1.

 臨也は懐から折畳み式ナイフを取り出そうか迷い、身の危険を感じて地に伏せた。
 直後、頭上でぶんっと風を切る音がした後に、どぐわっしゃん、と豪快な音を立てて何かがどこかにぶつかる音が聞こえてくる。すぐに立ち上がり、今しがた自分の身体の上を飛んでいったものを見極めようと、首だけで振り返った。
 公園と道路を隔てるための白いフェンスに、マンホールの蓋がのめりこんでいた。
 およそ成人女性の平均体重と同じ重さらしいそれを、あんな豪速で投げた挙句、フェンスに突き刺す奴は、世界広しといえどこの平和島静雄以外には誰もいないだろう。出会ったときから化け物じみている奴だと臨也は思っていたが、こうも簡単に、まるで映画のワンシーンのような瞬間を見せられると、これが当たり前なのだと思いかけてしまう。だから、嫌でも感覚が麻痺してくるのを実感する。
 臨也は舌打ちをし、それでも落ち着いた様子で走り出す。あんな豪速のマンホール、頭に当たったらどうなるか。想像する。頭がパックリ割れて、白子のように脳みそをぶちまけて死ぬのは明白だ。それに自分の姿を重ね、臨也は背筋に冷たいものがせりあがってくるのを感じた。怖気づいている、とは思いたくはなかったが、それでも臨也は、今日は虫の居所がいつにも増して頗る悪いらしい静雄から距離を置くことに専念した。
 しかし、静雄は追ってこない。何をしているかと思って振り返れば、あのフェンスのほうへゆっくりと歩いて行く姿が見えた。臨也は怪訝そうに眉を寄せ、走る速度を緩めながら、静雄の様子を伺う。静雄は白いフェンスにめり込んだマンホールの端に手をかけると、難なくそれを引っこ抜いた。それからキョロキョロとあたりを見回し、何かを探すような仕草を見せた後、ゆっくりと走る臨也の姿を捉えた。途端に口の端を緩める静雄と目が合った瞬間、臨也は直感的に飛び出した。視界の端に片手を大きく振りかぶる静雄の姿が映る。直後、近くで固まったままの一般人から歓声にも似た悲鳴が上がった。
 いやいやありえないでしょふざけんな。臨也はそう心の中で唱えながら、ほぼ自分の感覚に頼り、無意識に左へ反れるように飛んだ。さっきまで自分がいた場所にでかい円盤が落ちてきて、鈍い音を立てる。騒音で耳がびりびりする感覚に臨也は顔をしかめつつ、ゴロゴロと道路を転がっていくマンホールの蓋の姿を目で追いかけた。縦になって転がっていったマンホールは、数メートル先にある、道路の真ん中にぽっかりあいた穴に躓くようにして傾き、勢いに任せてそのまま倒れこんで穴に蓋をした。
 まさか狙ってやったのだろうか。いや、偶然だな。臨也はそう自己完結した後、再度舌打ちをして近くの茂みの中に逃げ込んだ。昨今の緑化計画ブームに乗せられて作られたであろう歪な植え込みの中を進みながらも、臨也は静雄の姿を探す。しかし探す間も無く静雄の姿をすぐに見つけた。
 静雄といえば手ごろそうな街灯を見定めると、片手でそれを掴み、難なく引っこ抜く。その呆気なさは、まるで人が道端の雑草を引っこ抜くというものに似ているが、普通の人がそんな事をできるわけがない。
「いーざーやーくーん、かくれんぼですかー?」
 ガキのような挑発にクソ、と悪態を吐きながら、茂みに身を隠した。昔に比べ、静雄の力が増してきたなと、臨也は頓に思う。以前は街灯やら道路標識やらを引っこ抜くにもそれなりのラグが――とはいっても一秒か二秒程度だが――あったはずだが、今はどうだろうか。
 その考えは、静雄がこちらに全速力で走ってきたことにより、中断されることになった。実に唐突に、自信たっぷりに臨也のほうに走ってくるものだから、流石の臨也も引きつった表情になった。
 臨也は柄にも無く慌てて立ち上がり、不安定な足元を気にすることなく走り出した。どんな嗅覚をしてるんだよと叫びたくなるのを堪える。
 と、いきなり右足に何か違和感を感じた。息を呑む。
 何かに躓いた、と思うよりも先に身体が動いた。体制を整えようと意識が働いたが、急に背筋の凍るような殺気を感じ、臨也は流れに身を任せた。
「ゎぶっ!!」
 顔から転んだせいで、素っ頓狂な声が出た。それが幸いしてか、薙ぎ払うように振り回された街灯を回避することができた。
「うーわイザヤ君、躓いて転ぶとか、ダッセー。ヘッピリ腰になってんぞ!」
 静雄の声が耳に届くなり、臨也は端正な顔を歪め、苛立ちを露にしながら小さく舌打ちをした。街灯だらけの街中の癖に、周りに植えられた街路樹の、生い茂った葉によって光が遮られ、そのせいで辺りがよく見えない。暗闇の中、手探りで地面に手をつく。
 ――手をついたつもりだったが、手のひらに伝わる感触は、地面のそれではなかった。
「うるさいよシズちゃん! 私服ワンパターンの君にだっせえとか言われたくないね!」
 言いながら、手を弄る。ざらざらしながらもやや乾燥したその感触は、どうやらそれは布のようだった。
「ああ!? そりゃこっちのセリフだろうが!!」
 静雄の怒声が聞こえたが、臨也は構わず手を伸ばす。恐る恐る布伝いに手を這わせると、手のひらに妙な暖かさが伝わってきた。
 なめらかで、やたらに暖かい。
 指で軽く押してみれば、ふにゅりと少しの弾力が返ってきた。
「俺の服のどこがワンパターンなのさ。ほんっと、シズちゃんの目って節穴だよね。ゴミでもつまってんじゃない?」
 そう言いながらも、意識はどっちつかずの状態だった。静雄がすぐ傍にいて、しかも狙われている状況だというのに、臨也は逃げることよりも先に、恐る恐るそれを握りこむ。
 ややあってから、きゅっと弱弱しい力で、臨也の手を握り返してきた。
 なんだこれ。臨也は心の中でそう呟いた。
 身体の下に何かいると思った。獣、とはまた違う何かだ。
 目を凝らす。
 ――顔のすぐ真下で、双眸がまっすぐに見上げていた。
 息を呑む。
「ンだとコラァ!」
 静雄の怒声に、臨也は挑発が成功した事でしてやったり顔になったが、次の瞬間にはすぐに反応を見せた。自分の身体の上に何かが振り下ろされる気配を感じると、飛び出すようにして茂みから身を躍らせた。
 舗装された硬い地面の上を転がり、それから尻餅をつく形になって、臨也は一息ついた。そうして、胸に抱きかかえたそれを見下ろした。大きなまなこがじっと見上げてくる。目が合うなり、臨也はなんとなく、小鹿を連想した。
 静雄が振り向きざま、地面にめり込む形になった街灯を引っこ抜く。
「いーざーやーくーん、逃げてんじゃねえよ!!」
「ストーップ! ストップストップストーップ!」
 静雄が足を踏み出そうとした瞬間、臨也が叫びながら手のひらを突き出すと、流石の静雄も「ああ?」と凄みながらも動作を止めた。昔ならこういう風に止まらなかっただろうに、と臨也は口元を引き攣らせる。静雄が僅かに成長していることは紛れも無い事実で、それが無性に腹立たしかったが、それでも今この瞬間、攻撃態勢を止めてくれたことに、臨也は少しばかりの安堵を覚えた。
「シズちゃん、その年で人殺しの肩書き背負うつもり? ブタ箱入りたいの? まあ入りたいなら入ればぁ?」
「あぁ?」
「おんなのこ! これ!」
 臨也は強調するように、腕の中の少女を指差した。
 女の子、と臨也が評するように、やや幼い顔立ちの、小学校高学年ほどのランドセルがギリギリ似合いそうな少女だった。とはいえ、怪しい風体とも取れかねない、ぼろ布のような服を身に纏っているのは、臨也としては少し頂けなかったのだが。
 そんな、臨也の腕に抱きかかえられている少女は、怖がりすぎるあまり身動きが取れなくなっているのか、はてまた何が起こったのか一切合切わかっていないといった風に、ぽかんと臨也を見上げている。
「こーんな、あどけない女の子に暴力振るおうとしたとかマジサイテーだよ」
 言いながら、臨也はそろりそろりと静かに後ずさりを試みる。方や普通に両足で立ち、方や地面に座っているのだ。臨也が立ち上がって逃げる体制に入るのと、静雄が走り出し手にした街灯でぶん殴るのは、どちらが早いだろうか。だから臨也は、静雄から少しでも距離をおきたかった。
 それでも、もしどうしようもなくなったら、この少女を身代わりにして逃げるつもりであった。お人よしの、根は優しい、臨也からすれば反吐が出そうなほど無自覚フェミニストの静雄の事だ、こんないたいけな少女が一人、夜中の池袋にぽつねんといたら、恐らく構わずにはいられないだろう。
 そうして、はたと気づいた。――今は何時だっただろうか?
 臨也は静雄を刺激しないよう、恐る恐るといった様子で、コートのポケットから、白いスマートフォンを取り出した。片手で操作し、明るくなった画面を横目で見れば、23時28分と表示されていた。子供がうろつくのには少し、いやかなり遅すぎる時間である。いい子はおねんねどころか爆睡しているはずだ。
 臨也が疑問に思い、首をかしげるのとほぼ同時に、静雄が片手を挙げた。臨也の意識が静雄へ向く。見れば静雄は、困った様子でぽりぽりとおでこをかき始め、ひどく微妙そうにあーと唸った後。
「あれか? とうとう頭がいっちまったか?」
「は?」
 臨也を見る静雄の眼差しが、哀れむ様な、心底可哀想なものでも見るかのような目つきで、臨也の口角がひくついた。
「それともあれか? 厄介なクスリでも決めちまったか」
「……何の話だよ」
 臨也が問うと、静雄は一拍の間を置いてから。
「どこに、ガキがいるっつってんだよ!!」
 怒声とともに振り回される街灯をすんでの所で避け、臨也は困惑を顔に貼り付けながら腕の中の少女を見下ろした。少女もまた、臨也を見上げてくる。
「シズちゃんの目ぇほんとに節穴!? いるじゃないか、ここに!」
「だーかーらー! どこにだっつってんだろうがあああ!!」
 臨也は困惑しながらも、すぐに立ち上がった。静雄の怒声を背中で受け止める。走りながらも首だけで振り返って静雄を見、その姿に修羅を見た臨也は、少女を身代わりにするのは危険だと察した。とりあえず逃げることに専念したほうが得策だろうと、臨也は人通りの少ない裏路地へ足を向ける。
 不意に、腕の中にいる暖かな温もりが身じろぎして、臨也は慌てて少女を抱えなおした。静雄の怒声が追いかけてきて、臨也は走る速度を上げる。これじゃ追いつかれるのも時間の問題だろう。腕の中の少女がいなければ逃げ切れるのだろうが、こうなってしまった以上、連れて行く以外の選択肢は考えられなかった。そうして、どこかに預ける他無い。
 交番はどこにあっただろうかと思考をめぐらせていると、震えがちな手でシャツを掴まれた。何度も何度も引っ張られるものだから、臨也は顔をしかめて視線を下げた。臨也が「何?」と聞くよりも先に、少女が口を開く。
――ホニャニャフニャフニャヘニャホニャニャ。
 臨也は影響力のある主要言語はほぼ完璧にマスターしているし、他の言語もそれなりに耳にしたはずだった。とはいえ言語のすべてを知っているわけではない。臨也が知らないのは恐らくアフリカの原住民の言葉だとか、失われし古代言語とか、そういった類のものだ。
 少女の口から出てくる言葉は紛れも無く、臨也が生まれてこの方、全く耳にしたことの無い言葉であった。
 臨也は少女の言葉に目を丸くした後、困惑げな表情になり、――そして引き攣った顔になる。
 ホニャフニャ、と悲しそうに目を伏せる少女を凝視していると、臨也の脳裏にふと、子供の頃の光景が蘇ってきた。
 某公共放送の、ハニワのマスコットが出てくる教育番組。さして面白かったためしがないのに、小さかった頃は、暇があればそれを見ていたように思う。
 はにゃ、ふにゃ、へにゃ、と拙い感じで喋るハニワと馬――いや、どちらもハニワか。臨也は混乱しかけた頭でそんな事を考えつつ、少女が口にする言語のほうが幾許か難解だと思いながらも、後方から聞こえる静雄の声を耳にし、臨也は一目散に駆け出した。
 
 ――折原臨也・24歳(独身)。
“永遠の21歳”という痛々しい肩書きを持つ彼の、それこそ文字通り『運命の出会い』であったと、後のセルティ・ストゥルルソンは語る。
2012/02/22