#01 : 3RD DAY 06:00~

(火曜の少女)

 沈黙した澱があたりに立ち込めていた。自分以外の気配が全く感じられず、は無意識に唾を飲み込む。薄暗い明かりを放つ蛍光灯はもう切れる寸前らしく、チカチカと瞬いていて、それがの怖気を煽った。司令室の中央、壁に埋め込まれるようにして鎮座する巨大な時計が見える窓を探すも、薄暗い通路にそれらしいものはひとつも無い。
 きっかけは寝起きにトイレに行った事だった。ここジプスの拠点に訪れた初日、真琴に施設案内をしてもらったとおりの道筋でトイレに足を運び、用を足した安堵と不安でうまく寝付けなかった事が重なってか、割り当てられた自室に戻る道順を途中で間違えたらしく、見た事の無い通路に出てしまった。それでもすぐに戻れるだろうと、は己の勘を頼りに道なりに進んだ。道中、少し怪しいと不安が過ぎった時に引き返せばよかったと、はは今更ながらに後悔する。うねるような通路を道なりに進み、適当に右折と左折をした結果がこうだ。真琴に案内されたときの記憶を探っても、ここに来た覚えは微塵も無い。
 つまり、戻り方がわからないのである。
 参ったな、とは焦りを顔に滲ませた。ジプスの司令室や居住区と違い、ここは窓がなく明かりが差し込まない。ただ青白い光が置くにぽつりぽつりと点在しているのみで、奥へと続く道がどうなっているのかわからない。先の見えない不安と恐怖。こんな時、冗談を言い合って不安を紛らわせられる幼馴染は今、名古屋にいる。気の置けない幼馴染がいないこの施設で、一人ぼっちで迷子、という状況に、言いようの無い心細さが襲い掛かってきた。
 ここで立ち止まっても仕方ないので、は足を進めた。とはいえ、先へ進んでいるのか、それとも来た道を引き返しているのか判別がつかない。それでも、あの暖かな色をもつ照明が差し込むフロアに出れる事だけを考え、ただ足を前に出した。
 しばらく歩くと、壁際に明かりが見えた。小走りで駆け寄ってみると、重厚そうな扉があった。しかし取っ手のようなものはなく、右側にカードキーを差し込む端末が備え付けてあるのみだ。扉を叩いてみるも、うんともすんとも反応しない。どうやら横の端末によって扉の開閉が出来る仕組みのようで、カードキーを持っているジプス局員しか出入りできない部屋のようだった。ともすればここは、民間人が足を踏み入れてはいけない場所、という事にもなる。バレたら叱られかねないと顔をゆがませつつ、は再度足を進めた。
 歩けば歩くほど、さっきと似たような扉が左右に点在しているのに気づいた。薄暗い中、よくよく目を凝らしてみれば、扉上部に掲げられたプレートには『倉庫』との記述がある。どうやら文字通りここは倉庫なのだろう。武器や食料などが備蓄されているのかもしれないが、に確かめる術はなかった。
 ふと、薄暗い通路に一筋の明かりが差し込んでいるのに気がついた。オレンジ色の、暖かそうな明かりが目にまぶしい。は小走りで、迷う事無くその光に向かっていく。
 扉だった。倉庫の扉とは違い、ちゃんと取っ手がついている。わずかに開いた隙間から明るい光が漏れ出ていて、それが通路に薄暗い通路に反射し、この一帯だけが異様に明るい。は扉に手をかけ、やや逡巡したのち、恐る恐るといった仕草で扉を押し開けた。
 部屋に踏み込み、その明るさに思わず目を細める。明かりに目が慣れてきたところであたりを見回す。入り口に面した短い廊下に、白い扉がひとつある。開けようかと一瞬考えが過ぎったものの、それは人としてどうかとためらい、止めた。よくよく見れば扉のつくりは安っぽくて、粗末だ。大方、その扉の向こうは洗面所かトイレだろう。
 息を潜め、あたりに気を配ると、部屋の奥から人の気配がわずかに感じられた。ここに、誰かいるのだろうか? もし人がいるのであれば、部屋に勝手に入るのは失礼極まりないだろう。しかし、司令室へ戻る道を聞いても罰は当たらないはずだ。
 がどうやって声をかけようか悩み始めたとき、部屋の奥で咳き込む音が聞こえた。はびくりと大きく肩を震わせ、反射的に体の動きを停止した。耳を凝らして物音をかき集めるが、が期待するような目ぼしい生活音は聞こえない。しばらくそのままの体制で逡巡したのち、は意を決してそろりそろりと足を踏み出した。顔を出して部屋の奥を覗き込む。
 簡素なパイプベッド。壁に申し訳程度に設置されている棚。が寝泊りしている居住区の一室と比べると、造りはそんなに変わらないように思えるが、やや広いように感じる。そんな部屋の中央に折りたたみ式のガラステーブルが設置されており、その上にノートパソコンが置いてあった。傍らには、と歳の変わらなさそうな一人の少女が座っていた。
 色素の薄い肌に艶のある黒髪がいっそう際立っており、少女の目元からどことなく冷たい印象を受ける。人を寄せ付けない空気とでも言えばいいのか――そういったものを纏っており、見ているだけで半ば強制的に目が冴えてしまうような人だと、そう感じさせられた。少年が通っていた高校で『大和撫子』と評判だった新田維緒とは対照的な雰囲気ではあるが、それでも維緒と同類の存在と呼べるだろう。隙のない、完璧な美しさを備えた――有り体に言えば“美人”だった。
 そんな少女の服装を見れば、白いブラウス、首元にはリボンとどこにでもありふれていて――と思いきや、黒い制服は上下繋がっていた。胸ポケットのあたりには小さな刺繍施してあり、どうやら校章のようだ。スカートの丈は長く、かなり動きにくそうに見える。その色合いから、ジプスの制服ではないだろうとは察した。とはいえここら辺では全く見た事の無い制服だ。
 少女は一度すんと鼻をすすって、手元の本のページをめくった。読書の真っ最中のようだ。
 そんな少女にどうやって声をかけたらいいのだろうか。は悩んだ。タイミングを見計らうのだが、どうにも言葉が出てこないのである。そこまで出掛かっているのに、どうしても言葉を出す勇気が沸いて来ない。妙なもどかしさと焦燥感に追い立てられ、は唾を飲み込んだ。
 その気配が伝わったのだろう。少女はふっと本から顔を上げ、さりげない仕草でのほうを見た。壁にぴったりと張り付いて伺うの姿に目を見開き、びくりと大きく肩を震わせた。少女の瞳に、警戒が色濃く表れる。
 ――沈黙が、一気に重くなる。呼吸すら潜めさせるほど、緊張した空気が圧し掛かってくる。
「……あの」
 先に口を開いたのは、のほうだった。右手を軽く顔の横まで挙げて、学校で教師に質問をする時のようなポーズを取る。
「ここはどこか判りますか?」
 の問いかけに対し、少女はきょとんと目を丸くした。ただじっと、を見つめる。
 しかし、ややあって、
「……ぁ、……ぇ、えと……」
 先ほどの警戒はどこへやら、少女が顔に戸惑いを浮かべ、あたふたとうろたえ始めた。それに従い、張り詰めた空気は徐々に弛緩していき、強張った体の筋肉が自然と解けていくような、そんな錯覚を覚える。
「こ、ここは、ジプスの東京支局です」
「……あ、ええと、それはわかる。……ごめん、こっちの質問がダメだった」
「あっ、いえ、こちらこそすみません……」
 お互いに深々と頭を下げる。そして再度沈黙が訪れた。とはいえ、部屋の中の空気は、決して気分が悪くなるようなものではない。
「……あのう、そっちに行っても?」
「ど、どうぞ。……あっ、ちょっと待ってください」
 少女があたふたと立ち上がって、ベッド下からクッションを持ってきた。少女が今しがた座っていた場所を見れば、重みでしぼんだクッション――というよりも枕が置かれている。確かに、白くざらざらとしたタイル張りの床は、直に座るには正直きついものがあった。
 少女はテーブルの脇にそれを置くと、どうぞ、と控えめにに薦めてきた。は迷わずその上に腰を下ろし、あらためて部屋の中を見回す。窓のない部屋だが、それによる閉塞感はあまり感じられない。そう思うのは恐らくきっと、目の前の少女のおかげではあるのだろう。
「お茶か何か、淹れましょうか?」
 言いながら、少女はテーブルの下から電気ケトルを取り出した。
「あ、いえ、お構いなく。それよりも、聞きたいことがありまして」
「……ええと、さっきの質問でしょうか」
「そんな感じです。司令室のほうへの戻り方がわからなくて。ぶっちゃけると、迷子なんです」
 その言葉を聞き終えるなり、少女は不思議そうにを見つめた。人より抜きん出た見た目をしている少女に、定規で引いた直線かと思うほど真っ直ぐに見つめられ、の中に言いようのない落ち着きのなさが芽生える。
「あなたは、ジプスに属しているわけではないんですか?」
「いや、ええと。……まず自己紹介しますね」
 がまず、こほんとひとつ咳払いをしてみせた。
「俺はといいます。18歳です。2日前からジプスに協力する事になった新参者です。だから、この施設の構造がよくわかっていません」
 正直に告げると、少女はから視線を逸らす事無く、納得したように一度だけゆっくりと頷いてみせたのだった。
「この施設、入り組んでいてわかりにくいですよね。私もうっかり迷子になりそうだなと不安になります」
「……ええと、あなたはジプスの局員ではないんですか?」
「はい。……では、せっかくですから、私も自己紹介させて頂きますね」
 目の前の少女が居住まいを正すものだから、それにつられても居住まいを正した。
と申します。17歳です。ジプスの局員ではありません。わけあって、今はこの施設に身を置かせてもらっています」
 言い終わるなり、は優しげに微笑んだ。彼女のその笑顔や身に纏う空気から、どうやらは、急に部屋を訪れたの事をべつだん嫌がってはいないらしい、とは察した。内心ほっと胸をなでおろす。
「ええと、さん? それともさん?」
「どちらでもかまいません」
「……それじゃあ、で」
 の表情に、僅かな戸惑いが浮かんだ。のちょっとした悪戯心ではあったが、いきなり呼び捨ては流石に無神経だったかもしれない。不安がるではあったが、対すると言えばを疎ましがるとか、嫌がる素振りをまるで見せず、けれどもただただ困惑し、戸惑っていた。
 しばらくして、が意を決したかのように口を開いた。
「で、では……さん?」
「……どちらかといえば、名前のほうが嬉しいなあと」
 が僅かに目を見開き、困った風に目を逸らした。押しに弱そうだな、という考えをは表に出す事無く、ただの言葉をじっと待ち続ける。そんなの視線に耐え切れなかったのか、しばらくして、が観念したようにおずおずと。
、さん?」
「……くんで」
「へっ!?」
 が形容しがたい素っ頓狂な声を上げた。何度も目を瞬かせる。その反応に、これ以上からかうのは止したほうがいいのかも知れないとは考えたものの、再度の表情を伺い、そうしてただ彼女が口を開くのを待つ事にした。少なくとも、ただの反応に驚いただけで、嫌がっているようには見えなかったからである。まあ、それはの主観ではあるのだが。
 はあちこちに視線を配り、口を引き結んで、ぎゅっと目を閉じ――よくもまあコロコロと表情が変わるものだ。初めて彼女を見たとき、はそういった印象をまるで受けなかった。とっつきにくそうと思った少女が、僅かに頬を染め、恥ずかしげに戸惑っている。はそれを興味津々そうにただ眺めた。
 が僅かに身じろぎする。
「……、くん」
「おお……!」
 気を抜いてボケッとしている最中にいきなり名前を呼ばれたものだから、はビクリと肩を震わせた。の声はやたら小さかったが、それでも静かな空気のおかげでの耳にちゃんと届いた。無意識のうちに感嘆の声を漏らし、青い目をらんらんと輝かせる。
「冗談だったのに、本当に呼んでくれるとは」
「えっ……ええっ? じょ、冗談だったんですか……」
 寂しそうに呟いて、見るからにシュンとしてしまった。
「あっ! ごめん。ごめんなさい。『くん』と呼んでもらえると嬉しいです」
「……さん」
「ああっ、距離が一気に遠く……!」
「……。、くん」
「ありがとうございます」
 平身低頭するに対し、はあたふたと顔を上げるように促した。が顔を上げるとちょうどと視線がかち合い、そしてどちらともなく小さく笑い出す。
 そうして一息ついてから、はふと思ったことをに切り出した。
「もしかして、慣れてないかな。こういうの」
 こういうの、という曖昧な言い方で、の意図する意味で伝わるかどうかわからなかったが、少なくとも彼女はの考えた意図で受け取ってくれたようで、
「その、歳の近い男の子とこういう風にお話するの、小学校の時以来で……」
 が申し訳無さそうに呟いた。
 その言葉を耳にしたは、一瞬疑いこそしたものの、改めての姿を上から下まで眺め、納得したように頷いた。およそここら辺では見ない制服は上品なつくりで、少なくとも、普通の一般家庭が通う学校の制服には見えない。そっか、との口から出た言葉とは裏腹、心の中では天然記念物だと感激する。
「という事は、もしかしなくとも、中高一貫の女子高に通ってるとか?」
 それも、やんごとない感じの。という言葉は口に出すことがはばかられ、それだけは静かに飲み込んだ。
「はい」
「そっか。道理で。それに見ない制服だと思った。西のほうかな?」
「そうです。凄いですね、制服だけでわかったんですか? くんはもしかして、色んな学校の制服にお詳しかったり――」
「いやいや、そんな制服マニアと誤解されるような言い方はよくないよ」
 の言葉を遮るようにぶんぶんと首を振りながらまくし立て、わざとらしくこほんとひとつ咳払いなんぞしてみせる。
「その、ここら辺じゃ見たことないし、絶対こっちの学校じゃないなと思ってさ」
「そう、ですか。……確かに珍しいですよね、こういう制服って。私も初めて見たときはびっくりしましたし」
「うん、俺も今日初めて見たからびっくりした」
 の率直な感想に、がスカートの裾をつまみながらほのかに苦笑した。その動きに合わせ、の視線もの足に向く。黒タイツ。頭の中でそう唱えてからすぐにはっとして、視線を元の位置に戻した。
「本当は、この学校に通う予定はなかったんですよ」
 そして、困ったような顔で、そう言った。
「……今の学校、嫌い?」
「いいえ。学ぶことが多々あり、毎日が充実していて、むしろ大好きになりました。寮生活も楽しいですし」
 模範的とも呼べる回答。は不安げにの顔を伺ったが、彼女の表情は本当に好きなんだと思わせるようなそれで、は特に追求はしなかった。その口ぶりから、友人にも、学内での環境や立ち位置にも恵まれている事が容易に想像できる。
「通う前は親元を離れるのが不安で、嫌で嫌でたまらなかったんですけれど、……今思うと、多分、食わず嫌いだったんでしょうね」
 ふふ、とが思い出し笑いとも取れる声を漏らした。
「……ということは、自分でそこに行こうと思ったわけじゃないんだ。両親が教育熱心だったとか?」
「いえ、そうではないんです。両親も最初は嫌がっていて」
「ええと。それじゃあ何で……?」
 言いかけたとたん、の瞳に戸惑いの色が浮かび、はハッとしたような顔になった。
「……ごめん、今のは無しで」
 間髪いれずにそう告げて手を振った。そんなはびっくりした様子ではあったが、ややあってからほっとしたように微笑んだ。
 両親という存在は子供の教育の手綱を握るものである、とは若輩者ではありながらもそう考えている。そんな両親が嫌がっても入学せざるを得ないという事は、両親以上の立場の人間からそうしろと言われたからだろう。祖父母が教育熱心でそれに逆らえなかった、とも考えられる。しかし、関西の高校に通っている少女が何故東京にあるジプス本部の、こんな部屋に身を置いているのか。は『わけあって』と言っていたし――
 そこまで考えてから、は面倒臭くなってきて、やめた。どの道詮索するのは失礼極まりない。と親しくなってからでもあらためて聞いてみればいいだろう。
「まあ、人生いろいろだからね。俺も今の今まで、悪魔がいるとか、ジプスとかいう政府直属の謎の組織があるとか、ぜんぜんわからなかったから」
 うんうん、と一人で勝手に完結した後。
「で、わからないといえば、この施設の事なんですが」
「あっ、そうでした。くんは、迷子なんでしたね」
「ハイ、恥ずかしながら迷子です。それで司令室までの道がわかるのであれば、教えて欲しいなと」
「ちょっと待っててもらえますか?」
 が頷くと、は傍にあるノートパソコンを開いた。スリープモードを解除し、画面が明るくなったのを確認してから、はテーブルの墨に置かれた黒いケーブルをパソコンに接続した。
「このパソコンに、施設のおおまかな地図が入っているんです。くんの携帯にそのデータを転送する、というのはどうでしょうか?」
「……それって、重要機密系の大事なデータじゃない?」
「施設の運用に重要不可欠な、いわば“立ち入り禁止”の部屋をはぶいたおおまかな地図ですから、コピーしても構わないと思うんです。局員ではない私が閲覧してもいいくらいですから」
 がマウスを操作する。画面を覗き見ると、どこかのフォルダを開いていた。
くんは、司令室に戻ることが出来さえすれば、後は大丈夫なんですよね?」
「うんそう、大丈夫。……それじゃこれ、俺のケータイ」
 が片手で差し出した携帯を、が両手で大事そうに受け取った。ケーブルを携帯につなぐ手つきからも、本当に大事そうにしているのが伺える。そういった仕草から、なんとなく、育った環境の違いを感じた。
 がマウスを操作する。そして1分もしないうちに、携帯をに差し出した。
「転送、終わりました。今送った地図、開いてみてください」
 うん、と頷いて携帯を開き、ビューアを実行する。果たして、送られてきた地図はの携帯にも対応した形式だったようで、ファイル一覧に見慣れない名前のファイルがある事に気付いた。は迷わずそれを開く。
 地図を見た第一印象は――アリの巣、だった。順路はいびつに歪み、直線を成していない。確かに道理で、ここまでの道中ぐねぐね曲がった道や不自然に傾斜した道ばかりを通った覚えがある。そんな、順路の中にいくつもの小部屋が点在していて、アリの巣めいたその中央に、縦にも横にも広い空洞が据えてある。恐らく、ここが司令室だろう。
 しかし、地図も手に入れて準備万端というわけにもいかなかった。ぐねぐねした通路と睨めっこするが、自分が今どの部屋にいるのか、よくわからないのである。
「あの、すごく申し訳ないんだけど、今どこにいるかわからないから、この部屋の場所を示して欲しい」
「わかりました」
 が立ち上がって、のすぐ横に膝をついた。の携帯を控えめに覗き込む。
「ええと、司令室からこうきて……こうだから……エレベーターを降りて、ここを曲がって……ここ、でしょうか。……うん、ここだと思います」
 すぐ間近で聞こえる声と息遣い。携帯の画面を細い指先がなぞるのよりも、近くにあるの横顔に意識が向く。
「……くん?」
「えっ、あ、うん。そこね、そこ」
 こくこくと頷いて、の指先に目を向ける。一番下、と言っても過言ではないほど、この部屋は深部に存在していた。その部屋を中心にして地図を見てみれば、その近くには倉庫との表記があった。恐らくそこを通ってきたのだろう。しかし居住区と銘打った枠組みの中、真下にギリギリ組み込まれたこの部屋の位置は、恐らくが寝泊りしている部屋と比べると司令室からの距離は遠い。
「……こんなに下じゃなくて、上だったらいいのに」
 ふとした疑問が、口からぽろりとこぼれ出た。無意識のうちに漏れ出た言葉にはっとして、慌てての表情を伺えば、彼女は仕方ないといったような、諦めにも似たような苦笑を浮かべていた。
「私はこの組織にとって戦力足りえる人間ではありませんから、こうして寝泊りできる部屋を与えてもらえるだけでも十分なんです」
 その言葉に、は怪訝そうにを見た。も、その幼馴染の大地も、同級生の維緒も、ジプスにとって戦力になり得ると判断され、ここにいるのだ。しかし彼女の口ぶりはどうだろうか。
 じゃあ、なんでこの施設に――? はそう言おうとして、やめた。自ら地雷に突っ込むような真似はしたくないし、何よりもそれ以上の理由として、喋る事をはばかられるような音が耳を劈いたからだ。
 コン、コン――
 控えめなノックの音が二回、部屋に響く。その瞬間、が身体を強張らせたのがにも伝わった。恐る恐る見上げたの表情は、さっきと打って変わってひどく硬い。その表情がただ事ではないものを匂わせるもので、つられての表情も自然と硬くなる。
 再度ノックの音が響き、が小さく息を吐いた。深呼吸し、ゆるゆると身体の力を抜いていく。まるで平常心を取り戻すために行われているかのような仕草だった。
「はい」
 が扉の向こうにいる相手に聞こえるような返事をすると、ややあって。
「起きていたか」
 にとって、その声は聞き覚えがありすぎた。驚きから思わず目を見開く。なんでまたこんな所に、と思ったものの、寧ろここに縁が無いのはのほうで、扉の向こうに不遜に佇んでいるだろう彼のほうが縁がありすぎる事に気付かされた。
 こんな、人気の無いジプスの最深部に位置する部屋に足を運ぶ存在なんて、冷静に考えればわかるはずだ。ジプスの職員か、もしくは、――その頂点に位置する人間か。
「はい。1時間ほど前に目が覚めてしまって」
「ならばすぐに返事をしろ。……入るぞ」
 が返答するよりも先に、扉が開いた。はわけもわからず、半ばパニックになり、とりあえず目の前のテーブルの下に身体を滑り込ませる。
 ……滑り込ませようとしたのだが。
「――これは、……。驚いたな。こんなところで何をしているんだ、?」
 上半身隠せても下半身は隠せずだった。誤魔化しようがないこの状況。は仕方なく、のろのろとした動作でテーブルの下から這い出た。再度クッションの上に座りなおし、声をかけてきた相手を見上げる。
 部屋に遠慮無く入ってきた、黒いコートを羽織った少年。それは紛れも無く、ジプスと言う組織を束ねるトップ、峰津院大和局長その人であった。を見下ろすその眼差しはいつもとなんら変わりなく凪いだ水面のようではあるが、それでもその瞳に見つめられているだけでたまらなく居心地が悪くなる。口元も眉もいつもと変わりなく、表情にしてもいつもみたいに薄い笑みを浮かべているように見えるのだが、それでも不満そうな大和の威圧感に押しつぶされそうになり、居た堪れない気持ちでいっぱいになってきた。
 大和はどうやら、ここにがいる事が気に食わないらしかった。
「おや? 返事が無いな。……再度聞こう。ここで何をしていた?」
「かくれんぼ」
 重い空気の中なんとか返した言葉は、かえって逆効果だった。
「嘘を吐くのであればもっと賢い嘘を吐きたまえ。……、説明しろ」
「……迷子、とのことです。道順を教えて欲しいと部屋に訪れたので、ちょうど今彼に地図を渡しました」
 ほんのついさっきまで和やかに談笑していたその口から発せられた声は、わずかに怖気を含んでいた。は驚きを表情に出さないよう努めつつ、恐る恐るの表情を見上げる。
 と、と視線がかちあった。目だけで――ごめんなさい――謝られたような気がした。
「こんな所にまで来るとはな。探検のつもりか? あまり感心はしないぞ」
「返す言葉もないです。ごめんなさい」
 が頭を下げると、大和は呆れたように溜息を吐いて見せるのみだった。
「……。こうなってしまっては仕方ないな。、上まで案内しよう」
「えっ、ほんとに?」
 あの迷路のような地図を見てうんざりしていたにとって、大和の言葉は有難いものだった。内心、諸手を挙げて喜ぶ。それがの表情に出ていたらしく、大和がの顔を見てほんの少し口元を緩めた。微笑を浮かべるわけでもなく、ただ口元を緩めるだけの微細な動き。はもちろん、傍にいるもそれに気付いたようで、瞳が戸惑うように揺らいでいた。
「私が君に嘘を吐いてどうする。それに、こんな所にいたって仕方ないだろう。ここに居て、これと話したところで、得られるものは何ひとつ無い」
 大和が『これ』と口にしたところで、がわずかに目を伏せた。口を引き結び、それでも何も言わないの顔から大和へ視線を向け、とくにいつもと変わらない平坦なその表情からは視線を外した。
 の、大和に対する有難いという気持ちが一瞬で冷めていく。得られるものは何ひとつ無い、という大和のその言葉が反響するかのように耳に残ったままだ。は細く息を吐いて、気持ちを落ち着かせてから口を開いた。
「それは違う」
 が発したその言葉に、大和は眉をひそめた。
「俺はと話してて楽しかった。はどうだった?」
「……――え?」
 まさか話を振られると思っていなかったのだろう。がきょとんと小首を傾げた。力の抜けた、文字通りの素の表情。しかしその直後、ようやっと言葉の意味が腑に落ちたのか、驚いたように目を見張った。戸惑いがちにの顔に目を向け、そうして大和の表情を伺い、僅かに怯えを滲ませた。
 なんとなくではあるのだが、ここジプスにおけるの立ち位置をは悟った。おそらく今の学校とへ行く事になったのも、この組織――というよりも大和が関係しているのかもしれない。まあ、これはの勝手な予想ではあるのだが。
 怯えと困惑が入り混じったの顔を見つめること数秒、居心地の悪い空気に耐え切れなくなったのかがうつむいてしまった。その態度から、が期待するような返答は彼女から返ってこないと察してしまう。
 ――がそう感じた直後の事だった。
「……楽しかった、です」
 もしここに風が吹いていたのであれば、その音に紛れて掻き消えてしまいそうなほど小さな声だった。言い終わったはうつむきがちのまま、それでも太ももの上に行儀よく揃えた両手の指だけを所在なげにそっと絡める。
 いくらうつむきがちとはいえ、座っているからかなの表情が見えないわけではない。ほんのり色が差した頬から、照れとか、恥ずかしさとか、そういった類のものが伺える。さっきの小さな声だってそうだ。ただ同意を求めただけなのに、期待以上の言葉が返ってきたのも相まって、なんとなくどぎまぎさせられてしまう。
 そうして、なんとはなしに大和のほうへちらっと視線だけ向け、はさっきとは真逆の意味でどぎまぎし始めた。大和の端正な顔は相変わらず何を考えているか読み取れないが、それでもひそめられた眉が物語っている。
 不満。今の大和にはその一言がよく当てはまっていた。
 身動きひとつはおろか、一瞬のまばたきすら潜めさせるような緊張感。ただ、大和への些細な反論のつもりだったのだが、どうやら墓穴を掘ったらしい。しかし、こんな重苦しい空気の中、は弁明する口を開く事すらできず、壁に取り付けられた時計が秒針を刻む音を耳にしながら、ただ大和の動向を見守るほか無かった。
 大和が目を瞑った。短く息を吸い込み、すぐに吐き出す。些細な深呼吸だった。その後、何を言うかと思えばくるりと身体を反転させる。大和の動きに合わせ、コートの裾が翻るその音で、部屋中に張り巡らされた緊張の糸がぷつりと切れた。反射的に足を踏み出したが大和の後を追いかけるのを、も慌ててついていく。
「また来る」
 大和が扉を開けながら、のほうを見ることなくただ一言。
 もそんな大和に対し、深々と頭を下げて応じた。
「……はい。お待ちしております」
 それを傍から見ていたは、言いようの無い座りの悪さを覚えた。同年代と思われる少女が、丁寧な口調と態度で、同年代と思われる少年に頭を下げている。待っているという割にはの声に抑揚が無く、場に漂う空気から強制的に言わされたような印象を受けた。それが、その場しのぎの対応だとわかってしまう。
 大和は首だけでを振り返りはしたものの、特に何を言うでもなく、無言のまま通路へと足を踏み出した。
「行くぞ
「……ぁ、ああ。うん」
 二人を呆けたように見ていただったが、大和の声でハッと我に帰った。の横を通り過ぎ、明るい部屋から薄暗い通路へ踏み出す。部屋との温度差に自然と身震いしてしまう。扉越しに部屋を覗き込み、入り口に立つの顔に視線を向ける。
「……それじゃあ」
「はい。お気をつけて」
 本当は地図の事に対する礼を述べたかったが、隣に大和がいるものだからなんとなくそれは憚られた。も口だけは義務的に応じるものの、それでも表情は少し寂しげなものを孕んでいる。
 が言い終わるのとほぼ同じくして大和が歩き始めた。通路に足音を響かせながら遠ざかっていく。まさか置いていくつもりじゃないだろうかと、は慌てた様子で扉を閉め――ようとする前に再度、部屋の中へにゅっと頭を突き出した。
「また来ても?」
 小声で尋ねると、がきょとんと目を丸くした。の顔を見つめ、それから困ったような、苦笑ともとれる顔で頷いてくれた。ただ、その返事をあえて口にしなかったのは、大和が近くにいたからだろうか――彼女が何をどう思っているかなんて、どうせにはわからない。
 扉を静かに閉めて、薄暗い蛍光灯の通路の先を歩く黒い後姿を小走りで追いかけた。なんとか大和に追いついたものの、にはどうにも彼の隣に並ぶ気にはなれず、気持ち大和の3歩後ろの距離を保ったまま、無言でついていく。
 通路に、二人の足音が響く。
「……ちょっと質問していいか?」
 黙ったままでいられない性分を、は今さらながら後悔した。控えめな声の問いかけではあったが、それでも大和の耳にはちゃんと届いたようで、大和は首だけで振り返った。
「質問の中身によっては答えかねるが」
「いいよ。あの子とはどんな関係?」
 が思い切って切り出せば、大和はまるでから目を逸らすかのように正面を向いた。前方をまっすぐ見つめながらただ無言で歩き続ける。そんな大和の後頭部を食い入るように見つめ、ただ言葉が返ってくるのをはひたすら待つ。
 何十秒経っただろうか――通路には二人の足音が響くのみで、大和は相変わらず何も言わない。
「……おい、なんか言えよ」
 痺れを切らしたがそう言えば、大和が呆れ気味に言葉を返してきた。
「質問の中身によっては答えかねる、と言った筈だが。聞いていなかったのか?」
「いきなりそれを行使するのか……」
「それを了承したのはどの口だ?」
「俺の口」
 大和が盛大に溜息を吐いた。大和にしては珍しく、面倒くさそうなものを孕んだ溜息だった。
「じゃあしょうがない。質問を変える。二人は知り合いか?」
「……。誰と、誰がだ?」
「んなもん分かりきってるだろ? 聞かれたくないならそう言ってくれ」
 大和がはぐらかした事に内心驚きつつもなんとか言い切ると、それっきり静まり返ってしまった。このままじゃ埒があかないと直感したは、早歩きで大和に追いつき隣に並ぶ。そんなを見る大和の目は、彼にしては珍しく、ひどく鬱陶しそうなものを孕んでいた。おまけに少し距離を置かれてしまう。
 しかし、しばらくして。
「……ああ。知り合いだ」
 仕方なくといった様子の大和の言葉には、溜息が混ざっていた。返答を聞くなりはぱあっと顔を明るくする。矢継ぎ早に、家族なのか、いとこなのか、はとこなのかと訪ねてみるものの、それぞれの質問に対して大和の口から出た回答は「違う」の一言のみだった。
「……ジプスの職員ではないんだよな?」
「そうだ」
 やっと別の回答が返ってきたが、にも尋ねた質問だったので、は喜びもせずげんなりするのみだった。お前ら一体なんなんだよ、と口から出そうになった言葉をぐっと飲み込み、あらためて今のやり取りを整理してみる。とりあえず、今の押し問答でわかった事といえば、大和にとっての事はあまり触れて欲しくはないと思っている事くらいだった。
 どういう風に尋ねれば大和は素直に答えてくれるのか。口を尖らせて悩むの傍ら、大和の表情はすこぶる硬い。パッと見、いつもと変わらぬ平坦な表情に見えるのだが、それでもには強張っていると感じる。ただでさえ、歳に似合わぬ貫禄がさらに強固で近寄りがたさを覚えるものになっているのだが、間近にいるからすればべつだん自分に危害が及ぶわけでもなし、と極力気に留めないようにとつめた。
 ふと、大和が立ち止まった。釣られても立ち止まる。見れば目の前に重そうな扉が鎮座していた。
 大和が壁のボタンを押すと、ボタンがオレンジ色に発光し、次いで天井近くの電球が点灯した。横一列に並ぶ電球は、地上からジプスのエントランスまで行くためのエレベータの真上にあるものとほぼ同じものだった。秒を重ねるごとに点灯する電球は左へ移っていき、扉の奥から物々しい機械音がうなるように響く。そういえば、がエレベーターの存在について喋っていた事を、はふと思い出した。
「もしかしなくても、エレベーターのほうが近いのか」
 が無意識にぽつりと呟いた言葉だったが、大和はそれを聞き逃さなかった。
「……。やはり君は階段のほうから来たのか。しかし階段側のフロアの明かりはごく最小限にしている。足元もおぼつかないほど暗い通路、普通なら進まんだろう。阿呆なのか?」
「確かに暗くて変だなとは思ったよ。でもさ、ちょっとパニックになっててさ、引き返すのも勇気がいるっていうか道くねくねしててさっぱりわかんねーしもう進むしかなかったんだよ。早く部屋に戻りたくて不安だったんだよ。わかるか? この気持ち」
「まるで分からん。迷子になる典型例だな。悪癖はさっさと直せ」
 チーン、とやけに軽い音が響き、重厚な扉がゆっくりと開いた。大和が先にエレベーターに乗り込み、がそれに続く形になる。大和が手馴れた様子でボタンを操作し、すぐに扉が閉まった。エレベーターが上昇を始める。
 特に会話らしい会話ができるはずもなく、大和に対する質問もさして思い浮かばず、は壁にもたれかかって天井を見つめた。の部屋にいた時のやり取りを思い出し、何かしらのヒントを探すものの、居心地の悪そうな大和と穴があったら隠れてしまいそうなの姿しか思い出せない。
「もしかして、仲悪い? 喧嘩したとか?」
「何が――、答えかねる」
 尋ねられた時はどういう意味かわからなかったのだろう、大和が言葉の途中でつまり、そして一呼吸置いてから呟くように言い放った。
「なるほどなるほど、なるほど」
 さすがに3回も唱えると、大和が訝しげな視線をに向けた。
「何がなるほどなんだ?」
「いや、ただ言ってみただけ。特に意味は無い」
 脱力するような吐息が大和の口から漏れた。
「……。君と話をしていると、たまに疲労感に見舞われる」
「似たような事大地にもよく言われるわ。ま、寝不足なんじゃない?」
 ジト目。そう読んでも差し支えの無さそうな大和の視線に、は微笑むことで対抗した。
「……なあ、何でをあんな下の居住区に?」
「居住区はジプス局員、もしくは組織に協力的な者のためにある。あれはただの民間人にすぎん。部屋を与えるとしたらあの部屋で十分だろう」
 はジプスに非協力的、ということなのだろうか。あまりそんな風には見えなかったのだが、それについては後で本人にでも尋ねればいいだろう。
「へえ、ただの民間人に部屋を与えたのか。ジプスの局長らしからぬ判断だな」
 率直に思った事を、煽りの意味も込めて言葉にしてみたが、大和は特に反応しなかった。ゆさぶりにすらならなかったらしい。ここまで鉄壁になられると、もはや手の打ちようがなかった。
「探られるの、そんなに嫌か?」
「……寧ろ、聞いてどうするというのだ。面白い話ではない」
「面白いかどうかは話を聞く俺が決める事であって、大和が決める事じゃないだろ。違うか?」
 大和がに視線を向ける。しかしそれも一瞬の事で、扉の上に取り付けられた電球を見上げた。電球はちょうど真ん中に設置された物が光っている。つまり、折り返しという事だ。
「氏族の末端だ」
 大和が唐突にそんな事を呟いた。
「えっ、なに? 聞こえなかった」
「……もういい」
「シゾク? がなんだって?」
 尋ね返したに、大和の訝しげな視線が向けられた。
「何故、わざわざ聞こえていない振りをする」
「そういう病気なんだ、気にしないでくれ。ところでシゾクってなんだ? どういう字で書くのかすらわかんないから教えて」
「……氏名の氏に、一族の族だ。あれも元をたどれば峰津院家の者だ」
 大和が言う『あれ』とは、恐らくの事だろう。
「なるほど。よくわかんないけど、つまり縁遠い従妹だな?」
「さっき違うと言わなかったかな? ……まあ、何世紀も昔はそういう関係だったのかもしれん。しかし今となっては我が峰津院家の血も薄れただろう。あれに峰津院の血が混ざっているか、甚だ疑問だ」
 チーン。軽い音と共に、エレベーターの扉が開いた。さっきまでいた通路とは打って変わって明るい光景に、は一瞬目がくらんでしまう。エレベーターから出てあたりを見回し、どことなく見覚えがあるような、そんな感覚にとらわれる。
 こっちだ、と先に歩き出す大和を追いかけ、隣に並んだ。
「……で、その氏族の末端がなんなの?」
「峰津院にゆかりのある――まあ、かいつまんで言えば、ジプスに関係のある神社の長子だ。……社家と言えばわかるか?」
 シャケ。大和の口から出た耳慣れない単語を、がたどたどしく呟く。
「――焼き魚だな?」
 大和がものすごく大きなため息を吐いた。が今まで耳にした事が無いような、そんなため息だった。頭痛でもするのか、片手でこめかみを押さえている。
「……社(やしろ)に家(いえ)と書いて、社家だ。神職の家の事を差す。簡潔に言えば神社の経営者だ。わかるか?」
 顎を上げ、まるでを見下すかのように大和は言う。
「すごくよくわかった。神主さん一家のこと、社家って言うのか。初めて知った」
 ふんふんと頷くから大和は視線を外し、そして人知れずほっとしたように息を吐いた。
「うん、の家の事はよくわかった。けどさ、大和とどういう関係かわかんないんだけど?」
「……氏族と言ったろう」
「それってさ、家の都合みたいなもんだろ? 俺は個人的な関係を聞いてる……」
 聞いてるんだけど。そう言おうにも、まばゆい光に目がくらんだせいで、言葉が尻すぼみに途切れてしまった。縦にも横にも広い空間。壁際の棚にはさまざまな本が詰め込まれており、部屋の中央には折りたたみ式テーブルとパイプ椅子がきっちり整列させられている。
 ――あっという間に、司令室にたどりついてしまった。
 俺の今までの苦労はなんだったんだ、とが呆然とするその横で、大和がふっと小さく笑う。
「ここから先は君一人でもいいだろう?」
「えっ、あっ、そうだな。うん、大丈夫」
「あそこに迫がいる。もし不安なら彼女に案内を頼め」
 大和が示す先、書棚の間に、確かに真琴がいた。何か本を探しているらしく、忙しない様子できょろきょろと首を動かしている。
「私も仕事が残っているのでな。…では」
 一礼し、大和はその場から去ってしまった。が何か言葉を返す猶予すら残さず、大和は司令室からいなくなってしまう。呆然と、大和が消えた通路を見つめる。別に普段どおりではあったが、それでも大和に対し、逃げたなという気持ちになってしまったのは、恐らく気のせいではないだろう。
 はその場でしばし考え込み、それから迫の元へ向かった。
「真琴」
 声をかけると、真琴の肩がビクリと大きく跳ねた。ひぇっ、と小さな悲鳴を上げて、手にしていた本を足元に落とす。
「あっ、ごめん、驚かせた」
「な、ななな、? ど、どうしたんだ。まだ寝ていなくてもいいのか?」
「うん。目が覚めたから。おはよう。手伝おうか?」
「ああ、おはよう。……いや、これは私の仕事だ。君に手伝ってもらうのはかえって申し訳ない」
 真琴が本を拾い、表紙を優しく手で払って、再度脇に抱えなおす。が背表紙を覗き込んでみたが、英語なのでよくわからなかった。
「真琴、ちょっと聞いてもいい?」
「どうした?」
「シャケって何かわかる?」
 の問いかけに真琴が一瞬きょとんとしたものの、考え込む素振りを見せる。
「……焼き魚がどうかしたか?」
 は目の前の女性が同類であると確信し、そして安堵した。