そうしているうちに着々と日付は進み、つつがなく日々を暮らす中、は一人で悩みに悩んだ末、夜も更けた頃に大和の自室を尋ねた。
「……。何か用でも?」
出迎えた大和の格好を見る。ジャラジャラといろいろついた偉そうなコートは羽織っておらず、長すぎて実用性に欠けるネクタイも解いていたが、しかしジプスの制服のままなのは相変わらずだった。
「聞きたいことが」
「……。ふむ。立ち話もなんだ、入りたまえ」
いわれるがまま、大和の自室に足を踏み入れる。タワービルの最上階のフロア一帯がほぼ大和のために存在する部屋ばかりだが、しかし執務室に足を踏み入れることはあれど、自室に足を踏み入れる事は滅多にない。いまいち気軽いものを覚えることができず、はぎこちない動作で、部屋の中央に置かれたソファに腰をおろした。
途端にまふっとした感覚が尻から伝わってくる。背もたれに身体を預けるどころか、全身を投げ出したい衝動に駆られたが、はそれをぐっと堪えた。
しばらくして、大和がカップ二つを手にやってきた。応接テーブルの上、の前と、その向かいに位置する場所にそれぞれカップを置いて、大和はの対面にあるソファに腰を下ろした。
「何を硬くなっているのだ。……して、用件は?」
「ええと。大和ってさ、今何か欲しいものとかある?」
あったら教えて欲しいんだけど、と言葉尻に付け足すと、大和が眉を寄せた。怪訝そうにを見つめながら、右手の指で顎をなぞっている。
「……。特にはないが」
「ああうん。はい。ですよね」
予想通り且つ期待通りの回答に、全身から力が抜けていく。そのままソファの背もたれにぐったりと背中を預けると案の定、その背もたれはの身体をまふっとくるみこんでくれた。
「唐突に尋ねてきて、おかしな奴だ。……理由を聞いてもいいか?」
「え? ……うーん」
唸る。
の推測ではあるが、大和は自分の誕生日に関してかなり無頓着だ。というよりも、家で誕生日祝いの席を設けられた事があるのかすらも不明だ。
普通の、ごくごく普通の子供のように、食卓にご馳走を並べて、誕生日のケーキに歳の数だけ立てられたろうそくの火を消して――そんな風に両親から誕生日を祝ってもらった事はあるのだろうか。誕生日間近に欲しいもの尋ねられれば、誰しも「もしかしたら」という気持ちを抱くものだが、しかし今の大和を見る限り、そういった様子は微塵も感じさせなかった。
ともすれば、驚かせたくなるのが人というものだろう。ここでバカ正直に「誕生祝で」と話したら、サプライズの意味がなくなってしまう。
必死に思考を巡らせる。すぐに答えないと、余計に勘ぐられてしまう。大和は疎いが、しかしバカではない。もしかしたら、勘繰りが過ぎて誕生祝という解に至ってしまう可能性は捨てきれない。
「大層な理由はないんだ。ただ日ごろの感謝を形で表したいと思って」
「……。ほう。その姿勢は大変喜ばしいが、しかし私がに与えた任務の結果として既に貰っているよ」
失敗する事無く、たとえ失敗をしても事故処理を怠らず、速やかに仕事を終える。大和の期待に答えなければという圧力がもたらしたの日ごろの姿勢が、どうやらその言葉を招いてしまったらしい。確かに大和は言葉よりも態度や結果で示す人間に好意を示し、物を与えて媚び諂う人間は疎んじる傾向にある。よくよく考えれば分かる事だった。
「えーと、じゃあ本当に欲しいの無いわけ?」
「うむ」
それ以外の回答はありえない、という確信を得ているような頷きに、自然と苦笑が浮かんだ。大和がそう言うのであれば、そうなのだろう。
あれほど世界を変えたいと躍起になっていたから欲深いのだと思っていたのだが、大和の欲深さは世界の変革その一点のみに注がれていた。知識欲は旺盛だから、禁欲的というよりも、物欲がないのかもしれない。あるいは、に気を使っているかのどちらかだ。
上体を起こして、紅茶に口をつける。紅茶独特の芳しい香りが口腔に広がった。市販の紅茶とは明らかに違う香りは、やはりどこかあの部屋で飲んだ紅茶を髣髴とさせる。
そういえば、反魂香で呼び出した死人は、何か飲んだり食べたりできるのだろうか。それに、反魂香を使うときはいつも決まって夜になってから使っていたが、たとえば朝や昼から使っても効果は変わらないのだろうか。赤く透き通った液体で満たされたカップの中をぼんやり見つめ、再度カップに口をつけた。
「前から気になってたんだけど、お前が淹れるお茶うまいよな。どこで買ってんの?」
紅茶はもちろん、日本茶もちょっと普通のとは味が違うのだ。大和が出すお茶のカップや茶碗は見るからに高そうで、茶托もソーサーもしっかりしているから視覚的な効果も起因しているのかもしれないが、けれども食堂で飲むお茶とは段違いだった。
「……日本茶は静岡のある茶問屋、紅茶は英国のものだが神戸に代理店があってな、そこで購入している」
「はあ。自分で行って買ってるの?」
「そんな時間は無い。通信販売だ」
なるほど、と頷いて紅茶に口をつける。
「やっぱこういうのって、自分で調べて買うの? それとも出先で出してもらったりとか?」
「後者だな。わざわざ自分で調べて買ったりはせん。そもそも、そういったものにあまり頓着しない性質なのでな」
確かに大和は、たこ焼きを見て開口一番に「炭水化物か?」と尋ねたのだ。充分に栄養が取れるのであれば満足し、それ以外の事はあまり気にしないのだろう。嗜好品の類にはいるだろう茶葉であれば尚更だ。大和は常に忙しい。そういったものを調べる時間はないし、たとえあったとしても別のほうへ回すに違いない。
「俺、紅茶って大体ティーバッグしか飲んだことないし、大地はもちろん俺の友達も似たような感じだったからさ。なんかこういうの出してくれる人ってどういう人かちょっと気になるな」
というか目の前にいるんだけどね、と付け足して紅茶をすする。と、大和もカップを持ち上げ、紅茶に口をつけた。一口飲み干した後、ほんのごく僅か、眉尻を下げた。ふっと口元を緩めたその表情は、困り笑いとでも言えばいいのだろうか。そんな顔をしている。
「……。私以外の該当者を一人知っているだろう、お前は」
呟きめいたその言葉に、はぴたりと硬直した。大和は目を閉じ、何事もなかったかのように紅茶を飲んでいる。
「……ええと」
言いよどむ。まさかこのタイミングで“その話題”になるとは思わなかった。それに、この話を持ち出してしまった自分も、浅はかだっただろう。
これは、参った。どう返したら良いのか、わからなくなってしまう。視線を下げてカップを覗き込めば、何とも情けない顔が透き通った水面に映り込んでいた。
「……。あのさ」
「何だ」
「その話、お前にとって禁句だと思ってたんだけど。違う?」
「……。お前達が勝手にそう思っていただけだろう」
お前、ならまだしも、お前達、という言い方に、思わず笑ってしまった。
大和に対してたまに人並みの感情があるのかと疑問に思うときがあるが、やっぱりちゃんと人間なのだろう。宇宙人でも人形でも機械でもない。ごくあたりまえの感情が、ちゃんと備わっている。
「この際だから言っておく。腫れ物扱いは、やめろ。……虫唾が走る」
大和は、気付いていたのだ。皆から変な気を回されていることに。
「……あー。ごめん」
睨むような視線に苦笑で応じると、大和はふんと鼻息一つ鳴らして紅茶に口をつけた。
「じゃあ、遠慮しなくてもいいってこと?」
「当たり前だ。何故遠慮する?」
「何となく。なんか怒りそうじゃん、お前」
「そんな些細な事で怒るわけないだろう」
よくよく考えれば、大和はそんな小さい心の持ち主ではなかった。
「うん、ほんとごめん。俺、ちょっとお前の事勘違いしてたわ」
「付け足したような謝罪はいらん。態度で改めろ」
「すまん。……でもさぁ、考えてみてよ。大和ってあんま本心打ち明ける事ってないからさ、上辺だけの理解が深まったせいで接し方がちょっとおかしくなってしまうのもしょうがないと思うんだよね」
「言い訳にしか聞こえんのだが。……つまり、私に腹を割って話せと?」
「そうそう。そうすりゃ俺も遠慮なくいけるし、皆にもそうしてくれればいいなって」
「……。善処しよう」
ため息混じりのその言葉に、の口元が自然と緩んだ。微笑ましそうな、生暖かいような、どこか含みのあるその笑顔が気に食わなかったらしい、大和はから視線を外し、再度小さなため息をついた。
「うん。じゃあ俺もこれからは遠慮なくいくわ。……このお茶、が出してくれた紅茶と同じだろ?」
芳香の強さが少し違うが、多分大和の淹れ方がと異なるからだろう。大和の方は、どことなく濃い気がした。
大和は迷う素振りも見せず、ごくごく普通の態度で頷いて見せた。
「こういうものに関しては、あれの方が詳しかったからな。……それに、他に美味いと感じる茶が私には思い当たらなかった」
「そっか。……もしかしなくとも、ずっと買ってるよな、これ」
これ、という言葉を示すために手にしたカップを軽く揺らすと、中に入っている鮮やかな色の紅茶がカップの動きに合わせてゆるやかな円を描くように回転し始めた。大和はうんともすんとも言わず、ただ黙って手元のカップに目を落としている。
「そうだな。今年に入ってからこれ以外の紅茶に手を出した事は無いだろう」
しばらくの間をおいて、大和が頷いた。
「死んだ人間が好き好んでいた物を自分の習慣として取り込むという行為は、我ながら女々しいとは思うのだがな……」
言い終わると、大和はふっと目を細めて笑った。その眼差しには、自嘲や呆れの他に、どこか懐かしむような穏やかさがあった。
「大和はこれ以外に美味しいと思う紅茶がないんだろ? そういうの、俺は別に悪くないと思うけど」
「……。そうか」
ほんの少し間を置いてから応じた大和の顔がどことなく安堵しているようにも見えて、それがの目にはひどく新鮮に映った。
「なんか、意外だな」
「……。何がだ」
「えーと、なんて言ったらいいんだろう。……大和は感傷とか、過去を振り返るとか、そういうのとは無縁だと思ってた。新たな一面を垣間見たな」
「私とて、たまに過去を振り返る事くらいするさ」
「前しか見ないタイプだと思ってた」
「……。視野は広く持っているつもりなのだがな」
お互いに顔を見合わせ、それからどちらともなく笑みを浮かべた。
「過去を振り返るって、たとえばどんな?」
「……。聞きたいか?」
頷けば、大和は小さな吐息を漏らし、ソファの背もたれに体を預けた。
「最近はよく、幼少の頃懇意にして頂いた講師の教えばかり思い出すな」
「ふうん。どんな?」
「一生のうち、過ちを犯さない人間はいない」
「……それだけ?」
「話は最後まで聞きたまえ。お前の悪い癖だ。……過ちを犯した後に後悔しても意味はない、後悔する前に行動に移せ。そう教わった」
言い終わってから、大和はふうと息をついた。
「人としてごく普通に、当たり前の事だな」
「ああそうだ。……しかし、行動に移せない状況に陥ったときの対処法は、教えては貰えなかったがな。いや、そうなる状況を全く考慮していなかったのかもしれん。もしくはそうなった場合は切り捨てろという事だったかもしれんな」
大和は一旦言葉を打ち切り、カップに口をつけた。どこか自己完結めいた発言に思わず首を傾げつつ、は口を開いた。
「んーと、つまり、どうにもならない事の対処法?」
「……。そう、だな。簡潔に言えば、そうなる」
「ええと、まさか現状に何か不満でも? お、俺は元からこんなだし、大地の頭はあれ以上どうにかなったりしないよ?」
「……。思うのだが、お前は志島に対して稀に酷くなるな」
大和の柳眉が下がったが、しかし目を細めて笑っている。困ったような、呆れたような、そんな笑顔だった。
「フフ、現状に不満を感じたことは無い、寧ろ逆だ。……不満、というより、後悔だな」
大和が紅茶を一口すすった。
「女々しい話で申し訳ないのだが、半年前のあの日、何か打つ手立てはなかったものか――しかし今となっては行動に移そうにも、移せまい」
大和の話を耳にしながら、は無意識のうちに唾を飲み込んだ。
「……後悔、してるのか?」
「していないといえば嘘になる。……たとえばあの時、私が有していた神獣や邪龍を召喚していたのであれば、フェンリルの対処は容易だったかもしれん」
参ったな――内心そう呟いて、紅茶に口をつけた。
半年前、が幾度と無く考え、その末に仕方が無いと切り捨てたことを、大和は半年経った今でも考え、それをこうして口に出している。
「……大和、それは結果論だ」
「わかっている。だが、呆けて突っ立っているより、何かしら確実にできる事があったはずだ」
「ああ、多分な。でも実際、何もできなかったろ? 大和も、俺も、史も、啓太も、ただ突っ立ってただけで何にもできなかった。だからさ、……どうにもならない事って、あるんだよ」
「どうにもならないと理由付けて思考停止するのは、そこらのクズどもと変わらん」
大和が鼻で笑ってから、自嘲するように唇の端を吊り上げた。
「私が悪魔を送り付けなければ、捻じ伏せる事は容易だったろう。……それに、に世話を任せずあのまま部屋に括り付けて置けば、それこそどうにかなったのかもしれん」
暗にと引き合わせなければ、と責められているような気がしたが、けれども嫌な気はひとつも起きなかった。自信、何度かそういった可能性を考えた事があるからだ。
「そうだな。そうかもしれない。でも、過ぎた事をいくら考えても、結果は変わらないよ」
が良い終わるなり、大和がハッと目を見開いた。それからすぐ、ばつが悪そうに視線を逸らす。
「……。申し訳ない、当たるようなマネをして……。女々しいと笑ってくれても構わん」
「別にいいって。むしろそういう込み入った話は歓迎だ。ヘイ、カモン」
大和が白けたような視線をに注ぐ。対するは、へらっと余裕の笑みを作って応じた。
「だってさあ、お前こういう話あんまりしないじゃん。大人しく腹割れよ」
「……脅しだろうか?」
「単純に大和の事が知りたいんだよね」
「そうやって、誰彼構わず、言葉巧みに相手の懐にもぐりこむわけか。恐ろしい奴だ」
それらしく肩をすくめて見せる。さっきの、僅かに声を荒げて取り乱した様子はまるでにおわせない。既にいつもの調子に戻ってしまったようだ。
「別に誰でもってわけじゃないよ。なんで皆俺の事節操なしみたいに言うかなあ……」
「事実だろう? その認識は間違ってはいないと思うが」
「間違ってる。すげー間違ってるから」
ぶんぶんと首を振って否定する。
「ともかく! ……なんつーかさ、大和が後悔したり過去を振り返るって事を今さっき聞いて、俺は驚いたんだよ。俺の中の大和に対する認識は、現実の大和とかけ離れてたって事だ。大和の事を理解した気にはなってたけど、理解した気になってただけで、実際のとこ上っ面だけの理解だったんだよ。なんかそういうの、俺、馬鹿みたいだろ」
「……。ふむ」
勇気を出して長々と語った割に、大和の反応はひどく薄かった。それに半ばショックを受けると同時に、なんともいえない恥ずかしさがのぼってくる。
「だとするなら、私も馬鹿なのだろうな。誰彼構わず懐に入り込むかと思えば、実際の所はそうではなかったわけだ」
のぼってきた恥ずかしさが、一瞬にしてどこかへ吹き飛んでしまった。
「……お? フォローしてくれてる?」
「どうとでも取れ。……お前の上っ面の理解も、私が腹を割ればマシになるという事か」
「そうそう。そんな感じ」
うんうんと笑顔で頷くに、大和はどこか警戒するような眼差しを向け、呆れの篭ったため息を漏らし、そして力なく肩を落とした。
「まあ、善処はしよう」
本日二回目の「善処しよう」のお言葉をいただいてしまった。
「そうしてもらえると凄く嬉しいわ。話戻すけどさ、ほんとに欲しいの無い?」
「……。すまない。今すぐには思いつかない」
「ん、わかった。別に謝らなくてもいって。こっちこそ、夜遅くにごめんな」
お互いに謝って、それから馬鹿らしくなって苦笑を浮かべた。
紅茶を飲み干してから、いくつか近況報告のような雑談を交わし、さすがに長居するのも限界だと思い、大和の部屋を後にした。
「それじゃ、おやすみ」
「ああ。おやすみ」
部屋を出る間際、見送りについてきた大和に挨拶をし、足を一歩踏み出して、ふと立ち止まった。後ろ髪を引かれたというわけではないが、足を踏み出した瞬間、頭の中にパッとある案が思い浮かんだ。は少しの間逡巡し、思い切って振り返り、そして口を開いた。
「の事、まだ後悔してる?」
沈黙する。
「……ああ」
しばらくしてから、大和は首を縦に振って応じた。その回答に、無性にほっとしてしまう。
「忘れようとは思わないんだ?」
「何度かそうしようとは努めた。だが、無理だった」
あの大和が、弱音じみた言葉を漏らすのに、は目を見開いた。
「無理?」
「……。忘れた頃になって、夢に出るのだ」
一瞬、大和も夢を見るのか、と変な感心を抱いてしまった。
「なるほど。その夢って、うなされる感じ?」
尋ねるとすぐに、大和が弱弱しく首を振った。
「むしろ真逆だ。もしかしたら、お前の言う“うなされる”夢の方が、よっぽどマシかもしれんな」
自嘲気味にそう言って、大和はふっと笑みを作った。
「……んー。そうか。夢って、浅い眠りの時に見るんだっけ? ぐっすり眠れる安眠グッズでも買うか?」
「その安眠グッズとやらが何なのか、皆目検討がつかんのだが……まあ、貰えるのであれば頂こう」
はふむふむと頷き、改めて大和の顔を伺った。
機嫌が悪いわけでも、調子が悪いわけでもなさそうだ。弱っているようには見えない。大和の見る夢の中身に関してはが出ること以外皆目検討がつかないが、けれど大和の言う通り悪夢というわけではなさそうだ。トラウマになっている様子には見えない。とはいえ何かしらトラウマを抱くほど大和のメンタルが弱いとは思えない。
ともすれば、がさっき思いついた“ある案”のきっかけを口にしても、きっと大丈夫に違いない。
「大和、たとえばの話なんだけどさ」
「何だ?」
「に会えるなら、会いたい?」
大和がひゅっと息を呑み、そのまま硬直した。
しばらくして、強張った体が徐々に弛緩していく。薄い色の瞳が戸惑いで揺れていた。
「……いきなり、何を馬鹿な事を」
「それは重々承知の上で聞いてるよ。……まあ、無理して答えなくていいや。今の反応でなんとなくわかったから」
とて、伊達に音楽が好きなわけではない。絶対音感を持っているわけではないが、普通の人に比べとりわけ耳が良いという自負があるし、現に小学校の頃から音楽の授業で教師に褒められたり感心されたこともある。
恐らく平静を装ったのだろうが、大和が言葉を発する際に唾を飲み込んだ事と、本当にごく僅かだが声が上擦っているのが聞き取れてしまった。
大和はそれに気付いたのだろうか――大和は心底呆れたような眼差しをに注ぐのみだった。
「なるほど。こうして上っ面の理解が形成されていくのだな」
「上っ面の理解のプロと呼んでくれ」
「呼ぶか、阿呆が」
今の悪態はなんとなく歳の近い友達のような反応だと思いつつ、二言三言軽口を交わしたのち、は大和の部屋を後にした。
扉が閉まる音が、広い廊下に反響し、それがどこか物悲しく聞こえた。一人ぼっちで廊下をとぼとぼ歩きつつ、は思案をめぐらせる。大和は案外心が広い、ように見える。本心から怒りをあらわにする事は恐らくないはずだが、もう一人の方はどうだろうか。頑張って怒っている姿を想像してみたが、けれども軽くたしなめる姿を想像するのでせいいっぱいだった。
なんとなく廊下に面した大きな窓に目をやる。ほぼ毎日のように雨がしとしとと降り続けていて、止む気配はまるで見せない。晴れ間なんて、ここ一週間は見ていないだろう。
もうすぐ、梅雨が来る。雨も本格的なものに移り変わるだろう。
大和の誕生日まで、あと幾日だろうか――道すがら指折り数え、そうして日付を数えるのに片手の指で足りるほど差し迫っていることに気付き、はふうと小さなため息をついた。
昼間に焚くとどうなるのか――そんな疑問を抱きながら、けれど反魂香を使う日に都合よく休日が重なるわけが無く、はいつもと同じ時間に香を焚き、を呼び出した。
「こんばんは」
「うん、こんばんは」
にこやかに頭を下げるに合わせても頭を下げ、既に恒例となってしまった日時の確認を終えると、はさっそく本題に移った。
「峰津院大和君へのプレゼントが決まりました」
「わっ、本当ですか?」
は一度驚く素振りを見せてからすぐににっこり笑って、それっぽく「わー」と控えめな歓声を交えつつパチパチと手を叩いてくれた。
「それで、何をプレゼントするんでしょうか?」
「安眠できそうなアイテムです。ささ、一緒に選ぼう」
言いながらはベッドの上にうつ伏せに寝転がり、棚からタブレット端末を引っ張り出し、それから自分の隣をポフポフと軽く叩いた。
こっちにおいでという合図に、はやや迷う素振りを見せたが、そろそろとベッドの上にのぼると、ぎこちなく近寄り、そしての隣にうつ伏せに寝転がった。
「……ええと、プレゼント、決まったわけじゃないんですか?」
「とりあえずジャンルだけね。プレゼント自体はに決めてもらおうと思って」
「あ、あの。ですから、前にも言ったように……」
「大和の事がわからない? でも、多分俺よりはわかってると思うよ」
よりのほうが、大和の何がわかっているというのか。曖昧な理解度を比較する事など到底かなわないのに、何故か断言するように言ってしまった。そうして、ずいぶんと無責任な言葉を口走ったと少し後悔した。
端末の電源を入れ、しばらく待つと画面が明るく点灯した。ホーム画面からブラウザを開き、適当な通販サイトを開く。
は特に何も返してこなかった。が横目で伺うと、どこか諦めた様子の横顔が視界の隅に映る。機嫌を損ねたかとが不安になりかけた頃、はふうと息を吐いて、それから何事も無かったかのようにに話しかけてきた。
「……ところで、どうして安眠グッズなんでしょう?」
「どうやら最近眠りが浅いらしいんだ。たまに夢も見るらしい」
話の限りでは最近といよりごく稀にといった様子だったが、それらしく言って見せるとは納得したのか静かに頷いて見せた。
「でしたら、枕はどうでしょう」
「枕か。ああ、いいかも」
「問題は、実用性を重視して普通の枕を買うか、茶目っ気に走って変な形の枕を買うかですけれど」
「個人的には大和の反応が気になるので後者を推したい」
「くん、そういうよこしまな感情抜きにして、大和さんが喜びそうなものを考えましょう」
「じゃあ、大和が喜びそうな変な形の枕」
が苦笑を浮かべた。
「そんなもの、存在するんでしょうか?」
「今から探すんだよ」
とりあえず開きっぱなしの通販サイトのトップページから、枕というキーワードで検索をかけてみた。一度画面が白くなり、ページが切り替わる。
「大和さんも、夢、見たりするんですね」
ふと唐突に、がぽつりと、誰にともなく一人ごちた。
「意外だった?」
「はい。勝手な話ですが、夢を見るという行為――というより、夢という言葉とは縁遠い印象を持っていたので……」
「まあ確かに。夢というよりも、野望とか野心って響きが似合うな」
「ふふ、そうですね。そのほうがしっくりきます」
くすくすと肩を震わせながら、しきりにうんうんと頷いている。
「どんな夢を見ているんでしょうね。夢の中でもお仕事をしていそうですけれど」
笑いが収まった後にそう付け足すものだから、は思わず固まった。
先日、大和が話した夢の中身について話すべきだろうか。しかしの今の口ぶりから察するに、心の底から大和の夢の中身について知りたいと思っているようには聞こえない。おまけに、大和の夢の中身――が出てくる――なんて話したら、場に漂う空気が一気に重くなるのが容易に想像できた。
一人もんもんと考え込むをは一度横目に見やり、んー、と小さな声をあげた。どこかに対し不思議がっているような、けれども何の意味も持たない声のあと、控えめな手つきでタブレットをなぞり始める。
大和の事を話したところで、おおよそ良い結果に転ぶとは思えない。は考えを一旦打ち切ると、の指先をただぼんやり眺めた。
画面の中、均等な間隔に表示される画像の羅列と、商品説明。さまざまな価格帯。自分のポケットマネーからいくら出すのが妥当なのか、という疑問が頭をもたげた直後、がうーんと首をひねった。に視線を向けると、もまたに視線を向けた。
「どうして羊なんでしょう?」
「……羊?」
もつられて首を傾げつつ、から端末へ視線を戻し、ああ、と納得した。最初こそ堅苦しい低反発枕だの、蕎麦殻の枕だの、アイマスクだの、真面目な印象をあたえる商品の羅列ではあったが、ページが進むに連れどんどん茶目っ気が増えていき、今表示しているページには、動物をモチーフにした商品ばかりが表示されている。それも、見るからにモコモコという表現が似合うような、目を閉じて優しげな印象をあたえる羊ばかりだ。
「んーと……ほら。寝る時に、羊を数えるからじゃない?」
「そうですが、どうして安眠の象徴が羊なんでしょう? 犬や猫や兎でもいいはずではありませんか? 犬は小さい子に寄り添ってお昼寝したりしますし、猫だって丸くなって寝ている姿は可愛いじゃないですか。兎は純粋に可愛いですし、抱っこすると、あったかくて気持ち良いです。対する羊は、愛でるには身体が大きすぎますし、一見ふわふわしていそうな体毛も実の所は硬くてベタベタしてますし、ちょっと怖いですよね」
ゆっくりと聞き取りやすい口調ではあったが、しかし喋りの合間に息継ぎしている様子は見られない。にしては珍しく力説するその姿に、案外動物が好きなのかな、とぼんやりそんな事を考えた。
「確かに、大人の羊を間近で見ると怖いね。メェ~って言いながら集団で近寄ってきて、構わず人の足踏んで、手に持ってる餌袋を問答無用でひったくっるからな、あいつら」
「おまけにえさが無いってわかると、すぐ散り散りになって、どこかに行っちゃいますよね」
どちらともなく笑って、それからうーんと唸った。
「なんでだろ。だったら、バクとかのほうが、しっくりくるよね。空想の生き物だけど、夢食べてくれるじゃん」
「良い夢よりも、悪い夢を好んで食べてくれる、そういうお話がありますよね」
「そうそう。なんで羊なんだろ?」
端末を操作し、次のページ、そのまた次のページへと進んでみるが、しかし羊ばかりで他の動物は見当たらない。
「いやあ、驚くほど羊ばっかりだね。大和のプレゼントよりも気になってきた」
「す、すみません。変な事を言ってしまって。でも、どうして羊なのか調べるよりも、プレゼントを先に決めましょう」
「もうさ、この羊の枕で良いんじゃない?」
「か、可愛いですけど……そんなあっさり……」
「うだうだ悩むくらいならすぐ決めたほうが良いって」
「大和さんは喜ぶんでしょうか?」
「それは贈ってからのお楽しみという事で」
商品をカートに入れ、購入手続きへと進む。以前から使用していたサイトだったので、面倒な個人情報入力をする手間もなく、あっという間に購入処理が終わった。ジプス本局は都心部なので、大抵一日もせずに商品が届く。早ければおそらく、明日の午後には届くだろう。
いま注文した商品は、男――それも大和が貰うにはあまりにも可愛らしすぎて似合わないせいか、はしきりにと端末の画面を交互に眺めていたが、やがて諦めたのか小さく息をついた。
たとえ大和に拒否されたところで、ある言葉を言ってのければ大和は素直に受け取ってくれるだろう確信があったから、はさして気にならなかった。
その後は、安眠の象徴が何故羊なのかという理由を二人で調べたが、キリスト圏において羊は神聖視されているからとか、存在自体が牧歌的で和むだとか、sleepとsheepが似ているからとか、憶測めいた理由ばかりで、確固たる証明が見つからず、結局何故羊なのかという理由は曖昧なままになってしまった。
梅雨を思わせるじめじめとした空気は一層濃さを増し、頭上に広がるどんよりとした雨雲は時たま晴れ間を見せることはあったが、しかし快晴を久しく見せないまま淡々と日は進み――大和の誕生日の前日である今日、めでたく梅雨入りしたことが、夕方のニュースのお天気お姉さんの口から告げられた。
明日のお天気は湿気による不快指数も高め、かつ六月上旬にもかかわらず例年よりも幾分か暑く、天候が崩れやすいため、時折局地的雷雨になるかもしれません、という言葉を思い返す。
つまり、6月10日の空模様は荒れるという事だ。
明日の予定表を眺め、特に外出する予定が入っていないことを確認し、はほっと胸をなでおろした。
窓の外を眺めれば、相変わらずの雨模様だ。今朝から降り続いていたから夜分には収まるかと思っていたのだが、どうやら昼間よりも勢いを増したようにも見える。梅雨かあ、とぽつり呟いた後、一旦部屋の中を見回し、壁にかけた時計で時刻を確認した。
日付が変わる、20分前――そろそろだろうか。は窓のカーテンを閉め、テーブルの上に置きっぱなしの段ボール箱に視線向けると、はふっと笑みを浮かべた。
そのまま足を踏み出し、手ぶらで自室を後にする。エレベーターに乗り込み、最上階へ向かうと、いかにも組織のトップがいますよという雰囲気をかもし出している、絨毯が敷き詰められた廊下を進み、やがて大和の自室の前まで来た。
電子ロック付きのインターホンを押すと、ほどなくして、スピーカーから声が漏れるよりも先に電子ロックが外れる音がした。今日の昼間に一応念のため「話がしたいから夜あけといて」と連絡を入れたおかげだろう。ゆっくり扉が開き、無表情ながらも怪訝そうな大和が出迎える。
先日と比べ、大和の服装はコートを身に着けたままだった。
「ごめん。夜遅くに。これから大丈夫か?」
「構わん。こちらも今ちょうど仕事の後処理が終わってな」
大和は忙しい身だ。今ちょうど、というその言葉通り、ついさっき仕事を終え、部屋に持ったばかりなのだろう。
とりあえず入りたまえ、と部屋の中に促され、は素直に従った。以前と同じように短い廊下を進み、広いリビングルームに通される。天井の高さまである窓ガラスが壁となり、景色を一望できる、まるで展望台を思わせるような部屋の様相。そんな、一人で使うにはあまりにもだだっ広い部屋の中央に位置する応接スペースのソファに腰掛け、は一度深呼吸をした。
大和はを部屋に通すなり、リビングの隅に面した開放型のキッチンへ向かってしまった。おそらく紅茶か何か出してくれるのだろう。
広すぎる部屋を再度ぐるりと見回しながら、はどこか漠然とした不安が胸中に広がるのを感じつつ、天井や応接テーブル、窓の外に目を向けたのち、意を決して上着のポケットから小さな小皿を出した。
「……。何だ、それは」
その時にちょうど、大和が戻ってきた。の前にカップを置き、以前と同じように対面側のソファに腰を下ろす。
「まあ、見てろって」
次に鉄製の、親指ほどの幅しかない円形の台をポケットから取り出し、小皿の上に置いた。縁に沿って小さな出っ張りがぐるりと一蹴し、中央に小さな穴が開いている。どうやら大和にとってそれは馴染みの無いものだったようで、小皿と鉄製の台を不思議そうに見つめていた。
そして、胸ポケットから、あるものを取り出す。
「じゃーん。なんだこれ」
指で挟んだそれを見せびらかすように軽く上下に揺らせば、目の錯覚だろうか、ただの直線が湾曲を帯びているように見えた。
「……。線香か」
興味津々そうに見つめていた大和が些か落胆したように見えたが、けれども口元を緩め、ほのかに微笑んでいた。
鉄製の台の中央の穴にそれを差し込む。深さがないので線香は直立する事がかなわず傾いたが、しかしこれでいいらしい。と後に維緒に教わった。傾いた線香の天辺はちょうど小皿の円周の内側に入るし、灰がテーブルに落ちる心配もない。
最後にポケットからライターを取り出し、火をつけた。線香の先が赤く燃え、しかしすぐに光がふっと消えると、細くて白い煙がゆっくりと立ち上った。
「……。ふむ。これをしたいがために、わざわざ日中連絡をよこしたのか」
「いやまあ、うん、そんな感じ。期待はずれだった?」
「正直に言えばな。てっきり、他の話でもするのかと」
「他の話?」
「今日、志島がやらかしただろう」
「ああ、うん。その話もしようと思ってたわ」
大和の言葉通り、大地が今日、高速で社用車を運転している最中、単独事故を起こした。事故の詳細は伺っていないが、未明から長引く雨でスリップしたのではないかという話を耳にした。とはいえ、車もフロント部分が潰れただけで、大地はたいした怪我をしていないという奇跡的な状況だったらしい。
「俺も免許とろうかと思ってたけど、その申請、取り下げようと思って」
「……。志島の心配よりもその話か。いや、免許はとりたまえ」
「いやだよ。そしたら大地みたいに遠方に行かされるじゃん。そしたら事故るじゃん。こわいじゃん。移動は電車とかでいいよ」
「安全運転を心がけていれば、他の車両がぶつかってこない限り事故に逢うことはないよ。……ん?」
結局事故るんじゃないか、そう言いかけた瞬間、大和が首をひねって線香に視線を向けた。垂直に立ち上る煙を見つめ、それからに視線を向ける。
伺うような視線。まさか、気付いたのだろうか――の心臓が一度だけ跳ねた。
「……。この匂い、たまにからする匂いだな」
「あっ、……あっ! うん。そう、そうです」
一瞬、線香について気付かれたかとは焦った。必死に首を縦に振るに大和は怪訝そうなまなざしを向けたが、しかし特に追求することはなく、立ち上る煙を見つめている。
「お前にはこういう趣味もあったのか」
「……。ええと。手を出したのはごく最近かな?」
「存外、多方面に食指が動くな」
いたく感心した様子で呟き、大和は紅茶に口をつけた。
「まあ、こうやって手を出しても、音楽みたいに長続きはしないけどね」
「フフ。新しい事へ着手するのは、悪いことではないよ。感性を培う上で最も重要なことだ」
「そういう大和のご趣味は?」
「……。今のところは無い」
思わず苦笑がもれる。大和はもはや仕事が趣味になっているといっても過言ではなかった。だからとは違い、趣味を持たずとも暮らしていけるのだろう。
それとも、いつか大和も何かしらのめりこむ趣味を見つけるのだろうか――ぼんやり考えながらカップを手に取り、紅茶に口をつけてすするように飲む。紅茶の味は相変わらずで、大和が淹れたとすぐわかる味だった。単純な料理でも、同じ段取りを正確に踏んでも、調理する人間によっては味が変わるのだから、不思議なものである。
臓腑に紅茶の温かさが染み込むのを感じながら、ふいに視線をあげる。
瞬間、すすっていたお茶が気管に流れ込んで、むせそうになった。
喉の違和感、今すぐ咳き込めといわんばかりのむず痒さを必死に堪える。口の中に残った紅茶を無様に吐き出したくはないと、半ば意地になって押し込むように飲み込み、それから思いっきり咳き込む。
「……。大丈夫か?」
「へ、平気。なんでもない。ほんとに、だっ、大丈夫」
が必死に咳き込んでいるせいか、大和はそちらに気を取られ、背後に気付かない。
いつからいたのか――がソファの後ろに立っていた。
今までにない登場の仕方だった。まるでオバケのようだと冗談じみた感想を抱きつつ、あらためての表情を上目に伺い見る。
睨んでいる。
すごーく、睨んでいる。
絶対零度を思わせるほど冷ややかで、どこか鋭利な刃物を連想させるほどに力強い軽蔑の眼差しを、ただ一人に向けている。
頬に冷や汗が伝うのを感じながら、は黙って紅茶に視線を落とした。赤く透き通った水面には、なんともいえない表情をした自分の顔が映り込んでいる。
「……、随分とおかしな顔になっているが」
紅茶をテーブルの上に置くついで、といったふうに大和が話しかけてきた。
「ああ、大丈夫大丈夫。喉がちょっとおかしいだけ」
「……。そうか、ならばいいが」
大和の気遣いが、どうしようもなく優しく感じてしまった。その言葉は大和特有の、ごくありふれた無感動な言葉だと言うのに、どうしてか恐怖の真っ只中に兆した一筋のまばゆい光のように思えて、思わず涙が出そうになる。
あらためての顔を思い出す。どう考えても怒っている表情だった。
どう言い訳し、どうやり過ごせばいいのか、足りない頭で必死に考える。考えてるうちになんだかお腹が痛くなってきたが、その痛みは気のせいだと思うことにした。
意を決して、ゆっくりと視線を上に向ける。
さっきの表情はどこへやら――は打って変わったように、ただ微笑んでいた。
まるで「仕方がない人ですね」と言わんばかりの優しげなものを孕んだ表情のあと、今度は口元に人差し指を立てて“しーっ”というジェスチャーをとり、悪戯っぽく笑ってみせる。
何かするつもりなのだろうか。そう考えた途端、は馬鹿みたいに動けなくなってしまった。金縛りにあったのかと勘違いするほど、身体は勿論、指の先までが自由に動かせない。ただ黙ったまま、呆けたような眼差しを大和の後ろに立つに向ける。
その視線に気付いたのか、大和が不思議そうに小首を傾げた。宙ばかり見つめるに対し何か尋ねようとしたのだろう、僅かに口を開けるものの、の視線がある一点を見つめたまま微動だにしない事に違和感を覚え、大和はひねった首を元に戻し、そのままゆっくり振り向こうとして――
――の白い手が、大和の目を、視界を覆った。
いわゆる、両手で目隠しの状態。
流石の大和も、予想外の出来事だったのだろう。息を呑み、体を硬直させている。
目隠しをした張本人は楽しげな様子で大和を見下ろし、それからに目配せをした。
「……や、大和、大丈夫か?」
合図の意図を汲み取り、がおずおずと大和に話しかけると、大和の身体がほんの少しだけ動いた。
「……。この部屋のセキュリティは万全なのだがな。一体何をした?」
唐突な第三者の介入と、視界を奪われた事からくる警戒を孕んだ声に、一抹の寂しさを覚える。
は大和に危害を加えるつもりは毛頭ない。それを理解していれば、冗談だとすぐにわかって、ビックリしたと笑い飛ばしてくれたかもしれない。現に大地や維緒だったら、そうするだろう。
恐らく大和はきっと、を心の底から信頼しているわけではない。それは組織の頂点という立ち位置もあるだろう。しかしこうもあからさまに警戒と、僅かな敵意を向けられると、ため息を吐きたくもなる。
「何もしてないよ? ていうか、できないし」
「そうか。ならばいい」
ふう、と一息ついて、大和がごく僅かに身じろぎする。
「……。こんな阿呆のような真似、一体どこの馬鹿だ。名乗れ」
が笑いを押し殺しながら、耳元に顔を近づける。
「ふふ。誰でしょうね? お馬鹿さんの名前、当ててみてください」
大和の肩がこれ以上ないというくらい、あからさまにびくりと跳ねた。
あの大和が、情けないほど肩を大きく震わせ、驚く様子を体で表現したのを見るのは、恐らくにとって初めてだった。それはも同じなのか、キョトンとした様子で大和を見下ろしたのち、悪戯が成功して喜ぶ子供のように、声を押し殺してくすくすと笑っている。
大和は多分めいっぱい困惑し、また同時に混乱しているのだろう。大和の目はの手に覆われていて分からないが、しかしいまだに大和が口を開こうとしない所から、大和の心のうちが見て取れる。
大和の喉がごくりと鳴るのが聞こえた。
次いで、口を薄く開いたかと思えば、すぐに閉じてしまう。
その些細な仕草から、ためらっているのが、わかる。すぐ真後ろにいる“誰か”の名前を口にする事を、大和は馬鹿みたいに躊躇している。
「わからないですか?」
そんな戸惑う気配をは別方向に解釈したらしく、困ったような、けれど少し寂しそうに曖昧に微笑んで、どこか申し訳無さそうに尋ねた。
大和は何も言わず黙り込んだまま、しかし膝の上に乗せた手でぎゅっと拳を作っている。握り締めた指の間にスラックスも巻き込んでいるのかスラックスに皺がよっていた。
けれども、徐々に大和の手がゆるゆると弛緩していき――小さく、すぅ、と息を吸い込んで。
「……」
ぽつりと、呟いた。
「――、」
一回目こそ、聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声量ではあったが、二回目のほうはごくいつもの聞き取りやすい声音で、しかしどこかたどたどしさが付け加えられていた。
は目を見張り、驚いた様子で大和の頭を見下ろしていたが、すぐにふっと微笑んで、大和の目を覆っている両手を離した。
視界を暗く覆っていた戒めが解かれたにも関わらず、大和ははっとした様子で、戒めを追いすがるように首だけで振り返る。
「ふふ、正解です」
が身をかがめ、にっこり笑って言う。至近距離にあるその顔を大和は呆然と――まるで呆けたかのように――見つめながら、身じろぎの一つもせず固まった。
「……びっくりしましたか?」
首を傾けつつそう尋ねるに、大和は硬直したまま反応を示さない。徐々に、の笑みが申し訳無さそうな色を孕み始める。
「……。これは……、白昼夢、だろうか」
大和がそうぼやいた途端、が手を伸ばして大和の頬をつねった。大和の白い頬がふにっと引っ張られ、整った顔の線が少し変形し、おかしな事になってしまっている。
「夜中に見る白昼夢って、なんだ矛盾しているような気がします」
「ああ。白昼、って時間じゃないもんな、今」
「白昼夢とはそういう意味ではないのだが……とりあえず、痛いので手を離してもらえないだろうか?」
「あっ、申し訳ありません」
はすぐさまパッと手を離し、抓られてやや赤くなった頬をじっと見つめ、今度は指で撫で始めた。押して、撫でて、捏ね繰り回して――大和もまさか撫でられるとは思っていなかったのだろう、どうしたらいいのかわからないといった様子で、変な顔になって固まっている。
「もう、痛くないですか?」
大和はを見上げ、しばらく間を置いてから、ゆっくり一度だけ頷いた。どこかたどたどしい、大和らしからぬ仕草に、はくすっと笑みをこぼしたかと思うと、大和の頬をひと撫でし、手を下ろした。
そのまま、一歩分の距離を置いて大和から離れると、今度はに視線を向ける。
「くん、今日は何日でしょうか」
「ええと。今日はね……」
言いながら、部屋を見回す。時間にうるさい大和のことだ、あると思ったらやっぱり壁に時計がかけてあった。短針はほぼ頂点を指しているが、長針は僅か右に傾いている。
「6月10日。今さっき日付が変わったみたいだ」
は僅かに目を見開き、けれどもすぐにいつも通りの穏やかな表情に戻り、そうですか、と小さな声で呟いた。
「立ったままってのも何だし座りなよ。大和、いいよな?」
「……ん? ……ぁ、ああ……」
大和の反応は、いつもの倍以上も遅い。心ここにあらず、といった風の様子から、大和の頭の中ではいまだに状況の整理が出来ていないのが見て取れる。
の言葉に促され、は向かい合うように置かれたソファと、テーブルの上で燻る香をしばらく見つめたのち、静かに足を踏み出して――大和の斜め向かい、の隣に腰を下ろした。
は膝の上で両手をそろえると、どこか物言いたげな目をに向ける。
「くんって、なかなかいい性格をしていますよね。したたかというか、図太いというか」
「……ぉ、怒った?」
「いえ、呆れました。わざわざ今日に限ってこんなマネをして……、いったいどういう悪巧みのつもりでしょうか?」
「いやいや。悪巧みだなんて人聞きの悪い。そんなつもりは毛頭ないからね?」
「嘘つく人は嫌いです」
「ついてないってば」
そっぽを向くに苦笑いしつつ、同時に安堵した。言葉通り呆れているのだろうが、しかし気に病むほどではない。冷たい態度は見てくれだけで、そういうフリを装っているのだと、雰囲気でわかる。とりあえず、怒鳴られるだとか、平手打ちを喰らうとか、予想していた最悪の事態と比べれば遥かにマシだ。
そんなよりも最も大きな心配の種――大和へ視線を向ける。大和はどこかぼうっとしたような様子で、とを静かに伺っていた。の視線に気付くと大和は僅かに目を見開き、それから決まりが悪そうに眉を寄せ、いまだに煙をくゆらせる線香に目を向けた。
「……。」
「何?」
「こうなった原因は、その香のせいか?」
「正解。反魂香っていうらしい。大和ならわかるだろ?」
反魂香、と口に出した途端大和が目を瞠ったが、すぐに瞼を元の位置へ戻した。
「わかるとはいえ、書物でしか知らん。……こんなもの、いつ手に入れた?」
「アリスに貰った」
「……あの話か」
あの日――が大和に悪魔から物を貰ったと相談した時――の事をすぐに思い出したのだろう、納得したようにぼやいて、それからゆっくりと目を閉じた。
「返せと言わなかっただろうか」
「実はな、その前日にもう使ってたんだ」
「……とんだ狸だな」
大和は呟いて、それから自嘲気味に笑った。
はそんな大和が見ていられなくて、視線を横へと外した。大和に対して嘘をついた事による罪悪感。ないといえば、それこそ嘘になる。
「1ヶ月以上前からか。使用するのはこれで何回目になる?」
「ええと。……9回目かな?」
「わ、私に聞かないでくださいよ……」
が首を傾げると、が困ったようにまくし立てた。しかしその後、ぽつりと「10回目です」と答えてくれる。
以前はに時間の感覚が曖昧だと言っていたが、反魂香を使用してからのの記憶力は見たところ問題なさそうだし、信用に値するだろう。
「いわく、10回目だって」
伝えると、大和の視線が一瞬の方に向き――と思えばすぐに逸らしてしまった。
「私の言葉を無視した上で10回も使用したことに関してはこの際咎めん。……体調に変化は?」
「あるように見えるか?」
大和は口を閉ざし、それから盛大にため息をついた。
「何故、手を出した?」
「アリスが俺に危害を加えない事はわかってたから。それに、使用後どうなるかなんて想像もつかなかったし。単純な好奇心ってやつ?」
「……。結果がわかってからもなお使った理由は」
「そこ尋ねちゃう? 大和ならわかるだろ」
笑いかけると、大和がふいと視線を逸らした。
目を逸らされた事に苦笑しつつの方へ視線を向ける。眉尻を垂れ下がらせつつ二人の話を聞いていただったが、と目が合うなり、眉はそのままに微笑んだ。なんともいえない笑顔に、ついも似たような表情になってしまう。
二人を交互に見比べた後、は再度壁掛け時計に目をやった。頃合だろう。
「大和、俺ちょっと部屋に物取りに行ってくるから」
「……はっ?」
「へっ?」
二人の声が重なった。
「おっ、二人ともいい反応だねぇ。大和、俺が戻ってきたら鍵開けてくれよ。それじゃあ、大和の相手よろしくね」
素早く立ち上がり、大和の制止の声を振り切って部屋を出た。廊下をまっすぐ突き進み、重厚な扉を後ろ手に閉め、一息ついてから、来た道を引き返す。
エレベーターに乗りながら、大和の部屋が今どうなっているか想像してみる。気まずい空気が漂っていたあの部屋の中、和やかに談笑している二人の姿が全く想像できなかった。じゃあ喧嘩をしているだろうか、というとそうでもない。口論している姿も想像できないし、色々考えた結果、空気に圧されて二人とも黙り込んでいる姿がしっくりきた。
自室に戻り、テーブルの上に置かれたダンボール箱を脇に抱え、すぐ引き返す。途中エレベーターで待たされ、行きより時間がかかってしまったが、なんとか大和の部屋の前へと戻ってきた。
インターホンを押し、扉を何回かノックすると、大和が出迎えてくれた。
「待った?」
うんともすんとも言わず、大和はの顔と小脇に抱えた箱を不満そうに見比べる。それから小さなため息を漏らし、を部屋へ招きいれてくれた。
廊下を進み、例の応接スペースに向かう。は相変わらずソファに座ったままだが、しかし右手にティーカップを手にしている。は目を見開いた。
「あれ、お茶出してもらったの?」
「はい」
「えー。俺の部屋ではいらないって言ってたのに……飲めるならそう言ってよ」
「最初は拒否しましたよ。でも、あの手この手で言いくるめられてしまいました」
「言いくるめたつもりはないのだが……」
「言葉のあやですよ」
「……。ならばいい」
がソファに腰を下ろすと、大和も腰を下ろした。
「生きてる人が、死人の世界の食べ物を口にすると変になるっていう話がありましたから、その逆も有り得るかと思いきや……特に何もなかったですね」
「……。変になるというより、その世界の住人になるという話だな。反魂香の場合、冥界の人間よりこちら側の人間として認識されるのかもしれん」
「不思議なお香ですよね。何で出来ているんでしょう?」
「十中八九、マグネタイトだろう」
「マグネット?」
「それは磁石だ。マグネタイト。霊力の塊だ」
耳慣れない言葉なのだろう。はわかるような、わからないような、不思議そうな顔のまま、甘く首を傾げてみせる。
「まぐね、たいと?」
「うむ」
傍から見れば微笑ましいやり取りだった。大和もも随分と穏やかな様子で、紅茶を飲んでいる。
「ええと。二人とも、割と普通だね。もっとギクシャクしてるかと思ったんだけど」
「くんの時に充分ギクシャクしましたから、慣れっこです」
「いや、そういう事ではなくてね」
「……いまさら、ギクシャクしても仕方がないですから。それなら普通にお話して、気持ちよく過ごしましょうって」
「大和がそう話したの?」
「はい」
「いいや」
方や頷き、方や首を振る。
「……意見が別れましたけど?」
「ふふ。ちょっと取り違いがあったかもしれません」
なんだか含みのある笑みを浮かべている。はその場にいなかったので、の言う取り違いがどういう事か、さっぱり予想がつかない。
はあ、と曖昧に頷きながら大和へ視線を向けると、さっと目を逸らされた。
もしかすると、あの手この手で言いくるめられた側は、こっちの方かもしれない。
「最初にどう話したわけ? から?」
「はい。お久しぶりですねに始まり、近況と、あとはくんが反魂香を使うのは毎日ではなくて5日おきだとか、いろいろです」
「そか。じゃあいいや。本題に入ろう」
こほんとひとつ咳払いし、膝の上に乗せたまま邪魔だった段ボール箱をテーブルの上に移動させ、そっと大和のほうへ押し出す。
大和は首をかしげつつ、しげしげと箱を眺めている。
「これは?」
「……ここまでしても気付かないとは、ある意味天然記念物だな。いや、鈍感なのは薄々わかってたけどさ」
「鈍感? どこがだ。言ってみろ」
「駄目だこの人、本物だわ……」
思わずこめかみを押さえるの横で、がくすくす笑う気配を感じた。
「鈍感というより、ただ馴染みがないだけだと思いますよ? 私だって、知らない事に関しては鈍感にならざるを得ませんし。くんだって、異国に行ったらそうなるかと思います」
「、あいにくだけどその言い方フォローになってないからね」
指摘すると、がはっとして口元を押さえた。ちょっと申し訳なさそうに俯きがちになっている。
「……だから、何が鈍感だというのだ」
は大和に笑い返し、の方へ顔を向ける。
「から言って」
「……何故?」
「理由は後で。お願い」
小声でのやり取りのあと、が、ごくごく小さなため息をこぼした。
カップをテーブルの上に置いて、居住まいを正す。もっとも、から見れば特に何ら変わり無いように見えるのだが、にとっては必要だったらしい。
「大和さん」
名前を呼ばれ、大和の視線がそちらへ向いた。
「今日は何月何日ですか?」
「……さっきが言っていただろう。6月10日だと」
本当に気付いていない様子には一瞬面食らったが、すぐに微笑んだ。
「そうです、6月10日。……18歳のお誕生日、おめでとうございます」
が一度、頭を下げる。大和はただ固まってを見つめていたが、が頭を上げた頃には全てが腑に落ちた様子で、ああ、と小さくぼやいた。
「……そうか。そうだったな」
「おめでとう、大和」
「ありがとう。自分の誕生日など、すっかり忘れていたよ。……しかし、この世界において年齢とはまるで意味を成さんのだがな」
「まーた始まった。それとこれとは別だからね。なあ」
「そうですね。個人でお祝いするのは、また別の話ですよ。これは、大和さんが無事に18歳まですくすく育ったお祝いです」
すくすく育った、という言葉からもうかけ離れている歳と見た目だという感じが否めないのだが、はとりあえず触れないことにした。
「その箱、開けてみてよ」
「これか? ……あて先が『』になっているが」
「ああ、通販で頼む時な、面倒だから俺宛にした」
ふむ、と大和は頷いておもむろに立ち上がった。執務机に向かったかと思いきや、すぐに戻ってくる。大和の手には細身のカッターが握られていた。
大和はソファに座らず、立ったまま、ガムテープで梱包されたダンボールを開け始める。その箱を、はなんともいえない表情で見つめ、それからひそひそ声で尋ねてきた。
「くん、ラッピングとかしなかったんですか?」
「ラッピングを有難がるような奴に見えなかったから」
その言葉ですぐに納得してくれたのか、さもありなんといった表情で頷いている。
大和は手際よくダンボールを開封すると箱の中を覗き込み、数秒固まった。その後、何事もなかったかのようにカッターナイフで固定するためのビニールを切り裂き、中の物を取り出した。
厚手のビニール袋に包まれたそれをしげしげと眺め、白く安っぽいスナップボタンを外し、袋の封を開ける。取り出したそれを手にしたまま、大和はソファの端の席にダンボールを移動させると、元の場所に腰を下ろした。
「……。これは、クッションか?」
「その袋に枕って書いてない?」
大和が厚手のビニール袋へ目を向ける。
「……。お昼寝枕?」
「そうそう」
が手を伸ばし袋を取ると、表面に張られたシールを眺める。
「お昼寝に、ぐっすり眠れる快適枕。ただし個人差があります、だって」
「……。昼寝をする習慣はないのだが」
確かに、大和にそういう習慣はなかった。
「……そういえばいつだったか、安眠グッズがどうのこうの言っていたな」
「そうそうそれそれ。まあ、その、なんだ。気が向いたら使ってよ。ちなみに、それ選んだのだから」
「ええっ!?」
が素っ頓狂な声を上げるその斜め向かいで、大和が『戸惑いつつも怪訝そうに驚く』というなんとも奇妙な表情になっている。
「わ、私じゃなくて、くんも一緒に選んだじゃないですか……!」
「ん? 羊がどうのこうの言ってたから、てっきりそういう意思表示をしつつの照れ隠しなのかなと」
「そういう意図はありません。ただ、羊ばかりで気になっただけで…」
「……。ああ、そうか。これは羊の形をしているのか」
「えっ、今気付いたの?」
驚くをよそに、大和はフムフム頷きながら枕を検分している。
「で、何が羊ばかりなのだ」
「動物をモチーフにした安眠グッズが羊ばっかりでさ。トカゲとかカメとかヘビとかワニがあればいいのになーって話をとしたんだよ」
「そ、そんな怖い動物例にあげてません! 犬と猫とウサギです!」
「お? 怖い動物だと? 全国の爬虫類好きを敵に回したな、謝れ!」
「そ、そんなつもりは……あ、謝りません!」
が怒ったようにまくし立てる。そんなには微笑ましい気持ちでいっぱいになりつつ、それが表に出ていたらしい、はの顔を見るなり拗ねたようにそっぽを向いてしまった。はさらに頬を緩め、それからハッと我に帰り大和の方を横目で伺う。大和は無表情ながらも穏やかな色をたたえつつ、しかしどこか遠くを見るような目でとのやり取りを眺めていた。
「……ええと、まあ、何故安眠の象徴は羊なのかという話ね。大和は何か知らない?」
「そもそも、羊が安眠に通ずるなど初耳だ」
「え。じゃあ、羊が一匹、羊が二匹……ってやつも知らない?」
大和がゆるやかな動作で首を横に振った。
「……。羊を数えればどうにかなるのか?」
「数え続ければ眠くなる、ってだけかな」
「ふむ。……延々と数え続ける事により、自己催眠状態に陥るということだろうか」
「いやー、うーん、そうなのかもしれないけど、そういう難しい感じではないよ。ね?」
に向けて話を振れば、拗ねていたのはどこへやら――もしかすると機嫌を悪くしたのはただの素振りだったのかもしれないが――うんうんと同調するように頷いてくれた。
「ふふ。そうですね、いわば眠れない時にぐっすり眠るためのおまじないみたいなものですよ」
大和は納得するように一度だけ頷いて、膝上の枕に目を落とす。瞼を閉じた羊の顔をじっと見つめ、枕を揉んだり左右から押したりと好き勝手に弄繰り回している。いかにも枕の柔らかさや具合を確かめているといった様子だ。
「気に入った?」
「……。特に」
たった一言が返ってくる。謙遜も感動も何にもこめられていない、大和らしい素直な一言だった。
「そっか。ま、からのプレゼントだからさ、大事にしてあげてね」
「へっ!?」
が素っ頓狂な声を上げるのとほぼ同じくして、大和の動きがピタッと止まった。
「あ、あの、くんからのプレゼントという話では……?」
「ううん。俺のプレゼントはあっち」
言いながら、燃えて灰になり少し短くなった反魂香を指差す。
「反魂香、ですか?」
「そそ。前にが大和の誕生日を祝ったことが無いって言ってたから、今日真っ先に祝うのがだといいかなと思って」
が大和に笑いかけるが、しかし大和はめぼしい反応を見せなかった。というよりも、もしかするとどう反応したらいいのかわからないのかもしれない。
「ああ、だからさっき、私からと仰ったんですね。……でも、くんが最初の方がよかったのではありませんか?」
「ううん。この状況が、俺から大和へのプレゼントだからさ。それで俺が先に祝ったら台無しじゃない? それに、なんか大和がにものすごく会いたがってたしさ」
硬直するの斜め向かいで、大和が露骨に顔をしかめた。
「そんな事はない」
「夢に出るって言ってた」
「……。それがどうして、そんな馬鹿げた結論付けになる?」
「夢は願望を充足させるためって言うだろ? この前の口ぶりじゃ、恨み言を言われたり追いかけられたりするような悪い夢ではないみたいだったし、そうなのかなって」
言い終わってから、大和の反論に身構える。しかしの予想に反して大和は口をつぐみ、そのまま視線を逸らしてしまった。表情では馬鹿馬鹿しい、という感情をあらわにしていたが、しかし口には出す事はなかった。
しばらくして、が口を開いた。
「ええと、私が出てくる夢、ですか?」
大和は一度に視線を向け、ひどくばつが悪そうに頷いた。
「良くない夢ですか?」
「……。の言ったとおりだ」
溜息交じりの返答に、はきょとんとした顔になって大和を見つめた。瞬きを何度かはさみ、やがて、苦笑とも取れるような微笑みを浮かべた。
「私もたまに見ますよ。大和さんが出てくる夢」
その言葉で、場の空気が凍りついたような錯覚を覚えた。は横目での表情を伺ったが、いつもどおりの穏やかさを湛えていて、何事もなかったかのように紅茶に口をつけている。ともすれば、冗談を言ったわけではないのだろう。
シンと静まり返った部屋の中、戸惑いの表情を浮かべると、ほんのごく僅かにまぶたを持ち上げた大和の視線が交錯する。どちらが最初に口を出すか視線で探りあい、それから大和の視線が隣へ反れたのを機に、は動向を見守る事にした。
「……。死人が夢を見るのか?」
切り出したその言葉は、かろうじて搾り出した事を伺わせるような声色だった。
「はい。死人でも夢を見ることができるんです。死んでみて初めてわかりました」
がおどけたように言えば、大和は無言のまま眉をひそめた。
「えーと、夢を見てる自覚があるの?」
が首を傾げながら尋ねると、は一度頷いて見せた。
「ええ。とはいっても、私が勝手にそう判断しているに過ぎませんが。……なんて言ったらいいんでしょう、夢の中で夢を見ているな、と、そんな感覚があるんです。くんはそういう経験、ありませんか?」
「んー。俺ってあんまり夢見ないタイプだからなあ。というか、多分夢見ても起きたら忘れちゃうだけなんだろうけど。……大和はどう?」
尋ねた途端、大和は表情に戸惑いを滲ませ、黙りこくってしまう。
やや間を置いてから、大和は観念した様子で口を開いた。
「……そう、だな。幾度かある」
溜息交じりのその言葉に、は一度きょとんと目を見開いて、それからふっと笑って見せた。
「もしかすると、私が出る夢で、ですか?」
「……。ああ」
「ふふ、奇遇ですね。私も大和さんが出る夢だけで、それを頓に感じますよ」
目を瞠る大和に対し、はにっこり微笑むことで応じている。少しの間を置いて大和が視線を逸らしたのを機に、は口を開いた。
「大和が出る夢だけで、『あっこれ夢だな』って気付くの?」
「はい。だって、私も大和さんも、ジプスのあの司令室の中で、特に何事もなく、ごく普通にお話しているんです。……そんな状況、絶対に有り得ないじゃないですか?」
言い終わると、は僅かに目を伏せて紅茶に口をつけた。一口飲んで、おいしい、と小さく呟いたその声には、安堵するような吐息が混ざっていた。
はと大和の顔を伺う。の言わんとする“絶対に有り得ない状況”というのは、もしもが生きていたとするならば“有り得たかもしれない状況”で、だからこそ、その問いかけに素直に応じることが出来なかった。は何も言わずにただ二人の動向を見守った。
「……。そう、だな。有り得ないな」
ほんの少しの間の後に、大和がふっと薄い笑みを浮かべて、静かに頷いた。
「有り得ないからこそ、夢なのだろう」
「ふふ、そうですね。……それにしても、生きている人が亡くなった人の夢を見る話はよく聞きますが、まさか死人が生きている人の夢を見るだなんて、思いもよらなかったです」
「そりゃあそうだよ。死んでからの話なんて普通、生きてる人に伝わらないからね」
「生者が死者の夢を見るように、死者は生者の夢を見る。くん、この豆知識、広めてくださって構いませんよ」
「広めるったって、どこに広めるのさ……」
くすくすと肩を震わせているは見る限りいつもの調子だった。そう演技している可能性は無いとは言い切れない。ちらりと大和を横目で伺えば、いつもの余裕そうな態度とは真逆のそれで、言いようの無い不安がの胸中に芽生える。しかしそれはただの杞憂だったのか、の視線に気付くと大和はふっと溜息をつく。それで気持ちの整理がついたのだろうか、あの薄い笑みを浮かべている。
「そういえば、大和さんにお聞きしたいことがありました」
「……聞きたいことか。何だ?」
「その、私の鞄です。東京支部の部屋に置きっぱなしにしていたのですが……あれは今どこに?」
あっと声を上げるの向かいで、大和が僅かに眉をひそめた。
「……その様子だと、特に気にしていなかったですか?」
「あれ、ええと……あの部屋に置いてた?」
「ええ。世界の変革において消失したのであれば、それはそれで有難いのですけれど」
「消失、って、そんな事あるの?」
「ええと、あるんじゃないですか? ……大和さん、どうなんでしょう?」
「……待て。勝手に話を進めるな」
その言葉に、もも口をつぐみ、二人一緒に大和のほうを見た。形容しがたいその顔はまさにばつの悪い顔と表現できるもので、怪訝そうに伺う二人の視線から逃げるように大和は立ち上がると、そのまま隣の部屋へと移動してしまった。取り残された二人で顔を見合わせて首を傾げると、すぐに大和が戻ってきた。
大和の手には、鞄がある。
見覚えのあるそれに、もも目を瞠った。
「私の鞄……捨てていなかったんですか?」
「……。遺品の取り扱いに慣れていないものでな、正直、どう扱うのが最良なのか、わからなかったのだ」
応接机の上のティーカップや香立てを隅に寄せると、大和はそこに鞄を置き、ソファに腰を下ろした。
「まさか、この鞄、わざわざあの部屋まで取りに?」
「……。ああ」
決まりの悪いような、ばつの悪いような、それらが混ざり合ったような本当になんともいえない顔で、しかも妙にたどたどしく頷く大和の姿がひどく珍しく、はぽかんと固まった。といえばそんな大和よりも自分の鞄に興味が向いているのか、さして何も驚いたりせず、実にいつもどおりだ。
「中身、見たりしましたか?」
「見るわけないだろう。第一、鍵がかかっていて開かない」
「……ええと、開けようとしたんですか?」
大和は何も言わず――しかし真っ直ぐ見つめるから露骨に目を逸らして――寄せたカップを手に取り、紅茶に口をつけた。
確かにその鞄には、三桁の数字によるダイヤル式の鍵がついている。普通なら説明書に初期化の方法や非常時のパスワードなどが書いてあったりするものだが、大和はその説明書に目を通しているわけでもなし、緊急時用の開け方がわからなかったのだろう。
「こういうのって初期パスワードわかんない場合は、製造元に送れば開けられるんだっけ」
「ええ。あとは壊して開ける事も可能ですよ」
言いながら、は鞄のダイヤルを弄り始めた。流石に他人のパスワードを見るのはどうかと思い、はの手元から視線を外した。その視線は自然と、大和の顔へ向く。
鞄は見たところ埃をかぶっていたわけでもないし、雑な扱いで傷んでいるわけでもない。大和の几帳面な性格から察するに丁寧に扱っていたのだろう。どうやら開ける事がかなわない鞄を無理にこじ開けたりせず、半年もの間、大事にしまいこんでいたようだ。
……あの大和が、だ。
「お前、意外と律儀というか、なんというか……だよな」
「……。なんだ、その曖昧な言い方は」
「いや、褒めてるからね。だから怒るなって、どうどう」
そんなやり取りの直後、カチっと鍵の外れる音が聞こえた。
「開きました」
は大和に向けて微笑むと、そのまま二つのファスナーを引いて鞄を開いて見せた。
視線だけで中を検分する。制服の替えと思しきブラウスやら、私服やらが綺麗に畳んで詰め込まれている。あとはあの紅茶の葉っぱが入った小瓶やら、ティーカップやら、目を引くのはそれらだった。もう片側は仕切りで覆われているため、何が詰め込まれているのかは見ただけでは判らない。が、何が入っているかは、なんとなく予想はついた。
「えーと、これ、俺が見てもよかったのかな?」
「下半分は別に構いませんよ。ただし、上の仕切りを外すのはやめてくださいね」
「外したらどうなるかな?」
言いながら手を伸ばす。
「平手打ちするかもしれません」
「あ、はい。わかりました。ごめんなさい」
は頷いて手を引っ込めるどころか、身すらも引いた。そんなの対面に位置する大和も、何故かソファに深く座りなおしている。
「……。で、これを私にどうしろと?」
「処分していただければ助かります。引き取り手がいるならまだしも、こんなもの、誰も欲しいとは思わないでしょうし」
「ええ、勿体無い……」
「何か欲しいものがあるなら持ち帰っても構いませんよ……といっても、ありますか?」
「んーと、その服とか、タイツとか」
「……こんなもの貰って、何に使うんでしょうか?」
「……。ええと……匂いかいだりとか?」
が言い終わるなり、は無表情にの肩をぺちんと叩いた。痛がるに対し、大和は心底呆れたような視線を注いだ後、鞄の中に視線を向ける。
「……。そのカップも捨てるのか?」
大和の視線は、鞄の隅に大事そうに仕舞いこまれた2つのカップに注がれていた。
「そのつもりですが、……もしかして、引き取ってくださいますか?」
「……。私でよければ」
「ふふ、嬉しいです。でも、もし使ってみて不要だなと思ったら、捨ててくださいね」
は微笑むと、新聞紙に包まれたカップを取り出した。新聞紙を丁寧に外した二つのカップとソーサーを、応接机の脇にそっと置いた。
「え、ずるい。2個あるんだから片方下さいよ」
「いいですよ」
「駄目だ」
重なる声は食い違っていた。はきょとんとした顔で大和を見つめ、それからに向けてふふっと小さく笑ってみせる。
「すみません、駄目だそうです。こういうのは早い者勝ちですから、我慢してくださいね」
「ちょ、ちょっと待って。所有者はだろ?」
「そうですけれど、もう大和さんにあげてしまいましたから。それに、よくよく考えれば、この鞄をこうしてきちんと保管して下さいましたし……今の所有者は大和さんだと断言してもよさそうですね」
「それだと俺、何も貰えない気がするんですけれど」
「ふふ、そこは大和さんとの交渉次第ですよ、がんばってください」
「……。もう片付けてもよいだろうか?」
「渡さない気満々だよこの人……」
「そういう訳ではない。ずっとここに広げていては邪魔だろう? 床に移動させるから、そこで検分したまえ」
大和は言いながら立ち上がって鞄を持ち上げると、応接机の脇に降ろした。は溜息をつきながら鞄のそばまで移動し、その場にしゃがみこんでじーっと眺め始める。
衣類は駄目となると、もう茶葉が入っている瓶くらいしかない。
「大和、これ貰っていい?」
「……。何に使うのだ」
「普通にお茶入れとくけど。駄目ですかそうですか」
「何を勝手に自己完結している。欲しいなら持っていけばいいだろう。……、それでいいか?」
「構いませんよ。くん、中に入っているお茶の賞味期限は大丈夫だと思いますが、危ないと思ったら捨ててください」
「いやいや、そこまで柔じゃないから俺。飲むよ」
瓶を上着のポケットに押し込み、両開きの鞄を閉じてはソファに戻った。いつの間にか、隅に寄せられていたティーカップが元の位置に戻っている。カップを手にとって残り少ない紅茶を口の中に流し込むと、やはり紅茶は冷めていた。
空になったカップを手にしたまま、壁の時計に視線を向けた。時間を確認する。
「ん、もうすぐ1時だ」
「……おや、もうそんな時間か」
の呟きに、大和もつられて時計に目を向けた。
「大和、俺そろそろ部屋に戻るよ」
カップを机の上に置いて立ち上がる。とたんに大和も立ち上がろうとしたので、はそのままでいいと言葉と片手の仕草で制すと、大和は渋々といった様子で再度ソファに腰を下ろした。
「……そうか。それでは、また明日」
「うん、また明日。それじゃ、もおやすみ」
「はい。おやすみなさい」
が軽く頭を下げて微笑む姿に軽く手を振り、は踵を返した。そのまま足を踏み出す。
「……いや、おい、待て。……止まれ!」
焦るような声と、慌てた様子で大和がソファから立ち上がる音が聞こえ、はふっと笑みを浮かべて走り出した。部屋の廊下を突き抜け、扉を開けて通路に出たところで足を止める。追いかけて来た大和は半ばを睨むように見つめながら、それでもを引き止めるために通路に飛び出すなんて事はせずに、玄関先で立ち止まった。
「……はどうなる?」
「香焚いたの0時前だろ? だいたい7時間くらいで反魂香の効果切れるから、あと6時間かな。ま、朝になったらいなくなるから大丈夫だよ」
「……。それまで、私にアレをどうしろと」
「普通に過ごして、寝るときはそのまま。俺はそうしてる。……というか、寝ないで話に付き合おうとすると怒られるよ?」
眉間に皺を寄せる大和に、は微笑み返した。
「いつも通りに過ごしなって。なんならもう寝ちゃえばいい。だって疎い性格じゃないし、察してくれるから」
返答は無い。その代わり、視線だけで縋りつかれるような、そんな感覚を覚える。
「んー……やっぱり、気まずい?」
やはり返答はない。けれど、大和の視線がほんの少し下がって、あの縋りつかれるような感覚がするりと解けた。
は苦笑を浮かべて、手持ち無沙汰に右手の人差し指で頬をかいた。
「正直、恩着せがましい事をしたとは思ってる。それに関しては何遍でも謝るよ。次に顔合わせたとき、大和の態度によっては正面きって土下座するつもりだし、そのまま口汚く罵られても甘んじて受け入れようと思う」
「いや、別にそこまで怒ってはいないのだが……しかし、恩着せがましいと思ったならば、何故……?」
「だから、サプライズもこめた誕生祝だってば」
とはいえ、今の大和の表情――かろうじて当てはまる言葉で表現するならば『疲弊』がしっくりくる――を見ていると、そのサプライズは失敗に終わったのかもしれない。としては、それならそれでも別によかった。
「それと、大和が後悔してたから」
笑って見せると、大和は今度こそ、から視線を外した。否定も肯定もせず、ただ押し黙ったまま視線を逸らす。それが大和の返答だった。
は大和と接するさなか、どうしてかごく偶に大和の足元は見てくれだけだという漠然とした不安が脳裏を過ぎることがあったが――しかしこうして大和の反応を目の当たりにすると、それが確信に変わる。
「大和、俺とこうして話なんかしちゃっていいの? がいなくなるまであと6時間ちょいしかないよ」
「フフ。その方が私としては喜ばしいのだがな」
余裕そうな笑みを浮かべて言う。さっきの言葉は大和の心を揺さぶることができなかったようで、それがには少し残念だった。
「といるの、居心地悪いか?」
「そういうわけでは……。いや、……うむ」
言葉で否定したかと思えば、それを打ち消すように首を横に振り、最後には観念した様子で首肯した。
「だからさっきも言ったけど、いつも通りでいいんだって」
「しかしだな……」
そう言い掛けてから、大和ははっとして口をつぐんだ。
恐らく、反論したくてそう切り出したのだろうけれど、反論する術も、意見も自分の中に見当たらなかったのだろう。もしかするとそれはただの反発心からきたもので、特に何にも意味の無い言葉だったのかもしれない。
大和がこんなふうに、怒りではなく困惑がきわまって平静を欠いているのは珍しかった。いつもよりどこか弱く見えるその姿に、自然と笑みが浮かんでしまう。
「多分さ、大和が思ってるよりは気にしないよ。というより、ちゃんとわかってるから。わかってるんだよ、色々。が敏い子なのは、大和だってわかってるだろ?」
言うと、大和は二、三度まばたきをして、小さな溜息を吐いた。大和が両手を握り締めるのが、視界の端に映る。
「このままここで俺と話してもしょうがないだろ? まさか、一晩このまま二人でここに立ちっぱなしって訳にもいかないし」
「……。そうだな」
大和のまごついた瞳が徐々に徐々に伏せられていき、そうして最後には目を閉じてしまった。そのまま静かに呼吸――というよりも溜息だろうか――をして、ゆっくり目を開ける。たったそれだけ仕草を行う間に自分の中できちんと整理がついたのか、それとも強制的に整えたのか、その瞳にさっきまでの躊躇するような色は消えていた。
それを見てはほっとする反面、ことさら不安が強くなる。一度視線を落として大和の両足を確認する。履くのも脱ぐのも面倒そうなブーツがまず目に留まった。大和いわく走るのも歩くのも長時間の立ち仕事でもこなせるその靴底は、きちんと床にぴったりくっついているように見える。そこに玄関の照明による大和の影が重なって、その黒が色濃く目に映った。
顔を上げて、正面から大和を見据える。髪も肌も白に近い色をしている。
黒は強い。他の色と混ざったとしても、かえってその色を取り込む。けれど、白はどうだろうか――はそこまで考えてからの顔を思い浮かべ、ふっと笑みを浮かべた。考えを振り払う。
「お前がここまで弱々しくなるのって中々無いよな」
「……なんだと?」
その指摘で初めて気付いたようだった。大和は眉をあげて驚いたかと思うと、一瞬の間の後に、今度は眉をひそめた。ささやかな表情の変化ではあるものの、こうもコロコロ変わるのはいつにも増して珍しい。
「ほら、もう戻れって。だって、お前が戻るの待ってると思うぞ」
大和の肩がピクリと震えた。
「……。ああ」
そして、とうとう観念したかのように、頷いた。
「それじゃ。おやすみ」
「……うむ。おやすみ」
「もう一度言うけどさ、誕生日おめでと」
「……。ありがとう」
「もう後悔すんなよ。何もしないで後悔するのは、大和だってもうごめんだろ?」
そう言うなり、大和の瞳が揺らいだ。まるでそれを誤魔化すかのように、大和の目が三回、まばたきを繰り返す。
「……ん」
しばらくの間をおいて、大和がゆっくりと首肯した。その仕草は大和らしくもなく、ぎこちなくてたどたどしいものだったから、は一瞬目を瞠り、それからふっと微笑んで見せた。
「じゃ、また明日」
「ああ」
大和の返答を機に、は扉を支えている右手を離した。
すぐに足を踏み出さず、閉まった扉をぼんやりと見つめる。恐らく扉が閉まった瞬間、大和は踵を返して部屋に戻ったのだろう。
こうしてと鉢合わせて、どうなるというのか。大和の後悔が解消される事を願うが、もしかしたら悪化する可能性だってある。とはいえ、からすれば、どちらに転んでも良かった。
ただ、余計なお世話を焼きたかった、それだけなのかもしれない。醜いエゴの押し付け、底の浅いヒロイズムの発揮ともいえるが、けれどやらないよりはきっとマシだ。
じっと扉を見つめていただったが、ふいに催した欠伸をきっかけに伸ばしていた背筋をだらりと緩め、二回目の欠伸をかみ殺しながら足を踏み出した。
大きな事、というわけでもないが、それなりに自分でも緊張していた事をやり遂げた達成感から、どっと眠気が押し寄せてくる。もうの頭の中からは二人の心配事がぽっかりと抜け落ち、睡眠欲だけが脳内を占領していた。