#10 There Will Come Soft Rains part1優しく雨ぞ降りしきる 前編

 ナマエの妹はすぐ感染者用の遺体収納袋に納められ、そのまま結晶死体鑑定に回された。検死は半刻もたたずに終わった。直接的な死因は、鉱石病による発作であった。
 その後、遺体はストレッチャーに乗せられ、すぐさま総合感染生物処理室の前へと運ばれた。ストレッチャーを押して歩く職員の後ろを、ドクターとナマエがついていく。
ナマエ
 ドクターに呼ばれ、ナマエは顔を上げた。
「これが最後だ。何かやりのこした事はないか?」
 ナマエは妹の顔を見つめ、
「……ある。少しだけいい?」
「いいよ。猶予は五分で大丈夫かい?」
「そんなにいらない。すぐ終わるから」
 ナマエがストレッチャーの真横に立つと、職員が遺体袋のファスナーを開いた。青白い顔が外気にさらされると、ナマエは妹の顔を確かめるように触れる。
 そうして身をかがめた。まずは右頬、次に左頬を順番にくっつける。最後に額同士を触れ合わせると寄り添い、特別な人への挨拶を終えるとゆっくりと身体を離した。
「……ん、もういいよ」
「わかった。ナマエ、残念だが君は処理室に入れない。ここで待っていてくれるかい?」
「うん」
 ドクターが合図をするのを皮切りに、ストレッチャーを押している職員が歩き出す。二人が処理室に入っていくその背中を、ナマエは無言で見送った。
 時間にして数分で、処理室からドクターと職員が戻って来る。ストレッチャーの上は、もぬけの殻だった。
「診断書が出るまで時間がかかる。あとで届けに行かせるよ」
「うん」
 ナマエが頷くと、
「……あの、ナマエさん」
 傍らに立っていた職員が、おずおずとナマエに話しかけた。
「何?」
「もし食べられそうならちゃんとご飯を食べて、それがだめなら水分を取って、しっかり休んでください。一晩中起きていましたし、あなたは自分で思っている以上に憔悴しているはずです。今のナマエさんに必要なのは休息です」
「そうする。……ありがとう」
 職員はナマエの返答に安堵した様子で、ほっと息をついている。
「さて、ここで解散にしようか」
「うん。二人共、本日はありがとうございました」
「い、いいえ。これが仕事ですから……」
「礼はいいよ。それより、さっき言われたことをきちんと実行すること。いいかい?」
「うん」
 ドクターはナマエが頷くのを確認し、進行方向へと顔を向ける。そのまま足を踏み出すかと思えば、ふっと小さな笑いを含んだ吐息をこぼした。フェイスガードで隔てられているせいで表情はわからないが、ドクターが身にまとう気配が弛緩した。
ナマエ、ほら、あそこ」
「……え?」
 ドクターが顎で示すので、ナマエは釣られてそちらに顔を向けた。
 廊下の向こうに黄色い服のリーベリの少女と、黒い外套を身にまとったフィディアの少年が佇んでいた。
 ドクターに気付かれて動揺したのか、少女は大げさにビクッと肩を震わせると、ぴゅっと素早い動作で少年の後ろに隠れた。隠れ蓑にされた少年は慌てた様子で振り返り、少女と言葉をかわしている。遠目に見ても騒がしいが、二人の佇まいはどこか頼りない。
 そんな少年少女の姿に呆気にとられていたナマエだったが、唐突に跳ねるように視線を逸らした。幸い、その仕草はドクターと職員に不審がられる事は無かった。
「あれは、グレインバッズさんと、ズオ・ラウさんですね」
「うーん、何か用事でもあったっけ……?」
「しっかりしてくださいよドクター……。ひとまず、行きましょうか」
 職員がストレッチャーを押して歩き始めるので、ドクターとナマエはその後ろをついていく。
「やあ二人とも、ここで何をしてるんだい?」
 まず声をかけたのはドクターだった。ストレッチャーを押す職員を先に行かせてから、二人に向かい合う。話しかけられた二人は緊張から身体を強張らせたものの、真っ先に応じたのはズオ・ラウの方だった。
「此度の思わぬ訃報に哀悼の意を表します。それで、その、……ナマエさんに少し用がありまして……」
 言葉尻を濁して言うと、
「それは駄目だ。彼女はこれから休ませる。用事なら自分が聞こう」
 ドクターの意地汚い返答に、ズオ・ラウは言葉をつまらせた。
「……た、大した用事ではないのですが……」
「構わないよ。話してごらん」
 ズオ・ラウが言い淀んでいると、その後ろで外套を掴んで隠れていたシャオマンがおそるおそる顔を覗かせ、
「あたし、尾長ちゃんが心配で様子を見に来たの!」
 ドクターを見上げながら不安そうに言い切ると、ナマエに視線を移した。シャオマンにじっと見つめられたナマエは、何も言わずに顔を伏せる。
 ドクターはそれを見てふっと笑うと、再度ズオ・ラウに向き直り、
「なるほど。グレインバッズの用事はわかった。ズオ・ラウ、君は?」
「……、右に同じです……」
 観念したようにズオ・ラウが答えると、ドクターが微笑む気配があった。
「わかった。ズオ・ラウ、次からは正直に言ってくれ。無駄な手間が省けるからね」
「はい……」
 力のない返事を皮切りに、ドクターはナマエへ顔を向けた。
「じゃあ、ナマエはさっき言われた事を守るように。自分は戻るよ」
「うん。ありがとうドクター、お仕事頑張ってね」
「君にそう言われたら張り切るしかないね」
 そう言って肩を竦めると、ドクターは来た道を戻るように廊下を進む。その背中がうんと小さくなると、シャオマンはようやくズオ・ラウの背後から出てきた。
 シャオマンは何か言いたそうにナマエを見上げるが、それでも尻込みする気持ちが強いのかまごまごとしている。それを見かねて、ナマエが口を開いた。
「……二人共、お仕事は?」
「あたしはお休みの許可もらったよ! 燭台くんは、どうせ文をしたためるか、本を読んでるか、剣を振り回してるだけだから別にいいんじゃない?」
「まるで放蕩者のように言わないでください……。今日はまとめた報告書に訂正事項がないか確認しなおすだけです」
 その返答に、シャオマンは目を瞬かせ、
「じゃあ、燭台くんはそれが終わったら何をするつもりだったの?」
「……、武の鍛錬です……」
 ほれみたことか、と言いたげなシャオマンの眼差しがズオ・ラウに刺さった。ズオ・ラウはごまかすように軽い咳払いをする。
「ところでナマエさん、さっきに言われた事とはなんですか?」
「……きちんとご飯食べて、水分取って、寝ろって言われた」
 ナマエの返事に対してズオ・ラウが何か言おうとするよりも先に、シャオマンがナマエの右手を掴んだ。
「まずはご飯だね! 尾長ちゃん、早くいこ!」
「そ、そんなに引っ張らないで……」
 シャオマンはナマエの手をグイグイ引っ張って歩き出す。その後ろを、ズオ・ラウは何も言わずについていく。

 朝食時の峠を過ぎた食堂内の人影はほとんどいない。早朝の作業を終えてようやく飯にありつけたといったような人が、間隔をあけてぽつぽつと点在しているのみだ。
 そんな、食器の音が響くだけの静かな室内に入ってきた三人組はやはり注意を引くようで、部屋に入るなり奇異の眼差しを向けられた。しかし、数秒もせずにそれぞれが視線を定位置へ戻していく。
 ナマエは厨房からトレーに乗った食事を受け取り、ズオ・ラウとシャオマンは飲み物だけを頼んだ。これからする話の内容なとを踏まえて、ズオ・ラウは人気の無いテーブルへと足を向けた。
 まずナマエを座らせると、目を合わせられないという例の事も踏まえ、ズオ・ラウは椅子一つ分を開けて座った。するとその間にシャオマンがすべりこんでくる。
 ずいぶんゆっくりと食事を口に運ぶナマエにを横目に見つつ、ズオ・ラウは内心気をもみながら、食事の妨げになってはならないとお茶を口に含む。だがシャオマンはそんなズオ・ラウの意図に反して、普段より随分と優しい声でナマエに話しかけていた。
「一昨日ね、ここで飼ってる烏雲獣が赤ちゃん産んだんだって」
「ん」
「今度みにいこ」
「ん」
「適当に返事してない?」
「んーん」
「そ。ならいいけど」
 ナマエの応答は乏しい。食事中だから当たり前だ。しかし煙たがる様子を見せず、咀嚼を優先するあまり横着に振り切った返事であっても、シャオマンは満足しているようだった。
「……ああいたいた。オペレーター・ナマエ
 と、食堂に白衣を羽織った医療部の職員が入ってきた。名前を呼ばれたナマエが顔を上げると、職員は慌ただしい足取りでこちらにやってくる。
 突然の闖入者にシャオマンは不服そうな顔をしたが、職員が小脇に抱えた封筒の数々を見て黙ったほうがいいと判断したらしく、きゅっと口をつぐむ。
「書類をお届けに参りました。……今よろしいですか?」
「うん、大丈夫」
「これが定期検診の記録です。つぎに毎日の検査記録、それから……」
 説明とともに封筒がいくつも手渡されるたびに、ナマエは頷きながら受け取っていた。
「これで全てです。何かご不明な点がございましたら、医療部の方へお願いします」
 終始事務的な態度で職員は言う。そうして最後に小さな封筒を差し出し、
「これ……この間、医療部で写真を撮ったんです。私、カメラが趣味で……」
 ナマエは目を丸くした。
「さっき急いで現像して、……その、よかったら受け取って下さい」
 ナマエは僅かな躊躇を見せて、封筒を受け取った。恐る恐る封筒を開けて中を覗き込み、一枚の写真を取り出した。しばらく写真を見つめると、大事そうに封筒にしまう。
「……ありがとう」
「いいえ、どういたしまして。それでは失礼します」
 職員はそう言ってから、シャオマンとズオ・ラウに交互に視線を向ける。それから小さく微笑んで、その場を後にした。
「その書類は、ナマエちゃんの?」
「うん。あの子、骨一つ残らなかったから、これが生きてた証明になるって色々用意してくれた」
 シャオマンもズオ・ラウも黙りこくっていると、
「みんな、すごい親切。やっぱりこういう状況だからかな」
 ナマエがそう呟いたのを耳にし、ズオ・ラウは跳ねるように顔を上げた。手にした紙コップを置いて口を開こうとした瞬間、
「こら!」
 シャオマンがぺちんとナマエの頭を叩いて、ズオ・ラウはぎょっとした。叩かれたナマエは不思議そうに目を白黒させている。
「そういうふうに考えるのはよくない。ねっ燭台くん」
 唐突に話を振られ、ズオ・ラウは少し戸惑ったが、
ナマエさんは、今ここに私とシャオマンさんがいるのも、ナマエさんを取り巻く状況によるものと思っているんですか?」
「……違うの?」
 心底不思議そうな声を聞き、ズオ・ラウは思わずため息をついた。
「違いますよ。誰しも、親切を向ける相手は選んでいるものです」
 本当はナマエの方に顔を向けて言いたかったが、目を合わせる事は憚られたので、中空を見つめながら言う。
「善因善果、あなたの日頃の行いが、巡り巡って返ってきているんですよ」
 反応はない。シャオマンが不安げな面持ちでズオ・ラウとナマエの顔を互い違いに見ている。
 しばらくして、
「そっか……」
 ナマエはそれだけ呟くと、食事を再開した。

 空になった食器を片付け、三人揃って食堂を出た途端、ナマエが口を開いた。
「ここでいいよ。二人共ありがとう」
 そう言って別れようとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
 シャオマンが慌てて引き止めると、ナマエは無表情に首を傾げた。
「尾長ちゃんって、一人部屋?」
「うん」
「じゃあ、ついていっていい?」
 恐る恐るといった様子でシャオマンが申し出ると、ナマエは不思議そうな顔で尋ねる。
「……どうして?」
 シャオマンは視線をあちこちに巡らせ、両手をぎゅっと握りしめた。どうやら紡ぐ言葉を慎重に選んでいるらしい。ナマエはシャオマンの反応をじっと待ち続けている。
 やがて、シャオマンは震える声で言った。
「こういうときね、頼れるものも、寄りかかれないものもないってすごくさみしい事だと思うし、あたしだったら誰かいてくれたほうが安心する」
 ナマエが息を呑む音が、ズオ・ラウには聞こえた。
「……ずっといるつもり?」
「そんなわけないでしょ! 尾長ちゃんが眠ったのを確認したら、きちんと部屋を出てくよ。でも、ずっといてほしかったらいるけどね!」
 打って変わって明るい調子で言うシャオマンに、ナマエは何も言わない。
 やがて、否定も肯定もせずに歩き出してしまうので、シャオマンは慌てて駆け出した。ナマエの隣に並んで、足並みを揃える。ズオ・ラウはその後ろを黙ってついていく。
 廊下を道なりに進み、右折して階段を昇ったりとしているうちに、宿舎のある区画まで来た。個室の扉が截然と並んでいるが、人の気配は感じられない。ほとんどが出払っているのだろう。
 ズオ・ラウは廊下を見回しながら、自室のある階とはどこか雰囲気が違うことに内心首を傾げる。そしてようやくここが女子寮だと気付き、ナマエの部屋に入っていいものかと悩み始めた頃には、ナマエの部屋の前に辿り着いていた。
 ナマエが自室の扉を開けようとするので、ズオ・ラウは慌てて口を開いた。
「わ、私は結構です。ここでシャオマンさんを待ちます……」
「……廊下で?」
「はい」
 ナマエはズオ・ラウを一瞥する事なく自室の扉を開くと、
「変な遠慮なんかしなくていいよ」
 そう言って、部屋の中へ入っていく。続けてシャオマンが部屋に足を踏み入れるが、玄関で扉を押さえたままズオ・ラウをじっと見上げる。何かもの言いたげなその眼差しに負け、ズオ・ラウはためらいながらも部屋に足を踏み入れた。
 ズオ・ラウが後ろ手に扉を閉めるのを合図に、シャオマンが部屋の奥へと進む。その後ろ姿を眺めながら足を踏み出すと、ふと、どこかで嗅いだような香りが仄かにするのに気付いた。
 どこだったかと思案を巡らせ、ズオ・ラウはすぐ心当たりを見つけた。ナマエの生家だ。どうやら日常的に香を焚きしめているのか、香りが壁材に染み付いてしまっているようだ。しかし、不快感は無い。
 部屋の両脇には、ベッドが二つあった。片方はシーツが整えられていて生活感があるが、もう片方はマットレスだけが置かれている状態だった。表面にはかすかに埃が堆積している。もともとは妹との相部屋だったのだろうという気配を感じた。
 シャオマンは生活の痕跡が見当たらないベッドをぼんやりと見つめてから、あらためてナマエに向き直った。
「ほら、寝る準備!」
「……シャオマンちゃんは世話焼きだね」
 そう言いながら、ナマエは抱えていた書類の封筒を近くのテーブルの上に丁寧に置いた。
「あたし、こう見えて動物の世話はすごく得意なんだから」
「私、動物じゃないんだけど……」
「細かいことは気にしないの!」
 ナマエが部屋着に着替える間、ズオ・ラウは洗面所に押し込まれた。ズオ・ラウは目を閉じ、学生時代、写経の繰り返しで覚えた念仏を頭の中で意味もなく唱えた。
 着替え終わったナマエはズオ・ラウと入れ替わるように洗面所に入り、シャオマンの小言に気だるそうに頷きながら、もしゃもしゃと歯磨きを始める。洗面所から押し出されたズオ・ラウは、不躾とは思いながらもは部屋を観察した。
 私物は乏しく、ロドスに来たばかりのズオ・ラウの部屋より風通しがよさそうだった。
 備え付けの棚にはこまごまと私物が置かれている。軟膏や香粧品などの雑貨の奥に写真立てがいくつか飾られており、どれもが家族の写真だった。姉妹三人で写っているのもあれば、あの老婦が写っているのもある。てっきり厳しい表情を常に貫いていると思っていたのだが、姉妹に囲まれる老婦の表情はひどく穏やかで、ズオ・ラウは少し驚いた。
 窓際のテーブルには大きなデスクライトが取り付けられている。濃緑色の木板が敷かれ、方眼マットやルーペ、やすりが乱雑に置かれていた。ナマエがここで何か作業を行っているのは明白だが、それが何なのかズオ・ラウには皆目見当がつかなかった。
 そうして色々なところを見聞したうえで、ひときわ目を引いたのが、サイドテーブルの上に置かれた三段重ねの木箱だった。飾り掘りが施されており、細やかな彫刻は手彫りである事はすぐにわかった。少なくとも、安価で手に入るような代物には見えない。
 遠目にしげしげと観察していると、
「気になるなら開けていいよ」
 ちょうど歯磨きを終えて戻ってきたナマエが言う。
 ズオ・ラウは一瞬戸惑い、
「……いいんですか?」
「いいよ。別に見られて困るようなものは入ってない」
 ナマエはそう言って、テーブルの上の書類を整え始めた。
 ズオ・ラウは数秒迷った末、サイドテーブルに近づくと、箱の上蓋を開けた。
 中には暗紅色の生地が敷き詰められており、いくつかの区切りを設けた枠がはめこまれていた。その区切りごとに、つるんと磨かれた石から四方八方に尖る濁った石など、多種多様で大小さまざまな鉱石が、系統別につめこまれている。
 蓋を戻してから中段を覗く。綺麗に磨かれ形が整えられた天然石が、やはり系統別に詰め込まれていたが、上段のものよりは高価そうに見えた。そして下段には案の定、燦然と輝く宝石が丁寧に並べられている。
「わっ、きれい!」
 いつの間にやらシャオマンが隣に並び、一緒に覗き込む形になっていた。
 ズオ・ラウはこと鉱石の目利きに関してはまったくの無知なので、これがどれだけの価値があるのか皆目見当がつかなかったが、ナマエのささやかな趣味を垣間見れたような気がした。ともすれば机の上にある道具類は、鉱石に関するものだろう。
ナマエさんは、宝石が好きなんですか?」
 ズオ・ラウはそう尋ねながら、恐る恐るといった手つきで箱を元の状態に戻す。
「……特に。私が住んでる地域の通貨って石だし、生活するにあたって集めておくに越したことはないから集めてるだけ」
「その割には、とても綺麗に並べていますよね」
「ねえねえ、気に入ったのは一番下に入れてるの?」
「……」
 ナマエは何も言わないが、図星を突かれたような顔になっていた。
 そんなナマエをシャオマンはじっと見つめ、小さく「あっ」と声を上げて何か思い出したような顔になり、
「尾長ちゃん、田黄って知ってる?」
「……でんおう? なにそれ?」
 ナマエははたと手を止め、胡乱な眼差しをシャオマンに向ける。暗に説明しろと視線で訴えているが、シャオマンに伝わっていない。それを察したズオ・ラウは小さな咳払いを一つ挟んで、
「炎国の田園地帯のみで採取できる、黄色の天然石です。はるか昔には印材としてと重宝されたとありますが、その時代ですら産出も雀の涙にすら届かない伝説上の代物です。炎国の市場には人工の模造品が多く出回っていますが、それすらも希少価値が高くなっている始末ですよ」
「へえ……」
 ナマエが興味を惹かれたような相槌を打つと、
「あたしが住んでる大荒城でも一個だけ取れたって記録がある、すっごくきれいな石なんだよ! ……って言っても、実物は見たことないけど……偉い人がわざわざこの石を選んで、判子にして持ってるって」
「偉い人ってどのくらい?」
「すっごい偉いよ!」
 ナマエは再度、胡乱な目つきになった。
「私の記憶にある限りでは、歴代の皇帝が所持していたようです。炎国の都である百灶の博物館に飾られていますよ」
「……そんな貴重な石、もう絶対採り尽くされてるよ」
「探したら見つかるかもしれないじゃない!」
「シャオマンちゃん、諦めが肝心って言葉は知ってる?」
「知らない!」
 元気のいい返事に絶句して固まるナマエを気にする様子無く、
「だから尾長ちゃん、今度大荒城に遊びに来てよ。一緒に探そ!」
 シャオマンはいつもの明るい調子で言い切った。
 ナマエはしばらくの間、無言でシャオマンを見つめていたが、
「……うん」
 やがて脱力し、それでも微笑んで頷いた。
 恐らくナマエはズオ・ラウの説明を聞き、もう採れない石であることは察しているのだろう。しかしシャオマンの持ち前の明るさと勢いに負けたようだった。実際ズオ・ラウもシャオマンの無邪気さはあまりにも眩しすぎて、『近代においては採取されたためしはない』という事実は説明から省いてしまった。
 ナマエが書類の整理を終えると、シャオマンはナマエをベッドの中へとぐいぐい押し込んだ。ナマエは終始戸惑っていたが、それでも反抗を見せず大人しく従い、布団をかぶってちんまりと収まった。
「子守唄歌ってあげよっか?」
「いらない」
「じゃあ笛は? ぐっすり眠れるよ!」
「いらない」
 ナマエの反応はにべもない。にもかかわらず、シャオマンは満足したようだった。
「そういえば、尾長ちゃんに聞きたいことがあったんだけどいい?」
「なに?」
「その、妹ちゃんにほっぺたくっつけてたよね。あれって何してたの?」
 気遣うような声だったが、無邪気さが見え隠れするその質問に、ズオ・ラウはぎょっとした。しかしナマエの表情はただただ穏やかで、ズオ・ラウの心配はただの杞憂だった。
「あれはね、私が住んでた地域に伝わるただの挨拶だよ。大事な人だけにする挨拶」
「……ほっぺた同士をくっつけるのが?」
「そう。左頬、右頬、最後におでこ」
「最初に右のほっぺたじゃだめなの?」
「だめ。順番にはちゃんと意味があるんだから」
「意味? どんな?」
 シャオマンが不思議そうに尋ねると、ナマエは布団の中から手を伸ばした。ナマエの手が左頬に触れた瞬間、シャオマンはビクッと身をすくめる。
「東から上った太陽が、西の彼方に沈み……」
 優しく言い聞かせるようにシャオマンの左頬をつつき、次に右頬をつつく。そのたびにシャオマンの緊張がゆるゆるとほどけていった。
 そしてナマエは最後におでこに触れ、
「月が昇って沈むのを何度繰り返しても、あなたの事をずっと思っています」
 硬直するシャオマンをよそに、ナマエは手を布団の中に戻し、
「こういう意味」
 そう言ってから、寝返りを打って背を向けた。
「二人ともおやすみなさい。扉の鍵はそのままでいいから。……今日はありがとう」
 あっ、とシャオマンが引き止めるような声をあげるが、すぐにナマエの寝息が聞こえてきた。寝付きが早いのは相変わらずのようだった。
 ズオ・ラウはシャオマンと顔を見合わせ、物音を立てないよう気遣いなら部屋を後にした。

「はー」
 廊下に出た途端、シャオマンは大きなため息を吐いて、自分の両頬を両手で包み込んだ。
「あたしとした事が、尾長ちゃん相手にちょっとどきどきしちゃった」
 そのままぎゅっと目を瞑って、ぐにぐにと頬を揉み込んでいる。
「よかったですね」
「よくないよ。……なんか燭台くん、ふてくされてない?」
「……、シャオマンさんの気の所為では?」
 ズオ・ラウは穏やかに言うが、実のところは平静を装っていた。はっきり言うと面白くなかったが、それは不甲斐ない自分に対してだ。
 あの挨拶はなんなのだろう、と頭の片隅では気になっていたのだが、ズオ・ラウは聞かなかった。だというのにシャオマンはあっさりと聞いて、ナマエから答えを得たのである。方や外堀を攻めている傍らで、本陣に叩き込まれたような情けなさが募る。
 かといってシャオマンにあたるのはもっての外だ。何の意に介さないよう振る舞っていたが、表情に出ていたのを見抜かれていたようだ。それもまたズオ・ラウが未熟である証明ほかならない。
 なんともいえない気持ちのまま、ズオ・ラウはシャオマンとともに療養庭園の方へと足を向けた。このまま自室に戻って休んだところで実りはないし、ホーシェンが今日はそちらで軽作業の手伝いをするとあらかじめ聞いていたので、二人で手伝おうという事になった。
 温室につくと、ホーシェンは一仕事を終えて椅子に座って休んでいる最中だった。ホーシェンが運んだと思しき腐葉土の袋が積み重なった傍で、シュウがじょうろで水をあげながら花を愛でている。
ナマエさんの様子は?」
 ホーシェンにそう尋ねられ、シャオマンはわずかに表情を暗くした。
「やっぱり元気なくて、疲れてたみたい。ご飯食べて寝ちゃった」
「……ズオさん、シャオマンが疲れさせたわけではないんですよね?」
「なんて事言うの!」
 打って変わってシャオマンは怒りをあらわにし、ホーシェンに向かってぺしぺしとささやかな攻撃を加えるが、対するホーシェンは軽く受け流している。
「ホーシェンさんが不安がるような事は何一つありませんでしたよ」
「ならいいんですが……」
 と、話の最中、水やりをしていたシュウがゆっくりと近寄ってきた。それを合図に、二人のささやかな攻防戦が止まる。
「その亡くなった妹さんって、治療はしていたのよね?」
「ええ。ですが合併症もあり、薬石効なく……」
 ズオ・ラウの返答を聞いたシュウは、僅かに目を伏せる
「そう。生きとし生けるもの、盛者必衰からは逃れられない。こればかりは仕方のないことだわ。それがたまたま若い時に訪れてしまっただけ……」
「……そうですね……」
 ズオ・ラウの煮えきらない返事に、シュウは苦笑を浮かべ、
「そんなに暗い顔をしないの。死を悼みこそすれ、諒闇に身を投じるのは当事者だけで充分。私達で暗くなってもしょうがないでしょう?」
 そう言って微笑むと、ホーシェンとシャオマンの背中を軽く叩いた。
 皆が落ち込まないよう明るく振る舞っているのが伝わってくる。その態度をズオ・ラウは好ましく思う反面、この状況を冷静に分析していた。
 シュウは人の世に馴染み、また人々と触れ合う機会が多かったせいか、代理人の中ではとりわけ人の話がわかるほうなので、死に直面して悲しむ他者への気の回し方はとにかく人間に寄り添っている――と、司祭台への報告書に記述するか一瞬考え、ため息をついた。
 こんな時ですら歳獣の代理人の行動を逐一観察し業務へつなげてしまうのは、あまりよくない事だという自覚はある。しかし、これこそが持燭人本来の仕事だ。この二律背反が、ままならない気持ちに拍車をかけた。

 陽が沈む頃になると、シャオマンは「尾長ちゃん、起きたかもしれないから見てくる」とたった一人でナマエの様子を見に行った。そうしてかなりの時間をかけて戻ってきたシャオマンは何故かドクターとアーミヤを連れ添っており、しかも落胆した様子だった。
「どうしたの?」
 シュウが話を聞くと、シャオマンが焦りを滲ませながら喋りだす。
 ナマエの部屋のドアを何度ノックしても反応がなく、扉には鍵がかかっていた事からシャオマンはナマエが部屋から出たと判断した。ナマエが今どこにいるのかドクターに訪ねに行くと、てっきり自室で休んでいるとばかり思っていたドクターは驚きをあらわにし、秘書をつとめていたアーミヤも話を聞いて不安がった。三人一緒になって心当たりを探したが、行方は掴めなかった。
ナマエさん、医療部でよく小さい子の遊び相手をしてくれてたんです。でも、かくれんぼで鬼になった子が見つからなくて泣き出すくらい、隠れるのが上手いんですよ」
 アーミヤが苦笑交じりに言う。それを聞いてズオ・ラウはふと、幻覚の中で見た小さなナマエを思い返した。人の気配にはかなり敏感だったように思えたし、今はそれに磨きがかかっているのだろう。
「場合によっては頼りになるんだけれどね」
 ドクターはそう言うと、やれやれとため息をつき、
「まあ、どこかにいるだろう。探しておくから、皆はもう休んで」
 そう言葉を残して、ドクターはアーミヤを連れ立って去ってしまった。
 その日は珍しくシュウが夕食を振る舞う事を提案し、三人は喜んで相伴に預かった。明るく振る舞い、そしてこまごまと気を配るシュウのおかげか、食事の席を包む空気は明るく居心地が良かった。何より故郷の味は、ズオ・ラウにとってはひどく懐かしかった。ロドスで日頃提供される食事は栄養面ではしっかりとしたものだが素っ気ない味なので、こういう手の込んだ料理には負けてしまう。
 結局、ドクターとアーミヤの二人がナマエを見つけたのかは知れぬまま、その場で解散となった。

 ズオ・ラウは自室に戻り、シャワーを浴びて眠りについた。目が覚めるとすぐに支度をすませ、朝の鍛錬に参加した。食堂でナマエがいないか視線を巡らせたが見当たらず、ズオ・ラウはいつもどおりの日常業務に身を投じた。
 その日はドクターの書類作業の手伝いに追われた。
 一段落がついた頃を見計らい、
「そういえばドクター、あれからナマエさんは見つかったんですか?」
 と尋ねると、ドクターはすぐに頷いた。
「うん、他のオペレーターと訓練していたみたいだ。その後は食事を摂って自室に戻ったと、当人から聞いたよ」
「そうですか……」
「ズオ・ラウ、君がそこまで心配する事ではないよ。同い年なんだからわかるだろう?」
「……はい」
 諭すように言われてしまうと、ズオ・ラウは返事をするほかない。内心では納得がいかないまま、うわべで応じた。
 ドクターの言わんとする事は理解している。ズオ・ラウが不安に思うほどナマエは脆いわけでもないし、肩入れはもちろん過剰な世話を焼かなくてもいい。機嫌の良し悪しくらい自分で取れるのだから、君は君がやるべき事をしなさい、と――。
 ただし、それは目上の立場であるドクターの意見であり、唯一無二の経験を共有した同年代のズオ・ラウからすると、全てを受け入れて肯定するには不十分だった。
 その後の業務はずっと座りっぱなしだったため、退勤時間になると足腰が変な感じがした。
 食堂で夕食を摂り、自室に戻る。寝るにはまだ早すぎるので、久しぶりに湯船に浸かりたいと思った。大浴場に行く準備を整え始めたところで、机の上に返却期限が今日までの本があるの事に気づき、慌てて図書室に足を運んだ。
 返却を済ませ一息ついてから、ズオ・ラウはいまだ重たい感覚が付きまとう両足を見下ろした。そして、散歩でもして遠回りをしてから帰ろうと、いつもとは違う方向を選んだ。
 道中、すれ違う人は多種多様だ。仕事を終えてのんびり歩く人もいれば、複数人連れ立って親しげに会話を交えている集団。そして夜勤に遅刻しそうなのか慌ただしく走る人もいるし、緊張した面持ちの白衣を羽織った人などが急ぎ足で通り過ぎていく。
 その中に、ズオ・ラウがずっと気にかけている人物はいない。
 散歩だなんてのは、聞こえの良い言い訳に過ぎない。心のどこかではずっと気がかりで、だからこそ遠目でもいいから元気にしている姿を見たかった。
 そうして足を進めた先、訓練室などがある区画への十字路に差し掛かると、ズオ・ラウは立ち止まった。廊下のずっと先にある訓練室の一つの電気がつけっぱなしになっている。もしかすると消し忘れかもしれないと思って、ズオ・ラウはそちらに足を進めた。
 件の訓練室は扉が半分空いたままになっていて、近づくにつれ人の気配を感じた。電気の消し忘れは不要な心配だったが、夕食の時間になっても訓練室を利用しているとはよっぽど熱心に違いない。どれほど武に精通しているのか気になって、通りすがるついでにごく自然な動作を装って、部屋を覗き込んだ。
 果たして訓練室の奥には、ナマエがいた。
 ズオ・ラウは息を呑み、立ち止まる。
 ナマエはたった一人で、何も無い中空に向かって剣を振るっていた。
 その瞳には強い感情が浮かんでおり、ひどく集中している様子だった。頭の中で思い描いた状況に対して剣を振るっているように見えるが、感情に身を任せてがむしゃらに剣を振るっているように見えなくもない。
 ナマエが手にしている得物は、初めて目にするものだった。
 湾曲した刃は独特な形をしている。あの剣の名称にズオ・ラウは心当たりがあるが、シャムシールとショーテルのどちらに当たるのかまでは詳しくはなかった。以前サルゴンに行った時、邪魔だから武器を持って来なかったと悔しそうに語っていたが、なるほど確かに長さもそれなりにあるので持ち歩くには邪魔そうだと納得した。
 ナマエはひとしきり剣を振るうと剣を下向きに構え、呼吸を整え始めた。こぼれ落ちる汗を腕で拭うと、ふと何かに気付いたかのようにハッと目を見開き、素早い動作で扉の方へと顔を向ける。
 目が合った。
 その視線は矢となって、ズオ・ラウを射抜いて離さない。
 数秒の後、ナマエが構えを解いた。しかしナマエは顔をそらすような事はせず、まっすぐにズオ・ラウを見据えている。
 もう大丈夫なのかという安堵がもたげたのは一瞬のことで、どうにも違うようだとズオ・ラウは察した。表情を固く強張らせ、見咎めるように目を細める仕草から、強烈な違和感がまとわりついてくる。足裏が床に縫い付けられたかのように動けなくなった。
 どうしてそんな目で見るのか。理由はわからないし、わかりたくもない。ただ確かなことは、こうして身動きが取れなくなるほどの敵意を向けられている事だ。
 ナマエの姿を認めた時、すぐに立ち去るべきだったとズオ・ラウは後悔した。
 そもそも気まぐれに寄り道しなければ、訓練室の扉が空いている事に気づかなければ、と様々な後悔が頭の中を埋め尽くすが、遅かった。
「ズオ・ラウ!」
 ナマエは大仰にズオ・ラウの名前を呼ぶと、おもむろに剣先を突きつけ、
「一手所望する!」
 今までにないくらい大真面目な顔で、冷たい声で言った。
 反応も出来ずに立ち竦むズオ・ラウから、ナマエは目をそらさない。冗談ではなく、本気で言っているのが、強い眼差しから伝わってくる。
 この申し出は、ズオ・ラウにとってはまったく気の進まないものだった。もっとも、ズオ・ラウは鍛錬の一環としての手合わせは好むほうだ。初対面だろうと、ロドスのオペレーターにはとりあえず申し込んでみるほどである。これが平時であれば、先に卑怯な手口で床に転がされたこともあったし、そのリベンジもかねて快く受けていただろう。
 しかし、今の状況はとにかく複雑だ。
 何か行動を一つでも間違えたら危うい状況につながるのは明白だ。だが、ここで『嫌です』と答えて背を向けたら、それこそどうなるかわからない。
 この状況、ズオ・ラウにとって忌避しがたいものがある。
 ズオ・ラウは悩みに悩み抜いた末、逃げられないと察した。
 深呼吸を一度挟んでから、ひどく重たい足を踏み出す。足元を確かめるように、一歩、また一歩と足を進める。そのたびに頭の中で引き返せと警鐘が鳴り響いたが、にもかかわらず、ズオ・ラウは引力に引き寄せられるようにして、ナマエの前まで辿り着いてしまった。
 ナマエは動かない。以前のように模造刀を持ってくるような事はしない。ズオ・ラウをじっと見据えながら、相手が剣を抜くのを待っている。その意図を理解した途端、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 ここまで来てなおズオ・ラウは納得がいかず、眉をひそめて言う。
「……真剣で? 正気ですか?」
「うん。こういう時は、手袋も投げたほうがいいんだっけ」
 さっきの宣言とは打って変わって呑気に言うと、剣の柄を脇にはさんで持ち直すと、乱暴に革手袋を脱いだ。それを一緒くたにまとめると、ズオ・ラウに向かって放り投げた。
 放物線を描いて飛んできた手袋を、ズオ・ラウは掴んだ。柔らかな手触りから察するに本革だ――などと分析しながら、すぐさま投げ返した。
「いりませんよ、こんなもの」
「受け取ったら了承だよ」
 ナマエは投げ返された手袋を難なく受け取ると、両手にはめ直す。
「この場においては無効です。惑乱に溺れてまで、何をしたいんですか?」
「確かめたいことがある」
「……確かめたいこと?」
 ズオ・ラウが怪訝から眉をひそめて復唱すると、ナマエは頷いた。
「あなたとあいつが違うか、それだけ確かめたい」
「違います、絶対に」
「理性ではわかってる。でも、もう一人の自分がそれを受け入れてくれない。そんな感じ」
 淡々と喋るナマエの瞳にはきちんと理性が宿っている。表情に病的なものはみられない。目に見えて正気を保っているので、なおさら質が悪いとズオ・ラウは思った。
 ナマエに理解力が備わっているのは、ズオ・ラウだってよく知っている。
 言語に不慣れだからと甘えずに読書を重ねているし、物事の飲み込みはよいほうだ。人柄にしても、あのシャオマンが真っ先に懐き、ホーシェンもシュウも好意的にナマエを見ており、それはズオ・ラウも例外ではない。そして、妹に対して向ける優しさは純粋なものだった。狡い一面もあるが、他人を思いやる心は備わっている。
 真剣で手合わせするという意味もわかっているはずだ。怪我の危険性はつきまとうし、最悪命を落とすケースも少なくない。それでも申し出てくる意味を考えると、到底推し量れないものがある。
 こうなった原因はなんなのか――考えた所で、今更だと割り切った。
「……どうしても必要なんですか?」
「うん。どうしても」
 はっきりと言い切ったかと思えば、僅かに目を伏せ、
「うまく説明できないけど、ずっと泥沼にはまってるような気がする」
 いつものナマエの態度で、そしていつもの口調で、漠然とした不安を口にした。
「抜け出したい。ズオくんに、手伝って欲しい」
 穏やかな口調でありながら、おまけに観念的な要望だったが、切迫感は伝わってきた。
 手伝って欲しいと言われるとほとんど断れないズオ・ラウの性格を見越しての物言いもそうだが、何よりもこういう状況だけ素直に頼ってくるのがとにかく狡いと、ズオ・ラウは思った。
 ズオ・ラウは顔をしかめ、即答もできずに無言のまま静観し続けた。胸中で行き来する複雑な感情の処理もままならず、ただただナマエと見つめ合う。対するナマエの表情はどこか緊張をはらんでいて、ズオ・ラウの返答を待っている。
 これが、断る最後のチャンスだ。だが、断ったらどうなるかがわからない。先の予想がつかないのが怖かったが、受け入れても怖かった。そんな危険な一線の真上で、ズオ・ラウは板挟みになっていた。一つだけ確かなのは、どちらを選んでも怖いことに違いはない。
 ズオ・ラウはやがて、観念したようにため息をついた。
「……わかりました。いいでしょう」
 ナマエがほっと安堵の息をつくのを合図に、ズオ・ラウは腰の鞄を外した。それを近くの壁際に立てかけるようにして置き、ズオ・ラウは身軽になった。金縛りのような緊張もほぐれ、自由になった足を踏み出してナマエの方へ向かう。数メートルの距離を置いて正面に対峙すると、ズオ・ラウは右手で剣の柄を掴み、鞘からゆっくりと剣を引き抜いた。
 思えば初めて手合わせしたとき、ズオ・ラウも手を抜いたがナマエもどこか手を抜いていた。互いに対等と思わず、相手を下に見ていた。
「炎国司歳台、持燭人ズオ・ラウ。……お相手仕る」
 凛乎とした態度で応じると、ナマエがかすかに微笑んだ。唇だけで「ありがとう」と形作ったかと思えば、次の瞬間には真剣な表情になる。
 ズオ・ラウが無構えの姿勢を取る一方で、ナマエもまた無構えに近い姿勢を取った。足を肩幅より狭く開き、左足をやや前にせり出したものの、右手に携えた剣の切っ先を下に向けている。
 見知った相手に真剣を向けるという実感から、息が詰まって仕方がない。ズオ・ラウは一度深く呼吸をしたが、それでもうまく治らなかった。
 ズオ・ラウが『宗師』と慕う歳獣の代理人と対峙する時、相手が拳を眼前に持ち上げ、始の体制を取ってからの一挙一動の連続に反応する時も呼吸がおろそかになる。だが、それとは似て非なるものだ。
 ナマエの事は知っている。どういった経験を経てこうなったのかも掌握している。でも知ったつもりで、実態は何も知らない。相手の底力は計り知れないし、自分より弱いのか強いのかさえ、ズオ・ラウには知る由もない。
 だが、勝てる自信は大いにある。ズオ・ラウの軽功は誰よりも早いという自負がある。この技術と腕を認められたからこそ、今こうしてこの場にいるのだ。
 怪我をしたら、怪我をさせたらどうなるのか――そんな不安はかなぐり捨てた。
 こうなったらもう、なるようにしかならない。
 睨み合う。腹の底は冷たいのに、目頭の奥がピリピリと熱くてたまらない。ズオ・ラウが生唾を飲むと、ナマエが軸足をほんの数ミリだけ動かした。
 瞬間、ズオ・ラウは地を蹴って飛び出した。
 飛び込みはズオ・ラウの方が早かった。そして、ナマエの反応はズオ・ラウよりも一段遅い。驚愕から目を見開くナマエの顔が視界に映ったが、油断するほうが悪いと割り切った。
 歯を食いしばり、右手に構えた剣をナマエの肩めがけて振り払うように薙ぐ。その間際、ナマエの身体が下へと落ちた。ズオ・ラウの一撃は風切り音を発生させながら、虚しくも空振った。
 ナマエはしゃがんで低い姿勢のまま上目でズオ・ラウを睨み、立ち上がるという動作をバネのような力に転換して剣を振るう。狙いは首だ。
 対するズオ・ラウは動揺を見せず、顔の横に剣を構えて一撃を受け止めた。固い手応えを感じ、押し返すように弾き飛ばす。
 火花が散ると同時にナマエが後方に飛び退ったが、床を蹴り返し、低姿勢のままズオ・ラウへと飛び込んでくる。足元を狙った薙ぎ払いをズオ・ラウは垂直に飛んで避け、空中で剣を構え直し、ナマエに向かって振り下ろした。ナマエは床を転がって回避行動を取り、立ち上がりざまズオ・ラウに向かって剣を振るった。
 剣と剣がぶつかりあい、競り合いからギリギリと金属同士がこすれる嫌な音がする。
 このバインド状態は鍔迫り合いと違って、競り負けたほうが急所をさらすことになってしまう。絶対に負けるわけにはいかないとズオ・ラウは力を込め、ナマエを押し戻した。
 ナマエの体が傾き、たじろいだ。その一瞬の隙はとても大きい。ズオ・ラウはためらうことなく、ナマエの右首めがけて容赦ない突きを放つ。どうせ避ける、という根拠のない信頼を託したその一撃を、ナマエは瞬時に首を左に傾ける事で頭の横へと受け流した。
 視界の隅、ナマエの曲刀の先が地面をなぞって火花を立てるのが視界に映る。二撃目が来るのを直感し、ズオ・ラウは反射的に膝を折る。頭上近くを、剣閃が唸りをあげてかすめていった。ひやりとしたものが背筋を伝う。
 そのまま後方に飛び退ろうとしたとき、ズオ・ラウの右足首にしゅるりと何かが巻き付いた。足が思うように動かせない。視線だけ動かして確認すると、ナマエの長い尾がからみついていた。ズオ・ラウの全身に緊張が走る。
 ――引っ張られる。
 ズオ・ラウは柄の剣穂を人差し指で手繰り寄せ、指の間に挟むと、柄から手を放した。重力を利用して剣をくるりと反転させて下向きに持ち替えると、下方向に向かって鋭い突きを放つ。シュッと尾が引いていくのを尻目に、両者ともども同時に飛び退って距離を置いた。
 床に点々と残る血痕を目にした瞬間、ズオ・ラウは胸のあたりが沸騰したのではないかと思うほど、熱いものがこみあげてくるのを感じた。集中の糸が切れそうになるのをなんとか持ちこたえながら、一つ大きく息をする。
 酸素を取り込んでようやく、呼吸も忘れるほど集中していたのと、息をしなくても平気なくらいの時間しか経っていないという二つの事に気付かされた。
 対するナマエは肩で息をしつつ、眉間に皺を寄せ、出血が止まらない尻尾の先端を気にしていた様子だが、すぐにズオ・ラウに向き直った。怪我の痛みから余計に顔つきが厳しくなっているように見えたが、ズオ・ラウは余計なことは考えるなと自分を叱責し、ナマエの尻尾の対処方法を念頭に置いた。
 ズオ・ラウは自分の尾をああいう風に扱ったことがないので、目から鱗だった。ともするとかなり厄介に違いないだろう。しかもサルゴンの剣術には親しみがないので、常識の一切が通用しない喧嘩殺法じみたものを感じ取った。
 ズオ・ラウの剣術、もとい司歳台の剣術の基本形は、どんな相手からでも絶対の防御を誇るいわゆる介者剣術に近いものだが、一方のナマエはそれと相反する素肌剣術に類似したものに見える。攻撃を最大の防御とし、余計な防御姿勢を必要としない、ただ攻め一点のみに集中した形である。おまけにあの尾技も入ってくるのが困りものだ。
 互いに攻撃を外したのは喜ばしいことだが、ズオ・ラウのほうがいささか不利にある。
 柳葉刀はリーチが長いぶん、先手の優位性に富んでいる。だが、長さもそうだが剣身が幅広いおかげで重さがあり、小回りがきかないというのが最大のデメリットでもあった。そのデメリットを軽功を用いた速度で埋め、機先を制するのがズオ・ラウの用いる剣術の基本形だ。
 一方、ナマエの方は剣も刀身は長いが湾曲した剣は手斧のような形状をしているため、ズオ・ラウの剣よりも小回りがきくのが見て取れる。
 ズオ・ラウはさっきの初撃を思い返した。ナマエの取り回しのよさで懐に飛び込まれる事を考えると、守りに徹したほうが勝ち筋が見える。
 しかしナマエも馬鹿ではない。なにせ実戦経験はズオ・ラウの倍以上もあるのだ。初撃でズオ・ラウの得手不得手を把握したうえで、ズオ・ラウが飛び込んでくるのを待っている。
 であれば、ナマエのように邪道を用いるのも手の一つだ。幸い、腰に鉤縄は装備したままだ。だがズオ・ラウの信念が、正々堂々と剣のみで勝負すべきだと訴え続けている。でも、真っ当にぶつかって勝てる見込みは半々だ。
 しかし、この状況下で断言できる事が一つある。
 力はズオ・ラウのが上だ。押し合いにも勝てる。
 ならば――次で決めるしかない。
 剣を構えて飛び込むタイミングを見計らっていると、しびれを切らしたナマエが疾駆のままに飛び込んできた。ズオ・ラウは驚く暇もなくナマエの剣を受け止める。
 受け流してもなお振り下ろされる剣を受け止め、弾き、突き込み、躱し、横になぐ。互いに攻防を交わしていくうちに、ズオ・ラウはだんだんと無心になっていくのを感じた。
 もはや視力よりも感覚で動いている状態だった。反撃するに身を任せながら、ぼんやりとした頭の中で、このまま自分が負けたらナマエはどうなるのだろうと漠然とした疑問を覚え、ハッとして柄を握る手に力を込めた。
 振り下ろされる剣を見て、一瞬、身を捩って躱すか迷ったが、ズオ・ラウは剣で受け止めた。固い感覚が柄に伝わり、力のぶつかりあいで腕が小刻みに震える。
 数秒の競り合い。刃同士がこすれ合い、嫌な音を立てる。
 それでもズオ・ラウは歯を食いしばり、火事場の馬鹿力もかくやと言わんばかりに、ナマエの剣を力任せに弾き飛ばした。
「あっ」
 呆気にとられたような小さな声が上がった。
 ナマエの剣は弧を描いて空中を旋回し、大きな音を立てて床に転がり落ちた。耳苦しい金属音が室内に反響し、やがて収まっていく。
 ズオ・ラウは構えをほどき、剣をおろした。
「勝負ありです」
 真正面から、ナマエに向かってそう宣言する。
 つかの間、ナマエはズオ・ラウを睨みつけると、何故か地を蹴って突進してきた。