1;
 トシマのとある一角に聳え立つ古めかしいアパートを隠れ家にしているは、アキラと別れた後、なんとかその隠れ家に帰宅し、濡れた服を脱ぎ捨てベッドに横になった。
 気がつけば朝になっていて、傷口の痛みは昨日よりマシになっていた。これは単にアキラの手当てのおかげだろう。怪我による熱も、もうすっかり引いていた。
 は床に散らばった自分の服をベッドの上から見下ろして、盛大に溜息を吐いた。
 ジーンズはいいとして、パーカーとtシャツはもう使い物になりそうにはなかった。首の後ろを指先で掻きながら、ベッドから降りる。生乾きのジーンズを部屋の隅のかごの中に投げ入れ、この部屋の持ち主が使っていただろうと思われる棚から、トシマに来る際に持ってきた替えのジーンズを手に取った。同じように隣に畳んである青いtシャツを手に取り、ベッドの上に投げた。
 いつだかどこかで拾ってきたいすの背もたれにかけられたタオルを手に取り、バスルームへと入る。タオルを洗濯物用のポールにかけ、バスタブの中に入ってカーテンを閉めた。
 蛇口をひねる。水が出てくる。この部屋はもともとガスも水道も通っていなかったから、当然暖かいお湯など出るわけがなかった。石鹸を手に取り、急いで頭を洗う。トシマに来る前に切った髪はもう肩より下まで伸びてしまった。
 はナイフは持っているが、髪を切るための鋏などは持っておらず、また自分のナイフで髪を切ろうとは思わなかった。アルビドロの城に行けばタグと鋏を簡単に交換してくれるだろう。しかしあの陰気くさい場所に行ってまで髪を切るためのただの鋏が欲しいとは思わなかった。それに髪など帽子でなんとか隠せるのでまあほっとく事にしたわけである。結果、短かった髪はもうそのままずるずると伸ばし放題に。まあ髪がみすぼらしくボサボサになっているわけではないので、はそれでよしとしていた。
 スポンジで身体を洗う。左脇の傷口の周りを洗いたかったのだが、なんだか雑菌が入って化膿しそうだったのでやめる事にした。傷口をかばいながら、何とか身体を洗い終える。
 すっきりしつつ、それ以上の寒さに身体を震わせ、髪と身体をタオルで拭いてバスルームから出た。
 棚から下着を出し身に着ける。ベッドの上に座り傷口を適当に手当したあと、包帯代わりとして新しいさらしを巻いて抑え、tシャツに袖を通し座ったままジーンズを履いた。電池式のドライヤーで髪を乾かし、クローゼットから黒いパーカーを取り出してそれを羽織る。
 台所に積み重なったソリドとペットボトルの水を取りパーカーのポケットに突っ込む。昨日の雨で泥水に濡れたニット帽をかぶるわけにも行かず、玄関の壁掛けフックにかけられた真新しいキャスケットをかぶる。コレをかぶると如何しても男っぽく見えなくなるので、はトシマに来てからあまり使っていなかった。ないよりはマシだろうと靴箱の上にある鏡を見て一人納得し、スニーカーをはいて部屋の外に出た。鍵などかけなくとも、ここら辺一体はあまり人が近寄らないので安全だった。――とはいってもは部屋の鍵など持っていないが。
 階段を駆け下り、外に出る。そのまま走って近くの教会に駆け込んだ。
「もとみーっ」
 叫ぶが、教会の中は静まり返ったままだ。どうやらの目的の人物はいないらしい。
 むう、と口を尖らせては教会の中へ足を踏み入れ、前列の長椅子に腰を下ろした。
 カレー味のソリドと水で朝食をとり、重たい腰を持ち上げて祭壇の前に立った。十字架を見上げたは、特に何をするでもなくじっとそこに立ち、それから踵を返して教会を後にした。
 源泉との約束を頭の中で復唱する。
――教会に俺がいなかった場合、早朝、中立地帯の西のホテルにて落ち合おう。
 今は早朝という時間ではないが、源泉は時間にルーズなのできっと来るのは遅いはずだ。少し駆け足になって、は路地を進んだ。


「遅かったじゃないか」
 開口一番にそう言われ、は目を見開いたまま固まった。
 あの時間にルーズな源泉が、自分よりはやい時間に待ち合わせ場所にきているのだ。もしかしたら自分は今日一日危ないんじゃないかとか、今日限りの命なのではないかとか、よくない事をいろいろ考えてしまう。
 ぼーっと突っ立ったままのに痺れを切らしたのか、源泉は軽く咳払いをした。
「間抜け面してないで、さっさと受け取れ」
「あ、うん」
 源泉から差し出されたビニール袋を、はおずおずと受け取った。中身を確認する。
 代えのさらし布とtシャツ、そしてお菓子の袋。
 にいっとが笑い返すと、源泉が苦笑して帽子の上からの頭をなでた。トシマで唯一、が心を許せる相手はこのくたびれたオッサンただ一人だけだった。





2;アキラ
 源泉が「先約があるから」とアキラ達のもとを離れてロビーの隅へと移動するのを傍目に見てから、視線を戻して数十分の後。ケイスケの事で落ち込んでいるアキラの気を紛らわせようと、リンが気を使って写真を見せてくれているなかで、少しだけ源泉の様子が気になりそっちに視線を配らせたとき。アキラは目を見張って、息を呑んだ。
 まずはじめに思ったのは、何でこいつがここにいるんだ、という事だった。
 昨日と服装は違うが、遠目に見てもそれがだということはすぐにわかった。なぜなら周りの男達との体つきがまるで違うからだ。
 は源泉から何かが入ったビニール袋を受け取り、それから屈託のない笑顔を浮かべて見せた。昨日はに睨まれてばかりだったので、正直あんな顔ができるやつだったのかとアキラは驚かざるをえなかった。
 源泉がの笑顔に応えるように、帽子の上からの頭をなでる。こそばゆいのか困ったようにほほえむを、アキラはもう男として認識できなくなっていた。そもそもアレで男を演じるというのが無理がありすぎるのだ。
「アキラ、どうかした?」
 写真から目を離したせいか、心配になったらしい隣のリンが問いかけてくる。
「いや、なんでもない」
 アキラはリンに視線を向けゆるく首を振り、けれど写真には目を向けずに源泉たちのほうを見た。つられてリンもそちらを見る。するとリンはを見て少しだけ眉を寄せた。
「アイツ…」
 恨めしく呟いたリンが意外だった。
「知ってるのか?」
「んー、2回くらいバトルだけ見た。そんくらい」
 リンは呟いて、不満そうに口を尖らせる。
「アイツ、結構前からいるんだよ。…なんつーか、戦い方が卑怯っつか、姑息というか、だから印象に残って…」
「卑怯?」
 聞き返すと、リンがうんと頷く。
「目くらましに砂かけたりして挑発したりするんだ。正々堂々真向勝負しないんだよ」
 それに、とリンは付け足して。
「蹴り上げたんだ。信じらんないってアイツ」
 どこを、とはあえてアキラは問いかけなかった。を見る。確かに無茶しそうな性格だとは思った。
「で、何? アキラ気になんの?」
「いや…源泉が話してるから、気になっただけだ」
 本音など言えずアキラは適当に言葉を取り繕うと、リンは納得してくれたようだった。リンが新しい写真を一枚アキラに差し出すので、アキラはそれに目をやる。けれどどうしても気になり、源泉たちのほうを上目に盗み見た。
 が目を見開いてこっちを見ていた。
「…っ、」
 気づかれた、と慌てて息を呑む。呆然とした感じでこっちを見てくるのせいで、下手に身体を動かせなかった。全身の筋肉が強張り、緊張のためか心拍数があがっていくような気がした。
 の異変に気づいたのか、源泉がアキラ達のほうを振り返る。リンとアキラを交互に見比べて、源泉がに何か話しかけたが、はそれどころではないようだった。ぶんぶん首を振って何かをまくし立てた後、脱兎のごとくその場から駆け出す。源泉がびっくりした様子で慌てて手を伸ばすが、その指先はの腕をかすめるだけだった。
 なぜが逃げたのかうまく言葉にできないが、なんとなくぼんやりとした感じではあるもののアキラにはイメージできた。多分が女だという事を、自分が知っているからだろう。別にそれを言いふらすなんて事はアキラはしないつもりだ。なのに何故、あんな風に逃げ出すのか。…つまり、アキラも警戒されたままなのだ。
 源泉が頭をかきながらこちらに戻ってくる。リンが写真から顔を上げた。
「ったく、逃げられちまった。餌付けしてたのによー」
 どさりと向かいのソファに座る源泉を、リンがぎょっとして見返した。
「……何? オッサン、餌付けしてたの?」
「ああ。ってかその目はなんだその目は」
 源泉を見るリンの視線はひどく冷たい。嫌そうに顔をしかめているあたりから、リンがよほどを毛嫌いしているのがわかった。
「ったく、何で逃げ出したんだアイツは…」
 タバコの煙を吐きながら、ぶつくさと文句を言う源泉の視線が、アキラに向かう。アキラは特に何も言わず、ぶつかりあった視線を黙って逸らすだけだった。





3;
 なんでアイツがいるんだよ、とは路地を駆けながらそう叫びたくなった。
 気がつけば誰もいない路地に迷い込んでいて、は徐々に走る速度を緩める。そうして道のど真ん中に佇み、大きく息を吸って盛大に息を吐いた。
 まさか昨日の今日で会うとは思わなかった、やばかった。などと心の中で文句たれながら、源泉から渡されたビニール袋を再度覗き込んだ。ホテルの中でも中身は確認したが、それでも確認したくなったのだ。
 なぜならというと。
「…あった」
 必ず、源泉の殴り書きのメモが入っているからだ。
 が欲している情報のあとに「あまり無理をするなよ」と書かれていた。それを頭の中で反芻して、はその言葉の暖かさに泣きそうになった。





4;源泉
 裏路地でアキラと話している最中、話題もなくなり思案めいていると、アキラが視線を泳がせてから、さも言いにくそうに呟いた。
「なぁ、アンタ、アイツと知り合いなのか」
 そう聞かれて源泉は戸惑った。アキラが言うアイツとは誰の事か、源泉は皆目見当がつかなかったのだ。はてさて誰の事やら、と首を傾げて見せると、アキラは言いたくないのか顔をしかめた後、ぼそっと微かにこう言った。
「……今日、ホテルで会ってたやつと、知り合いなのか?」
 アキラは言い終わると、源泉から視線を逸らした。対する源泉は「今日、ホテルで…」と復唱しながら朝の事を思い返し、屈託なく笑うの顔を思い浮かべた。
 そうして、考える。何故アキラがのことを聞いてくるのだろうかと。アキラの顔を見れば、ひどくばつが悪そうな顔で、それを隠すように俯きがちだった。
 源泉はアキラと付き合い始めてまだ間もないが、そんな源泉でもこの態度は変だと思った。どうやら彼は冷静すぎて無表情なのが仇となって、隙を突かれふとしたときに表情を変えるから、感情が顔に出やすいらしい。嘘など軽く吐けそうに見えるが、実はそうでもないみたいだ。意外な一面を見つけたと、源泉は微かに口元を緩めて煙草の煙を吐いた。
「…ああ」
「そうか」
 それだけで、会話は終わってしまう。しかしアキラはまだ何かを聞きたそうにしていた。それを見て源泉は、面白いと純粋に思ってしまう。もちろん、からかう意味での面白い、というわけなのだが。
「なんだ? 気になるのか?」
 聞き返してみると、アキラは目を見開いてから少しだけ首を動かして視線を逸らした。アキラは相当、の事が気になるらしい。源泉は苦笑して、そういえば、とホテルにいたことを思い返した。が逃げ出す前、はアキラたちのほうを凝視してはいなかっただろうか。
 もしかしなくても、面識があるのではないか。そう考えてからんな馬鹿な、と自分で結論付けた。はこの街で知り合いを作ろうとはしないし、それにが言葉を交わす奴は、大抵バトルになってしまっている。
 只単に、アキラが気になっているだけなのだろうか。確かには身体もリンより小さく、男とは思えない。…現に彼女は男ではないのだが。だから気になったのだろうかとアキラを眺めながら考え、そういえばもうすぐで約束の時間ではないかと気づく。
「っと、そろそろだな。約束があるから、俺ぁ行くぞ」
 腕時計を見ればもうすぐで約束の時間だった。煙草を地面に捨て、靴の裏で火を踏み消す。壁から身を起こすと、アキラがこちらを見た。やはり何か言いたそうな顔つきだった。
「10分以上待たせると帰っちまうんだ、これから会う野郎は」
 足を踏み出しながら、アキラの肩をぽんとたたいた。
「そんじゃ、王戦、忘れるなよ」
 もう一度肩を叩き、片手をあげひらひらと手を振って源泉は歩き出した。


 名ばかりの仕事を終え、一人で暗い夜道を歩きながら、源泉は腕時計を見た。11時を示している。帰りが晩くなってしまった事で、教会にて自分の帰りを待ちわびているだろう人に、申し訳なさを覚える。かといって疲れるのは嫌だから、小走りで教会まで向かおうとは思わなかった。
 街の中心からだいぶ離れた一角、そこに源泉の隠れ家はあった。
 教会の扉をあけると、ヒンジが軋んで悲鳴を上げた。うっすら明るい教会の内部にその音が響き渡ると、左前列の長椅子から黒い影が立ち上がった。
「…おかえり」
 毛布に包まったが、笑って言う。
 それにつられて、源泉も笑った。