微苦笑を浮かべた。
ゆっくりのろのろと体を起こして、それから膝立ちになる。
「ナマエさん、朝ですよ」
ナマエの肩を揺さぶると、むずがるように小さく身震いして瞼を持ち上げた。眠たそうに目をしょぼしょぼとさせている。
「あれ……ユンくん、なんでここにいるの……? ……ゆめ?」
「昨日から泊まりに来ているのに、もう忘れてしまったんですか?」
「あ……あー、そうだったぁ……おはよー」
「おはようございます」
ナマエは体を起こそうとするも不思議そうに首を傾げ、それから繋いだままの手に視線を落とし、びくっと肩を震わせて驚いた。
「ずっと繋いでてくれたの?」
「ナマエさんが離してくれなかったんですよ」
「ちがうよ、ユンくんのほうだよ」
言い合って、くすくす笑って、ようやく手を離した。
しばらくするとナマエの母親が起こしに来て、二人がもう起きていることに心底びっくりしていた。
こうして三泊四日のお泊りは、あっという間に終わった。
「また来てね。いつでも歓迎するから」
「はい。ありがとうございました」
お礼を言って、ナマエの両親に頭を下げる。母親は終始屈託のない笑みを浮かべていたが、父親の方といえば最後まで寡黙だった。ユンに言葉少なに声をかけ、最後に挨拶を付け足して、のそのそとした足取りで調理場へ戻ってしまう。
するとナマエの母親が身をかがめ、ユンの耳元でひそひそ声で喋り始める。
「あの人ね、多分あなたにやきもち焼いてるのよ」
「やっ、やきもち……?」
「ナマエちゃんが友達連れてくるって聞いて喜んで、でも男の子だったからショック受けてたもの」
「……」
どう反応したらいいのかわからず固まっていると、ナマエの母親は背筋を伸ばし、隣にいるナマエの背中を軽く叩いた。
ナマエといえば、朝からずっとこの調子だった。口数が少なくうつむきがちで、おまけに耳が垂れ下がっているせいか、とても元気がなさそうに見える。最初こそユンは体調不良なのかと心配したが、母親いわくいつも通り元気いっぱいらしい。
「ほら、いつまでそうしてるの。笑顔でお見送り」
「……うん。ユンくんまたね」
「はい。楽しかったです」
それでもナマエは笑顔にならない。母親が呆れ気味に微笑んで、悪戯めいた手つきで頭をわしゃわしゃと撫でた。途端にナマエは「もーっ」と不満をあらわにしながら乱れた髪を手櫛で整え始める。さすがにやりすぎたと思ったのか、母親も手櫛で整えるのを手伝いながら口を開いた。
「この子ね、あなたが泊まりに来てくれるって、すごい楽しみにしてたのよ。仲の良い男の子の友達がいなかったから舞い上がっちゃってね。ただでさえ毎日、ユンくんがねユンくんがね、ってうるさいんだから」
「……」
「わーっ、わーっ! 言っちゃ駄目!!」
ナマエは言葉を遮るように声を上げ、母親の服を掴んで揺さぶった。予想外の展開にきょとんと目を丸くするユンの視線に気づいて、徐々に頬を染めながらうつむきがちになる。
しばらくの間をおいてから、ユンは口を開いた。
「また、こういうふうに泊まりに来てもいいですか?」
「……うん……」
「よろしければ、ナマエさんもうちに泊まりにいらしてください。先生ならきっと許してくださるはずです」
「だって。よかったわね」
「……うん!」
弾むように頷き、笑顔で尻尾をぱたぱたとふりはじめる。へたれた耳もいつしか立っていた。
別れの挨拶を済ませ、ユンは手を振ってから店を出た。歩道で待っているチョンユエの元へとまっすぐ向かう。
振り返ると、親子二人はいまだ店の入口で見送る姿勢のままだった。そんな二人にチョンユエは一礼し、ユンの肩を軽く叩いてから足を踏み出す。ユンも二人に一礼してから、チョンユエの後ろをついていく。
「家を空けてすまなかったな。この数日、どうだった?」
「とても楽しかったです」
「そうか」
「先生、あの……ナマエさんが家にお泊まりに来るのはだめでしょうか?」
チョンユエは意外そうに目をしばたたかせ、
「それは、お前次第だな」
あえて多くを語らないチョンユエの言い回しはわかりにくい。だが、これはほとんど許可がおりたようなものだった。
このところユンの体調も安定してきたので、とうとう学舎に通うことになった。
ユンは、みんなと同じように学舎に通える嬉しさよりも、緊張と不安のほうが強く勝った。というのも、同年代の子はなにもナマエのような性格ばかりではないことを、なんとなく察していたからだ。
移動都市の子供というのは、進学をのぞいて転入出はほぼないに等しい。なので転入生が入ってくるのはごくごく稀であるため、ユンのような存在は珍しいのだ。おまけに玉門に蔓延する一蓮托生の連帯感は、子供達にも浸透している。異分子たる自分を受け入れてもらえるのか分からず、ユンは朝から憂鬱だった。
食欲は無かったが、用意された朝食をなんとか食べ終え、真新しい鞄を背負ってとぼとぼと玄関に向かう。
「おはよー」
にこにこ笑顔のナマエがいた。ユンはびっくりして瞬きを繰り返す。
「おはようございます。こんな朝早くにどうしたんですか?」
「一緒に学校に行こうと思って」
「……たのまれたんですか?」
「えへへ。ないしょ!」
ユンは何も言わず、いつの間にか後ろに佇んでいたチョンユエを見上げた。
「どうかしたか?」
穏やかな微笑みはどうにも怪しくてしょうがなかったが、ユンはつい出そうになった言葉を飲み込んだ。
「……いいえ。では先生、行ってきます」
「いってきます!」
「ああ、二人とも気を付けてな」
笑顔のチョンユエに見送られ、二人で家を出る。見慣れた歩道に出たが、二人で歩くとなんだか違う景色に感じられた。
「実はね、ユンくんと同じクラスなんだよ」
「本当ですか?」
「うん、先生が昨日そんな事言ってたから。だからユンくん、わかんない事あったら頼ってね」
学校につくと、ナマエと別れて職員室に向かった。担任教師に挨拶を済ませ、教師と一緒に教室に足を踏み入れる。壇上に立ち、上ずった声で自己紹介をすませる。そうして教えられたユンの席は、ナマエの隣の席だった。
ユンはびっくりして戸惑いつつも、鞄を机の脇にかけて着席した。するとナマエがひそひそ声で話しかけてくる。
「この席ね、くじ引きで決まったんだ。隣に誰もいないし最初はハズレだって思ったけど、大当たりだったね」
「そ、そうだったんですか……」
もしかすると別のクラスに配属されていたかもしれないのに、ユンはここに座ることになった。その運のめぐり合わせに、ユンは内心感謝した。
「これからよろしくね、ユンくん」
「はい、よろしくおねがいします」
あらためて挨拶すると、なんだか新鮮で照れくさかった。
四時間の授業を終え、昼食の時間がやってきた。ユンは初めての給食の味に戸惑いながらも、なんとか完食した。
その後の休憩時間、ユンは自分の席で本を読んで過ごそうとした。だがすぐにナマエが隣に座って本を覗き込んできたので、結局一緒に本を読むことになった。
途中、ナマエはクラスメイトの女子に一緒に遊ぼうと声をかけられていたが、その都度断っていた。
「よかったんですか?」
「うん」
ナマエはにこにこしながら頷いて、尻尾をぱたぱたと振っている。裏表がなくてとてもわかりやすいから、それがかえってユンには少しこそばゆい。
しばらくの間二人で静かに本を読んでいると、廊下が騒がしいのに気がついた。クラスに残っている生徒がつられるように騒ぎ出し、ユンとナマエも流石に読書を中断してそちらに目を向ける。
「そんなに慌ててどうしたんだよ」
「下の学年で、校舎の壁登って降りれなくなったやつがいるって」
「まじ? 冷やかしに行こ」
少年たちは揶揄するように言い、慌ただしく走っていく。
そんなやり取りに好奇心を刺激されたクラスメイトが、続々と教室を飛び出していった。
「元気だねー」
「あはは……そうですね……」
「わたし達も見に行こっか?」
声をかけられ、周囲を見回す。気が付けば、クラスに残っているのはユンとナマエの二人だけだった。
「……いいえ、騒がしそうだから私はいいです。でも、ナマエさんが行きたいなら……」
「うーん……、わたしもいいや」
まるで興味が持てないと言わんばかりの呑気な物言いにユンはくすっと微笑んで、また本を広げた。
窓の外から騒がしい声が聞こえる中、二人っきりの教室で、おなじ本を読み合う。
透き通ったうすい膜で外の世界から隔離されているような感覚。それは疎外感とも呼べるものだったが、落ち着いたゆるやかな空気はユンにはとても居心地が良かった。
それから毎日学舎に通った。やがて季節の変わり目がやってくると席替えが行われ、ユンとナマエは隣同士ではなくなった。
それでも、ナマエとの登下校はかかさなかった。
一時期、男女で登下校するのをからかわれた時もあった。さげすむ言葉を浴びせられても無関心に相手を観察するユンとは対称的に、ナマエはとにかく怒った。そんなナマエの態度がなおさら相手の興味を煽っているのだと気付いたユンは「どうして一緒に通ってはだめなんですか?」とつとめて冷静に返して、長々と質問攻めにした。すると相手は徐々にしどろもどろになって、返答に窮する。それでも追い打ちをかけるように質問攻めにするユンの態度がかえって疎ましがられ、徐々に構うことに飽きられた。
転入当初、体育の授業たった一時間でへろへろになっていたユンも徐々に体力がついて、持ち前の反射神経のおかげて周囲との差もなくなった。それが周囲の飽きを助長させたのだろう。簡潔に言えば、舐められなくなったのである。
学年が変わってもずっと同じクラスのままだったが、一向に隣の席にはならなかった。しかし最後の席替えで隣同士の席になって笑いあい、季節の終わりにユンとナマエは学舎を卒業した。
卒業後、ナマエは中等部に進学したが、ユンはチョンユエのすすめもあって玉門軍の中央部に見習いとして通うことになった。
新しい学校、新しい環境と進路がわかれた。
ナマエは部活や課外活動などが増え、目に見えて忙しくなる。
ユンといえば、平均より低い体力がとうてい使い物になるわけがなく、もっぱら雑用や記録係としてチョンユエのそばについてまわった。むろん、軍事をはじめとした学習会や講義などには参加した。
自由時間の確保が難しくなっても、二人の交流は相変わらず続いた。週に一度は絶対に顔を見せるという暗黙の了解ができあがってしまい、夕飯どきにはあの大衆食堂に通うことが増えた。勉強なども教えたりすることもあれば、なにか催しや新作映画の上映が始まれば二人で行ったりもした。そしてナマエが長期休暇に入ると、ユンの家に泊まりに来ることもあった。
そんな生活がしばらく続いたある日のこと、チョンユエからの提案にユンは目をしばたたかせた。
「百灶ですか?」
「ああ。しばらくそちらに滞在することになった。お前も連れて行く」
「……」
しばらくとはどのくらいの期間なのか。少なくとも、チョンユエの口ぶりから察するに、数週間というわけではなさそうだった。いきなりの話に戸惑うユンに構わず、チョンユエは言葉を続ける。
「お前にはのちのち、私のかわりに筆を取ってもらう。録武官のつとめを果たしてもらいたい」
「録武官……ですか?」
「ああ。だが録武官になるには、お前には知識も経験も足りない。まずは色々な武人の構えを見て、武技の記録を取らせる。そうして他人の長所と短所を見抜く目を培わねばなるまい」
「それは、玉門ではだめなのですか?」
「だめだ。各地の武人を己の目で見定めて記録しなければ、偏りが生じる」
「……、わかりました……」
拒否するわけにもいかず、ユンは頷いた。
そもそも将来について不透明だったので、チョンユエが道を示してくれるのはユンにとってはありがたい話だった。しかし、しばらく玉門にいられなくなるというのがユンの決意を曖昧にする。ナマエとは長い間話もできず、ましてや一緒に遊ぶことも、そして顔すらも見られなくなる日々が続くと思うと、後ろ髪を強く引かれる思いになる。
そんなユンの迷いにチョンユエは目ざとく気付いたようで、薄く笑みを浮かべた。
「なにも一生涯ここを離れるというわけではない。心残りがあるならば、早めに話をしにいってやれ」
「あ……、ありがとうございます。……では、今日の夕飯は私の分はいりませんので」
「そうか。お前は私に一人で食べろと言うのだな」
「……先生?」
「冗談だ」
「百灶に行くの? あら、すごいじゃない!」
ナマエの母親が驚きながらも笑顔を見せる隣で、今ちょうど帰宅したばかりのナマエは愕然としていた。
「ど……どのくらい?」
「わかりません。先生はしばらく、とだけ」
「随分アバウトなのね」
「ええ、本当に」
ナマエの母親が呑気に言うので、ユンは苦笑で応じた。
「もしかしてユンくん、都の学校に通うの?」
「いいえ。先生は私を『録武官』として登用したいとのことで、各地の武人の技を見て記録しろとおっしゃいました」
「各地……」
ナマエは呆然と呟きながらユンの顔を見つめ、徐々にうつむきがちになった。
「そうなると……けっこうな期間になっちゃいそうね」
「はい」
話が一段落ついたタイミングでナマエは顔を上げ、切羽詰まったように言う。
「宗師とユンくん、いつ出発するの?」
「今週末です」
「お見送りに行っても大丈夫?」
「はい。実はそれを期待してここに伝えに来ました。ナマエさんとしばらく会えなくなるのはさみしいなと思ったので」
ナマエが息を呑む隣で、母親が得体の知れない微笑みを浮かべた。
「あら~」
「お、お母さん、ちょっとあっち行ってて!」
怒り出すナマエに母親はおどけた様子で笑うと、さっさと奥へ引っ込んでいった。その後姿をユンは苦笑で見送ってから、あらためてナマエに向き直る。
「来てくれますか?」
「もちろん。絶対行くからね」
「よかったです」
なんとか笑みを浮かべると、ナマエもぎこちなく微笑んだ。ユンはその表情を見て、自分も同じような精一杯の笑みを浮かべているんだろうなという予感がした。
「話は変わりますが、お夕飯を食べていってもいいでしょうか?」
「えっ? あ、うん! ぜんぜんいいよ!」
「久しぶりですね、ナマエさんのおうちで食べるの」
「えへへ、そうだね。じゃあ今お父さんに話してくるから、ユンくん何か食べたいものとかある? お祝いなんだから、好きなの頼んでいいよ」
「ええと……」
パッと思いついた料理をあげると、ナマエは笑顔で頷き、足早に調理場へ向かった。その際、ナマエの尻尾が左右に揺れているのが目に留まり、ユンはふっと微笑んだ。
進学しても、ナマエのこの仕草は相変わらずだった。ただ、今日の話は内容が内容だけに、もう見られないだろうと思い込んでいたため、ユンは少し嬉しくなった。
出発の日の朝、ナマエは約束通り見送りに来てくれた。
それどころかナマエの両親までもが来てくれて、ユンは少し泣きそうになりながら感謝を述べた。
「ユンくん、元気でね」
「はい、ナマエさんも」
「帰ってきたらきちんと連絡してね」
「はい。いの一番に行きます」
「そ、そんなに急がなくていいよ」
困ったようにナマエが微笑む。
「ところで、お土産は欲しいですか?」
お土産なんてのは、ただの口実でしかない。
会いに行くための確かな約束が欲しかった。
「あっ……欲しい!」
「あはは。では、何かかってきますね」
「うん! えへへ」
笑いあう。
去り際、互いにぶんぶんと手を振った。