席替えの続き。高校時代捏造・オリキャラ注意。


 4月も半ばに入ると、それなりに新しいクラスにも慣れてきた。学校全体が落ち着いてきたようにも思える。新しい高校生活に胸を躍らせ、浮き足立っていた新入生も、授業のカリキュラムにげんなりとした様子で歩く姿がぼちぼち見受けられた。それを見るたび、静雄は懐かしさで少し頬が緩んだ。
 静雄は家から近いというたったそれだけの理由でこの私立校を選んだ。立地がよく、偏差値は中の下。校舎もなかなか綺麗で、多少素行に問題のある生徒でも入学できるよう、別枠で自己推薦入試を設けているこの高校に行きたいと言った時の両親の顔は今でも思い出せる。卒業できるのか? と暗に訴えらるような怪訝そうな顔だった。静雄自身も卒業できるか不安ではあったが、それでもお前が行きたいならと金銭面に目を瞑ってくれた両親には感謝しても仕切れない。それに報いろうと、偶然にも一緒の高校に通うことになった幼馴染の新羅に勉強を見てもらいながら、停学を言い渡されたこともあったけれど、なんとかここまできたのだ。どうせなら卒業したいと心の底から思う。今のご時勢、中卒なんて肩書きは、どうしようもないと静雄も思うからだ。
 ひっそりと平和に暮らしたい。何にも巻き込まれず、ただ雑踏の中の一人として暮らしたい。普通に暮らしたい。静雄はいつからかそんな事に憧れを持つようになった。小学校低学年の頃はそんな事を気にせず遊びほうけていたようにも思うが、高学年に足を踏み入れた瞬間から、周りと比べてどこかしらぶれを感じるようになった。それは年を重ねるごとに顕著になり、自分の身体能力が頭一つ抜きん出るとかいうレベルではないと実感した。中学にあがり、ある件を境に警戒する意味をこめて髪を染めた。母親から与えられた身体だからという理由で、髪を染めるのは最初抵抗があった。それでも中学の時に知り合った、今でも交友の続く先輩にひどく薦められ、また意外にも両親は反対することなく背中を押すものだから、今では立派なトレードマークのようなものになってしまった。そうして静雄に誰も近寄らなくなった変わりに、どこからか静雄の暴力の評判を聞きつけた、変なのが近寄るようになった。
 静雄はぼうっと、目の前に座るの背中を見つめる。身体を縮みこませて、ビクビクと震えている。
 ――変な奴だな。静雄は思う。
「体育祭の実行委員、誰か早く立候補しろー。じゃねえと俺が勝手に決めるぞー」
 午後のホームルーム。来月に控えた体育祭の実行委員を決めることになったが、誰一人として立候補する生徒はこのクラスにいなかった。進学を選ぶにしろ、就職を選ぶにしろ、3年生にもなると時間が惜しくなるから、こんな面倒なことは誰もやりたくはなかった。当たり前の話である。それでも学校側は平等意識が強く、委員会に立候補した生徒は強制的に除外され、また部活に加入していない生徒も強制的に除外されている。それゆえ時間が無駄だと該当者は教室に残ることを許されず強制的に帰され、今教室内に残っている生徒は、どの委員会にも所属していない帰宅部の面々だった。
 体育祭という汗臭い単語に、実行委員という重苦しい組み合わせのせいで、誰も立候補者が出ないままゆうに15分以上は経過したように思う。午後のホームルームどころか、ホームルーム延長戦だ。恐らくこのまま行けば、担任教師が指名という形を取るはずだ。
 隣に座る新羅を伺えば、机に肘を突いてくあ、と一つあくびをしていた。たとえ天地がひっくり返っても、新羅が実行委員に指名されることはないだろう。それゆえの余裕なのか、新羅は見るからに退屈そうだった。
 さっさと誰か立候補してくれねえかな、と静雄は窓の外に目をやった。ベランダがあるせいで、青い空とコンクリート製の高層ビルしか見えない。そんな青い空に醤油がはねたように黒い点が移動している。恐らくカラスだろう。そういや明日はゴミ捨ての日だったな、と静雄は思いながら、こみ上げてくるあくびをかみ殺した。明日学校に行く前に、母親からゴミ捨てを頼まれるだろう。いつもの風景を想像し、目をしょぼしょぼさせる。
「ほんっとお前らめんどくさがりだなあ! 俺も部活あるからもう指名するぞー」
 教室内がギクッとしたようだった。目の前のの身体が一層縮こまる。どうしてはこんなに身体を小さくさせているんだろうとぼうっと考えた末、そういえばは去年実行委員だったけか、と思い出した。恐らく去年もこういう形で指名されてしまったんだろう。でなければこんなにビクビクしたりしないはずだ。何気なしに担任教師に目をやれば、ニヤニヤとした顔つきで誰にしようかなーなんて教室内を見回している。
 指名されたらどうしよう。いや、ありえないな。静雄は自己完結した後、再度窓の外に目を向けた。
「よし、決めた。!」
「いやだー!!」
 間髪いれずにが叫んで立ち上がった。教室内がほっとしたような空気に包まれているが、それでもまだあと一人選ばなければいけないのだ。静雄は無表情に隣の新羅を見る。彼は眼鏡をはずして目をこすっていた。我関せず、という事らしい。
「いやです! 去年も指名されましたから! いやですー!!」
「二度も言うなよ。そうは言うけどお前さ、志半ばにしてのあの事故だろ? 思い残しがあるだろうと思ってな……」
「不慮の事故ですから! 思い残しとか、そういうの全っ然全くないですから!」
「意地はるなよー。いやよいやよも好きのうちってな!」
 笑顔の担任教師に、意見を覆すことはないだろうと判断し諦めたのか、きーっとが悔しそうに唸り声をあげる。しかしこの教師とのやり取りは、まるで息のあった漫才のようだ。そう思った瞬間、教室内のどこかで小さく噴出す声が聞こえてきた。まあ噴出すのも無理はないだろう。
 こんなに親しい教師は静雄にはいない。羨ましいとは思わないが、それでも静雄には眩しく見えた。教師に疎まれるばかりの静雄には無縁の世界だからだ。
「まあこればっかりは俺も可哀想だと思うしな。めんどくせえ仕事だもんな。だから二人目、に選ばせてやるよ」
「へっ!?」
 が素っ頓狂な声をあげると同時に、クラス内の生徒が息を呑んだ。静雄も例外ではない。目を丸くして、何度も瞬きを繰り返す。
「ちょちょちょっ、ちょっと待ってください。なんで私が……」
「あ? なんだ? だめか?」
「いや、明らかにこれ、生徒の恨みを私に分散させようという目論見じゃないですか」
「考えすぎだろお前。ほら、さっさと選べ」
 えーとがげんなりする。
「いいかー、今から選ばれた奴は、決して俺を恨むんじゃないぞー」
「いっ、言ってる事違うじゃないですかー!」
 はあ、とため息を吐いて、が教室内を見回すのを、静雄はぼうっと見上げた。不安そうに口を引き結ぶの横顔を見つめる。災難な奴だと静雄は思う。それでも、教師に頼られているから、こういう場で選ばれるのだ。
 不意にと目が合った。
 瞬間、無意識に目をそらす。そらしてから、何をやってるんだ俺はと静雄が思ったちょうどその時、ふっと顔に影がさした。いきなり視界にぼやけた肌色が映りこむ。静雄は眉間に皺を寄せて、ほんの少しだけ身を引いた。ピントが合う。指先だ。指先が向けられていた。誰の? のだ。
 ゆっくりとした動作でを見上げれば、必死にこっちを見ないようにしていた。よくよく見れば、肩が小刻みに震えている。
「はい決まりなー。それじゃおつかれさーん」
 担任教師が教壇を軽く二度叩いて、撤収ー、とやる気無しに言い放つ。途端に新羅を除いた、静雄の周りの席に座る生徒がガタガタと慌てた様子で席を立ち、カバンを持って退避し始めた。誰しも身の安全が第一だ。それでも相変わらず新羅は机に肘をついて、ぼーっと無表情に隣の静雄を見ている。
「……あぁ?」
 教室がシンと静まり返り、空気が冷えたような気すら感じた。静雄が首をかしげると、の身体がビクッと大きく震えた。うまく状況が飲み込めずにいる静雄を見下ろし、ぽつりと。
「ごめん」
 その言葉を耳にして、静雄はようやっと状況を飲み込むことができた。
 実行委員に選ばれた。
 頭の中で何度もその言葉を繰り返す。
 実行委員に選ばれた。
 静雄が呆然としていると、教壇の方から声が聞こえてきた。平和島ー、大丈夫かー? 担任教師の声は、なだめるような声だった。大丈夫かと聞かれている。大丈夫だ、普通だ。とりあえず落ち着こうと思った。一度深呼吸をしてから、静雄は口を開く。ハイ、大丈夫っす。それだけを口にするのが精一杯だった。
「とりあえず、明日の放課後な、集まりあるからよー……、ちょっとこっちこい。プリント渡すから」
「は、はい」
 パタパタと足音が遠ざかっていく。微かな話し声が聞こえてくる。
「静雄」
 新羅に名前を呼ばれ、まるでブリキの人形のごとくギリギリと音を立てて首を動かす。顔を新羅のほうに向ける。
「ドンマイ!」
 新羅にこういう言葉は心底にあわねえな、と静雄は思った。スッと右手を伸ばして、中指を親指で押さえる。新羅がへっと素っ頓狂な声を上げるのとほぼ同時に、静雄は新羅の額にデコピンを放った。
 これだけで怒りが収まるかと思ったら、意外にも心は落ち着いた。席を立って教室を見回すが、教室の中に残っているのは静雄と新羅とと担任教師しかいない。静雄ははあ、と嘆息して、のろのろとベランダへ通じるガラス戸に向かった。鍵を開けて、ベランダに出る。生暖かい風が頬を撫でる。みぞおちほどまでくる手すりにもたれ掛かり、学校外に広がる池袋の景色を眺めた。景色とは言うが、眺めは悪いほうだ。それでも静雄が育った街だ。愛着はある。
「し、静雄くん」
 背後で伺うような声が聞こえてきた。振り返ろうとするのを堪える。静雄は返事をするか迷った挙句、聞こえないフリをした。
「ごめん」
 今にも泣きそうな声で言われてしまい、どうしても我慢できずに振り返ってしまった。それを合図に、がベランダに足を踏み出した。静雄の隣にほんの少し距離を置いて立つ。
「め、名義貸しでもいいのでっ、このプリントに、お名前を、記入していただきたく……」
 尻すぼみになる声とともに、ぎこちなくプリントを差し出される。B5サイズを半分に切ったような大きさのそれを、静雄は無言で見つめた。体育祭実行委員という題の書かれたそのプリントには、確かに名前を記入するスペースが設けられていた。二人分の名前欄のうち、一つはもう埋まっていた。と記入されている。もう一つは空っぽだ。なんにも書かれていない。
 しばらくそのままでいると、が気まずそうにおずおずと手を引っ込めた。再度、ごめんと言われてしまう。
「あのな、謝るくらいならな、最初からすんじゃねえよ」
 隣から、うん、と小さな声が返ってきた。
「ここは普通、ありがとうとかじゃねえの」
 しばらくして、のほうから、ありがとう、と小さな声が聞こえてきた。今にも風にかき消されそうな声ではあったが、それでもちゃんと静雄の耳に届いたので、よしとした。無言で手を出して、が持っているプリントを掴み取る。が不安そうな表情をこちらに向けてきたが、目はあわせなかった。
「とりあえずよ、お前が選んだ以上、名義貸しとかじゃなくて、ちゃんとやるから」
 ぽつりぽつりと言葉を区切る。この言葉に偽りは無かった。不良なんて評判が一人歩きしている静雄だが、根は至ってまじめなのだ。ぽりぽりと頬をかきながら隣のを見れば、ぱあっと顔を明るくして静雄をきらきらとした眼差しで見上げていた。期待されても困る、と静雄は思ったが、どうにもこの眼差しはそういう期待とかが孕んだものではないような気がしてきて、静雄は眉間に皺を寄せた。
「……名前、書いてくるわ」
 やっとのことでそう切り出すと、
「う、うん! ありがとう!」
 さっき言われたありがとうよりも、少しいい気のするありがとうだった。手元のプリントに目を落とし、男は度胸だと意気込む。ガラスの引き戸を開けて教室に戻り、後ろ手に閉める。きらきらと眩しい眼差しを向けてくるにぎこちなく笑い返し、静雄は引き戸の2枚重なった中央にある鍵を、ぐっと引き上げた。鍵が外れないよう、ストッパーもかけると、かちりと音がした。
 静雄の、ささやかなる仕返しだった。
「ちょっ……わああー!? あけてー! あけてよー!?」
「そこで頭冷やせ、ばーか」
 トントントントン、と控えめにガラス戸を叩く音を聞きながら、静雄は自分の席に戻ると、机の中に入れっぱなしだったペンケースを取り出した。シャーペンを取り出して、空いた名前欄に自分の名前を記入する。の文字と見比べると、かなり見栄えの悪い文字だが、それでも読めなくはないだろう。
 ごめんなさいー! あけてー! 今にも泣き出しそうな声を聞きながら、静雄はふと、隣の席の新羅に目をやると、額から煙を出したまま、白目をむいて突っ伏したままだった。


 名前記入後、静雄はしばらくそのまま席に座って、ベランダの外にいるの動作を眺めた。は何を勘違いしたのか、静雄を笑わせれば出してくれると思ったのだろう。必死な形相で、身振り手振りを駆使し変なことばかりをやっていたが、それでも静雄は到底笑いそうに無いなと察すると、手すりにもたれ掛かってドナドナを歌い始めた。さすがにベランダに閉じ込められたが可哀想になってきたので、静雄がのろのろとベランダに向かう。そのときのの表情で噴出したあと、鍵を途中まで開けては閉めを繰り返し、がそっぽを向いたところで引き戸を開けた。
 プリントを今日中に実行委員担当の教師に提出しなければいけないとのことで、一人で行くと頑なに申し出るだったが、静雄は無理矢理ついていった。どこの教室も静かで、グラウンドのほうから聞こえてくる運動部の声をBGMに、長い廊下を進む。中央棟にさしかかると、建物の位置的な関係からか強烈な西日が差し込んできて、眩しかった。
「実行委員て何すんだよ」
 少し前を歩くの背中に話しかけると、は立ち止まって静雄が隣に並ぶのを待ってから口を開いた。
「種目決めと、体育祭の事前準備。テント張ったりとか、そういうのの手伝い」
 でも、去年種目は決めまでしかやったことないんだけどね、とが苦笑した。思えばあと一ヶ月少しで例の事故の日だ。聞いちゃまずかっただろうかと静雄の脳裏に不安が過ぎったが、それでもの表情はごくごく普通だった。考え込んだ末、静雄は気にしないことにした。
「不安?」
 いきなり尋ねられ、何がと返そうとしたところで、実行委員の事だと気づいた。あーとぼやいて、少しな、とそれだけ返すと、ふふっと小さな笑い声が聞こえてきた。そかー、と安堵したような声が返ってくる。笑われてしまったが、嫌な意味で笑ってるわけじゃないからよしとする。
 階段をおりて、少し歩いた先、職員室にたどり着いた。がノック2回の後に、ドアを開けて失礼しますと足を踏み出すその後ろに続く。職員室特有の、この重苦しく抗いがたい空気と、妙なおっさん臭さが静雄は苦手だった。教員の男女比率が男のほうに傾いているのだからオッサン臭いのは仕方ないだろうとは思うのだが、それでももう少し清潔にしろとぐちゃぐちゃに散らかった机を見て静雄は思うのだった。だらしがない。たくさん並んだ机の主はどこかに行ってしまっているようで、閑散としているせいか尚更それが目立つ。部活のまっ最中だから教職員はまばらにしか残っていない。実行委員担当の教師とやらが部活でいなかった場合はただ机において帰ればいいのだろうか。そんな事を考えつつを見下ろせば、は職員室を見回した末、ゆっくり歩き出した。静雄も黙って後についていく。
 ついた先は、うろ覚えだが女子の体育を担当している教師の机だった。ノートパソコンで文書を作成中の教師にが声をかけると、教師は椅子ごと身体をこちらに向けての顔を見るなり「あら」と小さく声をあげた。それから静雄の顔を見て、再度「あら」と驚いた様子になる。意外な面子、と聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いて、からプリントを受け取ると「あらあらまあまあ」と嬉しそうに声をあげた。
「平和島、大丈夫?」
 嬉しそうでありながらも、伺うように尋ねられる。静雄にとってあまり面識のない先生だったが、それでも名前は覚えられていたらしい。まあ悪名高い静雄だ、名前を覚えられているのは当然の事だろう。
「大丈夫って、何がっスか」
「まさか、名義貸しとかじゃないわよね?」
 こういう瞬間に、つくづく信頼が無いのを実感する。
「いいえ、そういうわけじゃないです」
 静雄が口を開くよりも先に、がそう言った。教師は不思議そうな視線をと静雄交互に向けて、なるほどねえ、と呟いて、机の上に置いてある実行委員のプリントの束を取る。クリップをはずして、今しがた受け取ったプリントをそこに重ねると、クリップでまとめた。
「明日、午後のホームルーム終わったら、被服室に来てちょうだい」
 っす、と返事をする静雄の隣で、が礼儀正しくはいと返事をした。頭を下げて踵を返すの後ろについていく。失礼しました、と廊下に出るに習い、静雄も失礼しましたと誰ともなく呟き、廊下に出て引き戸を閉めた。
「帰るか」
「うん」
 すぐにそう返ってきた。
「途中まで一緒に行くか」
「うん」
 静雄もも互いに家は反対方向だ。途中までとはいったが、学校を出て5分もしないうちに別れるのだ。しかもからすれば遠回りのルートである。本当なら校門のところで別れたほうがいいと、静雄はと一緒に帰るようになってから常々思っていたが、それでも口に出すことはしなかった。
 特に会話もなく教室に戻ると、も静雄もすぐに荷物の整理を始めた。帰り支度を整えたあと、机に突っ伏したままの新羅を見下ろす。が困ったように笑って、新羅の肩に手を置いた。何度か揺さぶるが、ピクリとも動かない。新羅くーん、新羅くーん。反応はなしだ。がフン、と鼻で笑い、新羅を指差し、お前はもう死んでいる、などとどこぞの北斗神拳の使い手のような口調で新羅を罵っても、それでも新羅は白目をむいたままだ。見かねたが新羅の眼鏡をずらし、すっと瞼を撫でる。新羅の顔は、白目をむいた間抜け面から、健やかそうな気絶顔にランクアップした。
 互いに顔を見合わせて、何を言うでもなく同じタイミングで頷いた。は新羅のカバンの口を開け、ノートやらペンケースを詰め込む。静雄は身をかがめて新羅の脇の下に手を回し、新羅の腕を自分の首に回してゆっくりと立ち上がった。意識を失った高校生男子の身体は重い。新羅ほどの長身ともなれば、大人2人が担架で運んでもひいこら言うレベルではある。けれども静雄は重いなんてこれっぽっちも思わなかった。むしろ軽いのだ。軽くて笑えてくるほどだ。
「保健室に直行だー」
 静雄のカバンと新羅のカバン、それに加え自分のカバンを肩にかけ、ぐっとにぎった拳を点に突き出すのをぼうっと眺めていると、が不服そうに見上げてきた。
 ノれ、という事だろうか。
「お、おーう」
 恥ずかしさを堪えて小声でそう返すと、が満足したように笑って、我先にと教室のドアに向かった。ドアを開けて待ってくれている。静雄は今手がふさがっているので、その気遣いはありがたかった。新羅を抱えなおして、新羅のつま先を引きずるように歩く。眼鏡が落ちないか心配だったが、具合よく引っかかってくれているようで今のところは大丈夫そうだった。
 慎重に階段を下り、事務室前の廊下を通った後、中庭を横切る渡り廊下を抜け、なんとか保健室の前までやってきた。がドアをノックすると、はーいと女性の声が聞こえてくる。失礼しますとが引き戸を開け放つと、静雄は新羅を抱えたまま、保健室に足を踏み入れた。
 独特のにおい。病院とは違う種の清潔なにおいだ。新羅の家のにおいと少し似ていると静雄は保健室に入るたびに思う。
 保健室の奥のデスクに座り、コーヒーを飲んでいた養護教諭が静雄を見るなり目を見開いた。静雄の性質上、何かとお世話になる事が多い先生ではあった。年齢は静雄よりふたまわり以上も上で、気のいいおばさんのような性格のおかげか、何かと頼るときがあった。肩に担いだ新羅がぐったりしているのを見て、養護教諭はすべてを悟ったようだった。傍のソファに寝かせるように指示され、静雄は素直に従った。
「何これ、どうしちゃったのよ」
 デスクから離れ、横たわる新羅を見下ろす。困ったように腕を組む養護教諭に、ちょっと気絶した、と静雄がぽつりと告げると、
「ちょっと気絶したってねえ、気絶にちょっとも何もないわよ?」
 もっともな言葉が返ってきた。
「……とりあえず、こいつ、目ぇ覚めたら、先に帰ってるって、伝えといてください」
「お、お願いしまーす……」
 がぺこっと頭を下げる。何をしたわけでもないのに、と思ってから、そういえば事の発端はこいつだったと思い出した。
「ああ、。なんだ、元気そうじゃないの」
 養護教諭が目を細める。
「えと、はい。割と、普通に」
「髪、伸ばしてるのね。誰かと思った」
 ええ、まあ。そう返事をするは気まずそうだった。その表情に養護教諭は何か言いたげだったが、時計を見ながら口にした言葉は、もう帰りなさい、と二人を促すものだった。と静雄は揃って保健室を後にする。
「お前、髪短かったの」
「え、うん」
 さも当たり前のように頷かれた。
「まあ、そりゃそうか。運動部だしな」
「うん。とはいっても、そこまで短くはしてなかったよ」
 歩き出しながら、静雄はの頭部を見る。そういえば、去年ゴミ捨て場で会ったときに比べると、いくらかは伸びているなと思った。まあ数ヶ月もたてば髪が伸びるのは当たり前の話だ。
「伸ばしてんのか、髪」
「うん。中学の時も短くしてたから、一度でいいから伸ばしてみたいなーって」
 笑いながら答える。もっともな理由だと静雄は納得した。前を歩くの頭を見つめながら、静雄は頭の中で、適当に髪を切ったをイメージして見たが、どうにも想像つかなかった。去年の卒業生のアルバムにが写っているんじゃねえかと思考を巡らせて見たが、あいにくと卒アルを見せてくれるような先輩は静雄の知り合いにはいない。そもそも留年が決まった生徒がその学年のアルバムに載るのかさえ謎だ。そういえば、図書室に歴代の卒業アルバムが保管されているんじゃなかったっけか、と思い当たり、静雄は暇なときに図書室に行って見ようと決めた。
 昇降口につくと、グラウンドからの運動部の声が大きく聞こえてくる。元気だねー、と呟くに、だなあ、とそれだけを返して、靴を履き替えた。二人揃って外に出る。
 舗装された道を歩きながら、隣を歩くになあ、と声をかけた。
「明日の午後、被服室だろ。どういう事すんだ」
「種目決めの説明だけだよ。10分もかかんなかったはず」
 ふうん、と頷いて、何の気なしにグラウンドに目をやる。サッカー部が白黒のボールを追いかけ、陸上部がハードルを飛び越え、野球部がカキーンとホームランを打っている。確か週末にどこかの運動部の大会があるとか聞いたが、静雄には思い出せなかった。
 視線を戻して、職員玄関のほうを見る。傍にある駐車場には、職員の車がずらっと並んでいた。それでも空いているスペースがあるが、来客用の駐車場だとどこかで聞いた。どこで聞いたかは思い出せない。そんな来客用の駐車スペースに一台、黒いクラウンが止まっている。運転席にもたれかかり、白髪をオールバックに染めた背筋のいい老人――と呼ぶよりは男性と言った方がしっくりくる――が、ゆっくりとタバコを吸っていた。口から吐き出した煙が、綺麗な円を形作る。男の頬には傷があった。
 ん? と思った。見覚えがあった。どこで見たっけ、と記憶を掘り返す。去年だ。確かの家で見た。
「あれ、おじーちゃん」
 そうだ、のじーさんだ。そう思った瞬間に、横にいたがパッと飛び出していた。静雄は追いかけることなく、その場で立ち止まったまま、の後姿を目で追いかける。
「何してるの? お店は?」
 男は懐から携帯灰皿を取り出すと蓋を開けた。タバコの火を押し付けるように消し、火の消えたタバコを押し込み蓋を閉めた。懐にしまいこむ。
「閉めてきたなあ」
 まるで人事のようにしみじみと、言葉を噛み砕くように言うのだった。
「ちょっ、えー! いや、えと……」
 それから、ちらりと校舎中央にかかる時計を見上げて。
「まだ営業時間内でしょー……」
「いいんだ。やる気がないんだ、仕方ない」
「仕方なくないよー」
 思いのほかずいぶんと適当な理由に、がもーっとため息混じりに呟いて、がっくりと肩を落とした。
「老後の遊びでやってる店なんだ、別にいいじゃないか」
「雑誌、このまえ、取材きたのにー」
「すごい前にもきたぞ。もーっとその前にもきたぞ」
「そんな事聞いてないよーもー」
 はああ、と悲しそうに嘆息するのの頭を、男が笑いながらぽんぽんと叩いた。
「さ、帰るか」
 そう言って、車のキーをポケットから出す。ピッという電子音の後に、車のロックが外れる音がした。その合図として、ランプがちかっと瞬く。
「あ、まってまって!」
 があわてた風に男を制止すると、静雄のほうに小走りで戻ってきた。
「し、静雄くん、覚えてる? あのどうしようもないおじーちゃんを」
 そうまくし立てられ、静雄は若干身を引いた。どうしようもないなんてなんつー言い方だとは思ったが、それでもにしては思うところがあるのだろう。
「あ、ああ。うん。去年だよな、車で送ってもらった……」
「よし!」
 そう言うなりは静雄の手首を掴んだ。静雄はいきなりの事でたたらを踏んだが、引っ張られるがままについていく。
「おじーちゃんおじーちゃん、静雄くん。ほら、噂の」
 どういう噂だとを見下ろしたが、ほお、としわがれた声がして、静雄の目は自然と男のほうを向いた。まるで懐かしい旧友に会ったがごとく目を細めて微笑まれ、静雄の身体がビクッと震えて固まった。
「おお。本物の静雄くんじゃないか。元気にしてたかい」
 本物という言葉に突っ込みたくはなったが、再会を喜ぶ声がひどく嬉しそうで、そんな気持ちはどこへやら飛んでいってしまった。こんな風に、再会を喜ばれることは、静雄は少ない。感激するあまり胸がじーんと暖かくなる。表情が緩みそうになるのをぐっとこらえているせいで身動きの取れなくなっている静雄の肩に、男の手がぽんぽんと置かれる。静雄は嬉しさのあまり口元がひくついた。
「ええ、その。元気です」
 妙に照れ臭くて、思考がうまく働かない。そうして、元気と聞かれ元気と答える、いわゆる鸚鵡返しをすることしか静雄にはできなかった。
「やあ、何ヶ月ぶりだろうねえ。いっつもの話にね、君の話が出てくるから、いつか会いたいと思っていたんだよ」
 ぎょっとした。を見下ろすと、わあーと間抜けな声をあげて、男の袖を引っ張っている。見るからに恥ずかしがっていた。
「そっ、その話は後にしようよ。後々! というか、その、あれだ! あれ! 静雄くんもおうち、帰らないとだし……」
 暗に話を引き上げろと言っているらしかった。それでも語調が尻すぼみになる。なんだか寂しそうな目線を向けられ、静雄は内心ぐっと詰まる思いだった。そうか、と男が腕に引っ付くを見下ろすと、静雄をまっすぐに見上げて。
「今日はおうちに何か用があるのかな」
 いいえ、と静雄はキリッとよそいき用の声で答えた。
「もしよければなんだが、うちの店に来て夕食を食べていってくれないか。この子の学校生活を聞きたいんだ」
 蛙の孫は蛙だなあといつかの静雄が思ったことを、今再度、静雄は思い返していた。の血筋は恐らく、有無を言わせない何かを持っているんだろう。もちろん静雄限定で、の話だ。ほかの人はどうだか知らない。


 車のドアをあけ、自分の家の車より何倍もまふっとしたシートから尻を持ち上げる。アスファルトの、小さめの月極め駐車場。去年ぶりの光景だった。あの時は冬の一歩手前だったから、どこの家の庭木の葉っぱは落ちていたが、今は緑に包まれている。
 あの時、助けてもらってなかったら、どうなっていただろうか。ふとそんな事を考えた。静雄が気絶せずに、ぼろぼろのまま家に帰っていたら。たとえ気絶したとしても、臨也がわざわざゴミ捨て場に埋めるような事をしなければどうなっていたか。恐らくクラス替えの後、一緒のクラスにねじ込まれたとしてもだ、今この時この瞬間に静雄がここに立っている可能性は無かっただろう。
 車のロックがかかる音がして、ハッと意識が引き戻される。慌てて足を踏み出し、まるで静雄を待つように立っているの傍までくると、嬉しそうに微笑まれた。
 少し前を歩く男の後頭部を見つめながら、二人並んで歩く。前は3人縦に並んで歩いたんだっけかな、と記憶を掘り起こしていると、ふふ、と小さな笑い声が隣から聞こえてきた。隣を見下ろすと、ちょうどがはっとして口元を押さえているところだった。
「どうしたんだ」
 尋ねると、なんでもないと首を振った後に、
「ちょっと、こう、嬉しくて」
 どう反応したらいいのかわからず、そうか、とそれだけ言って、前を歩く男の後頭部を見つめた。
 40秒もしないうちに、あの裏口についた。はあ、と感慨深げなため息が自然と漏れる。男がアルミ製のドアを開けて中に入るのに続いて、が足を踏み入れた。静雄が入りやすいように、ドアを開けて待ってくれる。
「足元、気をつけてね」
 脳裏にオレンジ色の光が浮かび上がる。そういえば前ここに来たのは夜だったなと思いながら、静雄は段差に気をつけてフローリングにあがった。あの暖かなオレンジ色の光が漏れ出ているわけではなかったが、それでも西日が差し込んでいるのか思ったよりは明るかった。
 ついてきて、と言わんばかりにに手を取られ、静雄はぎょっとしたものの、それでも手を振り払うことはしなかった。
 いつか見た厨房を横切り、薄暗い廊下に出る。男が廊下の突き当たりにあるあの階段をのぼっていくのが見えたが、静雄は振り返って、店内のほうを見た。純粋な好奇心からくる行動だった。それでも店内を見ることはできないのはわかっていたが、それでも振り返りたかったのだから仕方ない。
「気になる?」
 聞かれて、静雄は迷った末に小さく控えめに頷いた。
「おじーちゃーん」
 が叫ぶと、階段のほうからなんだい、と男の声が聞こえてきた。
「下で食べよっかー」
 しばし間をおいて、「いいよー」と返ってきた。
「静雄くん、こっち」
 狭い通路の中、が方向転換する。手を引かれるがまま、静雄は黙ってついていった。廊下のワックスが、だんだんと差し込む日差しを反射するようになる。明るいほうへと近づいていくのがわかる。
「好きなとこ、座ってていいから」
 そう言葉を残して、がパタパタと階段のほうへ行ってしまう。廊下と店内のちょうど区切りのところに静雄は呆然と立ったまま、それでも無意識に足を踏み出した。
 思った以上に広い店内だった。天井はさほど高くはないが、それでも静雄の家のリビングの天井よりは高いだろう。そんな天井にシルバーの羽が3枚ついた扇風機のような機械が2つぶら下がっていた。よくレストランとかにあるやつだが、静雄はこの機械の正式名称がわからなかった。恐らく空気をかき混ぜるための物だとは思うのだが、実際のところどんな効果があるのかもわからない。
 がらんとしたカウンターの向かいに、ざっと見て10以上のテーブルが並び、対を成すように黒いソファが置いてある。カウンター席は背もたれのない丸椅子だったが、静雄でも足がつくかどうか――絶対につかないだろう、そのくらいの高さの椅子だった。ソファーに近寄って手を伸ばすと、さらさらとした手触りが気持ちよかった。
 好きなとこに座ってもいいと言われたので、静雄はそのソファに腰を下ろした。途端にまふうっと音がしそうなほど身体が沈んでぎょっとした。カバンを脇において背もたれに身体を預けて見ると、やっぱりまふうっと音がしそうなほどやわらかい。気持ちがよかった。
 入り口のすぐ近くにはレジカウンターがあり、その後ろに天井ほどの高さの棚が聳え立っている。棚に陳列されているのは、古びたレコードだけだった。見回すと、飾り棚の上に深い青色に大きな花が描かれた綺麗な蓄音機がおいてある。動くのかどうかわからなかったが、レコードがセットされているのが見える。恐らく動くのだろう。
 蓄音機だけでも珍しいとは思うのだが、壁際に置いてある茶色く細長い木製の、静雄の身長より高くずんぐりむっくりとした見た目の――おそらく柱時計だろうと静雄は判断した――がひときわ目を引いた。昔のアンティークとでもいうのか、こった装飾が至るとこに刻まれているそれは真ん中から上が窓のようになっていて、中の機械が丸見えだった。何か円盤のようなものがはめ込まれているが、これがなんだかわからない。今まで見たことがない部類のものだった。ずっしりと重そうなそれは、いつだったか本で見たロンドンの装飾過多な橋脚を連想させる。そのへんてこな時計の隣に、小ぶりなオルガンも置いてあったが、何よりもその時計の装飾が珍しくて、あまり目立ってはいなかった。
 なんだかこの場所にいるのが場違いなように思えてきた頃になって、廊下のほうから微かに足音が聞こえてきた。振り返れば、先ほど静雄が立っていたところから、私服と呼ぶには些かアレな――パーカーにショートパンツという見るからに部屋着のが、パタパタと店内に入ってきた。
「おっ、いいソファに目をつけたねー」
 そう言って静雄のほうに来るかと思いきや、カウンターの中に入っていってしまう。どうやらカウンターと厨房はつながっているようだ。何かがさごそと音がしてしばらくすると、がシルバーのトレイにグラスを乗せて静雄のほうにやってきた。静雄の正面にコースターを置き、その上に静かにグラスを置く。グラスの中に注がれていたのはオレンジジュースだった。
「あ、ども」
 頭を下げると、がにっと笑った。は向かいの席にも同じようにグラスを置くと、トレイをカウンターに戻しに行ってから、ひょいと静雄の向かい側のソファに腰を落とす。まふうっと音がした。
「なんか、高そうだな、このソファ」
 ぽつりと呟くと、
「どうだろー? 値段とか聞いたことないや」
 そう言って、がぺちぺちと、肌触りのいいソファを叩き始めた。いいのかそういう扱いで、と思わず口にしてしまったが、はうーんと首をひねって、怒られたことは無いなあと呟いた。
「なあ
 言いながら静雄は壁際のあの時計のような置物を指差した。
「あれ、なんだ? 時計か?」
 がグラスにストローをさした体制のまま、静雄の指の先を振り返る。ああ、と呟いたあと。
「オルゴールだよ」
 そう言って、グラスを手に取ると、ストローに口をつけた。静雄もグラスにストローをさしこみながら、はあ、といかにも納得してない様子で呆然とオルゴールと呼ばれたそれを見上げる。
「いや、でかすぎだろ。ありえねえ」
 静雄が想像するオルゴールというのは、手のひらサイズのものだ。
「おっきいよねえ。よくお客さんに聞かれるんだ、あれ柱時計ですかって。オルゴールって答えると、みんなびっくりするんだけど」
 ふうん、と静雄は頷いたあと、
「じゃあ、あの蓄音機は現役か」
「うん」
 青い蓄音機を指差しながら尋ねると、すぐに答えが返ってきた。
 部屋の中を再度ぐるりと見回す。装飾品がすべて高価なものに思えてきて、静雄はごくりとつばを飲み込んだ。
「なあ、お前のじいちゃん、何やってた人なんだ」
「え? ……うーん、なんだろ。こっちに来る前は福岡にいたって聞いたけど」
「ふうん。今はこの……何やってんだここ」
「ケーキ屋兼喫茶店。軽食もあるよ」
「……それを趣味でやってると」
「うん。ほかに骨董品店? っていうの? 古い食器とか家具とか変なのに手出してたんだけど、そこらへんはお母さんがまるっと引き継ぎまして」
 なるほどなあと静雄は思った。だから店内の装飾がそれっぽいのかと納得し、ストローに口をつける。
「なんだいなんだい、二人して私の話をしているのかな」
 カウンターからぬっと男が出てきて、静雄は思わずむせかけた。
「うん、そんなとこ」
「興味を持ってくれるのは嬉しいねえ。どれ、ケーキでも出してやろう」
 わーい、とがさして嬉しくなさそうな棒読みで言うものだから、男がしゅんとして厨房に引っ込んでいってしまった。声をかけるタイミングを失い、あーと静雄はぽりぽりと頬をかく。そういう態度でいいのかと思ったが、意外にもは普通にしているので、きっとこれが二人のコミュニケーションなんだろうなと思った。
 ふいに、カバンの中から携帯のバイブ音がするのに気がついた。慌てて携帯を取り出すと、着信中のようだった。電話をかけてきた主は新羅だ。通話ボタンを押してスピーカーの部分を耳に当てる。
「新羅か」
『ねえ、ちょっと、ひどくないかなあ?』
 いきなりそう切り出した声は紛う事無く新羅のものだったので、静雄は気にせず通話を続けた。
「あー、悪い」
『ちっとも申し訳なさそうに聞こえないんだけど。まあいいや。もう帰ったのかい』
「いや、んちにいる」
『えっ』
 新羅が素っ頓狂な声をあげた。そのまま無言になる。不振に思った静雄が、おーい、と声をかけてから10秒ほど後になって、
『きききき君が女の子の家にあがったっていうの!?』
 ひどいどもり様だった。
「なんだよ、文句あるか」
『だって、粗相とかしてるんじゃ』
 静雄は無表情に通話終了ボタンを押した。そのまま何事も無かったかのように携帯をカバンの中にしまう。新羅くん、目覚めたんだ、よかったー。ほっとしたようにが言うのに、適当に相槌を打って、静雄は窓の外に目を向けた。そういえば同級生の女子の家にあがったのはこれが初めてだと気づくと、静雄はだんだんと落ち着かなくなってきた。心拍数があがってくるのがわかる。ソワソワしそうになるのを堪えていると、唐突に目の前にケーキの乗った皿を置かれた。
「昨日のあまりもので悪いが、味は普通だと思うよ」
「あ、ハイ。どうもっす」
 皿の上には小さなチョコレートケーキが乗っている。チョコレート味のクリームをチョコレート色のスポンジではさみ、その上からチョコレートをかけただけのシンプルなケーキだった。
「おじーちゃんのケーキ、おいしいよ」
 言っておくが、静雄はケーキの類は苦手なほうではない。むしろ好きだ。フォークを手にとって、ケーキを一口分取ると口に運んだ。美味しかった。傍らに立つ男に尊敬のまなざしを向けると、男はにっこりと笑った。
「静雄くん、夕飯は何がいいかね」
 唐突に聞かれ、静雄は混乱した。何度も瞬きしたあと、あちらそちらに目をやる。ここは今食べたいものを言うべきだろうかと思ったが、手間暇かかる料理ではかえって迷惑になるだろう。でも、かといって手抜きっぽい料理の名前を言うのも返って失礼になるのかないやそもそもすぐ答えないと失礼なのかよくわからなくなってきた。
「静雄くん、そう考え込まずにさ。何食べたいですか?」
 に笑いながら促され、
「……とりあえず、家に連絡しても、いいっすか」
 何故だかよくわからないが、両親の顔が思い浮かんだ。
 そんな静雄の返答に目を丸くした二人だったが、お互いに目を合わせるなり、あ、そうだね、とほぼ同時に頷いた。

2012/01/16