「おかえりなさい。くんと随分話し込んでいたようですね。そのまま外出してしまうのかと思いました」
の言う「おかえりなさい」にふと違和感が湧いた。言葉としてはこの状況に見合っているのだろうけれど、だかしかし言葉の中に籠められた親しさに、言いようのない不安を覚える。別に嫌だとか気持ち悪いと言うわけではないのだが、かといってその言葉を無条件に享受していいものか、大和にはよくわからなかった。けれどもの表情はごくごく普通で、そうするのが当たり前なのかとも思わせられる。
ろくな返答もせず無言のまま立っていたせいだろうか、はふっと微笑んで大和から顔を逸らし、再度鞄の中へを視線を落とした。
「大和さん、もしごみ袋がありましたら、一枚頂けないでしょうか?」
「……。あるが、何故?」
「さすがにこの服を全部、大和さんに処理してもらうのは気が引けるので……、それに、その、下着とかもありますし」
徐々に尻すぼみになっていくの声を聞きながら、確かにそれは自分でも気が引けるなと大和は心の中で同意した。
「……。今やるのか?」
「はい。……駄目、でしょうか」
おずおずと伺うような声色に、大和は無意識のうちに歯噛みした。一度から視線を外し、息を吸ってからくるりと身体を反転させる。そのまま台所に向かい、雑用品が入った棚からゴミ袋として使用している袋を一つ取り出した。それを片手に、の所へ引き返す。
「これでいいだろうか?」
大和は身をかがめてに差し出すと、は一瞬びっくりした表情を浮かべた。大和の手元の袋と、大和の顔を交互に見比べている。そうして、おずおずと手を伸ばして袋を両手で受け取ると、大和は袋を持つ手を離した。
「ありがとうございます」
「……。構わん」
言い終わってから、素直にどういたしましてと伝えるべきだったかという疑問が大和の中にふと湧き上がった。そもそも、いつも真琴やたちに対してどういう接し方であったか、いまいち思い出すことが出来ない。そこまで考えてから、珍しく自分がこの状況に緊張しているのだと思い当たり、大和は内心愕然とした。思わず唾を飲み込んでしまう。
けれどもはさして気にした様子無く、折りたたまれた袋を広げながら鞄に目を向けている。それをきっかけに、大和は極力気にしないよう努めた。
「何か手伝う事は」
「……ええと、大和さんが同姓でしたらお言葉に甘えるのですけれど、……むしろ、あまりこちらを見て欲しくないというか、その、……申し訳ありません」
ろくに考えず、余計な気を回してしまった。
「……。いや、こちらこそすまない」
言いながら、くるりと身体を反転させる。そうしてから、背けるのは別に顔だけでもよかったのではという後悔が湧いてきて、徐々にいたたまれない気持ちが大きくなってきた。かといって、このまま何も言わずに移動していいものか、迷う。
いつも通りでいい。の言葉を思い返すが、それはどうにも今の自分には到底不可能な事柄のように思えて仕方なかった。
しばらく無言のまま、がさごそとビニール袋の音だけが部屋の中に響いている。
「大和さん。お風呂はもう入りましたか?」
唐突なの問いかけに思わず振り返りそうになるも、ゆっくりと顔を元の位置に戻した。
「……。いや、まだだ」
「でしたら、今のうちにいかがでしょうか」
の提案は素直に良いと思えた。大和が風呂に入っているその間に、は一人でせっせと遺品の整理をする。大和が風呂からあがったら遺品の整理が終わっていれば、お互いにとってかなり喜ばしいだろう。
「……。そうだな。入ってくる」
「はい」
大和はそのまま寝室に向かい、コートを脱いでハンガーにかけ、ついでにネクタイも取っ払って一緒にかけた。クローゼットから着替えと未使用のバスタオルを手に取り、小脇に抱えたまま寝室を出ると、に何も声をかけず廊下に向かった。玄関マットの脇にそろえた、愛用しているルームシューズを片手に脱衣所へ半ば逃げるように身を滑り込ませた。
後ろ手で静かに扉を閉める。そうして、盛大に溜息をついた。
夜、こうして誰かが部屋にいる事は、今までにない。実家でもそうだった。使用人が世話を焼くだけ焼いたらあとは引っ込んでしまう。その合間に会話らしい会話なんて、なにひとつした事なんてない。馴れ合いは疎ましいという理由で、自ら不要だと申し付けていた。
けれど、今回はそうもいかない。は使用人ではないからだ。死人ではあるし、もしかすると反魂香の霊力がもたらした幻覚なのかもしれないが、とのやりとりから察するに意識はしっかりしている。ともすれば、客人として扱うのが礼儀だろう。
気を使わなくても、別にいいのだと思う。現にもそう言っていた。敏いから察してくれると。
――そうして、話す事から逃げたら、また後悔に囚われるのが目に見えて判る。
しかし、話の切り出し方がわからない。どういう話題を振ればいいのかも、皆目検討がつかなかった。思えば、の趣味だとか、好きな物だとか、これっぽっちもわかっちゃいなかった。幼少の頃から気を回していた割に、それこそ接し方が新田維緒や伴亜衣梨となんら変わりないのにも気付かされた。もしかすると、それ以上に危ういかもしれない。
明かりのついていない風呂場に目をやる。温水のシャワーを浴びれば、血行が良くなって脳が働くかもしれない。そこまで考えてから大和はもう一度大きな溜息を吐いた。
風呂から上がり、バスタオルを首にかけたまま廊下に出る。の荷物整理が終わっていることを願いながら部屋の扉を開けると、はたして床に置きっぱなしになっていたあの鞄はソファに寄せるように置かれており、そのそばには衣類が詰め込まれているゴミ袋があった。
はソファに座っていたが、大和が部屋に入ってきたのを察して振り返る。にこりと無邪気に微笑まれて、どうしてか目を逸らしたい衝動に駆られたが、なんとかそれを堪えて大和は部屋の中へと足を踏み入れた。
「……。何か飲むか?」
尋ねると、はキョトンとした顔になり、それから一拍の間を挟んで嬉しそうに首肯した。
その表情を目にしたとたん、唇に妙に力が入るのを感じつつ、大和は台所へ足を向けた。食器棚の前に立ち、カップを二つ出そうとしたところで、唐突に声がかかった。
「新しく出すと、洗う手間が増えますから」
が立ち上がると、パタパタと軽い足取りで台所までやってきた。の手には先ほど使ったカップが三つ、大事そうに抱えられていた。
「……。たいした手間でもなかろう」
「たとえ、たいした手間でなくとも、大和さんの手間が増える事は違いありません」
きっぱりと断言したあと、は逡巡するように台所を見回した。一度大和の顔を伺うように見上げたあと、そろそろとした足取りで大和の腋を通り抜け、シンクにが使ったカップを、残りの二つは横の台の上にそっと置いた。そうして、凄く大きな事業でも成し遂げたかのような顔で、ほっと息をついている。
一連の動作をじっと眺めていると、視線に気付いたのかふと大和のほうに顔を向け、それから小さく肩を震わせた。気まずそうに目を逸らし、そのままぜんまい式人形のようなぎこちない動きで大和の脇を通り過ぎる。
「……。どこへ行く。まさかまた私に運ばせる気か?」
「も、申し訳ありません」
引き止めるとはすぐに謝罪を口にしながら、大和のほうへ戻ってきた。台所のカウンターのそばで、俯きがちにじっと立っているその姿は、どことなく居心地が悪そうに見える。
――のもつかの間、ゆっくりと顔をあげて、大和を真っ直ぐに見つめてきた。内心たじろぐ大和をよそに、はキョトンとした表情になって、小首を傾げてみせる。
「……乾かさないんですか?」
一瞬何を尋ねられているのかわからず大和も首を傾げたが、自分の髪がタオルで拭きっぱなしのままになっていることに気付き、視界に映りこむ湿った髪をちらりと横目で見やった。
「……ああ、……後で乾かす」
そう答えると、の表情がほのかに曇った。
「すぐに乾かさないと、髪、傷んでしまいますよ」
「……。それくらい瑣末な事だよ。それに、今までずっとそうしてきた」
「だめです。絶対にだめです。ドライヤーはどこにありますか」
鬼気迫る言い方に気圧された。
「……。洗面所だが」
「取ってきます」
は大和に背を向けたかと思うと、そのままパタパタと小走りで走り出し、部屋から出て行ってしまった。その強引さに呆然としていると、程なくしてが同じようにパタパタとした足取りで戻ってくる。
案の定、手にはドライヤーと櫛があった。
「……ええと。どこで乾かしましょうか」
は苦笑を浮かべながら、大和にそう尋ねた。
「乾かすならば洗面所で乾かす。元の場所に戻して来い」
「場所は……あそこがいいでしょうか?」
「……。人の話を聞いているのか?」
返答は無かった。聞いていないらしい。大和はこの状況に軽い眩暈を覚えつつ、の後を追いかけるかのように台所から足を踏み出した。
が向かった先は、部屋の窓際にあるデスクだった。デスクの上に置かれた卓上ライトの線を辿ってコンセントを見つけると、そこにドライヤーのプラグを差し込んだ。線を延ばしたドライヤーと櫛をデスクの上に置いて、手前にある椅子を引く。
まるで自分の私物だといわんばかりの勝手知ったる扱いに、大和はたしなめる気力すら沸かなかった。
「どうぞ、座ってください」
にこやかに微笑みながら勧められ、大和は躊躇して立ち止まった。誰も占有していない椅子と、の顔を交互に見比べる。柔らかな笑顔の裏には強固な意志が存在しているのが汲み取れる。このまま黙ってやり過ごせそうな気配は、皆無だ。おそらく大和が足を踏み出して椅子に腰を下ろすまで、はずっとそうしているつもりなのだろう。
ただ椅子に座って、されるがまま髪を乾かしてもらうだけだという事はわかっている。ただ椅子に大人しく座っているだけ。じっと座るなんて小さな子供でも簡単にできることだ。しかし大和にはどうしてか、それが日々の仕事よりも難しい事のように思えた。
から敵意は読み取れないし、自分に対して危害を加える気がないということは断言できた。けれど足を踏み出す事にしり込みする。別に意地でそうしているわけではないのも理解している。とすれば何故なのか――。
――怖気づいているのかもしれない、と、大和は思った。
たとえるなら、怖くは無いけれど怖いというような、言葉にあらわしようのない感覚。むしろ、怖いけれどその怖さを否定するという二律背反に陥ってしまったのかもしれない。どうしてそんなふうに思うのか、何に対して怖いのかすらも理解不能で、尚更困惑も深まり、怖気に拍車がかかる。
思考する事に気をとられたせいか、交互に見比べていた大和の視線がいつの間にかの顔で止まっていた。それに気付いたはきょとんと丸くした瞳を何度もしばたたかせている。不思議そうな、けれどどこか気遣うような、探るような色を含んだ視線に射抜かれ、ようやっと大和が我に帰ると、どこかほっとしたように目を細めた。
そのまま――満面の笑みを大和に向ける。
「大和さん」
急かすふうでもなく、ゆっくりと名前を呼ぶ。ただ椅子の背もたれに手をかけて、大和が来る事だけをじっと利口に待っている。
無性に、顔を背けたくなる衝動に駆られた。心の中にほのかなあたたかさが広がる反面、じわじわと胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
笑顔を向けられる資格なんてものはないと思っていた。けれど、それは自分勝手なただの思い込みに過ぎなかったのだと痛感させられる。醜悪な願望を自覚した途端、自分の底の浅さが透けて見えてくる。しかも、目の前の彼女はそれを察している。察しているから、こうやって優しく微笑んでくれている。
の言葉通りだった。は気に留めていない。気を揉んでいたのは大和たった一人だけだった。それをもも、しっかり見透かしていたのだ。
言いようのない恥ずかしさがこみ上げてきた。ともすれば、怖気の原因がなんとなくわかるような気がした。
心の中を覗かれるような恐怖。別にがそういう超能力を持っているというわけでもないし、寧ろ有り得るわけがないのだが、現にこうしてはこの状況下、急かす事もせずただ微笑むことが最良だと判断し、その効果は大和にしり込みさせるほど抜群だった。
あの椅子に座ったら最後、胸中を暴かれるような気がしてならない。というよりも、隙を突かれてうっかり自分から言葉を漏らす、なんてヘマをやらかしてしまいそうで、それが怖くなる。
そうやって勝手に怯えて、このまま立ち止まっていても、事態が好転しない事はわかりきっている。
息を吸う。鉛のように重たい足を踏み出すと、二歩目、三歩目の足がやけに軽く感じられた。そのまま椅子に腰を下ろして、内心安堵の溜息をつく。そうしてから、別に乾かしてもらわずとも、自分で乾かすと申し出て断る事もできたのだ、と気付きハッとした。
ふいに、頭上でくすっと笑う声が聞こえ、大和の体が強張った。
「タオル、お借りしますね」
はそう言って、大和の首元からするりとタオルを抜き取った。大和の返事も聞かずにタオルを広げたかと思うと、大和の頭に覆いかぶせるようにして髪を拭き始める。
自分で拭くのとはまったく違う力加減。気を使ってくれているのか、撫でるかのような優しい拭き方が微妙にくすぐったい。大和は喉の奥で息を詰まらせ、じっと耐えていると、タオルが取り払われた。はデスクの上にタオルを置き、その代わりにドライヤーを手に取った。
スイッチが入る音がして、瞬時に耳障りな機械音が響きだす。温風が大和の髪を撫で付けはじめた。まずは前髪をさきに乾かして、それから後ろ髪を乾かし始める。
髪と髪の間に、ほそい指がすべりこんでくる。ドライヤーの風をあてながら根元から毛先まで撫でるように梳き、そしてまた髪の根元に指を滑り込ませる。それの繰り返しだった。
ドライヤーの音がうるさいのが、幸いだった。余計な事を喋らずに済むと大和は思いつつ、くすぐったさと心地よさの間に介在する感覚に思わず目を細める。
こうやって、他人に髪を乾かしてもらう機会なんてあっただろうか。記憶をほじり返してみると、物心ついたばかりで文字通り何もわからなかった小さな頃、こうして誰かに髪を乾かしてもらった覚えはある。それが誰だったのかはわからない。名前も顔も性別も記憶の靄に包まれていて、どういう人だったかすらもわからない。しかし、それが両親ではない事は断言できた。
「熱くないですか?」
ドライヤーの音はうるさいのに、どうしてかの声は大和の耳によく通った。妙な気恥ずかしさを覚えつつ、気付けば、うん、という声と共に小さく頷いていた。まるで幼い子供がするような反応を見せてしまい、ことさら気恥ずかしさがつのる。今の声がドライヤーの騒音にかき消されて、の耳に届かない事を情けなくも願ってしまう。
大和が首を動かしたせいだろうか、の指が一旦止まった。けれど、数秒もしないうちに、また大和の髪を撫で付け始める。
気のせいかさっきよりも力が弱く感じられた。というより、小動物をなでるような力加減とでもいえばいいのだろうか。おまけに、錯覚だとは思うのだが、後ろにいるが微笑んでいる気配がした。おかしくて笑っているというより、嬉しさから自然と笑みがこぼれるような、そんな空気が、髪をなでる指先から伝わってくる。大和はたまらずに目を閉じた。
塗れた髪の毛は徐々に温風によって水気を失い、軽くなっていくのがわかる。その毛先が温風によって跳ね、たびたび首筋をかすめるものだから、どうしようもなくくすぐったい。いつになったら終わるのか――目を開けてデスクの上の置時計を眺めながら、ぎこちなく身体を硬直させているうちに、ドライヤーの音が止んだ。
櫛を手にとって、梳きはじめた。それも、丁寧に。
「ブローはしなくても大丈夫でしょうか」
「いらん」
大和が即答した途端、がくすっと笑みをこぼした。
「くすぐったかったですか?」
見抜かれているのではないかと思っていたら、やっぱり見抜いていたらしい。否定も肯定もせず押し黙っていると、はそれ以上の追及をすることなく、ドライヤーを片付け始めた。コンセントからプラグを抜いて、線を綺麗にまとめて、櫛と一緒に大事そうに抱える。
「これ、元の場所に戻してきますね。……そういえば、タオルはいつもどこに?」
「……。洗面所だが」
「じゃあ、ついでにかけてきましょうか」
「……。いい。自分でやろう」
その言葉を聞くなりは嬉しそうに笑って、タオルを取ろうと伸ばした手を引っ込めた。そんなを極力視界に入れないように――自分でも変なところに気を使っているものだと呆れながら、大和はタオルを手に取った。足を踏み出すと、その後ろをもついてくる。
洗面所に足を踏み入れ、いつものようにタオルハンガーにバスタオルをかける。その後ろでは、洗面台の横の棚にドライヤーをしまうがいる。いつもとは違うその光景をぼんやりと眺めていると、視線に気付いたのかが振り返り、一度大和ににこっと笑いかえして、棚の扉を静かに閉めた。
「大和さんて、普通の人が着るような服も、着たりするんですね」
「……。は?」
しみじみといった風に呟かれ、思わず問いかけるような声が出てしまった。
「あ、いえ。馬鹿にしているというわけではなくて、……それ、パジャマですよね? もっとこう、上品な感じというか、なんというか、……そんな服を着るのかと思っていました」
大和は一度目をしばたたかせ、それから自分の格好を見下ろした。Tシャツにスウェットパンツ。安価なわりに肌触りも良く動くのも楽だから、寝るときは好んでこの格好をしていた。
「……。上品な感じとは一体なんだ? 是非とも教示願いたいものだな」
「ええと……絹素材とか、……大穴で襦袢とか?」
「何故疑問系なのだ。……襦袢なんてもの、いまどき寝巻きにする奴の気が知れんよ」
実家では和装だった。それが当たり前だからそうしてきた。けれど、峰津院の嫡男として選出され、実家を出てジプスの局長の座についてから自分で服を選んで買うようになって、和装は洋装と比べると面倒でばかばかしいと思うようになった。
「私がこういうのを着るのは、そんなに意外だろうか」
「最初は意外でしたけれど、こうしてみると、こちらのほうがしっくりきます」
がにこっと微笑んで、大和と一歩ぶんの距離をつめる。
「髪を乾かしていた時も思ったんですが、いい匂いですね」
一瞬、なんの事について言われているのか、大和にはわからなかった。微笑むの顔を見下ろしながらぼんやりと考え、言葉の意味に気付いた瞬間に後ずさると、は悪戯めいた笑みを大和に向けてから、するりと洗面所を出て行ってしまった。
洗面所に一人取り残された大和は大きな溜息をついてから、その場を後にした。
部屋に戻っての姿を探そうと見渡した所で、デスクの向こう側である窓際に立っている姿のをすぐに見つけた。窓ガラスに額がくっつきそうなほど顔を寄せている。
窓の外に広がる景色は雨にけぶって、遠くの景色が薄暗い霧にかすんで見えなかった。夜景もぼやけてお世辞にも綺麗と呼ぶことが出来ない。それでもはじっとその場に立ったまま、外の景色を眺めている。何が楽しいのだろうか――大和はガラス越しにの表情を伺おうとして、目をしばたたかせた。一度部屋の明かりを見上げた後、再度窓ガラスに目を向けた。何も映っていないガラスをしばらく見つめた後、大和は何事もなかったかのように台所へ向かった。
電気ポットでお湯を沸かし、がわざわざ台の上に並べてくれたティーカップに紅茶を注いだ。結局二つとも自分で運ぶ羽目になったと呆れつつ、応接テーブルの上に、が部屋にいた時と同じ配置でカップを置いた。
紅茶の匂いで気付いたのか、がゆっくりと振り返った。
「飲むのであれば座って飲め」
「……。ありがとうございます」
嬉しそうに笑って、近寄ってくる。
大和がさっきと同じ場所に腰を下ろすと、はやや逡巡する様子を見せてから、大和の正面に腰を下ろした。目を丸くする大和をよそに、はカップを自分の前まで移動させ、それからカップを持ち上げた。
「結局、大和さんにまた運んでもらってしまいました」
何を、と言いかけてから、すぐに理解した。
「わざわざお前を呼んで運ばせるより手間がかからんのでな」
「ありがとうございます。……美味しいです」
は紅茶に口をつけると、にこにこしながらそう言った。
「……。さっき、窓の外を見ていたが、何か気を惹かれるようなものでもあったのか」
「ええと、……雨が降っているなと、そう思って。……もう梅雨入りしたんですよね?」
「ああ、そうらしいな」
頷いて、大和は窓の外に目を向けた。応接スペースからでは外の景色なんてろくに見えず、濃い灰色の空しか見えない。
「大和さんのお誕生日って、必ず曇りか雨ですよね。時期が時期だからしょうがないといえばしょうがないのですけれど」
「……。フム、なるほど。言われて見れば確かにそうかもしれん」
紅茶に口をつけて、記憶の奥深くを探り当てる。誕生日。文字通り、この世に生まれた記念日ではあるが、かといって一日の内容は前日とさして変わらない、一人で過ごす一日。勉学に時間を費やし、そうして訪れた休憩時間のさなか、ふと窓の外に目を向けると、決まって雨が降っていたように思う。
「……晴れ間は、見ることが無かったな。たとえ朝は曇り空であっても、夕方には雨が降っていた」
「でしたら、お誕生日限定の雨男さんですね。もし今日、雨が降らなくて困っている地域に大和さんが足を運んだら、きっとちやほやしてくださいますよ」
の言葉につられて、その光景を想像してしまった。枯れ草ばかりの荒野とも呼べそうな旱魃地帯に傘を差して立つ自分と、落ちてくる雫が地面を濡らして潤いを与えるのを喜ぶ地元の住民達。その中には大和に向かって跪き、頭を下げる者もいる。
「……。異様だな」
「雨の中、胴上げしてくださるかもしれません」
その光景を想像しかけた途中で、大和はハッとした。慌ててその考えを振り払う。ただの迷信について考えてしまうなんて、完全に相手の空気に呑まれていた。
「……。くだらん話だ」
「そうですね」
大和の言葉を肯定しながら、は何故か楽しそうに笑っていた。
無理もないと大和は思った。くだらないと切り捨てておきながらも、そのくだらない話に付き合ってしまったのは一体どこの誰なのか。
はひとしきり肩を震わせると、誤魔化すようにひとつこほんと咳払いしてみせた。
「大和さんはこの後、お休みになりますか?」
「……。そうだな、仕事も片付いているし、起きている理由は無い」
「でしたら、大和さんが寝ている間、私はどこに居ればいいでしょうか?」
がおずおずと尋ねてきた。
「そんな事聞いてどうする? 玄関に居ろと私が言えば、お前はずっとそこに居るのか?」
「大和さんがそう仰るのでしたら」
一瞬、面食らった。すぐに気を取り直す。
「……。いつもはどう過ごしているのだ?」
「いつも……ええと、くんのお部屋で、という事でしょうか?」
大和が首肯すると、は甘く首を傾げて、うーんと小さなうなり声を上げた。
「大抵はリビングで過ごしています。貸して下さった本を読んだり、新聞を読んだり。たまにくんが寝付くまで、寝室で話相手なんかもしますけれど」
「つまり、あまり制限はなく、自由という事か?」
「はい」
「そうか。……ならば、好きな所に居ればいい。お前が読めそうな本はそこの本棚にある。デスクの上のパソコンも、使いたければ使え」
「いいんですか?」
「……。お前はして良い事と悪い事の区別はついているだろう。その弁えもあるはずだ。違うか?」
がきょとんと目を丸くする。ぽかんと呆けたように大和を見つめた後、大和からほんの少しだけ視線を逸らした。
「もしかすると、悪さをしてしまうかもしれませんよ?」
「……ほう? たとえば」
「ええと……パソコンの壁紙を変な画像に変えたりとか、本棚の本の漢字全てにルビを書き込んだりとか」
「……。発想が小さいな。局内ネットワークをダウンさせるくらいの悪さでないと、私は怒らんよ」
「ネットワークを、落とす……?」
「うむ」
は見るからにちんぷんかんぷんだ、というような顔でぼんやりと大和の顔を見つめたあと、誤魔化すような苦笑を浮かべた。そのまま紅茶に口をつける。
大和も大和で、またくだらない話に乗せられてしまったと内心ハッとしつつ、特にそれ以上は言葉を紡ぐ事はなく、と同じように紅茶に口をつけた。そのまま視線を脇に逸らし、あるものに目が留まる。
穏やかな寝顔を晒している羊。羊をモチーフにしていると教えられた今では、不思議とそれが羊と認識できる。ソファにおきっぱなしのまま、存在を忘れていた。
そういえば――お礼を言っただろうか。箱を開けた後、羊がどうのこうのという話になってそれから夢の話になって、言うタイミングを逃したまますっかり忘れていたように思う。
「……。」
「はい、なんでしょう」
首を傾げている。ただありがとう、と言っても伝わりそうにない。大和は逡巡する様子をみせたあと、脇にある羊を掴んで膝の上へと手繰り寄せた。
の首が元の位置に戻る。不思議そうな瞳。それ以外の意思が感じ取れず、言いようの無い気まずさを覚える。多分は気付いていないとわかってしまうと、いまさら礼を述べる事に大和は躊躇した。
それでも――大和は口を開いた。
「……あ」
「……あ?」
言葉に詰まって固まった。しかもがいたって不思議そうにオウム返しするものだから、頭の中が真っ白になる。
「……ありがとう」
言い終わると、頭の中が徐々に元に戻ってきた。満たした白色が静かに引いていく。妙な達成感が身を包んだが、しかし対面のはというと不思議そうなまま硬直しており、その達成感もじわじわと消えていく。
無言になる。窓ガラスを叩く雨粒の音すら聞こえるほどの沈黙だった。
「ぁ……、え、ええと……」
大和の顔をじっと見つめていたの視線が、ふと外れる。下がった目線は、大和の膝の上に向けられている。
「……ど、どういたしまし……て?」
疑問系で返された。
「……ええと、それ、本当に嬉しいですか?」
そうして、不安そうに尋ねてくる。がそれと示した羊を大和は静かに見下ろし、ふむ、と呟きながら表面を撫でた。
「……。正直な所、嬉しい、嬉しくない以前に、……よくわからん」
「で……すよねえ。男の人が貰って喜ぶようなものでもないですし」
「……。ならば、何故これを?」
「くんが、貰った時の大和さんの反応が気になると仰って、それで……」
「……。はたまに、私を玩具か何かと勘違いしているのではないかと思う時がある」
「じ……実は私も、大和さんの反応が気になったのは、完全に否定できないです」
「……ほう?」
「も、申し訳ありません……」
深々と頭を下げる。
「……。それで、私の反応は楽しめたか?」
「……その、……大和さんは大和さんだな、と思いました」
誤魔化すような微笑みをじーっと見つめるうちに、数秒の間が空いた。
「……。良いか、悪いか。二択で答えてみろ」
「……も、……申し訳ありません」
何故か自分で勝手に謝罪の三択目を作り出した挙句、さっきと同じようにまた深々と頭を下げていた。大和は何も言わず、ふっと息を吐き出して、膝もとの羊の表面を撫でた。白い部分はタオル地でてきており、肌触りに関しては申し分が無い。
「……。思えば、お前からこうして正式に物を贈られるのは、初めてだな」
「んー、出資者はくんですから、私からの贈り物とするのは少々疑問に残りますが……ふふ、あまりお気に召していただけなかったようですね」
「気に入る、気に入らないは、使ってみないとわからんさ」
「そうでしょうか? 第一印象って大事ですよ」
「……。第一印象か、フム。……ふかふかしていると思ったかな」
途端に、が笑い出した。
「……。おかしな事を言ったか」
「い、いえ。大和さんの口から、ふかふかなんて言葉が出ると思わなかったので」
「……。一応、辞書にある言葉なのだがな」
の肩が、ことさら大きく震えた。両手で口元を覆って、必死に笑いを押し殺している。
「ふかふかは柔らかいという意味のほかに、うかうかの同義語でもある。……これが羊の形を成しており、おまけに眠っている顔をなのだと理解した時も、ふかふかな間抜け面をしていると思った」
「ゆ、許してください……」
「……。うむ、許す」
しばらくして収まってきたのか、が顔を上げた。手を下ろし、喉の奥で咳き込んで、紅茶に口をつけている。
「お前の笑いのつぼは、よくわからんな」
「大和さんが、辞書にある言葉だとか、変な事を言うからですよ……」
ほとほと困ったといったふうに、がぼやく。
「それに、私の話をくだらないと打ち切っておきながら、ご自身でくだらないことを口にするのって、どうかと思いますよ」
その指摘で、確かにくだらない事を口にしたと大和はハッとしたが、イレギュラーな状況下でイレギュラーな言動をするのは仕方の無いことだと割り切り、もう気にしないよう努める事にした。
「おまけに、うかうかと同義語だ、なんて言い出すものですから、もしかして辞書に記載された言葉全て暗記してるのかな、なんて思ってしまったじゃないですか……」
「……。しているが」
ビクッと、の肩が震えた。
「……き」
「ん?」
「き、……き、聞かなかったことに、します……」
「……うむ。そうしたまえ」
大和はゆっくり大仰に頷いて、紅茶に口をつけた。対面にいるは一度だけ深く深呼吸して、それから安堵したような溜息とともに、胸を撫で下ろしている。こみ上げてきた笑いを押し殺す事に成功したようだ。
「……。まあ、第一印象に関しては、そんなものだ。不思議と悪印象は覚えなかった」
「ほんとうに?」
「ああ」
「……でしたら、よかったです」
まるで噛み締めるように言葉を紡ぎながら、不安が晴れたように微笑んでいる。大和は一瞬目を瞠り、そうしてふっと笑みを浮かべた。
「……。ありがとう」
気がつけば、自然とそんな言葉が口から出ていた。内心驚いたもの、それ以上に穏やかな気持ちのほうが勝っていて、徐々に驚きがかき消されてしまう。
伝えるのが2回目だからだろうか、さほど緊張しなかった。
「はい。どういたしまして」
がいっそう笑みを深くして、にっこり笑いながら返してくる。大和と同じように、さっきのようなたどたどしさは微塵もなかった。
大和としては別に伝えるだけ伝えて、返答はなくてもよかった。それでもこうして返ってくると嬉しいもので、こめかみのあたりにじわりと暖かいものが広がるのを感じた。
二人のカップの中身が空になったのを機に、お開きとなった。片づけをするため大和が立ち上がるとも立ち上がり、「いい」と言っているにも関わらず、大和の後ろについてくる。結局、洗ったカップを拭いてもらうという事でどうにか落ち着いた。
最後に応接テーブルを拭いた布巾を物干しにかけ、それで片づけは終わった。時計を見ると、午前2時を過ぎていた。も大和に釣られるように時計を見上げ、ほのかに苦笑を浮かべてみせる。
「長話が過ぎてしまいましたね」
「ん……いや、構わん。私の方こそ、気が回らなかった」
言い終わると同時に出かけた欠伸をかみ殺す。生理的な涙で潤んだ目を指で擦った後、台所の明かりを消した。いくらオープンキッチンとはいえ、明かりを消すと一気に暗くなる。台所から出るよう促そうとの方を向けば、は片手で口元を覆って欠伸をしていた。
「……。眠いのか?」
「いえ、そういうわけでは……。大和さんの欠伸がうつったのかもしれません」
の言葉に、大和は目をしばたたかせた。欠伸を噛み殺していたところを見られていたらしい。べつだん見られて困るような事では無いが、なんとも言えないような居た堪れなさが湧き上がってくる。……なんて考えているうちに、また欠伸が出てきた。再度噛み殺す。
「……大和さん、眠そうですね」
「いや……うん、そうだな。眠い」
「眠気とは無縁の人かと思っていました」
「私を何だと思っているのだ……」
大和が目を擦るの仕草を、が嬉しそうに眺めている。
「歯磨きをしてくる。……はソファにでもかけていろ」
「はい、わかりました」
二人して台所を出て、そのまま扉の前で別れた。大和はまっすぐ洗面所に向かうと、室内の明かりをつけ、いつものように歯を磨く。鏡に映る顔をじっと見つめると、確かに眠そうな顔が映りこんでいた。
小一時間は話し込んだように思う。そのせいで疲れたのかもしれない。しかし、その疲れは大和にとっていやな疲れではなかった。
洗面所を出て部屋に戻る。は大和の言葉通りソファに腰掛けていたが、さっきまで大和が座っていた席の隣に腰を下ろしており、膝の上にあの羊を乗せて、揉んだり撫でたりしていた。大和の姿に気付くと顔をあげて微笑んだが、しかし枕を弄繰り回すのをやめようとしない。
「何をしている」
「大和さんの言うとおり、ふかふかしているなと思って」
どうやらふかふか具合を確かめているようだった。
「……。それをよこせ。もう寝る」
「……。これ、使うんですか?」
「折角だからな。それに、使わんでどうする」
わっとが嬉しそうに声を上げて、両手を合わせた。
「それなら大和さんがこれを使うところ、見てみたいです。せっかくですから」
がにこにこしながら、大和の言葉を真似つつも、とんでもない事を言ってのけた。まじまじとの顔を凝視するが、邪気は感じない。というより、眠気で正常な判断ができそうになかった。考える事すら億劫になってくる。
「勝手にしろ」
「はい」
即答だった。しかも、とびきり嬉しそうな返事は今まで聞いたことの無いもので、大和は内心たじろいでしまう。
は枕を大事そうに抱えたまま立ち上がり、大和の正面まで来ると何も言わずに枕を差し出した。大和は数秒の間の手元を見つめ、何も言わずに受け取った。
照明のリモコンを操作して、部屋の明かりを消した。その手順をに説明した後、寝室に向かう。明かりをつけると、橙色の照明が部屋の中に広がった。
わあ、と感嘆の声をあげるを一度横目で見てから、大和は部屋に足を踏み入れた。もその後ろをゆっくりついてくる。
「すごく広いですね」
「……。窓が大きいからそう感じるだけだ」
「それに、大和さんの匂いがします」
言葉に詰まった。そんな大和の心境など知ってから知らずか、は楽しそうに部屋を見渡しながら、引き寄せられるように窓際へ歩いていく。
「もしかすると、晴れていたら窓の外一面が星空なんでしょうか」
「……。ああ。といっても、そこまで綺麗なものではないがな」
うなずきながら、ベッドの上に枕を置いた。
「雨が降っているのが残念ですね」
「……。すまないな、雨男で」
楽しそうに笑うに大和は嘆息しつつ、窓際に近寄ってカーテンを閉めると、も慌ててもう片側のカーテンを閉めた。ガラスの外に逃げ出していた光が遮光カーテンによって遮られ、心なしかさっきよりも部屋の中が明るく感じられる。
大和がそのままベッドに引き返すと、もついてきた。ベッドの上に上がる大和をきょとんと見つめ、は逡巡する様子を見せると、ベッドのそばの床に腰を下ろした。側面を背もたれにしているので、大和からはの後頭部しか見えない。
「今日、こうして大和さんのお部屋に呼ばれて、思ったんですけれど」
「ん?」
もともと使っていた枕を脇に寄せる。そして空いたスペースにあの枕を置いてから、大和は静止した。
「大和さんも、おうちの匂い、持つようになったんですね」
「……。意味がわからん」
「わからないですか。……ええと、なんて言ったらいいんでしょう。ほかの人の洗いたてのタオルとかに染み付いてたりしますけど、人の家にあがったときに、自分の家じゃないんだなって思うような、そういう匂い」
大和は首をかしげ、布団の中にもぐりこんだ。枕に頭を預ける。厚みが無く、妙な違和感だけが徐々に蓄積されていく。いつもと違う枕なので当然といえば当然だった。
「その枕で眠れそうですか?」
が話しかけてくる。視線を天井からの方に向けると、いつの間にやらは、ベッドの上に頭を乗せるような体制に変わっていた。
「……。まあ、枕にはそこまで頓着しないのでな」
「ふふ、どこでも眠れちゃう人ですね」
「安全が確保されていればどこでも眠れる。……照明を消してもいいか」
「はい」
手を頭上に伸ばして、ヘッドボードに備え付けの棚から照明のリモコンを手にする。消灯ボタンを押すと、一気に部屋が暗くなった。手を元の場所に戻し、肩まで布団をかぶる。そうしてから大和は僅かに首を傾けての方を見たが、部屋が暗すぎて輪郭すらもわからなかった。
「……」
「はい、なんでしょう」
すぐに声がかえってきた。内心ほっと胸を撫で下ろす。その直後、何故ほっとしたのかすぐに疑問が沸いたが、何度かまばたきを繰り返しているうちに、どうでもよくなった。
「先ほど、家の匂いと言っていたな」
「はい」
「……。お前の家にあがったとき、確かに、そういうのを感じた覚えはある。それの事だろうか」
ぼんやりと天井を見つめながら、大和はうまく働かない頭で思考を巡らせた。
の家。立て付けが悪い戸を開けて家の中に足を踏み入れると、なんとも表現しにくい匂いが充満していた。別に悪いにおいではない。どこかにありそうで、けれどここでしか感じる事のできない匂い。季節問わずそれは変わることが無く、薄ら寒さとは無縁のにおいだった。
「きっと、それですよ」
暗闇の中、ふふふと笑う声がした。
「こう言ったら大和さんに怒られそうなのですが……」
「ん……構わん。それに、今の状態で、そんな気力が出せそうに無い」
「ふふ。大和さんの声、すごく眠そうですね」
「ああ、眠いよ。だからさっさと話せ」
んー、と小さくうなる声がする。が身じろぎする気配と音を感じた。
「私も大和さんもまだ小さかったころの話なんですが」
「……ん」
「たまに大和さんに会ったとき、おうちのにおいがしないな、って幼心に思ってたんです」
「……。そうか」
「なんにもにおいがしないなって、不思議でした」
まるで念を押すように二回も匂いがしないと言われ、自然と口元が緩んだ。
「……。私の屋敷は広かった。なのに、塵一つ落ちていないほど清潔に保たれていた。使用人は常にいたが、回転が早かった。家主は殆ど留守だったからな、家に何かの匂いが染み付くなんてことは、なかったのかもしれん」
「どのくらいの大きさでしたか?」
「お前の神社の敷地の倍以上は広かった」
「すごいですね。お掃除するの大変そうです」
「……。きっと、そうだろうな。使用人の顔ぶれがよく変わるのは、そのせいだったかもしれん」
「そんなおうちに、一人で?」
「ああ」
「……さみしくなかったですか?」
「……。さみしい、か。初めて聞かれたな」
数秒、ぼんやり考える。
「正直、それが当たり前だったから、よくわからない。……そういうお前は?」
「へっ、私……?」
「おそらく、私とは真逆の環境に居ただろうからな」
うーん、と唸っていたが、口を開いた。
「……さみしい時と、さみしくない時がありました」
「さみしい……何故だ?」
純粋に、そう思った事が、気付けば口から出ていた。あの家の中にいてそう感じる事があるのかと、大和からすれば意外だった。
「父も祖父母も神社のほうに出て、母は外で働いていて、家にはひとりでいる事が多かったですから。本を読んだり、何かに熱中している時は楽しかったですが、ふとした拍子に誰も居ないなって気付いて、それで……」
「そうか」
「学校の方が、同年代の子が多くて、好きだったかもしれません。家は、知らない人がよく訪ねてきて、そのたびに挨拶しなければいけなくて……」
「……。煩わしかったか?」
「そう、ですね。……慣れてしまったら、呆気ないものですけれど、小さいころはすごく難しかったです」
そうして、くすっと、笑う気配がした。
「思えば、大和さんと話すのも、難しかったです」
「……」
目を閉じる。
「すごく頭を働かせないと、ついていけなくて」
「……そういう意味か」
ふっと息を吐いて、目を開ける。徐々に暗闇に目が慣れてきて、天井に取り付けられた照明の形が、うっすら認識できるようになっていた。
「正直、私も何をどう話したらいいのか、わからなくなるときはあった。お前が首をかしげて不思議そうな顔をした時は、尚更」
「そうなんですか? 意外です」
くすくすと笑う声がする。綺麗なものを転がしたような、心地いいその音が、耳朶をくすぐる。
「……あまり、笑わないでくれ。お前のそういう声は、眠くなる」
「……ええと、……眠くなったほうがいいのでは?」
戸惑うの声に、ハッとして息を呑んだ。が、すぐに意識が眠気に包み込まれる。うまく物事が考えられない。
「……それでは、笑わないように、気をつけますね」
「ん……」
頷いてから、ゆっくりと息を吐き出した。我ながら変な事を口走ったと、大和はぼんやり考える。
と、がとつとつと、喋りだした。
「大和さんと、お話しするのが難しかったのは」
「……うん」
「たぶん、おうちのにおいを感じ取れなかったからかもしれません」
「……。そうか」
「どういうご家族がいらっしゃるのか、とか、ぜんぜん見通せなくて……。キャベツ畑がおうちなのかな、とか、変な事を考えていた記憶があります」
「……私とて、名ばかりの家族だと感じる。お前がそう思うのは、きっと、自然な事だろう。ただ、さすがにキャベツ畑には、住めない」
大和はそう言って、のほうへ顔を向けた。うっすらと、輪郭がわかる。しかし表情はわからない。頭の形がかたむいた。
「でも、今はきちんと、おうちの匂いがしますよ」
その口調から、なんとなく、目を細めて微笑んでいるのかと勝手に思ってしまう。
「……。どういう、意味だろうか」
「そのままの意味ですよ。ただ、大和さんがいい匂いがするなって、そういう意味です」
「その……匂いについて、とやかく言われると、恥ずかしいのだが」
「申し訳ありません」
がくすっと笑って、それから笑いを誤魔化すように咳払いした。
「あの、大和さん」
「……何だ」
「すごーく、眠そうですけど、大丈夫ですか?」
「そんなことは……」
どうしてか否定するような言葉が出てきて、言いかけた途中で口をつぐんだ。
「……もう寝ましょう? こうしてお話ししていたら、大和さん、眠れなくなっちゃいますよ」
言葉を噛み砕いて相手を諭すような、ゆっくりとした言い方だった。
「しかし、眠ったら、朝になる……」
言いながら、自分でもわけがわからない事を喋っているなと大和は思った。瞼が勝手に下がりそうになる。舟をこいでいる感覚が、頭の中を包んでいる。
「ふふ、そうですね。眠って、目が覚めたら、きっと朝になっています」
「だから、笑うなと……」
「ふふふー」
「……」
わざとらしい声がことさら眠気を誘い、思わず眉間に皺を寄せた。大きな溜息をついて、大和はゆっくりと寝返りを打つ。の方に身体を向けた途端に、大和の目の前にあるの輪郭がビクッと震えた。
枕のちょうどいい位置に頭を預けなおす。頬に柔らかなタオル地があたって、なんともいえない心地よさが増した。布団を被りなおしてから、顔の横に手を置いた。
「……。もし、朝になったら……」
「はい」
「お前はきっと、いなくなっているはずだ」
返答は無い。ただ、息を呑む声が聞こえてきた。
「……。いまさら、聞きたいことが、……聞きそびれたことが、山ほどあるのに気付いた。部屋にいるとき、くだらない話などせずに、そちらを先に聞いておけばよかった」
言い終わって一息ついてから、シーツを握り締めているのに気が付いた。暗闇の、手があるところを見つめながら、大和はゆるゆると指の力を解いていく。まどろむ頭でも、いまの言葉を口に出す事に、どこか緊張していたらしい。
弛緩して、自由になったその手に、ふいに冷たいものが触れた。
ただ、そっと添えられただけの柔らかな感触。指と指の間に偶然潜り込んだ冷たい指をゆるく挟みこむと、冷たい手がピクッと跳ねた。それでも、の手は大和から離れる事はなかったし、大和もそれを予感していた。恐らくもそうなのだろうと、振り払われないと思ったからこうしたのだろうと、ぼんやりとした頭で考える。
「それでは、今回だけ。……くんには内緒ですよ」
「……すまない」
どういたしまして、の代わりだろうか、がゆっくりと大和の手を握り締めた。もしかすると、優しげなこの感触も、その代わりの内の一つなのかもしれない。
だから大和も、ゆっくり握り返した。
しばらく無言のまま、握り締められた手を眺める。
「……」
「はい」
「……。自尽の理由を、尋ねてもよいだろうか」
「……薄々、尋ねられるんじゃないかと思っていました。……はっきり答えたほうがいいですか? それとも、ぼかして答えたほうがいいでしょうか?」
「……。任せる」
んー、と逡巡するような声とともに、強弱をつけて手を握り締められる。
「頭の中で、うまく整理が付かなくて、私の話は大和さんからすれば支離滅裂かもしれません」
「構わん。お前の本心を素直に語ってくれるのであれば、それでいい」
「……。大和さんがポラリスに謁見して、願いを聞いてもらって、この世界ができたんですよね」
「そうだ」
「それって、とてもずるい事ですよね」
「……。ずるい?」
「目的のための過程を飛ばして、……でも、あの七日間も過程のうちだと言われれば、反論できないのですけれど……」
冷たい手が、少し強張っている気がした。指でさすって握り締めると、徐々に弛緩していく。
「……この世界は、大和さんが望んだ世界ではありますけれど、作ったのは、大和さんのお願いを聞き入れた、ポラリスですよね?」
何も言わずに、目を閉じる。
「私は、大和さんがずるいことをしないで、真正面から向き合って、そうして、大和さんの力で変わってゆく世界が見たかったです」
溜息のような、吐息が漏れた。
「……。向き合ったさ。だが、あの腐った根性を変えるのは、到底無理だと悟った」
「……人間、諦めが肝心だといいますけれど、それでも、大和さんには諦めて欲しくなかったです。……それができる人だと、思っていたんですから」
「……。それは、お前の買い被りに過ぎん」
気まずい沈黙が訪れた。しかしこうなる事は予想していたから、心構えはできていた。何より眠気で緩和され、すぐに気にならなくなった。
「……。では、お前が自尽の道を辿らないようにするには、どうすれば良かったのだ」
「もしも大和さんが『私のもとに下れ』ではなく、『私を信じてついてこい』と言って下さったら、不審に思いつつ、従っていたかもしれません」
「……そうか」
「はい」
が、ふいに身じろぎする気配を感じた。
「……とはいえ、こうして、こちらに呼び出されて……」
「ん……」
「くんの部屋の窓から景色を眺めて、くんからお話を聞いて、……大和さんは、すごいなと思いました」
「……世辞か?」
「いいえ。……たぶん、これからこの世界は、大和さんたちの手で、上手く整っていくのかなって。それが見られないのは、少し残念です」
それからしばらくの間、ただ無言で、握った手を眺めていた。正確には、暗闇で視界もおぼつかず、手が置かれているだろう場所を、眺めていた。
重ねた手が、冷たい温度が、徐々にぬるくなっていくのを感じる。いつしか、手を握り締める力のぎこちなさも抜け落ちていて、ともすればは緊張していたのだろうと、大和は察した。
「……大和さん」
「なんだ」
「ほかにお聞きしたい事は?」
「……ん、……今、考えていた」
「さっき、山ほどあると仰っていませんでしたか……?」
「あの時は、そうだった。でも、……よくわからなくなってきた」
「ふふ。大和さんの声、いつになく柔らかいですね。……本当に眠そう」
「……だから、そんな、眠気を誘う声で、喋るなと」
「大和さんがこんなふうにくたくたで無防備な姿、初めて見ました。とはいえ、暗くてよく見えないのですけれど」
「……、見るな」
「ふふ、いやです。……あともう一押ししたら、大和さん、落ちちゃいそうですね」
「……やめろ。押すな」
がくすくす笑いながら、手の甲をゆっくり、くすぐるようにさすってきた。たまらず、押さえつけるようにその手を握り締める。――握り締めたつもりだった。思っていたより弱い力だったらしい、は大和の手を一旦振りほどくと握りなおし、さらにもう片方の手まで添えてくる。
「大和さん、もう寝ましょう」
必死に開けていた瞼が、落ちそうになる。
「……おやすみなさい」
極めつけの、一言。
目を閉じて、それでも目を開けて――必死に抵抗したが無理だった。
握った手はそのままに、手の甲をさすってくる。優しく撫でるように。それが無性に気持ちが良くて、なおさら目を開けられなくなった。頬に当たるタオル地が気持ちよくて、枕を変えなければよかったと、そんな事を考えてしまう。
目を開けたくても、開けられない。腕も、動かせなくなる。脳の中にある、命令系統を操作するスイッチが、徐々に落とされていくようなイメージを覚える。
徐々に徐々に、意識が混濁していく。
身体を包み込む浮遊感。の言う落ちる、は言い得て妙だった。確かに眠りの中に落ちていく感覚がある。
何が何だかわからなくなってきて、それを考える事のスイッチも落とされて――それでも、手の感覚だけに意識を集中させる。
自分の呼吸の音すら聞こえる沈黙の中、あたたかな手が、ゆっくりと手をなでてくれている。
呼吸の音が、寝息のペースに変わっていく。眠っているような、起きているような曖昧な振り幅が、徐々に眠りだけに傾いていく。睡眠に身を委ねて溺れるのが気持ちよくて、おまけに手もあたたかくて、目を閉じているのが当然になってきた頃。
ふいに、手をなでる動きが止まった。動きが止まった、という意識はあれど、何も考える事ができない。
手の甲を覆っていた手が、そっと離れた。それでも、手を握るもう片手は、まだ手のひらの中にある。
その感覚が――なくなる。
混乱と恐怖が頭の中を満たし、慌てて飛び起きた。わけもわからず無我夢中で手を伸ばして、そうして何かを掴んだ。
「きゃっ……」
控えめな悲鳴で、大和は我に返った。まばたきを繰り返しながら、暗闇の中を見回す。部屋の暗さは、寝付いたときとさして変わりない。あまり時間が経っていないように思える。
伸ばした腕の先には、人影がある。大和が掴んでいるのは、その腕だった。表情は良く見えないが、硬直したまま動かないその姿勢と、さっきの悲鳴から察するに、驚愕を貼り付けているのだろう。
「……。すまない」
謝りながら、手を離す。は硬直した姿勢を少しずつほどいていったが、それでもその場から離れようとはしなかった。
ほとんど、反射的に動いてしまった。軽率で、馬鹿な事をしたものだと、徐々に後悔の念が湧き上がってくる。
なぜそうなったのか、わからない。――というより、理解したくなかった。
「すまない、……本当にすまない」
「そ、そんな、謝らないでください」
不安げな声をかけてくるから、おろおろとたじろぐような気配を感じた。やがては、さっきと同じ場所へ移動した。
「こちらこそ、申し訳ありません。驚かせてしまいましたか?」
「そういうわけではないが、こちらこそ驚かせてしまった。……すまない」
俯いて、両手で顔を覆う。額がじっとりと汗ばんでいた。らしくもない行動をとった事に、自分でも混乱しているのがわかる。落ち着くために息を吸い、少しの間を置いて吐き出した息は、情けなくもふるえていた。
「怖い夢でも?」
「……違う」
「では、寝首をかかれると思いましたか?」
「……違う」
まったく別方向の問いかけに、首すらも振って否定した。
「……手を、離してしまったから?」
息が詰まる。
正直に答えるべきなのか、大和は迷った。それでも、結果がわかりきっていながら迷う事が馬鹿らしくて、やがてゆっくりと頷いた。
この暗闇の中、今の行動がしっかりに伝わったかどうかわからないが、それでも伝わったという確信があった。頷く動作を見て、はくすくす笑い出すかと思いきや、ただじっと、その場に佇んだままだった。表情は暗闇に遮られ伺うこともかなわず、何を思っているか計り知る事もできない。
徐々に落ち着いてくると嫌な汗も引き、そうしてただ気まずさだけが重く圧し掛かってきた。
「……大和さん」
名前を呼ばれ、大和は顔をあげた。見えもしないの顔を、じっと見つめる。
「仕切りなおし、しましょう」
目を見開く。
「横になってください」
「……。ん」
戸惑いつつも、布団の中に潜り込んだ。すると、が肩まですっぽり、布団をかぶせてくれた。
「ベッドの上に座っても、大丈夫でしょうか?」
「……。私は構わない。がよければ……」
よければなんだというのか。続ける言葉が見つからず口をつぐむと、マットレスが僅かに揺れた。
布団の中に潜り込ませた手を外に出すと、やがての手がそっと重ねられた。優しく握り締められ、大和は胸中にじわじわとあたたかいものが広がるのを覚えつつ、を見習うかのように優しく握り返した。
「ふふ、安眠促進のため、羊でも数えましょうか?」
「……。遠慮する」
断ったにも関わらず、が楽しそうに羊を数えだした。
羊が1匹、羊が2匹――ただ羊を数えているだけなのに、その声は眠気を誘うような声で、体の筋肉が徐々に弛緩していくのがわかった。それでも、手の力はそのまま、の手を優しく握り締めている。
ただただ、羊を数えるだけの単調な言葉。それでも、が眠る人のためにと気遣っているからだろうか、大和は微塵もうるさいと感じる事はなかった。むしろ、安心する。が近くにいる事に安心して、眠気が増幅されていく。
子守唄を聞きながら眠る子供の気持ちはこんなものだろうかと、大和はぼんやり考えながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
目覚めたばかりのぼんやりとした視界に飛び込んできたのは、見慣れすぎた天井の模様だった。
部屋はまだ暗いが、それでも部屋の輪郭や物の場所がはっきりと認識できる。暗闇と呼ぶには物足りない。
ゆっくり体を起こすと、間接がきしむような錯覚を覚えた。朝の空気が、背中をひやりとなでる。眠りに落ちていたときの温もりが徐々に奪われていくにつれ、次第に頭が冴えてきた。目を閉じて、一度深く呼吸する。
カーテンに目を向ける。隙間からうすぼんやりとした光が差し込んでいた。時間はまだ確認していないが、恐らくいつも通りの時間に起きる事ができたのだろう。
そうして、掛け布団ごしの膝の上に置いた両手に目を落とす。なんとなく握って開いてを3回繰り返したところで、まだ寝ぼけているのかもしれないと思いかけた頃になって、大和はハッとしてベッドから抜け出した。いつもならそのまま窓際に向かってカーテンを開ける習慣が身についていたが、大和は迷わず寝室の入り口へ向かい、扉を開けた。
寝室より明るい部屋に思わず目を細め――消したはずの照明がついている事に驚きつつ、大和は足を踏み出した。窓の向こうに広がる空模様は相変わらずの雨で、もしかすると一晩中降っていたのかもしれない。
応接スペースのあのソファにたどり着くよりも先に、そこにいた人物が物音に気付いて振り返った。
――いた。
「おはようございます」
「……。おはよう」
にこやかな挨拶を向けられる。大和はにこやかに返す事ができなかった。
その姿を見つけるまで胸中を満たしていた漠然とした不安が、その姿を見つけた瞬間から安堵感へと移り変わる。その事に対して、無性に言い訳したくなる気持ちが芽生えた。とはいえ、誰に言い訳したいのか、大和には全くわからなかった。
「今は、6時半前ですけれど」
その言葉につられて、大和は壁にかかった時計を見上げた。確かにの言う通り、今の時刻は6時時半前だった。正確には、6時20分。
大和がいつもの習慣で目を覚ます時間は、5時をまわった時間だ。
「……。……寝坊した」
思わず呟く。言い訳のしようがないほど、見事な寝坊だった。
「えぇ……?」
が困惑の声をあげるのすら、耳に入らない。そのまま洗面所に足を向ける。急いで顔を洗うとそのまま部屋に引き返し、薄暗い寝室へ戻った。
まずカーテンを開けて部屋の中を明るくした後、クローゼットから制服を出した。部屋着を脱ぎ、制服に袖を通す。畳んだ部屋着は枕の上に置き、くちゃくちゃになった掛け布団を整えなおしてから、昨夜ハンガーにかけたコートとネクタイを取り、それを腕にかけたまま部屋を出た。
ソファに向かう。ネクタイとコートをソファの背もたれに投げ捨てるようにかけて、そのままデスクに向かった。まず真っ先にノートパソコンを開く。
「何か、朝ご飯は食べないんですか?」
が不安げに尋ねてきた。大和はパソコンの画面を眺める視線をへ向けたが、すぐに元の位置へ戻した。
「特に……いや、台所にパンがあったかな」
「焼きましょうか?」
「……。勝手がわからんだろう」
「大和さんが寝た後、ちょっといろいろ見て回りました」
一瞬、棚の中やらなにやらを漁るの姿を想像してしまい、キーボードを叩く大和の指が止まった。
「お皿って、どこにありますか?」
そう尋ねられて、すぐにそのイメージが消し飛んだ。そうしてから、毒されたと自嘲する。何に毒されたのかは見当が付かないが、それでも何かに毒されたと思うような思考をとってしまった。
「下に戸棚が備え付けてあるだろう。その隣にある一番下の引き出しだ」
「わかりました」
声がやけに遠く感じる。顔を上げると、いつの間にかが台所に足を踏み入れているのが見えた。
局内の各部署と個人宛に通達を出してから、一旦パソコンを閉じた。部屋の空気の中、ほのかにパンが焼ける甘い匂いがする。台所へ足を運ぶと、ちょうどトースターからパンが焼きあがった所だった。
「どこで食べますか?」
「そこのカウンターでいい」
「……ええと、椅子は」
「ない。立ち食いで結構だ」
冷蔵庫を開けてオレンジジュースのパックを取り出すと、昨夜カップを片付けるときに記憶していたのだろうか、が迷わずにある戸棚を開けて、透明なグラスを出した。
橙色の不透明な液体がグラスを満たしていく様を、がじーっと眺めている。
「……。……飲むか?」
「……う、……は、はい……」
どこか申し訳無さそうに頷いて、がもう一つグラスを出した。同じ分量をグラスに注いでからオレンジジュースを冷蔵庫にしまい、その代わりにバターの瓶を取り出した。カウンターの引き出しからバターナイフを出してパンに塗る。
パンを齧ろうとしてから、ふいに視線を感じて大和は動きを止めた。
「……。いただきます」
「はい」
嬉しそうな声が、耳朶にくすぐったく感じられる。大和がパンを食べ始めると、もいただきますと手を合わせてから、オレンジジュースに口をつけた。
隣を盗み見る。確かにがいて、それがなんだかむずがゆいような、なんともいえない感覚が身を包む。飲み込んだパンの味が、パンだなという事くらいしかわからない。
「あの、お時間、大丈夫そうですか?」
少しの間を置いて、がそう尋ねてきた。大和はもくもくとパンを噛みながらを見下ろし、噛む動きを早めてからパンを飲み込んで、ようやっと口を開いた。
「迫とに、遅れると連絡はした。今日は外に出る用事はない、平気だろう」
「そうですか。少し、安心しました」
不安そうに見上げるがほのかに微笑んで、安堵からくると思われる吐息を漏らした。
空になった食器を前に、二人でごちそうさまを唱えた。大和の言い方がぎこちなかったせいか、がくすくすと笑い出して、むず痒い感覚がさらに増した。
が食器を片付けると頑なになるものだから、大和は観念して任せる事にした。台所から出て再度デスクに向かい、パソコンを操作する。新着のメールが来たとの通知があったので見てみれば、案の定、真琴とからの返信だった。方や事務的な文章で、方や冗談めかした文章である。
『今日会ったら真っ先に感想聞くからな』
最後の一文が妙に脅しめいたもので、思わず溜息が出た。頭を抱えたい気持ちになってくる。
大和も、と大地のやりとりを眺めていて、薄々感じていたことではあった。が猫をかぶっているんじゃないか、本気を出したら志島に向けるような言葉をかけてくるのではないだろうか――その予想が、確信にかわる。
そのままいくつか作業を終えると、パソコンを閉じ、ソファに向かう。襟にネクタイを通し結んでいると、軽い足音が大和のほうへ近づいてくるのが聞こえた。
「大和さん、終わりました」
「……。そうか、すまない」
「そういう時は、ありがとうって言ってもらえたほうが、嬉しいです」
の顔を見ると、穏やかに微笑んでいた。
「……。ありがとう」
「はい、どういたしまして」
なんだか昨夜もこんなやり取りをしたなと既視感を抱きつつ、ソファの背もたれにかかったコートを取ろうと手を伸ばすと、そのコートが横から掻っ攫われてしまった。
「……」
「大和さん、そっち、向いてください」
呆れる大和とは対照的に、は好奇心を押し殺す事無く楽しそうに表情を緩め、コートを拡げている。大和が腕を通しやすい高さに掲げるものだから、なんともいえないむず痒さがさらに増した。
「よこせ。一人で着られる」
「はい、それはわかっています」
着られる、ではなく着ると言うべきだったのか――はコートを掲げたまま微笑んでいる。
手を伸ばしてコートを掴めば、容易に奪い取る事は想像に難くない。それでも、その行動を取る事に躊躇する。
「急がないと、遅れちゃいますよ」
「……。もう遅刻だ」
「なら、もっと遅れちゃいますよ?」
大和はじっとの顔を見つめ、ひたすら迷い、やがて大きな溜息をついた。呆れる大和の顔を、は何故か嬉しそうに眺めている。
「大和さん」
「……何だ」
「あらためて言うのも、なんだか恥ずかしい気がしますけれど……」
の視線が、あちらそちらに逡巡する。言葉通りに恥ずかしがっているらしい。
「この世界は、どうか見捨てないでください」
「……。当然だ」
「それと、……無理しない程度に、頑張って欲しいです」
「……。善処はしよう」
「あとは、そうですね……」
は言いながら、ぐるりと部屋の中を渡した。
「このお部屋、一人で住むには、少し広すぎませんか?」
「……」
「眠くて、くたーってなってる姿を見られても構わないような大事な人、きちんと作ってくださいね」
くたーという表現に、言いようの無い居心地の悪さを覚えた。穴があったら、そのまま潜り込んで蓋をしてしまいたい気持ちになる。
「……そんな暇は」
「ないなら、くんたちに話して、作りましょう」
言葉に詰まった。
「もう少し、周りに甘えてもいいと思います。昨夜みたいに、くたーってならなくてもいいですから」
「……。その、くたーという言い方、やめてくれないか」
「ふふ、申し訳ありません」
くすくすと笑っている。
「安心して甘えられるような、名ばかりじゃない家族、作ってくださると嬉しいです」
適当にはいはいと返せばいいものを、大和は何故か即答できなかった。
手を握り締められ、何度も何度も往復する冷たい手。その手がいつしかあたたかみを帯びていくのにつれ、増していった安心感。
目の前の相手がしてくれた事だから、きっとそういう気持ちを抱いてしまったのだろうという確信もあった。そして、おそらく、この世界のどこを探しても、それに匹敵するような安心感を得られる人はいないのだという根拠の無い自信もある。
そのことを正直に言えばどうなるか。ささやかな願いを口にしたが、悲しそうな顔をしてしまうのが、目に見えてわかる。
頷くべきなのかもしれない。それでが安心するのであれば尚更。少なくとも、自分にはそういう義務があるのだと、漠然と理解していた。
けれど――それはに対して、嘘をつくことに他ならない。
嘘をつかれて、喜ぶ人間なんて、存在するわけがない。少なくとも大和はそうだったから、だってきっとそうなのだろう。
じゃあ、逆に首を振って答えたらどうなるのか――その先を考えるのが恐ろしくて、大和は思考を打ち切った。
はいともいいえとも言えずに、ただ押し黙る。は最初こそ返答を待っている様子だったが、やがて困ったような、呆れたような苦笑を浮かべて、わずかに首をかしげて見せた。
「じゃあ、大和さん、コート」
「自分で着る」
苦笑が、ちょっと微笑ましいものが混ざった苦笑に変わった。
「……大和さん」
「何だ」
「私が今から出す問題に、5秒以内で答えられたら、このコート、ご自分で着てください」
「……。フム、よかろう」
「羊の鳴き声は?」
「……。メェー、だろう」
「わっ、似てます。お上手ですね」
なんだかよくわからないが、唐突に死にたくなるような感覚が、大和を襲った。
「では、山羊の鳴き声は?」
「……。ん?」
硬直する。
羊と山羊を頭の中で思い浮かべる。方や丸みを帯びた毛に包まれモコモコしており、もう片方はそれとは対照的に体毛が短くしなやかだ。羊がメェーと鳴くよこにいる山羊は、ただただ草を頬張って黙りこくっている。
メェー、と鳴くと思う。しかし隣の羊がメェー、と鳴いている。
「時間切れです。……ふふ、今の問題、引っかかる人と、引っかからない人がいるんですよ」
「……。なるほど、私は前者か」
「そうです。ちなみに、山羊の鳴き声もメェーです」
「フフ、私より上手なのではないか?」
「わ……今日、初めて笑ってくれました。ふふ、やった甲斐がありました」
煽るつもりが、逆に煽られてしまった。試合にも勝負にも負けたような、けれどどこか清々しいような気持ちで、に背中を向ける。
ばさり、と何かが落ちる音がした。
何が落ちたのか考え、デスクに目を向ける。積み重ねた書類が崩れた音ではなかった。というより、デスクは常日頃から綺麗にするよう心がけているから、有り得ない。
そもそも、音の発生源は、すぐ近くだった。
まさかと思い、振り返る。
果たして、と言うべきか――の姿が見当たらなかった。
部屋をぐるりと見渡すが、それらしき人影も無い。ただ、が立っていたと思しき場所に、大和のコートが落ちていた。
落ちた衝撃でくしゃくしゃになったそれを、ゆっくりとした動作で拾い上げる。コートを手にしたまま、再度部屋の中を見回し、手元のコートに視線を落とした。
――悔やむことがわかっていながら、どうして渋ってしまったのか。
気付けば自嘲の笑みを浮かべていることに気付き、大和は溜息を吐いてコートを羽織った。
あれだけ話しかけてくれた相手がいなくなった部屋は、いつもに輪をかけて、整然とした印象を覚える。もうこの世にいないからそれが当たり前で、この現状がいつもの事だというのに、どこか薄ら寒ささえ覚えてしまう。
今まで見て感じたことの全てが、まるで夢だったのではないかと思うほど、曖昧で不確かになってきた。蜃気楼の中にいたのではないかというわけのわからない錯覚すら覚えてしまう。
窓の外に目を向ける。外は雨にけぶって、灰色の世界が広がっていた。
誕生日だけの雨男だと言われた覚えがしっかりある。手を握って眠った記憶も、さっき台所で朝食に付き合ってもらった記憶も、しっかりある。それでも――現実に起きた事なのに、夢が覚めたと思わせられてしまう。
大和はしばらくの間、窓の外に広がる薄暗い雨空を眺めていた。
「うーっす!」
昼を過ぎた頃、廊下を歩いている時にふと後ろから声をかけられた。聞き覚えのある声に、大和はぴたりと足を止める。振り返ろうとするよりも先に、背中を思いっきり叩かれた。
「……っ!」
思わず前のめりになる。
「あ、すまん。思いっきり叩きすぎた」
「……。構わん」
背中がひりひり痛むのを堪えつつ、大和は背中を叩いた相手――と真正面から向き合った。
「感想聞きにきたよ」
「……。そうか。その前にまず、これを返そう」
大和はそう言ってポケットを漁り、手を伸ばした。その仕草で察したが両手を出すと、大和はその上に小皿と香立てを置いた。はおう、と返事をしてから、ポケットにそれをしまいこむ。
「で、久しぶりにに会って、どうだった?」
「……。正直、参った」
「そか。……で? 暗雲たちこめていた気分は晴れましたか」
そう尋ねられ、大和はふいに窓の外に目を向けた。遠くを見るような眼差しで、薄暗い空を見つめている。
「……。わからない」
「まあ、そこら辺は明日とか明後日になってみないと、わかんないか」
「だろうな。……しかし」
「ん?」
「……もっと」
「うん」
「もっと、話がしたかった」
「……。うん」
「それに、もっと上手く話に付き合えたらよかったと、後悔している」
と日ごろから良く話し、たまに愚痴を聞いたり聞いてもらったり、わけのわからない食品で餌付けされたりと、元々の部下達と比べれば割合雑談をこなしていた覚えはあった。それでも、に対して、正直に胸中を打ち明けたのは、おそらくこれが初めてなのだろう。
「なんだ」
その言葉につられ、の顔を見る。ただ嬉しそうに笑っていた。
「俺と一緒じゃん」
「……。そうか」
「と最後に何話した?」
「……。羊の鳴き声と、山羊の鳴き声について」
がぶはっと噴出した。顔を背けて、身体を丸めて、必死に肩を震わせている。
「おかしな事を言ったか」
「……。いや、ごめん。大和らしくないと思って」
ひとしきり笑って、はたちあがった。笑いが収まった事による安堵の息をついている。
「は、いきなり消えるのか」
「うん。なんかそうみたい。話の途中で消えられると、ちょっと悲しくなるんだよね」
「……。そうか」
「見た? 消えるとこ」
首を振る。
「背を向けていた時に、いなくなっていた。お前はあるのか?」
「ない。いつか見てみたいと思ってるんだけどさ、なかなかタイミングが難しいんだよなー」
が笑って、足を踏み出す。
「それじゃ大和、俺、仕事に戻るから」
「ああ」
が通り過ぎるのを機に、大和も足を踏み出した。
「あ、ちょっと待って」
に引き止められ、振り返る。見ればがあの小皿を詰め込んだポケットとは逆のポケットに手を突っ込み、何かを取り出しているように見えた。
大和が無言で眺めていると、唐突にが何かを投げた。息を呑みつつ、が投げたそれをしっかり手に掴む。
見れば、手に掴んだのは、細長い長方形の白い箱だった。文房具か何かが入っているのかと思いきや、箱の中からほのかに甘い匂いが漂ってくる。
嗅ぎ覚えのあるその匂いに大和はハッと顔をあげ、遠くにいるを凝視した。
「それ、半分やる!」
「……。だが」
「いらないなら、捨てていいよ。大和の自由にして」
大和は手元の箱とを見比べ、ほとほと困ったような顔になった。
「それじゃ。誕生日おめでと!」
ひらひらと手を振って、は今日で何回目になるのかわからない祝辞を述べて、小走りで廊下を駆けて行った。
廊下は走るな、とたしなめる気力すらわかず、大和はただ黙って手元の箱を見つめる。
甘い匂いが漂ってくる箱。それを乗せた手は、はからずも昨夜、の手を掴み、そして優しくなでられ続けた側の手だった。
しばらくの間、手元の箱と、手とを見比べる。
やがて大和は、ゆっくり時間をかけて、その箱をコートの内ポケットにそっと大事そうにしまいこむと、足を踏み出した。
誤字脱字修正 2015.04.06
2015.01.30
2015.01.30