大いなる(前編)

※登場するサーヴァント:イシュタル、ダ・ヴィンチ、ギルガメッシュ
※シミュレーターの設定を適当に捏造しています
※エルキドゥの過去を捏造しています
(公式で明確な描写が出次第、書き直す予定です)
※なんでも許せる方向け
 廊下を移動中、後ろから声をかけられた。

 聞き覚えのある声にびっくりして振り返る。案の定エルキドゥさんだった。
 何かあったんだろうか? その場で立ち止まると、エルキドゥさんはゆっくりとした歩調で距離をつめてくる。やがて私の正面までくると、右手の握りこぶしを差し出した。
「これを拾ったんだ。何かの部品だと思うのだけれど」
 エルキドゥさんはそう言って手を開く。果たしてエルキドゥさんの手の中にあったのは、やや大きめの六角ボルトだった。長さはエルキドゥさんの手の幅ほどあり、座金もついている。この特徴だけでどこの部品か特定できる人は職員の中にはいるだろうけど、私にそんな技巧は備わっていないし、見覚えすらない。
「……んんと、どこで拾いました?」
「東館。図書室と談話室の途中の廊下でね」
 よくよく見れば、ネジの所がすり減っている。こうしてへたってしまったネジは、些細なな振動で簡単に緩む事がある。それを放っておくとやがて事故につながるから、点検して交換したのだろうという事は容易に想像できた。
「誰かが落としたのかもしれない」
「そうですね……そうだと思います」
 職員がポケットに入れて、何かの拍子に落としたのかもしれない。憶測を立ててみるけれど、とりあえず受け取って報告しておくのが一番だ。
「エルキドゥさん、届けてくれてありがとうございました」
「かまわないよ」
 エルキドゥさんがあらためてボルトを差し出してきた。受け取ろうと手を伸ばす。
 ネジの先端に手が触れるか触れないかの瞬間、エルキドゥさんの指がピクッと震えた。そして何を思ったのか、勢いよく腕を振りかぶって明後日の方向――正確には私の後方――へと投げ放った。
 髪の毛が舞い上がるほどの突風が発生する。わけもわからず頭を抱えこんで防御姿勢を取りながら、どうやらサーヴァントが本気で体を動かすと衝撃波が発生するらしい、と他人事のように感心していると、今度はエルキドゥさんに肩を掴まれて引き寄せられた。
 轟音とともにこちらに向かってくる『何か』を、エルキドゥさんが掴む気配がする。人心地がついて恐る恐る顔を上げると、廊下の向こうから早足でこちらに向かってくる人影が見えた。
 艷やかな長い黒髪を揺らしながら、健康的な肌色をした腕を大きく振り、大股歩きで近付いてくる女性。憤怒の表情を浮かべているが、それでも綺麗という印象が先立つ。
 エルキドゥさんと同種の、極めて特別な感じがする美人だ。そしてほとんどの人が着るのをためらうような露出の多い特殊な服を身に纏っているけれど、不思議とそれがこの女性にはとてもよく似合っていた。
「アンタねぇ、いちいち物投げるのやめな」
「えいっ!」
 エルキドゥさんが間髪入れずに暴投したそれを、女性は見事にキャッチしてみせた。
「こんの……!」
 部品を握りしめながら青筋を立てている。対するエルキドゥさんといえば、挑発するように口角を持ち上げていた。
 何やらまずい事になりそうな気配がした。エルキドゥさんを押しのけて前に出る。
「エルキドゥさん、落ち着いてください。……申し訳ありませんがその部品、お返し願えますでしょうか?」
 私がそう言うと、
「……ふん」
 女性はツンとすました様子でそっぽを向きながら、私に向かってボルトを放り投げた。
 弧を描いて飛ぶそれをなんとか掴みとると、横からエルキドゥさんが手を重ねてきた。私の手を力づくでこじ開けようとするので、空いた片手を重ねてぎゅっと握りしめ、そのまま胸元へ持っていく。
「ど、どうして人にいきなり物を投げようとするんですかっ!?」
 言いながらエルキドゥさんを見上げる。口元はにこやかにしているけれど、目は笑っていなかった。なんだかちょっと怖い。
「彼女を見たら投げざるを得ないんだ。それに、これは僕にとって譲れない事態なんだよ。だから、それを僕に渡して?」
「だめです! 危ないですから!」
「いいから渡して」
「だめったらだめですー!」
 エルキドゥさんが手を伸ばしてくるので、慌ててその場にしゃがんだ。そのまま丸くなると、エルキドゥさんも私に追従するようにしゃがみこんで、ぴったり身を寄せてくる。
「渡してー」
「だめですー!」
 手を潜り込ませてくるから、ボルトを奪われないように必死に守る。
 渡してーとだめですーの繰り返しは、まるで小さな子供の押し問答みたいだった。エルキドゥさんだって本気を出せばボルトを奪うのは容易いだろうに、私の身体を揺さぶったりするだけで他は何もしてこない。現に口調もだんだんお遊び混じりになってきている。
 もしかして、この状況を楽しんでいるんじゃないだろうか? と疑い始めた頃になって、どこからか盛大な溜息が聞こえた。
「随分と仲のいいことね。まさかアンタがアイツやマスター以外に尻尾を振るのが見られるとは」
 嘲るような物言いに、私がむっとして顔を上げるのと、エルキドゥさんがすっくと立ち上がるのは、ほぼ同じタイミングの事だった。
「おや、おかしいね。僕に尻尾はついていない。どうやら君の目は節穴に汚物でもつまっているようだ。医務室で検診を受けられるそうだから見てもらったらどうだろう? 目のついでに頭も診てもらうといい」
 度の過ぎる辛辣に、思わず唖然とした。慌てて女性の顔を伺うけれど、いたって表情は変わらない。
「そういうアンタこそ額面通りに受け取るあたり、とうとう頭が壊れたみたいね。もう限界のようだし、土に還ったら?」
「還らないよ。僕はマスターに必要とされているからね」
「どうだか。アンタ、いっつもここにいるじゃない」
「君もだろう?」
「私はいいのよ。いざというときの切り札だもの」
 二人のやり取りは刺々しくて、聞いているだけの私がどうしてか肩身の狭い思いにさせられた。
 とりあえず今のうちにボルトを上着の内ポケットの中にしまいこむと、言い争いを続ける二人を眺める。表情から苛立ちを隠しきれない女性と、平静に見えてそうではないエルキドゥさん。見た目は二人とも綺麗なのに、口から飛び出る言葉は真逆のそれだ。
 このまま傍観していては埒が明かない。恐る恐る立ち上がり、とりあえずエルキドゥさんを落ち着かせるべく、軽く腕を引っ張った。
「エルキドゥさん、喧嘩腰は駄目です。一体どうしたんですか? いつものエルキドゥさんらしくありません」
 私が言うと、エルキドゥさんは顔をこちらに向ける。
「僕と彼女には生前、浅からぬ因縁があるのさ。こうして喧嘩腰にならざるを得ないほどね」
「生前……? この方と、お知り合いですか?」
「うん。これはイシュタルというんだ。正直、知り合いとは思いたくないけれどね」
 エルキドゥさんがそう言うと、イシュタルと呼ばれた女性がフンと鼻で笑った。
「それはこっちの台詞よ。死んでもなお突っかかってくるだなんて本当、懲りない奴」
「頑健が取り柄なものでね」
「呪いであっさり死ぬのに頑健? 笑わせるじゃない」
 言い終わるなり、イシュタルさんの目の色が文字通り変わった。途端にエルキドゥさんに引き剥がされる。驚いてエルキドゥさんを見れば、エルキドゥさんもまた目の色が変わっていた。
 お互いに臨戦態勢に入ってしまっていて、私だけが蚊帳の外だ。でも、だからといって見過ごすわけにも行かない。足元からよじのぼってくる怖じ気を振り払い、勢いをつけてエルキドゥさんの腕ごと身体にしがみついた。
、離れて。怪我をするかもしれないよ」
「離れません。サーヴァント同士の衝突、とりわけ職員や施設に危害が及ぶような事態に立ち会った場合、場にいる職員はまず仲介をするのがつとめですから」
「……弱ったな」
「そのまま弱っていてください、お願いです。……そちらの方も、どうかここで許してはいただけないでしょうか」
 ほとんど知らないイシュタルさんを咎めるのはとても緊張して、勇気がいる行為だった。思わずエルキドゥさんの服を握りしめてしまったけれど、エルキドゥさんはそれを咎めなかった。
 エルキドゥさんはやがて臨戦態勢を解いてくれたけれど、イシュタルさんは口元に片手を添えてどこか思案げにしている。話を聞いていたのかいないのか、それとも私に対して何か思うところがあるのか。不安から首をひねると、イシュタルさんはそれを合図に足を踏み出して、まっすぐ私めがけて近付いてきた。
 恐怖で身構えた私をエルキドゥさんが庇うより先に、イシュタルさんが私の右腕を掴んで引っ張る。
「イシュタル!」
「黙りなさい」
 エルキドゥさんの声をぴしゃりとはねつけ、私の腕を見聞し始める。その視線は、私の手首に集中していた。
「あ、あの……何か?」
「これ」
 イシュタルさんはそう言って、もう片手で私の手首を指差した。ことさら強調するように示された自分の手首を眺め、私の中で合点が行く。
「ええと、……ミサンガがどうかしましたか?」
「そうそれ。マスターとマシュ、そこのポンコツも付けてたわ。貴方、マスターから貰ったの?」
「あっ、いえ、違います。これは他の職員と交換したもので……」
「交換?」
 イシュタルさんが首をひねると、エルキドゥさんが言う。
「ここの職員の一部にそういう風習が有るのさ。あれはこの子から貰ったものだよ。マスターが作ったわけじゃない」
「ふうん、そう。てっきりマスターが拵えた物かと思ってたけど……」
 じろじろと値踏みするような視線を向けられる。どうにも居た堪れなくて視線をそらすと、イシュタルさんの顔がエルキドゥさんの方を向いた。
「アンタもよくこんなのから益体もない代物を受け取る気になったわね。あの聖娼ほどの見目形であればすんなり納得できたけど、玉石混交における石に等しいじゃない」
 イシュタルさんの言葉が、私の胸にぐさりと突き刺さったような気がした。たまらずに俯くと、エルキドゥさんが背中に手を添えた。そのまま軽くとんとんと叩いてくれる。
「僕だけならともかく、彼女に対する謗言は許せないな」
「納得がいかないだけよ。他者とは一線を引き、しかも美醜に口うるさいアンタが、こんな一職員からすんなり受け取ったのがね」
「あの時は場の空気の流れに逆らえなかった。それにこの子があまりにも躍起だったから。ね」
 ね、のところで、エルキドゥさんが私に微笑みかけてきた。
「その、余分にあるのでよかったらという感じで、そこまで躍起というわけでは……」
 私がそう言うと、エルキドゥさんは考え込むように視線を斜め上に向けて、口を開く。
「なんだったかな……無駄のない人生はつまらない、だったかな?」
「うっ」
「それを温泉卵とカレーの関係に見立てて熱弁していたね。無駄はおいしいものだと」
「ううっ」
 塞がりかけている傷をかきむしられるような、ひどい含羞を覚えた。穴があったら入りたいような衝動に見舞われる。
「ふふ、今思うと変な話だ。でも……なんだろうね。あの時のからミサンガを貰ったマスターとマシュはとても嬉しそうだったし、勧めてくるの風変わりな説に、僕の感覚質と呼ぶべき所が刺激されたのだと思うよ」
 感覚質、つまりクオリア。
 たとえば、お風呂で37度のお湯に浸っている時の暖かい『感じ』と、夏場の37℃の空気の暑い『感じ』は、同じ温度でも明確に違う。そんな言葉にしづらい曖昧な主観の事をクオリアというのだけれど、そんな話をこうして自信満々に持ち出してくるということは、どうやらエルキドゥさんはまた変な本を読み解いてしまったらしい。
 そんなエルキドゥさんの自信満々な表情にイシュタルさんは納得したのか、それとも呆れてものが言えなくなったのか、小さな溜息を吐いた。
「まあ、アンタがそれを受け取った経緯はわかったわ」
「そうか。これでわからなければ罵ってしまうところだったよ」
「なら、どうして距離が近いわけ?」
「距離?」
 エルキドゥさんが首をひねる傍ら、私もあらためて現状を確認する。確かに近い。
「……あっ、も、申し訳ありません」
 慌てて離れる。しかしエルキドゥさんに手を掴まれ、背中に隠すように引き寄せられた。おまけに警戒を含んだ小声で「離れないで」と言われてしまうと、離れるにも離れられなくなってしまう。
 そんな私達の仕草を見て、イシュタルさんが不満そうに眉をひそめた。
「物を貰っただけで大人しく腹を見せるような性格じゃないでしょう、アンタ」
「今の僕の優先事項の中に彼女も含まれているからね。腹も見せるさ」
「何でよ?」
 イシュタルさんが首をひねる。
「驚くほど察しが悪いな。彼女と付き合っているんだよ」
「付き合う? どこに?」
「……。君も額面通りに受け取っているあたり、人のことを言えないと思うよ」
 心底呆れた様子で、エルキドゥさんが言う。
 しばらくの間をおいて。
「えええええええええええっ!?」
 艶やかな見た目には似つかわしくない絶叫が轟いた。思わず耳をふさいでしまう。
「うるさいよ」
「うっ、嘘でしょう!? 一体コイツの何処が好きなの!?」
「かわいいところかな」
「アンタに聞いてんじゃないわよっ! そっちに聞いてるの、そっち!」
 怒った様子のイシュタルさんにびしっと指差され、反射的に身体が震えた。質問に応じないという選択はあれど、答えなければどうなるかわからない。となれば、真面目に答えるほうが利口な選択のような気がした。
 エルキドゥさんの何処が好きか。
 たくさんあるけれど、その中でも一番惹かれる所。
「……見た目?」
 場の空気が静まり返る。それに伴い、気温が2度くらい下がったような気がした。
 エルキドゥさんがゆっくり私の方に振り返る。穏やかな表情を浮かべたまま、私の両頬を掴んで引っ張った。
「いひゃいいひゃい!」
「どうして疑問形なんだい?」
 あ、引っかかるのはそこなんですね、という言葉は心の奥底にしまい、エルキドゥさんの疑問に答える。
「あらためて聞かれると、よくわからなくて」
 エルキドゥさんは何も言わない。穏やかな表情のまま私を見つめ続けている。おかげで、私の心はすっかり動揺していた。よくよく考えずとも「わからない」だなんて、とてつもなく最悪な言葉を口にしてしまったんじゃないだろうか? 不安と後悔に見舞われたまま、どうにか失態を取り繕いたくて、勢いに任せて口を開く。
「でも、エルキドゥさんが好きという気持ちは誰にも負けませんよ!」
「……いつもなら喜ぶ所だけれど、今は素直に喜べないな……」
 どこか遠くを見つめながら、エルキドゥさんは言う。
 と、イシュタルさんの方から吹き出すような声が聞こえた。見ると、肩を震わせて必死に笑いを堪えている。
「外見が好きって……いい話ね。アンタが見惚れた人間の姿を模倣したおかげで、人ひとり誑かすことができた。つまりアンタじゃなくてシャムハトの見た目が好きって事。ああもう、滑稽で涙が出そう」
 イシュタルさんが挑発的な微笑を浮かべながら、人差し指で目尻をこする。あからさまな泣き真似だ。対するエルキドゥさんは、眉をひそめてイシュタルさんを睨むように見つめている。
 とりあえず、私が何かまずい事を言ったのは確かみたいだ。
「あの、エルキドゥさん、……シャムハト? とは」
「ああ……僕に人としての行儀作法や道理を教えてくれた人さ。僕がもっとも尊敬している人間だよ」
「あら? 教えて貰ったのはそれだけじゃないでしょ。閨の作法だとか」
 イシュタルさんがくつくつと笑うものだから、エルキドゥさんの眉間のシワが強くなった。不快感を隠そうともしていない。
「寝食をともにしただけだ。これ以上シャムハトに対する侮辱を述べたら許さないよ」
「許すつもりもないくせによく言うわ」
 あまりにも不穏なやり取りのおかげで、場の空気はすっかり重くなってしまった。今すぐにも尻尾を巻いて立ち去りたい気持ちをぐっと我慢する。
 二人は睨み合ったまま動じることなく、何も言わない。とにかく、エルキドゥさんが言っていた通り、イシュタルさんとの間にのっぴきならない事情があることは理解した。そして、この二人の相性がとてつもなく最悪なことも。
 この妙な空気をどうにかすべく、私は迷った末、とりあえずエルキドゥさんの袖を引っ張って声をかけた。
「あの、エルキドゥさん」
「なんだい?」
 そう言って私に顔を向けるエルキドゥさんは、さっきとは打って変わって眉間にシワがない。少しほっとする。
「エルキドゥさんの今の外見は、そのシャムハトさんという方の見た目なんですか?」
「うん、彼女に対する敬意としてこの姿かたちを取っている。本来は違う姿なんだ」
 違う姿、という言葉に、軽い衝撃が走った。
 私がエルキドゥさんだと思っていた姿は、どうやらシャムハトさんという女性の見た目で、エルキドゥさんではないらしい。確かにエルキドゥさんが色んなものに変身するのを見てきたけれど、今までの常識をひっくり返されたかのような驚愕に見舞われる。もう何がなんだかよくわからなくなってきて、私はまばたきを繰り返す事しかできなかった。
「……幻滅したかい?」
「い、いいえっ」
 慌てて首を横に振ると、エルキドゥさんは返事のかわりに優しそうな微笑を浮かべてくれた。
「そのまま幻想に浸ってるといいわ。実際、コイツの元の姿を知ったら100年の恋も冷めるでしょ」
 イシュタルさんの挑発めいた言葉が飛んでくる。
 内心かちんときた私とは裏腹に、エルキドゥさんは穏やかな態度を崩さないままそちらに顔を向けると、驚いたことに首を縦に振った。
「そうだね。そのとおりだと思うよ」
「あ、あっさり肯定しないでよ。予定が狂うじゃない……!」
「事実だからね」
 勝手に私の気持ちを代弁して話をすすめるエルキドゥさんに、思わずムッとした。
「ちょっと待ってください。私の気持ちが冷めるかどうかは、実物を見てみないとわかりませんよ」
「えっ」
 エルキドゥさんの口から、珍しく素っ頓狂な声が出た。目をまんまるにして、心底驚いたような顔をして私を見下ろしている。
「エルキドゥさん、どうなんですか?」
 私がじっと熱心に見つめ返すと、
「そう言われてもね……」
 目をそらされた。
「さっき腹を見せるって言ってました。あれは嘘だったんですか?」
「これは……まいったな……」
「言行一致、これ大事! です!」
「確かにそうだけれど、でもね……」
「あっ、待ってください! 今の私の言い方、ちょっとラップみたいじゃなかったですか?」
 エルキドゥさんの言葉を遮ってまくしたてると、エルキドゥさんの右肩がわずかに落ち込んだ。服がずるりと下がるので、慌てて襟を引っ張って元に戻す。
「まあ……韻は踏めてはいなかったけれど、言葉の律動は似ていたね」
「ふっ、無意識の内に秘めたる才能を見せてしまいましたか」
 腕を組んでうんうんと感心していると、
「……、話が脱線しそうだ。戻っておいで」
 エルキドゥさんに呆れ眼でたしなめられた。ふとイシュタルさんの方を見れば白い目でこちらを見ているので、慌てて腕をほどいて姿勢を正す。
「僕の本来の姿は、とても見せられたものじゃないんだ。あれが起因で人々に疎ましがられていたからね」
「いや、アンタが疎ましがられてたのはそれだけじゃないでしょ。農牧地を踏み荒らしてたのはどこのどいつよ?」
「それに関しては本当に申し訳なかったと思っているよ」
 エルキドゥさんが自嘲気味に笑う。どうやらイシュタルさんの言ったことは本当らしい。
 なので、ぼんやりと想像を巡らせてみる。
 ぽかぽかの陽光が降り注ぐ中、耕されてふかふかになった水はけのよさそうな土。その上を、よいしょ、よいしょと地団駄踏んで練り歩くエルキドゥさん。
 嘘めいたその光景は、私の中にある種の文化的衝撃と呼べる異常さを巻き起こす。それはやがて大きな戸惑いへと移り変わり、その動揺から指先が小刻みに震えるのを止められない。とはいえ、昔のエルキドゥさんは今の姿とはまるで違うようだし、野生動物のようなものを想像すればいいのかなと思ったけれど、かえって想像しにくくなってしまう。
 結局、スルーすることにした。
「んんと……若かりし頃のエルキドゥさんって、ものすごくやんちゃさんだったんですか?」
 私が尋ねると、イシュタルさんが大仰に頷いてみせた。
「やんちゃとかそういうレベルじゃないわ。悪意を持たない悪意の塊よ。まあ、無邪気と言えば聞こえはいいけれどね」
「うん。あの頃は獣の群れに紛れて思いのままに振る舞い、何が良くて何が悪いのかもわからなかった。唯一理解できていたのは僕に課せられた役目と『きれい』という感覚だけで、それ以外はほとんど何もわからなかったよ。花を花と認識せず、きれいと認識していたくらいだからね。あまりにも無知だった」
 とてつもない事を当たり前のようにサラリと言うから、どういう風に反応したらいいのかわからなくなってしまった。
 ものの名前がわからない。
 つまり大昔のエルキドゥさんは内的言語を持たなかったのだ。
 人を人だと、犬を犬だと、草木を草木と認識できない。好き嫌いだとか、朝昼晩の時間の概念すら持たず、きっと傷による痛覚はあれど、その名称が『痛み』だという事すらわからない。本能のままに動き続ける。生まれたての赤ん坊と同じだ。
 あまりの途方もなさにぼんやりとエルキドゥさんの顔を見つめていると、やがてエルキドゥさんの顔が困ったふうに変化した。
「がっかりさせてしまったかい?」
 一拍の間を置いて、私はぶんぶんと顔を横に振った。
「ううん、むしろ嬉しいです。エルキドゥさんが自分の事を話してくれるのは、滅多にないから」
「……。それならよかった」
 エルキドゥさんが安心したように表情を緩めるから、見ている私もほっとしてしまう。
「それで、その、シャムハトさんに出会ったんですか?」
「うん。彼女はとても崇高な人だった。僕に物怖じせずに様々な事を教えてくれたよ。そして言葉の概念を得て、今に至るというわけさ」
 エルキドゥさんがいつにも増して穏やかに語るものだから、本当に、心の奥底からシャムハトさんという方を尊敬しているのが伝わってきた。
「それじゃあ、私がエルキドゥさんとこうして仲良く出来ているのは、その方のおかげなんですね」
「そうだね。今の僕がいるのは彼女のおかげなのは間違いないよ」
 エルキドゥさんは言い終わると、満足げにふっと微笑む。
「さて、昔話はこれくらいにしておこうか。聞いてもあまり面白くないからね」
「いえ、もっと聞きたいです。それに、エルキドゥさんの昔の姿も見てみたいです」
 途端に、エルキドゥさんの眉がハの字になってしまった。私のわがままで、困らせてしまっている。
「さっきも言ったけれどね、僕本来の姿はあまりにも醜悪だ。正直、見ないほうがいいと思う」
「それでも私は、エルキドゥさんの事がもっと知りたいです」
 エルキドゥさんの手を取って詰め寄ると、まるで逃げるように顔を背けてしまう。
「身勝手なのは承知の上です。でも、好きな人の事を全部知りたいって、おかしいですか?」
 背けた顔が戻ってきてくれた。
「……あれを見たら僕に対する印象が変わるかもしれない」
「変わりません。保証します。だってエルキドゥさんの事、好きですから」
「見た目が?」
「はい! でも中身はもっと好きです!」
 私の言葉に、エルキドゥさんが面食らったように目を丸くする。これ以上は何も言わず、黙ったままエルキドゥさんの手をぎゅっと握る。真剣に見つめ続けると、やがてエルキドゥさんは視線を斜め上に向け、恥ずかしそうにもじもじし始めた。
「貴方達ねぇ……人前で恥ずかしくないわけ?」
 と、呆れたような声が聞こえ、二人揃ってそちらに顔を向ける。
 声の主であるイシュタルさんの目は据わっていた。
「うっ……」
 この状況に対して言い訳をしたい衝動がせり上がってくるけれど、そんなのに身を任せたら墓穴を掘る羽目になる。私は何も言えずにおそるおそる手を離して、そのままエルキドゥさんの背中に回った。
「見世物ではないよ」
「そっちが勝手に見せつけてきたんでしょう!?」
 イシュタルさんが声を荒げるのに構わず、エルキドゥさんは首を動かして天井を見上げている。
「……ここでは無理そうだな……高さが足りない。床も天井も突き破ってしまう」
 小さなつぶやきに、思わず目を見開く。
 どうやら、乗り気になってくれたみたいだった。そして、私のひどいわがままを聞き入れてくれたという事実が、胸中に喜びとして広がる。
「エルキドゥさんって、そんなに大きかったんですか?」
 背中から尋ねると、エルキドゥさんは首だけでこちらを振り返り、
「そうだよ」
 微笑んで頷いた。
「それに魔力も到底足りない……うん、移動しようか」
 エルキドゥさんはそう言って、私の手を引っ張って歩き出した。拒否権なんてあるわけがなく、されるがまま後ろをついて行く。
 歩くにつれ、なんでこんな事になってしまったのか自問自答を重ねる冷静な自分がいて、どうしようもない気持ちになった。そして仕事を放り出す事にも繋がってしまったけれど、今日割り振られた作業は軽いものだから、1時間くらいの遅れは取り戻せるはずだ。