大いなる(中編)

 私がこれからの段取りを頭の中で組み立てているうちに目的地に到着したらしく、エルキドゥさんが足を止めた。背中にぶつかりそうになってあたふたする私にエルキドゥさんはくすっと笑みをこぼしたかと思うと、慣れた手付きで入り口の操作パネルを確認してからドアを開けて中へと入った。
 果たしてそこはシミュレータールームだった。エルキドゥさんの言動からおおよその目星はついていたとはいえ、こうして足を踏み入れるのは初めてだから緊張してしまう。VRといえば聞こえはいいが、魔力によってさらに含みを持たせ現実との境目を曖昧にした装置だ。私に使いこなせるわけがないから率先して利用することもないし、機器のメンテナンスにしても専門知識のある人が優先されるから、私とはほぼ無縁の代物である。
 どうしたらいいのか分からずオロオロする私をよそに、エルキドゥさんは手慣れたもので機器の電源を操作している。もしかすると、使い慣れているんだろうか? エルキドゥさんの新たな一面を見れた事に小さな喜びを感じていると、一通り準備が終わったのかエルキドゥさんがこちらに近寄ってくる。
「君はついて来なくてもよかったのに」
 エルキドゥさんがそう言うものだから、怪訝に思って振り返ると、少し離れた所にイシュタルさんが立っていた。彼女に向けて言ったらしい。
「別にいいでしょ、ルームの権限はアンタにあるんだから。私はただの傍観者よ」
「そうだね。……君がいるなら、緊急時の処理を頼もうか。不本意だけれど」
 イシュタルさんは、うんともすんとも言わず、フンと鼻を鳴らすだけだった。
、こっちへ」
 エルキドゥさんが手を伸ばしてくるので、迷わずその手を取った。
 シミュレーター内に没入する瞬間、視界が真っ白に染まった。
 手を動かしているのに、視界には何も映らない。ただただ真っ白い景色が広がっている。目を閉じても、それは変わらない。
 それでもやがてポリゴンメッシュが表れ、そこにテクスチャが表示されてゆく。
 数秒もたたないうちに、私はカルデアとは違う別の場所に立っていた。
 一瞬にして立ち込める熱気。ジリジリと焼けるような日差しに、思わず顔をしかめる。気温の違いにたまらず上着を脱ぎ捨てたくなるけれど、シミュレーター内において自分の服を脱ぐだなんてのは無意味な行動だ。我慢するしか無い。
 辺りを見回すと、まばらにはえた草木がある。遠くには山々がそびえ立ち、青々とした木々の合間から鳥が飛び立つのが見える。サバンナと似ているようで少し違う、今まで見たことのない場所だった。
 天井を見上げれば、雲ひとつ無い青空がどこまでも広がっている。澄んだきれいな色の中、とても高いところに真っ白い太陽が昇っている。太陽光があまりにも眩しくて、手でひさしを作っても見つめる事がかなわず、俯いた。
 足元には乾いた大地があり、つま先で軽く掘ると湿った土が顔をのぞかせた。地面に伸びる影は明暗がくっきりと分かれていて、熱光線の強さを物語っている。
 そんな私の影のふちを沿うようにして、もぞもぞと動く虫がいた。つま先でつついてみると、テクスチャが乱れブロックノイズが発生する。それでも虫は動き続け、テクスチャが元通りになると、やがて遠ざかって見えなくなる。
 好奇心を抑えきれずキョロキョロと見回していると、後ろの方でくすっと笑う声がした。
 振り返ると、エルキドゥさんが立っている。
「エルキドゥさん、ここ、どこですか?」
「ウルクの地だよ。……現代においてはイラク近郊にあたるかな」
「エルキドゥさんが住んでいた場所?」
「うん。僕が記憶する限りを尽くしてシミュレーターに再現してもらった。こういう空気の場所だと感じ取ってもらえればいいのだけれどね」
 一度深呼吸すると、適度な湿度を感じた。あらためて見回そうとした瞬間、吹きすさぶ風が砂塵を運ぶ。たまらずに目をつむった。風がおさまるのを待ってからまぶたを持ち上げると、いつの間にかイシュタルさんが隣にいる。
「このポンコツが少ない頭で再現したんだから、ちゃんと見ておきなさいよ」
 そういう事を言う方だと思っていなかったから、一瞬面食らってしまった。
「はい」
 返事をして、イシュタルさんに対して失礼な認識を改める。
「少ない頭は余計だよ」
「事実でしょうが」
 二人の軽い口論を耳にしながら、景色をゆっくり見回す。
 きっとこの場所は現代では開発が進んでしまっていて、街に変わっているかもしれない。この景色を見られるのは、今だけだ。できるだけ覚えておきたくて必死に見つめていると、エルキドゥさんが足を踏み出して遠ざかってゆく。
「ど、どこに行くんですか!?」
「どこにも行かないよ。……もう少し離れたほうが良さそうかな」
 慌てる私にそう言って、エルキドゥさんは目視20メートルほどの距離を置いた所で立ち止まった。
「今から変容する。最悪の場合シミュレーターがシャットダウンするかもしれない。そのときはイシュタル、君に権限を明け渡そう。を連れてここから脱出して欲しい」
 エルキドゥさんの声は、こんな遮蔽物の少ない開けた場所でも反響し、よく通って聞こえた。
「私はただの傍観者って言ったでしょうが、全く……」
 隣のイシュタルさんが小声で文句を言うのを耳にしながら、私といえばシャットダウンとか脱出とか、不穏なイメージがつきまとう単語が飛び出してきた事で、落ち着き払ってはいられなくなってしまった。
 不安に耐えきれずそわそわしていると、私の胸中を見透かすかのようにイシュタルさんが鼻で笑った。
「貴方が撒いた種よ、ちゃんと責任持って見届けなさい」
 暗にしっかりしろという叱責。情けないやら恥ずかしいやら、それでもイシュタルさんの言葉に頷いて、遠くにいるエルキドゥさんをまっすぐ見つめる。
 エルキドゥさんがおもむろに両手を広げて見せた。それが合図だった。
 エルキドゥさんの足元から、淡い光を放つ波が渦状に発生する。巻き起こる旋風が砂埃を巻き上げ、やがてエルキドゥさんの髪をたなびかせる。風はどんどん強くなり、私の頬に砂粒を飛ばしてくるけれど、傍らにいるイシュタルさんは堂々とした様子だったから、私もそうしなくてはいけないような気がした。
 それでも、閃光と雷鳴が発生すると、たまらず肩が震えた。周囲を見渡すと、あんなに青かった空はいつの間にか黒く染まっている。視界がだんだんちかちかと明滅してくると、流石に異常に気づいた。
 エルキドゥさんがシミュレーターに対して要求する命令を処理できず、システムダウンしそうになっているのだ。エルキドゥさんがどれだけの電力を貪っているのかは計り知れないが、しかしこうして電力不足で明るさを保てなくなっている。
 空を劈くような凄まじい音がした瞬間、反射的に腕で顔を覆って防御姿勢を取る。その判断は正しかったようで、1秒の間の後に、砂埃をまとった風がごうごうと叩きつけられた。
 もう何がなんだか分からずじっと堪えていると、いつの間にか静かになっている事に気づいた。
 恐る恐る手を下げる。視界に広がる景色が薄暗い。でも遠くに見える空は青いし、大地は太陽に照りつけられて蜃気楼のようなものが発生している。
 どうやらここ一帯だけが暗いみたいだ。何事かと思って周囲を見渡すと、不思議なものを見つけた。
 無骨な柱のようなものが二本ある。直線ではなく湾曲をともなった形をした土色のそれには、まるで蛇が這ったような帯状の模様が刻まれている。さっきまで見当たらなかったものだ。首をひねりながら、その柱の台座にあたる部分を見つめた。
 おおよその形は台形だけれど、私から向かって正面のところに、5つの突起が生えている。さまざまな大きさのそれ。まるで足みたいだなと思ってから、ハッとして顔を上げた。
 ――なんか、いる。
 柱の上に、4、5階建てのアパートほどの高さの丸みを帯びた巨躯が鎮座していて、両側から腕が伸びていた。足よりも腕のほうが太くて長いという、あまりにもいびつな形状だ。そして、どうやらここ一帯が暗いのは、この巨躯の影によるものらしい。
 巨躯の上部中央に卵型の頭部が据えてあり、こめかみに位置する部分から、さながら鹿のように枝分かれを繰り返す大きな角が左右対称に生えていた。
 顔は無い。
 目も、口も、鼻も、眉も、耳も、何もついていない。まっさらな顔に帯状の模様だけが張り巡らされている。しかもこの模様、じっと眺めているとたまにぽうっと淡く光るのだ。
 これは……エルキドゥさんなんだろうか? 思わず首をひねる。
 にわかには信じがたいけれど、エルキドゥさんの今までの行動を鑑みるとそうとしか考えられない。かといってこの状況を今すぐに受け入れるのは、私の頭で処理できる許容値を超えている。
 首をひねったままぽかんと見つめていると、巨躯の頭部が斜めに傾いた。
 私と鏡合わせになるように、首をひねっている。
 その仕草から、これがエルキドゥさんなんだという確信めいたものが生まれてしまった。
 そうなると、この姿で畑を踏み荒らしたり、牧地を駆け回っていたという想像が生まれてしまい、人に避けられるのも致し方ないなと納得してしまう。
 化け物と言ってしまえばそうだ。
 でも、そう呼ぶにはあまりにも恐れ多いような気がした。
 それはエルキドゥさんだからというのも理由の一つだけれど、この造形は化け物というより、森の奥深くに住む神様だとか、この土地に住む守り神と形容する方が私の中ではしっくりきたからだ。
 身動きもできないまま大きな体を眺めていると、ふいにエルキドゥさんが右足を持ち上げた。それが地についた瞬間、地面が揺れる。バランスを崩しそうになるけれど、足幅を広げてなんとか持ちこたえる。このくらいの質量であれば移動時に震動が発生するのも仕方がないだろうと冷静に分析する理性と、今までにないほどの身の危険を感じる本能がせめぎ合っている。
 エルキドゥさんが近寄ってくるたび、地面が揺れる。3回の揺れの後に、見上げるのにも首が疲労を訴えるほどの距離まで近付いて、エルキドゥさんは立ち止まった。次は何をするかと思えば、私の左側1メートルにも満たない距離に左手をつく。
「ひッ!」
 軽い振動に引きつった声が出た瞬間、今度はすぐ真横に右手が落ちてきて、息を止めてしまう。
 分厚い手の平は、私のふくらはぎまでの高さがある。指の太さは、もしかすると私の胴回りよりも太いかもしれない。私なんて軽々と握りつぶせるだろう大きさだ。怖じ気から嫌な予想が頭の中いっぱいに広がる。金縛りにあったように体を動かせなくて、固唾を呑んで見つめる事しか出来ない。
 と、奇妙な空気の流れが発生した。
 頬を撫でる温風が、涼やかな風に変化する。今度は一体何が起きたのかと目を凝らすと、エルキドゥさんの右手の指の隙間に、緑色の葉っぱがじわじわと増え始めているのが見えた。
 芽生えて、生い茂って、そこから蕾をつけて、白い花を咲かせる。不思議な現象を唖然と見つめていると、エルキドゥさんは右手を引っ込ませた。
 乾燥していた地面に白い花が群生し、小さな花畑の様相を成していた。この短時間で花を咲かせたという事実にびっくりしていると、エルキドゥさんの右手が花畑を探るように動く。親指と人差指で1本の花を器用に摘みとると、ゆっくりとした動作で私の顔面に差し出してきた。
 慎ましやかなその花は私にとってはあまり馴染みのない形で、どういう種類の花なのかわからなかった。そして無骨な指に挟まれていると、可憐さが際立って見える。
 頭上を見上げる。エルキドゥさんの顔面がこちらを見下ろしているけれど、のっぺらぼうだから何を考えているのかさっぱりわからない。
 顔を元の位置に戻し、逡巡の末に手を伸ばす。私の指が花の茎に触れると、エルキドゥさんが指の力を緩めてくれたので、受け取ることが出来た。エルキドゥさんの右手が私のすぐ横に置かれたけれど、さっきのような震動は発生しなかった。
 白い花を眺める。
 エルキドゥさんがこれを何で作ったのかはわからない。それでも手触りは、生の花とほとんど変わりがないように思える。匂いを嗅いでみるけれどよくわからない。しばらくの間、思う存分見て触って確かめた後、その花を胸ポケットに差し込んだ。
 顔を上げて、エルキドゥさんの右手に近寄る。丸めた手はとても大きくて、私の腰の高さくらいはありそうだった。土色でゴツゴツしているし、さながら崖から転がり落ちてきた岩のようだ。
 なんとなく手を伸ばして触れてみると、ピクッと跳ねた。慌てて右手を引っ込める。しばらく様子を伺って、また手を伸ばして触れてみる。
 硬くて、ざらざらしていた。
 粘土で出来ているとエルキドゥさんは言っていたけれど、粘土細工のようなすべすべとは程遠い。まるでグラウンドの砂をそのまま固めたかのようだ。試しに大きく手を動かしてみると、擦れてヒリヒリと痛みを生じる。肌を思いっきり擦りつけたら、きっと擦りむくに違いない。
 エルキドゥさんが何ら動きを示さないのを良い事に、好奇心の赴くままに見て触って確かめていると、右手が持ち上げられた。びっくりして身をすくめる。
 頭の天辺をちょん、と触れるか触れないか程度でつつかれた。
 変に警戒したせいか、一度きりで終わってしまう。引っ込んでしまった手を見上げて、迷った末に両手を伸ばして催促すると、しばらくして手が降りてきた。
 ちょんちょん、と二回つつかれる。それだけで胸中に嬉しさが広がった。おまけに、こんな大きな体なのにおっかなびっくりなのが伝わってきて、それが少しおかしい。
「……ふふっ」
 こらえきれずに笑う私に対し、エルキドゥさんは何を思ったのか。また何度か頭をつついたあと、広げた左手を上向きにして、私のすぐ真横まで持ってきた。意図がわからず首をひねると、今度は右手が私の背中に回ってくる。
 そのまま、上着をつまむようにして持ち上げられた。
「きゃあっ!?」
 思わず悲鳴がこぼれる。さながらUFOキャッチャーのように持ち運ばれ、手の平の上にそっと降ろされた。不安定な足場にたまらず尻もちをつくと、景色が上に上にと移動する。エルキドゥさんが左手を持ち上げたのだ。
 気軽に地面に降りられる高さではなくなってしまい、落下の恐怖から身動きが取れずおろおろしていると、また頭のてっぺんをつつかれた。何度も何度もつついて、それから指先が往復を始める。ゴリゴリと音がして痛みを感じるけれど、撫でられていると気付いたら、抱えていた恐怖が不思議と消えてゆく。
 されるがままになっていると、今度は指先が下へ降りてきて、首と肩のあたりをこすられた。エルキドゥさんの指が頬に当たると、ざらざらの皮膚がこすれて、やっぱり痛い。
「エルキドゥさん、その……ちょっと痛いです」
 私が耐え切れずに言うと、エルキドゥさんの指がピタッと止まった。じわじわゆっくり離れていき、それから触れようとして引っ込めてと、わなわなとした挙動を繰り返す。
 怪訝に思って巨躯を見上げれば、全身からおろおろした気配をにじませていた。
 大仰な見た目にはあまりにも不釣り合いなその仕草を眺めていると、どうしてかわからないけれど、不思議と可愛く見えてきた。エルキドゥさんはどうあがいてもエルキドゥさんなんだなあ、と変な所に感心してしまう。
 わなわなしたままの右手に視線を戻し、宙に浮いたままの指先に向かって両手を伸ばして背伸びをすると、しばらくして右手が降りてきた。
 触れて、掴んで、手繰り寄せる。目立った抵抗は無かったから、もっと引き寄せて抱きしめた。ぎゅっと力を込めると、指がぴくんと跳ねる。
「貴方、よくそんな事ができるわね」
 唐突に声がして顔を上げると、正面にイシュタルさんがいた。C字型をふたつ重ねたような、浮遊する謎の物体の上に腰を下ろしている。堂々とした姿勢とは裏腹に、彼女はひどい呆れ顔だった。
 と、エルキドゥさんの右手がすっと離れる。何をするのかと思えば、イシュタルさんめがけて手を振りかざした。悲鳴を上げて避けるイシュタルさんの無事を確認してほっと胸を撫で下ろすのもつかの間、エルキドゥさんはまるで羽虫を払うかのようにイシュタルさんを追い回している。
「こんのっ! 何もしないわよっ!!」
 しばらくの追いかけっこのはてに、やがてエルキドゥさんの手の動きが収まると、イシュタルさんがさっきと同じ場所に舞い戻ってきた。
「貴方、あんな脳足らずのどこがいいのよ?」
 イシュタルさんが、溜息交じりに言う。
「それに、貴方が好きだと言ったところで、このポンコツのそれは貴方と同じものじゃないかもしれないわよ?」
 イシュタルさんは、エルキドゥさんとものすごく仲が悪い。だからこそ、彼女にしか気付けない『何か』があるのかもしれない。そしてその『何か』は、私には心当たりがある。
「わかっています」
 エルキドゥさんが私に向ける感情は、おそらく慈愛や博愛と呼ばれるもののほうが強い。
「エルキドゥさんは記憶領域が足りないと言っていました。それでも、たとえ隙間くらいの大きさだとしても、私に割り当ててくれています。その好意は何ものにも代えがたいから、私は精一杯応えるだけです」
「なら、このポンコツがその隙間すら割り振れなくなったらどうするのよ」
 探るような眼差しを向けてくるイシュタルさんを見つめ返す。
「その時は、きちんと明け渡すつもりです」
 真剣な思いを、視線ごとぶつける。
 しばらく睨むように見つめ合っていると、またエルキドゥさんが手を動かして、イシュタルさんを追い払い始めた。
「あ、アンタねえ! ちょっと、……ああもう! 鬱陶しいっ!」
 遠ざかりながら文句をまくしたてるけれど、最後の方に至っては遠すぎてピーピーとしか聞こえなかった。
 イシュタルさんが高いところまで昇り切ると、エルキドゥさんは私を乗せている手をくぼませた。おまけに手首を動かすから、傾斜がさらにひどくなる。
「わっ! わああっ!?」
 文字通り手の平を転がされる状態になってしまい、そのまま横たわる。
 慌てて起き上がろうとすると、肩を指先で押されてしまい、上体を起こせない。指と指の間の溝に頭がすっぽりおさまってしまって、動くに動けなくなってしまった。
 エルキドゥさんの意図がわからず固まったまま様子を伺っていると、頭をちょいちょいとつつかれる。力加減を確かめるように何度もつついて、それから指先が往復し始めた。さっき頭を撫でられたのと比べて、痛みはない。それでもざらざらとしたヤスリのようなものを擦り付けられているような違和感は凄まじい。
 しばらくされるがままになっていると、手が下へ下へとなぞっていく。頬をなでて、肩から腕にかけて触れて、それからお腹へ。何をするのか見守っていると、親指と人差指を使って左右からつままれた。まさかセクハラかと思えば、そのまま強弱をつけて揉んだりさすったりと、あらゆる刺激を加えられる。
 擽られていると気付いた瞬間、身体が勝手に仰け反った。
「あは、あははははっ! くすぐったい、くすぐったいですっ!」
 笑いながら訴えるけれど、エルキドゥさんの手は止まらない。もがくように両腕を振り回して、エルキドゥさんの指を掴むと、ようやく擽りが止まってくれた。
 息も絶え絶えな状態で空を見上げる。日差しが眩しい。目を瞑ると、手足にあったかいものが絡まってくるのを感じる。こうして横たわって初めて、ざらざらしたエルキドゥさんの手が意外とあたたかい事に気付いた。
 まるで芝生の上に横たわって日向ぼっこでもしているような気持ちになる。
 そうなると、今度は眠気が纏わりついてきた。体もだんだん重く感じてくる。
 私がうとうとしているのに気付いたのか、エルキドゥさんが頭をつついてくる。それでも横たわったまま目を閉じていると、今度は肩を揺さぶってきた。起きて、起きて、と声をかけられているような気にさせられる。あまりの粘り強さに仕方なく両腕を持ち上げると、奇妙な空白をはさんだのち、二本の腕をまとめて引っ張って上体を起こしてくれた。
 重い瞼を持ち上げて周囲を確認すると、いつの間にか地面すれすれの高さまで下がっていた。背中を突かれる。どうやら降りろという事らしい。お尻だけ使って移動し、地面に飛び降りた。
 着地すると、ぐらりと身体が傾いた。なんとか踏ん張ってこらえるけれど、たたらを踏んでしまう。するとエルキドゥさんが手で倒れないように支えをしてくれた。
「大丈夫です、エルキドゥさん」
 そうは言ってみるけれど、ふらふらして焦点が定まらない。眠気のせいかと思ったけれど、どうにも違う。
「どうかしたの?」
 私の異変を察したのか、正面にイシュタルさんが飛び降りてきた。
「少し、目眩がして……」
「目眩? ……おかしいわね、シミュレーターの故障かしら?」
 イシュタルさんが首をかしげると、
『それは動揺病だよ』
 どこからともなく、ダ・ヴィンチさんの声が響いてきた。
『ま、乗り物酔いと呼ぶほうが一般的かな。サーヴァントのほとんどは発症する事はないけれど、君のようにシミュレーターに慣れていない人間はどうしてもね』
 ダ・ヴィンチさんの言葉に、私はすんなり納得できてしまった。
 このシミュレーターは脳と神経を直結するものだ。今エルキドゥさんと触れた時に生じた感覚は神経に直接流し込まれたもので、皮膚そのものは刺激を感じていない。その肉体と神経との矛盾のズレが、乗り物酔いに繋がってしまったのだ。
「なるほどね……って、ちょっと待ちなさい。貴方、いつから見てたのよ?」
『はじめからだよ。なにぶん不審な行動だったものだからね、ログもしっかり取ってある。安心したまえ』
「げっ……」
 イシュタルさんが、うんざりとした顔になる。
『それとエルキドゥ君。君が大規模な変容を行った際、施設内において瞬間停電が発生し、レイシフト中のマスターとの通信が数秒間途絶える被害が発生した』
 思わず息を呑む。視界の端に映り込むエルキドゥさんの手もあからさまに震えていて、イシュタルさんも動揺を隠しきれていない。
「マ、マスターは無事なの?」
『もちろん』
「そ……そう。ならよかったわ」
 イシュタルさんが、ツンとすましながらも安堵するという、器用な技を見せる。エルキドゥさんの手の震えもおさまり、ほっとしたのも束の間、
『まあ、そういうわけだからね、そこにいる三人にはあとで反省文を提出してもらうよ』
 爆弾発言が投下された。
「反省文!? 冗談じゃない! 私のせいじゃないわよ!?」
『そうだね。でも君たち二人は、エルキドゥ君の奇行を止めようと思えば止められただろう? そうすれば反省文を書く必要も無かったというわけさ』
「ぐぬっ……」
「申し訳ありませんでした」
 個人的な好奇心が、こうして不当に繋がってしまい、私はただ謝るしかない。堪えきれずに俯くと、また視界がぶれて目眩がひどくなる。思わずよろめく私の身体を、イシュタルさんが溜息交じりに支えてくれた。
「す、すみません」
「長く居すぎたわね、出ましょう。ほらポンコツ、アンタも早く戻りなさい」
 イシュタルさんが言うと、エルキドゥさんはずしんずしんと地面を揺らして遠ざかる。やがてエルキドゥさんを中心に閃光が発生し、砂塵が巻き上がったかと思うと、その中からいつもの姿のエルキドゥさんが現れた。小走りでこっちに戻ってくる。
、大丈夫かい」
「大丈夫です。それでその、……出口は?」
 辺りを見回しながら尋ねる。出口らしいものは見つからないから、どうやってシミュレーターから出るのかわからない。
 それでも二名のサーヴァントは勝手を知っているようで、
「こっちよ」
 イシュタルさんは私をエルキドゥさんに押し付けると、先導して歩き出した。
 エルキドゥさんは私の手を引きながら、時たま気遣うようにして後を追う。あれほどの広大な景色が広がっていた割に、テクスチャが剥がれポリゴンが消失するのは一瞬の事だった。
 シミュレーターの外では、ダ・ヴィンチさんが控えるように待っていた。私達が出たのを確認すると、機械のタッチパネルを操作し始める。きっと不具合がないか確認しているのだろう。
 その間、私もエルキドゥさんもイシュタルさんもじっと待ち続けていたけれど、どうにも足元がおぼつかなくてしょうがない。どっと疲れが襲ってきたような気がするし、妙に体が重い。三半規管が異常をきたしているのがわかった。眼球の奥がつんとしたような痛みを訴えるから、自然と瞼が下がりそうになる。
 目を閉じて、そのまま座り込めるならそうしたいけれど、ダ・ヴィンチさんがいる手前、そんな事はできない。エルキドゥさんが腕を掴んでくれているから、ようやく立っていられる始末だった。
 ダ・ヴィンチさんは機器の確認を終えると、私の方に顔を向ける。
「医務室で酔い止めでも貰ったほうがいいかもしれないね。それでも治まらないようなら仮眠を取ること」
「はい」
 私が返事をすると、エルキドゥさんが口を開いた。
「なるほど、医務室に連れていけばいいんだね?」
「そうだけれども……君は何か申し開きすることはないのかな?」
 ダ・ヴィンチさんが呆れ気味に尋ねると、
「僕のせいでマスターに被害が及んだと聞いた時は不安になったけれど、無事ならばそれでいい。ここの職員にしても、些細なトラブルで混乱が生じたとして瓦解するまでには至らないだろうし……でも僕が悪いことは確かだ。僕が謝ることで溜飲が下がるというのであれば、何度でも謝罪を述べよう」
 エルキドゥさんがあまりにも堂々と言うものだから、ダ・ヴィンチさんの口から大きな溜息がこぼれた。そしてイシュタルさんに顔を向けると、
「私は謝らないわよ」
 腕を組んでそっぽを向くものだから、今度はこめかみを手で押さえはじめる。
「本当にこの時代の英雄は……まあいいか。ほら、行った行った」
「寛大な処置に感謝するよ。それじゃあ、行こうか」
 エルキドゥさんが足を踏み出す。そのまま廊下への出口へ向かうかと思いきや、何故か私の真正面にやってきて、くるりと背中を向けて屈んだ。
「ええと……あの……?」
「なんだか立っているのも辛そうだからね、おんぶでは不満かい?」
 首だけで私の方を振り返りながら、エルキドゥさんは言う。
「いや、不満といいますか、その……」
 おんぶといえば子供にするもの、というイメージが私の中にあるので、どうにもためらいが生じてしまう。エルキドゥさんは背負うことに対して抵抗はないようだけれど、背負われる側の私はなかなか恥ずかしいものがある。
 困惑で身動きが取れず、エルキドゥさんの背中を見つめていると、
「ああ……背負うのに髪が邪魔だね?」
 エルキドゥさんは合点がいったように頷いて、髪を片側に流した。
 気を使ってもらえるのは大変嬉しいですし、同時に申し訳なく思うのですが……私がいいたいのはそこじゃないんです、違うんですエルキドゥさん……。
「そ、そうではなくてですね、エルキドゥさんの肩をお借りする方向では駄目でしょうか?」
 私としてはおんぶをしてもらうより肩を借りて歩くほうが、よっぽどしっくりくるのだ。
「なるほど……肩に担げばいいんだね? 俵担ぎとファイヤーマンズキャリー、はどちらがいいかな?」
 エルキドゥさんの発想はやっぱり斜め上だった。おまけに究極の選択肢を掲示されてしまい、私は硬直するしかない。
 きっと今から肩を借りて歩くことを説明しても、エルキドゥさんは私を運ぼうとするんだろう。そもそも私の要望を分かった上で、こういう発言をしているのかもしれない。
「……すみません、おんぶでお願いします」
「うん」
 心なしか、エルキドゥさんが嬉しそうに頷くから、もう何も言えなくなってしまった。
 おそるおそる背中に触れる。正面から密着することは多々あれど、こうして背中に密着することは殆どないから嫌でも緊張した。それでも勢いをつけて背に乗ると、エルキドゥさんがすかさず私の足を抱えてくれた。細くて白い腕だから忘れがちになるけれど、やっぱり私の何倍も力があるんだと実感してしまう。
 両肩に両手を添えて、ほんの少し寄りかかる。相変わらずエルキドゥさんの体つきは華奢で丸みを帯びていて柔らかいけれど、それに似合わずどっしりした安定感は抜群で、女性でも男性でもないという確信が持てるのが奇妙だ。
 そんなエルキドゥさんにくっついているという嬉しさと、おんぶをして貰っているという恥ずかしさが、ごちゃまぜになっている。
「ご、ごめんなさい。……重くありませんか?」
「謝ることじゃないよ。の体重なんて僕には軽いくらいさ」
 体重、という単語を出されて思わず口をつぐむ。きっと見透かされているのだろう。
 ふと気付けば、ダ・ヴィンチさんがまるで微笑ましいかのような目つきでこちらを見ている。イシュタルさんはジトっとした目つきだ。嬉しさよりも恥ずかしさが上回って身悶えしそうになる私と違い、エルキドゥさんはしれっとした様子だった。
「それじゃ、お大事にね」
 シミュレータールームを出る際、ダ・ヴィンチさんが見送ってくれた。