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そうしてたどり着いた百灶で、ユンはさまざまな経験を重ねた。
ユンは数多の試合を観戦し、長所と短所を手帳にこと細かく書き記した。チョンユエに挑む武人たちは各地で名を馳せた実力者ばかりで相応な強さを誇っていたが、誰一人として敵わなかった。
時折手合わせの感想を求められると、ユンは公平な視点を念頭に置いた意見を述べた。ユンが語る言葉をほとんどの武人は怒りもせず、的を得ていると納得して受け入れ、チョンユエもまたユンの指摘が真っ当であると頷くのみだった。
それでも手合わせの相手が現れず暇なときはユン自らチョンユエに武の教えを請い願い、手合わせの真似事などもしてみた。だが結局、身体がついていかない。それでもチョンユエは己の技をユンに見せ、理解できなければ口頭で何度も説明し、何としても覚えさせようとした。
まれにユンが熱を出して寝込んでしまう日もあったが、その時はチョンユエも予定を変更し、つきっきりで看病にあたった。そのたびにユンは謝ったが、チョンユエは「気にするな」と笑い飛ばすだけだった。
そうして半年が過ぎ、年度が変わり、さらに四ヶ月ほど経った頃。
ユンはようやく玉門に帰れることになった。
帰省が決まった数日前から、ユンは喉の調子が悪くなった。変に声が掠れてしまうので、すぐに風邪だと察した。
どうしてこうも体調を崩しやすいのかと帰路の道中で苛立ちを募らせたが、日にちが経つにつれて、ユンは奇妙な違和感に気付いた。
体調に変化がないのである。気だるさもなければ、熱っぽい感覚もない。そして喉の痛みもない。
その違和感をチョンユエに打ち明けると、彼は呆れ混じりの苦笑を浮かべてこう言った。
「それは、お前が変声期に入ったんだ」
「あっ……」
ユンはようやく合点がいった。成長するにつれ、そういった身体的変化が起こるという知識はあったが、自分にはまだまだ先のことだと思い込んでいた。
気恥ずかしさに口をつぐんでいると、チョンユエはふっと吐息混じりに笑い、言葉を続ける。
「思えば引き取ったときから大きくなったな。人の成長はあっという間だな」
その言葉を聞いたユンは一瞬固まり、曖昧な笑みを浮かべた。
百灶での暮らしを経て、ユンが抱いていた疑念は確信に変わった。
――チョンユエは老いない。
気付いたきっかけは、白ひげをたくわえた老人が「久しぶりだね」と声をかけてきたことだった。彼の話を聞くと、子供の頃にチョンユエに会ったことがあると言う。
ユンは最初、失礼ながら老人がひどく耄碌していると疑った。だが当のチョンユエというと、「久しいな」と笑って話に応じたのである。彼は、目の前の老人がまだ少年だった頃の記憶を鮮明に覚えていた。
思い出話に花を咲かせる二人を見て、ユンは今までに感じたことのない驚愕と、それから漠然とした不安を覚えた。
目の前の二人が、将来の自分とチョンユエの姿なのではないかという考えが過ったのだ。
ユンが年老いても、チョンユエはずっとそのままに違いない。先立つのもきっとユンのほうで、彼はずっと時の流れに取り残されたままなのだ。そんなチョンユエに何か出来ることはないかと頭を悩ませたが、妙案は一つも思いつかない。
悩みに悩み抜いて辿り着いた結論は、録武官になりつとめを果たす、という事だった。
そして明日には玉門に到着するという距離まで来た頃には、たまに口ずさんでいた鼻歌がうまく歌えなくなっていた。今までは出すのに苦労しなかった高音域が出せなくなってしまったのである。その変化にユンは大きな戸惑いを覚え、自分が自分でなくなったような感覚に見舞われた。
チョンユエは「安定には数年かかるから安心しろ」と言ったが、ユンはチョンユエのように落ち着き振る舞うことができなかった。
今の自分の声を聞いて、ナマエがどんな反応を見せるのか――想像するだけで、少し恐ろしくなった。
久しぶりに見る玉門の街並みは相変わらずだった。中央通りで一番目立つ看板広告が塗り替わっていたり、古い建物の解体工事などが行われていたりはしたが、目立った変化はない。乾燥して少し埃っぽい空気も、まるで変わらない。
我が家の玄関扉を開けると、家の管理を任されていた使用人がにこやかに出迎えてくれたた。ユンはその姿を見て、あまりの懐かしさに思わず安堵混じりのため息をこぼした。
ユンはチョンユエとともに荷物の整理をすませ、それから百灶で購入した土産が入った紙袋を片手に自室へと戻った。部屋は使用人が丁寧に掃除をしてくれていたのか、塵ひとつ積もっていない。
土産の紙袋を机の上に置き、鞄を所定の位置にしまうと、ほんの少し休憩するつもりでベッドに寝転んだ。だが、疲れていたこともあって、ユンはそのまま寝入ってしまった。
目が覚めた時にはすでに日が暮れており、ユンは慌てて飛び起きた。軽くみだしなみを整え、紙袋を手に提げて部屋を出る。居間でくつろいでいるチョンユエに一声かけてから、ユンは外出した。
行き先は西区画にある、あの大衆食堂である。
食堂は相変わらずの賑わいを見せていた。時間が時間だけに店内は込み合っており、ユンは一瞬店に入るかためらったが、意を決して足を踏み入れた。
声をかけてきた店員は見慣れない顔で、ユンはすぐに新人だと気付いた。人数を聞かれ一人だと告げると、調理場が見えるカウンター席へと案内された。
調理場ではナマエの父親があっちにいったりこっちにいったりと忙しなく動き回っている。棚に貼り付けられた注文メモを確認しながら、火にかけた中華鍋を手慣れた様子で揺らしていた。
変わらないその姿にほっとしていると、店員が冷水を持ってきた。ユンはそのついでにいつも注文している料理を頼み、店内の空気に浸った。思えば百灶の街並みはどこもかしこも賑やかで活気に溢れていたが、この店に満ちている空気はどの店を探しても見つけられなかった。久しぶりに感じるこの空気が、不思議とユンの心を落ち着かせてくれた。
ナマエの父親が働く姿をぼんやりと眺めていると、ふいに目が合った。まるで「なに見てんだ」と言いたげな目つきで睨まれてしまい、ユンは思わずぷっと吹き出してしまった。すると、ナマエの父親はハッとした様子で目をまんまるに見開いた。
「あっ!?」
父親が素っ頓狂な声を上げたので、ユンは無言で頭を下げた。すると、彼はひどく狼狽した様子で隣の店員に中華鍋を任せ、調理場の奥へと引っ込んでいった。
ほどなくして、慌ただしい足音が近づいてくる。
「やだっ、ユンくん久しぶり! いつ帰ってきたの?」
ナマエの母親がやって来たので、ユンは再び頭を下げた。それとほぼ同時に、父親も調理場に戻ってくる。中華鍋を揺らすその姿を一度確認し、それから母親の方へ顔を向けた。
「ご無沙汰しています。今日帰りました」
「そうなんだ。というか、なんでカウンター席に?」
「ええと……客として来ましたので」
「もう、そんなのいいから。奥に来なさい」
有無を言わせぬ物言いに気圧され、ユンは素直に頷いた。母親がユンが飲みかけの冷水をカウンターにあげると、父親が手を伸ばして受け取る。相変わらずの手際に感心しつつも席を立てば、前を行く母親が一度ユンの方を振り返ってぎょっとした。
「……ユンくん、もしかして背伸びたんじゃない?」
言われて、ユンは目をしばたたかせた。
確かに、目線の高さが以前とはまるで違う。背丈も、ナマエの母親を軽く追い越してしまっている。
「……計っていないのでわかりませんが、多分」
「そっかあ。声もちょっと変わった?」
「はい。その……、変でしょうか?」
「ううん」
首を振る姿に内心安堵していると、
「……そっかあ、男の子って成長早いものねえ……」
母親がしみじみと言ってから、言葉を続ける。
「あの子、今勉強中なの。言えば切り上げると思うから、よかったら一緒に食べていって」
ありがたい申し出に感謝を述べるよりも先に、ユンはきょとんと目を丸くした。
「えっ……ナマエさんが、勉強?」
「そうよね、驚くわよね? いっつもゴロゴロして漫画とか雑誌とか読んでたのに、ユンくんがいなくなった途端、人が変わったみたいに勉強に打ち込んじゃって……」
「そ、そうなんですか……」
母親が足を踏み出すので、ユンはその後ろに続いた。
居住スペースに通じる扉を開け、階段をゆっくりとのぼっていく。久しぶりの感覚に、ユンは目だけであちこちを確かめてしまう。本当に、以前と何も変わっていない。
玄関にたどり着き、靴を脱いで家に上がると、心臓がドキドキと脈打ち始めた。緊張から、思わずつばを飲み込む。
廊下へ向かう母親が無言で手招きするので、ユンは意図を察し、再びその後ろに続いた。
そしてナマエの部屋の扉の前まで来ると、母親が軽くノックをする。
「ナマエ、ちょっといい?」
「お母さん、どうかしたの?」
扉越しの返事に、ユンの緊張はいっそう強くなる。
「いいから来てくれる?」
「えっと……うん。ちょっと待ってね……」
かすかな物音がして、足音が近づいてくる。あまりの緊張から身動きが取れない。
静かに扉が開いて、ナマエが出てくる。
――目が合った。
「ほら、ユンくん! 今日帰ってきたんだって!」
「た、ただいま戻りました」
「……」
ナマエは呆然とした様子で硬直している。まるで石像のようだ。
母親が「おーい」と何度か声をかけるうちに、ナマエはハッと我に返った。母親とユンの顔を交互に見つめ、ようやく動き出したかと思うとぎこちない動作で部屋に引っ込み、扉を閉めてしまった。
「あ、あれ? どうしたのナマエちゃん?」
「だ、だって今、部屋着なんだもん……!」
「大丈夫よ、誰も気にしないから」
「私が気にするのー!」
慌ただしくタンスを開ける音が聞こえはじめると、ユンの口元は自然と綻んでいた。
やがて着替えたナマエが部屋から出てきた。気恥ずかしそうにもじもじしながら後ろ手に扉を閉める。控えめな挙動とは裏腹に尻尾はパタパタと忙しなく揺れていて、ユンはどうしようもない懐かしさから自然と微笑みを浮かべていた。
ナマエはユンを照れくさそうにじーっと見つめ、おずおずと口を開く。
「ユンくん、おかえりなさい」
「はい。ただいま戻りました」
返事をすると、まじまじと見つめられる。
「……背、伸びたよね?」
「はい」
「成長期だ~」
しみじみと言いながら、額の高さまで掲げた手を垂直に移動させ、身長を測る仕草を見せる。
玉門を出た時を思い返すと、あの頃と比較してナマエと目線の高さがまるで違う。
あらためてユンの胸中に背が伸びたという強い実感が湧き上がってきた。それはナマエの母親に言われた時よりもずっと強いものだった。
「ユンくん、お夕飯食べて行くんだって」
「ほんと? やった!」
「今、下で作って持ってくるから、ちょっと待っててね」
「はい。ありがとうございます」
母親は言い終わるとくるりと身体を反転させ、そのまま足を踏み出すかと思いきや、首だけでこちらを振り返る。
「ナマエちゃんは食器の準備をお願いね」
「うん、わかった」
そう言って、慌ただしく玄関へと向かった。残されたユンとナマエは顔を見合わせ、同じタイミングで微笑んだ。そして再会の緊張からうっかり失念していた土産の事を今更思い出し、ユンは紙袋を持つ手を掲げた。
「そうだナマエさん、これ、お土産です」
「あっ、約束してたやつ?」
「はい。お菓子ですから、みなさんで一緒に食べてください」
「わあ、やった! ありがとう!」
ナマエの喜びようは表情はもちろん、忙しなく揺れる尻尾からも伝わってくる。
久しく感じていなかったナマエの存在感に浸っていると、ふいにナマエが不思議そうにユンを見つめた。
「声、低くなったよね?」
その問いかけに、ユンは僅かな緊張を覚える。
「はい」
「やっぱり。ちょっとびっくりした」
「……変でしょうか」
「ううん! そんなことないよ、……えへへ、かっこいい」
ナマエがはにかみながら言うのを見て、ユンは拍子抜けしてしまった。百灶からずっと抱いていた不安が自分でも驚くほどあっさりと解消されてしまった。しかもナマエの母親の言葉ですら拭い去ることができなかったのに、ナマエが言ったかっこいいの一言で、きれいさっぱり消えてなくなったのである。そのことに安堵すると同時に、思っていたより自分が単純な人間であると自覚して呆れも覚えた。
そんなユンの複雑な胸中など露知らず、ナマエは照れくさそうな笑顔を浮かべている。
「夕飯食べたら、このお菓子一緒に食べよ? わたしね、ユンくんにいっぱい話したいことあるんだ」
「私も、百灶で見聞きしたことなど、いろいろな話をしたいです」
「えへへ、おんなじだ」
それから二人で食器の準備をして、夕飯を一緒に食べた。ユンはすっかり都の味付けに慣れてしまったので、久しぶりの玉門の味に感激しながらゆっくりと味わって食べた。
食後は二人でお菓子を一つずつつまみながら、とりとめもない話で盛り上がった。
「学業、頑張っていらっしゃるんですね」
「うん。なんかユンくんが百灶に行くの見たら、ヤバいって焦りを感じて……」
「焦る必要なんかありませんよ」
「本当に? ユンくん、なんか一人でどっか行っちゃいそうな気がする」
「どこに行くっていうんですか?」
「うーん、どこだろ? ユンくん、どこか行きたいとこないの?」
「そうですね……そういえば、大通りの看板広告が新作映画に替わっているのが目に止まりました。今はその映画を見に行きたいです」
「もう。そうじゃなくて、地名だよ」
「……行きませんか?」
「…………行く」
それから数ヶ月を玉門で過ごしたが、再度チョンユエの遠方出立の機会が訪れると、ユンはまた彼の旅路に付き添うことになった。以前、百灶に向かってから、ユンはチョンユエとともに玉門を離れる機会が増えていった。しかしナマエは学業に励みながらもユンの事を煙たがったり蔑ろにすることもせず、出発の見送りは毎回欠かさなかった。それがユンにとっては有り難く、何よりも嬉しかった。
旅立ちと帰省を幾度も繰り返すうちに、いつしかナマエが中等部を卒業する季節を迎えていた。
「軍の医学校ですか?」
「うん。学校の先生もね、いけるだろうって推薦してくれたんだ」
「……推薦? 本当ですか?」
ユンが驚きから目をしばたたかせると、ナマエはむっとする。
「2年生からの私の成績評価は全て『優秀』でしたよ、ユンくん」
「それは……、大変失礼いたしました」
「よろしい」
冗談めいて平伏しながらも、ユンは驚きを隠せなかった。
誰よりも勉学に打ち込んでいる事は知っていた。だが『優評価』を取れるまでに至っていたとは露ほども知らなかったのである。ユンは誰よりもナマエの一番近くにいた気がしたし、ナマエのことを誰よりも知っている気がしたが、結局のところ『気がしていた』だけだった。
苦い感情を必死に押し殺していると、対面でお茶をすすっていたチョンユエが、ふっと吐息だけで笑った。
「教科書を投げ捨て、床で寝転がっていたのが嘘のようだな」
「宗師、あの頃のわたしとは違うんですよ?」
「そうか」
昔のナマエといえばチョンユエに対して少しビクビクしていた気配があったのに、今やあの頃の面影はすっかり消え失せていた。
ユンが遠方に行っている間、ナマエはあまりにも大きく成長していた。そんなナマエの変化に気付けなくなっていたのが、ユンにとってはショックだった。ナマエがいつの間にか医学の道を選んだきっかけも以前はすぐに気付いただろうに、ユンにはさっぱりわからない。不透明で、わからない。
いつだったかチョンユエが、人の成長はあっという間だと笑ったのを思い出した。
ナマエは成長しているが、自分はどうなのか――と自問自答の果てに放心していると、いつしかナマエがじっと見つめているのに気がついた。ユンはどうにか焦点を合わせると、ナマエはにこーっと笑顔になり、
「わたし、すごいがんばったんだよ」
自信満々に胸を張った。
「はい。そうみたいですね」
「そうみたい、じゃなくて、そうなの」
「……はい」
ユンが苦笑を浮かべると、ナマエは真面目くさった顔つきになる。
「ねぎらいが欲しいです」
「……ご両親からもらえばよいのではないですか?」
「ユンくんからほしいなー」
再度にこーっと微笑んで、甘えるような口調で言う。どこでそんな仕草を覚えてきたのか感心しつつも、悲しいかなユンには逆らうすべが思いつかなかった。実際、ナマエはとても頑張っているように見えたからだ。
しばし迷った末、ユンはおそるおそる手を伸ばした。かすかな躊躇はあったが、指先でナマエの耳に触れ、輪郭をなぞってから揉み込むように撫でる。
「……なんかちがう……」
「あはは」
不満げな声とは裏腹に、ナマエは目立った抵抗を一切見せなかった。ユンにされるがまま、くすぐったそうに笑っている。やがてナマエが仕返しにユンの耳を触り始めると、ユンもくすぐったさを堪えきれなくなった。
「ユンくんの耳は相変わらずだねぇ」
「何が相変わらずなんでしょうか」
「おっきくてもふもふしてる」
耳を撫でられる感覚はおろか、聴覚が拾うざらざらとした音すらも心地が良い。互いにやめ時を見失っていると、黙ってお茶を飲んでいたチョンユエも何か思うところがあったのか軽く咳払いをした。それを合図にお互いに手を引っ込め、顔を見合わせて笑う。
ほんのささやかなスキンシップだったが、不思議と空虚な気持ちが埋まっていた。
ナマエの成長に追いつけないと不貞腐れるぐらいなら、自分も死に物狂いで成長するしかないのだと、ユンは己の中で結論づけた。
その数週間後、ナマエは中等部を卒業し、医学校への進学を果たした。
ユンは日々の暮らしの積み重ねにより武芸に関してある程度の知見を得た。チョンユエの足元には及ばずとも同年代と比較すれば並み以上に詳しいという評価を下されると、軍人同士の訓練や手合わせを一人で記録するようになった。
もとよりユンは観察眼の才覚があったのか、肉体の動きを容易に目で追うことができるようになっていた。ひとかどの動体視力によるアドバイスは、兵士たちから好評を博した。ユンが観戦することを煙たがる人間は誰一人としていなかった。
そうして玉門軍の中にユンの居場所が整うと、チョンユエはもう以前のようにユンを連れ立って遠征に行かなくなった。彼は長期間危地に赴くこともあり、その間ユンは家の事を頼まれた。もう立派になりつつあるのだからと、使用人の数も徐々に減っていった。
ある日のこと、チョンユエは一人の少女を連れて帰ってきた。
厳しい目つきに、真一文字に引き結んだ口元は冷ややかな印象だ。そして少女の研ぎ澄まされた雰囲気と、気品ある見た目もあいまって、声をかけるのも憚られるような空気をたたえている。
少女の存在感に気圧され戸惑うユンに、チョンユエはいつもの調子で声をかけた。
「チュー・バイだ。ここでしばらく預かる、先達として仲良くしてやってくれ」
「はい。……いえ、あの、先生?」
「なんだ?」
「まずは、詳しい説明をお願いいたします」
チューバイを自室に向かわせてから、ユンはチョンユエと腰を据えて話をした。
いわく、十年ほど前に軍が掃討した村の生き残りが彼女だという。チョンユエとは遺恨が残る間柄ではあるが、一人で暮らすのには不便だろうと思って引き取った、というのがチョンユエの言い分だった。ユンもチョンユエに引き取られた身の上なので彼の行動を否定しなかったが、心配は拭えなかった。
「おおむね理解しました。ですが、平気なのですか?」
「ああ。いつか寝首をかくやもしれんが、私の足元にも及ばない。本人が一番理解しているはずだ」
ユンは納得した。チョンユエが誰かに討たれるというイメージがまるで沸かず、ましてやあの少女にチョンユエを倒すのが到底無理な話だというのは、ユンの目から見て明白だったからである。
それに、誰もがチョンユエに勝てたためしがないことをユンは自分の目でしっかり見定めていたので、尚更だった。
チューバイは学校に行くよりも、軍の鍛錬に参加することを選んだ。
同年代では桁違いの強さを誇る剣士に、男性諸氏はおののいた。そのうち誰もが負けるのを恐れ、相手は年上ないし格上ばかりとなった。それでもチューバイは負けを恐れず立ち向かっていく。
「すごいですね、姉弟子」
「弟子ではありません」
「先生の庇護のもと、武を学び、同じ釜の飯を食べる。師弟と言わずなんというのでしょう?」
「……」
いけ好かない、と視線でうったえてくるが、ユンは持ち前の笑顔でそれを受け流した。
うら若き女剣士の存在はたちまち噂になり、ナマエの耳にも届いた。
「ほんとだ……宗師のおうちに、女の子がいる……」
背もたれのしっかりした椅子に座って本を読むチューバイの姿を、ナマエは柱の陰から伺った。
勝手知ったる他人の家に見知らぬ人物がいる事から、ナマエは耳と尻尾をへたらせてわなわなと震え警戒をあらわにしている。
「姉弟子のチュー・バイです。とてもお強い方ですよ」
「……ユンくんの方がお弟子さん歴は長いでしょ?」
「そうですが、彼女は私をはるかに上回る技術と力量を誇っていますから」
「そっか。……えっと、やっぱり一緒に暮らしてるんだよね?」
「はい」
途端にナマエが恨みがましい目つきでユンを見返してくるが、ユンは持ち前の笑顔でまたもや受け流した。
ナマエはふん、と鼻息一つ鳴らして、チューバイを見据える。
「ちょっと、敵情視察に行ってくる」
「邪魔はしないほうがいいと思いますよ。なにぶん気難しい方でいらっしゃいますから」
ユンの言葉を聞いているのかいないのか、ナマエはおもむろに姿勢を低くすると、そろそろとした足取りで移動し始めた。ユンはその後姿を引き止めることもせず、むしろ面白がってその場で観察を続けることにした。
ナマエは家具の影に隠れては移動しを幾度も繰り返し、徐々に距離を詰めていく。対するチューバイといえば、そもそも最初の時点でナマエの存在に気付いており、そのうえでナマエを存在しないものとして扱っていた。この圧倒的な気力の差にナマエはどう立ち向かうのかと、ユンは手に汗握って見守った。
ナマエがテーブルの影に隠れたときである。
「何か用ですか?」
チューバイのりんとした声が響き、ナマエはびくっと体を震わせた。
数秒の間を置いて、観念したように物陰から出た。耳と尻尾をへたらせたまま恐る恐るとした足取りでチューバイに近づき、何事かを話しかけ始める。だが、ユンにはうまく聞き取れなかった。
対するチューバイはというと、やおら本を閉じた。それをテーブルの上に置いて、ナマエの方に顔を向ける。何を考えているのか察しのつかない表情のまま口を動かし、右手を対面の椅子に向けた。どうやら着席を勧めているようだ。ナマエは小さく頷いて、ぎくしゃくしながら向かいの椅子に腰掛けた。
誰にも親しげに接することないチューバイの唇が、活発に動いている。対するナマエも徐々にへたれた耳が立っていく。チューバイが小さく首肯し、やがて目を細める――。
二人の様子を見るに、会話が弾んでいるのは明白だった。
そういう距離の詰め方もあるのだなと感心しつつも、ここにずっと立って観察し続けるのも間抜けだと思い、ユンは意を決して足を踏み出した。
「お茶を持ってきましょうか」
声をかけると、ナマエが跳ねるように振り向いた。
「あ、ユンくん。ごめん、お願いしてもいい?」
「私も飲みたかったのでついでです。姉弟子のぶんも淹れてきますね」
「……」
チューバイのなんともいえない眼差しを、ユンは笑顔で受け流した。
ナマエが去った後、珍しくチューバイの方からユンに話しかけてきた。
「彼女とはどういった間柄ですか?」
「私が十歳の時からの付き合いなんです。知り合ってからというもの、ずっと家族同然のように親しくしてくれています」
「……そうですか。彼女は医学を学んでいると聞きました」
「ええ」
「そして偶然な事に、あなたの体は誰よりも虚弱です」
「それは言い過ぎというものですよ姉弟子。最近は熱を出すこともすっかり減りました」
「完全になくなってはいないでしょう?」
ユンは何も言わず、持ち前の笑顔で受け流した。
「……良き友人を持ちましたね」
「はい」
しっかりと返事をすると、チューバイはわずかにまぶたを持ち上げたが、すぐにいつもの表情に戻った。
その夜、ユンはベッドの中でほんの少し思案を巡らせた。
どうしてナマエが医学の道に進んだのか? そんないつかの疑問が今更掘り起こされ、気になって仕方がなくなったのだ。
肉体が秀でていれば軍人としての道を歩むように、学業の成績が優秀であれば医者を目指すのもごくごく自然な流れだと思っていた。だが、医学でなくとも、文学や物理工学、天文学や生物学など、ほかにも選べる道はあったはずだ。
ナマエが医者になろうと思ったきっかけは一体なんだったのか――。
思案を巡らせていると自惚れに走ってしまいそうで、ユンは思考を打ち消すように寝返りを打った。それでも「そうだったらいいな」という浅はかな思いが消えない。
枕に顔を埋めながら、ユンはそっと目を閉じた。