霖雨の訪れ
(大阪ENDを迎えた場合のif)
司令室のざわめきとは裏腹に、大和の執務室はひどく静かだった。とかく喧騒を嫌うというタイプには見受けられないが、しかし下品な空気は苦手だと、ふとした拍子にさらりと伝えてくれたことがあるのをは思い出す。まるで、床に落とした私物を拾うような、そんなごく当たり前の所作のようにして大和が自分の事を語ってくれるようになったのはいつ頃の事だろうか。まだ出会って間もない頃は『君』などとよそよそしい呼び方であったが、その3日後には呼び捨てになり、二人称である『君』も『お前』になり――とりあえず、仲良くなったのだとは思う。
大和の多大なる信頼を得ているという自負はある。大和が自分の事を買いかぶりすぎている節もやや見受けられるが、しかし期待されている以上それに応えないわけにもいかない。大和の求めるがままに動いているうちに、の服装はいつしか白いパーカーからジプス局員特有の黄色いシャツへ、そして上層部の証である黒い上着へと変わっていった。
ものの二ヶ月、短期間での急激な出世に、真琴は驚きつつもが幹部になってくれた事を心から祝ってくれた。今やこうして、真琴と共に大和を間近で支えている。
実力主義の概念が植え付けられた世界は決して平和ではない。悪魔が当たり前のように跋扈しているし、かつての世界と比べれば平穏と程遠く、治安もよろしくない。しかし困るのは弱者のみで、強者に位置するにとってこの生活には困っていない。寧ろ楽しさすら覚えていた。
大和の唯一無二とも呼べる友人となった現状、大和が徐々に心を開いてくれているのが手に取るように分かる。たとえるなら警戒心の強いオオカミだとか、ペットにするには不可能な野生動物が徐々に自分と距離をつめてくれるような感じだ。嬉しくないわけが無い。最初こその冗談に対して数秒の間を置いてから反応していたが、今では冗談と本音の区別がきちんとついてくれたらしく、すぐに反応を返してくれる。笑いもするし、怒りもするし、愚痴をこぼしてくれるようにもなった。
だからこそ――は戸惑う。
上着のポケットの中に入っている長方形の細長い箱。その話を切り出すのが怖かった。
「……。?」
「えっ、……あっ、何?」
「何、ではないだろう。話があると言ったのはお前ではないか」
「……あー。そうなんだけどさ……」
苦笑を浮かべ、大和の淹れてくれた紅茶をすするように飲んだ。美味しい。美味しいのだが、さわやかな芳香が口の中に強く残るその味は、どうしてかジプスの居住区の地下の部屋で飲んだあの紅茶の味を髣髴とさせた。
――実力主義の世界を拒んだ少女は、この世界には存在しない。
理由は簡単、自ら命を絶ったからだ。
自殺するような性格には思えなかったが、しかし皮肉なもので、仲間内で実力主義に屈しない最後の一人となり、たちとの戦闘下において追い詰められた結果、、大和、史、啓太ら4人の目の前で携帯を地面に置き、フェンリルに自らを捧げた。思いも寄らない事態に硬直する4人を前にして、を丸呑みした瀕死のフェンリルは、自らの携帯を踏み壊し消滅した。骨はおろか血の一滴も残さない、ある種惨い死に方だった。
それ以来、この世界が出来上がってからも、は大和の前での話を口に出した事は一度もない。
何となく、大和にとっては禁句なのではないかとの中でルールができあがってしまったのだ。
が唯一彼女の名前を口にしたのは、彼女が最後に身を置いた自由主義のメンバーである大地と維緒と緋那子と純吾の四人だけでいた時のみだ。もともと彼女の存在を知らない仲間が多かったし、が知りえる限りでを気に留めているのはその四人だけだった。
おそらくやその四人以上に彼女と親しかったであろう大和がどう思っているのか、にはわからない。もはや忘れてしまったのかと勘ぐるほど、大和はがいないのが当たり前であるかのように普通に過ごしている。
大和の性格を鑑みれば、使えないと判断した人間はもはやいないものとして扱う。となれば、も大和の中のそういった使えない人間の枠組みの中に入ってしまったのかもしれない。
「少々話し難い事だろうか? ならば、後でも構わないが」
「そういうわけじゃないんだけどね……。大和ってさ、悪魔から何か貰った事ってある?」
「……何?」
紅茶を飲むために持ち上げたカップを宙に浮かせたまま、大和は怪訝そうに眉をひそめた。探るような大和の眼差しに居心地の悪さを覚える。やはりこの話はまずかったようだ。けれど、もう口に出してしまった以上、この話は無かった事に……なんて言うのは不可能だ。
「実はこの前、悪魔から物を貰ったんだ。使わないほうがいいよな?」
「当たり前だ。……まさか、使ってはいないだろうな?」
「使ってないよ。使う前に一応大和にお伺いを立てておこうと思ってさ」
言うと、大和が口の端を緩めたように見えた。
「良い判断だ。念のために聞いておくが、何の悪魔から何を貰った?」
「アリスから紙製の箱を貰った。開けてないから中身はわからない」
フム、と大和が小さく頷いた。しばらく考え込むように動きを止め、それから口を開く。
「……。悪魔が人によこすものは何かしらの恩恵があるものだが、大抵それが不幸になって後々返ってくる。捨ててもどうにかなりそうだな、大人しく返しておけ」
「わかった。後でアリスに返しとくよ」
素直に応じると、大和は少し安堵したような表情を浮かべて、紅茶に口をつけた。
を信頼しきったその表情に、の胸中に罪悪感が芽生える。それをひたすら押し殺しながら、も紅茶に口をつけた。
――大和に、嘘をついた。
ポケットの中の箱の中身を、はわかっている。それに、箱を貰ったその時に中身の使い方も教えてもらったし、使用した事に対してのリスクは発生しないから安心していいとアリスに何度も教えられた。
箱の中には、ごくごく普通の線香が入っている。濃い赤色のそれは一見するとアロマ系の店で取り扱っている異国のお香のように見え、火をつけずとも鼻先を箱に近づけるだけで香りが分かる。
甘い匂い――それはが今まで生きていた中で一度も嗅いだ事のない、まるで腐り落ちる花を連想させる匂いだった。とはいえ実際の所、花が腐ったら悪臭を発するだろうし、腐るといい匂いがする花が存在するかなんてにはわからない。けれどもそう表現するにふさわしい、本能で“危険”だと察する香りだった。
その線香は、やはり悪魔から手渡された品というだけあって、使用した直後に異様な効果をもたらしてくれた。
線香をもらったその日の晩、維緒に頼み込んで借りた香立てで線香を焚いた。およそ自分に相応しくない女物の香りがすぐ部屋に充満し、まるで女の子の部屋にいるみたいだなとベッドに横になりながらゲヘヘと下卑た笑みを浮かべつつやましい想像を巡らせているうちに、一度のまばたきをはさんで、隣にが現れたのだった。
『それ、ハンゴンコウっていうの。貴重なものだから、大事に使ってね、お兄ちゃん』
アリスの唇から紡がれたその耳慣れない単語を、は愚かにもハイハイと聞き流していた。今思うと、アリスのあの言葉は文字通り悪魔の囁きめいていたように思う。
反魂香――それは死者に会う事を目的として作られた、禁忌の香であった。
「……ええと。……こんばんは、でいいのでしょうか?」
「うん、こんばんは。ちなみに、今日の日付は4月28日です」
「この前が27日でしたから、……1年たちましたか?」
「たってない! たってないから! 次の日だから!」
の突っ込みに、は頬に手を当てて、困ったように微笑んだ。二日連続で香を焚いたのだが、どうやら時間の感覚は失われているらしい。
昨日の話では、フェンリルに食われる直前に目を瞑り、それから目を開けたらの部屋のベッドの上、の隣に座っていたのだという。事切れたときにの時間は止まってしまったが、反魂香で呼び出すとの時間が動き出す、とはそういう理解に落ち着いた。あと、いわく、反魂香を使うのは寝て起きる感覚に似ているそうだ。
昨日は0時過ぎに香を焚き、が消えたのは日が昇ってしばらく経った7時過ぎだった。おそらく反魂香の効果が現れる時間は7時間だとは勝手に推測しているが、一応念のため、今日はタイマーもセットしてみた。下手に弄らないよう作業机の上にタイマーを置いて、はベッドの上に上がり、の正面に腰を下ろした。
ベッドにちょこんと正座し、やや緊張した面持ちで所在なさげに指を絡める姿は、あの頃のそのものだ。頬に血の気は通っているし、まばたきもするし、呼吸もしているし、普通に生きている人間と見紛うほど完璧なつくりだ。白い手に触れればやっぱり温かいし、すべすべしているし、の手だと思わせる。幻覚ではない。本人がここにちゃんと存在している。
「くん、……手、くすぐったいです……」
「えっ……あっ、あっ!? ……ごっ、ごめん!!」
無意識のうちに触っていたらしい。慌てて手を引っ込めた。は羞恥に頬をそめつつ、警戒するような眼差しをに向けながら、から僅かに距離を置いた。
思えば今の時間は夜で、ここはにあてがわれたの私室のベッドの上で、しかもと二人っきりである。もともと反魂香は夫が亡き妻に会いたいがために作っただとか、ある男が亡き遊女が忘れられずに作っただとか、とりあえずいかがわしい感じの逸話が残る香なのである。そのことになんだか気恥ずかしさが芽生え、もぎこちなく身じろぎし、から距離を置いた。
「それで、今日は一体どのようなご用件でしょうか?」
「いや、特に用があるってわけじゃないんだけど……」
「でしたら、なぜ?」
「は、話がしたかった、って理由じゃだめかなあ?」
はきょとんとした顔になり、やがてふっと微笑を浮かべて見せた。
「では、私ではなく他の方に頼めばよかったのではありませんか? たとえば、志島さんとか、維緒ちゃんとか、大和さんとか」
の表情を伺う。大和の名前を口にするのに、僅かなためらいを感じ取ったが、しかし表情に変化は見られない。
「俺は、と話がしたいんだよ」
「今さら、何を? 私はもう既にこの世に存在しない身です。過去を振り返ってもどうにもならないという事は、くんだってわかっているはずですよね?」
「そ、そうなんだけどさ……」
の微笑みは、どこかよそよそしい。以前のような親しみが一切感じられず、の胸中になんともいえない寂しさが募る。
昨日のは混乱するあまり悲鳴をあげたり、せいいっぱい戸惑ったり、わあわあ騒いであたふたしたりと随分可愛げがあったものだが、さすがに状況を理解した後となっては、言葉がやけに刺々しく、まるで突き放すような印象すら抱かせる。
どうしてがそんな態度を取るのかわからない。が困惑した様子で首をひねると、しばらくの間を置いて、が小さなため息を吐いた。
「昨日は一睡もしていなかったじゃありませんか。……それなのに今日も、だなんて」
言いながら、不安そうに目を伏せる。何故突き放すのか――自分の事を心配しているのだ、とはすぐに思い当たった。
確かに昨日、反魂香を初めて使ったとき、二人して今の状況を整理し、どういう世界になったのか説明し、端末を開いてネットで反魂香について調べたりてんやわんやしているうちに、結局一睡もせず朝が来てしまった。それでも何とか一日の仕事を終える事はできたし、別に頭痛がひどいだとか腹の調子が悪いだとかいう異変は見られなかったから、今日も香を焚いてみた。しかしそれがにとってはあまり喜ばしい事ではないようだった。
「第一、悪魔が差し出したものを、無闇やたらに使うのは……」
「そんな感じの台詞、今日、大和にも言われたよ」
の瞳が僅かに揺れた。
「……。そう、ですか」
些細な仕草だったが、目を逸らされたのがわかった。
「大和さんにこの事、お話ししたんですか?」
「うん。でも悪魔から物を貰ったとしか話してないよ。反魂香の存在は知らないし、使ってもいない事になってる。こうやって会えることも、あいつは知らない」
「……でしょうね。正直に言ったら、大和さんはこれでもかと怒るでしょうし」
言い終わると、がふう、と息をついた。呆れと落胆が混ざったような溜息だった。
「多分、大丈夫だよ。アリスはそういう事をする悪魔じゃないって俺信じてるし」
「そうでしょうか? そういう事をする悪魔であると、私は存じていますけれど……」
ぐうの音も出なかった。確かに仲魔になる前のアリスは、友達がほしいという名目で人間を無差別に襲っていた。反論する余地すらない。
「ま、まあ、このお香のせいで魂取られても、なんつーか、アリスみたいな可愛い子にされるのも悪くないかなぁ――」
「……くん?」
「――な、なんてね?」
心底呆れたといわんばかりの声に笑って誤魔化すと、は本日2度目になるため息をついた。
「……話をするにしても、くんを楽しませられるようなお話なんて、私にはひとつもありませんよ?」
「別に良いよ。たとえが話題を思いつかなくても、俺はを楽しませられるような話題思いつくし。なんか気になる事とかない? 大地と維緒の話なら際限なくできるけど」
昨日はもも反魂香を使ったことによる現状整理で手一杯になり、仲間に関する詳細は話していなかった。ただ一言、皆生きてるよ、と軽く伝えただけだ。はうーんと悩ましげな声をあげて、それから伺うようにちらっとの顔を見つめた後、諦めたように口を開いた。
「志島さんと維緒ちゃんは、元気でお変わりないでしょうか」
「うん。俺も二人もジプスに所属してて、大地はフツーに元気。たまにポカやって大和に怒られてる。維緒は逆に結構褒められてるよ」
「そうですか。では緋那子さんや、鳥居さんは?」
「緋那子と純吾の二人も元気にやってるよ。皆、今はジプスに所属してて、組織の一員として働いてる」
「それは、……よかったです。本当によかった……」
ほっとしたように微笑むその表情から、心底安堵しているのだという事が伺える。その表情を見ていると、無意識のうちに笑みがこぼれた。
「他に何か知りたい事は?」
「ええと……。ごめんなさい。特に思いつきません」
「別に遠慮しなくていいのに。何でも聞いてよ」
「では、……今の世の中は、くんからすると、どう見えますか」
なかなかに難しい質問だった。
「ええと、暮らしやすいとか、そういう事かな? そういう意味だったら俺は満足してる」
「……志島さんや、維緒さんや、緋那子さんや、鳥居さんもそう感じているでしょうか?」
「うん、多分。俺から見れば、皆悲観してるようには見えないよ」
「では、他の方は? 私の勝手な予想なのですが、今のくんの立ち位置はおそらく、ピラミッドの頂点に近い位置だと思います。……ピラミッドの最下層の方々はどうなんでしょうか」
「それは……」
言いよどむと、が僅かに眉をひそめる。そのせいで、さらに次の言葉を続けるのが難しくなった。
今の世の中は、平和とは言いがたい。まずその理由として、仕事ができる者、悪魔を適切に処理できる者にそれ相応の対価が与えられたが、真逆の者たちは所得がほぼなくなり格差が広がった。
自分の力では立ち行かなくなった事を悟り、行き場をなくした人々は、各地にスラムのようなものを作って身を寄せ合った。
キズを舐めあい、慰めあって、そうしてこのままじゃいけないと気付き、再度立ち上がる者が殆どだったが、それでも胸中に諦めを抱いた者たちは再起する事も叶わず、実力に恵まれた者たちを悪魔を使って襲うようになった。
もはや世界の秩序を乱す、犯罪の温床と呼べる彼らを処理するのも、今のジプスの役目となっていた。頂点に位置する組織が行う、人間の間引き行為。それゆえ、ジプスの保護下に置かれる市民の――実力を持つ者が持たざる者に対して抱く差別感情は広がる一方だ。
平和なのか、平和じゃないのか――は満足しているのだけれど、他の人たちはどうだかわからない。正直、考えるのが恐ろしくて、極力考えないように努めていたのもあった。
自分でも思考を止めるのはいかんと思うのだが、しかしこの世界を望んだ張本人はどうやら満足している。最下層の人々に対し、歯牙に掛ける様子を大和はまるで見せない。むしろに対して、弱者を気に留めるなと促したりもする。
「正直、大和の作ったこの世界が――今の現状が正しい世界のあり方なのか、俺にはわからない」
「……正しい世界のあり方なんて、普通わからないと思いますよ? それこそ世界のあり方なんてのはポラリスの管轄でしょうし、人並みの寿命では到底理解できないでしょう。若ければなおさらかと」
確かにそうだ。18年ぽっちしか生きていない人生の若輩者であるが、そんなのわかるわけがない。
「どのみち、ポラリスで既成概念は変わっているはずです。ですから、良いと思う人がいるのであれば、この世界で良いのだと思います。努力した分だけ報われる社会だなんて、素敵じゃないですか?」
が微笑む。その笑顔から、嘘偽りは感じられない。
「……素敵だって言うなら、何で死んじゃったのさ」
「くん。それはそれ、これはこれですよ」
「どうしても教えてくれない? ヒントだけでもいいから」
がふっと寂しげなものを孕んだ苦笑を浮かべた。
「これは秘密にしておいてほしいのですが……」
誰に秘密にしておいて欲しいのか――はそれを口にしなかったが、けれども言外の意味をは感じ取り、すぐに首肯で応じた。
「大和さんなら、たとえポラリスに頼らなくても、ご自身の力で世界を変えることはできたと思うんです」
「……そうかな?」
「大和さんがクズだ、無能だ、と仰る上の方々の歳はいくつだと思ってますか? 人の寿命なんてあっという間ですし、次の世代に根回ししておけば不可能ではないはずです。努力しない人々だらけなのであれば、政治に割り込んで教育現場を変えてしまえばいいですし、大和さんはそれができる立場の方だったはずです」
「うーん……そうかもしれないけど、の言う事は極論すぎない? それに、大和が望む世界が出来上がる頃には、大和が死んでそうなんだけど」
「そうでしょうね。世界を変えるのには、とても長い時間がかかると思います。もしかしたら……いえ、もしかしなくとも、人の一生を費やしても叶わない事かも知れません。ですから大和さんは、ポラリスに頼ったんでしょうね。私が思っていた以上に、せっかちさんだったようです」
くすっとこぼした笑みには、以前のような親しみが籠められていた。どことなくほっとしてしまう。
「とはいえ、手っ取り早く世界を変える手立ては存在するんですよ?」
「へえ。たとえば?」
「隣国に戦争をけしかけて、全部リセットしてしまえば」
明るい声とは裏腹に、怖い発想だった。
「却下! 絶対に却下!」
「そうですよね」
がまくし立てると、が微笑んだ。そうしてようやっと、彼女なりの冗談だったと悟った。とはいえ、途中までは本気だったのではないかと信じきっていたし、これが全て演技だったのであれば相当だ。半ば感心しつつ怪訝そうに見つめると、やがての微笑が困ったような笑顔へと変わった。
「とりあえず、今のくんたちは、ごく普通に暮らしているんですね」
「うん。世界は変わったけど、俺たちはあんまり変わってないと思う」
「よかったです。気がかりがひとつ減りました」
がほっとしたように胸をなでおろす。
「気がかり?」
「はい。やっぱり、その、……未練、とでも言えばよいのでしょうか。消し去ることができないみたいです」
「……そっか」
の最期なんて、会話を交わす間もなかったのを思い出す。文字通り一瞬の、あっという間の出来事だった。死体も残らなかったから、死んだという実感も、すぐに湧かなかった。
「自分で命を絶った手前、情けないとは思うのですけれど……他にいくつか尋ねてもよろしいでしょうか?」
「全然構わないよ、なんでも聞いて。あと、情けないなんてこれっぽっちも思ってないから」
を情けない呼ばわりなど、には到底無理だった。が情けないのであれば、反魂香を二回も使ってを呼び出している自分は何なのだろう? 正に愚か者と呼ぶに相応しいのではないだろうか――。
――そんな事を考えているうち、いつしかはベッドから降りて、窓際に移動していた。
「ここ、以前のジプスの建物ではないですよね?」
手でカーテンをほんの少しめくりあげ、分厚い窓ガラスから地上を見下ろし、そしてびくっと肩を震わせた。息を呑んで、おっかなびっくりといった様子で、恐る恐る眼下に広がる街の明かりを見つめている。
「そうだよ。ここが今のジプスの本拠地。地上60階建ての複合タワービル。地下は6階まである」
「ええと、……ここは、大阪ですよね?」
「そう。今は“新都心大阪”っていうんだ。首都は東京から大阪に移った」
その言葉を聞くなり、がぽかんと絶句する。首都が移った、なんてにわかには信じられないのも無理はないだろう。はしばらくの間をおいてはっと我に帰ると、ぎこちなく曖昧に笑って見せた。
「そ……そうなんですか」
「といっても、議事堂とかはそのまま使用してるよ。政治だったりとかなんか面倒なことは東京でやってる」
ほうっと感心したようなため息を吐いて、眼下に広がる夜景をじっと見つめている。
「カーテン、開けても良いよ? 別に外から覗かれる心配とかないし」
「ほ、本当に?」
頷くと、はソワソワしながらカーテンを半分だけ開けて、窓枠に手を添えてじーっと外の景色を眺め始めた。何が楽しいのやら、その瞳は好奇心で輝いている。
しかし――思い返せばこの世界になって、いきなり建物がドーンと建っていて、道路は綺麗になっていて、この部屋をあてがわれて初めて迎えた夜にと同じように窓から夜景を見つめて――妙な感動を覚えて涙腺が緩みそうになったのは、の記憶に新しい。
「やっぱり、世界は変わってしまったんですね」
「うん。変わった。すごく変わったよ」
「……。大和さんは、変わらずお元気でしょうか」
尋ねる声は弱弱しい。今尋ねたことが、にとって恐らく一番の未練なのだと直感でわかってしまい、はふっと笑みを作った。
「元気だよ。むしろ元気すぎて困るくらいだ」
「……そうですか。それなら、よかったです」
心底安堵するような声で言うと、はぼんやりと、どこか遠くを見つめた。
眼下に広がる夜景を見るでもなく、ただじっと、分厚い窓ガラスに手を置いて、虚空を見つめている。は首をかしげてベッドから降り、の隣に並んだ。
「何か面白いのでもあった?」
窓ガラス越しに夜景を見下ろし、それからに視線を向けると、は寂しそうに微笑んでゆっくりと首を横に振るだけだった。
「いえ、なんでもないです。……本当になんでもないですから」
強い否定は、かえって肯定につながる。は何も言わずに、窓ガラス越しに夜景を見たり、星空を見たり、窓ガラスに映る自分の顔を見つめたり、反射して移り込む部屋の明かりを目に留め、そうしてある事に気付いてひゅっと息を呑んだ。
いない――。
が、窓ガラスに映っていない。
何で? どうして? しばらくの間呆けたように窓ガラスを見つめていると、ふいに、ある言葉がすとんと落ちてきて、否応なく納得させられてしまった。
は、死んでいる。あれから何ヶ月たったのだろうか。今この瞬間をもって、の中の、という存在に対する折り合いが、ようやくついたのだった。
「くん」
「……な、何?」
「私の姿、普通でしょうか?」
「えと、どういう意味?」
「……もうお気づきになっているでしょう?」
そう言って、コンコン――が窓ガラスを軽くノックする。
「どうやら私――自分で自分の顔を見ることができないみたいです」
無意識のうちに、ごくりと唾を飲み込んだ。今さら、の足元に黒い影がないのに気付かされた。
鏡に映らないのはなんだったか――吸血鬼とか、そんな感じの類だっただろうか。記憶をほじり返しても、曖昧に覚えている言葉しか見つからず、確たる記憶は見つからない。
「なんだかこうしてくんとお話をしていると、今までのは夢か何かじゃないかと、そんな事を考えてしまったんですが……やっぱり私、死んでいるんですね」
窓ガラスに手のひらを添える。しかしそれすら影として移りこむことはなかった。確かに隣にはいる。けれど、現実としては存在していないのだと、部屋の光が証明している。
目の前にいるは、自分の脳内で勝手に作り出した幻覚なのだろうか。言葉を失うとは対照的に、は不安げな表情で右手の肘を顔にくっつけ、すんすんと鼻を鳴らす。それからうーんと可愛らしく唸り、小首を傾げた。
「体臭は自分ではわからない、といいますけど、本当みたいですね」
なんでそんな事をしているのかと考えてから、ふと窓ガラスに目をやり、はっとした。
はフェンリルに食われるという末路を辿った。そしてあれから半年も経っている。妻に会いたいがために黄泉の国に向かった男が、妻の異様な姿を見て命からがら逃げ帰ったなんて神話があるが、もし目の前のがその異様な姿でここに立っていたら――。
想像した途端、背筋にじわりと怖気がのぼって来る。
もしもそうだった場合、自分は平常心でいられただろうか?
「……別に、腐ってないから」
なんとか絞り出すように発した声はいつもどおりの調子だったか、にはわからなかった。
「頭、骸骨でもないですか? どろどろー、ぐちゃぐちゃーという感じでも?」
言いながら、自分の両手で自分の頬や髪を触って確かめる。
「俺には、ごくごく普通の人間に見えるよ?」
「フェンリルの唾液まみれでべっとり、というわけでもないでしょうか?」
「うん。普通に乾燥してさらっとしてる」
「……ミイラという意味で?」
「いやいや! 服が乾燥してるって意味。肌も普通にみずみずしいよ」
「みずみずしい感じの、……死体?」
「違う違う! なんていうか、お、……俺の知ってるって意味!」
「……本当に?」
コクコクと頷くと、は腑に落ちないといった表情で、両腕を確かめたり、自分の身体を見下ろし、最後にくるりとその場で一回転してみせる。
「背中の方も、なんら変わりないでしょうか?」
「変わりないよ」
「……ふふ。そうですか。安心しました」
その言葉通りに微笑む姿に、言い様のない感覚を覚えた。
何に対しての安心か――おそらく、先ほどが考えた事をも同じように考えて、もそうであると見越したに違いない。さっきはあんなによそよそしかった割に、気遣われ、また労わられている。
しばらく思考に耽った末、ハッと我に返ると、対面のが不思議そうに首をかしげ、きょとんとした表情でこちらを見ていた。何も言わずにじーっとの顔を見つめるものだから、の胸中に不安めいた感情が徐々に頭をもたげる。どうしてかじわじわと胸が締め付けられるような気がして――言いようの無い気まずさに顔を逸らそうかと思った頃、が口を開いた。
「泣かないでくださいね。……同姓ならともかく、泣いている異性の対処の仕方なんて、私、経験がないのでわからないですから」
ちょっと冷たい言い方に、自然と口元が緩んだ。
「……そんな顔してるかな」
尋ねると、はほのかに微笑んで、ゆっくりと首を縦に振った。途端に、の目の奥にじわりと、何かがこみあげてくる。
「男の人は、みだりに泣いてはいけません」
「実は涙腺がもろいタイプなんだ」
「泣いたら実力行使しちゃいますよ?」
「……どうやって?」
がえいえい、とお腹に握りこぶしを当ててきた。軽い掛け声と共に、かすかな衝撃が腹部に広がる。パンチしているつもりなのだろうか。えいえい、という声とともにぐいぐいと腹に拳を当ててくるその仕草はどうしてか楽しそうで、じゃれついてくるその姿が何だか幼く見えた。
「……い、痛いよ」
別に痛くはなかったけど、どうしてかそんな言葉が口からぽろりとこぼれた。
「あっ、すみません……」
が慌てて手を引っ込め、それからの顔を見て、固まった。何か言いあぐねるようにんーと唸って、視線を彷徨わせる。
「……こ、困らせた?」
尋ねると、がほんの少しだけ顔を逸らした。まるでの顔を視界に入れないよう気遣っているふうだった。
「困ります。そういうのは、好きな人の前でやるべきです」
「は……うん。好きだよ」
間があった。ぽかんと驚愕するに向けて誤魔化すようにへらっと笑って見せると、ため息を吐かれてしまう。
「前々から思っていたのですが、……八方美人? ですよね。見境がないというか……」
「失礼な。分別をつけた上で見境がない、と言ってほしいなあ」
「そんな風にふらふらしてたら、本当に好きな方に嫌われちゃいますよ」
は苦笑を浮かべて、制服のポケットをあさり始める。しかし目的の物が見つからなかったのか小さなため息をこぼして、の方に手を伸ばしてきた。失礼します、と言葉で前置きしてから、引っ張ったブラウスの袖での目尻をちょんちょんと、おっかなびっくりな仕草でぬぐう。
「それを言うなら、だって。あいつ、結構嫉妬深いぞ」
「……ええと。誰の事でしょう?」
「またまた。すっとぼけちゃって」
茶化すように言えば、は心底困ったような顔になる。思い当たる節は見つかったが、けれどもにわかには信じがたい、といった様子で、ふるふると首を振った。
「ありえません」
「そうかな?」
が首を傾げると、対面にいるも鏡合わせのように同じ方向へ首を傾げた。んーと小さく唸って、悩むような素振りを見せる。
「……確かに、くんには入れ込んでいらっしゃいましたから、私に対して嫉妬が向かうのであれば納得がいきますね」
「まって。違う。そういう意味じゃないから」
怖い事言わないでよ、とがブルブル震えると、がくすっと微笑んだ。
「では、どういう意味でしょう?」
「ええと……嫌われるよ? っていう意味、かな」
「嫌われるも何も、私はもう死んでいるのですが……」
「うん。そこからさらにイメージががた落ちするよ」
「別にいいですよ。そのまま私の事を忘れてくださるなら、本望です」
「……本当に?」
「ええ。死んだ人の事ばかり気に掛けるより、未来を見据えてくださったほうが私は嬉しいです」
「耳が痛いなあ」
「ふふ。そのつもりで言いましたから。……くんも、反魂香を使うのでしたら、せめて間を置いてください。毎日は絶対に駄目ですよ」
自分本位の考えで反魂香を使って、その結果、どれだけを心配させているのか。
そもそも彼女がこの状況を芳しく思っていないだなんて、よくよく考えずとも分かる事だ。
別に死者に会うことは絶対に駄目だと、法で定められているわけではない。そもそも反魂香なんて普通に、そこらじゅうに出回っているわけじゃないから、そんな法律が作られること自体腹がよじれるほどおかしいのだが――しかし、今がこうしていることは、何らかのルールに抵触している。
人が人であるための倫理観、とでもいえばいいのか。言葉で美味く表現する事はできないが、それでも人としてごくごく当たり前の自然な流れというものがあって、今のはその流れに逆行しているのだとわかってしまう。
ここでしっかり別れを告げて、反魂香をアリスにきちんと返さなければならない――考えたら、普通にわかる事だし、それが人としての正常な思考だ。
「じゃあ、3日おきくらいでどうかな」
「短すぎますよ」
「4日」
「駄目です」
「それじゃあ……5日くらい?」
「……そのくらいなら。あと、お香を焚いても、眠る時間はきちんと取ってくださいね」
「えー。それはちょっと勿体無いよ」
そう言うなり、えいえいと窘めるかのように腹を小突かれる。無邪気なその仕草に、自然と笑い声が出た。
アリスに反魂香を返さなければならないとわかっているのに、なぜこんな提案を持ち出してしまったのか。は自分自身を嘲るような思いで、の悪戯めいた笑顔を見つめた。
普通にわかることを何故やらないのか。
――そうやって悩む事で、自分は逃げているのだとすぐに思い当たり、は内心自嘲した。
このまま反魂香を使うのは駄目だと思う。後々、危うくなるのではないかと思う。ろくでもない事になりそうな予感もある。……けれども――少しくらいいいんじゃないか? 少し、ほんの少しなら、大丈夫なんじゃないか? 後に響かないんじゃないか――?
甘え、なのかもしれない。事の重大さに真正面から向き合う事を避けている、という自覚もある。しかし、一度失ったものを手放すのは、あまりにも惜しい。そんな事を考える自分が愚かだという認識も、ある。
反魂香を使った人たちは、死人に会って、その後どうなったのか――笑うを見ながら、ふとそんな疑問が脳裏を掠めた。
あれからは3回、と話をした。つまり、計5回、反魂香を使ったことになる。
それによる体調の変化は、今のところ見受けられない。食欲は変わらず、倦怠感もない。いたって健康だ。どうやらアリスの言葉通り、本当にデメリットがないようだ。とはいえ、これが後々跳ね返ってくるのではないかという不安はぬぐいきれない。
そもそも、反魂香の原材料はなんなのだろう。どうやってあれを作っているのだろうか。まさかアリスに反魂香が作れるのだろうか。そんな疑問がぽつぽつと芽生えたが、しかしはそれをアリス本人に尋ねることができずにいた。
「……? 聞いてるかー?」
「え、……あ、……悪い。聞いてなかった」
昼時をとうに過ぎた、もう間食の時間と呼んでもいい頃。閑散としたジプスの食堂で食事をとっている最中、珍しく大地と維緒に遭遇し、そのまま同席する事になった。しかし二人との会話に集中する事もままならず、こうやって窘められるのはおそらく2回目になる。
「お前、さっきから大丈夫かよ……。疲れてんじゃないの?」
「いや。平気。ちょっと考え事してた」
「……えと、考え事? 悩み、とか?」
維緒がキョトンとして、首を傾げた。
「そんなんじゃないけど、……まあ、考え事」
「水臭いなー。話せる事だったら話せよ」
「……。まあ、そのうちな」
曖昧に言葉を濁して話を打ち切ると、大地と維緒は怪訝そうにを見つめた。そうして二人は一度顔を見合わせて苦笑を浮かべたのち、適当な雑談を持ちかけてきた。の考え事について深追いはしてこない。
多分、気を使ってくれたのだろう。それに、いつかがその考え事の中身を話してくれるのではないかと期待されているのが、にはわかってしまう。
もし今ここで「に会える」と話したら、目の前の二人はどんな反応を示すのか。反魂香について教えたら、二人は驚くだろうか。会いたいとせがむ姿が容易に想像できる反面、悪魔から貰った線香に警戒し、戸惑う姿も容易に想像できてしまう。
「オーイ、サン、聞いてますかー?」
「……ごめん」
悶々と考え込んでいるうちに、本日3回目になる窘めの言葉が大地から飛んできて、は自嘲めいた笑みを浮かべつつ、口だけで謝った。
食事を終え、廊下で二人と別れると、は一度自室に戻った。今朝大和から渡された資料が入った茶封筒を抱えるとそのまま部屋を出て、史の研究室へ向かった。理由は特にない。しいていうなら、ただ単に落ち着く、それだけだ。
扉をノックすると、部屋の中からすぐに軽い返事が聞こえてきた。機嫌はよさそうだ、と思いつつはドアノブをひねって扉を開けた。
「よっ。お疲れちん」
「んー、お疲れちん」
モニタから顔を逸らす事無く史が言う。エアコンが聞いた部屋は廊下より温度が低く、空気はさらっとしていた。除湿でもかけているのかもしれないと思いつつ扉を閉め、カタカタと鳴り止まないキーボードの音を耳にしながら、は部屋の隅の簡易キッチンへと向かった。自分の分だけ適当にお茶を淹れると、こざっぱりとした応接スペースへ向かう。テーブルにカップを置き、大和の執務室にあるソファとは段違いに安っぽいソファに腰をおろし、そのままぐったりと背もたれに身体を預けた。
そんなに目もくれず、史は黙々と作業を続けている。白い指先は忙しなくキーボードをたたき、モニタの明かりを真正面から受けるその横顔は、いつにもまして青白く見える。かといって、調子が悪いわけでも、機嫌が悪いというわけでもないようだ。
「昼飯食べた?」
「まだ」
なんとなく話しかけてみると、たった一言だけ返ってきた。その間、キーボードを叩く指の動きは変わらない。どうやら急ぎの仕事を処理しているようで、それっきり史は何も言わなくなる。さすがに邪魔をするのもどうかと思い、はぐったりとリラックスした姿勢のまま、カップに注いだ茶をすするように飲んだ。
封筒から書類を出して、ざっと目を通していく。大和が渡してくる書類は難しい言葉ばかりで、何が書いてあるか理解するのに幾分時間を要する。悪魔の名前もが知らない悪魔を大和は知っているから、それを調べるのにも一苦労だ。とりあえず書類を読んで分かった事は、数世紀も昔は野葬地だったという地域にナムタルという悪魔が出没し、疫病をばらまいているとの事だった。2ページ目には地図および対処法が書かれている。
書類を渡された際「誰でも連れてっていい」との事だったので、誰を連れて行くか悶々と悩んでいるうちに、ふと人の気配が近づいてくるのを感じた。書類から顔をあげると、ちょうど隣に史が腰をおろした所だった。昼飯のつもりだろうか、パックに入ったゼリー飲料を吸いながら、の手元の書類を覗き込む。
「なに、次の仕事?」
「うん。誰か連れてけって話なんだけど……史、来る?」
「絶対ヤダ。ていうかムリ」
ですよね、と軽く笑って、は茶に口をつけた。
史は今まで、についてきたためしが一度もない。というより、史を連れて行こうと思い立ったときは決まって史に大掛かりな仕事が回ってきて、いつも決まってタイミングが悪かった。どうやら今回もそうらしい。
「シジマかイオ連れてけば?」
「んー……いいや。一人で行くよ」
ちゅーっとゼリーを吸い上げながら、史はじーっと観察するようにを見つめる。
「アンタさ、最近変だよね。何かあった?」
「……い、いきなり何を言い出すのかな。そう思った根拠は?」
「サコっちがぼやいてた。……『最近、の様子がちょっとおかしいんだが』って」
銀色のパックから口を離し、こほんとひとつ咳払いして史が変な声で言うものだから、はふっと鼻で笑った。
「……それさあ、真琴の真似? はっきり言って、全然似てないからね」
「だろうね。モノマネとかアタシの本業じゃないし」
史もふっと鼻で笑って、ゼリー飲料を吸い始める。柄にも無い事を平然とやってのけた史の横顔をぼんやりと見つめ、それからは自嘲するような笑みを浮かべた。
史の言葉は、根拠としては大いに納得できた。マコトは長きにわたりジプスの幹部、それも伊達に大和の側に仕えているわけではないという事か。大和の感情の変化は乏しいというわけではないが、それでも終始薄い笑みを貼り付けているから、若干読み取りにくい部類に入る。それをずっと側で見てきたのだ、の変化なんてそれこそすぐにわかってしまうのだろう。
「俺の様子がおかしいって言ってたの、真琴だけ?」
「んーん。実際会って話したのはシジマとイオとバンとジョーンズ。……他の下っ端ちゃんたちも、食堂で噂してるのは見たかな」
「なるほど道理で。最近くしゃみがよく出るなと思ってたんだよ」
「フーン」
ひどく興味なさそうな相槌のあと、史はゼリーのパックをゴミ箱へほうり投げた。も茶を飲み干し、空になったカップを静かにテーブルの上に置いた。
「アンタ気付いてないみたいだから言っとくけど、アンタって結構目立つし、皆気にしてるよ」
「なるほど。……史ちゃんも気にしちゃったりとか?」
「こういう時にちゃん言わないの」
「冗談はさておき、噂の中身を教えてほしいんだけども」
「んー? 聞きたいの? アタシから聞くと高くつくよ?」
「じゃあお茶淹れたげる」
「やっす。まあいいや」
空になったカップを手に取り立ち上がる。簡易キッチンに向かい、水の入ったヤカンを火にかけ、急須と茶筒を取り出すと、史が唐突に話し始めた。
「今日さ、ロナウドとあの、アレ。名前わかんないけど、まあ月命日じゃん。ちょうど半年の」
はぴたっと手を止めて、壁にかかったカレンダーを見つめた。確かに今日はロナウドとが死んで、ちょうど半年になる日だった。史がアレと言葉を濁したのは、文字通り名前がわからないからだろう。とことん興味のない人間の名前を、史はめったに記憶したりしない。
「だから様子がおかしいんじゃないか、って」
「……はあ。なるほど。噂ってそれだけ?」
「もひとつあるよ」
「なになに?」
一度呼吸をはさんで、史が口を開く。
「アンタ、たまにいい匂いする日があんの」
無意識に、唾を飲み込んだ。
いい匂いがする日――つまり反魂香を焚く日の事ではないだろうか。あれだけ匂いの強い香だ、移り香が自分の身体に残ってもおかしくはない。
は一度まばたきをして、静かに息をついて、首だけで振り返って史を見る。史もそれとほぼ同じタイミングでこちらを振り返った。にやりと笑みを浮かべたその表情は、なんとなく悪戯好きの猫を髣髴とさせた。
「だから、彼女が出来たんじゃないかって噂」
「…………あっ。そっちね」
はどことなく安堵する気持ちで、茶筒の蓋を開けた。緑色の茶葉を適当に急須にサラサラと入れ、ふたを閉める。
「その反応を見る限り、ハズレ?」
「……嬉しそうに言ってくれるね。ハズレだよ。忙しくて彼女なんか作ってる暇ないって」
史の方を見る事無く言えば、なーんだ、と史がひどく楽しそうにぼやいた。ついでソファがきしむ音がする。背もたれに身体を預けたのだろう。
そうこうしているうちにヤカンの水が沸騰した。火を止め、急須に注ぐ。史の分のカップを出して、二人分のお茶を淹れると、さっきの座っていた場所へ戻った。
「ん。ごくろう」
「ウム。よきにはからえ」
「それ、こっちの台詞だから」
史の前に茶を置いて、よっこらせとソファに腰掛ける。茶をすすりながら再度カレンダーに目を向けた。あれから半年の月命日。史の言葉を頭の中で反芻する。
今日はロナウドとの命日だという事が頭からすっかり抜け落ちていた。なぜ今までその事に気付かなかったのだろう。反魂香で、お手軽に死者に会えるせいだろうか。理由はよくわからない。ただ、大事な事を忘れていた自分自身に、驚きとショックが隠せなかった。
史の顔を見る。相変わらず、顔色は病的なまでに血の気がなかったが、それでも表情を緩めてカップを手に取り、茶に口をつけていた。
「なあ史」
「んー?」
「もし死んだ人に会えるとするなら、史はどうする? どうしたい?」
気付けば、そんな言葉が口から出ていた。はっとして史の顔を見たが、史はいつもどおりなんだか眠たそうな目を一度しばたたかせ、そうねえ、とぼやきながら首をひねった。
「特にアタシはどうもしないし、どうもしたくないけど。そもそも死人に会うってのが、まずムリでしょ」
「……そうなんだけどさ。たとえ話だよ、たとえ話」
「感傷的だねぇ。……ま、仮にロナウドに会えたとしても、アタシは別にって感じ。何も話す事思いつかないし」
「あー、うん。史だしそうなるよね……」
シビアな考えの持ち主なので、そういう事にはめっぽう興味を示さないのが史だった。
「何? はロナウドとかに会いたいワケ?」
「まー、会えるならね。正直、死ななくてもよかったと思ってるし」
「……うん、まあその意見にはちょっと同感だわ」
言いながら、史がうんうんと首を縦に振るのが視界の隅に映った。
「どうしたら死なずに済んだと思う?」
「今さらその話ー? あの二人が変な意地持ってなきゃよかった、それだけの話でしょ」
「こっちに責はないってこと?」
「当たり前じゃん。乱暴な言い方すれば、勝者が絶対正義って思想だし」
言い終わると、史はカップを手に取り、すするように茶を飲んだ。カップから口を離すと、史は足を組みなおす。
「やっぱって甘いよね。散々やめとけって言われても、力のない者を気にかけるし」
「……人として当たり前の事だろ?」
「確かに人として当たり前よ? でもそれってさ、この世界のルールに背くワケじゃない」
史の言葉にどきりとした。
ルールに背く。いつだったかそんな事を考えたような覚えがある。
「世界のルールって、実力主義のルールってこと?」
「そそ。弱者は淘汰されるべき存在なのよ」
「確かにそうだけど、手を差し伸べる事くらい許されてもいいんじゃないか?」
「だから、それが甘すぎだって。助け合うのは同じ立ち位置の人間同士しか許されないんだから」
「……なんかそれ、……その考え方、……俺、嫌だな……」
「嫌だなって……何言ってんの。アンタが、局長と望んだ事じゃない」
そうだ。自分が望んだ事だ。大地、ロナウド、大和、アルコルの話を聞いて、大和の考えが真っ当だと思ったから、は大和の手を取った。
けれども――本当にこれはが望んだ世界の形だっただろうか。実力のある者が相応の地位と対価を得られるという考えに賛同したが、しかしこの世界の現状はどうだ。弱者が、弱者であるがゆえ、生き残るために必要な者をかき集め、不要な物をどんどん捨てていく社会。まだ実力があるかどうか判別がかなわない赤子が、人通りの多い道路の隅や、コインロッカーの中に捨てられるなんて話は日常茶飯事となっている。
親は子供を選べないし、子供も親を選べない。無能な親のもとに生まれた子供はもちろん、有能な親のもとに生まれた無能な子供の末路も悲惨たるものだった。
以前の世界と比べ、虐待のニュースを目にするようになった。それは社会の仕組みが改善された事により氷山の一角から氷山全体を見ることに成功したのか、それとも氷山そのものが肥大し、比例するように氷山の一角が大きくなったのか――。
歪んだ社会構造だと、たまにそんな不安が過ぎる事がしばしばあった。しかしその不安を極力排除するよう、はつとめてきた。大和の決断は正しい。ゆえにこの世界のルールは正しいのだとそう信じ込んできた。おそらく、これから先もそう信じ込まなければ、この世界では生きていけない。
は茶を一気に飲み干すと、空になったカップを手にしたままソファを立ち上がった。簡易キッチンに向かい、流しでカップを洗って棚に片付ける。その間、史は何もいわずにずずーっと茶をすするように飲んでいた。
手拭で濡れた手を拭いた後、はソファがある方へ戻る。しかし腰掛ける事はしなかった。
「時間も時間だし、俺もう行くわ」
「んー。頑張って」
「おう。それじゃ、また」
「……待って。最後にひとつ」
「何?」
呼び止められた手前、立ち止まって振り返らないわけにもいかなかった。少し離れた場所で史の言葉を待つと、史は少しの間悩むような素振りを見せて、苦いものが混ざった笑みを浮かべる。
「ま、アタシもさ……あとほんのちょっとだけ穏やかだったらよかったかな、とは思った事もあったよ」
何が穏やかなのか――考えずとも、には史の言わんとする事がすぐにわかった。
「……そっか」
「それじゃ、いってらっしゃい」
「うん。いってきます」
お互いにひらひらと手を振って、は史の研究室を後にした。
ナムタルの討伐を終え、はたった一人で東京都内のある雑居ビル街を目指していた。いや、いまは旧都心と呼ぶべきか。世界の改革により街並みは変わってしまったが、しかしその場所だけは、相変わらずあの時と同じ景色をたもっている。
薄暗く狭い路地。等間隔に電信柱が点在し、両脇に立ち並ぶビルが容赦ない圧迫感を与えてくる。歩道をゆく人はまばらで、薄ら寂しさを抱かせるこの場所こそ、がこの世から喪われた場所だった。
が絶命した地点は道路の真ん中にあるから、いくら人がまばらとはいえ車通りもそこそこにある道路のど真ん中に立って手を合わせる勇気はにはない。歩道のガードレールのすぐそばに立ち、その地点とおおよそ直線距離で結ぶ事が出来る場所から、は手を合わせて頭を下げた。
道行く人の怪訝そうな視線を背中に感じたが、はしばらくの間頭を下げたままだった。そうして顔をあげ、ふとガードレールの柱の根元にぽつんと置かれた物を見つめ、怪訝そうに首を傾げた。
一本だけ、赤い花が添えてある。ヒマワリを小さくしたような形で、どこか見覚えがある気がしたが、しかし花の名前はわからない。道路の真ん中とその一本だけの花を交互に見比べる。誰かがうっかり偶然落としたとは呼べない配置。ともすればこの花はに向けられたものなのだろう。
誰が花を添えたのか。がこの場で死んだのを知っている人間は限られている。
唐突に大和の顔が思い浮かんだが、ありえないと一蹴した。アルコルを討ち取った時はやや感傷めいた態度を見せたが、すぐに次の段階へと気持ちを切り替えていた。大和は死んだ人間を悼みこそすれ、死地に花を添えるだなんて事をするような人間性は持ち合わせていない。というより、そもそもこういった場所に足を運ぶ事すらしないだろう。大和はそういった性質の人間だ。
では、誰が添えたのか。は怪訝に思いつつ、自分も花を買えばよかったかなと後悔の念を抱いた。あと半年後、一周忌には花束でも添えようかと考えつつ、はジプス東京支部へ向かった。
東京支部は相変わらず議事堂の地下にあった。が正規のジプス局員、それも幹部となった今では出入りも自由で、施設内の設備の利用許可も大和からきちんと出ている。使用に事前承認が必要なのは地下鉄道くらいなもので、ターミナルの利用は完全に自由だった。はそのターミナルを利用し、大阪本局へ戻ると、そのままなんば戒橋へと向かった。
平日の夕方、帰宅ラッシュと時間帯がかぶったせいか人通りは多い。人が織り成す騒がしさを耳にしながらは橋の欄干に手をかけ、黒い水面をぼんやりと見つめた。
ロナウドが自ら川へ飛び降り、濁った水の中に沈んでいく光景は鮮明に思い出すことはできたが、しかしロナウドの顔立ちが上手く思い出せない。強固な意志を感じさせる瞳や、口から出る言葉全てが希望と理想に溢れていたとか、そういった印象めいたものははっきりと思い出せるが、顔の造形薄くもやがかかっていて、よくわからなかった。思えば今は亡き両親の顔もおぼつかず、高校のクラスメイトに至っては誰が死んで誰が生き残ったかすら思い出せない。半年もたてばこうなるのかと、どうしようもない寂しさを覚えた。
ふいに、川に面して真っ直ぐ続く歩道に、見覚えのある人影があるのに気付いた。は迷わず走り出す。
「真琴!」
声をかけると、真琴はビクッと肩を震わせてを向いた。真琴はの姿を見るなり驚愕したが、すぐに呆れの混ざった苦笑を浮かべる。
「……か。ナムタル討伐任務は終えたのか?」
「うん。手こずったけど、そこまで強くなかったからすぐに終わったよ」
「そうか」
真琴は一度頷いて、それから黒い水面を見つめた。も真琴の隣に立ち、ならうように水面に視線を向ける。
「一人?」
「……いや、局長の付き添いだ」
「大和? 近くにいんの?」
言いながらあたりを見回す。それらしき人影は、ない。
「近くはないな。徒歩で10分くらいだろうか。……一時間は要する、その間自由にしていいとの事だったので、お言葉に甘えて抜け出してきた」
真琴の話から察するに、ここからさほど遠くない場所で、談合でも開いているのだろう。大和にそういった用事が入った場合は必ず真琴を連れて行くし、ともすれば納得がいった。
「そうか。じゃあもう戻る?」
「ウム。そのつもりだった。……しかし、まさかここにがいるとは思わなかったよ」
「だって、ロナウドの命日だし」
そう言うなり、真琴の凛とした瞳がほんの一瞬だけ揺らいだ。
「……そうだな」
「真琴もそのつもりだったんだろ?」
「そうだが……、しかしこうして追悼のつもりで足を運んでも、……特に何も変わらないな」
そう言って、真琴は空を仰いだ。も空を見上げる。橋にきても劇的に天候が変わるわけでもなく、梅雨間近に差し掛かった事をうかがわせるどんよりとした曇り空が頭上に広がっていた。
「ええとさ、真琴に聞きたいことあるんだけど」
「ん? どうした」
「――……あ、いや、わからないか。もう一人、亡くなってるんだけどさ」
「……。だろう?」
「えっ? 知ってたの?」
「うむ。何ヶ月前だったかな、志島と新田の二人と共に討伐任務に当たった際、移動中の車内で話を聞いた」
「あ、そう……」
大地と維緒、二人の教育の一環としてだろうか、真琴が指揮を取って任務をこなす事はよくあるから別に驚きはしないが、しかしそういった話をしていただなんて、は初耳だった。
「まあ、その現場っていえばいいのかな……見に行ったら花が添えてあったんだけど、真琴かなって」
「いや、私はその場所を知らないし、没した場所に花を手向けるなどそういった事はしないよ。まず道端に花やジュースを添えるのは、住民からすれば迷惑甚だしいからな」
「え、……えーと、迷惑なの?」
「当たり前だろう。日中ろくに水もあたえられず、温いアスファルトの上に置かれた花束なんてすぐに枯れる。それに、いくら未開封とはいえ、何日もの間道路の上で直射日光や雨水やらを浴びた缶飲料や菓子を口にしたいとは思うか?」
想像する。確かに、食うに困っている時は迷わず飲むかもしれないが、食うに困ってない今は遠慮したい気持ちの方が大きかった。
「そういう行為は、ただの身勝手な自己満足に過ぎない。もしその場所が他人の所有地だったらどう思う? その人から見れば、さしずめ家の中にゴミを捨てられるようなものなんだよ」
確かにその通りだった。なるほどと思い少し視線を下げると、真琴がにわかに微笑んだ。
「、私は酷い事を言うやつだと思ったか?」
「正論だと思った。……一周忌に花束を添えようと思ってたから、その考えは改めるよ」
「いや、花や食品類を手向ける行為を別に否定しているわけではないんだ。きちんとそれを持ち帰るのであれば良いと思う。あとは、献花台が設けられている場合などはな」
ふむふむと頷くに、真琴はいかにも微笑ましげなまなざしを向けた。
「大和の用事はまだあるの?」
「今日はこれで終わりだと伺っているが。……一緒に戻るか?」
「おっ。さすが真琴」
「では行こうか」
先を行く真琴の背中についていく中、は一度だけ川を振り返る。相変わらず水面は黒く、底が見えない。街並みも、ロナウドが死んだときと変わらない。
今日ここに足を運んだ意味はあったのだろうか――は前を見つめ、歩き出した。
大和専用とも呼べる公用車の後部座席で、運転手と些細な会話を交わしつつ待つこと20分。建物から真琴を引きつれた大和が出てくるのが見えた。真琴が車のドアを開けると、大和が何も言わずに車に乗り込む。その際、車が僅かに揺れた。
見るからにひょろ長く軽そうな印象を与える大和の体型だが、実際のところ体重はいくらあるのかは知らない。大和は冬も春も変わらず重装備なので素肌を露出させる事はないし、どういった体型なのかも想像が付かない。ただただ、折れそうな痩身の割にしっかりしているという印象だけが残っている。
大和は止まる事を知らない機械のように朝早くから夜遅くまで働いている。17という若さで、若いからこそできるのかもしれないが――その身体に圧し掛かる重圧は如何ほどのものだろうか。少なくとも、満員電車ですし詰めになって死んだ顔で通勤している会社員よりは、遥かに大変なのだろう。ですら日々与えられる任務の処理で手一杯だというのに、大和の顔はいつどこでも疲労の色を一切匂わせない。限界という言葉は大和の辞書にはないのだろうか。
……なんてぼんやりと考えている最中、ふいに大和が口を開いた。
「待たせたか」
小さな声だった。脇に抱えた封筒から書類を出し眺め始める視線が一度を捉え、そうしてようやっと自分に向けられた言葉なのだと気付いた。
「……いや。別に待ってないけど」
言うなり真琴が助手席に乗り込んだ。扉を閉める音が声に重なる。今の言葉が大和にちゃんと通じたのかはわからない。しかしこちらを一瞥していた大和の視線がそれをきっかけに再度書類へ落とされた。
真琴と運転手が二言三言言葉を交わし、そうして車が発進する。雲の上の陽がかたむいてきたのか、戒橋にいた時よりも外は暗くなっていた。歩道の電球にぽつぽつと明かりが灯るのを、ぼうっと見つめる。
「ナムタル討伐はどうした?」
「何の問題もなく終わった。報告書はこれから出すよ」
「フム。ご苦労だった」
さらりと労わりの言葉を向けられた。ご苦労だったという一言と、その抑揚の無さはいつもと同じで、だからさして有り難味を感じない。けれど、大和が労わりの言葉を向ける人間はほんの一握りだから、本当は喜ぶべき事なのかもしれない。
「しかし、どういう風の吹き回しだ? 用も無い所にわざわざ出向くなど」
「用があったからだよ。……ちょうど、半年になるからさ」
「……半年? 何がだ」
大和が首を傾げるものだから、思わず苦笑が浮かんだ。
やっぱり大和は何がどうあっても大和だなと思いつつ、半年について説明するか迷った。なんとなく視線を上げルームミラーを見ると、鏡越しに真琴と目が合った。どうやらと大和の会話に耳をそばだてていたらしい。目を細めて笑って見せると、真琴が一度目を見開いたのち、苦笑を浮かべた。
言うべきか、言わないべきか――そうこうしているうちに、車がゆっくり減速する。赤信号に掴まったようだ。
「?」
名前を呼んで、急かされる。助けを求めるように真琴を鏡ごしに見れば、真琴はじっと真っ直ぐにの目を見つめてきた。判断は任せる、ということらしい。
迷った末に、息を吸った。
「ロナウドとの、月命日だよ。ちょうど半年の」
言葉を紡ぐにつれ自然と視線が下がり、言い終わった後には静かに息をついていた。
それっきり、沈黙が降りる。
いつぶりだろうか、二人の名前を大和の前で口にしたのは。別に言ってはいけない単語でもあるまいし、たとえ大和が嫌がる単語を並べ立てたとして、それで大和の機嫌が悪くなったりはしない。大和はそういう性格なのだ。
しかし、車内の空気が重く感じられるのはどうしてなのか。
大和の顔はもちろん、真琴の顔を伺うことも出来ず、はぼんやりと窓の外を見つめた。対向車の色形を識別し、頭の中で順に車種をあげていくと、大和の方から僅かに物音が聞こえた。横目で盗み見るように伺えば、封筒の中に書類をしまっている。
「……。そうか」
その声は淡々としていて素っ気無い。大和が期待を寄せない人間に向かって言うような口ぶりそのものだった。それにはほっと胸をなでおろす反面、胸中に奇妙な落胆がじわじわと広がるのを感じた。
何か少しくらい、感傷めいたものを見せて欲しかったような――いや、やっぱり見たくないな。すぐに考えを振り払い、何となく大和の方に視線を向けた。
大和は膝の上に封筒を乗せ、外を見ていた。窓ガラスに反射して映りこむ大和の顔は、いつになく気だるげだった。ゆっくり瞬きしながら、ただ外を見つめている。
ふいに、大和が唇を動かした。それは本当に些細な動きと呼べるもので、声は全く聞こえない。ともすれば無意識のうちにただ唇を動かしただけなのだろう、と思いきや、視線を膝上の封筒に落とし、ごくごく小さなため息をついた。
は大和から視線を外し、再度窓の外に目を向けた。行き交う車を見つめながら、大和の唇の動きを真似てみる。
そうしているうちに、の頭の中でふと、ある言葉が浮かび上がった。
――半年か。
これが正しい解答なのかはわからない。真実味は皆無だが、しかし唇の動きに合うそれらしい言葉は、今のところこれ以外思いつかなかった。
これが大和の呟いた言葉だと仮定して、大和は一体何を考えたのだろうか。呟いたその直後にため息をついたが、どうしてなのか。
大和はほぼ本心を語ることはないから、これ以上はの憶測でしかない。憶測で大和を推し量るのははっきり言って無意味だ。それに、大和だって他人にあれこれ詮索されるのは嫌だろう。とはいえ、今さっきの予想を捨てることができず、はその考えを思考の奥へと押しやることにした。
本局に戻ってから報告書を作り上げた頃には、すっかり夜の帳が落ちていた。どんよりとした雲に包まれた空はさらに暗さを帯びる。どことなく降りそうだなという予感が過ぎり、は大和に報告書を提出したのち、夕食をとるため食堂に向かった。
定食を頼み、空いている席を探していると、純吾の姿を見つけた。
相席を申し出ると、純吾は二つ返事で快諾してくれた。
正面に腰を下ろし、夕飯を食べながらいくつか会話を重ねる。ただの日常会話から、ロナウドとの話に切り替わり、そうしてあの花を添えたのは維緒と大地と純吾だという事をとつとつとした口調で語ってくれた。
食事を終え、すぐに部屋に戻った。しばらくベッドの上に寝転がってぼんやりとすごした後、とぼとぼと風呂へ向かった。
風呂から上がった頃には、外は雨模様へと変わっていた。窓に近寄り、町を覗き込む。雨足はそこまで強くはないように見えた。雨粒は小さく、しとしと、と音がしそうなほどの柔らかさをもっている。
気が付けばもう、5月の下旬に差しかかろうとしている頃だった。もう少ししたら梅雨の季節がくる。
反魂香を入手してから、一ヶ月が経とうとしていた。
「……もう、梅雨入りしましたか?」
雨が当たり、さあさあと音を立てる窓ガラスを眺めながら、がぽつりと呟いた。
「ううん、してないよ。でもそろそろかな。最近雨多いし」
「そうですか。じゃあ、私が次呼ばれるときは、梅雨真っ只中でしょうか?」
「んー。どうだろ。今調べてみるね」
ちょうどタブレット端末を弄っていたので、一旦仕事で使っていたアプリを終了させ、ブラウザを開いた。適当に、地名と梅雨入りというキーワードで検索をかけてみる。
「6月10日ごろ、だってさ」
何だか仕事を続ける気にもなれず、ヘッドボードの棚に端末をのせ、そのままベッドの上に横になった。のほうを見れば、僅かに首を傾けて、何か思案を巡らせているように見える。
「6月10日……。大和さんの誕生日ですね」
「……えっ。マジで」
「はい」
再度タブレットを手繰り寄せる。仕事用の端末なので、通話アプリやトークアプリの一切が入っていないので、メーラーを開くしかなかった。新規メール作成を選び、『お前の誕生日6月10日なの?』という一文だけのメールを大和のアドレスに送ると、すぐに返信がかえってきた。
『そうだが、仕事用の連絡先に私用の連絡はやめたまえ』
大和らしい文章に苦笑を浮かべつつ、はまた端末を棚へ戻した。
「誕生日か。……なんか贈ったほうがいいかなあ? は何か送ったことある?」
「特には。小さい頃、誕生日のお祝いをしてもいいでしょうかと申し出た時、いらんとつっぱねられた覚えがあります」
の言葉通り、素っ気無い態度を示す大和がすぐに思い浮かんで、思わず苦笑が浮かんだ。
「俺だったら喜ぶのになあ」
「ふふ。でも残念です、くんの誕生日にお祝いの贈り物はしてあげられません」
が肩をすくめて微笑んだ。
「いいよ、贈り物なんて。こうやって話してくれるだけでいいよ」
「……くんは、次の誕生日で19歳ですか? その頃にはくんに大切な方ができて、私はお役ご免になっていそうですけれど」
「寂しい事言うね」
「寂しいも何も、当たり前の話じゃないですか」
が苦笑を浮かべた。
「くんは私と違って、これから毎年、確実に歳を取っていくんです。このまま30歳、40歳になっても独り身で、……こうやって私に会い続けるおつもりですか?」
「あんまりそういう話はしたくないんだけどなー……って言ったら怒る?」
「怒りますよ。私が死んでいることを忘れてもらっては困ります」
「忘れてないよ」
「では、こうして死人に会えること自体が異常だという認識はありますか?」
がすっと目を細める。さっきの柔らかな表情とは打って変わって、明らかに怒っているような表情に、は口を引き結んでから僅かに視線を逸らした。
「くん。異常を正常だと思い込む事が、一番危うい事だと思いますよ」
「わ、わかってます」
「……本当に?」
「ほんとほんと」
しばし見つめ合う。
先に折れたのは、だった。いや、むしろ、気を使って折れてくれたのだろうか――困った人を見るかのように微笑んで、それからさっきと同じように窓の外に視線を戻してしまった。
しんと静まり返った室内。タワービルの壁面に叩きつけられた無数の雨粒が、さあさあと音を奏でているのが、よく耳に通った。
何か喋ろうと思うのだが、口が自由にならない。ぼうっとした表情で窓の外をただ眺めるを、はじっと見つめる。その視線に気付いたのか定かではないが、ふいにが口を開いた。
「私もあまり、人の事を言える立場ではないのですけれど……たまにこっちが現実なのか、迷うときがあります」
「……迷う?」
少し、引っかかった。尋ねてみると、はこくんと首を縦に振る。それからに顔を向け、にっこりと微笑んだ。
「もしくんがよかったら、大和さんのお誕生日、何かお祝いをしてあげてください」
「……え? ……あ、うん」
の口からでた言葉は、期待していたものとは全く別方向のそれで、は僅かに面食らった。
「してあげて、だなんて大和さんが聞いたら『下に見るな』と怒りそうですね。……でも、くんであれば、きっと大和さんは拒否せずに喜ぶと思うんです」
否定はできなかった。
なんとなく、が誕生日を祝えば、大和は喜んでくれる予感はあった。それも、無条件に。常識の範囲内の贈り物であれば、喜んで受け取ってくれるだろうという確信もある。
「……じゃあ、も一緒に考えてよ。大和が貰ったら喜びそうなもの」
の言う“迷い”について気になったが、こうなってしまっては今さら聞き返すのも気が引けた。それにたとえ尋ねた所で、がきちんと答えてくれるかどうか分からない。こうして流れを変えて有耶無耶にされたのであれば、なおさらだ。
棚からまた端末を取り出す。うつ伏せに寝転がった姿勢で端末を操作し、とりあえずブラウザを開いた。の知る限りでは最大手と思われるネットショッピングサイトのトップページを開いたところで、僅かにベッドが軋んだ。視界の端に、がこちらに近づいてくるのが移る。四つんばいになっての隣にやってくると、そのままごく自然に、の隣にうつ伏せになって寝転がった。
まるで好奇心旺盛な犬を彷彿とさせるような眼差しを端末の画面に注いでいるので、は苦笑を浮かべながらが見やすいように端末を移動させた。
「さ、触っても良いですか?」
そわそわしながら、端末をじっと見つめているのが少し面白かった。もしかしたら、こういうのに触れるのは初めてなのかもしれない。
「いいよ。……大和の誕生日かー。何がいいかなあ?」
尋ねると、は端末をなぞる指をぴたりと止め、首をひねって「んー」とそれらしく悩んだ。
「私、はっきり言って、大和さんの好みとか、知らないですよ? 味の濃いものが好き、という事くらいしか……」
の言葉で、一瞬ソースとマヨネーズにまみれたたこ焼きが思い浮かんで、思わず口元を緩めた。
「ああ。確かにそんな味覚してるわ。あいつ最近ジャンクフードにはまってるんだよ」
「……ジャンクフード?」
「焼きそばとか、ハンバーガーとか、カップ麺とか。この前牛丼買って来たら喜んで食ってたよ」
見るからに某チェーン店で買ってきました、といわんばかりの牛丼は、大和にはひどく不釣合いだった。おまけにその食べ方も大和らしく育ちの良さや礼儀正しさを伺わせる仕草だったので、なおさらそれが安っぽい牛丼に似合わず、そのアンバランスな光景を目にして必死に笑いを押し殺したのを思い出す。
「……大和さんのこと、濃い味で餌付けしてらっしゃるんですか?」
「人聞きが悪いなあ。世の下々が食べる美味いものを教えてるだけだよ」
不思議そうな、呆れたような、困ったような、そんなものが入り交ざった、哀れむような視線を向けられた。
「お野菜とかちゃんと食べてますか? お話を聞く限り、このままの食生活だと、なんだかお二人とも30歳手前になる頃にはどこにでもいる脂ぎった中年男性の様相になっていそうですけれど……」
その言葉からつい、腹が出てベルトをしめることができず四苦八苦している自分の姿を想像してしまった。
「ややや、やめてよ。怖い事言わないで。朝夕はちゃんとここの食堂で食べてるし平気だって」
「今日のお夕飯は?」
「……。焼肉定食」
怒るかと思いきや、はいかにも微笑ましそうに目を細め、さもありなんといった様子でうんうんと頷いた。おまけに、何が楽しいのやら、ぱたりぱたりと足を動かしている。
「ふふ。これでくんが二十歳になって、お酒が解禁になったらどうなるか……ふふふ、楽しみですね」
「うっ……気をつけます……」
いつからかはわからないが、酒を飲むと太るという認識がの中に芽生えていた。確かに今の食生活に加え、そこに酒が加わったらどうなるか――想像したくない。
しゅんと肩をすぼめるを嬉しそうに見つめ、は端末の画面に視線を落とした。ぱたぱた、と足を上下させながら、まるでおもちゃの広告でも見る小さな子供みたいに目を輝かせている。
なんとなく顔を寄せると、がちょうど二人の中間に端末を移動させた。画面を覗き込むと、が慌てて操作していた手を離す。妙な所で気を使うものだと苦笑を浮かべながら、構わないよと告げると、は初めこそ申し訳無さそうにしながらも、徐々に端末の操作に熱中していた。
すぐ隣でこんなふうにうつ伏せに寝転がって気にはならないのかと思ったが、しかし案外自身も気にはならなかったし、多分の方も同じ感覚なのだろう。
なんとなくの真似をして右足を持ち上げ、そのままベッドに軽く叩きつけてみると、ぽふっと空気の抜けるような間抜けな音がした。次は右足、と思ったら、ぽふんと音が聞こえる。なんとなく右足を軽く叩きつければ、の音を追いかけるようにもぱたんと足を叩きつける。の方を見れば、やっぱりもこちらを伺っていて――間近で顔を見合わせ、どちらともなく笑いあった。
妹がいたらこんな感じなのだろうか。高校のときのクラスメイトの話では、大抵の妹は生意気で可愛くないしワガママで損にしかならないと耳にした記憶があるが、気の置けない良い妹であれば大歓迎だ。
ぱたりぱたりと、二人で交互に足を動かして音を奏で、そこに雨音が混ざり合う。
心地良いと思う。と話しているとどこか安らいだ気持ちになる。
「くんは、大和さんが喜びそうなもの、何か思いつきましたか?」
尋ねる声が、楽しそうに笑っていた。それにつられて、自然と口元が緩む。
「全然。あいつが今貰って一番喜びそうなの、全く思いつかないんだよ。欲しいものとか無さそうだし」
「それは……、そうだと思います。大和さんが欲しいものは、もう手に入れていますから」
そう言って、はに向けてにこにこと笑って見せた。
「だから、喜びそうなものを考えるんです」
「欲しいものじゃなくて?」
は相変わらずにこにこ笑いながら、首を縦に振って頷いた。
「喜びそうなものか。……炭水化物系しか思いつかないんだけど」
「なら、それでいいと思います。ただ、お誕生日プレゼントに炭水化物? ってどうなんでしょう?」
「……うん。却下だな。……そういうこそ、何かないの?」
の表情が、眉尻を弱弱しく垂れ下げた微笑に変わった。
「すみません。思いつかないんです」
「それって卑怯じゃない? 俺ばっかに考えさせてさー」
「そうですね。……ごめんなさい。本当に、思いつかないんです」
困り笑いが、いっそう深くなった。
「昔ならすぐに思いついたかもしれません……でも、今は大和さんの事、全くわからないんです」
そう言って、は端末の画面へと顔を向けた。まるで逃げるように顔を背けられ、は面食らって動けなくなってしまった。
が端末を操作しないのを見取ってか、は人差し指を画面に押し当て、ゆっくりと滑らせている。その指先を見つめ――参ったな――左手で何となく後頭部を掻いた。
「じゃあさ、俺が何か選ぶから、良いか駄目か助言してくれるかな」
「はい。それならできそうです」
がほのかに笑う。少しぎこちない笑みだったが、それでも笑ってくれた事にはほっと胸をなでおろした。