実行委員の続き。高校時代捏造・オリキャラ注意。


 被服室に入ってまず最初に思ったことは、空気が重い、それだけだった。
 テーブルに突っ伏している生徒や、小声で喋っている生徒はちらほら見受けられるが、その誰もが憂鬱そうな顔だった。入り口近くの椅子に座っている生徒が「かったりぃ」なんて気だるそうに呟く声が聞こえてきて、静雄は心の中で静かに同意した。恐らくここにいる生徒の大半が、嫌々押し付けられた生徒ばかりなのではないかと思ってしまう。だから浮かれた調子の生徒はいないし、そのせいで空気が重苦しい。
「窓際いこっか、あっちのすみっこの」
「……おう」
 でげんなりした様子で、それが連鎖しているのかはわからないが、静雄の気分も下がる一方ではあった。先を歩くの後ろについていき、一番奥のテーブルの、右端の椅子に腰を下ろすと、左隣に当たり前のようにが座った。一息ついて室内を見回せば、静雄に気づいた生徒が伺うようにこちらを見ている。
 見られたくなかったのか、見たくなかったのか。静雄は視線から逃れるように視線をテーブルへ向ける。ひそひそと、囁く声が聞こえるような気がしてきた。うーわあの平和島が実行委員だってよダッセープッちょうにあってねえ隣の人すっげー可愛い平和島マジうらやましー、そんな声がずいぶん近くで聞こえてくる。それも鮮明に。流石にこれはおかしいと思って横を見れば、がテーブルに頬を擦り付けながら微かに唇を動かしていた。静雄が自分を見ていると気づくなり、へへえ、と悪戯っぽく、ごまかすように笑って。
「み、皆の心の声を代弁してみたり?」
 小声でぼそぼそと。最後に「えへーっ」と微笑まれる。
「……後半ありえねぇだろ頭わいてんのか」
 の耳をこれでもかと引っ張った。あだだだだ、と思いのほかが大きな声を出すものだから、慌てて手を離すが後の祭りだ。前に座っている生徒が何事かと振り返る。恐怖とか、畏怖とか、そういうのが篭った無数の視線が突き刺さる。全身が粟立つような感覚に飲まれ、身動きが取れなくなる。
「……にんきもの、だねえ」
 しみじみとしたの声は、いつだったか静雄が聞いたような口ぶりだった。無言のまま、俯きがちになる。テーブルの木目をじっと見つめていると、が少し身動きする気配を感じた。視線をそちらに向ければ、がゆっくりと身体を起こす。
 いきなり何の脈絡もなく左腕を取られて、静雄の身体が僅かに震えた。手のひらを上に向けるようにひっくり返され、怪訝そうに顔を顰めると、それに気づいたがにこにこしながら。
「こういうときはね、何も考えずにリラックスするのが一番いいよー」
 なんて言いながら両手で手のひらを包み込まれる。それから、ぐにぐにと手のひらをもみしだかれた。親指で手のひらのあちこちを押されるたびに、痛みが走った。とはいえ、蹴ったり殴られたりの痛みとは比べ物にならないほど軽いものだし、そもそも比較するレベルの痛みではない。されるがままに、そのまま黙っていると、だんだん手がぽかぽかしてきた。が小さく笑いながら「きもちい?」とひそひそ声で尋ねてくるので、静雄は素直に頷いた。
「どこで覚えたんだよ、こんなの」
 ひそひそ声で返すと、が照れくさそうに笑って。
「自己流ー。別に誰からか教えてもらったとか、そういうわけじゃないんだー」
 小さい頃から、肩たたきとかマッサージするの好きで、やるとおとーさんもおかーさんおじーちゃんもおばーちゃんも喜んでくれたから、気づいたらゴッドハンドになっちゃってたよ、なんておどけた調子で言うものだから、手のひらの気持ちよさも相まって、自然と頬が緩んだ。の幼少のころなんてのははっきり想像することはできないが、それでもあのじーさんに肩揉みを仕掛けるの図が容易く想像出来た。は冗談でゴッドハンドなんて言ったつもりなのだろうが、静雄は相応の名前だと思った。のマッサージは素直に気持ちがいいのだ。
「そうか。……いっ!」
 束の間、電撃が走って、思わずうめき声を上げた。
「そこ、いてぇ」
 ほほう、とがにやっと何か企むように笑うものだから、思わず静雄の身体がこわばった。しかしはそこから手を離し、今度は指先を押し始める。呆けたようにそれを見つめていると「さっきのとこがよかった?」と笑われ、慌てて首を振った。
「静雄くん、指長いねえ」
 うらやましいなー、と言われるものだから、思わず首をかしげた。
「そおか? 普通じゃねえの?」
「いやいや、おっきいよ、ホラ」
 言いながら、が手のひらを重ね合わせる。
「ね? 静雄くんのほうが大きい」
「いや、そう言われてもな……」
 そもそも男と女で比べることが間違いじゃなかろうか。
「小さい頃、ピアノとかそういうの、やってた?」
「全然。音感とか、そういう系の才能ねぇし、習い事したいとかいう発想すらなかったな」
 左手を引っ込めた後、僅かに身体をに向け、右手を差し出すと、が目を丸くした。じっと顔を見つめられ、気まずさから視線をそらせば、すぐに右手を両手で包み込まれた。ぐにぐにと押される。
「じゃあ2年の選択授業、静雄くんは何選んだの?」
 選択授業というのは、この高校では美術・音楽・書道を指す。単位取得のためのお遊び授業のようなもので、基本的にちゃんと参加していれば単位はもらえるという優しい授業だ。
「……音楽」
 プッとが吹き出した。
「音感ないっていっときながら、音楽ですかーそうですかー」
「……だってよ、絵描くの苦手だし、俺字きたねぇし。消去法でいったら音楽が妥当じゃねぇか」
「そかそかー、そだよねぇ」
 ふふっと笑って、ぐにぐにと手のひらを親指で押される。俯きがちのの顔を見れば、鼻歌でも歌い出しそうな表情で、優しげな目つきで静雄の右手に視線を落としている。時々観察するような目つきになって、指の節を撫でたり、悪戯にささくれ立ったところに触れるものだから、くすぐったいような気がしてきて、徐々に居た堪れなくなってきた。もはやマッサージとは違う別の何かになっていて、いい加減にそれを指摘しようと思ったのだが、
「男の子の手、だねー」
 しみじみと言われてしまい、思わず視線をそらす。無性に気恥ずかしくてたまらない。だというのには相変わらずの調子で、これを無意識にやっているとするならばそれこそ本物の馬鹿だろう。文字通り、性質が悪い。心の中で半ば悪態をつきながら、ふと顔を上げて被服室内の生徒を見れば、慌てて顔をそらす生徒が何人か見受けられた。それでも興味津々そうにこちらを伺っている生徒が何人かいる。
 静雄が凄むよりも先に、被服室の黒板側の入り口のドアが開いた。実行委員の担当教師がプリントを抱えて入ってくる。慌てて姿勢を正す生徒の物音で教室がにわかに騒がしくなり、それに気づいたがパッと静雄の右手から手を離した。
 挨拶もなく点呼が始まる。静雄のクラスが呼ばれると、戸惑う静雄をよそに返事をしたのは隣のだった。教壇に立つ教師が一番前のテーブルに座る生徒にプリントを渡し、それを回すように言う。流れ作業のように手渡されるプリントの束を眺める。前のテーブルから差し出されたプリントをが受け取り、それを隣のテーブルへ渡したのもだった。
 教師が体育祭についての説明を手短に終えると、プリントを見るように指示した。朝のホームルーム中でもいいから、好きな時間に適当に種目を決めるように。要約するとそんな事を話して、解散の合図が告げられる。
 呆気なく終わったなあと椅子から立ち上がりながら時計を見れば、およそ10分程度しか経っていなかった。道理でと納得しながら、もどろっかー、とのんきなの後ろに続く。の背中を見つめながら、俺いた意味あったのかな、と心の中でそうぼやく。
「あ、ちょっとまった! 三年生集合ー!」
 いきなりそんな声がかかり、静雄とは足を止めた。手招きされるので、静雄はと顔を見合わせ、そのまま黒板のほうへ向かう。三年生と思しき実行委員がすべて揃ったのを確認すると、教師が口を開いた。
「三年生は種目決めのほか、やってもらうことがあるのね。まずは用具の点検なんだけど」
 僅かに嫌な予感がした。
「点検はそんなに人数必要ないから、とりあえず、クラスで代表決めてじゃんけんね。負けた3クラスが担当ということで」
 えーっとあちこちからブーイングが湧いた。困惑してを見下ろせば、も困ったように苦笑を浮かべている。
「静雄くん、じゃんけんやる?」
「……いや、やってくれ」
 たかがじゃんけんだが、それでもいつ何が自分の琴線に触れるかがわからない。それを察してくれたのか、はわかった、と笑って頷いた。負けても恨まないでね、と言われ、恨まねぇよ、とそれだけを返す。
 代表に選ばれた実行委員が円陣を作り、じゃんけんを始める。うおー、という意気込む声や、いやだー、という叫び声がじゃんけんの合間に聞こえる。を見れば、真剣そのものといった面持ちだった。
 そして、しばらくした後に、
「はい決まり、それじゃ、点検は明日の放課後ね。ジャージに着替えて体育館裏集合。一応放送かけるけど、忘れないように!」
 プリントに、静雄のクラス名ほかを書き込んで、教師が被服室を出て行く。負けたクラスの実行委員がとぼとぼと被服室を後にするのを見つめながら、静雄は隣に立つを見下ろした。手で顔を覆っている。
「ごめんよう。言い忘れてたけど、じゃんけん弱いんだ……」
 ほんとごめんよう。泣きそうな声がいたたまれなくて、静雄は迷った末にの頭に手を乗せた。
「……うん、いや。別に気にしてないからな」
 戻ろうぜ、と促すと、ようやっとが足を踏み出してくれた。


 次の日、朝のホームルームにて、の提案により、だけが前に立ち体育祭の説明をはじめた。恐らく皆もう慣れているだろうからと手短に説明を終えたその声は、一切の迷いがないしっかりしたもので、もし自分がの立場にあったらと想像し、少しばかり落ち込んだ。恐らくどもったりするだろう静雄とは対照的に、ははきはきとした声で競技種目の説明を始める。種目の決め方は実行委員に自己推薦という形で決め、種目は早いもの勝ちだと付け加えた上で最後に、
「なお、原則一人一種目は参加しないといけないので、報告がない生徒はこちらで勝手に決めます」
 そう言い終えて、先生に終わりの合図をし、席に戻った。いい加減だなおい、と担任教師に揶揄するように言われても、は笑いながらこういう方が楽じゃないですか、と答えた。そうして教師の話題が別のほうに向いたところで、はわずかに椅子を傾け、首だけを後ろに向けると。
「それで、静雄くんは何がいい?」
 何がいい? その真意を測りかねて、呆然と固まっていた静雄だったが、ようやっと種目決めの事だと察すると、あたふたと思考をめぐらせた。
 担任教師がホームルーム終了の合図をし、何か用事でもあるのか生徒の名前を数人呼んだ頃になって、が堂々とこちらに身体を向けてきた。プリントを静雄の机に置き、右手にはシャーペンと用意周到な装備で笑いかけてくる。実行委員の特権だし、早く決めないとひどい競技に回されるぞ、とおどけたように言うものだから、静雄は決めあぐねてプリントに視線を落とした。
、わたし玉入れにしといて!」
「わかったー」
 どこからともなく声が聞こえてきて、玉入れの欄に一人目の名前が書かれる。近くの生徒が寄ってきて、私は短距離、俺リレー、なんて言葉を残して去っていくのを見送りながら、静雄はぽつりと、
「お前は? 何やるの?」
 そう尋ねてみれば、はうーんと口を尖らせ、
「何にしよう……」
さん、僕綱引き」
 ここぞとばかりに新羅が身を乗り出してきた。はーい、と返事をし、が綱引きの欄に新羅の名前を書き記す。
「静雄も綱引きにしたら? 去年もそうだっただろ」
「え? ……ああ、そうだな」
「んじゃ静雄くん綱引きね」
 新羅の名前の隣に、平和島静雄、と記入されるのをぼうっと見つめる。
「やー、静雄くんが綱引きかー、これは圧勝じゃないですかねえ」
「そうだね。負けたことはないかな。ね、静雄」
「え? あ、ああ」
 一年からずっと新羅と同じクラスで、しかも毎年新羅と一緒に同じ種目。別に嫌というわけでもないし、これが一番楽だということはわかっているが、高校最後の体育祭というのを考えると、どうにも面白みがないなと思った。とはいえ、そこまでこの学校に思い入れがあるかと問われれば、静雄はそうではないとはっきり答えられる。
さんは? 去年――あ、……一年と二年の時は何やってたの?」
「そこで言い直す新羅君の気遣い、流石としかいいようがないね。一年も二年もね、強制的にリレーだったんだー」
 先輩俺玉入れにしといてー、と馴れ馴れしい声が聞こえてきて、静雄は僅かに顔を上げた。いつだったか安藤くんとか呼ばれていた生徒がへらへら笑いながら近づいてくる。わかったー、とが返事をした後、先輩はやめてーと付け足すと、安藤が僅かに笑う。自分の名前を書き記すのを覗き込み、ふうんと頷いてその場を離れていく。そんな安藤と入れ替わるようにして、ふっと誰かの影が差した。顔を上げると担任教師がプリントを覗き込んでいる。
、お前リレーだろ?」
 間髪言わずにそう切り出し、の手が止まった。
「た、たまには玉入れとか別のやりたいなーって」
「何言ってんだ、100メートルくらい走れるだろ」
 からシャーペンを取り上げるなり、女子リレーの欄にの名前を書き記す。が「ああぁあぁ……」と絶望的な声をあげた。
「先生、ちょっとは人の話聞いてくださいよ!」
 そんなの声から逃れるように、担任教師は席を離れていく。くそーと唸るをよそに、プリントを覗き込めば、几帳面な字の中に紛れて、乱雑な文字のそれがやけに浮いて見えた。
「平和島」
 いきなり声をかけられ、静雄の肩がびくりと震えた。
「俺、長距離にいれといて」
 通りすがりの、名前もよくわからない生徒に言われ、静雄はおう、とだけしか返すことが出来なかった。多田君は長距離っと、そうが呟きながら、プリントに名前を書き始めるものだから、静雄ははっとした。
「お前、名前覚えてんの?」
「うん」
 さも当たり前のように頷かれる。
「クラス全員?」
 尋ねると、はきょとんと目を丸くして静雄を見つめ、それから小さく笑って頷いた。俯きがちになりながら、「皆と仲良くしたいからねー」と、優しげに目を細めるものだから、無意識に唾を飲み込んでしまう。「もしや、静雄くんは覚えてないの?」と尋ねられ、迷った末に頷くと、が苦笑を浮かべた。
さん」
「はーい」
 誰かしらがを呼ぶものだから、の視線は自然とそっちへ向く。
 何か言われるかと思ったが、さして何もなかったのように振舞われ、静雄はほっと胸をなでおろした。

 放課後になると、プリントの競技欄は完璧に埋まった。早い者勝ちだよーと言ったのが幸いしたのかもしれない。
「思いのほか、すぐに埋まってよかったね」
「だな」
 そんな会話をしつつ――静雄がただ相槌を打つだけのそれが会話と呼べるのかどうかは疑問だが――二人は下駄箱で靴を運動用のスニーカーに履き替えていた。
 昨日放課後被服室にて言われたとおり、ホームルーム終了後一度だけ放送がかかった。実行委員の用具点検係はジャージに着替えて体育館裏に4時半までに向かうこと。それを聞いて静雄ももすぐにジャージに着替え、さあいざ体育館裏へ、と足を踏み出す前に静雄は新羅に先に帰るように声をかけた。しかし新羅は少しばかり悩む様子を見せ、教室で待ってるよと爽やかに笑った。思わず熱があるのか疑ってしまったのは、ごく自然な事だろう。
 昇降口を出て、いつもなら右に向かうところを左に向かい、校舎伝いに砂利道を進み、校舎裏の用具室まで向かう。校舎の日陰にあたるそこは少しじめじめしていて、あまり長居したい場所ではない。静雄とがそこにたどり着いた時には、もうすでに他のクラスの生徒4人が揃っていた。あとは先生が来るのをただ待つのみ、である。
 何するんだろうねえ、なんて他愛もない雑談の殆どが女子だ。この場にいる六人のうち、男子は静雄含めて二人しかいない。無言のままぼーっとしていると、一度その男子生徒と目が合ったが、合うなり慌てて視線をそらしてしまった。こうすると大抵、相手も気をつかってか話しかけてこなくなる。少し自己嫌悪に陥りそうになるが、もう気にしても仕方ないことだと割り切った。
 そういえば、いつになくが静かなことに気づき、隣を見下ろす。何故か一人でじゃんけんをしていた。昨日負けたのがよほど悔しかったのかわからないが、静雄から見てもうすら寂しい光景に思えた。アホだなあと思いつつ、小声でじゃーんけん、ぽん、と呟くそのタイミングにあわせてグーを出すと、がチョキとパーでちょうどよくあいこになった。
 目が合う。そのままあーいこでしょ、とが続けるのに合わせて、静雄はパーを出したが、の右手はグーだ。片手は下ろしている。勝った、と笑うと、が悔しそうに口を尖らせた。
「だから弱いんだって言ってるんだよう」
 もっかいと言わんばかりに二度手を振られ、それに合わせてグーを出せば、はチョキだ。もう一度やってみるが、また静雄が勝った。
「ほんっと弱ぇな……」
 言いながら再度、静雄が勝つ。思わず笑い声が漏れた。完全に拗ねたが「もうやめよう。やめやめ」と首を振ると、その時ちょうどよく担当の教師がやってきた。
 教師は揃った面子を数え、満足そうに頷いて、手にしていた3枚のプリントと使い捨ての鉛筆をそれぞれのクラスの代表に渡した。の手元にあるプリントを覗き込むと、はちらりと静雄を見上げてから、静雄に見えやすいようにプリント静雄のほうに向けてくれた。
「そのプリントに書いてある場所の用具の数の点検と、器具が故障してないか。大雑把でいいから調べて、職員室の私のテーブルに置いといて頂戴」
 それじゃあがんばってね、とだけ告げて、教師はグラウンドのほうへ小走りで戻って行ってしまう。残された生徒はぽかんとするばかりで、静雄も例外ではなかった。ぼけっとしていると、に袖を引っ張られ、意識を引き戻される。
「静雄くん、クラブ棟のほうだからいこ?」
 頷くと、そのまま袖を引っ張られて、なすがままについていく。隣に並ぶとようやっと、が手を離してくれた。
「ハードルの点検と、テントのパイプ点検だって。すぐに終わるよ」
 にこっと微笑まれる。
 運動部がまばらに見受けられるグラウンドを横切り、真っ先にクラブ棟に向かう。テニス部員や野球部員やサッカー部員が使っているらしく、ちらほら残っていた部員から怪訝そうな視線を向けられたが、の手元にあるプリントを見て何かを察したらしく、興味をなくしたように視線を逸らされた。少しほっとする。
 そしての言っていた通り、点検はすぐに終わった。
 というのも、だ。が以前陸上部員だったという事を利用してか、ずかずかと陸上部と書かれた部屋に入り、休憩中だった一年生に「ハードルって今何脚あるの?」と尋ねたのである。
 上級生――それも平和島静雄を引き連れた――に尋ねられた一年生は、ひっと縮み上がりながら、丁寧な言葉遣いでに答えた。そのたびに怯えるような視線を静雄に向けるものだから、静雄は居た堪れなくなって、下級生から目を逸らした。
 怯えるような態度だというのに、はにこにこ笑いながら――恐らく怯えを払拭させようとしているのだろうが、土台無理な話だろう。逆に怖がらせていることに、いつになったら気づくのか。静雄はそう思ったが、口にはしなかった。
「テントとかは普通だよねえ?」
「は、はいっ、そうだと思います」
 律儀に答える下級生に頷き、うんうん、とプリントに書き込んでいく。
「君は何やってるの? 短距離?」
「いえ。中距離です」
「そかー。がんばってねー」
「は、はい」
 ひらひらと手を振って、部屋を後にする。
「ほら、すぐに終わった!」
 ふふん、と自慢するように胸をはる。ゆとりのあるジャージの上からでもわかるくらい、なだらかな曲線を描いたそこに思わず目が向きそうになって、静雄は視線を校舎のほうへ逸らした。
「……お前、結構適当なのな」
「根つめてやるよりは、気軽にやったほうがよくない?」
 が言いながら、プリントを四等分に折り、そうしてなぜか静雄のジャージのポケットに無理やり突っ込んだ。素早い手つきに半ば呆気にとられてしまうが、別段拒否する理由もなかったので、静雄は微妙な面持ちのまま、
「……まあ、そりゃそうだけど」
 しぶしぶといった感じでそう返し、クラブ棟のそば、積み重なるように汚く並べられた大量のハードルに視線を向けた。これを数えることを考えると、のやり方が妥当なような気がしてきた。
「中庭の渡り廊下からいこっか?」
「そうだな」
 ここからの位置だと、昇降口に戻るよりは、中庭の渡り廊下から校舎に入って、玄関に向かったほうが近い。二人してとぼとぼ歩き出すと、どこからともなくてんてんとバウンドした野球ボールが転がってきた。泥まみれのそれは、拾ったら明らかに手が汚れてしまうだろう事がすぐわかった。ここは静雄が身をかがめて拾うべきだろう。そう意識するよりも先に、が飛び出していってひょいとそれを拾い上げた。きょろきょろと忙しなくあたりを見回し、大げさに手を振る野球部員を見つけると、
「ていやっ!」
 変な掛け声とともに、がボールを空へ投げた。大きな弧を描いたボールは野球部員のほうに届くことはなかったものの、地面に落ちて何回かバウンドし、ころころ転がって野球部員のミットの中に戻る。帽子を取って大げさに頭を下げる野球部員にが手を振り返す。ぶんぶんと大きく手を振る姿は、後ろから見ても楽しそうだった。ひとしきり手を振って、跳ねるような足取りで戻ってくる。そして、目が合うなりにこっと微笑んで。
「えへへ、手汚れちゃった」
 少し汚れた手のひらを、見せ付けてくる。
「洗ってくるか?」
「ううん、面倒だからいいや」
 なんて言いながら、何故か静雄のほうへ伸ばしてきた。慌ててその手から逃げると、いつしかの微笑みは、悪戯っぽいものに変わっており。
「おい、まさか……」
 嫌な予感がしてならない。汚れた手を静雄のほうに向けつつ、じりじりと間合いをつめられ、ごくりと唾を飲み込む。
 これは、明らかに、獲物を狙う目つきだ。静雄は一度だけ瞬きしてを見据えた後、あっとわざとらしくの斜め後ろを指差した。それに釣られたが振り返る動作を見せると、静雄は勢いよく地面を蹴った。後ろから何か叫び声が聞こえてきたが構わず走る。走って走って、中庭の渡り廊下までたどり着いたとき。
「あっれえー? シズちゃんじゃないかァ」
 嫌に聞き覚えのある声だった。
「こんな時間まで君が残ってるなんて珍しいねえ」
 明日は雪かもねえ、とおどけたような調子で言われ、静雄は口元をひくつかせながらゆっくりと二階の渡り廊下を見上げた。
 見慣れた顔が、まとわりつくような――それも振り払うことも叶わない類の気持ち悪さを兼ね備えた――視線を静雄に向けている。手すりから身を乗り出し、にたつくと表現するに相応しい顔で見下ろす姿は、ひたすらに胸糞悪い折原臨也その人であり。
「そういや、体育祭の実行委員になったんだってね。どういう風の吹き回しかな?」
「……あぁ?」
 口元がひきつる。手前こそなんでいるんだ、とそう口に出そうとした瞬間。
「えっへへー、静雄くんゲットだぜー」
 なんて場違いな空気を振りまきつつ、が静雄のジャージを掴んだ。ゆっくりと静雄が見下ろせば、汚れていないほうの左手で、静雄の右脇を掴んでいる。楽しそうに笑っていただったが、静雄の顔を見るなり怪訝そうに首をかしげ、そうして二階の渡り廊下にいる臨也に気づき、不穏な空気を察知して顔を曇らせた。
「……静雄くん」
 が不安そうに静雄の顔を見上げる。
「昇降口のほうに行け」
 小声でそう呟き、ジャージを掴む手を引き剥がしての背中を軽く押す。おわっと、と変な声をあげてよろけると、上からひっどいなあと声が降ってきた。
「駄目だよシズちゃん、女の子には優しくしないとね」
「あ? 手前には関係ねぇだろノミ蟲」
 そうかなあ、と臨也はさも楽しそうに笑う。「シズちゃんってほんと考えなしだよねえ」と哀れむように言いながら、ニヤニヤ笑顔で手すりに肘をついた。相変わらずはそこにいて、不安そうに静雄と臨也を見ている。早く行け、と視線で訴えるが、が僅かに首を振るものだから、思わず舌打ちが零れた。
「シズちゃんさぁ、本気で、彼女が君に善意で付き合ってると思ってるわけぇ?」
「ああ?」
 臨也の目線が、静雄の後方に立つに向けられた。目を細めて薄気味悪い笑顔を浮かべる。
先輩さぁ」
 いきなり苗字を呼ばれ、の肩が僅かに震えた。
「一、二年の総合成績、学年トップ10に入ってるよね」
 静雄は最初、臨也の言っている意味がよくわからなかった。臨也の言葉を脳内で反芻し、やっとのことで意味を理解した静雄は、えっと目を丸くしてを見る。困惑した様子で臨也を見上げる姿は、どうにも“そういう”風には見えない。いつも馬鹿をやっているイメージが強くて、うそだろ、と出かけた言葉を飲み込んだ。
「そーんな優等生が、どーしてシズちゃんとつるんでるわけぇ?」
 しばらくの間をおいて、が口を開いた。
「君に答える義理はないかな?」
 にしては珍しい声色だった。警戒するような、敵対を向けるような――不満を全開にした、静雄が初めて聞くものだった。
「どうして? 先輩、言えない理由があるんじゃないの? 例えば、先生に『シズちゃんの面倒を見てほしい』って、頼まれた、とかさあ」
 は何も反応を見せない。しばらくして、僅かに息を吐いた。
「先輩、何かいいなよ。無言は肯定と取るけど?」
 くつくつと笑う声に合わせて、臨也の肩が震える。
「手前、さっきから何ほざいてやがる。周りくどいんだよ」
「じゃあハッキリ言わせてもらうけどさぁ」
 一拍置いて。
「シズちゃんの人生の中でさ、今までに他意のない、それこそ純粋な気持ちで、君と友達になりたいって近寄ってきた人間て、いる? それも、異性で!」
 まるで自慢のおもちゃでも披露するかのような表情だった。
「シズちゃんってほんと可哀そうになるくらい頭弱いよねえ、ちょっと親切にしてもらったからって、内申とかの餌に釣られて近寄ってきた人間をすぐに信じちゃうなんて! 不自然に思わなかったの? ……思わなかったんだよねえ! アハハ! だからさぁ、いつまで経っても『知恵遅れ』なんだよ?」
 言い終わるなり、すごく楽しそうに笑い始める。
 その姿を呆然と見つめながら、静雄は記憶を掘り返した。
 思い返せば、移動教室の殆どを、近くの席で受けるようになった。弁当も一緒に食うようになった。一緒に帰るようになった。席替えも近くの席に座ることになった。そして今、体育祭実行委員なんて割に合わないものを引き受けている。そのすべての発端は、――だ。が言い出して、引っ張られるがまま、流されるがまま、静雄はいまこの場所にいる。
 正直なところ、どれもがひどく強引なやり口だったから、不自然に思わない事はなかった。それでもの性格が“アレ”だから、これが当たり前なのだろうと思い込み、疑惑とか不安とか、そんな気持ちはどこか隅に追いやっていたのは否定できない。
 は最初から静雄の事を噂で知っていたわけだし、近づいたらどうなるかなんて明確にわかっていたはずだ。それなのにどうして近づいてきたか。
 ――この先は考えたくはなかった。
「ハハ、悪い留年生にだまされかけたシズちゃんを助けた俺ってすっごい親切じゃない? 自分でもびっくりだなあ~! 感謝してよねえシズちゃん!」
 大袈裟に自画自賛する臨也の声は、静雄の耳をすり抜けていく。
 視線を下げると、臨也が視界から外れる。寂れた風景の中庭を捉えた後、小さく息を吸い、首だけでのほうを振り返ると、唐突に視界に手のひらが飛び込んできた。あの汚れた、手のひらだ。
 バシン、と側頭部を叩かれる。
「静雄くんのバーカ! アホ!」
 叩かれた箇所をさすりながら、のほうに体を向ける。「あ?」と聞き返せば、はひるむことなくこちらを睨みつけて。
「アホ! スカポンタン! くるくるぱー! マヌケ!」
 そんな言葉を繰り返し投げかけられ、静雄は僅かに口元がひくつくのを感じた。
 とりあえず自分が知りえる中で最低の言葉を口に出す、そんな空気がから感じられた。ゆえに、ひたすら連呼する罵倒の言葉は限られている。臨也の見てるだけでイラつく顔と、その口から発せられる挑発に比べれば、まだ可愛いほうだ。
「お前の母ちゃんブタゴリラ!!」
 ――それでも、だ。
 家族を罵倒されるという行為は、静雄にとってのセーフラインを超えるものだった。
「あ゙? もっかい言ってみろや」
「お前の、母ちゃん、ブタゴリラーッ!!!」
 そう叫んで、が脱兎のごとく走り出す。静雄は無意識に「逃げんじゃねぇえ!!」と叫びながら、その後を追いかけた。
 ただ一人残された臨也と言えば、呆れた表情で誰もいなくなった場所を見つめつつ、
「……ブタゴリラって、男じゃん」
 そう静かにぼやいたのだった

 グラウンドを横切り、校門を出る間、何人かの教師に声をかけられた気がするが、姿形は鮮明に思い出せない。とりあえず、警鐘の声と呼べる類のものだと思った。しかしどういう声をかけられたか、思い出せない。女の教師か男の教師か、それすらも曖昧だ。もしかしたら自分が無意識に心の奥で警鐘をあげたのかもしれないが、とりあえずそんな事はどうでもいい。
 殴ろうと思った。
 あわよくば――、とも。
 そんな恐ろしい事をあのに実行しようとしているのだ、普通はためらうところだとは思うのだが、全くそういう気がしてこないから不思議だ。
 前を走るは、時折、静雄がついて来るかちゃんと振り返って、そうして距離が離れすぎているのを確認すると、少しばかりペースを落とす。手の届きそうな距離になると、ペースを上げる。さっきからこんなのの繰り返した。
 追いつけない。
 速い。
 手が届かない。
 人のごった返している通りですら、隙間を見つけて縫うように走っていく。に驚いた歩行者が脇にどけるものだから、静雄は人が退いた後に残る走りやすい道を進み、ただの背中を追いかける。
 不意にがわき道に反れた。煉瓦の敷き詰められた道をひた走る。不安定な道、躓くかと期待したが、意外にも走りは安定していた。
 段々と息が上がってくる。何キロ走ったのか。学校から出て何分経ったのか。そもそもここはどこなのか。煉瓦が敷き詰められているこの道はもう池袋ではないだろう。2キロ以上は走っている気がする。煉瓦道、ただひたすら煉瓦道。先を走るには追いつけず。ぎり、と奥歯をかみ締める。
 ――それは唐突に訪れた。
 前を走るの身体が、文字通り落ちる。あっという間に視界から消えた。の姿を追うように目線を下げる。どへぁ、と変な声を上げて突っ伏している姿は――転んだのだろうか? それにしては、いきなり、下に落ちるような感じではあった。
 が転んだのをきっかけに、滝野川かここは、と現在地の地名を思い出した。徐々に意識がクリアになってくる。余裕が出来た、とでもいうべきか。握ったままの手を開くと、手のひらに当たる生ぬるい風が気持ちいい。走りながら開いた手のひらを見れば、爪の痕が残っていた。どのくらいの強さで握っていたのか苦笑を浮かべるほかない。
 走るペースを緩め、何とか息を整えながら、いまだ煉瓦道に突っ伏したままのの傍まで歩いていく。ぜえはあ、と自分の呼吸がやけに大きく聞こえる。身をかがめて手を伸ばし、細い腕を掴むと、の身体が一際大きく震えた。それが恐怖からくる震えだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
 通行人の視線が痛い。とりあえず、できるだけ早くこの場から逃げ出したい一心で、の両脇の下に手を差し込んだ。引き上げて立たせると、わっとが素っ頓狂な声をあげる。おずおずと静雄を首だけで振り返り、そして困ったように微笑んだ。それに笑い返すこともせず、静雄はの両脇から手を引き抜く。
 かくん。そんな効果音でもつきそうな勢いで、が落ちた。慌てて首根っこを掴もうとするが、それは叶わず、は地べたに腰をつく。がゆっくりと立ち上がろうとするが、どうにも所作がぎこちない。再度両脇に手を差し込んで持ち上げてやると、が困ったようにへへえと笑って。
「静雄くん、落ち着いた?」
「……なんとか」
 こんなになってもまだ静雄の心配をしている。が軽く咳き込み、眉を寄せて口元を押さえる。
「立てるか?」
「無理」
 間髪入れずにきっぱりと言われる。
「……腰抜けたか」
「そういうのではない、かな」
 が頼りなく笑って、不安そうに自分の足を見つめた。釣られて静雄の視線もの両足へ。僅かに震える膝を見つめ、生まれたての小鹿のような足とは、まさにこういうのを言うのかもしれない、なんてどうでもいい事を考えてしまう。
「俺がこの手、離したらどうなる?」
「座る」
 再度、間髪入れずにきっぱりと。そのすがすがしさに、溜息すらつきそうになってしまう。乱れる呼吸を整えることに意識を向け、あたりを見回せば、やはり通行人が不可思議そうに静雄たちを見て通り過ぎていく。
「どんくらいで歩けるようになるんだ」
「わからない。だから、静雄くんは先に戻りたまへ」
「……戻りたまへか」
「うん。たまへ」
 ひどくくだらない会話だった。くだらなすぎて、思わず頬が緩む。罵られたときの怒りはどこへやら、だ。恐らく静雄はもう平常運転に戻っていた。
「このまま支えてても、足、だめか」
「うむ」
 仰々しい口調だった。わざとらしすぎて、かえって怪しい。右側から顔を覗き込めば、口を引き結んできつそうな表情が、さっと背けられた。反対側から覗き込むと、目じりの辺りから血が流れ落ちているのが見えた。静雄が息を呑むよりもはやく、さっと顔を背けられる。手を伸ばして袖で拭いてやろうと思ったが、両脇を支えているためにそれは叶わない。
 それよりも、だ。どうやら表情を見られたくないらしい事に、妙な違和感を感じた。しばし考え込み、静雄はある考えに行き当たった。
「……痛いのか?」
 の体がぴくりと震えた。迷うような気配が感じられる。それからまもなくして、
「痛くはないけど、変」
「変って、どっちが?」
「左足」
「……じゃあ、座ってたほうが、楽か」
 間髪いれずに、こくん。静雄はゆっくりと身をかがめてを座らせると、そのまま正面に回りこんだ。ひどく申し訳なさそうな、居た堪れない表情の顔に手を伸ばして、左の前髪を掬い取る。
「おわっ!? な、何!?」
「お前、目の横すりむいてんぞ」
「ええっ!?」
 が傷口に触れようとするので、慌てて手をつかんだ。汚ねぇ手で触ると駄目だろうが、と訴えれば、はそれもそうか、と納得したように頷いた。掴んだ手を離せば、は呆気なく手を下ろす。
「どうしようねぇ」
 まるで他人事のように、しみじみと。怪我をしたことに対してか、歩けなくなったことに対してか。恐らく両方だろう。
「そりゃこっちの台詞だ」
「あはは、ですよねぇ。……だから、静雄くんだけ先に戻ってくれないかなあと」
「こんな状態で一人残せるわけねぇだろ」
 思いのほか真剣な声が出たことに内心驚きつつも、静雄はそれをひた隠す。目を丸くして呆けているの顔をこれでもかとじっと見つめると、先に折れたのはのほうだった。ふうっと息を吐いて、斜め下に視線を下げる。首の後ろに手を回して、ぽりぽりと引っかきながらうーんと唸る。
「じゃあ、どうするよ?」
 にしては珍しく、不貞腐れたような声だった。そんな声を聞いても、嫌な気はしないのが不思議だ。
「お前が立てばいい話だ。……でも立てねえんだよなぁ」
「うむ」
 不貞腐れながらも仰々しく頷く。
「……じゃあ、俺が抱えていくしかないだろ」
 ――足りない頭で引き出した答えが、これだった。

「まてまてまて! やめよーよー、やっぱやめよーよー!」
 背負って最初に思ったこと。軽い。次に思ったこと。やわらかい。いや、変な意味ではなくてだ。
「あんまひっつくなよ」
「足、力はいんないの! ひっつかないとおちるのー!」
 そう言うの声は不思議と上擦っているように思えた。あのが珍しく恥ずかしがっている。それはなかなかレアなように思えた。わざとらしく抱えなおせば、ひっと声をあげてしがみついてくる。悪くない、と思う。いや、変な意味ではなくてだ。
 いじわるだー、なんてボソボソと呟く声が聞こえてくる。直後に首筋に顔をうずめられるものだから、くすぐったくて仕方ない。
「だーかーら、ひっつくのやめろっつってんだろが」
「だってぇ」
 ぐすぐすとベソをかきはじめる。はずかしいんだよぅ、と消え入りそうな声で言うものだから、あまり意識しないようにと努めていた方へ意識が向きそうになる。
 午後5時をとっくに過ぎたであろうこの時間帯、ジャージ姿でおんぶして歩く高校生の男女の姿は、傍から見ればどう映るのか。道行く人が奇抜な視線を向けてくるのを、見てみぬフリをするのはこれで何回目になるだろう。――どちらも考えたくないな、と静雄は思った。
 いくら住宅街のほうの道を選んでも、それでも道行く人とすれ違い、ときたまほほえましそうな視線を向けられるのだからたまったもんじゃない。おまけにが顔を隠すために肩に顔をうずめるものだから、首が異様にくすぐったくて、自然と小走りになってしまう。
 はずかしいよぅ、しにたいよぅ、なんて蚊の鳴くような音量でブツブツと聞こえてくる声がいやにくすぐったくてたまらない。なんとかこの空気を打開せねば、と足りない頭で考えた末、思いつくのはあの臨也の胸糞悪い言葉ばかりだった。苛立ちを覚えつつも、がぐりぐりと静雄の肩に額をこすりつけてくるので、怒りよりものほうへ意識が向いてしまう。
「なあ、お前、頭よかったの」
 ただそれだけを尋ねると、がうーんと唸りながらも額を縦にこすり付けてきた。頷いている。
「……自慢するわけじゃないのだけれど」
「変に謙遜すんなよ。頭いいくせに謙遜されるほうがムカつくからよ」
 時々いるのだ。頭がいいくせに、それを否定する人間が。勉強しているのにしていないとかいう人間を見るたび、静雄の不快感を無性に煽った。理由はよくわからないが、根底にある劣等感から来るのかもしれないとは、薄々思っている。
「とりあえず、静雄くんの2倍くらいは頭いいと思ってるよっ!」
 言い終わった直後、フフンと、自慢するように鼻で笑われた。
「ぶん殴るぞテメェ」
 とは言ったものの、別に殴る気は毛頭もなかった。爽やかな調子で言われたものだから、つい冗談で返してしまっただけだ。するとは「ひいっ」とわざとらしく声をあげて、それでも身体を震わせて笑っている。
 ぬくいの体をよっと抱えなおして、ボソッと呟く。
「……足速いのな、お前。全然追いつけなくて正直びっくりした」
 今思うと、走りながらが時々振り返っていたのは、ちゃんとついてきているか、心配しての行動だったのかもしれない。おまけに、自分が先頭を切って走り、静雄のために道を示してくれていた。信号にも運よく引っかからなかったのは、恐らくそういうペース配分も考えていたのだろう。
「おうともよ。それを買われてあの学校に入学したからね、なめてもらっちゃ困るぜ」
 これでもかというほどわざとらしい、演技っぽい口調で言われ、その言い回しにピンときた。
「お前、推薦組か」
 静雄がいう推薦組とは、スポーツ推薦で入学した生徒の事を指す。来神は私立で自己推薦を採用しているせいか素行の悪い生徒が多いため、私立の割りに偏差値はいまいちだ。その代わりとしてか、スポーツ面に関してはなかなか優秀な生徒が揃っている。恐らくもそういう類なんだろうと思ったら、案の定肯定の言葉が返ってきた。
「うん。中学のときにね、お前ならいけるんじゃないかって薦められて。おじーちゃんちから結構近いし、スポーツテスト受けたら運よく受かって」
「……へえ」
 が自分の事を語り始める。とつとつとした口調だったが、素直に珍しかった。歩調を緩めて、の言葉に意識を集中させる。
「入学金免除とかあんのか?」
「あるよ? でもその代わり、面倒な約束事が多いんだ」
「例えば?」
「問題ごとは絶対起こすなとか、転学・中退・自主退学の諸々は絶対に認めないっていう感じ」
 しばらく考え込む。
「……じゃあ、今、やばいんじゃねえの?」
 何か問題ごとを起こしたわけではないが、校外に出て思いっきり走り回ったのだ。ぶつかりそうになって怒声をあげた歩行者もいたし、苦情くらいくるだろう。
「うーん、どうだろう。やばいのかな?」
 へらへらとのんきな口調だった。
「とりあえず、学校戻ったらいの一番に謝りにいかないと、だよねえ。静雄くんはそういう時、どうしてたの」
「呼び出し食らうまで放置」
「あはは、不良だー」
 ひとしきり笑ってしばらくした後、めんどーだーと投げやりに呟くのが聞こえた。また肩にぐりぐりが再開されて、静雄はひっつくなと声を荒げるが、それも叶わず。
 結局、学校に戻るまでの小一時間、それらしい会話は一切なかった。言葉を交わすのは、ひたすらがぐりぐりするのを、静雄が嗜めるという時だけだった。けれども後10分ほどで学校に着くだろう区域まで来ると、走りつかれたのか、は眠りこけていた。暢気なものだとため息をついたが、それでも静雄はを起こさないように、歩調を少し緩めた。
 そうして、校門を潜り抜け学校の敷地内に戻ると、なんだか無性に生きた心地がして、静雄は安堵の息を吐いた。グラウンドに目を向ければ、まばらに運動部の生徒が残っていた。野球部だろうか、地ならしをしている下級生が、ちらちらと静雄たちのほうに視線を向けてくる。静雄はぎくりと身体を震わせたが、背中のはうんともすんとも言わない。すうすうと微かな寝息をたてている。
 向けられる視線が居た堪れず、逃げるように昇降口のほうまで向かうと、
「遅かったね」
 下駄箱の傍の段差に、新羅が腰を下ろしていた。手には文庫本がある。意外な光景に、面食らってしまう。
「まさかここまで待たされるとは思ってなかったよ、ハハ」
 遠まわしに責められているように思えたが、それでも新羅の口調は優しいものだった。そもそも新羅が本気で怒った場面など、静雄は見た事もないし、皆目見当がつかないのだが。
「……悪い」
 ようやく搾り出した声は微妙にかすれていた。
「で、さんは?」
 新羅は言いながら立ち上がり、ひょいっと静雄の背中を覗き込んだ。それから間もなくして、呆れたように溜息を吐く。
「とりあえず、なんでおんぶなんかしてるんだい。何したのさ」
「走り回った。で、こいつ、途中で立てなくなってよ」
「ああ、なるほど。静雄のあまりの怖さにようやっと気付いて腰が抜けたんだね」
「殴るぞテメェ。……いや、なんかな、足が変だって」
 ふむ、と新羅が頷いた。顎に手を当てての足へ視線を向ける。
「とりあえず、静雄はさんの足、殴ったり蹴ったりしたのかい?」
「してねえよ」
「そりゃあよかった! まあ、さん起こして、保健室コースがいいかな」
「そう、だな。うん」
 静雄は頷いて、軽くの身体を揺さぶった。
「おい、着いたぞ。起きろ」
「……んぅ」
 背中で微かに、が身じろぎする気配が感じられた。それ以降反応はなく、また揺さぶりをかけないと駄目かと静雄が思ったとき、がそうっと静雄の背中から身体を離した。温もりが離れたせいで、僅かに背中が寒くなる。
さん、起きた?」
 新羅の発言をきっかけに、無言の空間が生まれたが、
「……お、はよう、ございます」
 ひどくぎこちない感じのの声が、すぐ後ろから聞こえてきた。は静雄の肩に手を置きなおし、居心地悪そうに右足をゆるくぷらぷらさせる。
「静雄くん、ゴメン。その、お、おろしてもらっても、いいかな」
「おう」
 静雄はゆっくりその場にしゃがみこみ、の足が床についたのを確認して、の足から手を離した。少しふらついただったが、それでもゆっくりとした足取りで静雄から離れる。立ち上がって後ろに立つを見れば、無表情に自分の足を見つめていた。
 一応立ってはいるものの、さっさと保健室に行ったほうがいいかもしれない。静雄はそう考え、靴を脱ぎ上履きに履き替えた。するとも静雄の後を追うように靴を脱いで上履きに履き替えたのだが、どうにも所作がぎこちない。歩き方も、びっこを引いて歩く、という感じだ。
「やっぱこれ、保健室コースだね」
 新羅がしみじみと言う。が転んだところを見たわけでもないのに、そうすぐに判断するのは、医者の息子ゆえだからだろうか。静雄はぼんやりと感心しながら、うう~と冗談めかして唸るに視線を向けた。こういう時まで誤魔化さなくてもいいと思うのだが、恐らくこういう事をするからこそのなのだろう。
「歩けるか?」
「うむ!」
 が仰々しく頷いた。本当にわざとらしい。静雄は盛大に嘆息しての腕を取った。
「うんていったじゃんかあ!」
「うるせえ。さっさと歩け」
 の腕を自分の肩に回そうか迷ったが、身長差を考えると、逆に歩きづらくなるような気がしたので、やめておいた。
 昇降口から程なくして、というくらいの位置にある保健室だが、到達するのにかなり時間がかかった。保健室の中は明るく、まだ養護教諭が残っていることを表していた。もしいなかったら職員室にまで呼びに行かなければならなかったので、その事に少しほっとしつつ、静雄は保健室のドアをノックした。返事も待たずにドアを開ける。
、どうしたの?」
 保健室に入るなり、養護教諭が目を丸くして、パッと席を立ち上がった。それから静雄の姿を見て、やや眉をひそめたが、が否定するようにひらひらと手を振るので、養護教諭の表情は僅かに柔らかくなった。
 静雄が恐る恐るをソファに座らせると、が安堵の息を盛大に吐く。
「何したのよ」
「走りました」
 養護教諭が呆れ顔になる。
「どのくらい?」
「20分くらい。3~4キロかな?」
 が静雄を見上げ、同意を求めてくるので、静雄はとりあえず頷いておいた。
「ちょっといい?」
「はい」
 養護教諭がソファの傍にしゃがみこむ。迷うことなく左足を掴むと、それを持ち上げ、膝を軽く押しながらゆっくり伸ばす。の足が水平になる直前、
「いだだだあっ!!」
 その声は冗談でもなんでもない、素で痛がる声だった。養護教諭は静かな溜息をつくとの足を下ろし、それから新羅と静雄に視線を向けた。
「二人とも、教室に戻ってさんの荷物、取ってきてくれないかしら。制服は私が取りに行くから」
「はい。わかりました」
 意味を図りかねる静雄の傍で、新羅がそう返した。
「行こう静雄」
「え? あ、……お、おぅ」
 新羅に手を引かれるがまま、足を踏み出す。そうして首だけで振り返り、ソファに座るを見たが、うつむきがちになった後頭部しか見えなかった。
 ドアを閉め、どこか遠くで聞こえる喧騒を耳にしながら、静雄と新羅は二人そろって、自分の教室へと向かう。
「なあ新羅」
「うん? なんだい?」
 教室に向かう途中、少し前を歩く新羅に声をかけると、新羅が首だけで静雄のほうを振り返った。
「あれ、俺のせいか」
 しばらく間をおいて。
「どうだろうね。でも多分、さん、もともと膝、悪くしてたんじゃないかな。だってもうすぐで陸上部の大会あるだろ? 他の三年部員は出るのに、さんだけ退部して出ないわけだしね」
 ――多分、去年の事故で、左膝――だよね? やっちゃったんじゃないかなあ。新羅が他人事のように呟く声が、人気のない廊下に反響した。やっちゃった、と意味を濁したその言葉だったが、静雄にはすぐに理解できた。新羅はふうと息を吐いて、窓の外に目を向ける。
「よく『健康は足腰から』とか『老いは足から』とか言うだろ? 人間にとって足ってのはそのくらい大事で、特に膝なんか痛めるとさ、治るのに時間かかるんだよ。普通に歩けるようになっても、さ。自分の身体の状態は自分が一番わかってるだろうに、その状態で走ったわけだ。静雄は気にする必要ないと思うけどね」
 一瞬何の意図で言っているのか静雄にはわからなかったが、最後に付け足された一言のおかげで、ようやっと、静雄は新羅に慰められているのに気付いた。
「つーか、追いかけっこしたのは、何が原因なんだい? 少なくとも僕は、君が非力な女の子に暴力振るうほどの阿呆だとは思っていないつもりだったけど」
 言いながら静雄を見つめる新羅の視線は、責めるわけでもなく、軽蔑するわけでもなく、ごくごく普通の眼差しだった。新羅に言われるがまま、静雄は今日の記憶を掘り返し、そうして新羅いわく『不倶戴天』の仲である胸糞悪い顔を思い浮かべ、静雄は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「なーるほどねえ。臨也か」
 その表情で察したのか、新羅が自嘲しながら呟いた。ほんと君達ってめんどくさいよねえ、なんて呆れたように言いながら、新羅が教室のドアを開ける。いつの間にか、気がつかないうちに教室までたどり着いていた事に静雄は呆然としながらも、少し肩を落として教室の中へ足を踏み入れた。
 はすでに荷物を纏めていたらしく、新羅は一度机の中を覗き込んだ後、迷うことなく机の脇にかけられたカバンを手に取った。それ以外に荷物を持ってこないのは新羅も静雄もわかっていたので、そのまま二人して教室を後にする。
「その落ち込みようから察するに、あいつに何か言われたのかな」
「落ち込んでねぇよ」
「落ち込んでるじゃないかあ痛たたたああああっ! ちょ、ま、これ、ほんと痛いから!! 頭蓋骨砕ける! 砕けるってえええ!!」
 新羅の奇声に免じてか、静雄はすぐに新羅の頭から手を離した。短い時間ではあったが、静雄の手から開放され、新羅はほっと胸をなでおろしながらも、静雄の手が届かない距離まで小走りで移動し、
「ま、兎にも角にも、気に病まないのが一番だよ。静雄が落ち込んでいる姿は、はっきり言って、気持ち悪いからね」
 励ましているのか貶しているのか、冗談めかして言う新羅に、静雄は「おう」と返事をするしかできなかった。新羅はそんな静雄に、何か物言いたげな視線を向けたが、ややあってからふうと一息ついて、ゆっくりと視線をそらした。
 会話もなく保健室に戻ると、養護教諭の姿はなかった。恐らくの制服を取りに更衣室に向かったのだろう。その養護教諭の代わりとしてか、何故か担任教師が保健室にいた。ソファの傍に跪いて、の左膝に手を当てている。何か小声で会話しているが、聞き取ろうとするよりも先に担任教師が静雄たちに気付き、口を閉ざした。当人以外には聞かれたくない話、だったのかもしれない。
 立ち止まったままの静雄を置いてけぼりに、新羅がソファの近くに寄って「さん、これ、カバン」と通学用カバンをに差し出した。が申し訳なさそうに笑って「ありがとう新羅くん」と受け取る。その間、静雄はただ黙って、その光景を見つめていた。
 がカバンの中から携帯を取り出した。カチカチとボタンを押す音がしばらくの間聞こえてくる。手持ち無沙汰に携帯を弄っている風にも見えないし、メールでも打っているのだろう。そう静雄がぼんやり思った頃には、は携帯をカバンに閉まっていた。はあ、とため息をつくのと同時に肩を落として、それから静雄のほうを振り返った。
 目が合う。
「しず」
 がそう言いかけた途中で、保健室のドアが開いた。女子用の制服を片手にかけた養護教諭が入ってくる。はその姿を捉えるなり、参ったなあといった風に視線を下げる。
、行くわよ」
 養護教諭の呼びかけに、ややあってから。
「はあい」
 少し不満げに返事をして、がゆっくり立ち上がった。ひょこひょことした足取りで静雄の横を通り過ぎる際、は苦笑ともとれる笑顔を向けてきた。そんなのなんともぎこちない歩き方に見かねたのか、養護教諭が呆れ顔で片手を掴み、支えられる格好になる。
「二人とも、またね」
 入り口の近くで一旦立ち止まり、空いた片手でひらひらと手を振る。新羅が「うん、また明日」と明るい調子で言ってからようやっと、静雄は「おう」と、それだけを返すことができた。それでも新羅とは対照的な、醜くも掠れた声ではあったのだが。
 静かに引き戸が閉まる音がすると、保健室の中は一気に静かになった。途端にどっと疲れが押し寄せてきたかのように感じられて、静雄は肺に溜まった息を静かに吐いた。身体の内側に苦いものが広がっていくのを感じる。
「平和島」
 と、いきなり、担任教師に名前を呼ばれた。
「……え、あ、ハイ。何すか」
 担任教師のほうに振り返ってからの返事は、声を発した当人の静雄からしても、やや情けないと思える声だった。
「体育祭のプリント、どうした?」
 プリント――と頭の中で反芻し、あの申し訳程度の調査票の紙の事だと合点が言った。そういえばあの紙はどこへやっただろうかと思い返しながらも、ジャージのポケットに手を突っ込んでから「あ」と声を上げた。引っ張り出す。綺麗に四等分に折られた紙を広げると、担任教師は安堵した様子で表情を緩めた。
「ああよかった。が持ってっちまったらどうしようかと思った」
「……それならそれで、明日とかにでも提出すりゃいいんじゃないすかね」
「まあそうなんだけどよ、ほら、一応今日中に提出だしな」
 ハハ、と担任教師が笑うので、静雄はとりあえず適当にうなずいておいた。そうして新羅のほうに顔を向け、
「これ出してくるから、先に教室戻っててくれ」
「ああ、うん。早くしてくれよ」
 はあ、と投げやりな感じで嘆息し、新羅はとぼとぼと保健室を出て行く。おそらく、待ちくたびれて疲れたのもあるだろうし、すぐにでも家に帰りたいのかもしれない。先に帰ってろ、と言えばよかっただろうか――なんて後悔しながら、静雄も保健室を後にした。
 静雄が廊下に出ると、続いて担任教師も保健室から出てきた。そうしてポケットから鍵の束を取り出し、保健室のドアに鍵をかけた。鍵がかかっているのを確認した後、一つ満足そうにうなずき、静雄と同じ方向に歩き出す。どうやら目的地は静雄と同じ職員室のようだ。なんだか嫌な予感がするな、と思った次には、後ろから「平和島」と再度名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
 仕方なく立ち止まる。
「何すか」
「お前はの方はどうだ、何か変なとこは?」
 怪我をしてないか、と聞いているのだろう。
「……特に何も」
 身体が頑丈すぎる静雄のことなど知っているだろうに、そう聞いてくるのはある種の嫌味だろうか。とまで考えてからそれを振り払い、なんとか声を絞り出すと、担任教師は「そりゃあよかった」と屈託のない表情を浮かべた。それが心配している以外に他意はないことを表していて、静雄は卑屈になりすぎている自分に気づき、内心呆れるほかなかった。
 しばらく無言のまま歩きながら、そういえばこの教師は陸上部の顧問だったか、なんて事をぼんやり思い出す。
「あの、先生」
「うん? どうした」
 一瞬、何と聞こうか迷ったが、そもそも考えることに向いていない静雄だ。素直に、率直に尋ねることにした。
が推薦入学だって本人から聞きましたけど……、あいつ、陸上部ではどのくらい速かったんですか」
 担任教師は一瞬面食らったような顔をしたものの、それからしばし考え込んだ末。
「部内じゃ中の上だな。地区大に出るか出ないかってとこで……つーかお前、全校朝会で表彰式とか見てただろ? あいつ何回か表彰されたんだぞ」
「え、……あー」
 正直なところ、静雄は、全校朝会などだるくて、殆どサボってばかりだった。たとえ出たとしても、ステージ上に立つ教師や、生徒の話に耳を傾ける気なんて毛頭もなかった。部活動の表彰式なんかなおさらだ。まるで興味もなかったので、どんな人がどういうことで表彰されたとか、静雄はまったく覚えていなかった。
 そんな静雄の事を察したのか、担任教師は微苦笑を浮かべたあと、「まあ興味ないもんには、大体そんなもんだよな」とよくわからないフォローのようなものを入れてくれた。
「まあ、足の速さは中の上だったが、スタートだけは他より頭一つ抜きん出てたんだよ」
 むしろ一番だったなあ、なんて担任教師がぼやくのに、静雄は「はあ」と溜息のような返事を返した。
「あの性格だし、思い切りがいいんだろうな。時々こりゃフライングじゃねーかってくらい早く飛び出すんだけど、でも本番じゃ何故か引っかかったことがねえんだよ」
 ありゃ天性のもんだな、と付け足して、それから僅かに苦笑を浮かべた。まるで何かを惜しむような表情だった。
「で、聞きたい事はこれだけか」
 しかし、そんな表情も、その言葉が発せられると同時に元に戻ってしまった。問われた静雄は一瞬面喰い、あたふたと思考を巡らせた末、何故かはよくわからないが、ノミ蟲と称する奴の顔がぼんやり浮かびあがって、静雄は無意識に息を飲んだ。
 考えるな、と自己暗示してみるものの「内申とかの餌に釣られて」という言葉が鮮明に浮かび上がってくる。何でこんな事を思いついたのだろうか。もしかしたら聞きたいのだろうか、なんて考えた末、静雄は思わず、アホか、と心中で自分を罵った。そんな事を聞けるほど、静雄は図々しくできていないし、またある種の小心者だという自負があった。それに、自分に構って内申点があがるわけがないと漠然とした確信がある。――のだが、それでも完璧に否定できない自分もいて、静雄は奥歯をかみしめる。
 静かに深呼吸してようやっとのことで、静雄は言葉を絞り出した。
の左足のあれって、事故のせいですか」
「ああ、膝の骨にヒビ入っちまってな……」
 と、言いかけた傍から、担任教師は「おっと」と慌てた風に呟いて、口を閉ざした。静雄は怪訝に思ったのだが、辺りをよくよく見れば、もう職員室の近くまで来ていた。
「まあこれ以上は、本人に聞け、な。俺がどうこう言える立場じゃねえし、本人がいない場でこういうの勝手にべらべら喋られると誰だって嫌だろ」
 静雄はすぐに納得した。本人がいない場での噂話というのはあまりよろしくないと、身をもって実感していたからである。
「わかりました」
 静雄がそう返すと、担任教師は満足そうに笑って、先に職員室に足を踏み入れた。静雄がいるせいだろうか、ドアは閉めずに自分の机の方へ向かっていく姿をぼうっと見つめながら、静雄はとりあえずドアをノックして、失礼しますと一礼した後職員室に足を踏み入れた。
 時間的なせいもあってか、昼間の職員室と比べれば断然静かだ。それでも居心地が悪い事には変わりない。不躾な視線を向けてくる教師に憂鬱な気持ちを抱えながらも、実行委員の担当教室の机に向かう。無人のそこに、手にしていたプリントをそっと置いて、静雄は逃げるように職員室を後にした。
 半ば小走りになりながら、静雄は自分の教室に戻った。そこにはすでに新羅がいて、暇つぶしのためか、自分の席に座って文庫本を読みふけっている。机の上には鞄が置かれていて、もう変える準備は万端といったところだった。
「悪い」
 新羅の背中にそう声をかけると、やや間をおいてから「いや」と声が返ってきた。怒っている調子ではなかったが、何を考えているかよくわからない新羅のことだ、急ぐに越した事はないだろう。ジャージを脱いで制服に着替え、畳んだジャージをロッカーに乱暴に突っ込んだ。自分の席に戻り、何か持ち帰る物はあっただろうかと首をかしげると、
「数学、宿題出てたよ」
「……あ、そうか」
 文庫本に視線を落したまま、新羅が言った。内心感謝しながらも、数学のノートと教科書を引っ張り出し、鞄に突っ込んだ。どこら辺をやってくればいいのか宿題の範囲はさっぱりわからなかったが、後で家に帰ってから新羅にでも聞けばいいだろう。
「それじゃ、帰ろうか」
「おう」
 文庫本を鞄にしまい、新羅が席を立って歩きだす。その後ろについていきながらも静雄は、誰もいない教室の中、自分の席の前――誰も座っていないの席を首だけで振り返ったのち、静かに教室のドアを閉めた。
 新羅と二人だけで帰るというのは久しぶりのことだった。思えば、ここしばらくはずっとも加えて三人で一緒に帰っていたように思う。とはいえ、家の方向が違うので、ほんの数分の間だけだったが、それが当たり前になりつつあった。
 少し前を歩く新羅を見るが、別段変わった様子はない。いつも通り、といった感じだ。恐らく、がいてもいなくても、新羅はこんな調子なんだろう。自分はどうだろうか、と静雄はしばらく考え込んだ末、こんな事を考えている時点でいつも通りではないな、と自嘲を浮かべた。
 こうやって二人で帰るのはある種のいつも通りだったから、久しぶりにこういう状況になったところで斬新さはまったくない。ここに、が加わった姿を想像してみても、やはり斬新さというか、そういったものは感じられない。かといって、がいてもいなくても同じかと問われれば、静雄は首を傾げざるを得なかった。どっちがいつも通りなのだろうか。考えて、静雄はゆるく首を振り、それを振り払った。
 新羅に目を向ければ、口元を隠さずに小さくあくびをしている。その姿は、実にのんきなものだった。


 次の日の寝起きは最悪だった。いろいろ考え事なんかしたせいでろくに眠れず、おまけにうつらうつらし始めてきたのが朝日が昇り始めたころだった。眠れたのはほんの一時間程度だろう。
 部屋のドアをノックする音とともに「いい加減におきなさい!」と少し怒ったような母親の声でようやく目を覚まし、寝不足で鈍く痛む頭を抑えながらのろのろ身体を起こした。枕もとにおいたはずの携帯を手探りした後、床に落ちている携帯を拾い上げて時間を見れば、いつもよりも30分も遅い目覚めだった。
 慌ててベッドから飛び降り、一階の洗面所に飛び込んだ。嗽をし、顔を洗ったあと自室に戻り、急いで制服に着替える。荷物をまとめて――とはいってもそんなにはないのだが――居間へと飛び込む。すでに父親は仕事に出ている時間だったので、姿は見えなかった。
 もう学校に行く支度をすべて済ませたらしい弟がソファに座って、黙ってテレビの画面を見つめていた。そんな幽だったが、静雄が入り込んでくるなりそっちに目を向け、ぼそぼそと「おはよう」なんて挨拶をしてきた。静雄もあくびをかみ殺しながら「はよ」と挨拶を仕返す。
「お兄ちゃん、ご飯はどうするの?」
 台所のほうから、母親の声が聞こえてきた。静雄は時計を見上げながら少し考え込み、
「食う」
 食卓に伏せたまま置かれている茶碗を手に取り、炊飯ジャーから適当にご飯を盛る。席につくと、ちょうどよく母親が味噌汁のお椀を持ってきてくれた。
 弁当のおかずのあまりと一緒にご飯を食べていると、静雄の目の前で、母親が静雄の弁当をハンカチで包み始める。弁当を包むくらいは自分でやりなさい、と母親に言われるがまま、いつも自分でやってきた事だったが、遅刻しそうな静雄に見かねたらしい。
「あ、ごめん」
「いいから、さっさと食べちゃって」
 母親の声にうなずいて、ご飯をかきこむ。
 いつもより、どことなく綺麗に包まれた弁当を見ながら、味噌汁を流し込み、「ごちそうさまでした」と言いながら食器を重ねて持ち、席を立った。台所に向かい、流しに食器を置く。食器棚からコップを取り出し、ステンレスの台に置いてから、冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出した。コップに注いだあと、元あった場所に牛乳パックを戻し、冷蔵庫を閉める。ほんとは牛乳パックに口をつけて飲みたいのだが、そんな事をしたらもれなく「行儀が悪い!」と怒られるので、最近はほぼやらなくなってしまった。
 牛乳を飲んだ後コップを流しに置き、洗面所に行って歯を磨く。その途中、幽の「いってきます」という声がしたので、歯を磨いたままそれに「いってらっしゃい」と返した。口をゆすいで居間に戻り、ソファに置きっぱなしのカバンをひったくるように手に取り、玄関に出て靴を履く。
「いってらっしゃい」
 背後からの母親の声に、いってきます、とそれだけを返して、静雄はドアノブに手をかけた。
 学校までの道のりをとぼとぼと歩きながら、静雄は通り過ぎる人に何度か目を向け、それから盛大にため息をついた。
 ――正直なところ、昨日の件があったせいで、とどう接したらいいのかわからなかった。
 静雄の寝不足の原因もこれだ。考えるたびに気分はどんどん沈んでいき、憂鬱になっていく。それでも学校をさぼったりしなかったのは、ひとえに両親のためであった。
 昨日、が転んだ後。腕を掴んだときの反応を思い出すだけで、ひどく嫌になる。もし、学校に行ってが普通に接してきたとして、それでもふっとした拍子にそんな態度をとられたら、なんて想像し、静雄はもう一度、盛大に溜息をついた。
 つくづく自分は面倒な人間だと思った。おまけに普通じゃない。だからこそ人間関係も疎かにしてきたせいで、こういった時の対処法がわからない。この場合、誰かに相談すればいいのかもしれないが、そもそもどうやって相談したらいいのかわからないから本当に面倒だ。
 まさか反吐が出るほどのノミ蟲の言葉に、こんなに心乱されるとは思っても見なかった。ノミ蟲の口から出た言葉だし、正直なところ胡散臭いとは思うのだが、利用しようと近づいてきた人間はごまんといたし、――だからこそ、どうしても否定できない自分がいる。たとえ何が正しくとも、間違っているのはいつも自分のほうなのだ。だから、ノミ蟲の言葉の方が――、そこまで考え、慌てて振り払う。
 本当に、どうしたらいいのだろう。
 そんな事を悶々と考えているうちに、いつの間にか学校の校門へとたどり着いてしまった。けれども当たりは閑散としていて、誰もいない。のろのろと顔をあげて校舎の中央にかかった時計を見て、ホームルームの真っ最中なのだと気がついた。完璧な遅刻である。
 また怒られるのかと思うと、ふっと吐息のような溜息がついて出た。
 下駄箱で靴を履き替え、静まり返った廊下を進む途中、チャイムが鳴り響いた。ホームルーム終了の合図だった。ともすると、にわかにどこからか人の声がし始める。やや騒がしくなりつつある廊下を進み、そうして自分の教室へと足を踏み入れた。何人かが静雄のほうに顔を向けたが、静雄は気にせず真っ先に自分の席に向かう。
 目の前の席は、誰もいなかった。カバンもない。
 思わず息を呑みながらも、静雄は自分のカバンを机の脇にかけた後、椅子を引いて腰を下ろした。隣の新羅は相変わらず本を読んでいたが、静雄の物音に反応して顔を上げた。おはようと声をかけてくるので、静雄も挨拶を仕返すと、新羅はの席へ目を向けて。
さん、遅刻だって。病院行ってからくるんだってさ」
 休みではないらしいことに胸を撫で下ろし、病院という言葉で一気に落とされた気がした。
 それから一時間目の授業はかろうじて出たものの、集中なんてできるわけもなく。一時間目終了後の休み時間になってから、静雄は勉強道具をすべて机の中にしまうと、おもむろに席を立った。新羅がちらりと視線をよこしてきたが、特に何を言うでもなく、次の授業の準備をし始める。それを横目に見た後、静雄は教室を後にした。
 屋上に行こうかと思ったが、最近の屋上事情は生徒どころか、教師のたまり場になっていた。授業中は、暇な教師がタバコを吸いに行く場所となってしまったのだ。そんな所に行くなんて、わざわざ虎穴に入りに行くようなものだ。生憎自ら怒られに行くようには出来ていない。静雄はあくびをかみ殺しながら、とりあえず特別教室が多く並ぶ中央校舎のほうへ向かった。
 使用頻度のあまりないLL教室のドアに触ってみたが、鍵がかけられていた。当たり前だな、と内心一人ごちながら、隣の図書室のドアに手をかけると、意外にもカラカラと音を立てて難なく開いた。
 おそらく、誰かが授業に必要な辞書でも借りに来て、そのまま鍵をかけ忘れたのかもしれない。よくあることだ。ちょうどいい、と思いながら、静雄は図書室に足を踏み入れた。後ろ手にドアを閉め、室内に誰もいないことを確認してから、ドアに鍵をかけた。
 手ごろな椅子に腰掛け、組んだ腕を枕代わりにテーブルの上に突っ伏した。はあ、と盛大に息をついてようやっと、なんだか生きた心地がしたようだった。
 チャイムが鳴り、二時間目開始の合図を告げる。このまま寝てすごそうかと思ったが、静雄はふとあることに思い至り、のろのろと立ち上がった。ずらっと並んだ棚を見て、口の端に苦いものが浮かぶのを感じたが、とりあえず探すだけ探してみようと、「学校資料」の札が下げられた棚の列へ足を進めた。
 見たとこ分厚くて、古臭い本ばかりだ。背表紙に年表という金色の文字が印された黒い本をとってみたが、古書独特の埃臭さに加え、ページが黄ばんでいて開く気すら起きてこない。静雄はそれを元の場所に戻すと、奥の棚へと進んだ。
 同じ色のスリーブケースに入れられた上製本がずらっと並んでいる。背表紙に印されたタイトルは西暦と学校名だけのごくシンプルなもので、見るからに卒業アルバムだという事がわかった。同じ年のアルバムは大体2冊以上揃えられていて、それが十数年分にも渡っているのだからなかなかの量があった。
 とはいえ、年代別に並んでいるのだ。探すのは簡単だろう。ざっと見たところ、左上に行くほど古く、右下に行くほど新しい、そんな並び方のようだ。棚の中段、並べられた本が途切れているところに目をやり、背表紙を見る。一昨年のものだった。去年のアルバムはどこだろうかと探すが、不思議なことにどこにも見当たらない。
 基本的にこういった資料は貸出禁止のはずなので、おそらくこの棚にあるはずだろう。そう思いながらよくよく見てみれば、年代が近くなるにつれ、本の並びが年代関係なくとっちらかったようなものになっているのに気がついた。おまけに上下逆に並べられているのもある。
 図書委員仕事しろよ。静雄は内心一人ごち、僅かに舌打ちをしてみせた。はあ、と嘆息したのち、面倒臭そうに後頭部をかく。背表紙に指を当てながら、一冊一冊順に年代を確認していった。

 結論。見つけた。30分もかかった。ちなみにアルバムを見つけたのは「学校資料」の棚ではなく、なぜか「人文社会」と札の下げられた棚だった。
 人文社会の棚も、本当に滅茶苦茶に並べられていた。学校資料の棚より汚い上に、何故かはらぺこあおむしやら週間少年チャンピオンがあった。人文社会にこれらがどう関係しているのか、静雄には到底理解不能だった。
 恐らくここは図書室とは名ばかりで、もはや物置と呼んでも等しいくらいだ。図書委員は本当に仕事してないんだな、と半ば呆れつつ、静雄は近くの席に腰を下ろして、手元のアルバムをケースから取り出した。
 真新しい、光沢感のある表紙が、窓から差し込む日光を反射する。表紙を開くと、ほのかにインクの匂いがした。
 校舎の全景、校長のどうでもいいコメントが見開きで載せられているその次、全教員の顔写真の後、クラスごとに全員の顔写真が載せられたページがずっと続いている。
 静雄にとっては見たことのない――おそらく何度か目にしているのかもしれないが、それでも知らない顔ばかりだ。当たり前だろう。卒業した生徒のことなどさして興味もないのでパラパラとページをめくっている最中、ふと、見慣れた担任教師の顔が飛び込んできた。そういえば静雄の今のクラスの担任は、のときと一緒だったか、と思い出す。
 相変わらず、ページの中に並んだ顔は、見慣れないものばかりだ。とりあえず、よくわからないので読み飛ばすことにした。ぱらぱらとページをめくり、運動部、という見出しで手を止める。陸上部の写真を探し出そうとして、別にが映っているわけでもないのに、と頭を振って否定してみたが、結局陸上部の集合写真を見つけてしまった。やはり静雄にとっては縁のなさそうな顔がずらっと並んでいる。静雄はじっとそれを見つめた後、ふっと息を吐いて次のページをめくった。
 修学旅行、体育祭、文化祭、クラスの中の授業風景。いろんな時期の写真が、ごちゃまぜに並べられているページの中、小さく載せられた写真の奥に、どことなく見慣れた顔を見つけ、静雄は「あ」と小さくぼやいた。
 男子生徒数人が中央でピースしている写真――恐らく文化祭の前準備で撮ったのだろう、乱雑に散らかった教室の中、写真の隅っこ、看板作成中だろうと思われる女子の一群。その中に、赤いペンキのついた刷毛を片手に、床に座り込んで、向かい側に座る女子生徒に笑いかけているを見つけた。
 髪の毛は今より短いが、それでも陸上部にしては長いほうだ。おまけに誰かつけたのか、はてまた自分でつけたのか、ほっぺたに青色がひっついている。目を凝らすと、向かい側にいる女子生徒は青いペンキのついた刷毛を持っているのがギリギリで映りこんでいた。
 冷ややかな顔立ちの、黒髪ショートカットのその生徒。くすりと静かな笑い声が聞こえてきそうなその表情は、向かいののアホ面とはずいぶん対照的だ。の表情はすごく楽しそうで、この時からこんな風に笑うんだな――なんて感想を抱きながら、静雄は妙に引っかかるものを感じ、首をかしげながらも陸上部の写真が載っているページへ戻った。
 陸上部の集合写真の端っこに、その女子生徒はいた。笑ってはいるものの、その顔はどうにもぎこちないように思える。の映っている写真と見比べた後、静雄はクラス別生徒写真の、あの担任教師が載っているページを開いた。一番左上の生徒から順に見ていくと、案の定、その女子生徒が載っていた。写真の下には生徒の名前が記されていた。五代暁子というらしい。
 五代という苗字、どこかで聞いたような気がしないでもない。しばらく考え込んでみるが、さっぱり思い当たらない。片手で額を押さえ、うーんと唸り声を上げるのとほぼ同時に、授業終了のチャイムが響き渡った。
 しばらくしないうちに、廊下のほうから段々と、騒がしい声が聞こえ始める。
 静雄はとりあえず、アルバムをケースにしまい、席を立った。学校資料の棚へ向かい、一番新しい側にそのアルバムを並べる。
 と、いきなり、図書室のドアがガチャガチャと音を立てた。静雄の肩が驚きでびくりと大きく跳ねる。恐る恐る棚から顔を出してドアをのほうを見てみれば、小さな人影が二つ、ドアのすりガラスに映りこんでいた。ガチャガチャという音がやむと「あかないねー」という声が聞こえてくる。
 このままやり過ごそうか迷った末、仕方なく静雄はドアに向かった。鍵をはずし、ドアから離れようとするよりも先に、静かにドアが開く。「何で鍵なんかかかってんの」と不満そうに愚痴を零しながら入ってきた女子生徒は、静雄の姿を捉えたとたん驚愕に目を見開いた。身を寄せ合って固まっている。
 上履きの色から察するに、二年生だろう。そんな女子生徒二人としばし見詰め合い、何を言ったらいいのかわからず、あー、と気まずそうにぼやくと、女子生徒のうち一人が小さく肩を震わせた。
「……悪い」
 吐息に混ざって、そんな言葉がついて出た。段々といたたまれなくなってきてしまい、足早にその場を離れる。
 二人に背を向け進んだ先は、何故だかよくわからないが、あの「人文社会」の棚だった。仕方なしに奥に進み、しゃがみこんで適当に棚の本を物色し始めると、微かに足音が聞こえた。小走りするような音に釣られ、顔を上げてカウンターのほうに目を向けると、女子生徒の片方がカウンターに立っていた。返却用紙に記入後、あわてた様子で手近な本棚に文庫本を突っ込み、入り口で待っている女子生徒とともに図書室を後にする。
 ぴしゃり、とドアが閉まると、図書室は静寂に包まれる。一人取り残された静雄といえば、呆然とドアを見つめた後、情けなくも肩を落としたのだった。
 ああいう態度を向けられ、傷ついていないといえば嘘になる。はあ、と一つため息をつくと、三時間目開始のチャイムが鳴り響いた。いつの間にか、廊下のざわめきも止んでいる。
 そういえば、三時間目の授業は何だっただろうか。思い出そうとしてみるが、しっくりくる授業が思いつかない。とはいえどうせ出ないのだ、気にしても仕方ないだろう。
 静雄はのろのろと立ち上がり、棚に乱雑に詰め込まれた本の中から例の週間少年漫画雑誌を手に取ると、後ろの棚にもたれかかるようにして、床に座り込んだ。やや埃っぽくて制服が汚れるかと気になったが、ためしに指で床をなぞっても埃がつくことはなかった。意外にも掃除はちゃんとやっているらしい。
 ページをめくる。あまり、というか全く読んだことのない、静雄にとっては馴染みのない雑誌ではあったが、暇つぶしにはなるだろう。くあ、と欠伸をしてから、またページをめくる。
 雑誌の中ごろまで読んだ末、話の途中から読む漫画ほどつまらないものはないな、と静雄はぼんやり考えた。それでもページをめくる手は止まらないから、不思議なものだ。
 こうやって、授業をエスケープして、――現実逃避したところで、何かが解決するわけではない。それでも、そうせざるを得ないのは、弱いからじゃないか。内心自虐めいたことを考え、静雄は僅かに自嘲した後。
 ふいに、どこからか物音が聞こえてきたような気がしてきて、僅かに顔を上げた。
 しばらく耳を澄まし、――吐息、だろうか。微かに、自分のものではない音が聞こえる。
 図書室に自分以外の誰かがいる。漠然とした不安を抱きながらもきょろきょろあたりの様子を伺おうとして、静雄はすぐにその姿を見つけた。
 3メートルほど先、棚の列の入り口にて、赤いジャージに身を包んだ誰かが、ほんの少しだけ顔をちらつかせている。こっちの様子を密かに覗き見ている、そんな風に取れる。だが生憎、窓から差し込む日光のせいで影が伸びているせいで、静雄から見ればばればれだったのだが。
 静雄と目が合うなり、ピャッと棚の陰に隠れてしまうものの、しばらくしないうちにまた顔を覗かせ、静雄が呆れ顔で見つめているのに気がつくと、再度棚の影に身を隠す。
 およそ予想はついていたが、それでもやっぱり、無意味な行動を目の当たりにされると、やっぱりか、という落胆にも似た感情は消えない。
 参ったな。静雄は内心ぼやいて、無言で顔をそらした。手元の漫画雑誌に視線を落とすと、しばらくして足音が近づいてくるのがわかる。
「何読んでるの?」
 その声は静雄の耳にはひどく馴染んだもので――やっぱりだった。
 静雄は無言でやり過ごそうとしていると、ふいにが静雄のそばにしゃがみこみ、無遠慮に表紙のほうをめくり上げ、首をかしげて「うーん」と微妙な反応を見せた末に、手を引っ込める。
「さぼって漫画読んでるとは、いいご身分じゃないですかー」
 冗談っぽく笑いながら言われるのだが、それに合わせる余裕がなかった。
「お前だってさぼってんだろ」
 口から出た言葉は、思った以上に拗ねたような口調になってしまって、静雄は顔をしかめた。おまけに、が小さく笑うものだから、なおさら顔をしかめる。
「うん、そだねえ。さぼっちゃった」
 あはは、と笑いながらが言ったのを最後に、しん、と静まり返る。ページをめくる手を止めたまま、どうしたらいいのかと考えあぐねているうちに、先に口を開いたのはのほうだった。
「静雄くん」
 真面目な声を耳にした途端、無性にすわりが悪くなった。いや、意識しないように努めていただけなのかもしれない。はっきりとしたその呼び方は、相変わらずの有無を言わせないもので、静雄はのろのろと顔を上げてのほうを見た。
 真剣そうにも、不安そうにもとれる表情だったが、けれども相変わらず優しげなものを孕んでいるのは変わりない。
「一人で抱え込むの、よくないよ」
 ゆっくりと、尋ねるようでありながらも、諭すような言い方だった。
 唐突なその言葉に、静雄は最初意味を図りかねたものの、が何を言わんとしているか、ようやっとのことで自分なりに察すると同時に、静雄の中に怖気のようなものが生まれた。
 はどこまで理解しているのだろうか。静雄にとっては的確なところをついているようにも思えるし、ただ無意識に、の素から出た言葉のようにも思えて、――正直なところ、底が見えない。不透明だ。子供のようにわかりやすいからこそ、だから、いきなり変な行動を取るから、わかりにくい。
「……ね?」
 加えて、これだ。にっこり微笑んで、少し首をかしげての「ね?」。
 まずい、と静雄は瞬時に思った。危険だ。この「ね?」はかなり危険だ。他の人はどうだか知らないが、静雄にとっては、有無を言わせない何かがある。
 臨也の態度はすべてが胸糞悪いが、に対しては別の胸糞悪さを感じてしまう。にこにこ警戒を解くような笑顔を浮かべて手を差し伸べてくるものだから、どうしても縋り付いてしまいそうになる。そんな、甘ったれ気質が無性に情けなくて、同時に胸糞悪くてたまらない。
 現に今、の言葉に、情けなくも頷きかけてしまったのだから、尚更。
 まるで静雄の返答を待つかのように、伺うようにじーっと見つめられるものだから、居心地が悪くて仕方ない。顔をそらし、無言を突き通そうとしたのだが、熱い視線を向けられるのには変わりなく。
 結局、口を開いてしまった。
「別に、抱え込んでなんかねぇよ」
「うそつけー。そんな顔で言っても、説得力ないよー?」
 文字通りの、苦笑だった。
「うそじゃねぇよ」
「新羅くんから聞いたよ」
 固まった。
「学校きたら、静雄くんいなくて、でもカバンはあるでしょ? 二時間目終わった後、新羅くんに聞いたら、なんか悩んでるみたいだって。でも三時間目の授業、体育だったし、新羅くんいわく『僕はその場にいたわけじゃないからわからないし、当事者であるさんのほうが心当たりつくんじゃない?』って言われちゃって、それしか聞けなかったんだけどね?」
 新羅のモノマネがやけに似ていて、少しイラついた。
「校庭に出る途中、二年生の子がね、図書室で静雄くん見たって話してるの聞いたから。授業の途中で保健室行くって言って、図書室に来てみたらこれですよ」
 ふふーと笑う。のほうなんか見れるわけもなく、顔をそらしたまま俯きがちになると、しばらく間をおいて。ふう、と小さな吐息のようなため息とともに、が「あのね」と切り出した。
「静雄くんと一緒にいるのは、ただ単にそうしたいからだよ? 先生に言われたとか、そういうんじゃなくてね」
 の本心、なのだと思う。それでも、言い訳のように思えてしまうのは、ただ単に、静雄がひねくれているだけなのか。あるいはそうであってほしいと願っているからこそなのか。
「校内一? の不良の面倒見て、内申点があがるって、そんなばかげた事があると、静雄くんは信じてるの?」
 冷静に考えれば、そんな事があるわけがない。あってたまるものか。あったとしたら、それこそ問題になる。
 しばらく無言のままだったが、尋ねられたが故のある種の義務感から緩く首を振ると、がわずかに笑う気配を感じた。
「でも、折原くんの話を聞いて、あると思っちゃったわけだ」
 息を呑む。図星だった。――だから、ノミ蟲と称する臨也の苗字が出てきても、怯んだせいで怒りがわいてくることはなかった。
 そんな静雄の反応を見たが、冗談めかしたように「くやしいなー」と呟いた。何がくやしいのか、静雄には皆目検討がつかず、何が? と聞き返したくなる気持ちをぐっとこらえる。
「新羅くんが言ってたんだ。静雄くんは折原くんのこと、心の底から大嫌いなんだけど、折原くんの言葉を鵜呑みにしちゃうって」
 言葉の暴力、とまではいかないが、それでも静雄の内心にかなり響くものがあった。突き放され、見捨てられたほうがどれだけマシか、とすら考えてしまう。
「まあ、新羅くんが言うには、逆も然り、らしいけどね」
 あはは、と軽く笑う。場を和ませようとしているのかわからないが、それが無理だと悟ると、は一息ついて、んー、と小さく唸った末に。
「ね、静雄くん。余計なお節介かもしれないけど、一人で抱え込んでも、ほんとに、よくないよ? 抱え込むのに必死になってるうちに、いろいろ、見えなくなっちゃうから」
 本当に――本当に心配そうに言われる。おまけに、妙に泣きそうな声だから、余計たまったものじゃない。静雄はくそ、と心の中で悪態をついて、ゆっくりと顔を上げた。を見る。
「俺に、お節介やいても、何もいい事ねえだろ」
「ううん。そんな事ない」
 間髪いれずにきっぱりと、そういわれる。どういう確信があるのかは知らないが、それでも、悪い事はないと信じきったような表情をしているから、尚更むっとして言葉を続ける。
「でも、実際、昨日怪我させちまっただろ」
「怪我って……あれは私の責任だよ。静雄くんは、私の暴言に乗って、追いかけてきただけ。原因を作ったのは紛れもなく私。静雄くんは悪いことなんか、これっぽっちもしてないよ?」
 それでも心の収まりがつかないし、何より誰の目から見ても、悪いのは静雄のほうだと言われる妙な自信が、静雄にはあった。
 それに――あの転んだとき、の腕を掴んだ反応を思い出す。
「俺の事、怖くねえの」
 怖いんだろ、と断定的な言い方は、どうしてかできなかった。
「怖かったらここにいないよ?」
「言うだけは簡単だろうが。……昨日、転んだとき、俺が腕掴んだら、びびってただろ」
 やっぱりというか、怖がってただろ、という言い方は、どうしてもできなかった。
 んー、と小さく唸って、が考えあぐねると、
「あれは、静雄くんに腕掴まれて、怖かったわけじゃないよ」
「嘘つくな。変に気使って……」
「やっぱ走れなくなったんだなーって、それが怖かったの」
 静雄の言葉を遮るように言って、それから苦笑を浮かべる。
 この話はまずいと、静雄は一瞬で悟った。そうして後から、墓穴を掘ったと後悔する。
「ほんとはね、もしかしたら、とか馬鹿みたいに期待してたんだけど、やっぱ無理で。なんていうかその、現実を叩き付けられたみたいで、ちょっとね」
 はこんな、弱音を言うような性格だっただろうか。静雄はそう思ったが、ただ単に、はこういう面をもともと持ち合わせていて、たまたま、ふとした弾みで、静雄に見せただけなのだ。
 何のために? ――理由などわかりきっているはずなのに、それでも別の何かを探してしまうから、厄介すぎる性格をしていると静雄は思う。
 そんな静雄をよそに、は「だからね」と付け足して。
「昨日のあれは、自分の体調を気にせず走ったせいで、ごく自然な事なの。なるべくしてなった事で、静雄くんは本当に、変な責任を感じる事なんか、ないんだよ。ね?」
 また、あの「ね?」だ。思わず納得しそうになりかけてしまう。
 何か反論すべき言葉を捜すが、どうにも見つからない。しばらく黙り込んでいたが、ようやっとの事で出てきた言葉は、
「迷惑だろ」
 そんな、どうしようもなく女々しくて情けないものだった。何が迷惑なのか、どう迷惑なのか。漠然とした意味合いのそれだったが、けれどもは静雄の言葉に「うーん」とやや迷うような素振りを見せた後。
「……それは、静雄くんにとって、私が迷惑だってこと?」
 反射的に「ちがっ」と言いかけて、それから俯いて黙り込んだ。途端にくすくすとくすぐったい感じの笑い声が聞こえてくる。
「私ね、静雄くんのこと、迷惑だなんて思った事、一度もないよ?」
「でも……」
「でも、俺は迷惑だった、とか?」
「……違う」
 それ以外の選択肢があるものか。
「ふふ、じゃあ、一緒だ」
 やけに耳にくすぐったい声で笑いながらも、きっぱりとした物言いに、静雄はぐっと言葉を詰まらせるしかない。
 今の自分はまるで、逃げ道を徐々に奪われ、八方塞の小動物みたいだった。とはいえ、危害を加えてくる肉食動物に狙われるわけじゃなく、見るからに人畜無害な草食動物に狙われているのだから、本当に、――本当に、タチが悪い。
「あのね、静雄くん」
 いやに真面目な声で名前を呼ばれてしまい、無意識に顔を上げての顔を見た。
「今からすごい嫌な事言うかもしれないけど、いいかな」
 迷った末に、うなずいた。
 一拍の間をおいて。
「正直なところ、あのゴミ捨て場で静雄くんが埋もれてるの見つけてなかったら、多分、いまここに私も静雄くんも、いなかったと思うの」
 何が楽しいのか、ふふーっと笑って。
「もし、あの時静雄くんが、私があそこにいなかったらね、新学期を迎えても、平和島静雄は怖くて関わっちゃいけない人だって先入観があったから、平和島静雄イコール怖い人ってわかったつもりになってたまま、話しかけたりしなかったと思うんだ。静雄くんだって、そうでしょ? 多分、私に話しかけたりしなかった」
 言われるがままに想像し、その通りのイメージが思い浮かんで、静雄はおずおずと頷いた。
「たまたまゴミ捨て場に静雄くんが気絶したまま埋もれてて、たまたまごみ捨てにきた私がそれを見つけて、新学期になったらたまたまクラスが一緒だった。運命とは言わないけど、何かしらの縁があると私は思うの」
 確かに、と静雄はこくりと頷いた。ただの偶然という言葉で済ませるには出来すぎているし、かなり悪質な偶然だといえる。かといって、運命なんて一言で表現するのは、あまりにもばかばかしすぎる。
「だからね、これから先も、静雄くんに付き纏っちゃうと思うの。というか、それ以外の行動をとる自分が想像できなくて」
 が照れくさそうに笑って。
「でもね、静雄くんが鬱陶しいって言うなら、もう付き纏ったりなんかしない。ああもうこいつといるの嫌だなあ! って思ったら、ちゃんとそう言ってほしい」
 どうして、なんでそうなるのか。
 そんな気持ちが顔に出ていたらしく、は静雄の表情を見て、微かに苦笑を浮かべ、
「だって、静雄くん、嫌々言いながら、大抵の事には付き合ってくれてるでしょ。あ、いや、新羅くんもそうなんだけどさ……。でも、静雄くんて、うぜーんだよこっちくんなーっていう拒絶はしないじゃない? 迷惑かかるから近寄るなよ、って感じで、だから、それに甘えてたのもあるから、その、ね。気を遣わせちゃってたのかなって」
 確かに、嫌々付き合っていたような気がしないでもない。手を引っ張られるがまま、流されるまま、ついていっただけに過ぎない。
 呆れるほど強引なやり口だったけれど、それでも――。
「……それは、戸惑ってただけで、別に、嫌とかそういうんじゃねえよ」
 静雄の言葉を聞くなり、ほっとしたような表情になる。
「あはは。そう言ってもらえると、お世辞でも、嬉しい」
 言葉通り、本当に嬉しそうに笑うものだから、思わず見とれそうになる。
「お世辞じゃねえよ」
 むきになって言い返せば、が目を見開いた後、くすくすと笑い出した。静雄の態度がおかしかったのか、心底楽しそうな笑い方だったが、それでも柔らかな、本当に嬉しそうな表情で、それが尚更静雄の気恥ずかしさを駆り立てる。それと同時に、妙にすわりの悪い感覚が、再度湧き上がってきた。段々と居た堪れなくなってきて、から顔をそらすと、いやにくすぐったい声で再度笑われた。
「あの、ね、本当に、嫌じゃない?」
「うん」
 頷く以外の選択肢など、静雄に与えられてはいなかった。素直な子供のように頷いて、横目でを見れば「よかったあ」と安堵したように笑っている。
「なあ」
 声をかけると、がきょとんと不思議そうに首をかしげて、見上げてくる。
「……なんで、俺なの」
 言い出すまでにかなりの勇気が必要だったが、いざ口にしてみると、呆気なくすぐに全部言い終わってしまい、少しほっとした。
 しかし、漠然とした質問だったと口にした静雄本人ですら思うし、さっきが話してくれた事が答えにつながるから、なんて馬鹿げた事を聞いてるんだ、と静雄は顔をしかめた。迷った末に、やっぱなし、と訂正しようかと静雄は思ったのだが、が「うーん」と首をかしげて考え込むものだから、回答を期待して、開きかけた口を閉ざしてしまう。
「なんていうかねー、いっつも仏頂面で、俺は不幸なんだぜ、みたいな顔してるじゃない?」
「……誰が」
「静雄くんが」
 もしかして、と予想はしていたものの、面と向かって言われてしまい、静雄はぐうの音も出なかった。
「なんとなくね、ほっとけないんだー、そういうの」
 へへえ、と笑う。お人よしのにすれば、尤も過ぎる理由だった。
「それにね、今まで静雄くんのこと、表面上でしか知らなかったから、たくさん知りたいし、わかりたいの」
 まっすぐに目を見つめられながら、はにかむように微笑んで、ゆっくりとした調子で言われる。
「でも、それ以上にね、静雄くんと一緒にいるの、すごく楽しいんだ」
 思わず息を呑む。言葉の意味がよくわからず、何度も頭の中で反芻し、――たくさん知りたい、わかりたい、楽しい。そんな単語に心臓が跳ね上がった。
 こんな事を言われたのは、いつ以来だろうか。――いや、そもそも、初めてかもしれない。
「なんか、脈絡ないって言われればそれまでだけど、……うん」
 小さく頷いて、
「静雄くんだから、だよ。静雄くんだから、仲良くしたいって、そう思うの」
 困ったように、照れくさそうにが笑う。
「ええと、納得できるかな」
 そして最後に、誤魔化すようにそう付け足した。照れくさそうに笑う顔は、変わらない。
 静雄は目を閉じて、小さく嘆息した。
 納得できるかどうかなんて、――十分だ。むしろ自分には勿体無い言葉だと思う。
 次に目を開けると、徐々に視界が歪むのがわかった。
 まずい、と思った瞬間には、への返事の変わりに、膝の上で開いた漫画雑誌の黄色いページの上に、ぽたりと雫が落ちた。
 が唖然として、動きを止める。
 ――しばらくの間をおいて。
「わ、ちょっ、わあーっ!?」
 ひどく慌てた様子のが、あたふたしながら静雄のほうに手を伸ばして、強引に静雄の顔を自分のほうへ向かせた。あまりにも勢いがいいものだから、首をひねるかと不安になった静雄だったが、次の瞬間には人差し指で優しく目じりをなぞられ、そんな考えはどこかに消えてしまう。
 そのまま頬を優しく撫でられ、何でかわからないが止まらなくなってしまった。
「えと、えっと、ハンカチっ」
 珍しく焦った様子でポケットを漁る素振りをした後、
「あ、今ジャージだった……」
 がっくりと肩を落とした。
「そだ。静雄くんは」
「……持ってると思うか?」
 泣いているせいかわからないが、ひどくかすれた声が出た。それでもには通じたらしく、困ったような表情を浮かべる。
「でも、ティッシュくらい……」
 ゆるく首を振って「持っていない」の意思表示をすると、が悔しそうに変な唸り声をあげた。ふざけたようなその態度が、なんだか可笑しくて、自然と頬が緩む。僅かに目を伏せるのとほぼ同時に、ぱたぱたと音を立てて雑誌の上に雫が落ちた。
 いくら図書室に置いてあったとはいえ、この雑誌は自分のものではないのだ。流石に濡らしたらまずいだろうと、静雄は膝の上の漫画雑誌を閉じる。それを脇に退けた後、俯きがちになり、右手で目をこすろうとした。
 しかしそれよりも先に、が控えめな手つきで、静雄の目じりをこすった。やけに優しい手つきがくすぐったい上に、どうしてかよくわからないが嬉しかった。呼吸するために口をあけると、小さなしゃくり声がもれる。
 途端に、がこれでもかというほど不安そうな表情になって、あわあわし始めた。しきりに「ごめんね」と謝りながら、ジャージの袖でまぶたを押さえる。ざらつくジャージの生地で目をこすられると僅かに痛かったが、抵抗する手段を静雄は持ち合わせていなかった。いや、抵抗したくなかったのかもしれない。
 おまけに、慰めるように優しく頭を撫でられるものだから、尚更――。
 しばらくの間されるがまま、静雄は身を委ねていたのだが、それでも埒が明かないと察したらしいが、パッと手を離した。
「てぃてぃてぃ、ティッシュ探してくる!」
 跳ねるように立ち上がり、慌てた様子でカウンターのほうへと小走りで向かう。その途中、規則正しくおかれたテーブルの足に小指をぶつけたらしく、ガツンと痛そうな音とともに「ぅきゃっ」と変な悲鳴があがった。うーっ、と、今にも泣きそうな唸り声をあげつつ、危なっかしいぴょんぴょん歩きを始める。はカウンターにたどり着くと、裏に回りこんだ。しゃがんで、がカウンターの影に隠れる。
 それをぼんやり見送りながら、静雄は俯きがちになって、の指が何度も触れた目じりを、自分でぬぐう。頭に乗っかっていたぬくもりはもうない。
 ――寂しい。
 情けなくもそう自覚してしまうと、もっと寂しくなるから、不思議なものだ。何度も目をこすって、女々しいなと自虐的な気持ちになりながら鼻をすすると、無性に情けない気持ちでいっぱいになった。
 何で涙なんか出たのか。足りない頭で考えた結果、の言葉で、感極まったのだという事しか思いつかなかった。それに、よくわからないけれど、妙な安心感からくるのもあったと思う。
「静雄くん、あったよー」
 控えめな声で言いながら、パタパタと跳ねるような足取りで戻ってくる。確かにの片手には、手作り感満載のカバーに包まれたボックスティッシュがあった。
 静雄の向かい側にしゃがみこむなり、一枚ティッシュを引っこ抜いて、4等分に折りたたむと、恐る恐るといった手つきで、静雄の目じりにそれを当てる。
 妙な気恥ずかしさがあるのだけれども、それ以上に、多分、嬉しいのだから、本当に現金だ。自分の甘ったれ精神に辟易してしまう。すん、とひとつ鼻をすすると、があわてた様子でもう一枚ティッシュをとった。器用に片手で二つに折ると、いきなりそれを静雄の鼻に押し付け。
「はい、ち」
「あ、あのなぁ」
 ちーん、と鼻をかむという意味の幼児語を続けられそうだったので、慌てて言葉を遮った。
 そんな静雄の態度で何かを察したのか、「あ、あぁああっ!」と珍しく焦ったように声を上げて、それからあたふたとし始める。静雄が見かねて、鼻に押し付けられたティッシュを抑えると、がおずおずと手を離す。
「ご、ごめんね」
「……いや」
 ぎこちない仕草で、しかも顔を真っ赤にして謝られるものだから、本当にたまったものではなかった。静雄もどうしたらいいのかわからず、悩んだ末にそう一言だけぼやいて、音を立てないように鼻をかむほかなかった。
 けれども、鼻をかんでいる最中、涙が零れ落ちると、すかさずティッシュを押し当ててくるものだから、静雄の所作もゆっくりと、ぎこちなくなっていく。
「足」
 そんなぎこちなさから逃れるように呟いた言葉は、ただ一言、それだけだった。
「え? 足?」
「……さっき、ぶつけてただろ。大丈夫か」
 かすれた声がやけに気恥ずかしくてたまらない。これ以上は言うまいと口を閉ざすと、は「ああ」と納得したように頷いて、先ほど思いっきりぶつけたほうの足に視線を落とした。
「あ、うん。平気平気」
 何事もなかったようにけろっとした顔で言う。
「静雄くんは、その、落ち着い……た?」
「まあ、うん」
 頷いてはみたものの、涙が零れ落ちそうになって、に優しく拭われる。
「ふふ、もうちょっとかかりそう、だね」
「……悪い」
「こっちのことはいいのー。それに、謝る事なんて、何にもないんだから、ね?」
 首を縦に振る以外の行動を取る理由が見つからず、戸惑いながらもゆっくりと頷くと、が微笑んで静雄の頭に手を伸ばした。いいこいいこ、と、優しい手つきで頭を撫でられ、静雄は無意識に目を閉じる。
 優しい手つきに安心してしまい、それが情けないやら、嬉しいやら、悲しいやら、恥ずかしいやら。頭を振って拒否してしまえば、そんなものからは簡単に解放されるとはわかっていても、ぬくもりが離れた後の寂しさが怖くて、それができなかった。
 人間、一度蜜の味を覚えれば、やめられない。美味しい味を覚えてしまえば、この心地よさに慣れてしまえば、求めるのは誰しも自然な事だろう――と、静雄は半ば開き直りかけていた。
 しばらくされるがまま、従うままだったが、涙が引けてきたころになると、の手がふっと離れた。
「……ぁ」
 小さくぼやいて、顔を上げる。追いすがるようにを見る自分がらしくないと気づき、顔をしかめて奥歯を噛み締めると、そんな静雄の様子などさして気にした素振りも見せず、がおもむろに両手を突き出して、静雄の頬を包み込んだ。
 そのまま、うりうり、と冗談めかしたように言って、軽くマッサージのようなものを始める。ふにふにと頬っぺたをこねくりまわされ、静雄は言葉が出なかった。
「あっはは、なっさけない顔だ~」
 かちんときた。
「ぅ、うゆひゃい」
 うるさい、と、そう言ったつもりだった。でも頬っぺたを弄くられる最中に言ったのが、不幸だったのかもしれない。
 ぽかんと間抜けな表情を浮かべ、徐々に羞恥で染まっていく静雄の顔を凝視するだったが、静雄が耐え切れずに口を引き結んで視線をそらすと、「っふふ」と笑い始め。
「うゆひゃい、だって。あはは」
 堰を切らしたように笑いながら「静雄くん顔真っ赤ー」と楽しそうに言われ、返す言葉が見つからない。くすくすと肩を震わせて笑うの声が、どうにも居た堪れなくて仕方ない。
「うるせぇよ」
「うゆひゃい?」
 さも可笑しそうに肩を震わせて、からかう様に言われる。
「くそっ……」
 悪態をつくほかない。
「あはは、ごめんごめん。機嫌直してよー」
 再度頬っぺたをこねくり回される。機嫌を直すも何も、静雄は平常どおりだ。それ以上もそれ以下もない。だから直しようがない。
「いや、もう普通、だから」
「ほんとに? えへへ、よかったあ」
 たどたどしい口調で言えば、心底から嬉しそうに言って、ほっとしたように笑った。
「……ね、一人で抱え込むのって、よくないでしょ?」
 いきなり話が戻ったな、と思いつつも、静雄は僅かに考えてから、小さく頷いた。
「私もね、ぐずぐず悩んだってどうしようもない事をずーっと考えちゃって、一人で抱え込んで、悩んだ挙句に友達に当り散らした事があって、折り合いが悪くなっちゃったの」
 いつの話なのかに尋ねようと思ったが、おおよそ見当がついたので口を閉ざす。そうして、あの卒業アルバムの女子生徒の顔が思い浮かんだ。次いで、その女子生徒の苗字を最初にどこで聞いたか、何故か今更になってふっと思い出した。職員室、担任教師に荷物を運べと言われたあの時だ。
「……五代?」
「えっ、あれ? もしかして私、名前言った事あったっけ?」
「……前に職員室で、担任が言ってたから。資料集運ぶとき」
 少し狼狽した風だったが、静雄の言葉に「あっ、そうか」と納得したように頷いて、それから照れくさそうに微笑んだ。うりうり、と頬をこねくり回し、
「一人で抱え込むのも、限界があるし、……だからね、抱え込むのがきついなーって、もう持てないなーって思ったら、誰かに半分くらい押し付けちゃえばいいんだよ」
 そう言った後、照れくさそうに「ええと、これ、おじーちゃんの受け売りなんだけどね」と語尾に付け足した。
 が冗談めかした口調なのが、幸いだった。多分、もしこれが真剣で、ひどく真面目な調子で言われていたら、どうなっていたか。想像するだけで情けなくなってきた。
「悩んでるとこ、見られたくなかったらね、押し付けてそのまま逃げちゃえばいいよ」
 絶句した。
「逃げるって、んな無責任な……」
 言いかけて、つまった。交通標識を引っこ抜いた上、それをボロボロにし、元あった場所に戻して逃げるという行為を、静雄は幾度となく繰り返してきたのだ。ともすれば自分は無責任の塊だろう。の提案を無責任だと否定できるほど、立派な人間じゃない。
 じゃあこんな無責任な自分には、の提案はぴったりなんじゃないか――そこまで考えてから、ばかばかしいと内心はき捨てた。
 なんだか無性に、に毒されている気がしてならない。しかも、それでもいいかな、と思えてきたのだから、重症だ。
「無責任っていえば、それまでだけど、……でも、それが頼るって事でしょう? 静雄くんに頼ってもらえるの、私なら、すごーく嬉しいけどな」
 ありったけの善意を詰め込んだかのような、柔らかい笑顔を向けられる。不意打ちのようなそれに見とれて固まっていると、手の位置を変えて、指の背で頬を撫でられた。途端に、静雄の背中にゾワゾワしたものが這い上がってくる。
 しかし、次の瞬間には、そんな表情も打って変わって不安そうなものになり、
「や、やっぱり、私じゃ頼りない、かな?」
 おずおずと、申し訳なさそうに尋ねられる。
「……んなことねえよ」
「ほっ、ほんとのほんとーに?」
「嘘ついてどうすんだ」
 言い終わると、自然とため息がもれた。
 静雄の返答を聞くなり、がへにゃっと表情を緩め「よかったあ」とほっとしたように呟いた。指の背で優しく頬を押される。
「いっぱい、頼ってくれても、いいんだから。ね?」
 また、あの「ね?」だった。
 ずるい、と、心の底から思う。こんな風に言われたら、拒否することなんかできるわけがない。優しげに手招きされたら、ふらふらついてくしかないだろう。特に男なら尚更。
「変な遠慮なんかしなくてもいいんだよ。むしろ遠慮されると、こっちとしては寂しいしねー」
 が寂しげに笑うものだから、もう拒否権などありはしなかった。
 ゆっくりと頷くと、が満足そうに笑う。よしよし、と頬をひと撫でし、仕上げとばかりに一度頬をこねくりまわして、が手を下ろす。
 そのときちょうど、チャイムが鳴った。が「あっ」と声を上げて、静雄たちがいるほうとは反対側の壁、黒板の真上に取り付けられた時計を首だけで振り返る。そのおかげで、恐らく情けない表情を浮かべているだろう顔を見られずに済み、静雄はほっと胸をなでおろした。
「三時間目終わっちゃったねー。ちょうどいいや」
 そう言って、が勢いよく立ち上がった。いきなりの事に静雄は呆然としながらも、しなやかな動きを目で追いかける。
「私、何か飲み物買ってくるね」
 ぐーっと背伸びをしながらそう言って、ゆっくりと踵を返す。
「待っ……」
 手を伸ばしていた。何でこんな事をしたのか、理由はよくわからない。
 しかし、自分の腕が視界に映った瞬間、言いようのない気持ち悪さを覚え、静雄は慌てて手を引っ込めた。のだが、引っ込めた手のひらを掬い取るように、の片手に止められた。一回りも小さな手にぎゅっと握り締められ、両手で包み込まれる。
「静雄くんは何か飲みたいのとかある? ないなら、適当に買ってくるよ」
 恥ずかしさが先立って、反応を返すのに少し間が空いた。
「いや、でも、金……」
「いいのいいのー。泣かせちゃったお詫びみたいなものだから」
 静雄がぐっと言葉に詰まる。熱を帯びる頬を隠すように俯くと、頭頂部にそっとの手が触れた。いいこいいこ、とこれでもかというほど優しい手つきで撫でられ、羞恥心が湧き上がってくる。さらに俯くしかない。
「一旦教室戻るからちょっと時間掛かっちゃうけど、待っててね」
 最後によしよし、と頭を撫でて、手が離れる。パタパタと軽快な足音が遠ざかっていくので、慌てて顔を上げると、小走りでドアのほうに向かうの後姿が見えた。別段、楽しんでいるとは思えないのに、それでも、元気で、楽しそうに走るの後姿が、わけもなく目をひきつける。
 後姿をぼうっと見つめていると、ドアの入り口付近でが静雄のほうを振り返った。
 息を呑む。慌てて顔を逸らすよりも先に、が微笑みながら手を振って、廊下に出て行ってしまった。
 しん、と静まり返る図書室に、一人取り残される。それでも、不安感はもうない。
 休み時間特有の、遠くから聞こえる喧騒を耳にしながら、静雄は何をするでもなくぼんやりと空中を見つめた。
 いい年こいて、同級生――正確には先輩なのだが、他人に泣き顔を晒すなんて思わなかった。おまけに、あんな、たかだかの言葉の一つ一つで、こんなに安心してしまう自分がいたなんて。
 情けない。
 うじうじとくだらないことで悩んで、の言葉に窮して言いくるめられ、救いを求めたつもりでもなかったのに結局差し伸べられた手を取ってしまって。こんなに後悔するくらいだったら、して欲しくなかったとその時に言えばよかったのに、あの時の自分にそんな事が言えただろうか。いや、言えなかったはずだ。
 本当に、情けなくてたまらない。
 自分の新たな一面を垣間見た気がしたが、静雄としてはちっとも嬉しくなかった。ここまでくるとすべて嘘だと思いたかったのだが、悲しいことにすべて現実だ。
 全部嘘だったらどれだけよかったか。
 でも、全部嘘だったら、それはそれで、……嫌だ、すごく。
 そこまで考えて、静雄は盛大にため息をついた。
 それからゆっくりと両手で顔を覆い――。
 ――悶絶。

 何分待ったかわからないが、それでも10分も経たないうちに、が元気そうな足取りで戻ってきた。
「なんかねー、珍しく自販機の調子よかったよー。びっくりした」
 なんて言いながら、が四角い紙パックを投げてよこした。静雄は慌てて手を伸ばして受け取る。調子の悪い自販機、というくだりと、やや汗をかいた紙パックから察するに、大方牛乳だろうと思ったら、手元にあるのはピンク色の可愛らしいパッケージだった。
「……いちご牛乳」
「嫌い? おしることかのほうがよかった?」
「いや、それはない」
 だよねえ、なんて笑いながら、静雄の隣に腰を下ろした。後ろの棚にもたれかかる。そんなの手にはやっぱり、同じ色のパッケージのそれが握られていた。
「えーと、やっぱり嫌いだった?」
「いや、嫌いってわけじゃねえけど、なんでこれ……」
「コーヒーにするか、フルーツにするか、無難に普通のにするかで迷ったんだけどね、なんとなく好きそうな顔をしているな、と」
 いちご牛乳が好きそうな顔ってなんだ。甘ったれにぴったりって事か。そう考えて、言葉に詰まる。何を卑屈になっているんだと、考えを振り払う。
「あー……、選択ミス?」
 うじうじと返答に迷っていると、不安そうに尋ねられてしまう。
「……嫌いじゃない」
「そかそか。よかった」
 安堵したようにふふーと笑って、がストローに口をつけた。静雄もそれに習ってストローを取り出し、差込口にそれを差し込んで、おずおずと口をつける。吸い上げると、途端に甘い味が口の中に広がった。
 ちゅーっとストローを吸いながら、静雄は何か話題を探してみるが、大して思いつかなかった。を横目で見下ろせば、ぽけーと見るからに間抜け面で真正面を見つめている。しかし、静雄の視線に気づいたのか、首を動かして静雄のほうを見上げた。静雄の肩が僅かに震えたのだが、はさして気にした様子なく「そういや静雄くん」と話を切り出し、
「いちご牛乳ってピンク色だけど、これ、虫の色素なんだって。知ってた?」
「……まじで?」
 思わずストローから口を離す。
「なんかほら、カイガラムシっているじゃないですか。葉っぱの裏とか茎についてる虫」
「ああ、あの白いやつ」
「そう、それ」
「えっ、……えっ? まじで?」
「まじ」
 無言になる。手元のパックを凝視し、パッケージをひっくり返して、背面側の成分表を恐る恐る見つめる。しかし、なにが虫なのかよくわからない。虫の汁でも入っているのだろうか。想像しただけでぞっとした。
 そんな静雄の姿をぽけっと見つめていただったが、しばらくしてくすくすと笑い出し、飲みかけの紙パックを横に置いてゆっくりと立ちあがった。釣られて視線がそっちに向かう。
「ここ図書室だし、ちょうどいいから本探してくるね」
 そう言葉を残して、ゆっくりとした歩調で別の棚のほうへ向かった。置いてけぼりになった事に、無性に居心地の悪さを覚え、そわそわと心が落ち着かなくなる。そんな考えを振り払うため、ひとつ深呼吸してから、再度ストローに口をつけた。こんな事で不安になるなんて馬鹿らしい、とは思うのだが、それでも視線だけでの姿を探してしまう。
 しかし、あっという間に、はすぐ戻ってきた。手には分厚い図鑑のような本を抱えている。静雄の隣に座り込むなり、丁寧にケースをはずして床の上に置くと、膝の上にその本を置いた。案の定、表紙にはでかでかと昆虫図鑑、なんて題されている。
 こんなの見るの小さいころ以来だ、なんて笑い混じりに言いながら、が表紙を開いた。静雄も同調するように頷く。いつごろからかはわからないが、こういう本は見なくなっていたように思う。
 目次を見たが、はよくわからなかったらしく、迷わず後ろの索引を開いた。小さい文字がずらっと並んだそのページを、が指でなぞりながら探すのを、横目で見る。見るからに楽しそうなの表情を見つめ、ストローから口を離した。
「女って普通、虫とか嫌いじゃねえの」
「うん。そうだと思う。私も嫌いだなー」
 とは言いながらも、そんなに嫌いじゃなさそうな態度だった。図鑑を見つめる楽しそうな表情から察するに、好きか嫌いかというよりも、好奇心が勝るのかもしれない。
 あったあった、と心持弾んだの声に、意識が引き戻される。の膝上の図鑑のページに目を落とすと、真っ先に飛び込んできたのが、緑色の多肉植物のような葉っぱに白カビがついているような写真だった。その隣に拡大図が載っている。細かい虫がびっしりひっついている。
 じーっと見つめていると、腰の辺りが段々ゾワゾワというか、モニョモニョしてきた。無言で目を逸らす。
「コチニールカイガラムシだから、コチニール色素だって」
「も、もういい閉じろ、気持ち悪い」
 流石のも思うところがあるのか、苦笑を浮かべて図鑑を閉じた。ケースにしまい、そっと床に置いていちご牛乳に口をつける。
 それっきり、会話はない。さっきの気持ち悪い会話を早々に切り上げてしまったことを悔やみながら、静雄は何を話したらいいのか思案をめぐらせる。しかし、目ぼしい話題など見つかるわけもなく、静雄は小さく息を吐いて、ストローに口をつけた。
 いつも、どういう話をしていたか、さっぱり思い出せない。隣のを横目で伺えば、やっぱりというか、ぽけっとした――何を考えているのかよくわからない表情で、ストローに口をつけたままだ。その表情が、どことなくつまらなさそうに見えるから、尚更焦る。けれども話題は見つからない。
「うーん」
 唐突に、が小さく唸った。内心驚きつつも、横目でを伺う。
「授業サボる人って、その時間、何して過ごしてるんだろう? 静雄くんはどうしてた?」
 好奇心以外に他意のない、まっすぐな視線を向けられる。
「……昼寝か、ただぼーっとしてた」
「ぼーっと」
 誰ともなしに、という感じで呟いて、が正面の棚を見つめる。それからまもなくして「うーん」と唸り声を上げた後、いきなり四つんばいになって移動し、静雄の傍におかれた漫画雑誌を手繰り寄せた。元の場所に戻り、それを膝の上に乗せる。
 静かに表紙をめくるので、それに釣られて静雄も視線を落とす。しかし、遠くて文字がよく見えない。首をかしげた後、少しだけ首を伸ばすようにすれば、それに気づいたが微笑んで、
「見える? もうちょいこっちきなよ」
 言葉で招かれ、静雄は一瞬面食らったものの、の優しげな表情に抵抗できず、座ったままずるずると距離を狭める。の隣から、のすぐ傍まで移動する。腕が触れるか触れないかの距離まできて、これ以上は近づけないと動きを止めると、が怪訝そうに見上げてきた。それから「んしょ」と変なぼやき声とともに、静雄のほうに身を寄せる。腕がくっつく。
 固まった。
 固まるしかなかった。
 はしごく平気そうな、いつもどおりの表情で雑誌を見ているが、対照的に静雄はガチガチに固まっていた。全意識が腕に集中して、それ以外の事が頭の中に入ってこなかったのだ。どうにも居た堪れなくなってきて、ストローを吸い上げる。口の中に流れ込む液体は、甘いとは思うのだが、正直なところ漠然としたもので、味がよくわからなかった。
 の指が動くので、釣られて目で追いかける。
「静雄くん、どこまで読んだ?」
 いきなり言われたものだから、我に返るのに少し時間が掛かった。
 の言葉を反芻する。どこまで読んだ――気を遣われている、のだろうか。
「んなもん覚えてねえし、最初からでいいよ」
「最初からねえ……」
 うーんと考え込み、ページをぱらぱらとめくってから。
「面白かった?」
 恐らく、聞いてはいけないことを聞いてきた。
 静雄は正直に答えるべきか迷った末、
「正直なとこ、……全部知らないから、わかんねえ」
「わかんないかー。だよねえ」
 が苦笑する。とりあえず最初から読んでもいい? と確認するように聞かれ、拒否する理由もないので頷くと、の指がページをめくった。
 漫画のコマはさっき読んだばっかりなはずなのに、何故か初めてみるような新鮮さを覚えた。思うに、さっきは読んでいた『つもり』だっただけで、実際は頭に入っていなかったのかもしれない。
 がページをめくりながら、「このくらいの速さで大丈夫?」といきなり尋ねてきた。恐らくページをめくるタイミングが合っているかどうか、を尋ねているのだろう。そう理解した静雄は、素直にこくんと頷いた。が静雄に微笑んで、視線を漫画に落とす。
 しばらくして、紙パックがずるずると音を立てたので、静雄はストローから口を離した。空になった紙パックを見つめ、再度ずるずると音を立てて中身を全部吸い上げた後、小さく折りたたむ。しかし近くにゴミ箱はない。迷った末に、とりあえず横に置いておくことにした。
 再度漫画雑誌に目を落とす。がページをめくるタイミングはちょうどよかった。
 を見れば、基本的には真顔だけれど、時折口を尖らせたり、首を傾げたりと、些細な反応を見せる。うーん、と小さく唸ったり、ごくたまに小さく笑ったりする。
 漫画を見ているのか、はてまた漫画を見るの反応を見ているのか。段々わからなくなってくる。
 時計の音と、静かな呼吸の音。廊下からは何も聞こえない。
 二人だけしかいない空間と、触れた腕同士がなんだか心地よくて、目を閉じる。
『静雄くんに頼ってもらえるの、私なら、すごーく嬉しいけどな』
 唐突に、脳裏にの声が浮かんできた。うっすらと目を開ける。
 私なら、とは言ったが、他の人ならどうなんだろうか。ぼんやり考えてみたが、よくわからなかった。そもそも、静雄が今知りえる限りの人以外、たとえば家族や、中学のときの先輩や、新羅や、門田や、そして以外の――文字通り、“他の人”に頼るということが、あまり想像できなかった。
 どうせ他の人に頼ることなんて、土台無理な話だろう。諦めにも似た心境を吐露するかのように、小さなため息が漏れた。
 何度か瞬きして、徐々に瞼が重くなってきて、目を閉じる。

 ――じゃあ、いつまで頼っていいの?
 なんて言葉は、女々しすぎて、に尋ねることなんか、できなかった。



 四時間目の授業終了後、新羅は自分の携帯を確認し、着信が一件あることに目を見開いた。きょろきょろと辺りを見回し、教師がいないことを確認すると、ポケットにそれを突っ込み、逃げるように教室を後にした。
 向かった先は、トイレの一番奥の個室である。個室に入るなり鍵をかけ、一番新しい着信履歴にリダイヤルすると、2コールもしないうちに出た。
『し、新羅くん~』
 今にも泣きそうなのひそひそ声が聞こえてくる。
「どうしたの。静雄に何かされた?」
『と、とにかくヘルプ。ヘルプっ』
 よほど助けて欲しいのだろう。切羽詰った感じで二回も言われてしまった。
「とりあえず、どこにいるの? 静雄も一緒なんだよね?」
『えと、うん。場所は図書室なんだけど……お弁当とか、どうしよう……』
「わかった。僕弁当もってそっちにいくから、さん、勝手にカバンあさってもいい?」
『うん』
 それじゃあ、と言って電話を切ると、新羅は携帯をポケットに突っ込んで個室を飛び出した。
 教室にとんぼ返りし、静雄のカバンの中を漁り弁当を引っ張り出す。次にのカバンを開け、内心謝りながらも中から弁当を取り出した。自分の弁当と一緒に小脇に抱え、早歩きで、転ばないように気をつけながら図書室へ向かう。
 中央校舎で弁当を食べるという特殊な趣味の人間は殆どいない。ゆえに、昼休みとなれば図書室のある廊下にくれば、全く生徒を見かけなくなった。
 図書室の前まで来て、恐る恐るドアを開けて中に入り込む。きょろきょろと辺りを見回し、奥の棚のほうから「新羅くん?」と伺うような声が聞こえてきて、新羅は声のするほうへと向かった。
 果たしてそこには、新羅が目を見張るような光景があった。
 困り果てた様子で、それでも新羅を見上げて微笑むの膝に、静雄の頭が乗っかっている。
「……何、これ」
 ぼやきながら、の向かい側にしゃがみこみ、床の上に置かれたままになっている図鑑に気づくと、その上に弁当箱を置いた。そのまま声を潜めてみれば、すうすうと規則正しい寝息が、静雄の口元から聞こえてきた。緩やかに肩が上下している。
 寝ていた。物の見事に爆睡していた。
「その、凭れ掛ってきて、あたふたしてたら、こうなっちゃって」
 その光景が安易に想像できたので、ふむ、と新羅は納得したような声を上げた。
「しかも気持ちよさそうに寝てるから、起こすの、ちょっと可哀そうで」
「あー……うん」
 どこが可哀そうなのか。曖昧な返事を返すことしか新羅にはできなかった。
「……仲直り、っていったらいいのかな。できたの?」
「うん、多分」
 不安そうに呟いて、が太ももの上の静雄を見下ろす。釣られて新羅も静雄を見下ろし、無防備に子供のような寝顔を曝け出している事に苦笑しながら、おもむろに手を伸ばした。静雄の方を掴んで揺さぶる。
「静雄、起きろ」
 静雄が居心地悪そうに、うーん、と唸って、の太ももに顔をうずめる。途端にの体がピシッと固まった。
「……こりゃあ、当分は起きないかもね」
 手を引っ込める際、金色の髪の毛を一本抜いてみる。静雄がむずがる様子を見せ、の太ももに更に顔をうずめたが、特に起きる気配は感じられない。根元が少し茶色くなっている髪の毛を見つめた後、新羅はポイと放り投げた。
「そ、そかー。……うーん」
 肩を落とし、口を尖らせて、唸り声をあげる。けれども、心底から嫌がっている風には見えない。現に新羅がさっき髪を抜いたところを、恐る恐る撫ではじめる。静雄も寝ながらそれをわかっているのか、心地よさそうな表情になって、すうすうと。
さん、こう言っちゃあ難だけど、見事に懐かれたね」
「そ、そんな動物みたいな」
「普通の人間じゃ太刀打ちできないんだ、動物みたいなもんだろう?」
 が不安そうに首をかしげる。その眼差しが、暗に「友人なのにそんな事を言っていいのか」と問われている気がして、新羅は苦笑を浮かべざるを得なかった。
「で、何したんだい」
「な、何もしてないよ……ただ今の気持ちをありったけぶつけてみただけで」
「例えば?」
「えっ!? えと、……も、もっと頼ってもいいんだよ、とか……」
 その、いろいろ。と語尾に付け足しながらも、徐々に羞恥で顔を赤くしていくのを見つめ、なるほどなあ、と新羅は納得した。
 恐らくそれ以上のことを静雄にぶつけたのだろう。そして困ったことに、静雄はそういう、好意を向けられるのに耐性が無くて、滅法弱かった。笑えるくらい効果抜群だろう。
「とりあえず、懐かれた以上、覚悟しといたほうがいいかもね。ドンマイ!」
「なんか新羅くんに言われると悲しくなってくるよ……」
 が静かにうなだれる。
 起きた後、新羅にからかわれるだろう事も露知らずといった様子で、静雄は気持ちよさそうに寝息を立てていた。


 放課後。
 校門までの道のりに、影が三つ並ぶ。
 ひとつは静雄、もうひとつは新羅、最後のひとつはだ。
 それを自分の教室から見つめる臨也の顔は、大層悔しそうだったのだが、三人は知る由も無い。

2012/01/16