#5 The Little Expedition小さな探検隊
翌朝、四時を回ってほどなくして、ナマエとズオ・ラウは家を出発した。雲一つない晴天なのが幸いだ。一人分の荷物は思っていたより少なかった。タオルや防虫剤、飲み水と真空パックに入った高カロリービスケット。ズオ・ラウはそれに加えいつもの武器と鞄を腰に携えたが、ナマエはランタンとケースに入った大ぶりの鉈を持った。
「それじゃ行こっか」
「はい」
「それと、絶対はぐれないように。探すの面倒だからね」
探すのが面倒とはどういう意味か尋ねようとしたが、村の背後にそびえる森を見てズオ・ラウは何も言わずに頷いた。こんな木々の中で迷子になったら、きっとひとたまりもない。
村の入口とは反対方向にある門をくぐり、ためらいもなく進むナマエの後ろをついていく。林道には雑草が増えていき、やがて藪草が侵食し始め、数分もしないうちに蔓が枝から垂れ下がるほどまで自然豊かな光景に移り変わっていった。
皮膚に感じる湿度も高くなり、ハエなどの羽虫が飛ぶ音がかすかに聞こえ、不快感が徐々に増していく。出発前に念入りに虫除けスプレーを吹きかけられたのが幸いして、虫が寄ってくる気配はなかった。
前方に大きな蜘蛛の巣を見つけるとナマエは足元の木の枝を拾って取り払い、道を塞ぐ枝葉には颯爽と鉈を振り下ろす。道なき道の進み方に対して、ナマエはとにかく手慣れていた。
「草がすごいですね」
「これでもまだマシなほうだよ」
枯れ枝が邪魔をしているのでどけようとしたら実は大きなナナフシだったので声をあげそうになり、葉脈に沿って山折りになった葉の下に小さくて丸いコウモリがもこもこと団子になって休んでいるのを見つけたり、坂道のぬかるみに足をすべらせて転びそうになったりと、道中ズオ・ラウは休む暇がなかった。
当然、ナマエと無駄口を叩く余裕もない。それでもたまに「あれはなんですか?」と尋ねると、ナマエは疎ましがらずに簡潔で明確な答えを述べてくれるのが、ズオ・ラウにとっては有り難かった。昨夜のように話題を探そうともしなかったし、長い沈黙も苦痛と思わなかった。
そうして藪の中を進んでいくと、崩落した廃墟群が広がる場所に出た。自然に飲み込まれつつあるが、かつて集落だった跡地に見える。予想だにしない光景にズオ・ラウは目を丸くした。
とうの昔に放棄されたようだった。ほとんどが砂岩煉瓦造りの家だが、黒い煤が至るところにこびりついている。屋根も柱もなく、地面には焼け落ちた残骸が散らばっている。大規模な火災があったのだと想像するのは容易かった。
そんな、ゆるやかに腐朽していく集落を包み込むようにつる性の雑草が生い茂り、覆い隠している。以前は誰かがここに住んでいたのだろうが、今は影も形もない。
「ここは、村だったんですか?」
「うん。火事になって、その後誰も住まなくなってこうなった。ちょっと勿体ないよね」
ナマエは冗談めかすようにそう言って、足元の石畳を蹴る。対するズオ・ラウは反応できず黙っていた。火災の規模は相当な有様だろうし、犠牲者がいないとは到底考えられなかった。
そんな廃村跡地の中を進むのは、森の中の荒道を進むのとは比べ物にならないほど楽だった。地面に石畳が敷いてあるおかげで足場がしっかりしているからだろう。隙間から雑草が生えているものの、背丈が高くないのも幸いだった。
しばらく進むと、開けた場所に出た。奥にそびえる大きな建物が目に入る。
うねうねと波打つガルバリン素材の屋根が架かった工場のような建物だった。外壁にはクズと思しき蔦性の雑草が無尽蔵に張り付いている。開けた地面も雑草が生え放題だ。錆びついて荒れ果てた光景は、忘れられた場所と呼ぶにふさわしい雰囲気だった。
工場の入口は開け放たれており、内部は薄暗いものの窓から差し込む光で大体把握できた。ナマエが何も言わないのを良いことに、ズオ・ラウは入口まで近づいた。
コンクリートの床は腐食によって剥離とひび割れが起きている。ところどころ黒く汚れ、鉄筋は錆び放題とひどい有り様だ。
そんな工場内でひときわ目を引くのが、大きな粉砕機だった。いたるところに錆が発生しているが、まだまだ稼働しそうに見えた。といっても回転刃の交換を始め、入念な手入れは必要だろう。
「なんの工場だったんでしょうか?」
ズオ・ラウが振り返って尋ねると、ナマエは首を横に振った。
「よく知らないけど、木材加工所だったんだって。ここらへんの木材は香りがいいから、昔は燻製とかに使えるチップを作ってたって」
「なるほど。機械は手入れすればまだ使えそうですけど……」
「無理。発電機も蓄電器も盗まれてるし、多分機械のパーツも盗まれてる。修理のためにここから機械を運び出すのも面倒だし、再稼働させるにはとんでもない額の投資が必要だろうから、このままほっとくしかないよ」
「……、そうですか……」
確かにナマエの言う通り、投資に見合うか不明だ。利益が出るとも限らないし、このまま朽ち果てていくのを待つほかないだろう。
ズオ・ラウは後ろ髪引かれるような気持ちになりつつ、ナマエの方へと戻った。
ナマエと目が合うと、ついと視線をそらされる。怪訝に思って観察すると、焦るような気配を感じた。視線を下げると、握りこぶしを作っているのに気づく。あらためてナマエの顔を見ると、口元に力が入っているように見えた。
「……すみません」
ズオ・ラウが謝ると、ナマエは眉間に皺を寄せた。
「なんで謝るの?」
「緊張しているように見えます。ナマエさんはこの場所が苦手なんじゃないですか?」
ナマエは目を見張ってズオ・ラウを見つめ、少しうつむきがちになる。
「このへん、あんまり好きじゃない」
ズオ・ラウはさっきの廃墟を思い返し、今いる場所と照らし合わせる。大昔に何かあったんだろうと推測できたが、詮索は無意味だ。ナマエの過去に何があったにせよ、わざわざ調べるほどの興味もわかなかった。
「無駄な時間を使わせてしまいました。行きましょう」
「うん」
ズオ・ラウが促すと、ナマエは頷いて足を踏み出した。
黙々と歩いていると、徐々に地面の起伏が穏やかになりはじめた。平坦すぎて歩きやすいせいで、人工的に踏み均されたのではと奇妙な違和感がつきまとう。周囲に生えている木は根付いた年代が違うのか、幹が細い若木だ。地面には建物の痕跡はおろか基礎すら存在しないが、この平地もかつては集落が存在し、人の営みがあったのだと伺わせた。
真っ直ぐに進んでいくと、木々が一つもない場所に出た。
熱帯気候特有の巨大化した植物はすっかり消え失せ、どこにでも見るような多年草が生えている。しかしか誰かが草むしりでもしたのかと思わず疑ってしまうくらい、土が露出している箇所が多く見られた。
正面には高さにして六メートルほどの崖めいた段差がある。その中央、崖にはびこる蔓草状の植物に覆われ暗澹とした洞穴が口を開いていた。
ズオ・ラウは無意識に足を止め、唾を飲み込もうとした。しかし、口の中が乾燥していて、うまく飲み込めない。
背筋がざわざわとして仕方がない。暑いのに寒気を感じるという、奇妙な感覚に見舞われる。
「また塞がってる……」
ふてくされたように言い捨てるナマエは別段なんともないようで、いつもと同じ態度で洞穴から垂れ下がる植物を鉈で乱暴に切り捨てていた。
「……ここが、例の遺跡ですか?」
「うん」
ナマエは頷いて鉈をケースにしまうと、ランタンに明かりをつける。暗がりを照らし出す光が乱反射して奥まで伝播していき、洞穴の中が如実に照らし出された。
外壁は地面から突出した錐体が折り重なるように組み込まれている。その造りは自然にできたように見えるが、足元は階段状の段差がどこまでも続いていた。こればかりは人の手が入っていると認めざるを得ない。
ズオ・ラウは洞穴の奥をじっと見つめ、息を呑む。と、肘のあたりをちょいちょいとつつかれた。
「疲れた? 休む?」
「いえ、大丈夫です……」
首を横に振ると、ナマエは釈然としない様子でズオ・ラウの顔を見つめる。
「じゃあ、私がお腹すいたから休んでこ?」
「……じゃあとはなんですか」
「じゃあはじゃあだよ」
ナマエはそう言って洞窟の横に移動し、その場に腰を下ろした。
「三時間近くぶっ通しで歩いてる。ズオくんは慣れてないんだから、休んだほうがいい」
気を使われていると気付いた瞬間、ズオ・ラウは胸中で歯噛みした。自身の体力が劣っているとは思わないが、目の前のナマエは随分と平気そうにしている。
その違いにどうしようもない鬱屈を抱えて立ったままじっとしていると、ナマエは鞄から固形食を取り出して、
「この栄養食ね、クッキーみたいでわりと好き」
ズオ・ラウに向かって笑いかけた。
結局、ズオ・ラウは観念してナマエの隣に腰をおろした。最初からそうすれば良かったのにと嫌味を言われるかと思って身構えたが、別段ナマエは何も言わない。澄まし顔で、真空パックの中に入っている固形食をもくもくと食べている。
ズオ・ラウも鞄から固形食と水筒を取り出し、水を飲んでから食事を始めた。思えば朝食を摂っていないまま家を出たのだ。食べ始めれば不思議と空腹だった事を自覚してしまい、食べるのに夢中になってしまう。あんなに乾いていた口の中も、味覚が刺激されたおかげで、いつものような潤いを取り戻した。
「ズオくんさ、ちょっと変な感じするんでしょ?」
食事も一段落ついて腹ごなしで休んでいる最中、ナマエがそう尋ねてきた。
「前ここに一緒に来てくれた人も『入りたくない』って連呼してた」
「そ……、そうなんですか……」
ズオ・ラウはそう応じると、恐る恐る洞窟の入口に目を向けた。途端に底冷えするようなものがまとわりついてくるのを感じて、たまらず目を伏せる。
「……得体の知れないものを感じているのは確かです。私自身、怖がりというわけではないんですが……」
「そっか。村の人も怖がるから、今ズオくんが感じてるのは普通だと思う」
「……ナマエさんはなんともないんですか?」
「うん、昔から平気。命の危険とかも感じない」
けろりとした顔で言うのだから、本心なのだろう。ズオ・ラウは素直に感心した。
腹もこなれたので、二人で洞窟の入口へと向かう。ナマエは酸素濃度計を確認しつつ、尻尾にくくりつけたランタンを左手に持ち替えると、石段を一つ二つと降りた。そしてズオ・ラウの方を振り返ると、
「ズオくん、怖かったら私の尻尾握っていいよ」
そう言って、自分の尻尾を見せびらかすように持ち上げた。
ズオ・ラウは面食らったあと、
「お気遣いありがとうございます。必要ありません」
むっとして答えると、ナマエはふっと小さく微笑んでから石段をゆっくりと降り始めた。ズオ・ラウもその後ろをついていく。
ランタンの明かりがあるとはいえ、暗がりに近いという懸念が付き纏う。ズオ・ラウは転ばないよう足元を見ながら、ナマエの歩調に合わせ、傾いた空間を一歩ずつゆっくり進んでいく。
石段の造りは思っていたよりしっかりしているが、崩壊している箇所もあった。それがずっと奥まで続いている。洞窟の地面をこまごまと手彫りで削る労力を考えると、ズオ・ラウには途方もない思いがした。いつの時代のものかはわからないが、こんな山中の中で塵芥と化さずに残っているのは奇跡的だろう。
慎重に慎重に進んでいくと、やがて奇妙な違和感が訪れた。石段が途絶えて洞窟の岩場に出たかと思えば、すぐに石畳に切り替わる。ズオ・ラウは周囲を見回したかったが、明かりを持ったナマエが先を進んでしまうのでそれもままならず、後ろをついていくほかない。
そして、眼前に現れた巨大な石門に、ズオ・ラウは息を呑んだ。
岩肌を削り、妙技とも呼べるような精巧さをもった装飾が施された門だ。装飾に用いられている動物は爬虫類が多く、植物のシダのような渦を巻いた模様がいたるところに刻まれている。扉は開放されており、その先は真っ暗で目視もかなわない。
「はぐれないでね」
「は、はい」
石門の段差を登り、扉をくぐって内部へ侵入する。
通路のような場所だ。両壁には人の模様がずっと先まで刻まれている。ズオ・ラウの目には丸と四角と線を組み合わせた幼児の落描きに見えたが、天を拝むように平伏したり、隣同士で手を繋いでいたりと、多様な工夫が凝らされているのはわかった。
道中、横部屋への入口に差し掛かった。入口の両脇には台座があり、その上には手のひらサイズの四角い装置がある。ビーコンだ。ナマエはそれを回収して背面のスイッチを弄り、荷物の中に入れた。そして入れ違うように別のビーコンを取り出すと、先程の場所に置き直す。
ナマエが作業をしている間、ズオ・ラウは何気なく横部屋の内部を眺めた。
十メートル四方の広さの部屋だ。薄暗いので細かい内部構造はわからないが、四隅に大仰な柱が取り付けてあり、中央に人が一人寝そべれる大きさの長方形の台座がある。台座の下には溝が掘ってあり、部屋の最奥に位置する段々状の祭壇の手前までつながっている。何を目的とした部屋かは不明で、見ていてあまりいい気はしない。
それでもまじまじと覗いていると、
「そこ、多分生贄を捧げる部屋だから、入んないほうがいいよ」
「……」
ズオ・ラウは目を瞬かせた。じわじわとこみあげてくる薄気味悪さに絶えきれず、一歩ほど後ずさる。
「行くよ」
ナマエがそう言って歩き出すので、ズオ・ラウは慌てて横に並んだ。
「そういった風習がある地域だったんですか?」
何とも言えない後味の悪さを誤魔化すかのように話しかけると、
「そうみたい。でも、昔話を知ってた語り部の大婆は私が小さい頃に亡くなったから、詳しいことはわかんない」
そう言ってから、ふっと鼻で笑い、
「大昔の話とはいえ、なんか野蛮人みたいで気持ち悪いよね。生贄とか意味ないのに」
胸中を見透かされたのかと思い、ズオ・ラウはたじろいだ。
「……、そういうものに頼らなければならないほど、逼迫していたのでは?」
「どうだろう。飢餓や飢饉を凌ぐってより、娯楽の一環だったんじゃないかな」
ズオ・ラウは安易に否定も肯定もできず、押し黙った。
昔は娯楽が少なかったので、処刑も一種の催事とみなされていたふしがある。実際炎国も遥か大昔には処刑を一大行事のようにして執り行っていた記録がある。
生命の危機に陥った人間の、それもおびただしい量の体液が漏れ出ていたり、人体の中身が出ているような場合の体臭は死臭よりもむごい。ズオ・ラウは今でこそ慣れたが、あれを初めて嗅いだ日は一切の食事が喉を通らず、しばらくの間引きずったのを思い出す。
そんなものを娯楽と楽しめるかは考えにくいが、前時代の人間の思考など到底計り知れないものだ。そして祭事の一環を取り仕切る指導者がこういった事を重ねてもなお、まともな精神を保てるのはよほどの事でもない限り無理だろう。だからこそ、娯楽として軽率に執り行う。
「小さい頃はね、悪さしたらここに連れてくるって脅された」
「……効果はてきめんでしょうね」
「まあね。誰も来たがらないよ、こんなとこ」
話をしているうちに廊下を抜け、広い空間に出た。
大広間といっても差し支えのない部屋だ。壁にはいたるところに彫刻が刻まれていて、壁画のようなものもある。一部は崩落していたが、歴史的建造物としては申し分のないものだ。学識ある者が見れば、途方もない価値があると判断するだろう。
広間の左右には通路が続いているようで、四角い穴めいた入口がぽっかり空いている。その両脇には台座があり、左側の台座にはビーコンが置かれていた。
ナマエは真っ先にビーコンを回収しに向かう。ズオ・ラウはその後ろをついていこうと足を踏み出したが、ふと視線をさまよわせた先、部屋の中央の壁画の合間に目を留め、硬直した。
高さにして二メートルほどの、光沢を放つ半透明の石が埋まっていた。最初は天然石の類かと思ったが、どうやら違う。
石の中に、黒い人影が見える。
人間が埋められているのだ。そう理解した瞬間、背筋が一気に冷たくなった。生唾を飲んでようやく視線をそらす。
「ズオくん、大丈夫?」
いつの間にかナマエが近くに戻ってきていて、ズオ・ラウの顔色を伺っている。いつもと変わらないその表情を見つめて、ズオ・ラウはたまらず安堵のため息をこぼした。
ナマエは一度あの石に目を向けてから、気遣うような苦笑を浮かべた。
「真ん中のあれ、気になる?」
「なんなんですか、あれは……」
「さあ? わかんない。とりあえずビーコン回収して、それからにしよ」
何故か後ろ髪を引かれるような気分のまま、広間の右側の通路へと向かった。
すぐ突き当りになっており、曲がり角になっていた。そのまま進むと、先ほどの通路のように人の模様が続くかと思えば、様子が少し違っていた。皆が武器を携えており、時たま怪獣のようなものが描かれ、それに襲いかかっている人間といった構図の模様が彫られている。
「この先は回廊になってる。ぐるっと一周すると、さっきの広間に戻れる」
コの字状になっている通路を頭の中に思い描いて、ズオ・ラウはふと気付いた。
「回廊……という事は、中央に何かあるんですか?」
「うん。今案内するから」
ズオ・ラウは両壁の模様を見ながら足を進める。
すべてが化け物退治を表しているのかと思ったが、人が人に襲いかかっているのも見受けられ、ズオ・ラウは考えを改めた。槍を持った人間が、人間を突き刺していたり、隊列を成して弓を構えてる。戦争の暗喩だろうとは思うが、考古学に関しての知識が乏しいので、それ以上の事はわからない。
この通路に隣接する部屋が三つあったが、ナマエはそのどれもを素通りした。ズオ・ラウも前例を踏まえ、部屋を覗くようなことはしなかった。
そして突き当りの角にさしあたった。曲がって道なりに進み、ちょうど中央まで来た頃、左側の壁――あの大広間側のほうに向かって、大きな扉が構えていた。
いかにも重厚なつくりで、堅固な佇まいだ。戸は両開きだが、どちらも閉ざされている。両脇の台座は装飾過多で、いかにもこの先に大事な何かがあると示しているかのようだ。ズオ・ラウはその門構えに圧倒され、見入ってしまう。
ナマエはその上に置いてあるビーコンを回収し、扉に気を取られているズオ・ラウの顔を見つめ、苦笑を浮かべた。
「この先、行けないんだよね」
「……そうなんですか?」
「扉の開け方がわかんない。押してもびくともしない」
ナマエはそう言ってランタンを掲げ、扉を照らした。取っ手はおろか、鍵穴のようなものも見当たらない。
「誰かこの先に入った方はいないんですか?」
「いない。こんな地下にあるから下手に発破も出来ないし、お手上げ状態だよ」
「そうでしょうね……」
こんな狭い場所で発破なんてしたら死人が出るだろうし、遺跡も崩落しかねない。
「ズオくん、なにか気付いたこととかない?」
「ええと……」
そう聞かれ、ズオ・ラウはあらためて扉を見つめる。
枠組みの装飾はゴテゴテしており、特にレリーフが顕著だ。渦を巻いたシダの中央に水差しのような壺や、虎に似た異様な生物が掘られている。そして扉上部は左右に翼を広げた羽獣が掘られ、中央にはなんと形容したらいいのかわからない生物が口を大きく開け牙を向けている。非現実的な姿形だが、さながら咆哮を上げているかのようにも見える。
ズオ・ラウは観察眼には自信があるほうだが、こればかりは全くもってわからなかった。
「特に何も……」
「まあ、そうだよね。じゃあ行こ」
「はい」
通路を進む。突き当たりの角を曲がり、最寄りの台座のビーコンを回収して、再度突き当たりの角を曲がって道なりに進む。果たしてナマエの言う通り、通路を抜けるとさっきの大広間に出た。
そのまま地上に出て帰るのかと思えば、ナマエはあの石の方へと向かっていく。ズオ・ラウはぎょっとしたが、意を決してナマエの後ろをついていった。
「作り物っぽいけど、どうなんだろうね」
そう言ってナマエはランタンを掲げて石を照らすので、ズオ・ラウの表情は自然と強張った。
石の奥、かそけき幽のなかに薄っすらと人の顔が浮かんだ。黒ずんだ皮膚は見るからに乾燥しきっており、皺が目立つ状態だった。
目を閉じていて、頭髪はなく鼻も平たい。唇も薄くて歯がむき出しになっている。胸部はえぐれるように肋骨が浮き上がっていて、腕をだらりと前に垂らしている。
長期にわたる絶食をきたして死んだ崇高な僧侶のような風貌だ。骨格の形状からして、少なくとも女性ではない。腹部から下はぼやけて見えないが、かすかに脊椎のようなものから骨盤が見える。下半身より下からは損傷の著しさが激しいのだろう。
なんにせよ、まじまじと見るものではないとズオ・ラウは思った。
「この石の成分もわからないんだよね」
「……源石ではないんですよね」
「うん。反応は引っかからなかった。この近辺の石だと思うけど、こんな透明度の高い石は見当たらないんだよね。もっと詳しく調べるには削って持ち帰れたらいいんだけど……」
ナマエは石に手のひらを添えて、ためらいがちにズオ・ラウを見上げる。
「今、やってみていいかな?」
「やめましょう」
即答した。
「ドクターも言ってるのに?」
「どう見てもやめたほうがいいですよ、これは」
「まあまあ。ズオくんその剣でこの石思いっきり叩いてみてよ」
ズオ・ラウが腰に携えている剣を指さしながら平然と罰当たりな事を言うので、肝が冷えた。とんでもない女だ。
「やりません」
「そこをなんとか」
「やりませんからね!」
「む……」
「む、じゃありません。そもそも、石を削るのであれば工具を使うべきではありませんか?」
「それはそうなんだけど……」
ナマエは言葉を濁すと、何故か鉈を取り出した。ズオ・ラウが怪訝から小さく首を傾げてみせると、ナマエはケースを付けたままの鉈を、あろうことか石に向かって振り下ろした。
ズオ・ラウは驚愕に目を見開いた。ナマエの動きがスローモーションのように見えたが、止める暇はなかった。鉈が石を触れる寸前、身をすくめる。
しかし、ズオ・ラウが思っていたような事態にはならなかった。叩かれた石から綺麗な音が響いたからだ。わーんわーんと鳴り続けている石を見て、ズオ・ラウは呆気にとられた。
高音で透き通るような音色は、まるで石琴のようなだった。すぐ止まると思ったが、広間に反響し続けている。この石は楽器に用いられる鍾乳石に近いのかもしれない――なんて事をあれこれと考えているうちに、ようやく音が止まった。
広間がシンと静まり返ったのをきっかけに、ズオ・ラウはハッと我に返り、
「な、なんて事をするんですかっ!」
慌ててナマエの手を取り押さえた。
「綺麗な音だよね」
「そういう問題ではありません!」
「でも、傷一つついてないよ。ほら」
先ほど叩いた箇所を指し示すので、ズオ・ラウもそちらに目を向けた。確かにつるりとしていて綺麗な有り様だ。
「工具でも削れなかったんだよね。だから、鍛錬を積み重ねたズオくんなら叩き割れるんじゃないかと思って」
「……工具で無理なら、私でも無理です……」
ズオ・ラウはため息をついてから、
「あのですね……ここは歴史的に価値のある遺跡なんですから、突飛な行動は慎むべきです。保全を優先させないと……」
「……」
説教じみた小言にナマエは何も言わない。ちゃんと話を聞いているのかズオ・ラウが疑い始めた頃、突然、ナマエの身体が倒れ込んできた。ズオ・ラウはぎょっとしながらナマエの身体を抱き留める。
ナマエが手にしていたランタンが滑り落ち、次いで鉈も床へと落ちていく。大きな衝撃音にズオ・ラウは身体を強張らせたあと、恐る恐る足元を確認する。幸い、鉈もランタンは壊れた様子はなかった。
安堵するのも束の間、ズオ・ラウは完全に脱力して寄りかかるナマエの顔を伺った。
「ナマエさん?」
声を掛けるも反応は無い。
「ナマエさん、どうしたんですか?」
軽く揺さぶるが、首が据わらない子供のようになっている。ナマエは眠るように目を閉じていて、ズオ・ラウが手を離せば最後、床に崩れ落ちてしまうと容易に想像できた。
ナマエが何故気を失ったのか、ズオ・ラウには見当が付かない。ナマエが持つ酸素濃度計から警報音は聞こえなかったし、そういった前兆もズオ・ラウは全く感じなかった。
とりあえず、このまま立っていても埒が明かない。ナマエを休ませるための適切な場所はないかと視線を彷徨わせ、ズオ・ラウは息を呑んだ。
石の中、ぼうっと浮かび上がる人影と、目が合った。
何故か瞼が開いていて、長い月日で劣化し黄変した眼球の中央、黒く濁った汚泥を思わせる瞳孔がまっすぐにズオ・ラウを見つめている。優しさも悲しさもなく、何もかもを放棄した、ただただ無感情を思わせる眼差しだった。
――生きている? まさか、そんな馬鹿な。
ズオ・ラウは頭の中でそう唱えるが、とても冷静ではいられなかった。心臓が早鐘を打ち、変な汗が吹き出てくる。混乱に浸るあまり身動きの一つも取れない。
いつしか全身が竦むように動けなくなった。まるで見えない何かに雁字搦めにされているかのように指の一本すらも自由に動かせず、呼吸しようと思っても息ができない。肉体と精神が乖離したかのような感覚に包まれ、ズオ・ラウはうめき声を上げながら膝から崩れ落ちた。
頭を強かに打ち付けた衝撃を感じたが、痛みはなかった。視界がぐるぐるとうねる感覚がして、視点さえも覚束ない。全身が使い物にならなくなっているのを感じた。
息が苦しくなってきて、視界がちかちかと明滅し始める。呼吸を取り込むために藻掻きたくても、身体は言う事を聞いてくれない。
――ここで死ぬのか?
ふいにそんな疑問が一瞬もたげたが、そんな事があってたまるものかとズオ・ラウは自分を鼓舞する。なんとか目線だけを動かすと、意識を失って横になっているナマエが見えた。
まるで普通に寝ているような顔で、だんだん腹が立ってくる。八つ当たりに近かったが、どう考えてもこうなった原因はナマエだ。脳天気な調子で石を鉈で殴りつけるナマエを思い出し、ズオ・ラウは歯を食いしばる。
どうして意識を繋ぎ止めるのにナマエの気の抜けた顔なんかを思い出しているのか。そんな事にズオ・ラウは鬱憤を覚えつつ、視界の奥で火花が散ったのを感じた。
ふいに、ズオ・ラウは目が覚めた。
数秒ぼんやりと天井を見つめ、ゆっくり息を吸って吐いてを繰り返す。右手を持ち上げようとすると腕が動いたので、そのまま身体のあちこちを触って確かめた。どこにも異常がないのを十分確認してようやく、ズオ・ラウは上体を起こした。
周囲を見回すが誰もいない。床にはちらちらと明かりを放つランタンだけが残っている。
なぜ倒れたのか――そんな事よりも。
「……ナマエさん?」
あたりを見回し呼びかけると、空洞に声が反響した。
ナマエがいない。
ズオ・ラウが気を失う前、ナマエは確かに隣で横たわっていたはずだ。なのに、忽然と姿を消している。
「ナマエさん! どこですか!?」
大声で呼びかけるが、返事はない。
静まり返った広間を見回すうちに、漠然とした嫌な予感と、一人だけ取り残されたという不安が胸中に広がっていく。そしてズオ・ラウの背後には、あの得体の知れない石がある。そこから生じた途轍もない恐怖に急かされるようにして、ズオ・ラウはランタンを持って立ち上がった。
一度芽生えた恐怖をどうにか押し殺しながら、小走りで回廊に出る。あちこちを見回すが、やはりナマエの姿はどこにもいない。隣接する小部屋も覗いたが、案の定人の気配はなかった。
そして回廊の奥まで来て、ズオ・ラウは足を止めた。
「……扉が、開いている」
ナマエがこの奥に行きたいと言っていた例の扉。堅固とした佇まいでびくともしなかったのに、完全に開いている。
恐る恐る近づいて奥を照らす。下に降りる階段がずっと続いており、その先は冥冥たる暗闇だけが広がっている。まるで黒い霧でもかかったように濃密で、ランタンの明かりだけでは先を見通すことができなかった。
――まさか、この先に行ったのだろうか? 明かりも持たずに、たった一人で?
そんな疑問が噴出したが、ズオ・ラウは瞬時にありえないと振り払った。完璧な信頼を置いているわけではないが、ナマエは倒れた人間を放って置くような人柄とは思えなかったからだ。
暗闇を見つめていると、耳鳴りのようなものを感じる。ぐわんぐわんと頭が揺れるような感覚に見舞われ、ズオ・ラウは半歩後ずさった。
一人で先に進むにはあまりにも危険すぎると判断し、ズオ・ラウはその場を後にした。回廊をぐるりと一周した後、遺跡の入口まで戻ることにする。
石門を抜け長い階段を上り、洞窟の外に出てズオ・ラウは息を呑んだ。
頭上には満天の星空が広がっている。いつの間にか日が落ち、夜になっていた。そのくらい長い時間、意識を失っていたという事だ。
ナマエの姿はないかとくまなく周囲を見渡し、ズオ・ラウはあることに気がついた。
木々の奥、村がある方角の空が橙色に光っている。不審に思いながら一度深呼吸すると、ほのかに焦げ臭いような煙の臭いが混じっているのに気が付いた。
「……燃えている? まさか火事?」
ズオ・ラウは洞窟を振り返る。まだ遺跡内部にナマエがいるかもしれない事を鑑みてランタンを足元に置き、森の中へと駆け出した。