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 ユンがチョンユエの録武官として『武典』を任されるようになってから、早数年が経った。
「七度目の応酬。間髪入れずの連続突きを後退にて避ける」
 速記にも慣れたもので、ユンは手元を見ずに書き留める事もできるようになった。たまに字が歪むこともあったが、チョンユエは十二分に読み取れる範疇であり些末なことだと笑ったので、ユンはきちんと記録することに重きを置いている。
「八度目の応酬。連続の拳を受け流した後、右手で抛拳(ほうけん)の一撃。重心を崩し……転倒。そこまで!」
 声をあげて、対戦していた二人を制す。勝者は構えを解くと、いまだ転倒したままの敗者に手を差し伸べ、二人揃ってユンの元へとやってきた。
 ユンはそれぞれに勝因と敗因を伝えた。彼らは真剣な表情でユンの言葉に耳を傾けている。
「構えからの突きは完璧でした。だが、急いては事を仕損じると言うように、勝ちに対して貪欲になりすぎたのでしょう。連撃よりも柔靭な一撃にとどめ、一度後退すべきでしたね」
「そうかぁ……いててっ……」
 負けた兵士が、腰のあたりを手で押さえた。
「大丈夫ですか?」
「まあ……なんとか……」
 心配するユンに対し、兵士が苦笑しながら言う。
 すると、ユンの隣で兵士名簿を見ていたナマエが、ついと顔を上げた。
「診ましょうか?」
 ナマエが言うと、兵士は目を丸くする。
「えっ、いいの?」
「はい。少し屈んだだけで痛いとなると、後々響くと思います。ここに座れますか? 横になっても構いませんから」
「じゃあ……お願いしようかな」
 兵士は逡巡しながら言い、おずおずとした動作でしゃがみ込もうとするが、痛みに顔をしかめた。ナマエが介助のために立ち上がろとした瞬間、試合に勝った兵士が負けた兵士の腕を掴んだ。
「私が医務室に連れて行きましょう」
「えっ、でも……」
 戸惑うナマエに、兵士は言葉を続ける。
「あなたの手を煩わせる訳にはいきません。お構いなく」
「おいっ、こらっ……離せこのっ……」
 診療を邪魔されたせいか不平不満を漏らす兵士が、引きずられるようにして連れ出される。
 ナマエはその後ろ姿を呆然と見送り、二人が退室した途端、おもむろに両手で顔を覆った。
「誰も、診せてくれない……」
「……」
 ユンは何も言わず、苦笑を浮かべた。
 そもそもなぜここにナマエがいるのかというと、数ヶ月前、若い兵士から怪我人が出た事が発端だった。それをきっかけに、チョンユエをはじめとした多方面からの配慮により、研修医であるナマエが配備されるようになった。ユンにも手当ての心得はあったが、対処できる人員は多いほうがいいという事だった。
 だが、兵士たちはナマエに診てもらおうとせず、誰もが医務室に向かうのである。まるで窓際でぼーっとしている閑職のような扱いが、最近のナマエの悩みだった。
「わたし、なにか悪いことしたかな? 研修医だから? それとも、変な噂とか立ってる?」
「いいえ、ナマエさんの悪い噂は一度も聞いた覚えはありません。ナマエさんの評判は好意的なものばかりですよ」
「ほんとに? お世辞とかじゃない?」
「ええ」
 頷いて、ユンは録武簿の新しいページを開いた。
 ナマエは納得したのか、手元の名簿に視線を落とし、やがて兵士たちの体調について備考を書き留め始める。それを横目に見ながら、ユンはうまく誤魔化せたと内心ほっと胸を撫で下ろした。
 原因はわかっている。牽制だ。
 男だけでむさ苦しい空気のなか、若い女性の研修医が配備されると通達がきたのである。その時の兵士たちの喜びようは、さながら中等部の学生のようだった。
 玉門軍お抱えの軍医といえばいかつい顔をした初老の男性や、地面につくほどの長さの髭をたくわえた老骨ばかりだ。おまけに誰もがくどい言い回しときている。しかしナマエは若い女性であり、持ち前のひとなつっこさからくる笑顔と、誰にでも分け隔てなく接する柔らかな物腰から、兵士たちの好感度は高かった。
 だからこそ抜け駆けは許さないと、見苦しい足の引っ張り合いがはじまったのである。
 そんな事情をナマエに面と向かって言えるわけがないので、ユンは知らない振りをつらぬき通していた。そして、この状況が自分にとって都合がいいという認識にしっかり蓋をしてやり過ごした。

 鍛錬が終わり、訓練場に残っているのはユンとナマエの二人になった。
 ユンには概評をまとめ、軍部に提出する義務がある。ナマエもまた兵士の体調などを報告する義務が課せられていたので、ユンが今日の参加者の動作を思い返しながら書き記す一方で、ナマエもユンの概評を聞き、個々の情報に取り入れていた。
 小さな段差の上に二人並んで座るが、目立った会話はない。それぞれが書き記す音だけが聞こえる。作業中だからというのもあるが、別に会話をしなくてもよいという空気が蔓延していた。
 と、一段落ついたらしいナマエが名簿を膝の上に置き、憂いを帯びた表情で小さなため息をついた。
「誰でもいいから診察したい……」
「その言い方ではまるで倒錯した変人のようですね」
「ただ座ってるだけでお給料がもらえるのも、なかなかに堪えるんですよ」
「それでいいと思いますけどね」
「他人事だと思って……」
「実際、他人事ですから」
 恨みがましい視線を向けられているのがわかり、ユンはわずかに目を細めた。それでも作業を手を止めずに録部簿に文字を書き記していると、やがてナマエの刺々しい空気が柔らかくなった。ユンの腕にもたれて録部簿を覗き込んでくるが、ユンは一度ちらっと横目で見るだけに留めた。いつもの事なので、いちいち気にしてもきりがないからだ。
 やがてユンも一段落付いて、録部簿を閉じた。
「……さて、終わりましたよ」
「もう帰る?」
「そうですね、帰りましょうか」
 二人で書類を提出し、そろって軍部をあとにする。
 門をくぐったあたりで、ナマエが口を開いた。
「ユンくんはまっすぐ帰るの?」
「食料品が足りないので買い物をしてから帰ります。ナマエさんはどうしますか?」
「ついてってもいい?」
「いいですよ。もしよければ、食べていきますか?」
「いいの?」
「ええ。一人増えたところで大して変わりはありませんから」
「やった。ユンくんの作るご飯好きー」
 満面の笑みに、ユンは思わず苦笑した。
「その言葉、おじさんにも言ってあげたらどうですか? 最近、料理を褒めてくれなくなったと寂しがっていましたよ」
「小さい頃たくさん言ったからいいの」
 なんてやり取りをしながら食品を取り扱う小売店に向かうと、広告の品やら目玉商品など適当に買い物を済ませた。
 商品が詰め込まれた大きなビニール袋の持ち手を、それぞれ片方ずつ持って歩く。一人で持ったほうが楽なのはわかっているが、もはや習慣になってしまっていた。
 いつだったか胡乱な目つきのチューバイに「持ちづらくありませんか?」と突っ込まれたことがあったが、気にならないくらい慣れてしまった。現にナマエもユンとの身長差からビニール袋が傾かないように肘を軽く曲げているが、それが当たり前だとでも言うように平気な顔をしている。
 帰宅すると、ユンはナマエを連れてまっすぐ台所に向かった。生鮮食品を冷蔵庫に入れていると、気配と物音に気付いたチューバイがやってきた。
「あっ、こんばんはチューお姉さん。お邪魔してます!」
 先手を切って挨拶するナマエにチューバイは一瞬固まり、それから呆れ眼になった。
「あなたも飽きずによく来ますね……」
 チューバイの言動は嫌味に取られがちだが、彼女なりに気遣いの意味も込められている。ナマエもそれをわかっているので、にこーっとひとなつっこい笑みを浮かべると、チューバイはさっと顔をそらした。
 そして、ユンの方に視線を向け、口を開いた。
「……夕飯の支度ですか?」
「はい。姉弟子は座って待っていてください、ナマエさんが手伝ってくれるとおっしゃってくれましたので」
 ユンが言うと、チューバイは眉をひそめた。
「客人に手伝わせて座っていられるわけがないでしょう? そして、あなたは曲がりなりにも客人なんですから、座って待っていてください」
「えっ、あっ、はい!」
 ナマエを台所から追い出し、ユンはチューバイと三人分の夕飯を作る。家主のチョンユエといえば、今日は外食するとのことなので、彼の分は省いた。
 それから三人で食事をし、すっかり夜になってしまった頃にナマエは帰っていった。
 玄関でその後姿を見送ったあと、チューバイは小さなため息をついた。
「あなたは、いつまで続けるつもりですか?」
「何をですか?」
 ユンは笑顔を浮かべ、白を切った。
「……本当に意気地がありませんね」
「いきなり悪口を向けられても困りますよ」
 それっきりチューバイは何も言ってこなかったので、ユンも何も言わなかった。

 チューバイの言わんとしている事は、ユンにはわかっている。
 異様なまでの距離の近さ、そして絶大な信頼は長年の付き合いの結果だ。
 しかし、成人を迎えてもこうだと限度がある。
 いつまで続くのか――。
 たとえば二人のどちらかに恋人できただとか、お互いよりもずっと大事なものができただとか、そういう機会が訪れれば、この関係はきっと終わるだろう。
 だが、そんな機会は両者とも一向に訪れない。むしろお互いにそういった機会を避けているふしがある。ユンだって飲み会は断るし、ナマエも誰かに誘われたら断っているようだ。ユンも顔見知りの同年代からナマエに話を通して欲しいと頼み込まれた事もあるし、逆にナマエからもそういった話をされた事があるが、結局お互いに断っている。
 昔から変わらない全幅の信頼は、お互いの気遣いによって盤石に保たれている。しかし、ひとたび亀裂が入れば脆く崩れさるほどの危うさをそなえているという予感があった。相互の信頼関係がなくなったら、きっと元の関係ではいられなくなるはずだ。
 だから、身動きが取れない。自分ではどうすることもできず、かといって誰かに頼むことなんて到底出来ず、それがユンにはとにかく複雑で、チューバイの『意気地なし』に反論すらできなかった。
 本当に、いつまで続くのか――。
 きっとこの先、何か大きな出来事でもなければ、一生変わらないような気がした。

 玉門に、客人がやってきた。
 そして――天災が発生した。

 姉弟子チューバイが、玉門を去った。
 チョンユエも先刻、ここを旅立った。
 ユンが丹念に記録した『武典』は、チョンユエに言われた通りズオ将軍に渡した。ついにやり遂げたという達成感はあったが、武典が自分の手を離れてから、ユンの胸中に奇妙な薄ら寂しさが広がっていった。
 ユンは食卓に腰掛け、思いを巡らすようにゆっくりと家の中を見回した。
 重厚な家具の数々に、一人暮らしでは有り余るほどの大きさの家電たち。生活するにあたって十二分な設備が備わった家。
 だが、かつてのような賑やかな気配はない。
 ――がらんどうだ。

 別れ際、巣立ちと同じだとチョンユエは言った。
 玉門がチョンユエの手を必要としなくなったように、ユンもまたチョンユエの手を必要としなくなるのだと。
 ユンが武で身を立てるということは、およそ想像がつかない。かといって、これから自分がやりたいことも、見当がつかない。
 チョンユエは最後に、好きなことを見つけてやればいいと言った。

 ユンはその日、駄目元で行動を起こした。
 相談という名の頼み事を持ちかけた相手――ズオ・ラウはまず驚愕した。
 ユンとズオ将軍の子息ズオ・ラウの間にはたいした縁もゆかりもない。せいぜいチョンユエの弟子ということで数回言葉を交わし、手合わせを見せてもらったくらいの細い繋がりしかない。
 そんな年上の青年から、先の騒動の過失につけこむような嘆願を聞かされたズオ・ラウはというと、徐々に眉間に皺を寄せ、それでも頭を下げるユンに躊躇を見せ、しばらく逡巡し、やがて不承不承といった様子で頷いたのだった。

 一人で長路を行くには体力も心許なく不安が付き纏うが、誰かの旅路にはついていけると思った。
 そうやって長い道のりを経た先に、何かが見つかるような気がした。

 出立は明日の朝ということで、ユンは家に戻るとさっそく身支度を始めた。使い慣れた鞄に必要最低限のものを詰め込んでいく。足りないものがあったら、道中でその都度調達すればいい。幸い、炎国は各地に集落が点在しているため、食事も宿もどうにかなるということは、過去チョンユエについてまわった経験からわかっていた。
 旅をするにあたって思いつく懸念の一つ一つを解消していき、最後に残った大きな懸念についてユンは頭を悩ませた。
 今から話をしにいくべきなのか、黙ってここを出ていくべきなのか。後者を取れば恨み言を吐かれるのがありありと想像できてしまうので、必然的に前者を取るしかなくなる。
 ユンはちらりと壁時計を見上げた。もう夕食時の時間はとっくに過ぎている。今から話に行くとなると無礼を承知の上で向かうしかないだろう。

 と、玄関から呼び鈴の音が聞こえ、ユンはそちらに顔を向けた。
 もうユンしか住んでいない家に尋ねてきたのが誰かだなんて、明白だった。
 いい頃合いに来てくれた事に感謝しながら、ユンは玄関に向かう。

 果たして尋ねてきたのはナマエだった。
 明かりも少なく、衛兵すらもいない玄関を目だけできょろきょろと忙しなく見回し、ユンに向けて苦笑を浮かべて見せた。
「なんか、がらんとしちゃったね」
「あはは……そうですね。それで、どうしたんですか?」
「ちょっと心配で様子見に来ちゃった。一人じゃ寂しいかなーって」
 冗談めいた口調に、自然と口元が緩んだ。
「私のこと、何歳だと思っているんですか」
「同い年ー。ついでに、ご飯一緒にどうかなって。ユンくん、お夕飯は?」
「食べていません。荷造りをしていたので」
「……荷造り?」
 怪訝そうなナマエに、ユンは笑みを形作ってから口を開いた。
「明日、ここを発とうと思っています」
 数秒の間があった。
「そっか」
 ナマエは納得したように頷いて、微笑んだ。困惑も動揺もまったく見せない穏やかな態度に、ユンは少し面食らってしまう。
「おや、驚かないんですね」
「宗師が去る前にね、そんなこと言ってたから」
「……、先生と話したんですか?」
「うん」
 いつの間に、とユンは驚いた。次いで、どういうやり取りがあったのが興味が湧いたが、尋ねるのはやめた。
 ナマエが目を逸らして、どこか遠くを見るような眼差しで苦笑を浮かべたからだ。
「昔ね、宗師にわがままを言った事があるの」
「……わがままですか? あなたが?」
「うん。宗師がユンくんを連れて遠くに行くのを見送るたび、きちんと帰ってきてくれるか不安だったから、『私も連れてってくれませんか』って頼んだ事があるの」
「先生はなんておっしゃったんですか?」
「駄目だ、って」
 ナマエが視線を戻し、困ったように笑いながらユンの顔を見つめる。やがて目を伏せると、こほんとひとつ大仰な咳払いをして口を開いた。
「私達に付き添いたいなら相応の理由が必要だ。武芸の鍛錬についてきたところで、おまえに何が出来る?」
 無理をした低い声にユンは吹き出しそうになったが、笑っている場合ではないのでこらえた。
「先生がそうおっしゃったんですか?」
「うん。『おまえにはおまえのやるべき事があるはずだ。私達が不在の間、それを見つけなさい』って」
「……それで、医学の道を見つけたんですね」
「うん」
 ナマエはしっかりと頷いて、ユンをまっすぐに見上げる。
 ユンもわずかに顎を引いて、ナマエをまっすぐ見下ろす形になる。

 いつ頃からだろうか、目線の高さが自然と合わなくなった。
 そうしているうちに見ている景色もだんだんと変わってきて、街並みも風景も、そして周囲の人達も目まぐるしく変わっていった。
 でも、ナマエだけは変わらずそこにいる。
 お互いに強く望んだわけでもない。そうしようと約束しあった訳でもない。
 ただ自然と、そうするのが当たり前になってしまって。
 それを今、ユンは手放そうとしている。

 姉弟子がここを去ったように。
 チョンユエがここを去ったように。
 そして今から、ユンがここを去るように。
 きっと、それが普通のことだ。

「ユンくん、初めて会った時のこと覚えてる?」
 唐突な問いかけに、ユンの脳裏に鮮明な記憶が蘇った。まだ幼いあの頃の記憶のほとんどは滲んでしまっているのに、ナマエと初めて会った時の記憶だけは強く刻まれていまだ色褪せることがない。
「裏庭の塀から転げ落ちてしまった時のことですか?」
「そうそう」
 何が楽しいのか、ナマエはくすくす笑いながら嬉しそうに頷いた。
「あの時は、一人じゃばんそうこうも貼れなかったね」
「あれは仕方がありませんよ。自分では見えないところでしたから」
「うん。でもね、今は一人で怪我の手当てはできるよ。切り傷の縫合だってできるようになった」
 しっかりした口調から、ユンは何らかの明確な意思を感じ取った。
「医学はもちろん、薬学の知識だってある。特に生薬は、誰にも引けを取らない自信があるよ」
「……そうかもしれませんね」
「ユンくんの具合が悪くなっても、対処できそうな知識は全部、頭に叩き込んでる。これは宗師のお墨付きだからね」
「……」
「だから、私も連れて行って欲しい」
 ナマエの澄んだ目からは、梃子でも動かないような頑固さが垣間見えた。
 ユンは目をそらさずに、どうしたものか、と考えた。選択肢は二つしかないが、すぐには決められない。ナマエの意思を尊重したいが、玉門で研鑽を積んだほうがよっぽどいいはずだ。
 答えを出せず黙り込んでいると、いつしかナマエの瞳に透明な膜が薄っすらとかかっていた。
 泣きそうになっている。
 そして、そんなふうにさせてしまった原因が自分だと気付いた途端、ユンは固まって動けなくなった。もともとナマエはにこにこと笑っていることが多くて、泣き顔はめったに見せない性分だ。それを理解しているユンは、思考すらも停止するほど動揺してしまう。
 そうしているうちに、じわりじわりと横に垂れていく耳と、ちょっとずつ力なく垂れ下がっていく尻尾。
 ――昔から、なにひとつ変わらない仕草。
 そう思ったら自然と、ユンの口元は緩んでいた。
「……あはは」
「な、なんで笑うの」
「……」
「なんで撫でるのっ」
 無意識の行動か、気付けばユンは両手でナマエの両耳を揉むように撫でていた。
 ナマエは怒っている割に振り払おうともしない。そもそもはじめから見せかけだったのか、すぐにまんざらでも無さそうに目を細めて、されるがままになった。気持ちよさそうな吐息を漏らして、くすぐったそうに身を捩って、くすくすと口元を綻ばせる。
 指先はもちろん目で見てもも楽しさを刺激されたが、いつまでも撫で続けるわけにもいかない。耳が立って、尻尾が揺れて、泣きそうな気配が引っ込んだ頃合いを見計らって、ユンは手をおろした。
ナマエさんも、やりたい事があるのではないですか?」
「私のやりたい事、これだよ」
「…………これ、ですか?」
「うん。宗師に言われた事がきっかけで、この道に進もうって決めたんだよ。ユンくんにはずっと元気でいてもらいたいから」
 もとより、予感はあった。
 勉強が苦手なナマエが学問を張り切るようになったこと、そして医学の道に進んだこと。
 どうしてわざわざ、面倒な道を選んだのか。成績優秀な結果をおさめるほど頑張れた原動力はなんなのか、ユンにはずっと不思議で仕方なかった。
 もしそのきっかけが、自分だったら――? なんていうのは、ユンの自己中心的な希望の範疇でしかない。そんな、もしそうだったら、という空想がナマエの言葉とつながって、あてはまって、強い現実味を帯びる。
 しばらくの間を置いてから、ユンは恐る恐る口を開いた。
「……ナマエさんは、いつまでついてきてくれますか?」
「んんと、……ユンくんが嫌になるまで?」
 困ったように微笑みながら言うので、ユンも少し困ってしまった。選択権を渡したつもりが、そっくりそのまま帰ってきてしまったからだ。
 ナマエはきっと、ユンが嫌になるその時まで無条件についてきてくれるのだろう。
 だが、ユンにはその嫌になった時が、まるで想像つかなかった。
 そもそも、相手を嫌になること以外に、離れる可能性なんて星の数ほど広がっているはずだ。
 ユンが将来のことを考えてここを離れるように、ナマエだってそういった時が来るかもしれない。今のご時世、医療従事者は引く手あまただ。ナマエの気立てのよさと持ち前の明るさなら、炎国にとどまらず諸外国でもうまくやっていけるはずだ。
 そうして、やがて会える時間も減っていき、いつしか疎遠になって――。
 そんな、思いつく可能性のほとんどが、ユンには空虚のように感じられた。そういった願望があるのは否定できないが、結局、一緒にいるのが当たり前になるくらい長い時間を共に過ごしすぎた弊害のようにも思えてくる。
 いつになったら巣立てるのか。
 ――いつまでたっても、巣立てる気がしない。
「……嫌になった時は、きちんと言ってくださいね」
「大丈夫だよ。ユンくんのこと嫌って思ったことないし、好きだから」
 一瞬、息が止まった。
 ナマエは純粋に友人として好きだと言ってくれているのだ。子供の頃からの付き合いで、気の置けない間柄として、ずっと一緒にいてくれたよしみで。
 だからといって、親愛の延長で、こうして「ついていく」と宣言するのは普通なのだろうか。笑顔の言葉の意味を測りかね、ユンはどぎまぎとする。
 でも、もしそうだったら……、という想像が働いてしまい、内側から溢れんばかりの鼓動が邪魔をして、思考がうまく回らない。
「ユンくんの方こそ、嫌になった時はきちんと言ってね」
 声をかけられ、ようやく頭が回り始めた。
「私が今までナマエさんに対して嫌だと思ったことは、一度たりともありませんよ」
「これからそうなるかもよ?」
「大丈夫ですよ、好きですから」
 顔を見合わせて、互いに微苦笑を浮かべる。
 そしてほぼ同じタイミングで視線をそらした。
「……ええと、じゃあ、わたしも荷物の準備しないといけないよね。ユンくんはもう終わったんだよね?」
「はい。荷造りはもちろん、この家の退去届けも出しました」
「なら急いで準備しないと……外でお夕飯食べてる時間あるかな……」
 悩む素振りを見せるナマエに、ユンは小首を傾げる。
「お夕飯はナマエさんのところで食べてはいけませんか?」
「私の家で? せっかくの門出の前日にそれでいいの?」
「食べ慣れたものが一番いいんです。それに、ナマエさんのご両親にこの事はお話ししておくべきでしょうから」
「それは私から話すから大丈夫だよ」
「いえ。いくら付き合いが長いからといって、ナマエさんのご両親に話も通さないのはあまりにも礼節を欠いています。双方にとっても良くないですよ」
「そ、そこまでしなくても平気だよ」
ナマエさんが平気でも、私はそんな心づもりではいられません。挨拶もなしにここを出たとして、もしナマエさんの身に何かあったら、私はナマエさんのご両親に顔向けできませんよ」
 ユンの言葉に、ナマエは小さく唸った。
「私が行けば、荷造りのお手伝いもできますよ。ナマエさんは玉門の外に出るのは初めてですよね? 私は先生についてまわった経験がありますし、困ったらその都度私に聞けばいいと思います。それに、家まで送る手間も省けますから」
「でも、そしたらユンくん家に帰るの夜遅くになっちゃうよ?」
「……でしたら、私が荷物を持ってナマエさんの家に泊まるのはどうですか?」
「えっ」
「どのみち明日一緒に出るんです。手間が省けていいと思いますよ」
「ど、どこで寝るの……?」
「そこはナマエさんのご両親にお伺いを立ててからでしょうね。寝れる場所を貸していただければどこでも。絨毯の上でも構いませんよ」
「さすがにおふとん敷くから!」
 ナマエはうんうん唸りながらたくさん迷って、やがて観念したように頷いた。
「わかった。でも、絨毯で寝るのは絶対駄目だからね」
「はい。……では、荷物を取ってきます。ここで待っていてください」
「うん」
 ユンは足早に部屋に戻ると、鞄を手に取ってすぐに部屋を出た。それから一通り部屋を見て回り、元栓を締め、ブレーカーなどを落としてから玄関に戻る。
 窓から入ってくる街灯の明かりを頼りに靴を履くと、下駄箱の上に置かれた封筒を手に取った。中にはスペアも含めた家の鍵が入っており、管理者に返却するためのものだ。
 いよいよここを離れるのだという実感が全身を包みこむ。真っ暗な廊下の奥を見つめ、チョンユエと過ごしたいつかの光景が脳裏を過って、ユンは思わず頭を下げた。そのままの姿勢で固まり、しばらく経ってから顔を上げて振り返ると、ナマエが気遣うような微笑みを浮かべていた。
「もう大丈夫?」
「はい」
「それじゃ、行こっか」
 ナマエはそう言って踵を返し、玄関扉に向かっていく。
 ユンはとっさに腕を伸ばし、ナマエの袖を掴んで引き止めた。ナマエはびく、と体を震わせて立ち止まり、振り返ってユンを見上げる。
「どうしたの?」
「最後に一つ、確認しておきたいことがありましたので」
「えっと、……何かあった?」
「さっきの言葉、本気ですか?」
「……さっきの?」
「はい」
 まっすぐに見つめるユンの顔を、ナマエは不思議そうに見つめ返す。
 その表情に少しの落胆を抱くのも束の間、ナマエは目を見開いて、あたふたと視線を右往左往させはじめる。暗がりでも、じわじわと顔を赤らめさせているのがわかった。
 それがナマエなりの解答だと気付いてしまうと、ユンの落胆はどこかに吹き飛んでしまった。それどころかついうっかり吹き出してしまって、途端にナマエがむっとする。
「……ユンくんこそ、その場の流れで返事してたりしない?」
「なにがですか?」
「そ、そこでしらばっくれるのはずるいと思う……」
 これ以上意地の悪い応答をしたら、それこそ本当に機嫌を損ねてしまいそうだった。
「してないですよ」
 首を振って真面目に答えればナマエは疑い深い眼差しでじっとユンの顔を見つめ返す。が、ものの数秒で気まずそうに視線をそらしてしまった。
 その照れくさそうな表情に、ユンは微笑を浮かべた。
ナマエさん、手を貸してください」
「う、うん」
 戸惑いがちに差し出された右手を取ると、ユンはそのまま左胸に導き、心臓の真上に乗せた。
 ナマエは心底驚いた様子だったが、抵抗はしなかった。段々と落ち着いた表情になり、ふっと優しげな笑みを形作る。
「……あは、生きてる」
「それだけですか?」
「ユンくんでもどきどきする事ってあるんだねぇ」
「……ナマエさんは私の事をなんだと思っているんでしょうか」
「ユンくん」
 にこーっとした笑顔に脱力しそうになったが、ナマエは言葉を続ける。
「のんびり屋さんで礼儀正しくて、武芸にすごく熱心で、書き留める時はとっても真剣で、耳と尻尾を撫でるのがものすごく上手な、私の一番大事な人」
 そう言ってユンの手を振りほどいたかと思えば、逆に手を重ね、下ろすように誘導しつつもささやかな力で握り込んできた。
「ほんとはね、ちょっと怖かったの。言ったら全部終わっちゃいそうだったから」
「それは……私もです。このまま一生、友人のまま終わるんだろうと思っていました」
「えはは、二人しておんなじこと考えてたかもね」
「そうですね」
 指先だけで手を握り返すと、開いたほうの手を更に重ねてくる。
「ユンくん、ちょっとかがんでくれる?」
「ええと……はい」
 わずかに前傾すると、ナマエが一歩前に出た。
 身を寄せた瞬間ふわりと、ユンにとってはありふれた優しい香りが鼻先をかすめた。束の間、頬に柔らかい感触が触れた。一秒にも満たない柔らかな刺激にユンは心臓を跳ね上がらせ、息をつまらせる。
「だいすき」
 吐息が頬にかかる距離で、ナマエが言う。
 顔を離す動作が、そしてほんの少し背伸びした踵を落とす仕草が、スローモーションのようにユンの視界に映った。
「……あは、やっと言えた」
 呆気にとられて身動きできないユンに対し、ナマエは照れくさそうに微笑んで、丸めた尻尾をパタパタと忙しなく振っている。その上機嫌のあらわれがとにかく愛らしくて、ユンの脳を揺さぶった。
 薄暗くてよかったとユンは場違いなことを考えた。全身を包むような多幸感にすっかり舞い上がってしまい、頬に熱がのぼっているのが自分でもわかったし、それを目の当たりにされたらひとたまりもなかった。それでもナマエが言葉にして想いを伝えてくれたのが嬉しくて、自然と顔がほころんでしまう。
 両手で大事に大事に包みこまれた手を、強く握り返す。わけもなく唇が震えたが、せいいっぱい声を絞り出した。
「私も、大好きです」
「……うん!」
 暗がりでもわかる満面の笑み。愛くるしさに、心臓が強く締め付けられる。
 ユンはたまらず、顔を近づけた。衝動的だった。一線が取り払われたせいもあって、抑えが効かない。
 ナマエが目を丸くして硬直するのを認めながら、目を閉じて――。
「あいたっ」
 額につたわる軽い衝撃とナマエの妙な声に、ユンはぎょっとした。見ればナマエは顔をしかめ、片手でこめかみを押さえている。それで何があったか、ユンはすべてを察した。
「す、すみません……!」
「ううん、大丈夫だよ」
 ナマエが苦笑を浮かべて首を横に振るので、情けないやら恥ずかしいやら、言いようのない感情が湧き上がってきた。
 頬に口づけを返そうとして角で突いてしまっただなんて、あんまりが過ぎる。
 たまらずに下を向くと、ナマエがこめかみを押さえていた手をユンのほうへと伸ばした。額の角にそっと触れ、優しい手つきで何度も何度も撫でさする。
「あは……、わたしもユンくんの角のこと気をつけないとかな」
 撫でられるたびに、抱え込んでいた情けなさやら不甲斐なさが、不思議と消えていく。そうして落ち着いた頃には、ナマエは上目にじーっとユンを物欲しそうに見上げ、
「してくれないの?」
「――――」
 ぐっと言葉に詰まった。
 それからユンは、おそるおそる顔を近づける。
 角のことを考えながら顔を傾けて、どうにかこうにか、ナマエの頬に口づけを送った。
 顔を離して、視線を交わして、真正面から顔を見合わせて、
「ふふ」
「……あはは」
 仲良く吹き出してしまった。

 二人で家を出た。その途中、施設警備員の詰め所に立ち寄り、家の鍵を預けた。応対した警備員はユンの子供の頃からの顔見知りだったため、二言三言の会話では済まなかった。少しの世間話をしたあとに別れの挨拶をし、深く頭を下げてから後にした。
 外門をくぐって歩道に出る。帰宅時間と重なったせいか、帰路につく人の流れで少し賑やかだった。
「ユンくん、忘れ物ない?」
「はい。行きましょう」
「うん」
 ユンは肩にかけた鞄を背負いなおし、ナマエと二人で並んで歩く。
 何度も歩いた見慣れた道路もこれで見納めだと思うと感慨深かった。いつもならとりとめもない会話が続くのに、今日に限っては終始無言だった。
 話せばいけないことがユンにはたくさんある。明日ここを出るとは話したが、同伴者がいることをナマエは知らない。その話はもちろん、どこへ向かうのか、どのくらいの時間がかかるのかもきちんと伝えなければならない。なのに、どうにも気恥ずかしくて、言葉が喉の奥に引っ込んででてこない。
 しばらくして、
「ユンくん」
「はい」
「ぁ、あのね、……手、つないでもいい?」
 ユンは返事をするより先にナマエの手を取って、手のひらを重ねて握った。
 ナマエは驚いたように目をしばたたかせると、嬉しそうにはにかんで握り返してきた。それどころか器用に指を潜り込ませて、絡めてくる。
 触れ合わせた手のひらの肌が触れ合う境目を、そして絡ませた指の細さだとかをつよく意識してしまう。
「えへへ」
 嬉しそうな声につられて横目で様子を伺って、視線が合うとにっこり微笑まれて、痛くない程度にぎゅっと手を握られて――かなわない、とユンは黙りこくるしか無かった。
 言葉数が少ない分、ナマエは手をぷらぷらさせて、時折視線が合えば微笑んでいる。話さなければいけない事があるとわかっているのに、たった数分の甘痒いやりとりに溺れて、本来の目的が沈んでしまう。
 今話すのは無理だと結論付けて、ユンは結局、手を握り返したりした。
 ほんのちょっと進展しただけでこんなになってしまうなんて、甚だ想像もしていなかった。

 ナマエの家についたが、夕飯時とあって食堂は賑わっていた。
 ナマエの母親が気付いて声をかけてくれたが会話できるような状況ではなかったため、話をするのは後にした。奥の席に案内され、好きな食べ物を頼んで空腹を満たすことにした。
 相変わらずの騒がしい空気に触れると道中までの気恥ずかしさはすっかり薄れ、ナマエとの会話運びもスムーズになる。ユンはこれから向かう場所についての諸々の話を、きちんとナマエに伝えることができた。
「大荒城、写真でしか見たことないな。ユンくんは行ったことあるの?」
「ありません」
「そっか。それで、ええと……引率してくれる方が……」
「ズオ殿です」
「ずおどの」
 ぽかんとした表情で復唱するのが少し面白かった。
「もちろん、ズオ将軍ではありませんよ」
「……つまり、……ズオ公子……?」
「はい」
 ユンの返事を聞くなり、ナマエは神妙そうな面持ちになる。
「不安ですか?」
「だ、だってわたし、直接会ったことないんだよ?」
「大丈夫ですよ。私も、先生の同門である事くらいしかつながりがありません。そんな馴染みのない私の頼みを聞き入れてくださる気概をお持ちの方ですから、不安に思うことは何一つありませんよ」
「……だ、だといいんだけど……」

 食事を終えて会計をすませようとしたが、あいも変わらず「長い付き合いだし遠慮はいらないから」と母親に言われてしまい、ユンは戸惑った。せめて最後の日くらいとは思っていたのだが、ひっきりなしに会計をすませている客を見ると食い下がることもできず、ユンはその好意に甘えることにした。お礼を述べ、ナマエの案内で奥の居住スペースにお邪魔する。
 ナマエの荷支度の手伝いをしたあと、お風呂を借りた。家主とその家族を差し置いて赤の他人であるユンがいの一番に入浴する事に抵抗があったが、
「わたしはもう少し準備とかしなくちゃいけないし、後でゆっくり入るから」
 と言われてしまうと、ぐうの音も出ない。おまけに「お父さん、春の投げ売りで買ってからまだ開けてないみたい」と真新しい寝巻きまでもを用意してもらうと、頭が上がらない。
 入浴を終えると、入れ替わるようにナマエが風呂に入った。そして夜が更けると食堂が閉まり、ナマエの両親が居住スペースに帰ってきた。
 ナマエとその両親とユンの四人で話をした。突拍子もない話に両親は驚いた様子だったが、怒る素振りは見せず、そして反対だなんて言葉も口にしなかった。ユンが経緯を丁寧に説明している間、二人は相槌を交えて聞き入り、時たま質問を交えてきた。
 長引くかと思ったが、ユンの予想に反して二人からあっさり許可がおり、かえって面食らってしまった。父親の方は早々に話を切り上げ、明日の仕込みのために食堂に戻っていく始末であった。
 驚くユンに対し、ナマエの母親は笑顔で言う。
「あなたのことは小さい頃から知ってるもの。うちのナマエちゃんより、ずいぶんしっかりしてるから」
 ナマエがなにか物言いたげな眼差しを向けるのも構わず、母親は言葉を続ける。
「それに、こんなにきちんと説明されちゃうとね、むしろかえって迷惑をかけているんじゃないかって不安になるわ。本当にこの子も連れていって大丈夫?」
「大丈夫です。私にとっては願ったりかなったりで、むしろ心強いくらいです」
 一度だけナマエに目配せする。すると目を見開いてあたふたして、それを母親に横目で見て笑われて、顔を赤くしながらうつむいた。
「ならいいの。娘のこと、よろしくおねがいしますね」
「はい」
 ユンは深々と頭を下げた。

 ユンが寝る場所は、ナマエの部屋だった。そんな気はしていたので、ユンは別に驚きもしなかった。
 ナマエのベッドの隣に敷かれた布団を見下ろす。いつだったかナマエの家に寝泊まりした時とほとんど同じ光景で、過去の懐かしさを刺激されたせいか変に緊張もせずに済んだ。
「ごめんね、その、あなたの部屋でいいじゃないって、お母さんが……」
「構いません。床で寝ろと言われなくてよかったです」
 苦笑を浮かべ、目線だけで部屋を見回す。あの頃と比べてずいぶんと物が減り、本棚はほとんど学術書ばかりになっていたが、きれいに整理されていた。
「それにしても、久しぶりですね、ナマエさんの部屋に寝泊まりをするのは」
「そうかも。いつぶりかな?」
 そうして二人で布団の上に座って、迷惑にならないよう声を潜めて、いろいろな事を語った。
 出ていった宗師のこと、姉弟子のこと、そして明日からのこと。
 どうしてズオ・ラウについていこうとしたのかと問われたので、先の天災による顛末から左遷についてを語ると、流石にナマエは驚いた。ぱちぱちと目を瞬かせて、なんだか気遣うような曖昧な笑みを浮かべた。
 とりとめもない会話はやがて、ナマエが小さなあくびをした事でお開きになった。
「それじゃあユンくん、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
 と言った割に、ナマエはベッドに戻ろうとしない。ユンが首を傾げていると、ナマエはあちこちに視線を彷徨わせ尻尾を左右に振り、挙動が落ち着かなくなってくる。
 やがてユンの方に身を乗り出して、頬に触れるか触れないかの、ささやかな口づけをした。
 ナマエが顔を離したのを見計らって、ユンも頬に触れるか触れないか程度の口づけを送った。
 幸い、角はぶつからなかった。そのことに安堵していると、それを見透かしたらしいナマエが吹き出した。
「笑わないでください……」
「ふふ。だって、ねー?」
 角に触ってくるので、仕返しに耳に触った。じゃれあって、顔を見合わせてくすくす笑い合う。
「それじゃ、ほんとのほんとに、おやすみなさい」
「はい」
 明かりを消し、それぞれ布団にもぐる。
 いつもなら瞼を閉じればすぐに眠れていた。だが枕の硬さはもちろん、洗濯したてのシーツの匂いやら、掛け布団の感触、そしてナマエの部屋で横になっていることをひどく意識してしまって、眠れない。
 明日のことを考えれば早々に寝たほうが良い。ユンはナマエが寝ているベッドの方に背を向けて、眠ることに意識を集中させる。
 しばらくして、かすかな布擦れの音がした。
「ユンくん」
 名前を呼ばれ、ユンはまぶたを開けた。
「……どうしました?」
「手、つないでいい?」
 控えめながらも甘えた声にかなわないと思いつつ、ユンは上体を起こした。ベッド側の布団の端に移動し、枕の位置も調整して横になる。
 するとベッドの端から手が伸びてきた。ぷらんと垂れ下がった手はなかなかホラーじみていたが、怖いと言うよりも吹き出しそうになった。ユンは布団から手を出すとナマエの手と重ね合わせて、指を絡めるようにして握った。少し辛い姿勢だが、昔と比べればだいぶ楽な方だ。
「えへ、ありがとう」
「いいえ」
 おやすみ、と小さな声が聞こえて、ユンもまたおやすみなさい、と返した。
 まぶたを閉じると、自分のものとは違う呼吸音が聞こえてくる。
 耳を傾けているとだんだんと緊張もほどけてきて、いつしかユンは眠りに落ちていた。

 耳元が無性にくすぐったくて、ユンは瞼を開けた。
 電気もつけていない部屋が明るい。カーテンの隙間から、白み始めた空の明かりが差し込んでいる。まだ朝にもなりきらないが、夜でもない中途半端な時間だ。
 見慣れない景色に視線を彷徨わせる。どこにいるのか一瞬わからなかったが、穏やかな微笑を浮かべた表情が見えた途端、意識が覚醒して何もかもを理解した。次いで、目が覚めてから一番最初に見るその景色に、多幸感を刺激される。
「あ、起きた。おはよー」
「おはようございます」
 いつにも増して優しい眼差しを向けられ、ユンは微笑み返した。布団を持ち上げてのろのろと身体を起こすと、ナマエも上体を起こした。
「声かけてもスヤスヤで、全然反応なくてびっくりしちゃった」
 寝顔を眺められていたことに驚き、ユンはすこし気恥ずかしくなった。
「起こしてくれてもよかったんですよ」
「耳、けっこう撫でたよ?」
「……」
 道理で耳のあたりがむず痒いわけだ、とユンは納得した。

 身支度を整え、ナマエの両親が用意してくれた朝食を取った。
 食堂も朝の出勤時間に合わせて賑やかになるため、その時間帯を避けて家を出ることにした。
「それじゃ、行ってきます」
 つま先をそろえて立つナマエが、両親に向かって言う。母親と父親が口々に元気でね、と言いながら抱擁を交わすのを、ユンは黙って見つめる。
「お世話になりました。行ってきます」
 抱擁が終わったのを見計らってユンも挨拶を述べると、ナマエの両親は頷いた。
「ユンくん、あなたも気をつけてね」
「はい。ありがとうございます」
「元気でな」
「はい」
 ナマエの両親に見送られながら、ユンはナマエと一緒に足を踏み出した。ナマエとユンが振り返って何度も手を降るあいだ、両親はずっと店の前に立っていた。寂しそうな眼差しが遠くにぼやけて見えなくなり、そうして角を曲がると姿さえ見えなくなってしまった。
 気になってナマエの顔を見れば、ユンの予想に反してあっけからんとしていた。思わず面食らってしまう。
「……案外平気そうですね」
「ここに帰ってきたら、また会えるから」
 にこっと笑いながらナマエは言う。
「戻るならいまのうちですよ。検問所を抜けたら当分玉門には戻れません」
「今戻ったら、お父さんが餞別だって持たせてくれた蒸しパン無駄になっちゃうよ」
「……いつの間に……」
 苦笑を浮かべると、ナマエも困ったような笑みを浮かべる。
「6個もあるんだけど、ちょっと多いよね……ズオ公子も食べてくれるかな?」
「食べてくれると思いますよ」
「だといいな」
 ナマエは言い終わると、正面を向いた。
「玉門の外に行くの初めてだから緊張する。外ってどんな感じかな?」
「私も先生について回っただけなのですが、炎国でも治安が悪いところもあります。とはいえ、大荒城までの道のりは危険もないはずですよ」
「……そっか」
「そんなに緊張するほどですか?」
「だってわたし、ずっと玉門でぬくぬくして、井の中の蛙みたいなものだから……」
 恥じ入るようにナマエは言う。
「移動都市で暮らしている人のほとんどは、そうやって一生を終えていくんです。でも、ナマエさんは大海を知ろうとしているではありませんか」
 ナマエを見下ろせば、それに気付いたナマエも見上げてくる。
ナマエさんが大海を知る手助けをできること、私は嬉しく思っていますよ。小さい頃はナマエさんがそうしてくれましたから、次は私の番ということなのでしょうね」
 ナマエが裏庭に転がり込んできたあの日まで、ユンはまさしく井の中の蛙だった。数え歌を変に歌う同年代の子供がいるだなんて知らなかったし、塀の上を歩いて移動する手法があることも知らなかった。そうして楽しいことも、嬉しいことも、寂しいことも色々知った。あの裏庭で偶然出会ってから、二人の関係は具体的に始まった。
「ユンくんにいっぱい迷惑かけちゃうかも」
「今更ですよ」
「頼りにしてるからね」
「はい」
 ユンが微笑むと、ナマエは嬉しそうに微笑んで頷いた。
 そうして、どちらともなく片手同士を触れ合わせて、手を繋ぐ。

 お互いに成し遂げなければいけないことは沢山あって、新しくやりたい事も見つかるはずだ。
 これから折り合いがつかず、ままならないこともあるかもしれない。悲しい思いをさせたり、させられたりするかもしれない。
 それでもユンには、ナマエのことを嫌に思う日はこの先ずっと訪れないだろうという予感はあった。ナマエもきっとそうだと思ってくれていたらいいと願う。
 変わりゆく環境のなか、それでも変わらず側にいて、同じ道を歩いて、そんな日々がずっと続けばいい。