※静雄が小3のときに、家に養子を迎え入れたら、という話です
 人によっては胸糞悪くなるかもしれません
 静雄の家の構造に関してかなり妄想入ってます
 以上、許容できる方のみどうぞ












 ――小学校3年生にあがってから、初めての6月。
 ――蒸し暑い気温と、しとしと静かに降る雨の訪れとともに、そいつはこの家にやってきた。


 その日はいつにも増して、父さんも母さんも帰りが遅かった。今日は二人とも帰りが遅くなる、と電話が来た時点で覚悟はしていたけれど、父さんと母さんが家に帰ってきたのは、いつもならご飯をとっくに食べ終わってる時間だった。
 玄関のインターホンが鳴ると、受話器も取らず、弟の幽と一緒に一目散に玄関に向かって、遅くに帰ってきた二人を出迎えた。少し疲れた様子で「ただいまー」と笑う父さんと母さんの表情はいつもより少しぎこちなくて、そこで初めて妙な違和感に気付いた。
 視線を下げて、父さんと母さんの足のほかに、もう一人分の足があることに気が付いて、更に違和感。幽が俺の斜め後ろに隠れるように寄ってくるなり、服のすそをぎゅっと掴んで、ようやっとその違和感の正体を認識する事ができた。

 ――そいつは、父さんと母さんの間に隠れるようにして、いた。

 父さんの左手と、母さんの右手を縋る様に掴んだそいつは、怯えたように泣きそうな目で玄関を見回し、そうして俺と幽と目が合った瞬間、それをいっそう色濃くした。もし父さんと母さんが手を離せば、今にもこの場から逃げ出してしまいそうな、そういう雰囲気だった。
「静雄、これ」
 母さんが「冷蔵庫に入れてちょうだい」と笑いながら差し出した小さなビニール袋を、ぎこちなく受け取る。袋の中からカチャカチャとビン同士が擦れあう音がして、いつも買ってきてくれるプリンだと気付いた。わっと思って覗き込めば、入っていたプリンの数は5個。

 俺と、幽と、父さんと、母さん。
 プリンの数は、いっつもは4個なのに――今日は、5個。
 ひとつ増えたプリンの数と、相変わらず、父さんの後ろで立ちすくんだまま、動かないそいつ。
 俺も幽も、立ちすくんだまま、動けない。

 母さんが困ったように微笑む。母さんの困った顔は、見たくない。
 父さんも困ったように笑って、後ろに立ってるそいつの頭を、何故か、ぽんぽんとなでた。
 俺と、幽にするみたいに。

 ――息を呑む。

 父さんが頭を撫でる手つきは優しくて、だから気持ちいいのは俺も幽もよく知ってる。なでられるとすごく嬉しいし、あの幽も父さんに頭を撫でられるとくすぐったそうに目を細めて身を捩る。
 だっていうのに、そいつは、父さんの手をあからさまに怖がって、はたくように払いのけた。
 手を叩かれた父さんは、少し悲しそうな顔になった。父さんが悲しそうな顔をするのは、見たくない。
「……あのね、静雄、幽、実は――」
 母さんの、気遣うような声に、耳を傾ける。

 そういえば――。
 学年が一つ上がって、クラスの担任が変わって、教室の窓際に、大きな水槽が増えた。水槽は凄く大きくて、重たくて、中には名前のわからないモコモコした水草と、綺麗な魚がいっぱい入っていた。
 先生の趣味だからと、クラス全員で育てる事になった熱帯魚の水槽。先生も知識がないからクラスの皆で育てようなんて先生が言い出したから、生物係でもなくても、クラスの皆が交代で育てるようになった魚たち。否応なく、愛着がわいた。そりゃあ、餌をあげれば水槽の中の魚が面白いくらいに群がってくる。他のクラスの奴もそれが面白くて、えさやりの時間に覗きにきていた。
 先月、水槽に新しく入れた――どういう名前だったか、長くて難しいから忘れた――少し大きい熱帯魚。
 それが、一晩にして他の魚を食い散らかし、魚の死体が砂の上に沈んだり、ポンプにひっついたりしてる、そんな汚い水槽の中。新しくいれたあの魚が、我が物顔で泳いでいたのを、俺は母さんの話を聞きながら思い出していた。


「いやだ! ぜってーいやだ!」
「しずお、」と、たしなめるような母さんの声。少し怖くて怯んだが、おとことして、平和島家長男として負けるわけにはいかなかった。
「っ、か、幽だって、いやだって言ってる!」
 こくこく、と隣の幽が頷く。
 父さんと母さんVS俺と幽のバトルは、あまりにも一方的だった。
 食卓テーブルを叩きながら喚き散らす俺と、俺の腕を掴んで、ときたまコクコクと頷く幽。その対面で困ったような顔をする父さんと母さん。父さんと母さんは困ったように俺たちの名前しか呼ばない。
 しかし、俺と幽は――といっても、俺だけだけど、見ての通り、一方的に文句を並べて、父さんと母さんにそれをぶつけていた。時々頷いて、ひとことふたこと、ぼそぼそと言葉を挟む幽は援護射撃要員だ。言葉が少ないからこそ、幽の一挙一動は、ものすごい力があるのを、俺はさんざん知っている。俺と幽で何かいたずらこいて、こっぴどく叱られそうになっても、幽がごめんなさいって言えば、不思議な強制力で場がおさまるのを、何度も経験してる。
 たぶん、これは平和島家はじめての、親とこどもの、壮絶な家族ゲンカ。
 それを、あいつはリビングのソファに座って、怯えたように伺っていた。動物園の檻の中、唸って吼えるライオンを、外から見るみたいに。
 ――普通にイラっとした。
「こっち見んな!」
 怒鳴ると、あいつの小さな肩がビクッと震えた。怯えた眼差しが俺をとらえる。
「静雄!」
「つーか、こうなったのはおまえが原因だろ! なんで黙って見てるだけなんだよ! なんか言え!」
 ばん、とひとつテーブルを叩けば、テーブルの足がみしっと軋むような音を立てた。
「っ、静雄!」
 父さんが俺の声を怒鳴るように呼べば、あいつはまた泣き出した。しゃくり上げる声に、母さんがはねるように椅子を立って、あいつのほうに向かう。泣き出すあいつの頭を何度もなでて、優しく抱き寄せる。
「大丈夫だからね、大丈夫だから――」
 母さんが、いつになく優しい声で、あいつに話しかける。背中をぽんぽんとあやして、頭に頬を摺り寄せる。
 ショックだった。ものすごく。母さんを取られたと、そう思った。
 泣きたいのはこっちだった。でも、俺が今泣いても母さんが頭を撫でてくれないだろうことは、なんとなくわかっていた。幽だって多分そうだ。だからこうして立ち向かう。
 父さんと母さんを、あいつに取られたくない一心で。

 話は平行線のまま、平和島親子の喧嘩は、決着がつかずに終わった。
 俺たちのご機嫌取りで買ってきただろうプリンは、冷蔵庫に入れたまま。
 たぶん、冷蔵庫の中でひえひえになってるプリンは、明日になっても、明後日になっても、誰も手をつけないだろう。


「かすか」
「……?」
 真っ暗な部屋。隣で寝てる幽に話しかけると、幽が小さく身じろぎした。起きてる。
「あいつは、あの熱帯魚だ」
「……うん?」
 不思議そうな声が聞こえてくる。熱帯魚の話は、俺のクラスの話だ。クラスはおろか学年も違う幽にわかるわけない。
「ええと、……ヤクビョーガミってことだ!」
「うん」
 慌てて言い直す。我ながらいい例えだと思った。幽もそれに納得してくれたのか、しっかりと頷いてくれた。
 そうして、幽がもぞもぞと探るように手を動かす。いきなり、ぎゅ、と手を掴まれたので、ゆっくり、それでも確かに幽の手を握り返す。
 お互いに「おやすみ」と呟いて、目を閉じる。

 いまのとこ、俺の味方は幽しかいなかった。



    * * *



 あいつの名前は、、というらしかった。
 らしかった、というのは、正直なとこ、父さんと母さんの話を、あんまりよく覚えていなかったからだ。怒りが先走って、黙って話を聞くどころじゃなかった。
 なんでが俺の家に来たかっていうと、いわゆる『家庭の事情』ってやつらしい。ここらへんに関する詳しい事はさっきも言ったとおり、怒ってたせいでよく覚えてないのと、父さんも母さんもあいつの『家庭の事情』をぼかしたふうに喋るしかなかったから、よくわからなかった。
 でも、いとこでもはとこでもないのに、うちに引き取られる事になったそいつは、俺と同い年。俺よりあいつのほうが数ヶ月早く生まれたらしいから、だから、俺の『お姉ちゃん』になるわけだ。おまけに、『よーしえんぐみ』とかいうのをしたら、が、平和島になるらしく。そうしたらもう一環の終わりだ。俺は姉ちゃんなんか欲しくない。
「おい新羅」
「ん? なんだい静雄君?」
「長男と長女、どっちが偉いと思う?」
 西日がほんのり差す教室。水槽の中を眺めながら尋ねると、水槽のガラスに映る新羅の顔が、柔らかく微笑んだ。
「うーん、そこは年功序列というものじゃないかな」
「ね、ねんこーじょれつ?」
 尾ヒレが食いちぎられた、なんとかテトラとかいう綺麗な魚から目を離し、「難しい言葉知ってんな」と新羅の方を振り向けば、新羅は笑ったまま「うん」と頷いて。
「わかりやすく説明すると、『とし』が大きいほうが、偉いって事だよ」
「とし」
 一人呟いたことばが、俺の身体に、静かに染み込んでゆく。
 としっていうのは、多分、いまの年代をあらわすとかいうのじゃなくて、自分のとし。生まれた日に迎えるもの。毎年毎年、その日を迎えれば、ひとつずつ増えていくもの。
「……たとえば、同い年でも、早生まれのほうが偉いって事か」
「そ」
 にこにこしながら、新羅がいう。

 ――二度目のショックだった。

 長男だから、一番はやくうまれたから――
 その椅子が、俺の特等席が、とかいうやつに奪われようとしていた。
 家族でもなんでもない、血の繋がりもないやつに。


 正直に言う。はすごく薄気味悪いから嫌いだ。
 いつもビクビクしてるし、声は小さいし、はっきり物を言わない。
 おまけに、あいつが家に来たときの荷物の中に黒い積み木みたいなのが二つあって、それがリビングの応接テーブルに置かれてるんだけど、それもすごく薄気味悪い。父さんと母さんはその置き場所に困ってるみたいで、朝昼晩の食事中に必ずその話題を出す。「どこにおこうか」って。それにあわせて「の部屋もどうしようか」って。
 俺の家の二階には、物置にみたいにごちゃごちゃなってる部屋がひとつある。その部屋は将来、それもそう遠くないうちに幽の部屋になるんだって、そういう暗黙のルールみたいなのが父さんと母さんと俺と幽の中にあった。そこを使おうかって、父さんと母さんは話してた。片付けるの大変だなって、苦笑を浮かべて。
 多分そうなったら、あの黒い二つの積み木は、その物置に置かれるのかもしれない。が寝る為にほんの少し片付けられた、あの、ゆくゆくは幽の部屋になる予定だった物置に。
 リビングのテーブルの上に置かれた黒い積み木。が朝起きて真っ先に、「おはよう」って囁くように話しかけるそれ。その顔で父さんとか母さんに話しかければいいのに、どうしてかその積み木にしか、そういう表情は見せない。俺にも、幽にも。
 そんな奴が、平和島家の、一番てっぺんの椅子に座るわけだ。

 うん、やっぱり、追い出すべきだろう。


 ――それを、母さんに面と向かって言ったら、
「なんてこと言うの!」
 ばちーんと、頬を叩かれた。
 叩かれたほっぺたよりも、母さんに怒られたという事実と、母さんが俺の事を分かってくれなかった事を理解した心のほうが痛くて、だからわんわん泣いた。
 ぽかんとしたまま俺を見上げるそいつが、――いっつも他人事みたいに、自分は関係ないと言わんばかりに俺たち家族を見る目が無性にむかついて。俺はとうとうやってしまった。
 リビングのテーブルの上にある、黒いそれ。衝動的に掴んで投げたら、床に落ちたそれはばらばらに壊れた。
 その瞬間、母さんが息を呑んで、両手で口元を覆うのが視界の隅っこに入った。
 もう一個掴んで投げようとしたら、幽に体当たりするように抱きつかれて止められた。気が付けば、あいつはしくしく泣いてる。
 今までずっと成り行きを見守ってた父さんが、椅子から立ち上がる。
「静雄、いい加減にしろ」
 静かにぴしゃりと怒られて、俺も幽も呆然と父さんを見上げるほかなかった。
 しとしと、しとしと。雨が降り出して、俺はリビングを飛び出した。
 もちろん泣きながら。


 静かに降っていた雨が、徐々にざあざあと強いものへ変わる音を、俺は静かな部屋で黙って聞いていた。
 唯一俺の味方でいてくれる幽が、布団にうつぶせになる俺の隣に同じようにうつぶせになって、じっとしている。一階の部屋を飛び出して、二階の俺の部屋に来た直後に、幽も俺の部屋に飛び込むようにして入ってきた。
 追いかけてきてくれたのが、素直に嬉しかった。そのせいでまた泣いた。
 泣いている間、幽はずっと頭をなでてくれた。
 しばらくして母さんが「ご飯だよ」って、取り繕うみたいな声とともに部屋のドアをノックしたけれど、俺も幽も返事をしなかった。たぶん『反抗期』とかいうやつに兄弟そろって足を踏み込んだのだとおもう。実のところはよくわからない。でも、これはささやかな、それでも確かな反抗だった。
 間隔をあけて、何度もドアをノックする母さんをずっと無視し続けると、もう諦めたのか、母さんは部屋に来なくなってしまった。
 飽きられてしまったのかと、少し不安になる。ここは二階だから、一階の様子はわからない。わかるわけがない。だから、父さんと母さんとあいつが三人揃ってる部屋の光景を想像して、もっと不安になった。
 あいつが楽しそうに笑いながら、俺の父さんと母さんとご飯を食べてる光景。どう考えても有り得ないんだけど、嫌でも頭に思い浮かぶのが、腹が立つ。
 このままずっと、『反抗期』を続けていたらどうなるんだろう。どう考えても、親はいい子にしてる子供のほうが、扱いやすい子供のほうが、好きに決まってる。
 じゃあ、今の俺と幽は、扱いやすい子供なのだろうか。考えて、目をつぶった。



    * * *



 ほんの些細な、小さな物音がドアの向こうから聞こえてきて、俺は目を覚ました。
 ざあざあという雨音のほかに、何か変な音が廊下から聞こえてくる。部屋を見回せばうっすら明るくて、多分、もうすぐで朝になる時間帯なんだろうなと、俺はぼんやり思った。
 自分の身体を見回せば、昨日の服のまま。それでハッとした。父さんと母さんに叩かれて、部屋に閉じこもって、夕飯も食べないで、着替えも、歯磨きもせずに眠ってしまった事を思い出した。思い出したら、なんだか口の中が気持ち悪いように思えてくる。
 口でも濯ぎに行こうかなと思って身体を起こすと、隣の幽がぱちっと目を覚ました。パッと身体を起こす。
「わ、悪い。起こしたか?」
 俺の小声での問いかけに、幽は頷く事も、首を振ることもせず、ただ口元に人差し指を当て――しーっ! というポーズをして――ドアの向こうをじっと見つめる。
 耳をすますと、トタトタ。廊下を静かに歩く音が聞こえてきた。父さんのでも、母さんのでもない、風に吹き飛ばされそうなくらい弱弱しい足音。
 多分、だ。あいつはこんな時間に何をしているんだろう。トイレに起きたはいいが、トイレの場所がわからなくて探しているのだろうか。それとも早く起きて寝付けないから一階のリビングにでも行こうとしてるのだろうか。そんな、あいつがこんな朝早くに起き得る可能性を考えながら耳をそばだてて、ドアの向こうにいるあいつの物音を必死に掬い取る。
 とんとんとん、とゆっくり静かに階段を下りる音がしたかと思うと、
 ――ガチャガチャと金属の音が聞こえてきた。
 これは玄関の鍵の音だな――と俺が思っている側で、幽がパッと立ち上がった。静かにドアを開けて部屋を飛び出す。いきなり幽が飛び出して訳が分からなかったが、けれども慌てて俺も幽の後を追いかけた。なんというか、そうしなくちゃいけないような気がしたからだ。
 父さんと母さんはまだ寝てるみたいだったから、足音で起こさないように、それでも急いで静かに階段を下りる。その間に、バタンと、玄関のドアが控えめにしまる音がした。
 階段を降りて、真っ先に二人して玄関に向かい、立ちすくむ。

 玄関の、一段だけ下がった、タイルの張られた靴置き場。
 の靴が、――の靴だけが、そこからぽっかりなくなっていた。

「……どうしよう」
 幽が呟く。幽にしては珍しく、心配するような声だった。
 外はざあざあ雨が降っていて――そういえばあいつは、傘を持っていったのだろうか。裸足のまま靴置き場に下りて、傘たてを覗き込む。父さんと母さんと俺と幽。人数分の4本の傘は、きっちりそこに残っていた。
 ざあざあ、雨の音が外から聞こえてくる。あいつはこんな雨の中、傘も持たずに外に出たらしい。
 ――何が目的で?
「……いえで?」
 幽が不安そうに呟いた言葉が、身体にすんなり染み込んできた。
 あいつは『家出』したんだ。理由はよくわからないけど。家出の原因って、なんだっけ? ……家がいやだからだ。家にいたくないから、家出するんだ。俺も昔、父さんと母さんにこっ酷く叱られて、そういう“真似事”くらいした事ある。
 あいつが『家出』をしたのは、俺の家がいやだから? 父さんも母さんも、あんなに優しいのに? 何が不満なんだ? 俺に不満があるのはわかる。でも、俺の父さんと母さんの、あんなに優しい父さんと母さんの、何がいやなんだ?
 ――腹が立った。怒りが爆発したといってもいい。
 靴を履いて、玄関のドアを開ける。
「兄さ……」
 幽の引き止めるような声に振り返りもせず、俺は外に飛び出した。

 薄暗い道路。曇った空から雨が落ちてきて、俺の鼻先にあたる。肩にも、手の甲にも。
 キョロキョロ見回しても、あいつの姿らしいものは、どこにも見えない。目を凝らしても、それらしい人影が見当たらない。正直なところ、どっちに行ったのか、全くわからなかった。
 こうやって俺が立ち止まってる間にも、あいつは足を進めているはずで。
「……右。あっち」
 右斜め後ろから声が聞こえた。驚いて振り返れば、幽が傘もささずに俺の服を掴んで、右方向を指さしている。
 俺は幽の兄貴なのに、「家にもどれ」とか「父さんと母さんを起こして来い」とか、そういう幽の事を考える言葉を選ぶより、
「一緒に探すか?」
 幽がこくりと、それでもしっかり頷く。

 ――幽の言葉には、不思議な力があるのを、俺は良く知っていた。奇妙な強制力とでもいいのか、幽がそういえばそうなんだろうな、という、そんな感覚。
 だから俺は、幽の手を取って、幽が示す方向へ走り出した。


 こんな時間に、たった二人っきりで外に出るなんて、初めての事だった。
 しかも、こんな雨の中、傘も差さずに、二人して走って。こんな時間に外に子供二人いるのが珍しいのか、通り過ぎる人が、不思議そうに俺たちを怪訝そうに見下ろして、何も言わずに通り過ぎていく。
 電柱にとまるカラスの鳴き声が耳を突き抜けて、二人して電線を見上げて肩を震わせる。
 ――怖くないわけがなかった。
 不安で不安でたまらなかった。恐怖に押しつぶされそうだった。
 それでも、幽を怖がらせない為に、俺がしっかりするしかなかった。俺が怖がったら、幽はもっと怖がってしまうから。
「……かすか、次、どっちだ」
「左」
 幽の言葉を信じて、幽の示すほうに向かい続ける。

 ――もし、見つからなかったら?
 ――今曲がった道は、あいつがほんとに選んだ道なのか?

 いくら幽の導きがあるといえ、そういう不安は、拭いきれない。
 頭はもちろん体もずぶぬれで、服が体に張り付いて気持ち悪い。俺たちの体が雨で濡れるたびに、空は曇ったまま、それでも少しずつ明るくなってきて、どんどん町が目覚めていく気配を感じて――
「……いた」
 幽の指差す先に、あいつがいた。
 小さな細い通りを行った先。雨に濡れたビルの裏口だと思われる、地下駐車場に通じる入り口のところ。俺たちと同じようにずぶぬれになって、そこで雨が止むのを待っているみたいにしゃがみこんで、ぼうっと空を見つめていた。
 二人してそいつのとこに走っていけば、そいつはまるで信じられないものでも見るかのような目で俺たちを見て。
「ぁ……」
 俺と幽を交互に見て、小さな声をあげるその姿。怒鳴り散らすつもりで行ったのに、膝を抱えて小刻みに身体を震わせてるのを見て、どうしてか怒ることができなかった。
「……さむいの?」
 先に口を開いたのは幽だった。気遣うように尋ねて、それでもこいつから返事が返ってこないのを察すると、幽は俺から離れて、おずおずとこいつの左隣に座り込んだ。そのまま幽がぴったり引っ付くみたいに寄り添うものだから、そいつは驚いて目を見開いた。けれどすぐにほっと息を吐いて、強張った肩の力をゆるゆると抜く。それでも、体はふるふると小さく震えたままだった。
 幽が不安そうにそいつの顔を見つめ、そうして俺を見上げる。
 ――こいつに、何をしろってんだ、俺に。内心悪態をつきながらも、俺はそいつの正面まで近づき、しゃがみこんで手を伸ばした。
「っ!?」
 両手を頬で包む。いや、掴む。まばたきを繰り返す目が俺を見つめる。そのまま、ほっぺたをぐりぐりとこねくり回して、たてたてよこよこまるかいてちょん。
「ひぅ……っ!」
 思いっきりやったら痛かったみたいで、こいつの目じりに涙が浮かんだ。ざまあみろ。ふんと鼻息を荒くしながら、俺は幽かの反対側へ座り込んだ。小刻みに震える身体に仕方なく身を寄せる。
 ざあざあ。雨の音。
「ねえ、どうして家、出たの」
 幽の独り言みたいな問いかけに、こいつの身体が強張った。
「……家に、帰りたかったから」
 少なくとも、こいつの言う『家』が俺の家じゃ無い事は、なんとなくわかった。
「その家って、どこにあるの?」
「ゎ、わかんない」
 泣きそうな声だった。
「わかんねーのに、行くつもりだったのか?」
 俺が尋ねると、小さく頷いた。俺の言葉にいっつもビクビクしてたこいつが、はじめてちゃんと答えた瞬間だった。
「うちじゃ、だめ?」
 幽の問いかけに、もう一度こくん。
「どうして?」
 しばらく間をおいて、そいつがぽつりと、呟いた。
「お父さんも、お母さんも、いないから」
 思わず目を伏せた。
 こいつの言う『お父さん』と『お母さん』は、絶対に、俺の父さんと母さんの事じゃない。
「……いないの?」
 幽が控えめに尋ねると、
「うん、いなくなっちゃった」
 そう答えるなり、そいつは身体を丸めて、抱えた膝に目頭を押し付ける。
 幽が俺のほうに視線を向けてきた。伺うような眼差し。俺が何も言わずにいると、幽は少し俯きがちになって、静かに泣くそいつを慰めるみたいに頭ごと寄り添った。

 ――たぶん、おそらく、俺の想像にすぎないけれど。
 こいつの『帰りたい家』ってのは、この地球上のどこを探しても、もうないんじゃないか。
 それが、こいつの『家庭の事情』ってやつなんじゃないかって、そう思った。

 こいつが背中に背負ってる、家出をするにあたって大事なものがつまってるだろうリュックに視線を向ける。この中にはきっと、あの黒い積み木が入ってると思った。もちろん、俺が壊したものも含めて。俺がこいつの事を薄気味悪いと思った半分以上の原因が、その黒い木だった。
 じいちゃんちに行くと、必ず仏壇に線香を立てるんだけど、そこにこいつが持ってる黒い木にそっくりなのが置いてある。つっても、こいつが持ってる木みたいにつるつるピカピカはしていない。じいちゃんちにあるのは、なんだかすごく時間が経って、薄汚れてしまったものだった。
 つるつるピカピカのやつは、お盆にお寺に行ったとき、寺の中に入ってすぐ、真っ先に目に飛び込んでくるすごくでかい仏像の足元に、置いてあるのを目にした事がある。
 この木の名前はわかんないけど、多分、人が死んだ代わりに作るものだろうって、なんとなくは理解していた。

 それが、二つ。
 『お父さん』と、『お母さん』のぶん。

 今になってようやっと、こいつの境遇がわかった。気付いてしまった。
 そもそも最初におかしいと思うべきだったんだ。小さな子供が他人の家に引き取られる事になるっていうのは、かなり異常な事だって。
 でも俺は嫌だと喚くばっかりで、ちっともそっちに気を向ける事が出来なかった。

 こいつの家族はどっか遠いところに行って、隣にいるこいつだけが、ひとりだけ置いてけぼりを食らったんだなと思った。それが、幸せな事なのか、不幸せな事なのか、俺にはよくわからない。それを判断するのは、大人でもきっと難しい事だ。一つだけ言える事は、もし俺の家族が、父さんと母さんと幽が俺を置いてどっかにいったら、ぎゃんぎゃん泣き喚くに違いない。

 横目でこいつを見れば、震えたまま泣いてる。
 ちゃんと理解した今、怒鳴る事も、泣くなって言う事もできなかった。俺にはちゃんと家族が居るから、だからこいつに何をしたらいいのかわからない。何をしても、こいつの慰めにはならないんじゃないかって、妙な確信があった。

 ――こいつの家族は、もうどこにもいないんだ。
 それで泣いてるやつに、なんて言葉をかければいい――?


 ――気がついたら。
 俺も幽みたいに、こいつに頭ごともたれかかってた。
「っ!?」
 途端にこいつは驚いて身体を強張らせたけど、小さな吐息とともにほんの少しだけ身じろぎして、ゆるゆると緊張を解いていく。
 触れ合う腕どうしが、頬があったかい。熱を帯びて、ぽかぽかする。
 いつしか、ざあざあ雨はしとしと雨に変わって――こいつの震えはおさまっていた。
 雨の音、人が通り過ぎていく足音。周りはすごく騒がしいのに、俺と幽とこいつの周りだけがそこから隔離されてるみたいに、すごく静かだった。俺が呼吸する音の中に、隣から、小さく呼吸する音が聞こえる。
 思えば、同じクラスの、同い歳の女子と、ここまでくっついた事あったっけ――?
 隣を見れば、そいつは俯いててどういう顔をしてるのかわからなかったけれど、それでもしっかり耳が赤くなってた。その意味をはかりかねて、俺はこいつから視線を逸らす。
 今更になって、俺がやってる事は恥ずかしい事なんじゃないかと思えてきた。離れたほうがいいのかなと不安になったけど、幽は相変わらず寄り添ったままだし、こいつは何も言わないどころかピクリとも動かない。多分、嫌がってはいないと思う。
 なんだか、こうやってじっとしていると、身体が自由に扱えないといったらいいのか、スイッチを切ってしまったみたいに動かない。それでも、こいつにはちゃんと擦り寄ったまま座ってる。俺はたぶん、こうやって引っ付くのはいやじゃない。幽だってそうだ。

 どのくらいそうしていたのか――正面に、誰か男の人の足。
 雨に濡れたコンクリートを小走りで駆ける靴の音が、地面を通じて身体に響く。外のざわめきからしっかり遮断されてた俺たちが、ようやく音を認識した瞬間だった。
 視界に入り込む、ひどく見覚えのある服と靴を認識して、俺は――俺と、幽と、こいつは、三人揃って一緒にのろのろ顔を上げた。
 俺たちを均等に見る眼差し。父さんは、まったく怒ってなかった。
 父さんは俺たちの前にしゃがみこむなり、両腕を広げて、俺たち三人を一緒くたに抱きしめる。
 覗き見た父さんの横顔は、――目じりに涙を浮かべてた。



    * * *



「いやだーっ!!」
 わめいた。泣きはしないけど滅茶苦茶に喚いた。何故なら、これ以上ないくらい恥ずかしかったからである。それ以外の理由なんかない。
「我侭言わないの!」
「わ、我侭とかそういう問題じゃないだろ! これ以上暴行を働いたら母さんをセクハラで訴えっくひゅっ!!」
 とりあえず、知りえる限りの言葉で母さんに立ち向かったら、最後の最後でくしゃみが出て、かっこよく決まらなかった。ぶっちゃけかっこ悪かった。それがおかしいのか、微笑ましげに見下ろす母さんの眼差しが妙に痛く感じる。何か反論する言葉を考えてるうちにまた鼻がむずむずして、もう一度くしゃみが出た。すんとひとつ鼻をすすって、母さんを見上げる。
「静雄は『お兄ちゃん』でしょ? 我慢しなさい」
 お兄ちゃん、のあたりを強めに言って、そのあときゅっと鼻をつままれた。押し黙るほかない俺の首根っこを、母さんは容赦なく掴みあげ、暴れる俺に構わず洗面所に放り込む。

 雨が降ってたせいか、いつもより湿気じみた洗面所の真ん中。そこにぽつんと幽が立っていた。濡れてへにゃへにゃになったTシャツを脱ぎかけていた幽は、洗面所に放り込まれた俺を見るなり一度動作を止め、ややあってからまた服を脱ぎはじめる。
 すごく平気そうな、ごく普通通りの幽の顔を俺は呆然と見つめ、
「な、なんで脱いでんだ?」
「……だって、母さんがうるさいから」
 もっともだった。これ以上母さんに反抗したらどうなるか――考えただけでゾッとする。
 溜息をついて部屋の中を見回し、ふとあいつがいない事に気がついた。
「……あいつは?」
「ん」
 幽が指差した先、洗濯機の影になってる角のとこ。あいつはその隅っこギリギリにへたりこんで、頭を抱えてこっちに尻を向けて、さながら団子虫のごとく丸くなってた。隠れてるつもりなのだろうか?
「……あたま隠して、しり隠さず」
「うん?」
「いや、なんでもねえ」
 目を逸らす。なんともいえない歯痒さと、妙に気恥ずかしいこの空気が耐えられなくて、目線を足元に落とした。

 あれから――俺たちを見つけてくれた父さんの車に乗って家に帰ってきたあと、玄関で出迎えた母さんにこっぴどく叱られた――なんて事はなかった。母さんも父さんと同じように俺たちを抱きしめて、俺たち三人全員の頭に軽くチョップして、涙ぐんだ目を細めて笑いながら。
「とりあえず、一緒にお風呂入っちゃいなさい」
 母さんは「もう晩いんだから二人ともさっさと寝ちゃいなさい」みたいな気軽さでさらりと死刑宣告みたいな恐ろしい言葉を吐き、何故か俺たちをいっしょくたにして洗面所に放り込んだ。
 一緒にお風呂という言葉になんとなくかなり嫌な予感がして「何すんだよ!」と言えば、母さんはさらっと「びしょ濡れでしょ? お風呂沸かしてたから、体あっためてきなさい」と言ってのけたのだった。
 慌てて洗面所を飛び出して玄関にいる父さんに助けを求めたのだけれど、スーツに着替えた父さんはぴしっとした佇まいでありながら、すごく微笑ましそうな感じで俺を見下ろして、「風邪引くから、お母さんの言うとおりにしなさい」と言葉を残して、仕事に向かってしまった。
 この家には、肝心なときに俺の味方をしてくれる神様はいなかった。
 母さんは俺たちが濡れて帰ってくるのを見越してるふうに、お風呂をわかして待っててくれた。お母さんは時々、俺や幽の行動を先回りして行動するときが、ごくたまによくある。俺はそれが少し怖い。母さんは俺と幽のことを、なんでもわかりきってるみたいで、だからこの家の神様は、きっと母さんだ。だから肝心なときに味方をしてくれない。
 ぼんやり考えていると、俺の後ろでドアが開く音がした。母さんだった。
「……あら? ちゃんは? もう先に入っちゃった?」
 あいつの姿を探してるのか、きょろきょろ見回している。反応できない俺に見かねたのか、幽がさっき俺に示したときみたいに「ん」と洗濯機のそばの隅っこを指差して、母さんをじっと見つめる。幽につられるように母さんが洗面所に入ってきて、隅っこで丸くなったの姿を見て、小さく噴出した。
「っ、ちゃん、」
 母さんが笑いを堪えながら丸くなってる団子虫のそばにしゃがみこんで、ゆさゆさと肩を揺さぶる。すると団子虫は警戒を解いて、のろのろと身体を起こし、――どうしてかほんのり赤くなってる顔を、母さんに向ける。
「こーれ、お風呂で使うでしょう?」
 お母さんが笑顔で差し出した、黄色いアヒル。見慣れないそれは、多分あいつの持ち物だ。
 それを大事そうに両手で受け取って、こくんとしっかり頷く。それで満足したのか、母さんはにこにこ笑ってあいつの頭をひと撫でした後。
「ほら、静雄も早く服脱ぎなさい。でないとー……」
 俺に向けてニヤニヤ笑いながら、両手をわきわきと動かしはじめた。
 俺はわき腹がめっぽう弱かった。だから母さんが何をしようとしているかすぐにわかってしまって、慌てて壁際へ逃げた。
「あ、あいつだって脱いでねーだろ!」
ちゃんは女の子だからいいのよ」
 なんで女の子だといい事になるんだ? 疑問に思ったけど、手をわきわきと動かしながらニヤニヤ笑う母さんがじわじわと近づいてきて、もうそれどころじゃなかった。
「う、わ、わかったから! わかったから!」
「よろしい」
 母さんが見せる笑顔は、俺にとって呪いだった。それに加えて、頭を撫でられると逆らえなくなる。ぐりぐりと頭をなでられて、俯くほかない。黙ってされるがままの俺に向けて、母さんは満足そうに微笑むと、俺の頭から手を離し、仲良く出来るわよね? 喧嘩しないわよね? と、目だけで尋ねてきた。
 あいつを見る。不安そうな眼差しを、手の中のアヒルに注いでる。でも、俺の視線に気付いたらしく、ふとこっちに顔を向けたが、慌ててすぐにパッと目を逸らしてしまった。
 なんとなしに母さんの方を見れば、あいつの方に向けてにんまり笑っていた。今こいつが顔を逸らしたのは、多分俺のせいじゃないだろう、絶対に。
 それから母さんが俺のほうを見て首を傾げて見せるので、……俺が控えめに、それでもしっかり頷くと、母さんは再度にこっと笑った。
「お風呂上がったら、朝ご飯だからねー」
 酷く楽しそうな調子で言いながら、胸の前で右手を振って、母さんは呆気なく洗面所を出て行ってしまった。呆然とする俺をほっといて、幽があいつのほうに向き直る。
 そのままくいくいと袖を引っ張って、
「……おふろ、はいろ?」
 そう話しかけた。
「で、でも……」
「さっさと入って上がっちゃったほうが、いいと思う」
 幽がとつとつと喋る。すごく説得力があった。確かにそのとおりだ。嫌な事をを前にしてうだうだしてるより、さっさと済ませたほうがらくだ。学校の宿題みたいに。
 それはあいつも同じだったようで、渋る様子を見せていたけど、
「……ぅ、うんっ」
 意気込んだように頷いて、手の中のアヒルをそっと洗濯機の上に置き。
 ――いそいそと服を脱ぎだした。
「って、ぅぎッ―――――!!?」
 悲鳴が声にならなかった。慌てて床に伏せる。
 服を脱ぐ音のあとに、あいつが困ったように「ええと」と呟いて、
「服、どうすれば……」
「ここ、洗濯籠」
「ぁっ、えっと、ここにいれればいいの?」
「うん」
 幽が頷くと、俺の視界にあいつの足が入り込んできた。思わず頭を抱える。
「兄さん」
「な、なんだよ」
「あたま隠して、しり隠さず」
「う、うるせぇ!」
 がばっと身体を起こしながら幽に向けて叫んだけれど、――あいつが、幽の隣に立ってる事を、俺はうっかり忘れていた。
「ぁっ」
「……ぁ、」
 目が合う。
 脱ぎかけの体制のまま固まったあいつが、徐々に顔を赤くしていく。
 普通、こういう時って、女子はキャーキャー騒ぐものだと思ってたから、非難されるかと身構えたんだけど、いくら経っても、あいつは俺を責めなかった。それどころか、俺を気遣うような、心配するような眼差しを向けてくる。
 また、伏せるしかなかった。
「あたま隠さず、しり隠さず?」
 幽の言葉に、突っ込むこともままならない。
 この、どうしようもなくおぼつかない雰囲気に、ただ唸った。唸ってもどうしようもない事はわかるけど、唸るしかなかった。
 幽が呆れたような溜息を吐く音が聞こえた。そして、その次に耳に入ってきた音で、俺は仕方なく顔をあげる。
「……お風呂、入らないの?」
 おずおずと、伺うような、声。
 その語尾に、付け足すように、ぎこちない声で、「平和島君」と。
 ――違和感というのかよくわからないけど、すっきりしないというか、なんだか居心地の悪い呼び方だった。俺がそう感じたのはおそらく、こいつの声が少し震えていたからだと思う。どう呼んだらいいのかわからないみたいな、そんな不安がこめられていた。
「……どっち?」
「え?」
 尋ねながら、しぶしぶ身体を起こす。あいつと幽のほうに背中を向け、Tシャツを脱ぎながら。
「俺も幽も、『平和島』なんだけど」
「……あっ」
 そういうつもりはなかったんだけど、自然とぶすっとしたような声が出た。それに怯むような、今更気付いたかのような声があがる。それに続けて「ええと」と困ったような呟き。
 俺が脱いだTシャツを洗濯籠に放り投げたころになって、ようやっと。
「……し、しずおくん?」
 戸惑いがちに、俺の名前を呟いた。
 こいつが俺の名前を初めて口にしたのは、雨上がりの朝、場所は家の洗面所で、だった。



    * * *



 まず最初に、こいつが髪と身体を洗うことになった。
 俺と幽は湯船につかって、こいつが身体を洗うのをじっと待つ。
 やっぱり長い時間雨に当たっていたせいか相当体が冷えていたみたいで、温かいお湯はすごく気持ちよかった。
 湯船に横に並んで入る俺と幽だったけど、俺は必死に壁のほうを見ていて、幽は黄色いアヒルを弄びながら、じーっと、あいつのほうばっかり見ていた。注意したほうがいいのかと思ったけど、あいつは別に気にしてないふうだったから、俺はひたすら押し黙る事に専念した。
「ね」
 身体を洗い終わり、次に髪を洗い始めようとしたこいつに、幽が声をかける。幽の声はひどく小さな声だったけれど、こいつはそれをちゃんと聞き取って、きょとんとした顔を幽のほうに向けた。
 首を傾げて、「ん?」と聞き返すこいつに、幽は湯船から少し身を乗り出して。
「……お姉ちゃん?」
 時間がとまった。ような気がした。
「ばっ、幽、おまえ何言って……!?」
「だって、母さん、『お姉ちゃん』になるって言ってた」
 お姉ちゃん。
 そうだ、幽にとってこいつは、のちのち『お姉ちゃん』になるんだ。
 じゃあ、俺は――? 俺とこいつは、なんだ?
 確かに、こいつのほうが俺より早く生まれてる。でも、同い年なのに、『お姉ちゃん』なのか? 同い年のキョウダイって、おかしくないか?
「幽君」
 ふいに、こいつが幽の名前を呼んだ。
「えっとね、好きに呼んでください」
「好きに?」
「うん。幽君が、呼びやすい呼び方で」
「じゃあ、『姉さん』」
「えへへ。うん、じゃあ私は、『幽君』でいい?」
「うん」
 幽が頷いて、湯船に座りなおした。
 すごくさらっと呼び方を決めた幽を呆然と見つめ、俺は口を引き結んでお風呂のお湯を見つめる。
 幽のこういう、すんなりといってしまうところが、少しうらやましく思えた。

 こいつが髪を洗い終わって湯船に入るのと入れ替わるように、俺と幽は風呂から出た。
 俺が髪、幽が身体を洗う。その間、あいつは一人風呂の中で、幽が散々弄り倒したアヒルと遊んでた。
 俺も、幽も、こいつも、特に何も喋らない。幽は無口なタイプなのでわりと喋らないのが普通だし、俺も幽と一緒にいるときは大抵そうだからそれが当たり前なんだけれど、こいつの場合はどうなんだろうか。口うるさいタイプなのか、物静かなタイプなのか。話をするのが好きなのか、嫌いなのか。
 何も喋らないこの空気は別に嫌ってわけじゃないけど、少し気恥ずかしくて、なんだかすごく居心地が悪い。あいつもそう思ってるんじゃないかと思って横目で伺えば、あいつはアヒルのくちばしにちゅーしてた。
 なんとなく、目を逸らす。髪を洗うのに専念する。
 シャワーで泡を流し終わって、次に身体を洗い始める。幽の動作は割りとのろのろで、俺が髪を洗っても幽はゆっくりごしごし身体を洗っている。だから、必然的に、俺が先に髪も身体も洗い終わってしまったから――
「……」
「……」
 湯船に並んでつかって、お互いに無言だった。
 すごく気まずい。あいつも俺に構わずアヒルばっかり弄ってて、それで気まずいのを紛らわしてるみたいだった。そのせいで水面が波打って、俺はその波紋を数える事で、気まずいのをなんとか紛らわそうとする。
 ――したのだけれど。
「ぁ、あのね、『静雄君』で、いいの?」
 唐突に、なんの脈絡もなく、あいつがそう話しかけてきやがった。
 仕方なく、隣に顔を向ける。
「それ以外に、なんかあんのかよ?」
 尋ねれば、こいつはまたアヒルの口にちゅーして、考え込むみたいな表情になって、
「……お、『お兄ちゃん』?」
「はあ?」
 素っ頓狂な声が出た。途端にこいつは「ご、ごめんなさい」と謝りだす。
「な、なな、なんで『お兄ちゃん』なんだよ!?」
「だ、だって、静雄君は、このおうちの『お兄ちゃん』だから……」
「そ、それは幽からすりゃそうだけど、お前から見たら違うだろ!?」
「でも、兄弟になるって……」
「俺より先に生まれといて、お兄ちゃんって、どう考えてもおかしいだろうが!」
「だ、だって、私、このおうちの子じゃないから」
 しんと静まり返る。
 こいつも、自分で言ってハッとしたのか、慌てたふうにアヒルに視線を落とした。
 このおうちの子じゃないから、お兄ちゃん? 正直意味が分からない。俺も水面に目をうつして、どうしてこいつがそういう考えになったのか、必死に考えてみる。
 考えた結果、よくわかんなかった。ただひとつだけわかった事は、こいつが俺にすごく遠慮してるって事だけだった。遠慮して、平和島家の長男の椅子を、俺に譲ったまま引き下がるつもりなんだろう。
 とはいえ、俺より早く生まれて、『お兄ちゃん』はかなり無理がある。それだったら寧ろ――
「……『姉ちゃん』」
「へっ!?」
 水面が激しく波打った。隣にいるそいつを見れば、驚愕で目を見開いてる。
「お前は俺より早く生まれたんだから、そう呼ぶのがいいだろ」
「えええっ!?」
 驚く声は、こいつが今まで出した声で一番大きかった。
「お、おかしいよ、そんなの……」
「だろ? お互いに『お兄ちゃん』とか『姉ちゃん』で呼ぶの、すごくおかしい」
「ぇ、ぇと、……う、うん」
 困ったように、小さく頷く。
「だから、最初の呼び方でいい」
「……えっと、『静雄君』?」
「うん。それが、一番いいと思う。それに、お前が最初に俺のことそう呼んだって事は、それが一番しっくり来る呼び方なんだろ?」
 尋ねれば、小さな動きだったけど、すぐにこくんと頷いてくれた。
「……じゃあ、えっと、俺はお前の事、なんて呼べばいい?」
「ぁ……そ、その……」
 アヒルを弄りながら、すごく言いにくそうに、もじもじしはじめる。
「……な、名前で呼んでもらえると、うれしい」
「ぇと……」
 。これが、こいつの名前。
 たったそれだけ、といえるくらい文字が少ない言葉なのに、それを口に出すのは、かなり勇気がいるものだった。
「っ、その……?」
「うん!」
 アヒルを両手にしたまま、嬉しそうに頷く。満面の笑顔、と呼ぶのに似合った、そんな顔で。
 しかし。
「……ちゃん、じゃだめ?」
「ぁ?」
、ちゃん」
 伺うような眼差し。俺の機嫌をはかりながら、それでも期待するような、そんな目。
 ――クラスの女子を、『ちゃん』付けで呼ぶことなんて、ほぼ無かったから、
「ぅ……、……、ちゃん」
 慣れない事をするのは、すごく恥ずかしかった。
「うんっ!」
 ぱああ、と音がしそうなほど明るい笑顔で、頷くその反応が、なおさら恥ずかしさを煽る。
 思わず顔を逸らして、波打つ水面を見つめる。隣のこいつが、アヒルを弄って、それが些細な波になって俺のほうへ。
 そんな小さな波が、一度だけ少し大きく揺れた。その直後に、隣で水がはねる音がして、
「えへへ、静雄君」
 ふに、と俺のほっぺたに、アヒルのくちばしが押し付けられる。
 とんでもないくらいの笑顔を浮かべて、俺の名前を呼びながら。
 あんだけしくしく泣いてたこいつが、俺の事を怯えたふうに見てたこいつが、今は普通に笑ってる。こんな顔もできるんだなって思ったら、どうしてか言葉が出なかった。
「……ぅ、ぁ、……ちゃん」
 かろうじてそう搾り出すように名前を呼べば、何が楽しいのか、こいつはにこにこ笑ったまま俺のほっぺたからアヒルのくちばしを離して、……はっとした。
 ――さっきまでこいつは、このくちばしに、何回かちゅーしてなかっただろうか?
 それが俺の頬に押し付けられて――気付いたとたんに、顔が熱くなった。両手で頬を包み込む。間接キス、なんて言葉が頭の中に浮かんできて、それでも気にしないようにと必死につとめる。隣にいるこいつは、引っ込めたアヒルを水面でぷかぷか遊ばせた後、両手でそっとすくい上げるようにして持ち上げて、またくちばしにちゅーしやがった。
 それを見て、癖なのかな、とそう思った。何回もちゅーしてるみたいだし、癖なんだろうなと思った。
 そうしてるうちに、ようやっと幽が髪も体も洗い終わったのか、湯船をじっと見つめてきた。俺と目が合うなり、幽は俺の隣に無理やり滑り込むように入ってくる。
「わ、ちょ、幽っ!?」
「兄さん、もっとそっちに寄って」
「え、いや、そ、そっちって……!?」
 隣のこいつをちらりと見れば、こいつも俺のほうを見て、慌てた様子で端っこに身を寄せる。幽にぐいぐい押されて、俺もこいつのほうに身体を寄せざるをえなくなる。
 三人並んでの、お風呂。狭いから、身じろぎすれば肩が触れそうになる。真ん中の俺は必死に身体を縮みこませるほかない。
「ふふー」
 そんな俺の心境など知ってか知らずか、またほっぺにくちばしが当てられる。えいえい、とくちばしでほっぺたを押される。そのたびに肩が触れて、水面が波打つ。
 のぼせそうだった。


 お風呂からあがって、髪を乾かして、服に着替えて、三人揃ってリビングに向かったけれど、母さんの姿はどこにも見当たらなかった。食卓テーブルの上には俺と幽とこいつと母さんの分の茶碗が伏せられっぱなしで、母さんもまだ朝ごはんを食べてないみたいだった。台所にもいないみたいだし、どこにいったんだろうなと首を傾げれば、2階からほのかに物音が聞こえてきた。
 多分物置の整理でもしてるのかもしれない。呼びに行こうかと思ったけど、やめにした。
 台所に向かって、食器棚からコップを出す。いつの間にか隣に幽が立ってたので、幽のぶんのコップも出してやった。冷蔵庫から牛乳パックを出して、まず先に幽のコップに注いでやる。嬉しそうな無表情で牛乳を飲み始める幽に少し笑って、俺も自分のコップに牛乳を注いで――
「……」
 台所の入り口で、じーっと、物欲しそうな眼差し。
「の、飲む?」
 たどたどしく尋ねれば、こくんと小さく頷いた。それでもあいつはおっかなびっくりな感じで、台所に入ってもいいのかわからないといったふうに俺をじっと見つめるばかりだ。仕方なく俺が手招きしてようやっと、ぱたぱたと俺の近くに寄ってくる。
 また食器棚をあけて、手ごろそうなコップを取り出す。台の上に置いたコップに、俺が牛乳を注ぐのを、あいつはすぐそばでじーっと見てる。
 なんとなく、幽のときと比べて慎重な手つきになった。注ぐのがゆっくりになる。
 注ぎ終わって、二人で顔を見合わせる。
ちゃ……」
 どうぞ、というふうな感じで牛乳の入ったコップをすすめようとしたら、なんだか背筋にぞわっとした感じが走った。口元が引きつって動かなくなる。
 いやな予感がした。原因を探るように視線をあちこちに向ければ、すぐにわかった。
 ――いた。
 台所の入り口に、母さんがいた。
 いつ戻ってきたのやら、入り口の壁に隠れるようにして、こっちをにやにやしながら見てた。
 母さんの姿に気付いたとたん、口元どころか身体全部が引きつって動かない。
「静雄君?」
 不思議そうにこいつが首をかしげて――ああ、多分この呼び方、絶対母さんにからかわれるな――なんて思ってると、こいつは俺からふいに目を離して振り返り、息を呑んで固まる。
「みーたーぞー」
 怖い話に出てくるおばけみたいな調子で、母さんが言う。途端にこいつの身体がビクッとはねて、なんでかわからないけど、俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。
 それをしっかり見た母さんが、にんまりと笑って。
「ふうん、仲良くなったんだー?」
「ううう……そ、そんなことはない!」
 うっかり『うるせえ』って言うところだった。もし言ったら頬を抓られるから、危なかった。
 と、くいくいと裾を引っ張られた。
「そんなことないの?」
「……ぁ」
 寂しそうな顔がじっと見つめてくる。
 ――まずい。
 が泣くんじゃないかと思って慌てて首を振ったら、がしごくほっとしたような顔になって、俺も少しほっとする。
 のもつかの間、はっとして母さんを見ればにまにまを一層強くしていた。
「ねね、『ちゃん』って呼ぶことにしたの?」
 母さんが身をかがめる。それにびっくりしたが、ぴたって俺にくっついてくる。少しびっくりしたけど、「くっつくな!」なんてに怒鳴れなかった。
「かかかっ関係ねーだろ!」
「そっかそっかあ、お兄ちゃんにしては、女の子に『ちゃん』付けは珍しいねえ」
「な、なんで納得してんだよ!? うんとも言ってねーだろ!!?」
 喚き散らす俺の頭を、母さんがにこにこしながらぽんぽん叩いて、牛乳パックを冷蔵庫にしまう。
「……珍しいの?」
 俺の服の裾を引っ張って、が、不安そうに聞いてくる。
 母さんがにまにま顔で見下ろしてくる。ここで嘘をついたら酷い目にあうのが簡単に想像できたから素直に頷くと、なおさらが心配そうな顔になった。
 ――首を振ればよかった。
 でも、首を振ったら母さんは絶対にまにま顔で俺を見てくるし……。悩む俺の横で、も悩んでるふうだった。
 そんな俺たちを、母さんは平等な眼差しでにまにま見つめ、
「さ、ご飯にしよっか」
 素直に頷くほかなかった。



    * * *



 朝ごはんを済ませて、茶碗を洗って拭いたり片づけをして――それで疲れてしまったのか、はリビングのソファでいつの間にか眠ってしまった。お腹が冷えるとよくないから、って母さんがの身体にタオルケットをかけると、は少し身じろぎして、また寝息を立て始める。
 ソファの向かいに置かれた応接テーブルのすぐ側に、母さんを間に挟んで、俺と幽が並んで座ってる。母さんが透明なファイルから薄くてピラピラした紙を次々に取り出し始める。それを俺たちは目で追いかける。
「二人には、最初からちゃんと説明しとけばよかったね、ごめんね」
 なんて母さんが言って、テーブルの上に並べるのは、新聞の切り抜き。一番大きい切抜きには、でかいトラックとごく普通の車がボコボコになったカラー写真が載ってる。怖かった。すごく。雨天、高速、スリップ、衝突、事故、即死、……不吉な言葉ばっかりで、自然と母さんの身体にすがってしまう。
 新聞の切抜きの日付は5月の中ごろ。春の空気が徐々に湿った暑さになってきた頃の話だった。
ちゃんだけ家でお留守番しててね、難を逃れたの。でもね……」
 お母さんが、がうちに来た事情をとつとつと喋りはじめた。言葉を噛み砕いて、俺と幽に分け与えるみたいに。
 の父親は、両親が早死にしていて、親戚とも不仲だったらしい。母親のほうは、両親どころか親戚もいなかった。だから、自然と“たらいまわし”になった。ぐるぐる、ぐるぐる、いろんな家をは転々して、「施設に預けようか」って話があがったところで、それが俺の母さんの耳に入ってきた。
 だから、父さんと相談して、のやつを引き取る事にした。要約するとそんな話だった。
「……姉さんと僕たちって、血、繋がってるの?」
 幽のぼやきに、母さんが首を振る。
「トオイシンセキ? とかいうやつか?」
「ちがうちがう。ちゃんと私たちに、血縁関係はまったくありません」
 俺の問いかけに、母さんが苦笑を浮かべる。
「……ちゃんのご両親とね、昔からの友人だったの。私と、お父さん」
 そう言って今度は、小さなファイルから何枚か葉書を出して、テーブルの上に並べた。正月に来る年賀状だった。
「お互いに年賀状送りあってたのよ。ほらこれ、ちゃん映ってる」
 母さんが示す一枚のそれには、母さんの言うとおり、っぽい子が映ってた。どこか旅行でいった写真なのか、見慣れない風景と、笑顔の
ちゃんのお父さんの仕事の都合で、遠いとこに引っ越す事になっちゃったから、会う事はなくなったけど、連絡だけは取り合ってたの。お兄ちゃん――静雄は覚えてないかもしれないけど、あなたが小さいころ、ちゃんに会った事あるのよ?」
「えっ!」
 素っ頓狂な声が出た。を振り返る。
「い、いつ?」
「静雄が、1歳すぎた頃だったかしら? ちょくちょく会ってたんだけど、覚えてる?」
「ぜ、ぜんぜん……」
 そもそも、1歳って……その時の母さんのことすら覚えてないんだけど。そんな考えが顔に出てたのか、母さんは小さく噴出して。
「そうよねえ、1歳のときの話なんて覚えてないわよねえ。確か……写真、撮ってたはずだから、今度見せてあげる」
「う、うん……」
 知らなかった。こいつと小さいころに会ってたなんて、初耳だった。
 でも、母さんが喋ってるのを、俺はふつーに聞き流したりする事もあるし、ただ今まで気に留めてなかっただけかもしれない。今になって考えれば、母さんがソレっぽい事を口走ってたときがあったように思える。実際のところは、ちゃんと覚えてないから、なんとも言えないんだけど。
ちゃんのお父さんとお母さんと、こう見えてすごく仲良かったのよ? 学生時代のアルバムとか、見せれたらよかったんだけど、実家にあるからなあ……」
 溜息混じりに呟いて、母さんが一枚の年賀状を手に取る。俺はその写真を、下から覗き込む。
 大人二人の間に、子供が一人が立ってる。これがの家族だった。
 家族がうつってて、みんな笑ってる。
 みんな笑って、こっちに向けて微笑んで――

「……っ!」
 引きつるような声と同時に、母さんのズボンにぽたぽた何かが落ちてきて、俺ははっと顔をあげた。

 ――母さんが、泣いてた。

 さっきまで、あんなに“にまにま”笑ってた母さんが、一転して、わななき、肩を震わせる。
 慌てて立ち上がって頭を思いっきりなでる。幽といえば、母さんの首に手を回して、ぴたっと抱きついてた。
「ご、ごめんね、ちょっと涙出てきちゃって……」
「泣かないで……」
「うん、ごめんね」
 幽の声にそう返した母さんは、泣き止まなかった。全然泣き止みそうになかったから、母さんの頭に手を回して抱きつく。
 誰にともなく「ごめんね」って言いながら、すんすん鼻を鳴らして静かに泣く母さんを見てるのが辛くて、だからうっかり貰い泣きしそうになって、母さんの頭に頬を摺り寄せて腕に少しだけ力をこめると、母さんが俺の腕をきゅっと掴んだ。

 母さんは、すごく優しい。厳しいとこもあるし、怒るとすげぇ怖いけど、優しい。
 父さんだってそうだ。威厳ないけど、でも、ずっとどっしり構えてる。母さんがおろおろしてるとき、笑いながら助言する。大丈夫だからって。その父さんの態度が、優しさからくるものだってなんとなくわかる。
 だから、をうちに迎え入れたんだ。新しい家族として。
 ……だってのに、俺はてっぺんの椅子ばっかり気にしてて――文字通りのガキだった。
 散々文句言って、喚き散らして、を泣かせて。父さんと母さんを困らせて。
 もっと、しっかりしなくちゃいけないと思った。
 平和島家の、長男として。



    * * *



 そのあとすぐに、母さんは泣き止んだ。目が少しはれぼったくなってたけど、お昼前には目のはれが引けてきて、その頃になってようやっと、ぐっすり寝てたが目を覚ました。
「もしかして、うちに来てから、眠れなかった?」
 お昼ごはんに母さんが作ってくれた焼きそばを皆で食べながら、母さんがに尋ねると、はおどおどと迷った視線を母さんに向けて、それから控えめに頷いた。
 それを見た母さんは少しがっかりしてた。けど、それって、手のひらを返せば、がようやっとぐっすり安心して眠れる環境になったって証拠なんじゃないか……?
 そう思ったけど、口にするのは恥ずかしかったから言わないでおいた。

 ご飯のあと、あの物置に入った。その場しのぎに物を寄せて、部屋の半分だけきっちり片付いたその隅に、丁寧に畳まれた布団と、の荷物が入ったダンボールとかばんが置かれてる。こんなただっぴろい、殺伐とした部屋で寝るなんて、正直無理がある。おまけに少しホコリ臭いような、かび臭いような臭いがするし、怖くて眠れないのも、無理はないように思う。
 布団の上に置かれた、ふかふかしてそうなぬいぐるみ。俺のでも幽のものでもないそのぬいぐるみのすぐ脇に置いてある小さな本を手に取った。
 それは漫画本より一回り大きくて、漫画本の二倍くらいの厚さがある本だった。
 タイトルは――
「……はなことばずかん?」
「わっ、わああーっ!!?」
 が慌てて俺から本をひったくる。そのまま床の上で本を抱えて団子虫になった。
「な、なんで恥ずかしがってんの?」
「……だって」
 ――馬鹿にされると思ったから。
 そんな、今にも消え入りそうな声に、自然と目を伏せる。どうやらこいつは俺のことがそんなふうに見えていたらしい。無性に悲しくなった。
「べ、別に馬鹿にしねーよ!」
「……ほんとに?」
「ほんとほんと」
 言いながらのそばにしゃがみこめば、がのろのろと団子虫状態を解除する。そのまま床に座り込むから、俺も腰を下ろした。
「……なんで馬鹿にされるって思ったんだ?」
「前の学校で、馬鹿にされてたから……」
 首を傾げる。「前の学校?」と聞けば、が小さく頷いた。
 の手元の本を見る。花言葉図鑑なんて、少なくとも、クラスの女子がこんなの読んでるの、俺は一度も見た事なかった。もしかしたら、俺が見てないだけで、誰かしら読んでるのかもしれないけど。
 まあ、馬鹿にされるというか、からかわれたんだろうなと思った。そういうのは、なんとなく、わからなくもないような気がする。
「好きなのか、それ」
「う、うん」
 が控えめに頷く。
 花言葉っていうと、あれだ。花に込められた意味があって、送るときとかのメッセージになるとかいうやつ。実のところはよくわからない。
 とりあえず、男より女が興味を持つようなものだという事は、漠然と理解していた。おまけにそれが、にしっくりくるくらい似合ってた。
 の手元にあるその本を横目で見て、畳んだ布団に背中を預ける。
「玄関の棚の上にさ、花あったろ」
 がきょとんと俺のほうを見る。
 玄関の棚のとこには、母さんが必ず、花瓶に花を添えてた。そのほうが「華やかだから」って理由で、必ず。飾ってない日はないってくらい。
 俺の言葉に合点がいったのか、が思い出したように頷いて、
「……ガーベラ?」
「が……?」
 耳慣れない言葉に、少しひるむ。
「ぇ、ええと、まあいいや。その花言葉はわかるのか?」
「『希望』」
 即答だった。けろっとした顔で、言いやがった。
「そ、その本貸せ」
「う、うん……」
 おずおずと差し出してくる本を受け取って、後ろの索引を見る。確かが口走った花の名前はガーベラだったから、そのページを開く。
 ――確認したら、あってた。正解だった。
「じゃあ、ええと。たんぽぽにも花言葉ってあるのか?」
 そこらへんの公園に咲いてる花の名前を言ってみると、
「たんぽぽは、『真心の愛』」
 再度本を確認して……はーっと、溜息しか出なかった。
 でも、俺が溜息をついたのを、は変なほうに勘違いしたのか、眉尻を下げて悲しそうな顔をする。
「あ、ちがうちがうっ。そういう意味じゃねえよ。す、すごいなって、純粋に……」
 慌ててそう呟く。
 おそらく、俺が次に何か花の名前をあげても、こいつはけろっとした顔で、その花の花言葉を言うに違いなかった。そう思わせる絶対的な何かがあった。
 そんなふうに感心してる俺を、はきょとんとした眼差しで見つめ、
「ぁ、ありがとう……」
 嬉しさを噛み締めるみたいに、つぶやいた。
 なんだか照れくさい。
「……花、好きなんだな」
「うん。好き」
 その言い方がひどく優しいもので、本当に好きなんだなと、そう思わされた。
「でも、こんなすごいのに、馬鹿にされてたのか」
 は何も言わず、それでもしゅんと肩をすぼめる。それが俺の言葉への返答だった。
 目を伏せるをじっと見つめて――ある事に思い至った。そもそも花言葉をからかうなんて、まず女子じゃありえないと思う。となれば……。
「なあ、その馬鹿にしてた奴って、“複数”か?」
「え? っと……その……」
 言いよどんで、控えめに首を振る。そんなのしぐさをみて、また溜息が出た。複数の反対は、一人。
「それって、女子じゃないだろ?」
 控えめに頷くを見て、――わかってしまった。なんとなく。
 俺のクラスにもそういうやつがいるから、……多分のことを馬鹿にしてたのは、そいつみたいな奴なんだろう。別には何もしてないし、ただ普通にそう過ごしてて、それが運悪くそういう奴の目にとまっただけだ。本当に、運が悪かっただけ。そんな事をしたって、気を引くことなんかできないのに、それでもちょっかいを出さずにはいられない、そういうタイプ。
 俺はそういうのを馬鹿だなあなんて遠巻きに見てたけど、を前にしてみると、そういう奴らの心境がなんとなく理解できた。悲しい事に。
 はーっと溜息をつく俺に、がおずおずと、
「や、やっぱり、変なのかな」
「ううん。馬鹿にしてた奴は、本物の馬鹿だなって。別に……ちゃんの趣味は変じゃねーよ」
 うっかり、『ちゃん』を付け忘れるところだった。そのせいで変に間があいたおかげで、が不安そうな顔になる。
「……静雄君、やっぱり、ちゃん付け、呼びにくい?」
「う……ん」
 首を振ろうとして、結局頷いてしまった。するとがしゅんと肩をすぼめる。
「……そ、そっか。えと、じゃあ、静雄君が呼びやすい呼び方で……」
ちゃんでいい」
「でも」
「慣れるように頑張る」
「が、頑張るって……ふ、ふつー、名前呼ぶのに、そこまでする必要はないと思うんだけど……」
 もっともだった。
 でも――
「でも、『ちゃん』がいいんだろ? だったら、慣れるように頑張る」
 俺の言葉に、はすごく納得のいかなさそうな顔をしていた。
 しかし次の瞬間には、にこーっとした顔で。
がいいよ、。ちゃんはなし」
「てめぇ、人の話聞いてねーだろ?」
「き、聞いてたよ! だって、すごく呼びづらそうだから……」
「だーかーらー、慣れるまで頑張るつってんだろうが」
「で、でも……」
「でも、俺は慣れるまで頑張る」
 きっぱり言えば、が徐々にむくれ顔になる。
 それを見て、確かにこいつは馬鹿にされそうだな、と一瞬だけ場違いな事を考えてしまった。
 どうやら多分、は頑固者とかいうやつらしかった。おとなしそうな見た目やおどおどした臆病な態度の割に、しっかり信念みたいなのを持ってるようだった。まあ、だからこそ家出なんかを実行に移したんだろうけど。
 じっとにらみ合っていると、は観念したのかむくれ顔を一転させ、こっちの機嫌を伺うように、
「む、無理してない?」
「うん」
「嘘つき」
 くすくす、楽しそうに笑いながら言われてしまう。機嫌は、なおったみたいだ。
「あのさ」
「ん?」
「俺はちゃんがいいよ。ちゃんが」
 俺の言葉にぽけーっとしてただったけど、くすっとささやかな笑みをこぼしたかと思うと、目を細めて、
「静雄君、ありがとう」



    * * *



 5人揃っての夕飯のあとに食べた、が家に来た日のあのプリンは、いつにもましてすごく美味しく感じられた。母さんが買ってくるいつものプリンなのに、賞味期限が昨日で切れてたプリンだったのに美味しかった。
 パジャマに着替えて、洗面所で歯を磨いて、寝る時間。
「明日、必要なもの、買いに行こうね」
 母さんがそう言いながら、の肩に手を置いた。はおっかなびっくり頷いて、それでも母さんがずっとにこにこしているのをじっと見上げ、ようやっと笑った。ぎこちなかったけれど。
「二人も行くんだからね」
「う、うん」
 母さんの言葉に、俺も幽も頷いた。あいつがトイレに行くってぱっとその場から離れると、母さんは今度はこっちにやってくる。
「二人とも、今日はえらかったねえ」
 にこにこしながら、頭をなでなで。
 今日はえらかった――たぶん、母さんがいってるのは、朝勝手に家を出た事だろう。正直怒られるつもりだったんだけど、そういえば今日は怒られなかった。
「……なんで怒んねぇの?」
「うーん、最初は怒るつもりだったんだけど、……二人ともすごくえらかったから、いいかなって。えらいえらい」
 なでなで。嫌じゃないから、俺も幽もされるがまま。
「えらい?」
 幽のつたない問いかけに、母さんはうんと頷いた。無表情の幽が、少し微笑む。
「今日はとびきりえらかった二人にいい事教えてあげる。他人にやさしくするとねえ、ちゃんとそれが返ってくるの。相手にぶつけた想いは、ちゃんとそのまま返ってくる。だからね、優しくなって」
「優しく……」
 俺が呟けば、母さんはうんと頷いて。
「それと、静雄にいい事教えてあげる」
「え、俺だけ?」
「……僕は?」
 幽どことなく寂しそうに呟くものだから、母さんが苦笑を浮かべた。
「うーん、じゃあ、二人に。ちゃんね、月曜日から、あなたたちとおんなじ学校に通う事になったから……」
「えっ」
 そりゃあ……同じ家に暮らすんだから、行く学校も同じだろうって事は薄々思っていた。けれど、それを面と向かって言われると、なんともいえない気分になる。
「なあにその嫌そうな顔。ふふ、幽のほうはそうでもないみたいね。ちゃん、学校への行き方わからないと思うから、道案内とか、幽にお願いしようかなー」
「なっ――!?」
「わかった」
 声がひきつる俺の横で、幽がしっかり頷いた。
「お、俺だってできる!」
「ほんとにー? あやしいなあ」
「できる!」
「よし、その言葉をまってた。任せたからね」
 ぐりぐりと頭をなでられたかと思うと、母さんが上半身をかがめて――頬にあたる、暖かな感触。
 頬にちゅーされると、俺はいつも恥ずかしくて喚くんだけど、今日はただ固まるばかりだった。
 廊下の向こう側に、小さな人影。
「……ぁっ」
 驚くようなの声はすごく小さかったけど、どうしてか俺の耳に鮮明に届いた。
 はなんだか“見てはいけないものを見るような目つき”で俺たちを見つめ、それからすごく寂しそうに目を伏せた。
 母さんも、幽の頬にちゅーしてようやっとの存在に気付いたみたいで、僅かに目を見開く。暫くのあいだ、お互いに無言で見詰め合っていたけれど、母さんがにーっと荷笑って僅かに右手をあげれば、はピクリと肩を震わせて、
「ぁ、その、おやすみなさいっ」
 頭を下げて、パタパタと階段をあがっていく。
 母さんのお得意技の『おいでおいで』が不発に終わって、母さんは少し残念そうな苦笑を浮かべるのみだった。

 俺と幽も母さんに「おやすみ」を言って、部屋に向かう。
 先に幽を部屋に入れて、廊下の電気を消す。幽が部屋のドアを開けてくれてるおかげで、そこからもれる明かりをたよりに、真っ直ぐに部屋に向かう。
 足を踏み入れる前に、が寝てるだろう物置のドアを見つめて――
「兄さん?」
「……なんでもない」
 口ではそう言いながらも、どうしてか部屋に足を踏み入れることができない。どうしてか、後ろ髪というか、なんだか襟首をひっぱられるような感じがつきまとう。部屋の中に目を向けても、どうしてか物置部屋のドアを振り返り、
「その、ちょっと待ってろ」
「?」
 我慢できずに、首を傾げる幽をそこに残して、ひたひたと足音をたてながら物置部屋のほうに向かう。
 ドアを二回、ゆっくりノックしてみたけれど、返事はない。
「……ちゃん?」
 ドア越しに話しかけても返事はない。
 は今さっき部屋にはいったばかりだし、そんなすぐに寝付けるものだろうか? ドアに耳をあててみるけれど、全然音が聞こえない。
 ドアを開けようか、迷う。本当はこのまま引き返すべきなんだろうけど、
ちゃん、ドア、開けるからな?」
 誰にともなく問いかけるような、勝手に部屋のドアをあける事への言い訳みたいな事を呟いて、恐る恐るドアを開ける。
 埃臭くて真っ暗な部屋の手前半分、綺麗になってる床に敷かれた布団が一枚。それは不自然に膨らんでて、すぐにがそこに寝てるってわかった。
 でも、多分、は起きてる。妙な直感というか、部屋の空気がやけに張り詰めてて、寝てる人がいる部屋の空気じゃなかった。
「起きてるだろ」
 声をかけても、返事はない。部屋の明かりをつけようかと思ったけれど、やめにした。ドアを開けっぱなしにしたまま、廊下から入り込むわずかな明かりを頼りに、膨らんだ布団のそばまで足をすすめる。枕元でしゃがみこめば、布団をかぶったが、あのぬいぐるみのお腹のあたりに頭を押し付けて横になってるのがわかった。
 の肩に手を伸ばす。触ろうとして一瞬ためらい、結局の肩に手を置いた。俺の手が触れた瞬間に、小さな肩がビクッと小さく跳ねた。
「……起きてるだろ?」
 ぬいぐるみの背中に回されてるの手が、ぴくっと動く。
「……お、起きてないもん」
 溜息が出た。
「なんで返事しねえの?」
「起きてないから」
「いいからそういうの」
 俺が呆れたように言えば、がうーっと小さく唸った。どうしてか、の奴は拗ねていた。とはいえ、はぬいぐるみにしがみつくように抱きついたまま一向にこっちを見ようとしないし、だからどういう表情をしてるかさっぱりわからないし、拗ねてるかどうかなんて俺の予想にすぎない。けれど、この態度と声は、拗ねてる以外の何物でもないと思う。
 一向に何も言わず、押し黙ったままのにしびれを切らして、俺は無理やりぬいぐるみを取り上げた。
「あっ!」
 ぬいぐるみを取り上げられ、両手を伸ばしたままの体制で、が固まる。対する俺も、ぬいぐるみを両手で抱えたまま、の顔を見て固まった。固まるほかなかった。
 廊下からほのかに差し込む光を反射したの目は不安がちで、俺とぬいぐるみを交互に見てる。
 ――泣いてた。だから返事をしなかったんだなと思った。
「……ごめん」
 伸ばしたままの腕にぬいぐるみを触れさせてやると、はぬいぐるみをおずおずと手にとって、大事そうに胸の辺りで抱きしめた。ぬいぐるみの頭に顔をこすりつけてから、伺うようにこっちを見上げる。
「……どうかしたの?」
「ええと……」
 言いよどむ。
 そういえば、俺、なんでの部屋に来たんだっけ――?
「……し、心配、だったから」
 かろうじて、といった具合にそう言葉を搾り出せば、は少し潤んだ瞳をしばたたかせて。
「平気」
 ぽつりと一言。
「……ほんとに?」
「うん」
 の即答は、逆に心配になるくらいだった。それでもは何事もなかったみたいに俺をじっと見上げ、
「静雄君、部屋に戻らないの?」
「え? あ、うん……」
「……それじゃ、おやすみなさい」
 曖昧に頷く俺に、目を細めて微笑んだ。
 のその言い方はすごく柔らかかったけど、明らかな拒絶だった。突っぱねるとかそういうのじゃなくて、もう突き放して落とすような、そんな感じ。
 ここまでされたら、部屋に引き帰るしかなかった。
 おやすみ――ぽつりと呟いて立ち上がる。
 くるりと身体を反転し、足を踏み出そうとして、
「……あ?」
 右足に何かが引っかかった。振り向くと、青白い手が布団の中に引っ込むのが一瞬だけ視界の端に映った。その手を視線で追いかけるように、の顔を見て、……苦笑しか浮かばない。
 また、枕元にしゃがみこめば、寂しそうな目が見上げてくる。

 ――我慢してるのかな、と思った。
 我慢してきたんだろうな、と思った。ずっと、ずーっと、こんな風に。

「俺たちと一緒に寝るか?」
 そう思ったら、なんでかそんな言葉がすんなり口から出てきた。
 はっと我に返ると同時に、が「へ…?」と潤んだ目を丸くして不思議そうに呟くと、何度も目を瞬かせて。
「ぃ、一緒に?」
「……おう」
 少し上擦った、疑問系の声はなんだか嬉しそうで、食い付いた、と俺も内心嬉しくなった。
 どう追撃したらは落ちるかなと、そう考えていると、がもぞもぞと布団を除けて体を起こした。ぬいぐるみを抱えたまま、じっと俺を見つめてくる。
 どうやらそれが、の返事らしかった。なんでか口元が緩みそうになるのを必死に堪えつつ、の手首を掴んで立ち上がると、も俺に釣られるようにして立ち上がった。
 そのまま足を踏み出そうとして、ある事に気付いた。
「……なあ、枕はどうすんの?」
「あっ」
 すっかり忘れていたといった具合に、が布団の上に置きっぱなしになってる枕を見下ろした。大人用サイズのそれを見てから、自分の腕の中のぬいぐるみを見下ろし、困ったような視線を俺に向ける。
「どっちかにしろ。ていうか、言っとくけど、俺の部屋の布団せまいし、三人並んで寝たら、ぬいぐるみ抱えて寝るスペースなんかないからな」
 悲しそうに眉尻を下げて、ぬいぐるみと枕を見比べる。にとっては、究極の二択だったようだ。そうして「うぅ」と、が小さく唸る。捨てられた犬みたいな声だった。
「……俺たちと寝るのと、ぬいぐるみと寝るの、どっちがいいんだよ」
 そう言ってから、がもしぬいぐるみの方を選んだら、という可能性を考えて、ちょっと焦った。
 そんな俺のことなど気にも留めず、は名残惜しそうに、ぬいぐるみの頭に口をつけ、片手でぎゅっと抱きしめて。

 ――ためらいがちに、俺の手を振りほどいた。

 声が出なかった。思考が止まって、音もうまくひろえなくて、ちゃんと床に足がついてるのかどうかすら、あやふやだ。
 は俺の方を一度も見ずに布団に戻って、ぬいぐるみを奥に押しやって、布団をかぶせて、俺の方をちらりと見上げる。
 そして、……枕を抱えて、戻ってきた。
「……静雄君?」
 怪訝そうな声でようやっと、『がぬいぐるみの方を選んだ』と勘違いしてしまった事に気付いた。よくよく考えたら枕を取りに戻らなきゃいけないから、俺の手を振り払うのは当たり前で――ほっと胸をなでおろす思いで、の手首をそっと掴む。

 二人して、ほんのりかび臭い部屋を出た。
 ゆっくりドアを閉めて、明かりの漏れる俺の部屋に向かう。

 布団の上に座ってた幽が驚いた表情で俺たちを出迎えたけど、仏頂面の俺と、枕を抱えたを交互に見て、次の瞬間にはもう全部わかったみたいに無表情に戻った。俺とに向けて布団をぽんぽん叩いた。その音に招かれるがまま、の手を引いて布団の上に座り込む。
「……どこに寝るの?」
「どこにって……」
 横に並んだ俺と幽の枕を見て、悩んだ。
「幽は……」
「端がいい」
 どこがいい? と聞くよりも先に、幽がきっぱりと答える。こうなったら俺が何をいっても幽が聞かないのはわかっていたので、のほうに視線を向ければ、はもう俺の枕の隣に自分の枕を置いていた。
「……いや、ちょっとまてよ」
「わ、私も端がいい!」
「ぁ、あのなぁ……」
 言いよどむ俺の正面でが正座して、ふんと鼻息一つ、断固抗議の姿勢を見せる。何をいってもきかなそうだった。
「……だめ?」
 しかし、何故か強気の姿勢を一気に崩し、伺うような声。
 ……溜息しか出なかった。俺が首を振れば、は嬉しそうに表情を崩す。
「か、幽、もうちょい枕そっちに」
「こう?」
「うん。ちゃんは大丈夫そうか?」
「うん、大丈夫」
 三人で寝る準備をととのえる。枕できっちり三等分した布団を見下ろして、狭そうだけど、どうにか寝れるだろうとぼんやり考えた。
 そうしていざ布団に入り込もうとすると、何故か幽はのほうに近寄った。自分が寝るのとは反対側のほうだ。不思議そうに呆然とするの頬に、幽はおもむろに顔を近づけて――
 俺は慌てて幽の腹に手を回し、小さい身体を抱き寄せた。
「おまっ、幽!? 今何しようとした!?」
「おやすみのちゅー」
 なんだよそれ。いや、意味はわかるけれども。
 けろっとしてる幽と、そんな幽が飛び出さないように必死に抱えてる俺を見て、はぽかんとしたまま動かない。
「な、なんで? 何でそんな事するんだよ?」
「母さん、姉さんにしてなかったから。その代わり」
「し、してなかったからって……」
 あれは、が母さんから勝手に逃げただけだ。だからって、その代わりにする必要はないはず――と、深く考えていたせいもあってか、自然と腕の力が緩んだ。その隙に、幽は俺の腕を強引にほどいて、正座してるのほうに飛び込んだ。
 が「わっ」と声をあげて、それでも両手でしっかり幽を受け止める。
 幽が膝立ちになって、の両肩に手を添えて――

 案の定、幽はやってのけた。

「おやすみなさい」
 何事もなかったかのように、幽がに向けていう。幽の行動に呆気に取られていたは、ぽかんとした顔で幽を見ていたが、次の瞬間にはくすりと笑みをこぼして、
「うん、おやすみなさい」
 幽のほうに顔を寄せて、ちゅっ、と軽い音。

 ――どうしてか、息が詰まった。

 そのまま指先だけで幽の前髪をなでると、に髪を撫でられて目を細める幽が見ていられなくて、俺は慌てて俯いてしまう。
 ほんとなら、笑ってそれを見守ってやるべきだったんだろうけど、出来なかった。別に幽をとられたから悔しいとかじゃなくて、……なんていうか、言葉にするのが難しかった。
「兄さんはしないの?」
「……えっ?」
 幽の声で、ぱっと顔をあげる。兄さんはしないの? って、何を――? すぐに幽の言葉の意味を理解して、俺は首を縦に振ることも、横に振ることも出来なかった。

 これからと『家族』になるんだから、は平和島家の一員になるんだから、こういう事は当たり前にするのかもしれない。父さんがの頭をなでたり、が母さんにおやすみの挨拶がわりにキスしたり、逆にしてもらったり、幽がに今みたいにおやすみのキスをしたり、せがんだりするかもしれない。
 でも、それって――

「兄さん、しないの?」
「へっ? あ、……いや、その。ちゃんはどうなの?」
「ええっ!?」
 が素っ頓狂な声をあげて、恥ずかしそうにもじもじと。
 ……この反応は、あれだ。覚悟を決めないといけないかもしれない。そう思っていたら、やっぱりというか、はためらいがちな態度ではあったけれども、
 ――してほしい。が聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう呟いた途端、の頬が徐々に照れくさそうな色に染まった。
 布団に目を落として、二人に聞こえないようにふっと溜息をつく。
 恐る恐るのほうに近づいて……どうしてか、怖いと思った。理由はわからない。
 僅かに膝立ちになって、の頬に、顔を近づける。大丈夫だ、いっつも母さんにするみたいにすればいい――そう思ってした『おやすみのちゅー』は、唇がちゃんと触れたかどうかひどく曖昧な、ささやかなものだった。
 それでも満足したのか、俺が顔を離すと、はひどく照れくさそうににこーっと笑う。少し恥ずかしそうでありながらも、何も言わずに俺の腕に手を添えて、さっきの俺と同じように膝立ちになる。
 俺は抵抗しなかった。
 アヒルのくちばしより遥かに柔らかい感触は、しっかりと頬に残った。
 が顔を離した後、無意識に頬に手を伸ばしたけど、なんだか触れるのも憚られるように思えて、すぐに手を下ろした。
 どうしたらいいのかわからなくて、ただ俯くほかない俺の頭に、の指先が触れる。前髪を撫でられ、それに誘われるように上目でを見れば、やっぱりは笑ってた。
 前髪を撫でる感触がくすぐったくて、顔を上げる。その動作が、自分からの手に頭を押し付けたみたいに思えてハッとした。そんな俺に、は優しげに微笑んで。
 ――なでなで。手のひら全体で頭をなでる感触は、母さんのとは全然違うものだったけれど、でも、すごく気持ちよかった。

 電気を消して、布団に入ると、俺の隣で横になってる幽から、すぐに寝息が聞こえてきた。
 朝早くから走り回ったし、よっぽど疲れてたんだろう。俺の左腕にしがみつくようにして、すうすう寝てる。
「し、静雄君」
 右手から、寝てる幽を気遣うような、小さな声。
「……なに?」
 俺が聞き返すのに言葉が返ってきたのは、かなりの間をおいてからの事だった。
「手、つないでもいい?」
「……うん」
 暗闇の中、の手を探るように動かす俺の手を、冷たい手のひらが遠慮がちにとらえた。
「ありがとう」
「ううん」
 ゆるく首を振ると、が身じろぎして俺の右腕に擦り寄ってくる。
 右肩にほのかにかかる吐息が、そばで眠るが――
「……あったかい」
 うっとりした声を聞いて、考えを読まれたかとぎくりとした。固まる俺をよそに、は更に引っ付いてくる。俺は天井を見上げながら、こいつ恥ずかしくねえのかな、なんて心の中で呟いた。
 しばらくして、のほうからも寝息が聞こえてくる。お昼まであのソファでぐっすり寝てたわりに、寝付きが早かった。で疲れたみたいだ。
 横目での方を見て、それからぼんやりと天井を見つめる。

 はそう遠くないうちに、――いや、たぶんもう、平和島家の家族の一員になったのかもしれない。これからは家に来たときみたいにびーびー泣かないだろうし、父さんと母さんに触られても怯えないだろうし、俺だっててっぺんの椅子を取られまいと泣き喚いたりしないだろう。幽だってそうだ。
 ほっぺたに残る、の唇の感触。おやすみのキス。これは家族にのみ許されるものだって、なんとなく理解していた。だって、学校の先生やクラスの男子や女子とかの『他人』には絶対にしないし、できないものだ。

 『他人』だったは、これからはもう俺の『家族』だ。
 でも、それって裏を返せば、他人にする行為は、絶対に向けられないわけで――

 たとえば、この世界にの家がちゃんとあったら?
 ――家族が生きてたら? そんな“もしも”を考える。

 『』として普通に過ごしていたら、いつかそのうち、俺が大きくなった頃に、と会ってたかもしれない。平和島じゃなく、という、赤の他人と。

 そうしたら――どうするんだろう。
 どうしてただろう、俺は。

 天井をじっと見つめながら考えて、目を閉じた。
 それから俺は、すんなり眠りに落ちてしまった。

 このときの俺は、次の日の朝、俺たちを起こしに来た母さんに滅茶苦茶にからかわれる事なんて、予想もしていなかった。



    * * *



 が家に来てしばらくして、気温がぐんと上がった頃に、あの黒い積み木がいつしか消えていた事に気づいた。父さんに尋ねてみたら、『エータイクヨー』とかいうのに入れたらしい。なんだか難しくて、よくわからなかった。首を傾げる俺に父さんは苦笑して、「お盆に墓参りに行こうな」って優しく言うから、素直に頷いた。

「わあ、すごい……」
 放課後、俺のクラスに足を踏み入れたは、開口一番にそう呟いた。何がすごいのかと首を傾げれば、パタパタと窓際に駆け寄って、熱帯魚の水槽を覗き込む。俺からしてみれば、熱帯魚の水槽があるのがもう当たり前になってた。だからこそ、の反応がひどく新鮮に思えた。
「静雄君のクラス、こんなのあるんだ。綺麗……」
「……ちゃんのクラスって、なんかあったっけ?」
「なんにもない」
 が苦笑しながら首を振った。俺はそれに「そっか」と返して水槽を覗き込む。
 が俺の学校に転校してきて、もう一週間になる。幸か不幸か、クラスは別々だった。多分先生というか、学校側が、と俺に配慮してるみたいだった。なんでそう思ったかっていうと、俺たちの学年を担当してる先生たちが、がうちに来る前と比べて、そういう遠慮がちな視線をときどき俺に向けることがあったからだ。もちろんにも。
 そういう先生の不思議な仕草っていうのを、俺たち子供は過敏だからすぐに汲み取る。
 が転校してきて三日経つ頃には、俺もも三学年の生徒全員から好奇の眼差しで見られるようになった。クラスメイトに「同棲だー」とか「夫婦だー」とか色々からかわれる事もかなりあった。俺ですらこうだったんだから、気の弱いのほうはかなり大変だったのかもしれない。でも、はそういう事は喋らなかったから、俺も尋ねることはしなかった。
 クラスメイトの囃すような言葉を必死に気にしないように努めた俺だったけど、それでも時々教室でキレそうになった事が何度かあって、そんな俺に見かねた新羅が笑いながらこう言った。
 『鼻で笑っとけば、そのうち収まるよ。相手にしないのが一番だね』と。
 なるほど一理あるかもしれないと思って、新羅の言う通りからかってくる奴を鼻で笑ってたら、最近は不思議とからかわれる事が少なくなった。むしろなくなったと言ってもいい。
 のクラスのほうは、多分もう落ち着いてると思う。のクラスの先生が見かねて、朝のホームルームに直に説明したって、人づてに聞いたから。
「あっ、えび!」
 水槽の中を見つめるは、すごく楽しそうだった。敷石の上をちょこちょこ移動する茶色い半透明のえびを、興味津々そうにじっと見てる。
「これ、なんていうの?」
 尋ねられて戸惑った。
「ミナミヌマエビだよ」
 言いよどむ俺の隣で、新羅が言う。それを聞いたがほーっと歓声にもとれる溜息をついて、
「岸谷君、詳しいんだね」
「ううん。先生が説明してたの、覚えてただけだよ」
「……他の魚も覚えてるの?」
「大体はね」
 森羅の言葉に、が目をらんらんとさせて、
「じゃあ、この魚の名前、わかる?」
「グッピーだよ」
 そんな二人の会話を、俺はそばでぼうっと聞いていた。
 そういえば、この前先生が新しく入れた魚。最近はすごくおとなしくなったように思う。最初は他の魚のヒレを噛んだりしてたけど、今は普通に水槽の中を泳いでる。
 慣れたのかな、と思った。魚にそういうのがあるのかはわからないけど。
「兄さん、帰らないの?」
 ぼうっと水槽を見ていたら、痺れを切らした幽が俺のTシャツの裾を引っ張った。時計を見ればもう4時半。耳を澄ませば、校庭から聞こえてくる声はあれど、他の教室から聞こえてくる声はない。
「……そだな、帰るか」

 昇降口前の、チラシとか映画の割引券とかが置かれてるスペース。そこにでかい花瓶が置かれてていつも花が活けてあるんだけど、朝来たときの花と違う花がそこに活けられていた。前の花はなんだか萎れていたし、だから新しい花に取り替えたんだろう。
 黄色くて、大きい花。その大きさが、自然と俺の目を引き付けた。
「ひまわりだね」
 ふいに足を止めた俺のそばに寄ってきたが、少し楽しそうに言う。
「……ひまわりの花言葉は?」
「『あなたは素晴らしい』」
 にこーっと笑って、相変わらずの即答。
 一瞬だけ、俺に向けて言ったのかと勘違いしそうになった。

 外に出ると、夕方の割に強い日差しにじわじわと溶けそうになった。
「ぁ、あっついねぇ。こっちって夕方になってもこんなにあついんだ……」
 俺の気持ちを代弁するかのような、の声。確かに、昨日や一昨日と比べて、徐々に気温があがっているような気がしてならない。
「あれ? さんて、静雄君の家に来る前はどこに住んでたの?」
 新羅の言葉にギクッとしたけど、を見ればごくごく普通の顔だった。
 はうーんと考え込んで、
「……いなか?」
「そこは普通県名だろ……」
 俺の言葉にが苦笑して、それを見た新羅もやんわりと目を細めた。
「田舎かあ。こっちよりは大分涼しいだろうねえ」
「うん、全然ちがうよー。どこ見ても山があったけど、こっちはずーっと真っ平らだよね。だから熱いのかな」
「多分そうだと思うよ。おまけに人口密度多いしね」
 新羅の言葉に微笑んで、が遠くを見る。懐かしむみたいに。
 そろそろ話を切り上げたほうがいいかもしれないと思っていたら、幽がいきなりの手を引いて、夕方の炎天下の中に飛び込んだ。少しの距離を走って、それから手を繋いでゆっくり歩き出す。
 俺と新羅はぼんやりそれを見送りながら、
「そういうお前はちっとも暑くなさそうだよな」
「十分暑いよ……」
 どちらともなく足を踏み出した。じりじり焼き付けるような日差しがきつい。
 少し遠くにある二つの影が、西日を背負って俺たちに手招きをするのを、眩しさに目を細めて見つめる。
 あんなにしとしと降ってた雨はもうやんで、いつしか夏と呼べる季節になっていた。


 <了>


2012/08/02
おまけ:はかりちがえた距離 蛇足みたいな話です