1;アキラ
通りのど真ん中に人だかりができているのを遠目に見て、ケイスケとアキラはどちらが先というわけでもなく、同時に足を止めた。
二人は顔を見合わせる。こんな目立つところでバトルなんて、という疑問を口に出さず、二人はそちらへ足を進めた。トシマに来たばかりの彼らは、イグラのバトルなど真面目に見た事は一度もない。ただ純粋に、興味を惹かれたのだ。
群がる男たちがケイスケとアキラの前に壁のように立ちはだかっていて、背伸びをしても中の様子を伺う事はできなかった。ナイフ同士がぶつかり合う音に、野次の罵声に一層拍車がかかる。ただの試合なのにこの盛り上がり様はなんだ。中の様子を見たくとも見れずにアキラが不機嫌そうに眉を寄せたところで、「アキラこっち」とケイスケに袖を引っ張られた。
されるがままついていくと、自分たちより背の低い男たちのすぐ後ろに連れてこられた。これなら中の様子が手に取るようにわかる。アキラがケイスケを横目に見ると、視線に気づいた彼が小さく笑った。アキラはそれに笑い返すことなく、野次馬の中心に目を向ける。
帽子を被った痩躯の男と、それの二回りもあるがたいのいい巨漢がやり合っていた。
がたいのいい方は見るからに強そうだが、痩躯の方はそうでもない。刃渡りおよそ30センチといったところだろうか――年期のありそうなサバイバルナイフでなんとかかんとか相手の攻撃を凌いでいるように見えた。
痩躯が後方――アキラたちのいる側に飛んで距離を置き、巨漢へと突進していく。巨漢はそれをよけることなく、真っ向から受け止めた。ナイフの刃同士がぶつかり合い、いやな音を立てる。がりがりと刃こぼれしそうな音の後、あっけなく、痩躯のほうが力でねじ伏せられた。ナイフごとはじかれ、痩躯の手から離れたナイフが宙へ飛んだ。痩躯が後ろへとバランスを崩す。
にいっと、巨漢の口元がゆるやかな弧を描く。ナイフを持った右腕を大きく振り、痩躯めがけて突き出した。切っ先が痩躯の腹めがけて飛ぶ。避けきるためか、痩躯が重力に身を任せて背中から地面へと倒れこもうとした。
しかし間に合わず、痩躯の左脇に刃がのめりこむ。痩躯はそのまま勢いに任せて、重力に従う。
地面に背中がつくのは時間の問題だろう。試合の決着がついたと、歓声が沸いた。
……刹那、痩躯の両腕がぐっとのびて、地面についた。俗に言うブリッジ状態だったが、間抜けさとかはまったく感じなかった。
痩躯は足を振り上げ、巨漢のあごを蹴り上げる。その反動を利用して、円を描くように痩躯は逆立ちし、腕の筋肉をばねのように使って、後方――アキラたちの目の前へ着地しようとする。
アキラの前の列二人が横に逃げるが、痩躯は人にぶつからないほぼギリギリの所で着地した。
「っ、あぶねっ!」
避けた内の一人が、ぼそっと呟く。それが痩躯の耳に届いたのか、痩躯がはねるようにこちらを振り返った。
黒い目が鋭い刃のようにアキラ達を射抜いた。鉛のようにぎらぎらと光るその鋭い眼差しに睨まれ、文句を口にした男が小刻みに身体を震わせ尻餅をつく。力強いその瞳に、アキラは目を奪われた。
しかし痩躯は興味を失せたのか、それとも巨漢の試合に集中したいのか、すぐに視線を巨漢へと向けた。ゆっくりと歩きだし巨漢と間合いをつめながら、痩躯は腰のベルトホルダーに右手をかけた。白い手のひらに小さなスローイングナイフが三枚握られていた。
「…ってえなこの野郎!」
巨漢がそう叫ぶのと同時、痩躯は右手を下から上へ振りかざす。白刃が雲間からの淡い光を反射しながら、巨漢の頭部めがけて飛んでいく。
「いっでえ!」
巨漢の右頬にナイフが深く突き刺さる。巨漢が傷口を覆おうと右手を上げた直後、右手の甲にナイフがまた突き刺さった。痩躯が駆け出しながら、巨漢にナイフを投げる。投げられたナイフは巨漢の眉間に刺さったが、頭蓋骨に遮られ数ミリしか刺さらず、支えを失ったナイフはゆっくりと地面に落ちていった。
痛みからか、はてまた怒りからか、巨漢が声にならない叫びをあげる。
しかし痩躯は表情を一切変えることもせず、走りながら地面に転がる己のナイフに手を伸ばして拾い上げ、そのままの勢いで巨漢のほうへと突進していった。
「てめっ…糞野郎!」
男がなりふり構わず、自分の拳を振り上げる。痩躯はそれをするりと受け流し、最後には右足を軸にして捻るように飛び、巨漢の横へと逃れ、彼の背中を深く切りつけた。
巨漢は見た目に比例するパワーはあるようだが、スピードと判断力が欠如していた。痩躯のほうが素早く、そして状況判断に長けている。もう決着はついた、とアキラが小さく息を吐くのと同時、痩躯が足を振り上げ体ごと回転して、巨漢の脇腹を蹴った。
怒りに任せた巨漢の拳をまたひらりとかわし、地面に転がるスローイングナイフを拾い上げ、巨漢に向かってまた投げる。
巨漢が両腕を構え防御の姿勢をとり、ナイフを左前腕に受けた瞬間、痩躯が思いっきり地面を蹴り飛んで、電光石火のごとく巨漢の男の耳の下に回し蹴りを食らわした。
ぐらぐらと脳が揺れる感覚に陥った巨漢は、バランスをうまく取れずふらふらと立ち続ける。そこに痩躯がここぞとばかりに、巨漢の鳩尾を蹴りつけた。
ゆっくりと、巨漢が倒れる。
巨漢の背中が地面についたのをきっかけに、割れるような歓声がアキラの耳を劈いた。
興奮しているギャラリーをよそに、痩躯は巨漢からタグを奪い、ナイフの血を払ってホルダーにしまい、振り返ることなく颯爽とその場を後にする。
「なんか、すごいね」
ケイスケが感嘆したように呟く。
見た目、アキラたちよりも小さい痩躯の男が、あの巨漢を表情一つ変えることなく打ちのめしたのだ。さすがにこれはアキラも同意せざるを得なかった。
2;
は路地をゆっくり歩きながら、先ほどのバトルを思い返していた。
さっきの相手は、大して強くはなかった。
パワーはあった。それは素直に認めよう。しかし彼の長所はそれだけで、に見合うほどの根本的なものが足りていなかったのだ。
無条件反射神経とそれに伴う判断力、瞬発力、そして賢さ。
反射神経は生まれつきのものと育ち方によるものだから仕方ないとするが、を外見で弱者と判断し、見下して笑うあの低脳ぶりにはさすがにもあきれてしまった。
自分の体が大きく、の体が小さいから楽に勝てると踏んだのがアイツの誤算だ。
自信に満ち溢れていた顔が時間を増すごとに焦りに代わっていくさまは、にはとても爽快だった。アイツが見下すように笑いながらバトルを挑んできた時の顔のほうがまだ生き生きとしていたはずだ。
はパーカーの袖で口元をぬぐい、にやりと笑った。
――ざまあみろ。
ハッと吐き出すように笑い声を上げ、はすぐ傍のビルの壁にもたれかかった。
思いのほか巨漢の一撃によるダメージは自分の体には堪えたらしい。じくじくと痛んで熱を帯びる傷口を片手で押さえ、血混じりのつばを地面に吐いた。
空を見上げれば、一雨きそうな曇り空が広がっていた。
こんな所で行き倒れればイグラの参加者やあの処刑人たちに血祭りに上げられるのはわかりきっていることだ。動かねばならないのに、脳がそれを許さない。休め休めと警鐘をあげ続けるかのように、自分に鋭い痛みを伝えてくる。
もうどうにでもなれ、とはずるずるとその場にしゃがみこんで、目を閉じた。
3;アキラ
猛に襲われ、釈然としない気持ちのままリン達とホテルに来たが、どうにもリンとケイスケとも話をするのが億劫になり、アキラは眠りについたケイスケを最後に目にして、散歩という名目でホテルを出た。
しらみつぶしといった感じで気の済むまで歩き続け、気づけば知らない路地に迷い込んでいた。
ここはどこだ、ホテルはどっちのほうだ、と立ち往生して辺りを見回していると、鼻先にぽつりと雫が落ちてきた。雨粒が落ちてくる感覚はすぐに狭まり、一気に土砂降りに変化する。
猛のことといい、処刑人のことといい、自分の運の悪さに嫌気を覚えつつ、アキラは雨宿りできる場所を探すため見知らぬ路地を走り出した。
ここらへんのビルは相当荒れていて、大戦の影響によるものだろうか、入り口部分が殆ど崩壊していて潜り込めるようなビルはなかった。かろうじて入れそうなビルを見つけたが、アキラが足を踏み入れた瞬間に天井からコンクリートの塊が落ちてきて、よくよく見れば壁にはいたるとこに亀裂が入っており、アキラは無言で踵を返した。
やっとのことで一階部分がガレージになっているビルを見つけ、アキラはそこに入り込む。雨は叩きつけるようにどんどんひどくなっていく。もう当分は止みそうになかった。
ここでも誰かに狙われるんじゃないかと目を配り、そうしてアキラは目を見張った。
斜め向かいの先のビルの壁に沿うように人が倒れていたのだ。
しかも、その人の服装に見覚えがあるから、なおさらアキラは驚いた。
パーカーにジーンズ、そして特徴のあるニット帽という格好は、今日午前に見たイグラの試合の勝者に酷似している。そんなまさか、と思いつつも、アキラは乾いたコンクリートから濡れたアスファルトの境界線を跨ぎ、倒れた人の傍へと恐る恐る近寄った。
顔がよく見えなかったので、しゃがみこんで確認する。
目は閉じられていたが、顔の造形はまさしく今日見た試合の勝者だった。彼の顔は青白く、口からもれる微かな息遣いはとても苦しそうだった。グレーのパーカーは左脇を中心にどす黒く変色していた。確かこいつは巨漢に左脇を刺されていたとアキラは思い出す。
声をかけるべきか、ほっとくべきか迷うアキラだったが、酷く苦しそうに呼吸する彼の姿を見て、決心した。
「おい」
肩に手をかけて軽く揺さぶる。
「…ん」
男のくせに高めの声がゆるくあいた口から漏れた。
「おい、アンタ」
ゆっくりと、重たそうに瞳が開かれる。その瞳にはあの時のような鋭利さはなかった。
容赦なく顔に落ちてくる雨が鬱陶しいのか、男は眉間の間に皺を作り、数回瞬きをして体を起こした。もごもごと口を動かして、これでもかというほどめいっぱい顔をしかめて、濡れたアスファルトに唾を吐いた。まさか唾を吐くという事をするとは思わず、アキラはしゃがんだままその男から半歩分後退して距離を置いた。
しかし男はその行動を気に留めず、だるそうにぼーっと前のほうを見つめたままだ。
「…大丈夫か?」
怪我よりも男の頭の方が危ないのではないかと心配になり、アキラは再度声をかける。すると男は気だるそうにアキラのほうを見て、一拍おいてから視線を逸らし、それからアキラを変な物を見るかのように上から下まで眺めた後。
「…うるさいな、お前に関係ないだろ?」
言ってフンと鼻で笑い、アキラを睨み付けた。あの鋭利な視線を向けられ、アキラは怯む事はしなかったが、それでも何かいやな感じが体の中にしこりとして残った。
こいつは本当に、嫌な目をする。そう思いながらアキラは男を睨んだ。…が、男はアキラに目もくれずのろのろと立ち上がる。今にも倒れそうな危なっかしさに、アキラもつられて立ち上がった。男がこちらをぎらぎら光る目で睨みつける。
「怪我人だからってばかにするな」
吐き捨てるように呟き、男は一歩足を踏み出した。ビルの壁に右手を掛かけて、本当にゆっくり歩き出す。男は何歩か歩くとバランスを崩してビルの壁にもたれ掛かった。それからけほこほ、と軽く咳き込み、何故か左手を額のほうへ持っていく。
それを後ろから見ていたアキラは、はあと小さくため息を吐いた。なぜなら男の一連の動作がもう“具合が悪いです”と訴えかけているようにしか見えなかったからである。きつく睨まれたときはさすがにこのままほっといてもいいと思えたが、明日の朝にはこいつが死体になっていそうで、それを想像したらなんとも居た堪れない気持ちになり、アキラは男に小走りで近寄った。
男がぐらりと傾くので、慌てて手を伸ばす。腹に腕を当てて支えてやると、ごく至近距離にある男の顔がこちらを向いた。睨んできたあの瞳とはうってかわって、きょとんとした、無垢な眼差しがアキラを見つめる。あの鋭利な目とはかなりギャップがありすぎた。
別人なんじゃないかと、アキラは思わずたじろぎそうになった。
「あんまり動くな」
言いながら男の左腕を自分の肩に無理やり回させ、自分の腕を男の脇腹に添えると、男は小さく舌打ちをした。アキラはぴくりと反応したが、なんとか自分を抑える。
「ちょっと我慢しろよ」
男を気遣いながら、ゆっくり歩く。辛くはないだろうかと男の顔を窺ったが、俯いていてよくわからなかった。
男は苦しそうに咳き込んでから、一言。
「…お人好し。そのうち自滅するぞ」
言われて、アキラは反論する事はおろか言い返すことすらできなかった。今まで生きてきた中で、自分の事を“お人好し”だと思った事は一度もないのだ。トシマにきて、こんな事を言われるとは思わなかった。
確かに、捨てられた犬や猫を見ると、無意識に近づいてしまうのは自覚しているわけだが…こいつは犬猫といった存在ではないというのに、どうして助けてしまったのだろうかと自分でも首を傾げてしまう。自分のその一面を他人に初めて指摘され、嬉しいのか悲しいのかわからないまま、アキラは男を支えたまま、すぐ近くのビルへと入り込んだ。
どうやらここはアパートらしく、錆びて朽ちかけたポストが入り口の壁に並んでいた。
エレベーターは当然動かないので、階段を使う事になる。階段に足をかけて、男の体重を支えながら上って、気がついたことがひとつ。こいつは男のくせに、さほど重くはないのだ。あれだけの巨漢を倒せるほどの動きをするのだから、当然筋肉は常人の倍はあるだろう。なのになぜ重くはないのかと思案していると。
「っ…ちょっと、休憩したい」
隣の男が苦しそうに呟いた。見れば男のパーカーは先ほどよりも黒ずんで見えた。動いた事により傷口が開いたのかもしれない。それに気づかなかった自分に嫌気を覚えつつ、アキラは渋々を床に座らせた。
しかしずっとここにいるわけにはいかないだろう。苦しそうに呼吸を続ける男を見下ろし、もうこれ以上の行動はこいつの体力の限界だと悟った。これは自分が首を突っ込んだ件だ、最後まで面倒を見るしかない、とアキラは自分に言い聞かせ、男のそばにしゃがみこんだ。丸まった背中に手を添え、伸ばされた足と床の間に手を差し込んだ。
そのまま持ち上げると、男がたじろいでアキラを見上げた。
「ちょ、何して…!」
そう呟いて、落とされないようにと必死そうな面持ちでアキラのブルゾンを握り締める。上目に睨み付けられたが、その目に覇気はまるでなかった。これなら気圧せるだろうとアキラは勝手に足を進める。
こんな体制は男にとっても不本意であり、プライドを逆なでするだろうと、アキラは男が暴れだすのを覚悟していたが、意外にも男は黙ってされるがままの状態だった。借りてきたペットのように大人しくなる男がなんだか面白かった。
それにしても、こいつ、男の割には本当にc軽い。アキラも比較的痩躯の部類に入るほうだが、この男はアキラとは桁が違うような気がした。パーカーの袖口からのぞく手首は細く、男のものとは思えないほどだ。体重はリンと同じくらいか、それ以下だろう。
「メシ、ちゃんと食ってんのか?」
聞いてみると、男が睨む。
「こちとら1日3食きっちり食ってるぞこのやろう」
いい終わり、ぜえはあと呼吸を整える男。顔を逸らし、それから気だるそうに自分の膝を見つめたまま、静かに息をし始める。さっきよりも顔色が悪い。うつらうつらと、目を閉じては開けるを繰り返す男を見て、やっぱりこいつは限界だから早く休ませなければと、自然と早足になる。
2階にあがり通路を歩く。雨水を通す排水溝にはゴミがたまっていて汚かったが、ここに人が足を踏み入れるのはあまりなかったのか、壁の落書きはおろか、悪戯に壊されている場所すら見当たらなかった。
201と書かれたプレートが掲げられたドアの前に立ち、アキラは男を抱えたまま器用にドアノブに手をかけ、ドアを手前に引いた。金具がさび付いているらしくなかなか開かなかったものの、別の部屋にしようかとアキラがふと思ったころに音を立ててドアが動いた。今まで何年も動いたことがなかったらしく、ヒンジが無理に動かされ、錆びているらしいドアクローザからぱらぱらと赤錆が落ちた。
部屋の中を見回す。玄関の脇にトイレとキッチンがついており、うっすら埃の積もったフローリングにはわずかに靴跡が残っていた。過去にも誰かがこの部屋に来たらしい。
土足で上がりこみ、アキラは部屋の奥に陣取るシングルサイズのベッドを見下ろす。几帳面にもシーツが敷かれタオルケットが上にかけてあったが、その上には埃が積もっているように見えた。アキラが男を落とさないように恐る恐る手を伸ばし、タオルケットを剥ぎ取る。タオルケットに覆われていた部分は比較的綺麗だった。
なんとなく安堵してタオルケットをヘッドボード側に丸めて置き、埃の積もっていない場所に男をおろすと、男ははっとしたように目を見開いて身体を起こした。そのままこちらをじっと見つめてくる。どうやらこの状況でなおも警戒しているらしい。アキラ自身、この男に対する敵意は今のところ全くないので、近づいて男の額を無理に押した。弾むように男の身体がベッドに沈む。
「寝てろ」
言いながら、男の服のせいで水を含んだ上着を脱ぎ、それをベッドのフットボードにかけた。
上着が雨を遮ってくれたおかげで、アキラのtシャツは殆ど濡れていなかった。
「寝れるわけないだろ!」
男がまた身体を起こすが、アキラは懲りずにまた額を手で押した。ギャフンというよく分からない声を上げて、男はベッドに沈み込む。男は諦めたのかぼーっと天井を見つめ、ややあってから首だけ起こしてこちらを見る。
「…じゃあ出てけ。それなら、寝れる」
よほど警戒心が強いらしい。確かにトシマでは警戒心を強く持つのはいいことだとは思うが、この状況をよく考えろとアキラは言いたくなる。アキラは人を殴る蹴るという事はしてきたが、それでも盗みなどをしたことは一度たりともない。それにしようとも思わないのだ。
「別に寝込みを襲おうとは思わない」
言うと、男はぐっと黙り込んで、力尽きたのか糸が切れるように頭をベッドの上に預けた。苦しそうに息をする男を見下ろす。服がずぶ濡れなせいか、シーツが水を吸い取って変色していた。しばらくじっと男を見ていたが、服を脱ぐそぶりすら見せない。
アキラは仕方なくベッドに腰掛け、男の頭に手を伸ばした。帽子を取ると、濡れた長い髪がシーツの上に散らばった。男がぽかんとアキラを見上げる。
アキラにはその顔がまるで女に見えて、そんな事を一瞬でも考えた自分に嫌悪した。
パーカーのファスナーに手をかけると、男がビクンと過敏な反応を示し、ごろごろと反対側に寝返りを打ってベッドの隅、部屋の壁際に移動した。なぜ逃げるのかわけがわからず男をじっと見ていると、男が何故かにらみ返してきた。負けじと、アキラも睨み返す。
あの鋭い目に射抜かれ、アキラが先に折れた。
「…服。脱がないと余計冷えるぞ」
アキラが言うと、男は自分の濡れた服を見てから、またアキラを睨んだ。
「そんなこと知らん。おれに構うなってば」
なぜ意地を張る必要があるのかと、アキラは呆れ気味にため息を吐いてベッドにあがった。マットレスのスプリングが軋む音に、男がびくりと震える。なんだか本当に自分が悪い事をしているかのような気がしてきて、それは錯覚だとアキラは自分に言い聞かせ男に手を伸ばした。
「触るなっ!」
手を思いっきり叩き弾かれる。手の甲にびりびりとした痛みが伝わった。
それのすぐ後に、っくし、と小さなくしゃみの音。男がすん、と鼻を啜るのを見て、アキラは何か形容しがたい感情を抱いた。そもそもあれだけ出血する怪我をしているのに平気で水に濡れたままの服を着ているほうがおかしい。こいつは多分馬鹿だと内心愚痴をこぼしつつ、アキラは無理に手を伸ばし、男のパーカーのファスナーに手をかけた。
「っ…や、やめろ! セクハラ! 変態!」
じたばたともがく男を静かにアキラは見下ろしながらぽつりと。
「男同士でそういう思考に持っていく辺りがおかしい」
男の動作がぴたりと止まった。正論を突かれた男はぽかんとしていて、確かに、という言葉がそのまま顔に書かれているようだった。酷く間抜けな面構えを見て、アキラは一気にファスナーを引きおろす。男がうわっと声を上げて暴れだそうとするのをなんとか押さえ込み、パーカーを剥ぎ取った。
男の緑のtシャツはやはりパーカーと同じく濡れていて、血によりほぼ半分が黒く変色していた。左脇の真下辺りに裂け目が入っている。どうやらここを切られたらしい。
こんな怪我をしてよく我慢できるなと感心しつつ、アキラは裾を掴んで脱がそうと上にあげる。
思ったよりも筋肉質ではない滑らかそうな腹を見て、何をやっているんだろう、とアキラは考えてしまった。男二人がベッドの上でもつれあっているこの状況を想像し、物悲しくなった。
「やめろってば!」
叫んで抵抗を続ける男に、またアキラも抵抗を続ける。攻防戦が続いた後、tシャツがびりっと裂けた音がして、二人は同時に動きを止めた。見れば男のtシャツが切れ目から裂けていた。申し訳なくなって男を見れば、男は青ざめた顔をしてから
「もう嫌だ…」
と絶望に打ちひしがれるように呟く。男の身体の力がぐったりと抜けたのをいいことに、アキラはtシャツを脱がしにかかった。袖に腕を通し、脱がしたtシャツを濡れたパーカーの上に置く。
あらためて男を見下ろして、アキラは首をかしげた。
胸元に包帯とは違った、ガーゼのようなものが巻かれていたからだ。
「…さらし?」
確認するように呟いて、それから答えを求めて男を見る。
男の顔は何故か赤かった。
「もう全部脱いだ! これでいいだろ!?」
身体を起こして必死そうに声を荒げ、それから男は具合が悪そうに顔をしかめて頭を抱えた。なんでさらしなんかしているんだと思いつつも、赤黒く染まったさらしの奥、左脇の傷口に手を伸ばす。傷口にじかに触れると、指先に固まりかけ粘着した血液がついた。男の顔を見ると、相当痛いのか顔をしかめていた。
「怪我してるぞ。手当てしてやるからこれ取れよ」
手当てしてやる、とはいったものの、アキラはそういった道具を持っていない。言った後でしまったと思ったが、ここのアパートにある部屋のものでなんとかなるだろうと考え直す。
対する男は目を丸くしてから何度か瞬きを繰り返し、ぶんぶんと首を振る。それからヘッドボート側に置かれた、あの埃まみれのタオルケットを手に取りそれを頭からかぶった。
「い、いやだ! これだけは絶対にいやだ!」
埃が舞う。アキラは口の辺りに左手を押し付け、恐る恐る鼻で息を吸う。思わずむせ返りそうになった。何を考えてるんだこいつは、とアキラは言いたくなったが、ぐっとそれをこらえ、男のほうに手を伸ばしてタオルケットを掴み引っ張る。
案外簡単に剥ぎ取る事ができた。
それをベッドの端に投げ捨てて、男のさらしの結び目に手をかけた。すると男が逃げるようにベッドの上に寝転がる。その勢いで、結び目が解けた。男がサッと顔面蒼白になり、両手でさらしを押さえる。
アキラはその強情ぶりに、思わずため息を吐いてしまった。
「破傷風になるだろ」
説得を試みるものの、男は首を振って拒否する。
「だったら自分で手当てする!」
「…病人のくせに何言ってんだよ」
ぎくり、と男がこわばってから、きっと見上げるように睨みつけてくる。こんな状況ではアキラにとって睨まれるのは怖くもなんともなかった。
「う、うるさい! だからやめろって…!」
アキラがさらしの端を手にすると、男がその手を掴む。アキラはしばらくじっと男を見つめた後、やや首をかしげた。
「…どうしてそこまで抵抗するんだ?」
そもそも、男がなぜ胸にさらしを巻いているのかが理解できなかった。ただ息苦しいだけだろうと、アキラはさらしの巻かれた胸板を見下ろす。何か見られたくないものでもあるのだろうか。
「おっ、お前に関係ないだろっ! ……って、取るのやめろー!!」
さらしを一巻き取ると、男にパーで頭を叩かれた。顔をしかめるが、グーで殴られないだけましだと思う。それに大した痛みもない。男が気遣って力を抜いているのか、本当に具合が悪くて力が出せないのか――どちらかといえば、後者だろう。だったら尚更、手当てをしなければならないとアキラは思う。
男の抵抗もむなしく、アキラはさらしをどんどん解いていく。解かれたさらしをみて、結構な長さの布を巻いているんだなとアキラは感心し、男の胸元に視線を戻して、はたと手を止めた。
いやまさかそんな馬鹿な、とアキラは自分の目を疑った。
男のさらしに覆われている胸に、なだらかな起伏があるのだ。
まさか夢でも見ているんじゃないかとアキラは先に自分の頭を疑ったが、いまだに叩かれている頭は痛いので夢ではないし、自分の思考回路はいたって正常だ。じゃあ何でだ、と男の顔を見ると、今にも泣きそうな瞳が見上げてくる。
「おまえ…」
その目ですぐにわかってしまった。
男はアキラの言葉におびえるように、ぎゅっと目を閉じて、最後の抵抗と言うべきか両手を使って残り少ないさらしを身体に押し付けた。
「…おん、な?」
自分でもなんだか間抜けな情けない声が出たと思った。それほど自分は動揺しているようだ。
男、もとい女はぽかんとしたままのアキラを見上げてから、潤んだ目をぎゅっと閉じて上に逃げようと足を動かした。女の片手がベルトのナイフを収めたホルダーに向かう。そういえばこいつは大振りのナイフのほかに投射用のナイフを持っていた事を思い出し、アキラははっとして、さらしから手を離した。
一歩間違えれば切りつけられそうで、どうしたらいいのかわからず、アキラは黙って女を見下ろす。女は俯きがちになって口を引き結んで、何かをじっと耐えるように身をこわばらせていた。
「…ご、めん」
アキラは自然と、何故かそう呟いていた。はねるように顔を上げる女に驚いてアキラはビクリと身体を震わせた。ぽかんとしたまま固まる女に、アキラはだんだん気恥ずかしくなってくる。
「なんだよ」
女が数回瞬きすると、なんだかものすごく居た堪れないというか、よくわからない衝動に駆られ、アキラはさっきよりも投げやりに「なんだよ」と言い放つ。女の唇がゆるく開いた。
「…げへへ女だひゃっほーい、的な反応がくるかと……」
言われて、アキラは苦笑するしかなかった。女からゆっくり距離をおき、そうしてベッドから降りると、女は恐る恐るといった感じで身体を起こし、ベルトにかけていた手をタオルケットの上に移動させ、それを手繰り寄せて頭からすっぽりかぶった。
「っくし、」
またくしゃみをする。そのせいでピリピリしていた空気が一気に柔らかくなったような気がした。タオルケットの隙間からちょこんと出た顔が、苦しそうに顔をしかめて鼻を啜った。
なんだか緊張感のカケラすらない光景を眺めつつアキラはやや考え込んでから、投げやりに自分のtシャツを脱ぎだした。
それを相手の顔に投げつける。
「っぶ!?」
突然視界を覆われた女はあたふたとシーツから手を出し、アキラのtシャツを剥ぎ取った。
「うわ、何だよ!?」
それからオレンジ色のtシャツを凝視して、首をかしげてこっちを見てくる。
「それ着てろよ」
言うと、女は目を見開いてから、ぶんぶん首を振る。
「それじゃお前が寒いだろ」
「風邪を引くほど柔じゃない」
アキラがすぐに言い返すと、女はむっとしたように眉を寄せてから、アキラのtシャツに袖を通した。着終わった後、女は溜息を吐いてtシャツの裾からさらしを引っ張った。もはやさらしと言えないほど黒くまだらに染まった布を見て、なにやらしょんぼりしはじめる。
今にも女が百面相になりそうで見ていて面白かったが、女の身体にある怪我の事を考えると、それどころではないように思えた。
「とりあえず、寝てろよ」
言うと、さらしを眺めていた女がアキラを見る。睨んでからぷいっと顔を逸らし、タオルケットまたすっぽりかぶって壁に寄りかかった。
どうやらアキラが立ち去るまで、ずっとそうするつもりらしい。どうしたら信用してもらえるのかとアキラは考え、アキラは軽く溜息を吐いてベルトのホルダーに手をかけた。ナイフを鞘ごと女のほうに投げる。
「これでいいだろ」
女がぱちくりと瞬きをしてアキラを見つめてから、アキラを睨みつけた。
「誰か来た時どうすんだよ」
聞かれて、アキラはやや間をおいてから。
「おまえから取る」
そう言うと、女が呆れたような表情を作った。
「それ、意味ないだろ」
「…まあ、そうだな」
女はからかうつもりで言ったらしいが、アキラに軽く肯定されてしまい口ごもる。そして、ベッドに置かれたアキラのナイフに触れることなく、脇の傷口をかばうように横になる。
アキラはほっと息を吐いて、部屋に備え付けのクローゼットの中を覗いた。中にはプラスチックの黒いハンガーが4つかかっていた。上の棚には木箱があり、アキラは背伸びしてそれを手に取った。
やや埃をかぶっているそれは、救急箱だった。埃をかぶっているとはいえ、比較的新しいものだ。中を開けるとガーゼと消毒液と包帯、と一通りそろっていた。なぜここにあるのかよく分からなかったが、とりあえず使えるものは使おうと小脇に抱えた。
そして、ふと気づいた。自分が女の手当てをするのかと。さすがにそれはまずいのではないかと、後ろの女を振り返る。目を閉じていたが、眠っているのか起きているのかよくわからなかった。
もう一度棚を見れば奥のほうに毛布があり、アキラはそれを取って広げてみる。やはり新しいものだった。救急箱と毛布を持ち、ベッドのほうへ行って腰掛けると、女がゆるく目を開けた。
「傷の手当て、今自分でできるか?」
救急箱を見せながら言うと、女が頷いて身体を起こそうとしたが、顔をしかめてこらえるようにそのままの体制で静止する。また横になった。黒い目が申し訳なさそうにアキラを見上げてくる。アキラは静かに溜息を吐いた。
箱を開けて消毒液と綿を取り出す。
「…傷」
アキラがそれだけ呟くと、女はタオルケットを退けてtシャツをたくし上げた。
傷の場所が胸より下の位置で、本当によかったと心の底からアキラは思った。
ぱっくり切れた傷口に、消毒液をしみこませた綿を押し当てる。
「っ、」
女が息を呑んで歯を食いしばった。かなり染みるらしい。
「我慢しろ」
それだけ告げると、女が静かに頷いた。
何度か綿を替えての消毒のあと、何枚も重ねたガーゼを傷口に当て、包帯は巻かずテープで止めるだけの処置を終え、アキラは緊張が切れたのかほっと息を吐く。女のtシャツを元に戻すと、女が口を開いた。
「…名前」
ぼそりと呟いてから、やや間をおいてもう一度。
「俺の名前、っていうんだけど。お前は?」
そんな事を聞かれると思わなかったアキラは、と名乗る女の顔を凝視する。の目には敵対の意思は感じられず、アキラは消毒液を箱にしまいながら、
「アキラ」
と名乗った。するとはにへら、と笑う。
「そっか……余裕があったら覚えてやるよ」
どこまで皮肉な性格してるんだ、とアキラはを見下ろしたが、は顔の横に持ってきた手をぎゅっと握って、目を閉じる。
「…ありがと」
そう言ったすぐ後に、は意識を手放すように寝入ってしまった。どうやら相当無理をしていたらしい。アキラはふう、と息を吐いてベッドから降り、持ってきた毛布をの上にかけてやった。
ベッドの隅に追いやるように置かれたの服が目に留まり、アキラはそれを持ち上げた。ぐたぐたに濡れた服を流しのほうに持っていって、そこで絞ってみる。ばしゃーと水が出てきた。
tシャツとパーカーどちらも限界まで水を絞り、クローゼットのなかのハンガーを取り出し、窓際にそれをかけた。
なんだか一仕事した気分になって、アキラはベッドに寄りかかって座り込む。床が埃で汚れているというのはわかっていたが、そんなのはもうどうでもよくなっていた。
す、と微かな息遣いが聞こえて、アキラははあと溜息を吐いた。なぜトシマに女がいるのかと疑問に思ったが、突如酷い倦怠感がアキラを襲い、なんだかすべてがどうでもよくなって目を閉じた。
4;
目を覚ましてあたりを見回すと、アキラと名乗った男はいなくなっていた。
にもかかわらず、ベッドの上には彼のナイフが置いてある。武器を置いて立ち去る馬鹿などこの街にはいない。一体彼はどこに行ったのだろうと身体を起こすと、タオルケットの上に毛布をかけられているのに気がついた。もしかしなくともあいつがコレをかけてくれたのだろうか、とは毛布をじっと見てから、またあらためて部屋を見回す。ベッドに寄りかかる人の頭が見え、は恐る恐る身を乗り出した。
アキラがベッドにもたれかかって、すやすやと眠っていた。半裸だったのでは驚いたが、自分の格好を見下ろし、そういえば服を借りたんだったと思い出す。
床にそっと降り、窓際にかけられた服を見る。彼がかけてくれたのだろうか、とは眠りこけているアキラを見下ろし、音を立てぬよう自分の服を手に取った。乾いたオレンジ色のtシャツを脱ぎ、自分のtシャツに袖を通す。濡れたままの服を身に着けるのは頗る気持ち悪かった。
丁寧にアキラのtシャツをたたみ、その上に彼のナイフを置く。今起こして礼を言うべきなのかと迷ったが、気持ちよさそうに眠っている顔を見ると、それは躊躇われた。は仕方なくパーカーのポケットを探る。
包装された黄色い飴を取り出す。これが最後の飴だった。
それをtシャツの上に置く。源泉に言えばまたお菓子を持ってきてくれるだろうかと邪まなことを考えつつ、は見るからに寒そうな格好のアキラに毛布をかけた。
毛布をかけられたアキラは最初身動ぎこそしたものの、起きるような素振りはまったく見せずに穏やかな呼吸を続ける。
はほほえんで、静かに部屋を後にした。
5;アキラ
tシャツの上にちょこんと乗った飴玉を眺めて、アキラは首をかしげた。
多分が置いていったものだろうというのはわかるが、なぜ飴玉なのか、アキラにはどうしても理解しがたかった。お礼のつもりなのかと考えるが、そういう性質ではなさそうな気がした。
毒でも入っているんじゃないかとそれを眺めたあと、アキラは寒さに身体を震わせ、とりあえず服を着なければとtシャツに手を伸ばした。tシャツを身に着け、ブルゾンを羽織る。ナイフをベルトに差し込み、飴玉をつまんでどうしようか迷った後、アキラはブルゾンのポケットにそれを突っ込んだ。
どのくらい寝ていたのかわからないが、外は未だに暗い。もしかしたらほんの少ししか寝ていないのかもしれないと、アキラはポケットに入っている通信機を取り出し、暗がりの中画面を覗き込んだ。
ホテルを出てからまだ一時間半ほどしかたっていなかったという事がなんだかアキラには嘘のように感じられた。どう考えても、それ以上の時間が経っているような気がしてならないのだ。
そもそもトシマに女がいるというのがおかしいのだ。もしかして本当に幻覚でも見ていたんじゃないだろうかと、アキラは無言で通信機をポケットにしまいこんだ。
その際、指先に飴玉が触れる。手持ち無沙汰に指先でそれを弄んでから、アキラは玄関のほうへ足を勧めた。
部屋を出て、階段を降りる。1階と2階の間、折り返し地点になっている踊り場で、アキラは立ち止まる。微かに水に濡れたコンクリートを見て、アキラは夢ではなかったのだとやっと実感を得る事ができた。
足を踏み出す。
いつの日かまた彼女と言葉を交わす日が来るのを、アキラは願った。